東京大司教区

ケルン

東京・ケルン大司教区の友好関係

友好関係はいつ始まったか?

ヨゼフ・フリングス枢機卿

まだ第2次世界大戦の傷あとの癒えない1954年、当時ドイツのケルン大司教区の大司教であったヨゼフ・フリングス枢機卿は、ケルン大司教区の精神的な復興と立ち直りを願い、教区内の信徒に大きな犠牲をささげることを求めました。そして その犠牲は、東京教区と友好関係を結び、その宣教活動と復興のための援助をするという形で実現されていきました。  

この教区同士の友好関係は世界で初めての試みで、それ以前はすべての援助はローマの教皇庁を通して行われていました。その後にドイツで始まった支援団体に大きな影響を与えました。

土井枢機卿との出会い 

土井枢機卿

「私はペトロ土井辰雄東京大司教の司祭としての人格に深い感銘を受けました。古い侍の家柄出身と伺いました。身体的には背が低く、外見的には目立たない方ですが、近づきになって人となりがわかってくるにつけ、きわめて謹厳な、使徒的な賢明さと司牧的熱意でもって働く男性という印象を受けました。日本の教会の格を顕著に引き上げれば、きっと新しい励みとなることでしょう。」

(フリングス枢機卿が教皇ピオ12世に送った報告より)

ドイツも敗戦国で苦しかったのに、なぜ?

ご存知の通りドイツも敗戦国でしたから、当時のケルン大司教区も決して豊かではありませんでした。ヨーロッパ教会の誇りとするケルン大聖堂も、修復のために膨大な資金が必要でした。「なのに、なぜよその教会を援助するのか?」という声がうず まく中、フリングス枢機卿はこう語ったそうです。

「あるからとか、余力があるから差し上げるのでは、福音の精神ではありません。」

この枢機卿の心が、敗戦で身も心も荒れ果てていたケルン大司教区の信徒達の心にも通じ、ケルン大司教区を立て直していったと言われています。

東京教区からケルンへ

1955年5月3日に贈った霊的花束

ケルンからの経済援助に対して東京教区の信徒はケルンの司祭職召命のために祈りをささげることによって感謝を表しました 。

1955年5月3日に贈った霊的花束
  • ミサ (26,595)
  • 聖体拝領 (7,369)
  • 聖体賛美式 (645)
  • 聖体訪問 (58,346)
  • ロザリオ (22,710)
  • 主の祈り (207,423)
  • 天使祝詞 (289,387)
  • 栄唱 (197,852)
  • 十字架の道行き (1,428)
  • 霊的聖体拝領 (354)
  • 短い祈り (602,001)
  • 善行 (30,878)
  • 犠牲 (45,728)
  • 聖母訪問 (3,194)

ケルンと東京のその後

「ケルン週間」に来日されたヘフナー枢機卿 フリングス枢機卿のこの”ケルン精神”に基づく多大な援助により、東京教区は カテドラル聖マリア大聖堂をはじめとする数々の聖堂や施設を建設することができ、今日に至っています。そして、援助開始25周年を記念した「ケルン週間」(1979年10月28日~11月4日)の行事を経て、東京教区は”ケルン精神”を受け継ぎ、ミャンマーの教会への援助をこの年から開始しました。

 

 

ケルン大司教区の歴史

ケルン地図

180年頃

ケルン(Koln=英語ではCOLOGNE)は古代ローマの植民地(ラテン語でCOLONIAは植民地の意味)として始まり、西暦180年に はキリスト信者がいたと言われている。
313年 コンスタンティヌス皇帝がキリスト教を認めた年に最初の司教(聖マテルヌス)が任命された。

 

795年

大司教区となり、他の教区をまとめる役割になる。ヒルデボルド大司教はフランク王国のカール大帝の顧問でもあった。

1164年

ライナルド大司教はミラノから3人の博士の遺物をケルンに運び、そのために作られた遺物箱は西洋で最も貴重な文化財となる。

1248年

ケルン大聖堂の建設始まる(今の完成した形になるまで600年かかる)。

1794年

フランス革命軍の占領により、ケルン大司教区は廃止され、その代わりにアーヘン大司教区が設立された。

1821年

教皇ピオ7世はケルン大司教区を再建する。新しくできたプロイセン王国と緊張した関係が続く。

1930年

地域が広すぎたため、ケルン教区は2つに分けられ、アーヘン教区ができる。

1933年

国家社会主義(ナチズム)の時代にカトリック信者は厳しく扱われる。多くの聖職者と信徒は刑務所や収容所で犠牲となる。

1942年

第2次世界大戦という厳しい世界情勢のなかで任命されたヨーゼフ・フリングス大司教は、大戦直後にケルンの復興作業のために大いに信徒を励まし、教会の再建に力を入れた。

1954年

東京教区との友好関係が始まる。ケルンがまだ苦しい時代に、フリングス枢機卿はもっと必要のある教会を助けるように励ました。1961年にブラジルのフォルタレザ教区とも友好関係を結ぶ。

1993年

四旬節第1主日から教区改革のための大会が始まる。3年にかけて聖職者と信徒が話し合いを続け、小教区のあり方と司牧のあり方全体が見直される。

1998年

祝いと喜びの1年間。ケルン大聖堂設立750周年(8月15日)。ケルンで設立された、第3世界支援組織MISEREOR(ミゼレオール)の40周年。 ケルン出身のカルメル会修道女エディット・シュタインが列聖される(10月11日)。

(ケルン教区公式ホームページより抜粋)

大司教と補佐司教

Rainer Maria Cardinal Woelki(ライナー・マリア・ヴェルキ枢機卿)は95代目のケルン大司教。

1956年生まれ、1985年に司祭叙階。2003年から2011年までケルン補佐司教、スカンパ名義司教。2011年にベルリン大司教、2012年に枢機卿親任。
2014年7月11日にケルン大司教にに任命。9月20日着座。

ヴェルキ枢機卿の紋章に書かれているのは「Nos sumus testes = 私たちは証人です。」(使徒言行録5.32)

司教総代理

Msgr. Dr. Markus Hofman(マルクス・ホフマン)

補佐司教

  • Dr. Dominikus Schwaderlapp(ドミニクス・シュワダラップ)
  • Ansger Puff(アンスガー・ポフ)
  • Rolf Steinhäuser(ロルフ・シュタインハウザー)

ケルン大司教区の情報

ケルン教区はドイツで一番大きなカトリックの教区です。

カトリック信者は190万人おり、小教区は525、 聖堂と小聖堂は約1,200あります。

司祭は710人、終身助祭は293人います。
司牧アドヴァイザーは207人、修道女は905人です。

信徒もいろいろな形で盛んに活動しています。
祭壇奉仕者は約21000人(女性55%、男性45%)。音楽奉仕のメンバーは約30,000人。カテキスタは20,000人。青年会のリーダーは5,000人。約24,000人は福祉活動に関わっています。 教会委員会や教区委員会のメンバーのうち15,000人が女性です。

(2018年現在)

ケルンの大聖堂

ケルンの大聖堂ケルンの大聖堂

大聖堂は遠くからもすぐわかるケルンの目印。西洋のもっとも荘厳な建築物の一つで、奥行き144m、天井の高さは43.5mで、ゴチックスタイルでもかなり複雑な構造をしています。

基礎は1248年8月15日に据えられ、祭壇は1322年に聖別され、徐々に1520年まで建築が続けられました。しばらく工事が中断されましたが、1842年に最初のゴチックの設計図が発見され工事が再開 され、1880年に今の形に完成しました。

24トンの重さがある聖ペトロの鐘は世界で一番大きい回転式の鐘です。
1,350㎡もある中世時代の壮麗なステンドグラスも無比の作品です。

祭壇の十字架はヨーロッパのユニークな美術品の中でも群を抜いています。976年にゲロ大司教から大聖堂に寄贈されて、アルプスの北では最も古い大型彫刻作品です。

3人の博士の遺物を収める遺物箱(1180-1220年)は世界的文化財の一つです。3人の博士の遺物は1164年に皇帝フリードリヒ1世がミラノからケルンに移し、それを収めるために素晴らしい金細工作品が作られました。

聖母のチャペルの壁画は1450年ごろのステファン・ロクナー(ケルン派)の秀作。1310年頃に樫の木から彫られた聖歌隊用の席(104席)はドイツでは最大のものです。42点の絵画のある仕切りと、144のゴチック彫刻のある柱もきわめて優雅です。

ケルンの大聖堂は周りにある12のロマネスク聖堂と共に、中世時代のケルンの繁栄の象徴です。そのために昔からケルンは「北方のローマ」とも言われています。

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