お知らせ

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東京教区ニュース第402号

2023年05月02日

連帯は生きる希望を

大司教 菊地 功

東京教区のみなさん、少し遅くなりましたが、主の復活おめでとうございます。

この復活節に多くの方が洗礼を受けられ、また堅信を受けられたことと思います。新しく教会共同体の仲間として加わった多くの方に、心からお喜びを申し上げます。また今年は久しぶりに、聖霊降臨の主日午後に、教区合同の堅信式をカテドラルで行います。堅信の準備をされている方々にはよい準備ができますように、御父の祝福と導きを祈ります。復活された主は、いつも私たちとともにいてくださいます。

あらためて、感染症によるパンデミックの暗闇が始まった初期、3年前の9月に、教皇様が謁見で語られた言葉を思い起こしたいと思います。

「この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません。……協力するか、さもなければ、何もできないかです」

この3年間、教会は互いに支え合い連帯することの大切さを、繰り返し強調してきました。いままさに全世界の教会が、進むべき道を模索して歩み続けているシノドスの道程のように、教会は、信仰を共同体の中で、互いに支え合って生きるのだと、繰り返し強調してきました。その3年間の叫びは、実りをもたらしているでしょうか。3年が経過して、あらためて「普通」に戻りつつある教会は、変わりましたか。教会に集まるお互いの関係は、どうでしょう。変化はありましたか。

物理的に集まることが難しかった中で、教会は、「ともに歩む」ことと、単に「一緒にいる」ことは違うことなのだと自覚させられました。この経験があるからこそ、私たちは心の底から、神の民はどこにいても、一緒にいても離れていても、常に歩みをともにする共同体だ、と宣言する力を頂きました。それぞれがどこにいたとしても、洗礼の絆で結ばれた兄弟姉妹は、連帯のうちに神に向かって歩みを進めます。わたしたちは、ともに歩む神の民であります。その歩みの中心には、復活された主御自身が、常にともにいてくださいます。

いま徐々に普通を取り戻しつつある東京教区の教会にあって、いくつかのことを強調しておきたいと思います。

まず第一に、ともに歩む私たち教会共同体は、闇雲に歩むのではなく、聖霊の導きを見極めながら歩まなくてはなりません。その道しるべの一つは、2020年に定めた東京教区の「宣教司牧方針」です。今一度読み返してみてください。手元になければ、教区のホームページからご覧いただけます。なぜこの方針が大切なのか。それは、作成当時、まさしくシノドスの歩みのように、教区内の多くの共同体の分かち合いの成果に基づいた、識別の結果としての宣教方針だからに他なりません。その策定の道のりは、聖霊に導かれていた道であったと思います。

第二に、シノドスと繰り返し耳にしても、そもそも何をしたらよいのかと戸惑いを感じておられる方も少なくないことでしょう。何をしたらよいのかわからないときは、まず「耳を傾ける」ことから始めましょう。シノドスの基本には、「分かち合い」があります。「分かち合い」にはちょっと抵抗がある人も少なくないでしょう。そういうときに思い出していただきたいのは、「分かち合い」の根底には、互いに耳を傾け合うことがあるということです。ですから、「耳を傾け」ましょう。よく聴こうとしましょう。また語る人は、ただただ語るのではなく、その言葉に耳を傾けている方がおられるということを心に留めましょう。

第三に、聖堂に皆で集まるとき、主がそこにおられることを、あらためて意識しましょう。ミサに与るとき、朗読される聖書の言葉に、捧げられる聖体に、主が現存されることを、あらためて意識しましょう。わたしたちは、主とともにあるように、兄弟姉妹と一緒に招かれています。教会は、司教や司祭という一部の人のものではなく、皆で責任を持って生きていく存在です。

今回のシノドスは、決して、下からの決議を積み重ねて、民主主義の議会のように多数決で何かを決めていくようなプロセスではありません。そういう教会を目指しているものでもありません。

識別するための姿勢、耳を傾けあう姿勢、互いに連帯の内に支え合う姿勢を、教会の当たり前の姿勢にすることを一番の目的としています。教会がその姿勢を身につけることができたのなら、それは聖霊の導きの識別へと自ずとつながります。ですから、提示されているスケジュールの各段階が終わったからといって、もう自分には関係がないのではなくて、このシノドスの道で求められていることは、これからも続いて取り組まなくてはならないことです。シノドスの歩みは、まだまだ全世界の教会の最優先事項です。

共同体における連帯はいのちを生きる希望を生み出します。共同体においてともに歩むことで、わたしたちは聖霊の導きを識別します。互いに支え合うことで、主ご自身と出会います。共に御言葉と御聖体に生かされることで、復活を体験した弟子たちのように大きく変えられていきます。

教会共同体が一致の目に見えるしるしとして、世界に希望を生み出す存在であるように、互いに連帯のうちに、支え合いながら歩み続けましょう。

宣教司牧評議会で参加者に語りかける菊地大司教

「宣教司牧方針」は、こちらからお読みになれます。

新司祭喜びの声

3月21日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて東京教区司祭叙階式ミサが行われ、6名(東京教区2名、コンベンツアル聖フランシスコ修道会2名、聖パウロ修道会1名、レデンプトール修道会1名)の新司祭が誕生した。先月号では叙階式の速報をお伝えしたが、今号では6名の新司祭の喜びの声をお届けする。なお、新司祭のプロフィール写真は、叙階式ミサにおいて、司祭として初めて聖体を授けている姿である。

新しさと古さが手を取り合って
東京教区 熊坂 直樹

去る3月21日、東京教区と三つの修道会による合同の司祭叙階式において、6名の新司祭が誕生しました。それは正に、共に歩む教会の姿を体現する出来事だったと考えますが、そのうちの一人に数えられたことは、驚くべき神の恵みでした。私の司祭生活は、まだ始まったばかりですが、この体験は、これからの司祭生活を支える原点になるだろうと予感しています。

その喜ばしい日までを振り返れば、司祭召命について考え初めてから10年、実際にその道に入ってから8年が経過していました。それは、単純な時間の長さからも、自分の実感からも、決して短いとは言えない期間でしたが、その間、本当に多くの出会いに恵まれて、司祭叙階までの道のりを歩み通すことができました。その時々に必要なご支援を差し出してくださった皆様、祈りを捧げてくださった皆様に、改めて心から御礼申し上げます。

さて、自分の召命について考える以前の話ですが、幼児洗礼を授かった私にとって、自分で望んで得たのではない信仰は、この社会に生きる上で、自由を奪う足かせのようなものでありながら、それでいて決して離れることができない非常に扱いに困るものでした。当時の自分は、それが計り知れない恵みであることに気づいていなかったのです。

そこで私は、自分の幸せを自分の力でつかみ取るために、仕事に励んだり、人並みに遊んだり、懸命にもがいていました。しかし、神に背を向けたそのような試みが実るはずもなく、空回りを続けていました。そんな悪あがきが尽き果てた頃、ひどく惨めな思いでいたある時、このような自分でさえも神は愛して止まないのだと心底気づかされました。

その不意に訪れた気づきをきっかけに、あれだけ厄介に思っていた神への信仰こそが、自分にとって一番大切なものだと再認識され、自分勝手な幸せではなく、神の望みを求める生き方への転換が始まり、それは他者に奉仕することを通してなされました。そうして神の御旨を探し求めるうちに、司祭職に召されているのかもしれないと思い当たるようになり、やがてその道に飛び込み、今に至ります。神の御旨にこそ、私の幸せと喜びがあったのです。

最初に申し上げた通り、それ以来、多くの出会いに恵まれてきました。司祭職への道を歩まなければ出会わなかった方々には、選んだ道の先に広がる新しい景色を見せていただきました。また、不思議なことに、過去を断ち切るように飛び込んだこの道すがら、古い友人や恩人と再会する機会にも恵まれました。それは、かつて信仰をうまく受けとめられないでいた頃の自分も捨てたものではなかったのだと、自分の過去が改めて肯定されるような体験でした。永遠なる神の御手が、過ぎ去ったはずの時間を浄めてくださったということなのでしょう。こうして司祭職への道を選び、現に司祭叙階の恵みを賜った今、新しさと古さは互いに手を取り合って、次の一歩を踏み出す力を私に与えてくれています。

とは言え、これまでと同様に、これからの道のりも、自分だけで歩めるものではありません。特に司祭召命が大幅に減少している状況にあって、これからの教会においては、教区と修道会・宣教会が、それぞれの所属やアイデンティティを尊重しつつも、今までよりも深い協力関係を築く必要があると思われます。5名の仲間と共に叙階の秘跡を授かったことは、そのためにも大きな恵みだと言うほかありません。

これからの私の司祭生活が、これまで出会った人々、これから出会う人々と共に、日本の教会を力づけるものになりますように。計り知れない恵みである信仰が受け渡され、人々が主なる神と出会いますように。主なる神の御旨が、私を通して、私たちを通して、実現されていきますように。私たちを愛して信仰を授けてくださる神が、とこしえに讃えられますように。

愛には理由がない
東京教区 冨田 聡

「主よ、どうしてよりによって私なのですか?」という嘆きが始まったのは18歳半ばのことでした。当時、将来は必ず結婚する気でいた私にとって、司祭になるという選択肢は全くもってあり得ませんでした。しかしそんな私の思いは、信仰熱心な祖母との対話、数名の司祭との出会いを通して、また秘跡を通して直接的に働きかけるキリストの力によって、ひたすら揺さぶられ続けました。大学を卒業する季節になって、「こんな若さで独身を決め込むなんて正気の沙汰ではない」と自分で自分を笑いながら、それでもカルメル修道会の門を叩いたのは、今となってみれば実に恵みの業以外の何物でもなかったと思います。

修道会の中での6年間は、私にとって神様との闘いの日々でした。「なぜ、私にこんな道を歩ませるのですか?」という思いは消えるはずもなく、しかし同時に「何が何でも司祭になるんだ」という思いが日に日に湧いてくる不思議を、私はどこか受け入れられずにいたのでしょう。しかし、そのような矛盾した思いを神にぶつけることで、イエスとの真の友情はますます深まっていったのです。そして上智大学での仲間との神学の学びを通して、自分の司祭召命は、もしかすると日本の教会のために向けられているのかもしれないと感じるようになっていきました。

「だったら、初めから教区に導いてくれよ」と神様には文句たらたらでしたが、道が見えてしまったので仕方ありません。修道会を辞め、改めて東京教区の門を叩き、東京カトリック神学院で生活させていただくことになりましたが、そこではっきりと分かったことがあります。それは、もし初めから教区だったら、自分は途中で絶対に辞めていただろうということです。神様は、そんな未熟な私を導くために、わざわざこのようなルートを用意してくださったのかもしれない、そう思うと今度はなんだか色々と申し訳なくなってきました。「司祭にはなるまい」と思っていた18歳の時から10年、「何が何でも司祭にならないといけない」と思うまでに私は、様々な人との出会いを通して神に愛され、知らず知らずのうちに育まれていたのです。そしてその全ては無償の恵みでした。

本当の愛には理由がありません。だから、もう神様に「なぜ?」と問うことはやめました。愛された者にできることは、愛されるがままになるか拒絶するかの二択しかあり得ず、愛を受け入れるなら、私はその愛に似た者へと変えられてゆきます。愛とはそういうもので、「愛されたのだから、同じ愛で愛そう」と思うのは自然なことです。それで私は、カトリック神学院での生活を通して、静かにその愛を受け入れて生きる選択を行いました。

神の愛を多くの人に伝えたいと思うのであれば、司祭職を生きることは最高の道でした。ここにきて私は、ようやく神様の意図を少し理解した気でいます。私は色々とごねましたが、神の愛の前には勝てませんでした。当然です。ですから、私の司祭職の根底には、神から愛されたという確信があります。愛されているからこそ、この難しい時代にあって、あえて司祭職を選ぶ気概も湧いてくるのです。困難であればあるほどに、なぜか私には希望しか見えてこないのです。

とはいえ、何か奇をてらった新しいことをする気はあまりしません。これまで多くの司祭の背中を見てきて思うのは一つ。基本こそ王道だということです。心のこもった典礼、よく練られた説教、祈りに支えられた佇まい、分け隔てなく人々と関わる姿勢、すなわち自分を差し出す愛に生きること、それだけが私に期待されていることだと思っています。自分を差し出した結果どうなるかは、神様が決めることなので、またとんでもない道に連れていかれることもあり得ますが…。それは皆様の祈りで支えてもらいたいと思います。全てのことに感謝しています。どうぞ、末永くよろしくお願いいたします。

「神の大胆さ」と「人々の大胆さ」に支えられて
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 外山 祈

先日、赴任地である赤羽教会で初ミサを捧げた後、ある子どもから「神父様以外になりたいものはあったの?」と聞かれました。この質問に対する答え自体は比較的容易だったのですが(魅力を感じていた職業は他にもありましたから)、しかし、「何が」そうした他の道ではなく司祭職へと自分を導いて行ったのかと改めて考えさせられました。

確かに自分の人生の歩みを振り返った時、きっかけとなる大切な出来事や出会いを列挙することは出来ます。しかし、それは言うなればパズルの「ピース」のようなもので、そのままではバラバラのままです。ではそれらを「司祭叙階」という1つの形に組み合わせ続けて来たのは誰なのか。このように考えるとき、ふと「あなた(がた)のうちに、よいわざを始めてくださった神ご自身が、それを完成してくださいますように」という司祭叙階式のときの祈りの言葉が頭に浮かんで来ます。イエスは「あなた方がわたしを選んだのではなく、わたしがあなた方を選んだのである」(ヨハネ15・16)と言われましたが、「司祭召命/司祭職」という「よいわざ」を私の中に芽生えさせ、育てて来たのは私ではなく、何よりも神御自身なのだと「新司祭」となった今、改めて感じています。

無論それは、司祭として叙階された私が人間的に見て完璧ということでは全くありません。自分の弱さや至らなさ、また罪深さや醜さを改めて目の当たりにすることも多々あります。もし「司祭職」という「よいわざ」に「ふさわしい」人間になったときに初めて叙階されるというのであれば、私などは問答無用で真っ先にその候補者リストからはじき出されていたでしょう。

しかし実際、その弱く罪深くて醜いこの私に主は叙階の恵みを授けてくださった。名誉教皇ベネディクト16世の言葉が脳裏に浮かんできます。「神は大胆なかたです。なぜなら神はご自身を人間にゆだねるからです。わたしたちの弱さを知りながら、人間がご自分の代わりに働き、存在できると考えるからです。この神の大胆さこそが、『司祭職』ということばに隠された真の偉大さです」(司祭年閉年ミサの説教)。

この言葉は私の司祭職にとって1つの道しるべです。「神の大胆さ」は「いつくしみの大胆さ」と言えますが、私の内に司祭職という「よいわざ」を始めてくださった神の「いつくしみの大胆さ」に腹の底から本当に気付いてゆくこと、そして「大胆に応えてゆく」こと。それこそが、主が私を召し出してくださっている道のりなのでしょう。

そして「神の大胆さ」は教会共同体の大胆さを通しても現れます。多くの方々が私の歩みを支え、励ましてくださっています。私よりも遥かに長い人生の道のりを歩まれている方も数多くいらっしゃる。言うまでもなく私は遥かに若く、知識や人生経験も乏しいわけですが、それにもかかわらずそうした方々が「司祭」としての私の歩みを支え、励ましてくださるとき、そこに「神の大胆さ」が見える気がするのです。人間的に見たら頼りのない若者が、それでも主の招きに応えて司祭として、キリストの代理者として生きようとしている。そのことに信頼し、その歩みを様々な仕方で助け、励ましてくれる「教会共同体の大胆さ」の内に「神の大胆さ」が確かに輝いていると思うのです。

「神の大胆さ」に応え続けてゆく司祭として生きてゆけますよう、これからもお祈りとお支えをどうぞよろしくお願いいたします。

司祭叙階の恵みを受けて
コンベンツアル聖フランシスコ修道会 中野里 晃祐

司祭叙階の儀の中で、東京大司教区のタルチシオ菊地功大司教様の前に跪き、按手を授けていただいた時の大司教様の大きくて暖かな両手が、私の頭頂をしっかりと包みこむようにしてのせられた感覚、そして、両手にたっぷりと聖香油を塗られた感触を、今も忘れることができません。その時、今、自分は「キリストの司祭」にしていただいているという身の引き締まる想いに満たされていました。

助祭叙階の時は、助祭叙階許可願いを申請し、この恵みを受ける決意をするまで、「本当に自分は叙階の恵みを受けるに相応しいのか、この召命を生きるに充分な能力があるのか」と思い悩んでおりました。私は人前でお話をしたり、リーダーシップを進んで取ったり、物事を効率的に進めたりする実務的な能力に乏しく、いかにもこの役務には力不足だと感じていたからです。

その一方で、神様が私をこの道に呼んでおられるという明瞭に言語化することが難しいながらも、否定しようのない神様からの《呼びかけ》を感じており、この神様からの《呼びかけ》と自分の能力の不足という自意識との間で葛藤が生じていました。

そのような時、心の大きな支えの一つとなっていたのは、モーセやエレミヤなど、旧約聖書に登場する預言者たちの召命の物語でした。彼らは皆、イスラエルの民を教え導くには人間的資質に乏しく、神様の選びはお門違いにしか思えないものでした。しかし、そのような彼らに神様は「恐れるな、わたしはあなたと共にいるからだ」(出エジプト記3章12節、エレミヤ書1章8節参照)と呼びかけ、勇気を促します。

「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」―この言葉に励まされ、背中を押されるようにして行った助祭実習を終えて、自分自身の中で、「イエス・キリストはこのわたしに望みを置いてくださっている。だから、その望みに応えてキリストの司祭にならなければならない」というより明確な自覚が芽生えてきました。

使徒パウロは、福音宣教の協力者であるテモテに「わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように進めます。神はおくびょうの霊ではなく、力と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです……キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい」(テモテへの第二の手紙1章7、13、14節)と伝えています。パウロのこの言葉は、そのままテモテの霊名をいただいている自分自身にも向けられているのだと、いつも励まされる思いです。

司祭叙階後、キリストの司祭としてミサをささげ、赦しの秘跡を執行し、役務的司祭職の奉仕をさせていただく中で、つくづくと感じるのは、私という存在を通して働いてくださる三位一体の神様の存在です。私は神様の道具に過ぎませんが、しかし、神様はこの不器用な道具を通してでも、ご自身の恵みを人々に分配しようと望んでくださり、私と共に働いてくださっているというのは、もったいないほど有り難いことだと、日々、感謝の気持ちで一杯になります。

神様の恵みの分配者としての奉仕に喜びと勇気をもって生涯をかけて誠実に尽くすことができますよう、改めて、皆様のお祈りをお願い申し上げます。

様々な立場で温かく迎えられながら
聖パウロ修道会 大西 德明

新しく司祭叙階の恵みを頂戴いたしました、聖パウロ修道会の大西德明と申します。

元々修道会へは、修道士志願として入会しました。司祭職という形での奉仕や生き方を考え始めたのは修練期に入ってからでした。幸いにももう一人、半年ほど前に同じ松山教会から同じ修道会に入会していたのですが、彼は既にデザイナー、DTPオペレーター(パソコン上で印刷物を作る仕事)として活躍されていましたので、既に初期養成の段階で修道会の職務の第一線で活躍されていました。一方で、自分が神と人々のためにできることとは何だろう、と考えた答えが司祭職という道でした。ですので、「司祭になろうと思った」というよりは、「修道士を諦めた」といった方が正確かもしれません。

哲学と神学の勉強は主にオーストラリアで行いました。言葉の問題はもちろんですが、それよりも困ったのは文化の違いでした。日本では先生の言うことをよく聞いて、それを暗記して、それを試験答案に書けば良いのですが、オーストラリアだと「それを授業で学んで、あなた自身はどう思ったのか」を明確に主張しなければ、採点対象にすらしてくれない文化でした。自分の意見を主張するのははしたない、するとしても遠回しに、間接的に、それも婉曲的に表現することを良しとする日本の文化とは、丁度真逆です。

文化の違いもさることながら、教育システムの違いも大きいものでした。日本の神学校では、例えばカトリック神学院の場合では、2年間の哲学期と4年間の神学期で構成されますが、オーストラリアでは神学も哲学も同時進行で大学で行われます。大学も日本では一般的に4年間の学部課程に対して、オーストラリアは3年です。このような教育制度の違いから、オーストラリアで神学を学んだものの、日本に戻ってきてからの教育の接続というものがうまくいかず、数年ほど神学の勉強を続けられない時期が続き、その上でコロナ禍となりましたので、なかなか前に進む事ができない日々を過ごしました。

助祭叙階前後では、1年間ほど東京のカトリック神学院で寝食を共にしながら聴講生として授業と研修を受けさせていただきました。修道会が先輩・後輩の区別もそれほどなく、兄弟として「のほほん」としているのに対して、神学校では長幼の区別がはっきりなされていましたので、いきなり最高学年になってしまうのは、なんとも申し訳ない気持ちでいっぱいでした。神学校では九州を除く日本全国の様々な場所から神学生が集まってきますので、日本中の教会の情報が集まる、いわば日本の教会における情報センターのようでした。今まで修道会内部のみで生きてきた僕にとっては、とても新鮮で刺激的で啓蒙的な環境でした。また、神学校は広大な敷地で自然豊かでしたので、自由な時間は野菜を育ててみたり、メダカやドジョウを屋外で飼ったりと、四ツ谷の修道院ではできない経験をさせていただきました。加えて、神学校では典礼に関して厳格だったのが印象的でした。勿論修道会内でも典礼の訓練や教育は受けるのですが、案外と修道会の外での典礼について知る機会が無いので、良い勉強になりました。

最高学年である助祭コースでは、それほど講義や試験を前提とするような勉強もなく、主に様々なカトリック教会に関連する施設や学校を訪問しての研修や、主日は小平教会で司牧の実習に励む毎日を過ごしました。小平教会では、小教区の運営のノウハウから典礼の所作、サンマの焼き方からおいしい生ビールの注ぎ方まで、様々な事を学び、また経験させていただきました。様々な場で多くの人に温かく迎えられながら、様々な事を学ばせていただきました。

順風満帆とは言えない司祭職までの道のりでしたが、「疾風に勁草を知る」という言葉の通り、色々ある状況を過ごしたからこそ、本当に大切な物や事は何なのか、また本当に大切な方は誰なのかを、改めてよく知ることができたと思います。

希望のメッセージを伝えるものとして
レデンプトール修道会 下瀬 智久

コロナ禍での制限がまだ残っているとはいえ、多くの方々に参列いただく中で、他の5人の仲間と共に、6人の受階者の一人として、荘厳に叙階の恵みをいただき本当にありがとうございました。私自身の喜びよりも、多くの方々が祝い喜んでくださった事に感謝しています。
今回のように、私の属する修道会単独ではなく、教区と幾つかの修道会合同での叙階式になったと最初に聞いた時には、単純に一緒に秘跡の恵みを頂く仲間が増えたぐらいにしか思っていませんでしたが、こうした考えや予想を遥かに越えて、盛大かつ大きな喜びの式となったことに感謝するとともに、頂いた恵みの大きさと、それに伴う責任の重さを実感しています。

イザヤ書に「天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている(55:9)」とあります。わたし自身も含めた多くの人は、自分自身の知識や経験といった狭い範囲内での考えに囚われて、つい悲観的になったり希望を失ったりしがちです。神学生として長く暮らした東京にいるとあまり気がつきませんが、ちょうど一年前の助祭叙階の後すぐに派遣され、司祭叙階後も引き続き奉仕することになったここ大阪周辺でも、いわゆる少子高齢化の影響をひしひしと感じています。教会の近くでは、最近新しく建った巨大なマンションや、新設されて順調に学生数を増やしている大学などがあるため比較的人通りも多いのですが、少し路地裏に入ると住む人も居なくなった空き家が、時には何軒も続けて荒れ果てた無惨な姿を晒しています。教会の中でも、私がこの修道会に入会した10年ほど前には活発に活動しておられていた方々が、高齢のために教会に来ることが出来なくなっておられたり、既に亡くなっておられたりもします。こうした現実を見ていると、司祭修道者の召し出し以前に、日本の教会そのものの将来にも不安を感じざるをえません。

しかしながら歴史に目を転じるならば、教会にとって難しくなかった時代などありません。迫害の時代はもちろんのこと、教会自体が力を持って発展しているように見えた時代であっても、それなりの難しさや問題の芽は常にあり続けて来ました。問題から目を背けるのではなく、かといって悪い面だけを言い募る批評家としてではなく、本当の意味での「福音」、聖書や聖伝からの喜びや希望のメッセージを伝えるものとして、わたしたちの「思いを、高く超えている」方に信頼して、微力ながら司祭の務めを果たし続けて行くことが出来るよう願っています。

今回叙階を受けた6人だけでなく、助祭叙階を受けてすぐに、叙階式での助祭奉仕をしてくれた二人も含めた八人の、それぞれの場での働きが、教会や社会に希望をもたらす小さなきっかけとなるよう、どうかお祈りください。参列してくださった皆さん、祈りで支えてくださった皆さんお一人おひとりの上に、豊かな恵みがありますように。

新司祭に授けられるカリスと祭服

入堂を待つ受階者たち

ドミニコ会司祭叙階式

4月15日、渋谷教会にて菊地大司教司式により、佐藤了(さとう りょう)助祭の司祭叙階式が行われた。佐藤神父様、おめでとうございます!

ドミニコ会 
アントニオ 佐藤 了

このたびは司祭叙階の恵みを受け、菊地大司教様、また、渋谷教会のみなさん、ドミニコ会の長上、そして、私がこれまで助祭として奉仕させていただいてきた千葉地区の信徒のかたがたなど、出会い支えてくださったすべての人たちに、言葉にならないほどの感謝を感じています。10年の会社勤めのあと修道会に入ってから、はや20年。その間15年は外国でほとんど勉学と典礼奉仕に過ごしてきました。日本で働く決意を固めて帰国してから、助祭として務めたおよそ2年のあいだ、司祭となって日本の教会のために自分の召し出しを十全に生きたいという強い飢え渇きを体験しました。すべては必要かつ恵みに満ちた道のりであったと、いま心から感じています。これからは、東京教区を中心としながら日本中どこへでも行って、巡回説教を任務とするドミニコ会士らしく、つねに神と人、人同士が出会い直す喜びとしてのミサを信徒のみなさんとともに捧げることを、死ぬまで大切に続ける司祭でありたいです。

左から佐藤了新司祭、菊地大司教、ドミニコ会カナダ管区地区長原田雅樹神父

靴を脱いで

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

すでにカトリック新聞で報道されていますが、2023年2月23日から27日にかけてタイのバンコクで「シノダリティに関するアジア大陸総会」が開催されました。これは、10月に予定されているシノドス(世界代表司教会議)第16回通常総会の全体会議に先立って5大陸毎に開かれた「シノドス大陸ステージ」の一環です。日本からは菊地功大司教と3人の方々が参加しました。

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すでに3月19日に「シノダリティに関するアジア大陸総会最終文書」が発表されています。日本からの参加者も作成に携わったこの最終文書を読んでみると、「アジア大陸総会」が大変内容のある交流と対話、そして祈りと分かち合いがなされたことが分かります。最終文書は、アジアの各地の教会がお互いに「共鳴し合う体験」を共有し、その一方で、それぞれの教会が直面する「緊張」を明らかにして聖霊の豊かな恵みを願っています。また、アジアの教会が見落としてしまった「欠落」を明確にしたのも誠実な取り組みだったと思います。こういった大きな国際会議は光が当たる部分だけを誇張しがちなものですが、自分たちの至らなさや力の弱さを認めたのは、「アジア大陸総会」が祈りの中でなされたからでしょう。

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ここでは、最終文書の詳細を解説するのは避けますが、東京教区の皆さんに知っていただきたい内容を簡単に分かち合いたいと思います。なぜなら、そこにはシノドス的なアプローチがなされており、しかも、わたしたちアジアに生きる信者にとって助けとなる「生きた霊性」があるからです。

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最終文書の終わりの方に「『靴を脱いで』、アジアにおけるシノドスの旅」と題した「み言葉」に基づく短い記述があります。この部分が今回の「アジア大陸総会」を支える霊的な土台となります。

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アジアには家や宗教施設に入る際には靴を脱ぐという習慣がありますと、最終文書は語り始めます。靴を脱ぐことは、他者への敬意を表す「美しいしるし」であり、聖なるものに対する「深い意識の表現」でもあると規定しています。確かに、わたしたちは知らず知らずのうちに靴を脱ぐという習慣を繰り返しながら、相手の前に進み出ますし、祈りの姿勢の始まりとします。これはいくら西欧化が進んでいようとも、南アジアであれ、東アジアであれ、多くのアジアに住む兄弟姉妹たちにとって共通の体験であり、霊性の表れだと思います。

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そして、最終文書はみ言葉に、つまり神の言葉に触れます。「足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(『出エジプト記』3章5節参照)。「燃える柴」の場面でモーセに語られた言葉が、アジアの教会を特徴づけるものとなります。

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最終文書によれば、靴を脱ぐことで人は大地を意識するようになります。靴を脱ぐことで「耳を傾け、対話し、識別し、決定する際に、すべての人を」大切にし、尊重することが可能となります。また靴を脱いだことで「偏見やバイアスを捨て、相手を受け入れる」ことができるようになるのです。多様な文化、多様な民族に生きるアジアの諸教会は「喜びの体験」、「ともに歩むという体験」、そして苦しみという「傷の体験」を重ねてきました。これは教会が社会とともに生きている証拠です。靴を脱いだからこそできる「体験」なのです。しかし、靴を脱いだからこそ足の裏から実感できる社会の「緊張」に直面するのです。

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ですから、靴を脱ぎ、「裸足になることで」、「もっとも貧しい人たちを意識」するようになります。彼らと一つになることができると最終文書は主張しています。靴を脱ぐことで、「アジアの人々の基本的な現実をより身近に感じる」ことができるようになるのです。アジアの教会にとって「靴を脱ぐ」は新しい教会の姿となるのです。

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以上がみ言葉に基づく黙想から得られたシノドス的教会についてのイメージです。靴を脱いだ結果、謙遜と希望のうちに旅を続けられるようになるのだと思います。わたしは、このみ言葉の黙想にとても共感して味わいました。大地を大切にする。他者を尊重する。異なる文化を受け入れる。そして、苦しむ人々と共に苦しみ、哀しむ人々と哀しむ。そういった霊性を生きるためには靴を脱いで、素足の無防備なもの、小さなものとさせてもらわないといけないのです。「足から履物を脱ぎなさい」という神の命令は、わたしの中で実行していかなければならないでしょう。

◆ ◆ ◆

シノダリティ(シノドス性)とシノドス的教会は、「靴を脱ぐ」ところから始まるのだと、今回の最終文書を読んで強く思いました。

最終文書はカトリック中央協議会のサイトから読むことができます。

東京大司教区司祭人事(第4次)について 

東京教区の2023年度の司祭の人事(第4次)です。お知らせします。  
大司教 菊地 功

新任地 名前 旧任地
コンベンツアル聖フランシスコ修道会
(4月10日付)
   
赤羽教会助任司祭  外山 祈師(新司祭)  
フランシスコ会(4月10日付)    
田園調布教会助任司祭 金 東炫(Kim Donghyun)師 田園調布修道院

以 上

「新しいミサ式次第を使い始めて」司祭アンケート

去る2月21日に行われた東京教区司祭月例集会で、小教区で司牧に関わっている司祭を対象に、教区典礼員会による「新しいミサ式次第を使い始めて」と題するアンケート調査が行われた。ここにそのアンケート結果の一部を紹介する。

1.ミサ式次第の冊子などについて教えてください。(複数回答可)
教会で購入して配布した  
無料   11
有料  13
二冊目から有料 1
自由献金 1
信者に各自で購入してもらった  4
教会で独自の冊子を作った 14
冊子とは別の方法を用いている  
プロジェクターで投影 4
モニターで表示 1


対応の仕方は様々であるが、完全に信徒任せにするのではなく、小教区として何らかの対策を取っている教会がほとんどであった。

2. 信徒の様子はいかがですか?
スムーズに移行できた 24
混乱はあったが今は問題ない 12
うまくいっていない  3


「混乱はあったが今は問題ない」「うまくいっていない」のコメントとしては、「またあなたとともに」の言い間違いが多いこと、高齢者や外国籍信徒、ミサへの参加が少ない信徒が対応に苦慮していることが上げられていた。

3. 司祭としていかがですか?
特に困ったことはない 31
困っている 10


「困っている」点の具体的な内容としては、新しい式文での歌ミサにまだ慣れていないという、司祭ならではの悩みがいくつか寄せられていた。

4. 典礼が豊かになりました(選択肢が増えた)が、どうしていますか?

慣れるまで一つに固定している  
このまま固定されてしまうと思う 9
慣れたら別の式文を使用するつもり 17
選択肢を色々試している 4


慣れたら使用するつもり」「色々試している」を合わせると回答数の7割となり、まずは慣れることに苦労しながらも、典礼の豊かさを味わっていこうという意欲が感じられる結果となった。

◆ ◆ ◆

ミサで新しい典礼式文が使われるようになって約5ヶ月が過ぎた。すっかり慣れた方も、まだまだ戸惑いが大きい方もおられることだろう。それでも、同じ式文、同じ祈りを共に覚えていく歩みそのものに豊かさがあることに、心を留めていただければと思う。

聖香油ミサ

油にバルサム(香料)を注ぐ菊地大司教

4月6日、聖木曜日の午前、東京カテドラル聖マリア大聖堂で菊地大司教司式による聖香油ミサが行われた。コロナ禍以降、人数制限無しの聖香油ミサが行われたのは初めてのこと。ミサには大勢の司祭、修道者、信徒が参列した。

ミサの説教で菊地大司教は「教会共同体は、常に聖霊によって導かれ、常に刷新されながら時の道を歩んでいます。教会は、常に古い存在であるけれど、同時に常に新しい存在でもあります」「感染症の厳しい状況を経て、『普通』の教会になることは、決して3年前の状況を取り戻すことではないと思います。帰るのは過去ではありません。なぜならば、わたしたちは、常に古いけれども常に新しい、前進を続ける神の民だからであります」と述べ、コロナ禍を脱しつつある今だからこそ、過去に戻ろうとするのではなく、聖霊の導きによって前進することの重要性を説いた。

2022年度「第47回 日本カトリック映画賞」決定

SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)は、2022年度の「日本カトリック映画賞」として劇映画『桜色の風が咲く』(松本 准平監督) を選定いたしました。

「日本カトリック映画賞」は、前の年の12月から次の年の11月までに日本国内で制作・公開された映画の中からカトリックの世界観と価値観にもっとも適う作品を選んで贈られるもので、今年で47回目を迎えます。本作『桜色の風が咲く』は、9歳で失明、18歳で聴力も失いながら、やがて盲ろう者として世界で初めて常勤の大学教授となった福島智(ふくしま さとし)とその母の物語です。実話をもとに「生きる希望」を描き出す真摯で温かな人間讃歌(同作品公式ホームページより)として選考会でも高く評価されました。

SIGNIS JAPAN顧問司祭の晴佐久昌英神父は同作品の選評で「松本准平監督はこれまでも、最も困難な状況にある人間を描いてきた。そこになおも救いがあり、映画はその救いを語りうると信じているからだ。その監督が今回、『桜色の風が咲く』において最難関のテーマに挑み、目には見えない光を撮ってくれたことに感謝したい」と述べています。作品はDVDとなっておりますのでぜひご覧いただきたいと思います。

同時にドキュメンタリー映画『劇場版 荒野に希望の灯をともす』(谷津 賢二監督) を「第2回シグニス平和賞」に決定しました。シグニス平和賞はSIGNIS の「平和の文化を推進する」という理念に則って、2014年に特別に創設されました。カトリックの世界観や価値観に合致し、特に強く平和を訴えかける優秀な作品を厳選して、作品および監督を顕彰するもので、今回第2回の授賞です。

『劇場版 荒野に希望の灯をともす』は、そのサブタイトルが示すように、医師・中村哲さんの現地活動35年の軌跡を追ったドキュメンタリー映画です。戦乱の中、病や貧困に苦しむ人々に寄り添い続けた医師・中村哲さん。彼はなぜ医者でありながら井戸を掘り、用水路を建設したのか?何を考え、何を目指したのか?真の平和とは?それらを観る人に静かに問いかける稀有な作品として選考会でも高く評価されました。

以下は晴佐久昌英神父の選評です。「貧困と飢餓、戦争、環境問題。地球上の諸問題について、多くの人はすでにあきらめている。最大の問題は、そのあきらめ自体であることに気づかずに。そんな世界に、中村哲という『あきらめない人』が確かに存在したという事実は、全人類の希望である。中村哲の遺言のようなこの映画に『第2回シグニス平和賞』を授与し、特に道を求める若者たちに荒野へ向かう勇気を贈りたい」

この作品は各地で自主上映会なども行われておりますので、ぜひ多くの方にご鑑賞いただけたらと願っております。

※コロナ禍で、数年間行えなかった「上映会&授賞式、監督と顧問司祭晴佐久昌英神父との対談」を規模を縮小して6月に行う予定です。

問合せ先 大沼美智子 
090-8700-6860

CTIC カトリック東京国際センター通信 第267号

入学準備

いつもCTICの活動にご協力いただきありがとうございます。新入学の季節を迎え、今年は皆様から頂いた献金で、3人の子どもたちにランドセルを準備することができました。CTICの倉庫にも、以前ご寄付でいただいていたランドセルがしまってあったのですが、小学生の荷物が増え、教科書やプリントがA4サイズになったこともあり、最近のランドセルは大型化しているとのことで、今のサイズの物を新しく購入させていただきました。今までも、そしてこれからも何かと我慢しなければならないことが多いであろう子どもたちですが、せめて入学の時には、他の子たちと同じように新しいランドセルで学校に送り出したいというスタッフの思いもありました。もちろん値段は十分に吟味いたしました。一人の子の手元にランドセルが届いたのは、入学式の前日でした。そのご家庭では、4月になればランドセルの値段が下がるのではないかと期待して待っていたのでした。たまたまにスタッフが家庭訪問した時にまだランドセルが準備できていないことを知り、ご両親と話し合って、CTICに頂いたご寄付で購入することになりました。

また別の子の場合、その子の入学準備についは、前もってお母さんとCTICスタッフが相談しており、ランドセルその他、こちらで準備させてもらうものを決めていました。ところがそのご家庭には上の子もいて、その子の入学の時には、まだCTICとつながる前でしたので、知り合いからもらったお古のランドセルで入学し、今も使っているということで、お母さんはとしては、その子の分の新しいランドセルもご希望でした。ある程度学年の進んだ子が新学期から新品のランドセルを持って登校すれば、周りから変な目でみられて、その子が学校でつらい思いをするのかもしれないということまでお母さんはお気づきではないのでした。そこまで周りの目を気にしなければならない日本社会はおかしいというのは簡単です。しかし子どもたちは学校に行けばその中で、一人で生き抜かなければならないのが現実です。できるだけ危険は避けなければなりません。そこで上の子には、新しいランドセルの分のお金で、代わりに何か本人が欲しいものを買ってあげるということで、ある一日、スタッフのシスターが母子と一緒に、あちらの近所のショッピングセンターにお買い物に行きました。

すると、上の子が真っ先に希望したのが、新学期から全校生徒が被ることになった学校指定の帽子と音楽の時間に使う笛だったということです。子どもながらに、あるいは子どもだからこそかもしれませんが、学校で使う物が準備できていないことを気にしていたのだと思うと、胸が痛みます。その子のためには、必需品の他に新しい靴を買うことができました。

子どもたちが学校生活を無事に、できれば楽しく過ごせるようにと願うばかりです。

先月号でお願い致しました、入管収容施設にいる方々のための靴の募集ですが、おかげさまで目標の数を頂くことができました。本当にありがとうございました。

CTIC所長 高木健次

子どもたちの笑顔が守られますように(写真は本文とは関係ありません)

カリタスの家だより 連載 第152回

ボランティア適齢期

みなさんは60歳という年齢にどんなイメージをお持ちでしょうか。子どもの頃に唄った「♪村の渡しの船頭さんは今年六十のお爺さん♪」というのが、長らく私の60歳のイメージでした。

もう40年近く前のことですが、尊敬する舅が60歳になったとき、イメージと違ってあまりにも若々しいので驚きました。舅は新聞社を定年で辞めた後、大学で文学を講じる毎日で、若い人たちに文学の魅力を語るのが楽しくて仕方ないというふうでした。学生に自分がしてきた読書体験の全てを伝えようと張り切っていました。月日は流れ、現在の60歳はもっともっと若い。まさに第二の人生の入り口という呼び方がふさわしいほどです。

東京カリタスの家ボランティア開発養成室では、60代はボランティア適齢期と考えています。確かに体力的には若い時より劣るかもしれません。けれども神さまは体力に代わる恵みを与えてくださいます。人生の経験に裏打ちされた落ち着き、忍耐力、判断力、思いやりなどです。これらは傾聴を中心としたカリタスの家の活動に是非とも必要な資質ばかり。仕事や家事子育て、介護や社会活動の中で鍛えてきたキリスト教精神を東京カリタスの家のボランティアに活かしていただけたら嬉しいと思います。世の中がどんなに変わっても、悩み苦しむ人々は多くいます。そのような人々の話をゆっくり聞き、人生に寄り添っていくのが東京カリタスの家の方法です。

コロナ禍という長いトンネルの向こうに仄かな出口が見えたこの春、桜は一段と美しく、若葉も輝くかのようでした。ボランティア開発養成室は新しいスタッフボランティア数名を迎え、活動を充実させていきたいと願っています。

ボランティア開発養成室の活動予定をお知らせします。(あくまで年度始めの予定ですから、コロナのご機嫌次第でしぼんでしまうかもしれないことはお察しください)

まず、ボランティア養成講座を初夏・秋それぞれ2~3回ずつ開く予定です。昨年度の「傾聴」を中心に据えた講座が好評をいただきましたので、今年度もそのように計画しております。近くなりましたら東京教区ニュースのVIVIDと東京教区の全ての教会にお知らせします。奮ってお申し込みください。

3年間まったく行われなかった「教会キャラバン」を再開します。皆さまの教会の主日のミサに伺い、ともにご聖体を拝領した後、東京カリタスの家についてお話しさせていただくものです。信徒会と主任神父さまのお許しをいただいて訪問いたします。訪問をご希望の方はご連絡ください。

登録ボランティアさんのための交流学習会を2回予定しています。ボランティア活動の中で楽しい仲間づくりをするとともに、活動に資する学びを提供いたします。また、この数年間に登録したボランティアさんのために、あらためて東京カリタスの家の方針を解説する企画も立てています。こちらも具体化した時点でお知らせします。

東京カリタスの家で活動や学習に臨む際に唱えるのが「カリタスの家の祈り」です。受け継がれてきたその祈りの中に次の言葉があります。

私たちがいかに弱くとも…互いに信じ、互いに赦し、心をひとつにして支え合うことができますように

弱く、いたらぬ私たちですが、苦しむ人の添え木となって働けるよう、日々努力を重ねています。悩みの中にある方が周りにおられたら、東京カリタスの家をご紹介ください。ボランティアのお申し込み、お悩みの相談、どちらの窓口も次の電話です。

東京カリタスの家受付
TEL : 03-3943-1726
ボランティア開発養成室
ボランティアスタッフ
酒井育子

福島の地からカリタス南相馬 第21回

「チームふじさん」代表 藤野龍夫

私は東日本大震災と福島第一原発事故の1年後、2012年4月から南相馬市ボランティア活動センターで災害復旧支援ボランティアを始めて以来、月に1、2回の割合で愛知県から通って活動し、2013年3月20日に団体「チームふじさん」として南相馬市をホームグラウンドとして捉え、原発事故による避難者さんの生活復旧復興に寄り添った活動を継続してきました。また、こちらの活動と並行して各地で発生した災害復旧支援にも携わってきました。

昨年2022年3月16日発生の福島県沖地震ではカリタス南相馬チームと連携して南相馬市社会福祉協議会災害ボランティアセンターの要望に応じて「チームカリタス」の屋根復旧技術系ボランティアとして活動しました。

3月20日より7月5日まで延べ61日間、主に地震による屋根瓦の損傷で雨漏りのあった被害宅にてブルーシートを展張して雨漏りを防ぐ作業を実施し、住民さんに安心して生活ができると喜んでいただけました。その後、新たに出てきた作業として活動63日目の10月15日、16日には地元南相馬市近辺のボランティアさんとの合同作業も実現できました。

雨漏り被害の酷いお宅では、家全体に雨水が漏れ出て漏電の心配も起きる被害や、雨漏りが少ないお宅でも放置するとカビによる健康被害、構築木材の腐朽にまで発展します。

また、県外からの悪徳業者が法外な値段でいい加減なやっつけ作業で終わらせて、再度の雨漏り被害、二度のどん底を経験した住民さんも居られます。

私たち県外ボランティアが暑い日々危険を伴う作業を安全に継続できたのは、快適な宿舎、美味しい食事の提供や日々温かく迎えていただいた幸田司教様始めスタッフやシスターの皆様のお陰です。

南原所長様、スタッフ佐藤様とも活動をご一緒していく中で地元に屋根の作業ができるメンバーが育ったことも大きな成果です。

今後も「チームふじさん」は、カリタス南相馬の皆様と連携して活動を継続いたしたい所存ですので、ご支援宜しくお願いいたします。

本当にお世話になり感謝申し上げます。

カリタス東京通信 第4回

カリタス東京の災害対応活動について
事務局 田所 功

災害はいつどこで発生するか分かりません。私たちの東京教区(東京都・千葉県)も例外ではありません。大雨やスーパー台風などによる河川の氾濫や、首都直下地震の発生も予想されています。東京教区で災害対応を担うカリタス東京では、そのような将来起こりうる災害に備えるべく、取組を進めています。

❶災害危険度(リスク)の把握
災害への備えの第一歩として、災害危険度(リスク)の把握から始めました。

国土交通省の「重ねるハザードマップ」や、東京都都市整備局の「地域危険度一覧表(区市町別)」を基にして、教区内にある78の教会と集会所がどのような災害危険度の地域に立地しているかを調査しました。

これによりますと、荒川が氾濫した際は、流域の板橋区、足立区、荒川区、墨田区、江戸川区などにある10の教会では、床上浸水の危険があることが分かりました。首都直下地震となると、さらに広範囲で教会が被災することになると思われます。

調査結果はカリタス東京のホームページ(https://caritastokyo.jp/)トップページのバナー「災害対応」でご覧いただけます。

❷教区本部機能の災害初動対応の確認
東京教区内で災害が発生した際に慌てることなく対応できるよう、発災直後に初期対応として教区本部機能がどのように動くかについての確認を、教区本部事務局とカリタス東京とで行いました。

発災時には大司教をトップに教区災害対策本部が立ち上がり、教区の災害対応の方向性を決定します。対策本部の決定に従って具体的な対応は、主に教区本部事務局と期間限定で設置されるカリタス東京サポートセンターが担うことになります。

【教区本部事務局】
発災時は、主として教区内組織の構成員と資産(建物・備品)に関する被災状況の確認と復旧業務を担当します。「被災した教会の建物を再建したい」「被災信徒へ義援金を渡したい」などの支援要請には、教区本部事務局が対応します。
【カリタス東京サポートセンター】
カトリック教会が広く一般を対象として行う災害救援と復興支援活動の、教区での現地救援本部の役目を担います。被災状況や支援ニーズの確認、支援活動計画の策定、ボランティアベース(活動拠点)の立ち上げと運営支援、ボランティアの受付などが主な役割です。被災地で活動する教会内外の団体との連携の窓口でもあります。

災害対応スタッフを募集します
カリタス東京では、災害時にカリタス東京サポートセンターにて活動に参加してくださる災害対応スタッフを募集しています。災害が発生したらカリタス東京サポートセンターに集結して様々な任務にあたるスタッフです。緊急救援から復興支援まで、活動期間が長くなることも想定して、交替で任務に当たれるよう十分な人数を確保しておきたいと思っています。応募いただいた方には災害対応スタッフ研修も計画しています。

関心のある方は、
カリタス東京事務局
電話:03-6420-0606
メール:E-mail
までご連絡ください。

災害予想マップ

編集後記

4月は出会いの季節とは言うけれど、誰も出会いを思い通りにはできない。それは突然訪れることもあれば、待てども待てどもやって来ないこともある。

それでも、出会いを待ち望んでいなければ、どんな素敵な出会いにも気づくことさえできないのだ。

胸を弾ませ、心を開いて、神との出会いを、人との出会いを待ち望み続けていたい。そして、もしかしたら、その二つは同じなのかもしれない。(Y)