お知らせ

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東京教区ニュース第403号

2023年06月09日

菊地大司教、国際カリタス総裁に選出

すでに教区ウェブサイトやSNS、小教区へのFAXでお伝えしているとおり、5月11日から16日まで行われた国際カリタスの総会で、菊地功大司教が新しい国際カリタス総裁に選出された。「絶対に自分が選ばれることはない」と言ってローマに旅立ち、今も「心の底から驚いている」という菊地大司教に話を伺った。

最初に、国際カリタスとはどんな組織なのかを改めて教えてください。
菊地大司教 国際カリタスは世界各国・地域の司教協議会によって認められている「カリタス(愛)」の活動を行う団体による連盟組織です。国際社会では国際赤十字に次ぐ世界で第二の規模を持つ人道支援NGO組織と言われています。日本からは、司教協議会の委員会である「カリタスジャパン」が、国際カリタスの連盟に参加してきました。現時点では世界各地から160を超えるカリタスが連盟に参加し、教皇庁の総合人間開発省のもと、バチカンに本部事務局を置いています。

4年に一度開催される総会で、連盟全体の活動計画や予算計画と共に、総裁、事務局長、会計が選出され、同時にその後4年間の役員会のメンバーも承認されます。

今回、総裁候補になった経緯を教えてください。立候補なさったのですか?
菊地大司教 いいえ、総裁選挙は立候補制ではありません。連盟に加盟する団体からの推薦を受けてカリタス内部の候補者委員会が審査し、その後、バチカンの国務省の審査を通過して候補者と認定されます。今回は5名の候補者がいましたが、わたしのことはカリタス台湾が推薦してくださったと伺いました。

事前に「自分が選ばれることはあり得ないと思う」とお考えだったのはなぜですか?
菊地大司教 まず、前任の国際カリタス総裁であるアントニオ・ルイス・タグレ枢機卿様がフィリピンのご出身(前マニラ大司教)なので、二代続けてアジアから選ばれる可能性は低いと思っていました。また、複数のソースからの情報では、ほかのある方が本命であると聞いていました。わたしもよく存じ上げている方でしたので、間違いがないと思っていました。投票前の候補者スピーチも、他の方々が10分の持ち時間ギリギリまで話される中、わたしは5分のテキストしか用意しておらず、少し前振りをアドリブで入れて、それでも7分もかかりませんでした

しかし、どうしたわけか、総裁選挙の投票は3回目の上位二名の決選投票までもつれ込み、最終的にわたしが選出されることになりました。その本命候補の方とわたしとの票差はたったの1票差でした。

大司教様は、これまでもカリタスとは深い関わりをお持ちですね。
菊地大司教 そうですね。わたしは1986年に司祭に叙階された直後から1994年までアフリカのガーナで宣教師として活動していましたが、帰国直後の1995年3月から5月まで、ルワンダの難民キャンプにカリタスジャパンのボランティアとして派遣されました。これがカリタスとの最初の関わりです。その後、1999年から2004年はカリタスジャパン援助部会秘書、2004年から2007年はカリタスジャパン担当司教、2007年から2022年はカリタスジャパン責任司教、そして2011年から2019年まではカリタスアジア総裁も務めました。司祭・司教生活の大半をカリタスとの関わりの中で過ごしていることになりますね。

特に印象深い思い出はありますか?
菊地大司教 やはり最初に派遣されたルワンダの難民キャンプのことは忘れることができません。1995年4月11日夜のことです。わたしたちが宿泊していたのは現地の司祭館だったのですが、突如暗闇に爆発音が響き渡りました。その後、爆竹のような音が連続して聞こえました。すぐにそれが銃撃であることに気づきました。窓から外を見ると花火のような光の筋が無数に見えました。

司祭館のすぐそばには、小学校のグラウンドを挟んで難民キャンプがありました。キャンプの住居はビニールシートで覆われているだけで、銃弾を防ぐことはできません。大勢の難民がコンクリート造りの司祭館に逃げてきました。約2時間にわたる銃撃で、30名以上が命を落とし、200名近くが負傷しました。

この銃撃の中、あえて外に立って負傷したルワンダ人の難民司祭のことを、わたしは生涯忘れることができないでしょう。彼はこの銃撃がルワンダの新政府の回し者が難民のリーダーを殺害するために行われた犯行だと判断し、外国からやって来たわたしたちが巻き添えになることがないよう、自分だけが早く発見されるようにあえて外に立っていたと言うのです。

国際カリタス総裁としてこれからのご予定は?
菊地大司教 事務局長はローマ本部での常勤ですが、総裁、副総裁と会計は非常勤の役職なので、東京を離れてローマに引っ越すわけではありません。それでも、年に数回はローマに出張することになると思います。

昨年11月、教皇様は国際カリタスの本部事務局の運営に問題があるとして、総裁以下、当時の事務局長や評議員などすべてを解任し、外部のコンサルタントに一時運営を任せていました。その間に国際カリタスの規約が書き直され、教皇様がそれを認可したばかりです。ですから、ゼロからの立て直しが、わたしたち新しい執行部の第一の務めとなります。そしてそれは、かなり困難を極めると思います。

最後に、東京教区の皆様へ一言お願いします。
菊地大司教 東京教区の皆様には、わたしがまた役目を一つ増やしてしまいましたので、今後、予定の変更など大きな迷惑をおかけすることになるかと思います。大変申し訳ありません。しかし、もちろんわたしの第一の務めは東京の大司教ですので、その務めをおろそかにしないように全力を尽くします。どうかお祈りによるお支えをよろしくお願いいたします。左からアントニオ・ルイス・タグレ枢機卿(福音宣教省副長官、前国際カリタス総裁)、菊地大司教、ドクター・ベネディクト・アロ・ロザリオ(カリタスアジア総裁)

カリタスの家だより 連載 第153回

心の通い合う「みんなの部屋」

私たち地域活動支援センター「みんなの部屋」は文京区の補助を受け、文京区の保健所等と協同しながら地域活動を行っている施設です。主には精神に障害のある方が日中活動を行うために通所しており、クリスマスカードなどのグリーティングカードや手芸品等の創作活動をしております。また、通ってくる利用者さんと共に過ごすこと以外にも、地域活動支援センターとしての仕事があります。「相談支援事業」という事業では当施設利用登録者以外の幅広い方々からの相談を電話などで受けています。「地域生活安定化支援事業」では文京区の保健師さんと合同で、医療や福祉につながりづらい方々を支援しています。特に精神科の病気では、本人が医療の必要性を理解できない場合も多く、訪問を重ねて関係性を作り、病院へつなげたり、定期的な通院ができるように援助したりすることが必要とされています。

現在のみんなの部屋は、コロナ禍で様々な活動の制限を受け、未来についても不透明な状況が続く中、東京カリタスの家発行の「カリタスの家ニュース」に利用者OBがコロナ禍前の楽しい思い出を記事にしてくれました。実際に会えなくても、文字を通しての交流で心を通わせることができているのですね。今回はその記事に心打たれた当施設のボランティア庄司昌子さんの文章をご紹介いたします。

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コロナ禍でみんなの部屋に行けなくなってどのくらい経つのでしょう!

私にはとてつもない長さに思えるのですが、そんな時、みんなの部屋のOBである杉崎さんの記事に出会いました。暗さが抜けきらない私の気持ちが一瞬にして明るくなりました。

みんなの部屋は精神に障害のある方のための通所施設で、創作活動やグループ活動を通して癒しや励ましを与える場ですが、まさにその通りで利用者さん、ボランティア、職員の関わりは素晴らしく、安心と信頼のある場だと日々感じています。

みんなの部屋での楽しい思い出として、みんなの部屋会議で一年間の行事について皆で話し合い、お花見、遠足、クリスマスパーティーなどを企画し行っていることがあります。遠足の一番人気は「寄席」と「水族館」だった気がしますが、私にとっても最高に楽しい企画でした。「寄席」の思い出には、利用者さんが思わず発した言葉を受けて落語家の師匠が面白い笑いに変えてくださったことがあります。クリスマス会は皆で食事とデザート作りに励み、会食後は恒例のトランプ遊び「大富豪」で盛り上がりました。夏のミニレクでは私の唯一の特技?であるお好み焼きをみんなで作ったこともあります。カリタスの家全体のクリスマス会の頂点は「みんなの部屋の合唱」だったと自負しています。

そういう楽しい日々がコロナ禍で一変してしまったのです。来ることができなくなった利用者さんのことが気がかりでしたが、現在は職員の方々の電話での相談受付など行き届いたケアがなされていて安心しています。一日も早く、みんな揃って助け合いながら作業ができる場に戻ってくれることを願います。でもすべての物事は無駄だけで終わることはないと信じています。コロナ禍のこの休息の時を抜けると、きっと今迄以上に心の通い合うみんなの部屋が生まれ、より互いに成長しあう場となっていることを信じています。

みんなの部屋
ボランティア 庄司昌子

CTIC カトリック東京国際センター通信 第268号

共に生きる町

2023年4月2日、墨田区のある町会のお花見の席で、町会長からウガンダ人8人に対して「感謝状」が贈られました。ウガンダ出身者のボランティアグループが2017年2月から続けて来た、月に一度の町内清掃活動が評価されてのことです。満開の桜の咲く中、町内の方々の温かい言葉と拍手を受けながら、額に入った賞状と金一封が授与されました。

その地域に多く住むウガンダの方々とCTICとの交流は、2016年の春に、あるウガンダ人から労働契約についての相談を受けたことから始まりました。その後、7~8人のメンバーと定期的に集まって、日本語や日本の社会制度、労働制度についての勉強会を行うようになりました。ある日勉強会後のお茶の席で、メンバーの一人が「自分たちは地域から受け入れられていない」「あの辺に住んでいる『外国人』でしかない」「会社でも差別されている」という不満の声を漏らしました。そして、他のメンバーが「自分達だって住民税を払っているのに…」と続けたのです。それに対して今度は私が「人間の住む町は住民税だけで出来上がるものじゃないよ。多くの住人が、長年、様々な形で尽力して、苦労して、時には戦って、町は作り上げられている。その人たちと同じようになりたいのなら、あなたたちも町のために積極的に何かしないとだめだよ」と勢いよく返したところ、「するよ!何をすればいい?」と、皆がとても前向きに声を上げたのが今回表彰の対象となった清掃活動の始まりでした。私は墨田区役所の地域活動推進課に相談に行きました。そこで紹介された町会長さんは親身になってたくさんのアイデアとアドバイスを下さいました。その結果、町会が何かと町の行事に利用している神社とその周辺の道路の清掃を行うことになったのです。

6年もの長い間には、気持ちの良い晴れの日、雨の日、雪の日、蒸し暑く蚊に悩まされる真夏の日など、さまざまな天候の日があります。また、皆それぞれの生活、やりたいこともあります。それでも、欠かさず続けることは簡単なことではありません。始まりの時から無欠席のCさんには喘息の持病があり、寒い季節には体調がすぐれないのですが、楽しみにしていたクリスマスパーティーへの招待を断ってでも、翌日のボランティア活動を優先しました。また、約一年間、九州に出稼ぎに行っていたAさんとSさんは、その期間、何度か清掃活動に参加するために東京に戻ってきました。Jさんは妊娠中も、そして出産後には赤ちゃんを連れて参加していました。今回表彰された8名は、ほぼ最初の時から活動を続けている人達でした。

いつの間にか彼らは、台風の翌日には、朝早くから神社とその周辺の様子を見に行き、「自分の町」の樹木や道路の様子を案ずる存在になっています。そして、「ウガンダ人の清掃ボランティア活動」は、「ウガンダ人」に限らず、かつてJICAでウガンダに滞在したことのある高等学校の先生、区議会議員さん、地域の警察署の方々、新聞記者さん、そしてそのご家族をも巻き込んで、その活動の輪が広がっています。

ただ黙々と草を抜き、落ち葉を集め拾い、建物と水回りを清める作業が、時間の経過の中で、人を、社会を、静かにそして確実に変えて行っているように感じています。

相談員
大迫こずえ

福島の地からカリタス南相馬 第22回

社会福祉法人 南相馬市社会福祉協議会
鹿島区福祉サービスセンター 所長 佐藤清彦

同じ南相馬市の“仲間”として!!

南相馬市は、東日本大震災をはじめ、これまで3回の大きな災害に見舞われていますが、そのたびにカリタス南相馬の皆さんには、南相馬市社会福祉協議会(以下「社協」)が開設する災害ボランティアセンター(以下「災害ボラセン」)にいち早く駆けつけていただき、組織的な支援活動を通じて多くの市民を助けていただきました。私自身も苦しい時や困った時、カリタスさんの象徴ともいうべき鮮やかな“黄色いベスト”を見て勇気を頂いてきました。(特に、所長の南原さんの行動力とお人柄にはいつも元気をもらっています。)

災害時にニーズが集中する被災者宅の片づけ支援のみならず、その後の被災者宅の訪問や地域の集会所等でのサロン支援など、多くの市民に寄り添った多様な活動を継続いただいています。その一つ、社協が主催する被災者向けの交流事業等では、メンバーさんやボランティアさんによるステキな演奏会やアトラクションなどを度々ご披露いただき、癒しの場の創出と被災者同士の交流の促進につながっています。その多彩な活動とネットワークの広さ、そしてプロフェッショナルな技術にはいつも驚かされます。

2022年4月に発生した福島県沖地震災害では、カリタス南相馬さんとの共同による災害ボラセンの運営を行いました。初めての“共同運営”でしたが、主に屋根のシート張りなどの特別な技術を有するボランティア団体及び、被災者(依頼者)のニーズ調整全般を担当いただきました。災害ボラセンのなかでも中核の業務を、常に“被災者ファースト”で被災者に寄り添った対応をしていただき感謝しています。現在もこの協力関係は継続しておりますが、次の災害に備えた取り組みとして今年3月に「災害時における協力に関する協定」を結びました。今後、災害ボラセン設置訓練や市民を対象とした防災プログラムの実践、行政や関係団体との連携会議の開催など、年間を通じて組織の担当者同士が顔の見える関係を強化する取り組みを共に推進していく予定です。

今や災害は忘れた頃ではなく“忘れないうち”にやってきます。大きな災害を経験した私たちは日頃の活動の充実が災害時の助けにつながる大切さを肌で実感しました。しかし、時間の経過とともに人々の意識が薄れていくことも事実です。これからもカリタス南相馬の皆さんと、お互いが持つ機能や社会資源の連携を深め合い、同じ南相馬市の“仲間”として有事だけの連携ではなく、普段から市民の幸せ(ふくし)のための協働の取組みを増やしていきたいと考えていますので、今後ともよろしくお願いいたします。

カリタス東京通信 第5回

新たな出発
カトリック東京正義と平和の会 齊木登茂子

2021年8月8日付で菊地功大司教より『「カリタス東京」設立準備について』というお知らせが発表されました。それにより、2021年12月末日で福祉委員会、部落問題委員会、平和旬間委員会、災害対応チーム、正義と平和委員会は、解散し「カリタス東京」として「再編」されることになりました。

私は、正義と平和委員会の一員としてここ数年活動していましたので、現状をご紹介したいと思います。しかしながら、正義と平和委員会の活動では新人の立場ですので、歴史を知る大倉一美神父から資料を頂きました。

1990年9月に東京正義と平和委員会は設立されましたが、これは遡ること1967年、教皇パウロ6世が回勅「ポプローム・プログレッシオ」において呼びかけられた「正義と平和委員会」設立の精神に従って、カトリック東京大司教区の機関として設立されたとあります。

以来、2021年12月まで31年にわたり「教会の内外に正義と平和の運動を訴え、理解を得る努力」をして来ました。これからは、「カリタス東京」と連絡を取りながら一グルーブとして「カトリック東京正義と平和の会」の活動をしていくことになりました。

31年間ずっと正義と平和委員会のメンバーだった方々は高齢になりましたので、若いメンバーを募りこの活動を続けて行こうと頑張っているところです。この春、早速新しい若いメンバーが加わってくれたことで、6月3日には第一回目の学習会が計画されました。

14時から麹町教会のヨセフホールでダニー・ネフセタイ氏のお話を聞きます。この方は、イスラエルに生まれ、兵役を務めた後に日本で暮らしている方で「国のために死ぬのはすばらしい?」というご著書もあります。8月の平和旬間の時期にも「平和を考える」ライブを企画しています。また、今年は関東大震災から100年ということで、当時起きた惨い事件の勉強会も企画しています。日常的には、メンバーの一人一人が教会外の市民グルーブと繋がり、「原発」「冤罪」「憲法」「沖縄」「ハンセン病」「死刑」など多くの社会問題について考え、学び、発信しています。教皇フランシスコが回勅「兄弟の皆さん」で発信してくださったことは、教会の中で「祈り」以外の活動をしている一見異端の私たちを励まして下さいました。
愛の実践を具体的に行うことが出来るよう私たちのグルーブに参加してみませんか?

毎月第二月曜日の夜、四谷で例会をしています。平和を求める方でしたらどなたでも歓迎です。どうぞ、お声かけ下さい。いつでもお待ちしています。

活動に関心のある方は、カリタス東京事務局
電話:03-6420-0606
E-Mailまでご連絡ください。

「アルテンベルクの光」

オンラインを通じて共に祈る

毎年5月1日、ケルン教区では、ケルン郊外にあるアルテンベルク大聖堂にて、ヨーロッパの和解と一致を願う「アルテンベルクの光」という祈りが献げられている。

今年の「アルテンベルクの光」のミサでは、アルテンベルクと東京をオンラインでつなぎ、ミルコ・クイント神父(東京教区ドイツ語共同体担当司祭)、レオ・シューマカ神父(東京教区ミャンマー委員会担当司祭、築地教会主任司祭)、ラズン・ノーサン・ヴィンセント神父(府中教会主任司祭、ミャンマー・カチン州出身)の他、東京在住の多国籍の信徒数名がオンラインでミサに参加し、共に祈りを献げた。

派遣の祝福の直前には、ヴィンセント神父がミャンマーの惨状を訴えるスピーチを行い、その後、姉妹教会である東京教区とケルン教区が心を合わせて、同じく姉妹教会であるミャンマーの教会のために祈りを献げた。

アルテンベルク大聖堂には東京の様子がモニターで映された。

アルテンベルクの信徒にミャンマーの現状を語るヴィンセント神父(右画面中央)

「アルテンベルクの光」の歴史(ケルン教区作成のパンフレットから翻訳)

「アルテンベルクの光」という名前は、ベルギッシェス・ラントの小さな町アルテンベルクに由来しています。かつてこの地にはシトー会の修道院がありました。1922年、その修道院の教会であるアルテンベルク聖堂を記念して、ケルン大司教区の青年教育センターが設立されました。アルテンベルクはドイツにおけるカトリック青少年活動の中心地として発展しました。アルテンベルク大聖堂やアルテンベルクの聖母は、「契約の中心」としての一体感を示す外見的なシンボルとなりました。

「アルテンベルクの光」は、第二次世界大戦の惨禍の後の1950年に、ヨーロッパの和解と平和を願うカトリックの若者のしるしとして始まりました。アルテンベルクから出発した光は、星のリレーという形で東西南北に伝えられ、ドイツの国境に到達しました。数年のうちに、この活動はヨーロッパのテーマへと発展していきました。

1960年代半ば、第二バチカン公会議が終わり、学生運動が台頭してきた雰囲気の中で、このような形の典礼の祝典はもはや若者にはふさわしくないと考えられ、「アルテンベルクの光」の祝典は廃止されました。

しかし、1980年、「アルテンベルクの光」は活気をもって再開されました。参加者は年々増え、毎年5月1日に、多いときにはドイツ内外から約3000人の若者がアルテンベルクに集まり、光を受け取り、運びました。

1987年、教皇ヨハネ・パウロ二世は、エディット・シュタインの列福の際、列福式の会場であったケルンのサッカースタジアムで光を受け取り、ミサの最後に光を送り出しました。 この画期的な大イベントで、「アルテンベルクの光」の意義は大きくなりました。20世紀末の90年代から今日に至るまで、「アルテンベルクの光」は、いくつものイベントやさまざまな場所に運ばれました。例えば、アルテンベルクの光は、1990年のベルリンのカトリケンターク(カトリックの代表者会議)(1990年)、ドレスデンのカトリケンターク(1994年)、ポーランドの国民的なマリア巡礼の地であるチェンストホヴァ、そしてアウシュビッツ強制収容所に運ばれ、マクシミリアノ・コルベ神父が囚われていた独房で今も燃え続けています。

そして、パリワールドユースデーを控えたフランスのブザンソンで行われた国際青年会議や、アルバニアのコソボ難民キャンプでコソボへの平和使節団として滞在していたドイツ兵のもとへ(1999年)、ローマでのワールドユースデー(2000年)、そして2002年には聖地エルサレムにも運ばれていきました。

しかし、その逆の動きもありました。重要な場所で灯りを灯し、それをアルテンベルクに運ぶという動きです。例えば1993年、リトアニアのナショナル・ユース・デーの一環として、ケルン大司教区のパートナー教区であるカナウスとヴィニュスの若者たちによってアルテンベルクまで灯りが運ばれました。

2005年、ベツレヘムからアルテンベルクにやってきた光は、ケルンのワールドユースデーの十字架の前でアルテンベルクの光として送り出されました。2006年、その光はワールドユースデーの考案者である教皇ヨハネ・パウロ二世の墓に灯されました。「アルテンベルクの光」は、多くの段階を経てきたのです。

2020年は、パンデミックの影響で「アルテンベルクの光」を祝うことができず、翌年は主にデジタルでの開催となりました。2022年にはようやく、マスクをしながらとはいえ、満員の大聖堂で再び光を送ることができました。今年、私たちはようやく、祝祭でお互いの顔を見ながら、希望と自信のしるしを光とともに世界に運ぶことができるようになることを楽しみにしています。

アルテンベルクの光は、ドイツ、ヨーロッパ、そして世界中の若いキリスト者の一体感の証なのです。

「アルテンベルクの光」のパンフレットとロウソク。ロウソクはケルン教区から東京まで送っていただいたもの。

ミャンマーの教会に想いを寄せて

ミャンマーの内戦はいまだ終息の手がかりさえ見えず、多くの民間人が犠牲となる痛ましいニュースが続く。そんな内戦状態のミャンマーでも、子どもたちの未来を守るために活動し続ける人々がいる。東京教区ミャンマー委員会担当司祭のレオ・シューマカ神父より、そんな希望のエピソードの一つを紹介していただいた。

希望の種
レオ・シューマカ神父

2020年、マリノ神父は彼の叙階25周年記念のお祝いを心待ちにしていました。ミャンマー東部のロイコー教区の司祭として、彼はタイ国境からそう遠くない小教区で働いていました。しかしながら、最初にコロナ・パンデミックが、そして2021年の2月には軍によるクーデターが襲ってきました。彼の住む小教区は紛争地帯となりました。道路を制圧するための地上戦だけでなく、飛行機による村への空爆も行われました。

人々は家を捨てて、ジャングルの奥深くまで逃げなければなりませんでした。教会による支援とマリノ神父のリーダーシップのおかげで、彼らは仮設住宅を作り、緊急食糧支援を受けることができました。やがて彼らは、子どもたちに教育を提供するという課題に取り組むことになりました。彼らは、竹、木、そしてビニールシートを使って、幼稚園、小学校、そして高校のための簡素な建物をいくつか建てることができました。新しい学校の名前は「春」に決まりました。「春は種が芽吹き、人々が家族を養うために作物を植える新しい生命の季節だから」と、マリノ神父はわたしに語ってくれました。村人たちは、たとえジャングルで避難生活を送っていても、子どもたちが希望を失わず、勉強を通して成長してくれることを願っています。

このような困難な状況の中で多くの人々が示す献身と勇気が、私たちの「希望の種」プロジェクトのインスピレーションとなっています。カトリック教会の支援によって、ミャンマー国内の紛争地域に400以上のコミュニティスクールが設立されています。彼らはわずかな資源で子供たちを教育し、未来への希望の種を蒔いているのです。わたしたちは、学用品やボランティアのための資金を提供することで、ミャンマーの地域社会の中で希望の種が成長し、実を結ぶのを支援することができます。

東京大司教区では、過去2年間、ミャンマーのために特別献金を募り、そのお金は多くの国内避難民を助けるために使われてきました。わたしたちは、教会のリーダーたちから、これらの新しい学校が開かれ続け、多くを失ったこれらの人々に希望をもたらすことができるよう、関心を持ち続けることを求められています。5つの異なる教区と良好な関係を持つことで、わたしたちの寄付によって、できる限り多くの子どもたちを助け続けることができるのです。

今、マリノ神父は新しい場所に移り、子どもだけでなく大人のための新しいコミュニティ教育センターを建設するよう、再び人々を励ましています。マリノ神父にとって「春」とは、ただ季節のことを指すのではなく、キリストが私たち一人ひとりに約束してくださる新しい命への信仰を意味する言葉なのです。

マリノ神父は叙階25周年を祝うことはできませんでしたが、55歳の誕生日を「春」の学校の子どもたち全員と祝うことができました。

セメントを流して土台作り

竹の皮を編んで壁を作ります

木を切り出して柱にします

形になってきました

ビニールの屋根をかけて完成!

「春」の学校の生徒たち(プライバシー保護のため、画像を加工しています)

シノドスの歩み 現状の報告

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

2021年の秋から、シノドスの取り組みをしてきました。いろいろなことを考え、いろいろな話し合いを重ね、いろいろな方々にお目にかかり、クマちゃんと動画を撮りながら、過ごしてきました。
今までの小さな歩みを振り返りながら、「得たもの」、「足りなかったもの」をハッキリとさせてみたいと思います。こうして、10月に開催される「世界代表司教会議 第16回通常総会 第1会期」に向けた準備としましょう。

得たもの

シノドスへの取り組みは、本当に何も分からないところからスタートしました。第二バチカン公会議の公文書を読み直し、東京教区の公会議後の半世紀におよぶ歩みを振り返り、そしてわたしたちの教会が直面している現実を見据えた取り組みをしてきた結果、今、分かってきたことは次の三つのことです。

1.シノドスとは、言葉の成り立ちにあるように「ともに歩む」ことです。ですから、「ともに歩む」教会とならなければいけません。

2.「ともに歩む」ためにどうしても必要なのは「集い」であり「交わり」です。「交わり」を築いていくためには「分かち合い」がやり方、すなわち方法論として欠かせないと思います。

3.「分かち合い」を重ねることで、信仰の共同体が体験するのは「共同責任」と「共同識別」です。こうして、信者の共同体はキリストの背丈にまで成長する「自己形成」を体験します。

東京教区全体を眺めてみますと、1については理解が浸透しました。特に日本のカトリック教会が、この半世紀「ともに歩む」教会であろうと努力してきた実りだと考えます。

2については「分かち合い」ができる共同体とそうではない共同体の区別が生まれつつあるようです。しかし、この数年におよぶ、いわゆる「コロナ禍」によって社会も、教会も「交わり」が薄らいできたのは確かです。これからは、ミサを中心にすえながら「交わり」の教会をさらに豊かに作りあげたらよいでしょう。

3に関しては、何らかの「分かち合い」ができている信仰の共同体は、なんとなく気がついているように思います。2020年に発表された『東京教区宣教司牧方針』は、この「共同責任」、「共同識別」、「自己形成」を目指してのことだったのです。

足りなかったもの

それでは、「足りなかったもの」について考えてみましょう。

1.神のみ言葉からのアプローチ。シノドス的な教会のすばらしさを聖書の言葉から引き出すことが弱かったように思います。聖書には教会のすばらしさを示す様々な言葉が散りばめられています。聖書に基づいて、聖霊の働きの中で神の言葉からインスピレーションを受けて教会の「シノドス性」を深めていくアプローチはまだまだ途上にあるように思います。しかし、世界各地のカトリック教会も同様なチャレンジに直面しているように見受けられます。

2.典礼。シノドス的な教会のすばらしさを表すのは「典礼」です。言い換えると「ミサ」です。「ミサ」のおかげで教会は「交わり」としてあり続けるのです。「典礼」が大切であることは理解しつつも、それが、どうしたらもっと「ともに歩む」教会を表すものになるかはまだハッキリとしていません。この点は、これから開催される第一会期のテーマになるかもしれません。

3.ミッション。「宣教」とも訳されるこの言葉は、わたしたちの教会がもっとも大切にしているものです。神さまのことを伝えるだけがミッションではありません。キリスト信者の一人ひとりが自分の人生を生きるとき、その生き方を通じてミッションをします。その点でわたしたちは宣教者なのです。現代世界においてなされるミッションの多様な姿が深められていくことを期待したいです。

最後に、東京教区はシノドスへの取り組みを教区全体の行事としては行いませんでした。また、シノドス的な教会を実現していくために先導となるようなリーダー、あるいはファシリテーター(調整役、推進者)の養成もしませんでした。
この点について東京教区シノドスチームへの批判も頂きました。しかし、催し物や人材養成では対応しきれない社会の複雑な現実と、信仰の共同体である小教区共同体が直面する困難があります。人材の発掘と育成だけでは「ともに歩む」教会は実現しないとシノドスチームは判断しました。

シノドスのロゴマークが示すように、老いも若きも、男性も女性も、社会の少数者も、奉献生活者(修道者)も聖職者も、さらにはまだキリストの福音を知らない人も、「ともに歩む」のが教会です。その歩みはゆっくりとしたものであったとしても、「向かう途上」で数知れない出会い、対話、分かち合い、交わりが生まれると、わたしは信じています。

現代社会には「排除の論理」が横行しています。しかし、どんな方でも隣人として、キリストの兄弟姉妹として受け入れる教会を目指して、今回の「世界代表司教会議 第16回通常総会」は開催されるのです。それぞれの信仰の共同体を通じて、また、お一人おひとりの祈りを通じて「シノドス」に参加していきましょう。

第67回カトリック美術展開催

5月19日から5月24日までの6日間、有楽町マリオン11階の朝日ギャラリーにて「第67回カトリック美術展」が開催され、5月23日にはカトリック美術協会会長を務める菊地大司教も開場を訪れた。開場には展示作品の作者も数名在廊。菊地大司教は作者たちから直に解説を受けながら、作品を鑑賞した。

48点の出展作品は、油彩画だけではなく、水彩画、日本画、フレスコ画、鉛筆画、刺繍、写真、木彫、ガラスモザイク、ステンドグラスや陶芸など、ジャンルも多岐に及んだ。いずれも「会員たちはその作品を通じて美を愛し、神を讃える心で制作に励」んだ(美術展パンフレット)賜物である。

同展を主催するカトリック美術協会は、1930年、ヘルマン・ホイヴェルス神父(イエズス会)の指導の下、「カトリック信仰生活の造形的表現を目的とした宗教美術の団体」として創立された。カトリック美術展も0931年に第一回が開催され、1970年代には一時活動を中止していたものの、今年で67回を数える伝統ある展覧会である。

次回のカトリック美術展は2024年5月17日から22日に開催されることがすでに決まっている。今年足を運ぶことができなかった方も、来年こそは芸術を通じて表される神への愛を堪能していただきたい。

「初聖体を受けて」
作:田中 玉紅 作者は桜の絵で知られる著名な日本画家である

「ひかり地に満ちて」
作:Sr.浦田 カズ代 Sr.浦田は元東京純心大学学長で、現代のカトリック画家の第一人者でもあり、毎年個展を開催している

「五島巡礼」
作:菊地 徹夫 作者の菊地氏は菊地大司教の御父上である

「その声に聞き入る弟子」
作:安藤 眞樹 和紙に墨で描かれた作品

「聖母子」
作:大野 訓子 作者はカトリック美術協会事務局長。昨年に続いて聖母子像を描かれた

出展された作品を祝福する菊地大司教

作者の解説を受ける菊地大司教

訃 報 フランシスコ・ザビエル 坂倉 恵二神父

東京教区司祭、フランシスコ・ザビエル坂倉 恵二神父が、5月17日(水)午後2時54分、中咽頭癌のために、千葉寺教会内の居室にて帰天されました。享年71歳でした。どうぞお祈りください。

葬儀ミサ・告別式は5月22日に東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われました。納骨式の日程は追ってご連絡いたします。

【略歴】

1951年12月17日 北海道室蘭市に生まれる。
1970年3月28日 北海道・室蘭教会にて受洗
1984年3月11日 司祭叙階(東京カテドラル)
1984年4月~1985年4月 西千葉教会助任
1985年5月~1989年5月 真生会館付
1989年5月~1993年4月 荻窪教会主任
1993年4月~1996年4月 喜多見教会主任
1996年4月~2000年4月 あきる野教会主任
2000年4月~2003年4月 中央協議会付
2003年5月~2006年3月 清瀬教会主任
2006年4月~2009年3月 五井教会主任
2007年4月~2009年3月 鴨川教会(五井教会兼任)
2009年4月~2012年3月 習志野教会主任
2012年4月~2016年3月 成田教会主任
2016年4月~ 病気療養(千葉寺教会居住)
2023年5月17日 帰天

編集後記

出会いは出会いを生み、交わりは交わりを生む。同じ友人がいる、それだけで話は弾み、心の壁は取り払われるものだ。

そして今日も、イエスは「わたしはあなたたがたを友と呼ぶ」とわたしたちに呼びかけている。

「イエスを通じてあなたと出会えました」

「あなたを通じてイエスと出会えました」

そんな出会いがたくさんたくさん、生まれていきますように(Y)