お知らせ

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Tangible第8号

2023年01月03日

受講生の声

「イエスの出来事を記憶し、宣べ伝え、奉仕する」ために

受講者 第5期生
麹町教会 髙橋 宏樹

カテキスタ養成講座の第5期受講者として、すでに1回目の模擬授業を体験しました。猪熊神父様からも「信仰を語る。知識を語るのではなく」と言われていたものの、語ることができたのは知識でした。

第1回目の猪熊神父様の講義で、「目の前の人に対して、信仰を語ってください。そして、そのように語ることのできない自分を発見してください」と言われ、まさに言葉通りの「発見」だったと思います。

自分の経験を強く出しすぎれば重くなりすぎるだろうし、さりとて、聖書の注解書を読み上げるようでも、また違うだろう、ということは分かっていたにも関わらず、でありました。
さらに、それ以前の問題として、カテキスタとは「イエスの出来事を記憶し、宣べ伝え、奉仕する」人たち、と言われていることに気づかされました。
確かに、ミサに参加し、祈り、講座で学ぶ経験はありました。神学の本もそれなりに読んできました。しかし、これまで、自分から信仰を語るという経験は殆どありません。模擬授業とはいえ、実際に聖書について、神について、人前で語ることは、正直、何か重たい扉を開くような感じだったのです。

ただそれでも、聞いていた方から、最後の部分は信仰告白でしたね、と言われたので、何となくほっとした思いでした。

私自身は、社会人になってから洗礼を受けました。

社会の中でのややこしい利害関係や、その中での「正義」や「公正」の名を借りて行われるエゴや利益追求に疲れを感じていたのかもしれません。

だからといって、自分の力で何ができるわけでもなく、母がキリスト教徒であったこともあり、ミサにいくようになった記憶があります。

その後、教会の入門講座に入れていただき受洗。

神父様からは、「高橋さん、キリスト教は祈りですよ」と言われました。おそらく、神父様との日頃の話から、本を読むことについてお話はしても、祈りについては殆ど話題にすることがなかったからかもしれません。

祈りについては、その後、教会での黙想会や、修道院での研修会などにも参加しました。そこで実践した「祈りの同伴」では、何度も「不思議な体験」をしました。

祈られた方に同伴していると、対話もあり、沈黙もある。しかし、ある時点で急に視野が開ける、霧が晴れる、祈られた方の表情が急に変わる、そんな場面に遭遇することがあります

「霊的同伴」でそのような場面に遭遇すると、やはり「祈り」の迫力というか、力を実感します。

カテキスタについては、教会で友人から「募集しているよ」と言われたのが、意識し始めたきっかけでした。

教会の信者さんは、決して、幼児洗礼ばかりではありません。いろいろな導きの中で、多様な信者さんがそれぞれの思いを持って信仰を深めようとしています。そこで、教会に関心を持つ方々のために、何らかのお手つだいができないかと思い、カテキスタ養成講座に応募したのです。

初めにいただいたスケジュール表のそれぞれの項目と内容の広さを見た時、改めて入門講座の範囲の広さを感じました。

確かに自分も、かつて、こういった講座を1年間かけて受講していたんだと思い出しました。

入門だから、内容は平易ということはありません。むしろ、初めてだからこその難しさがあります。

どんな分野(スポーツであれ、語学であれ)でも、初心者クラスの方が言葉も通じないし、それなりの難しさがあることは、意識はしていました。しかし、実際に模擬授業を経験すると、それどころでないことは前述の通りでした。

受講者として、模擬授業をしつつ、(自分の視野はもちろん、聞いている方々の視野も)早く開けていく状況に遭遇してみたいのです。

そのためには、一歩一歩、歩むしかありません。入門講座の受講生の方々は、それぞれの人生の問題に直面して教会の扉をたたいた方々です。

そのことを忘れずに、これまでの「実行したつもり」ではなく、「実行する」ことで、努力を重ねていきたいと思っています。

東京大司教区カテキスタたちによる、[入門講座]と[フォロー・アップ講座]のご案内

2023年4月から開催される入門講座とフォロー・アップ講座の詳細ですが、詳細が決定したチームから順番に教区HPに掲載されています。以下の頁をご参照のうえ、興味がおありの方は、是非、御一報のうえ、ご参加くださいますように。お待ちしています。

2023年教会別講座情報はこちら

現場の声

「スケマ作り」

カテキスタ 第1期生
チーム西千葉
市川教会 山下 充志郎

11月から12月にかけて、教区カテキスタの各チームは、新年度の入門講座開講の準備を始めます。

新しいカテキスタのメンバーを交え、今年度を振り返り、次年度の受講希望者を募るためのポスターや「スケマ」を作成し、講座の担当者を割り振ります。

「スケマ」と言うのはギリシャ語由来の言葉で、「姿・形・枠組みを持った計画」を意味します。つまり、1年間で何を、どのような順番で伝えるかと言うスケジュールを作成するのです。

私たちチーム西千葉は、教区カテキスタ養成講座のスケマに倣って作成しました。他のチームも恐らく同様であると思います。

養成講座では、私たち受講生の共通理解のために、旧約の時代から新約の時代への出来事を通しての神理解の話がありました。

キリスト教入門者にとって、使われる用語などが、少し難しそうな場合、私たちは講座のスケマから省く傾向にあます。しかし、次年度ではそれを、どのように取り入れるかが、当面の課題となっています。

従来のスケマでは、まずオリエンテーションがあり、次に「父なる神」をテーマとした講座が、新約聖書の「失われた羊」などのたとえ話をベースにして、3回程度行われます。
さらに、「父なる神」との関わりの中で、イエスが何をしたか、どのように生きたかを学びます。

そしてイエスの受難・死・復活、昇天、聖霊降臨から教会の誕生へと続きます。

三位一体の教え、秘跡について、典礼と典礼暦、終末、聖母と聖人、教会生活、教会の歴史と組織、経済問題などの講座があります。

あらためて順を追って、講座の「スケマ」を眺めてみると、ミサの信仰宣言の箇所で唱えられる「使徒信条」の流れと同じではないかということに気がつきました。

「天地の創造主、全能の父である神…父の一人子…聖霊…聖なる普遍の教会…聖徒の交わり、罪のゆるし、体の復活、永遠の命を信じます。」という「使徒信条」です。

受講生の洗礼の意志が固まり、入信の秘跡を受ける準備の最終段階の時期。四旬節に行われる「洗礼志願式(入信志願式)」で受講生は洗礼志願者となり、この「使徒信条」が与えられます。入門講座で「使徒信条」の内容が受講生の心に刻まれていき、信じることの喜びと光を受ける助けとなることを願っています。

「使徒信条」はラテン語でシンボルムと言われています。

この言葉は、「シムバライン(symballein/同じとところにおちる、いっしょに投げこむ)からきています。これには古代の習慣の背景があるそうです。

一つの輪・軸・薄板を割った二片は、賓客・使者・契約相手の符号であり、つき合わされるべき一片を持っていれば、あるものを受け取り、又は、歓待を受ける資格があった(ヨゼフ・ラッチンガー / 小林珍雄訳『キリスト教入門』エンデルレ書店 P. 42))そうです。

つまり、それぞれが持つ一片が、他者の持つ一片と一つに合わせられ、お互いに相手を認め合い、繋がることが出来ると言うことでしょう。

私たちの場合、一片の「使徒信条」を心に抱く人たちが集まって一つとなり、みんなで賛美と感謝をささげる共同体が生まれることになります。

入門講座の受講生も講座終了後、心に使徒信条を持って、洗礼を受け、日曜ごとにミサにあずかるようになるといいなと思います。

しかし、自分のことを振り返ってみると、洗礼を受けて間もなくは、教会に行っても、知人がいないときには居心地悪く感じることもありました。

ですから、私たちは、講座を聞きに来てくださる人たちに、キリスト教の一般知識を伝えることも大切ですが、同じ信仰を持つ仲間となるよう、互いに助け合う共同体の一員になるよう励ますことも必要です。

その結果、人間に対して常に向き合う神さまのように、私たちも互いに向き合う関係を築くことで、神さまと一つになれることを目指します。

隣り合う人と助け合い、神さまと親しくなることを共に学ぶことが、この入門講座の「スケマ作り」の目的であるのだと思います。

共に成長していく喜びのなかで

カテキスタ 第2期生 
チーム西千葉
小岩教会 前田 はる美

2020年9月に東京教区のカテキスタとして認定任命を受けてから、2年が経ちました。認定から2か月後の11月に開講となったチーム西千葉での1年目は、コロナ・ウイルスの感染状況に翻弄され、常にスケジュールの作り直しばかりをしていました。

そうやって1年2カ月をかけて全20回の講座を終え、2名の方々が2022年の復活徹夜祭のなかで受洗。今でも、教会のなかで活躍されていることを嬉しく思っています。

今年(2022年度)も、2名が西千葉教会で、1名が成田教会、1名が五井教会での受洗を希望して講座に通われています。中には、1時間以上もの時間をかけて通われている方もいらして、東京教区カテキスタによる講座のなかで、最も東に位置する教会らしい状況とも言えます。

2年目の講座を進めるなかで改めて思っていることは、当たり前かもしれませんが、講座に参加しているどなたの場合も、様々な理由から教会の門をたたき、様々な理由から洗礼を望まれているということです。

既に聖書について多くの知識を持っている方もいれば、まったく知らない方もいます。洗礼を受けていなくとも、既に毎週のようにミサに通われている方もいますし、受洗を希望されていても、なかなか、ミサに参加することができない方もいます。自分の抱えている、何だかよく分からない「モヤモヤ感」を解決したくて洗礼を望んでいる方もいれば、自分のアイデンティティのひとつとして洗礼を位置づけていらっしゃる方もいます。

どのような理由にせよ、洗礼を受けようと決心し、講座に申し込みをされることは、たいへんな勇気だと思います。

そのような方々に対応するカテキスタたちも、常に学びの連続です。

自分の中にあるものから、受講者にとって「大事だ!」と思うことをピックアップする作業は、相手によってだけでなく、今の自分自身によっても、変わっていくことを実感しています。

それぞれのカテキスタに講座の内容を任せていた1年目、講座の内容を事前に相談したり、講座後に意見したりできるようになった2年目、次は、もっとコミュニケーションを重ね、より良い講座にしていきたいと話し合っているところです。

ミサについては、西千葉教会の場合、土曜日の17時半から主日のミサがありますので、カテキスタとともにミサに出ることができるよう、講座を土曜日16時からという時間に設定しています。

それでも、ミサに通うことへのハードルが、私たちが思っているよりも高いことを感じることがあり、講座全体を通して信仰生活を伝えられるようにしていきたいというのが私たちの目標になっています。

チーム西千葉では、2023年度のカトリック入門講座が3月から始まります。

新たな受講者を迎える私たちが、受講者と共に学び、信仰を深め、また一歩ずつ成長していくことができますように!

西千葉教会2023年の入門講座

日時場所などについてはこちらをご覧ください。

「派遣前講習」参加者の声

今年認定任命された36名のカテキスタたち。彼らの派遣先教会での活動は2023年4月からスタートします。それまでの半年間、月に2回の「派遣前講習」を受けます。

この喜びを…

カテキスタ 第3・4期生 
チーム清瀬
調布教会 今田 みゆき

2021年10月からカテキスタ養成講座を受講していた私は、2022年9月10日、夫と共に認定任命の日を迎えました。私にとっては、「迎えてしまった」というのが、当時の気持ちや状況を説明するのに一番相応しい言葉だと感じています。

思えば、受講を開始してから、アッと言う間の時間でした。自身の心と講座のスケジュールが噛み合わない感覚を覚え、果たして、本当にこれが自分に与えられた使命なのかと、何度も神様に問いかける毎日でした。そして、そのような気持ちのまま認定任命の日を迎えてしまったのです。受講中の面談の際、猪熊神父様からは「召命とは残酷なもの」と告げられ、自分には抱えきれないのではないかという恐れも感じていました。

そんなある日、夫がオークションサイトで中古のカトリック関係の書籍のまとめ売りを見つけ、80冊以上もの本を手に入れました。その中に、女子パウロ会の『神の呼びかけを聴いて』という本が含まれていました。私はなんともなしにその本を手に取り読み始めたところ、興味が途切れることなく、最後まで一気に読み切ってしまいました。

この本には12名のシスター方の修道会に入会するまでの経験談が書かれています。いわば召命物語です。とても親しみやすい文章で、当時の私にとって、どこかとても惹きつけられる、不思議な魅力を感じる本でした。

修道者の方々は、きっと多くの人々から、「どうして、この道を選んだのか?」と聞かれたことでしょう。この本もそのような素朴な疑問に、12名のシスター方が代表して、自分の体験談をもって答えてくださっています。私は12名の方々の宝石のような経験談一つひとつに共感を覚え、とても励まされました。そして、シスター方が喜んでいることがとても嬉しかったのです。この喜びの感覚を、大変失礼ながら、私が(勝手に)シスター方と共有できていることが、私にとってはとても嬉しく、誇らしく思えたのでした。

「これだ!私はこの喜びを人々に伝えたかったのだ」と。

12名のシスター方の多くは、最初、修道会入会を家族から反対された経験をなさっていました。けれども、反対していた家族も修道院の様子や、何よりも、修道院内のシスター方が活き活きと喜びに溢れている様子を見るにつけ、反対する気持ちも徐々に薄れ、ついには、心から応援してくれるようになったという文章を読み、その時は、私まで嬉しくなり、「神様はさすがだなぁ」と思わず、感謝の祈りを捧げてしまうほどでした。

シスター方をとおして、神様からの恵みが注がれ、周囲の人々が聖化されていった結果だと思います。稚拙な言葉しか見つかりませんが、つくづく神様の御業は偉大だと、「神の計らいは限りなく…」と歌いながら賛美したくなりました。

講座の中で何度も猪熊神父様が言われてきたことですが、現場に立って何が嬉しいかと言えば、受講者にある日、変化が訪れる、変容の時が訪れる、そのような瞬間に立ち会えることだと。その瞬間とは、イエスとの出会いであったり、御父の愛に気づいた時だったりするのでしょうが、これが喜びでなくて何でしょうか!

なぜ認定任命を受けながら、今まで悩んだり、躊躇したりしていたのだろうと、自分の弱さに情けなくなりましたが、一方でこの宝物のような本を私に贈り、励ましを与えてくださった神様に深く感謝しました。
このように、私は、認定任命の直後から始まった派遣前講習の期間にも、実は、このような気づきが必要なほど、迷いや悩みを抱えていたのです。けれども、このような時間を過ごすことで、やっと自分に与えられた任命を、文字どおり受け止めることができたのですから、私にとってはこれもまた、必要なプロセスであったのだろうと思うことにしました。

そして、新しいチームの仲間との出会いと、新たに派遣される清瀬教会という新しい拠点づくり。

個性豊かな先輩方との話し合いには、毎回、多くの刺激を受けています。また、清瀬教会は、2023年4月から、教区主催の講座が開催される新しい拠点であるために、検討する課題も多く、話題は尽きません。

私たちチームの仲間たちは、清瀬教会を10月1日に訪問し、主任神父様とお手伝いをしてくださる信徒の方々にもご挨拶ができました。皆さんがとても温かく迎えてくださり、それがとても嬉しく、感謝の気持ちでいっぱいになりました。特に清瀬教会の図書室の雰囲気が素晴らしく、メンバー全員がすぐに気に入り、できることならこの部屋を講座に使いたい、ホワイトボードがここにあるから、こちらが受講者席で、聖書をここから借りて等々、その様子はさながら講座が始まることをワクワクして待つ子どものようでした。

さらに、夫と私は4期生として、今まで、1回も現場に立った経験がなく、しかも清瀬では、今年度はまだ講座が開講されていないために、他のチームの講座の見学に出かけています。
私たちの見学のために多くの方々がご尽力くださっていることに心から感謝をしながら、一方では、他のカテキスタの皆さんたちからは羨ましがられているようですが、非常に稀なチャンスに恵まれているので、このような貴重な機会を有効に活かさなければと思っています。猪熊神父様からも「他のチームから、しっかり盗んでくるように」と言われているので、積極的に学ばせていただきたいと思っています。

そして、実際に見学させていただくと、現場というのはこのような感じなのかと、参加させていただいていることだけでも大変勉強になります。講座担当のカテキスタの先輩方には、多大なご負担をかけていることにとても心苦しい気持ちがしていますが、これも新しい拠点である清瀬教会の講座のためとおゆるしいただければありがたいと思います。私たちも受け入れてくださったことに深い感謝の気持ちを持ち続け、これから現場に立って、この経験を活かし、お返しをしていきたいと思います。

受講中からの悩みだった、自分に与えられた使命とは何かと考えるのは、しばらくやめておこうと思います。それが自分の召命だったかどうかは、後になって分かるものであり、すべては神様が与えるものだからです。とにかく今は、置かれた場で与えられた任命を全うすること、そのために最善を尽くす時であり、もう動き出しているのですから、自分もそれに遅れずについていかなくてはなりません。そして、かつて自分が求道者だった頃の、イエスに出会った時の、あの大きな喜びに満たされた気持ちをいつも忘れないでいようと思います。その喜びを分かち合える仲間を増やしていくために、教区カテキスタとしての認定任命を受けたのですから。そして、あとは神様に全てをゆだねようと思います。必要な助けは必ず与えられるはずですので…。

私の派遣前講習期間は、今、このようなプロセスをたどっていて、現在も進行中です。

全ての恵みに、神に感謝!

段々と、時間をかけ、でも、しっかりと…

カテキスタ 第3・4期生 
チーム関町
関口教会 中井 美帆

派遣された関町教会で、私が初めて任せていただいたのは、来年2023年度の入門講座のポスターをデザインすることでした。

私は普段、デザイナーの仕事をしているので、このような作業を任せていただくのは大変ありがたいかぎりです。

今でこそ、鼻歌まじりに、ポスターのデザイン作業をすることができますが、楽しくポスター制作をしていた時に、ふと、自分が入社当初、全く技術がなく、今から思えば何もできなかった頃のことを思い出したのでした。

もう10年前のことなので記憶も曖昧ですが、とにかく私の制作物の出来が悪く、上司によく叱られ、ミスを連発していました。夜中まで作業し頑張ったつもりでも、効率が悪くなっているのでさらに状況が悪くなる、というような日々でした。

「もう雇い続けてはもらえないかもしれない」と、独り暮らしの狭い部屋にフラフラと帰っては、無力感で泣いていたような時期でもありました。今から思えば、かなり辛かった時期です。

そんな日々でも、私には祈りがあり、週末はミサがありました。

私の悩みを聞いて、カトリックならではのアドバイスをくれる人生の尊い先輩にも、教会で出会いました。

「なんでこんなに自分はダメなんだろう」「神様助けてください」と、必死で何度も祈っていました。

しかしこの、自分の無力感に苛まれ、苦しみから出てくる叫びのような祈りの心境を得た経験は、神殿で胸を叩いて「私をあわれんでください」と神様にすがった徴税人の気持ちに、少し、近くなったような気がしています。

優越感があり、満ち足りているような状態で、つまり、なんら不足ない状態では、なかなか「助けてください」「あわれんでください」と本気で祈る心境にはなりません。

自分の無力さ、ダメさ、情けなさに打ちひしがれているから、子供が辛い時に、絶対的に信頼を寄せて父母にすがるように、私は神様に「お願いです…」とすがることになったのです。

その結果は、大いに助けをいただいて、今も仕事は続けられていますし、こうして、カテキスタとして任せていただいたポスター・デザインの仕事も楽しんでこなせるような状況になりました。

思い返してみると、私は、教会の行事のイラストやポスターなどを小学生の頃から制作していたのですが、昔から、教会のために制作できることが、結局、一番、充実感があったのです。

とにかく嬉しいですし、毎回、教会に作品を納めてから、「為すべきことをしたな」と納得できるのです。

神様から恵んでいただいた、私のこの身体の右腕から生まれた作品が、教会で活かしていただけるのです。

マタイ福音書22章21節で、「神のものは神に返しなさい」とイエス様がおっしゃったことを想います。神のものを神にお返しできるように。ひとつでも多くお返しできますように。

カテキスタとして奉仕することは、気づきであり、学びであり、大変なお恵みです。

初めて関町教会を訪れた日、関町教会の保護の聖人である、幼きイエスの聖テレジアのミサに参加することができました。

主任司祭の稲川神父様の司式で行われたミサを通して、とにかく謙虚に、愛・温和・誠実・忍耐の生涯を送った聖テレジアの生き方は、カテキスタとして奉仕する人間の、まさに模範だと感じました。

関町教会での私の講座見学はまだ3回目くらいですが、受講者の方々は大変熱心で素晴らしいなと思いますし、講義後の受講者の方々からの質問が新鮮で、いいなぁと思う反面、私が発する言葉や発言する内容に気をつけないとなとも思います。

入門者の方々に接するとはこういうことなのだという手本を、毎回、チーム関町のカテキスタの先輩方の親切なご指導のもと、また先輩方の言動を通して、学ばせていただいています。心から感謝しております。

今、関町教会では新聖堂が建築中です。

初めて訪れた時は、工事現場の土台だけだった敷地が、訪れるたびに段々と建物として出来上がっていきます。その様子が、入門講座をしている部屋の窓から眺められます。

そのように段々と、時間をかけ、でも、しっかりと出来上がっていくように、また、建物になってからもたくさんの人が出入りすることで、動き続け、活き続ける関町教会の聖堂のように、私も動き続け、たくさんの人との出会いを大切にし、成長していけるようにと願っております。

典礼あれこれ

換気に気をつけ、座る間隔をあけ、大きな声で元気よく、自由に聖歌を歌うことも諦めて、消毒につぐ消毒をしながら、このコロナ禍の間、私たちは、なんとかミサを続けてきました。
そのようなタイミングで、昨年の待降節第1主日から、典礼式文も変更されることになりました。

まさに、今、日本のカトリック教会は、大切なミサをはじめとする典礼について、真剣に向き合う時期に来ていると思います。

そこで、今月号から、基本的な典礼の知識を皆さんと分かち合いたく、「典礼あれこれ」シリーズを開始します。

既にご存知の内容もあるかとは思いますが、まずは御一読になってください。

第1回 「生き生きとした応唱」

これから、この紙面をお借りし、「典礼あれこれ」と題して、より豊かに典礼を祝うことを目指して、典礼の様々な側面を切り取って、皆さまと分かち合っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

ところで、「主は皆さんとともに」「また、あなたとともに」という司式者と会衆の対話句は、ミサの中で何回も繰り返されます。開祭のあいさつ、福音朗読の前、叙唱前句、平和の挨拶の時、派遣の祝福の前などです。

昨年11月27日の待降節第1主日から、「司祭」が「あなた」に変更されましたが、皆さまはどのように感じておられるでしょうか?

思わず「司祭」と唱えてしまうかもしれませんね。しばらくは、違和感があるかもしれませんが、少しずつ慣れていくことでしょう。

この対話句で大切なことは、ミサをささげている共同体の中に現存される主キリストを生き生きと思い起こし、その存在を明確に宣言することなのです。

「目には見えないけれど、復活した主キリストがこの共同体の中に、皆さん方お一人お一人のうちに確かにおられますよ」「司式者であるあなたの奉仕の中にも確かに復活した主キリストがおられますよ」

このことを明確で、生き生きとした対話句で表現しているのです。

もし、この対話句のやりとりがぼんやりしたり、力のないものになったりすると、「主の現存」の宣言もぼんやりしたものになってしまいます。

逆に、この対話句が生き生きとしたものになると、そこから大きな力を生み出されるのです。

筆者が以前、あるカトリック小学校でミサをおささげした時、子どもたちが元気な大きな声で「また、司祭とともに」と唱えてくれたことに、とても大きな力をいただいたことを思い出します。

心をこめて、はっきりと、そして、生き生きとこの対話句をおささげしていきたいと思います。今、確かにここにおられる「主の現存」をしっかりと心に留めながら。