お知らせ

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東京教区ニュース第401号

2023年04月07日

司祭叙階式ミサ 6名の新司祭が誕生

司祭団の按手を受ける受階者たち

3月21日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて東京教区司祭叙階式ミサが行われた。

今年の叙階式は「修道会も是非ご一緒に」という菊地大司教の呼びかけを各修道会が快諾し、東京教区、コンベンツアル聖フランシスコ修道会、聖パウロ修道会、そしてレデンプトール修道会合同の司祭叙階式となり、一挙に6名の新司祭が誕生する運びとなった。

説教の中で菊地大司教は「交わりによって深められたわたしたちの信仰は、わたしたち一人ひとりを共同体のうちにあってふさわしい役割を果たすようにと招きます。交わりは参加を生み出します。一人ひとりが共同体の交わりにあって、与えられた賜物にふさわしい働きを十全に果たしていくとき、神の民は福音をあかしする宣教する共同体となっていきます」と述べ、わたしたちは、共同体の交わりの中でそれぞれの召命へと招かれていくことを説いた。

この日司祭叙階の恵みを受けた6名の新司祭は下記の通り。

東京教区
フランシスコ・アシジ 熊坂 直樹(くまさか なおき)師
フランシスコ・アシジ 冨田 聡(とみた さとし)師

コンベンツアル聖フランシスコ修道会
大天使ミカエル 外山 祈(とやま あきら)師
テモテ・マリア 中野里 晃祐(なかのり こうすけ)師

聖パウロ修道会
ペトロ岐部 大西 德明(おおにし とくあき)師

レデンプトール修道会
フランシスコ・アシジ 下瀬 智久(しもせ としひさ)師

教区ニュース5月号には、新司祭6名全員の喜びの声を掲載予定。ご期待ください!

※司祭叙階式ミサと叙階直後の新司祭インタビューの映像はこちらからご覧になれます。

連願が歌われる中ひれ伏す受階者たち

新司祭による祝福。左から中野里師、外山師、熊坂師、冨田師、大西師、下瀬師

CTIC カトリック東京国際センター通信 第266号

英語司牧チームによる黙想会

日本で生活しているフィリピン人カトリック信者にとって、四旬節の黙想会で祈りの時をもったり、聖週間をいつもと違う特別な仕方で過ごしたりすることが、故郷にいた時よりも難しいのは確かです。そんな中で、今回CTICの英語司牧チームとして黙想会を実施し、参加者と共に私も祈りの時を過ごすことができたことは恵みでした。黙想指導はCTICのエドウィン・コロス師で、テーマは「ご自分の使命を受け継ぐようにとのイエスの呼びかけ」でした。黙想会は山中湖畔のサレジアンシスターズの修道院を会場として、2泊3日で行われ、32人の参加がありました。参加者の多くは日本人と結婚しているフィリピン人女性でしたが、妻と一緒に参加した日本人の夫もおられました。富士山と山中湖の素晴らしい景色もあり、霊的にもとても満たされる黙想会となりました。朝の7時から夜の10時まで、一日のスケジュールが決められていました。また、エドウィン神父様は、黙想会の間は、食事中でも沈黙を守るように求められました。フィリピン人の私たちのようなグループは話し好きであり、参加者の中にはこうしたルールのある黙想会に参加するのが初めての人も少なくなかったので、私は少し心配でしたが、3日間過ごすうちにだんだん慣れたようでした。もっとも、言葉で話さなくても、アイコンタクトやジェスチャーでやり取りすることを楽しんでいたという面もあります。

食事中も沈黙を守る参加者

参加者全員が熱心に講話を聴き、朝・晩・寝る前の祈り、ロザリオ、十字架の道行、聖体賛美式、食事の時の祈りといった機会には積極的に役割を勤めました。これらの活動にもオンラインのアプリが役に立ちました。黙想の時間の後には少人数のグループに分かれての分かち合いがあり、結婚生活や子どもたちとのかかわりについて、また社会の中で、教会の中での体験をそれぞれ体験している困難について分かち合いました。 参加した皆が、期待していた以上の実りを頂いたように思います。そして日々の生活の中にもこのような機会を持つことの必要を改めて感じました。

奥山マリア・ルイサ
CTICスタッフ

CTICからのお願い

入管収容施設におられる方々にとっての数少ない気晴らしはわずかな時間許される屋外での運動、特にみんなで行うサッカーです。そのための運動靴のご寄付をお願いできませんでしょうか。希望サイズは26センチ以上で、なるべく新しいものでお願いします。目標は7足です。 CTIC(電話03-5759-1061 シスター木口)までお問合せください。

カリタスの家だより 連載 第151回

エランの庭仕事

子どもの家エランは、けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会の修道院を譲り受けて6年前に誕生した児童発達支援事業の支援施設で、3歳~6歳のお子さんが通所しています。建物はリフォームされ、教室、子ども用と多機能トイレ、洗面台、職員室、会議室、図書室などが作られましたが、お庭は予算の関係もありそのままの状態でした。塀に沿って大きな植え込みの木々、大きな庭石があり、草はボウボウで園庭は小石がごろごろしていました。私は小石を取り除いて子ども達が裸足でも走り回れるような芝生を植えたいと思い施設長と相談しました。そんな時に私と一緒にボランティアで作業をしてくださったのが佐久間瑠美子さんでした。

高円寺教会の信徒さんで、「退職したらボランティア活動をしたい」と考えていた佐久間さんは、ちょうど東京教区ニュースの「カリタスの家だより」を読んで子どもの家エランが荻窪に開所することを知りました。「ここなら家から近いので無理なくボランティアができる」と連絡をしたところ、仕事内容はお庭の整備と聞き、「ガーデニングが大好きなのでこのボランティアならできる」と思ったそうです。

しかし、最初はガーデニングではなく園庭を芝生に変える作業でした。4月から6月は庭の小石の撤去作業が続きました。週1回2時間の作業ですが、毎回「小石をふるいに掛けて取り除き裏庭に運ぶ」ことの繰り返しです。腕も腰もクタクタになります。その次の作業は芝生の植え付けの下準備です。砂と肥料を混ぜたもので表面を平らにします。そして最後に40センチ四方の芝生200枚を敷き詰めて隙間に砂を入れて完成です。梅雨の時期を過ぎ、青々とした芝生の新芽が出てきたときは安心しました。広い園庭を全面芝生で覆うためには3年の年月がかかりましたが、でき上がった芝生を飛び回る子ども達を見たときは心から嬉しく「乾杯!」と祝杯をあげたい気分でした。

現在は、お庭の木の剪定、雑草取り、芝生の手入れのほかに教室の前に小さな畑を作り季節の野菜を栽培しています。夏はきゅうり、なす、トマト、ピーマンが実り、秋にはサツマイモの芋掘りをします。冬は、大根、小松菜、春菊、にんじんなどを植えて収穫を楽しんでいます。通園しているお子さんのお母様からお声を掛けられて「ピーマンは大嫌いでしたが、エランの畑で自分が収穫したピーマンを食べてから好きになったみたいです」「お芋掘りで持ち帰ったサツマイモをおかわり、おかわりで大変でした」などのお話を聞いて「自分で育てて収穫する体験」の素晴らしさを実感しています。

佐久間さんは「このお庭で作業できることに癒やされています。自然を相手にしているので何も悩むことはないし、子どもの喜ぶ姿に出会うことも嬉しいです」と話されます。 春の訪れとともに子ども達が植えたチューリップのお花が次々と咲いてきます。エランの入り口にある花壇にお花の名前を書くようにしたので、それを楽しみに散歩している方にも出会います。これから夏に向けて雑草も元気を増してきますが、ボランティア仲間と一緒に子ども達に負けないように元気に活動を続けていきたいと思っています。

子どもの家エラン
ボランティア 鳴海京子

カリタス東京通信 第3回

愛の奉仕の活動団体・グループの現状について

事務局 小池 四郎

カリタス東京の大きなミッションとして教区内の愛の奉仕の活動団体・グループのネットワーク化が掲げられています。神のいつくしみと愛を証している業は様々ありますが、カリタス東京では、社会福祉、正義と平和、人権といういわゆる社会司牧全般に焦点を当て、これらの活動に従事している団体・活動グループを現状把握することから活動を始めました。

現在把握している範囲では、教区内にはカトリックの精神を起源とする社会福祉法人、NPO等が運営している福祉施設が約70カ所、小教区内には53グループ、小中高等学校では14グループが活動しています。小教区の活動グループに関しては、まだアンケートに回答いただけていないグループもあると考えています。

さて、現在把握している範囲でどの様な分野でどの様な活動がなされているかについて分野毎に述べていきたいと思います。カリタス東京では活動分野を、①ホームレス・生活困窮者、②子ども・女性、③障がい者、④高齢者、⑤滞日外国人、⑥海外支援、⑦正義と平和・人権・その他の7つに分けています。

ホームレス・生活困窮者支援では、山谷地区で長期間にわたりホームレスへの医療・看護・食事・住居等を提供し続けている修道会・NPO・任意団体があり、これらの団体を支援する多くの小教区・学校のグループがあります。また、小教区には地域のホームレスに食料を配布する等の直接支援をしている、単独あるいは教会横断的な複数のグループがあります。さらに、フードパントリーを行政と組んで自ら実施する、あるいは、行政の支援に対して食料備蓄・配布のための場所の提供や食料品を提供するグループがあります。シングルマザーへの支援では、子ども食堂を直接設置する、あるいは、既存の地域の子ども食堂に食品を提供しているグループがあります。ホームレスの方にシェルターを提供しているグループもあります。

次に、子ども・女性への支援ですが、子どもに関しては社会福祉法人が運営する乳児院・児童養護施設が中心となっています。戦前、終戦後から、修道会や信徒の篤志家が結核患者等の子弟や戦災孤児の養育を長く担ってきました。現在でも、これらの乳児院・児童養護施設が子ども達の養育に携わっています。また、青少年の自立を支援する施設の運営、DVから女性を守るシェルター設置や啓発活動を行う団体が複数活動されています。

障がい者に関しては、成人・児童各々を支援する社会福祉法人、公益財団法人、NPOが居住型や通所型の施設を運営しています。地域の基幹施設となっている例も複数あります。また、この分野では点字図書館や障がい者が自ら結成した団体もあり、小教区にも手話等で障がい者を支援するグループがあります。

高齢者については、老人ホーム、デイケアを提供している社会福祉法人が複数あります。

滞日外国人支援としては、教区の組織や子どもの教育に携わる団体があり、小教区にはこれら団体を支援したり、自ら日本語教室等で外国人を直接支援したりしているグループがあります。海外支援に関しては、小教区や学校で様々な地域に対する支援が行われています。

この他にも、病院等の医療機関やホスピスを運営している医療法人・福祉法人や薬物依存者の回復、受刑者の社会復帰のための通所型・居住型施設の運営、困難を抱える若者の生活支援、心理カウンセリングを行っている団体があります。正義と平和、人権に関してはこれまでの教区の組織に参加していた方々が団体として活動を継続しており、また、小教区の活動グループもあります。 今後、カリタス東京では様々な方法で愛の奉仕を行っている団体・グループの活動を紹介し、抱える課題や将来への展望を教区内で共有して、多くの信徒の方が愛の奉仕の活動に何らかの形でかかわるきっかけを作っていければと考えています。

福島の地からカリタス南相馬 第20回

カリタス南相馬スタッフ 佐藤 久絵

「和みサロン眞こころ」のあゆみ

東日本大震災は広い範囲に被害を及ぼしましたので、地域によってそれぞれの大変さがあったと思います。私が住む南相馬市は3つの市と町が合併して間もない5年後に震災が起き、一つにまとまることが課題だった中、震災でまた3つに分けられてしまったようでした。そのような中「和みサロン眞こころ」は、津波の被害にあった同じ地区の人たちによって立ち上げられました。被災者が被災者を支えるという形はとてもめずらしく、とても大変ではあるものの、気持ちが分かるという点では重要なことではなかったでしょうか。

震災の年の6月から鹿島区でサロン活動にむけて動きが始まり、8月に寺内第一仮設住宅の集会所で「和みサロン眞こころ」が開かれました。9月には牛河内第一仮設住宅集会所に2か所目のサロンが、10月には角川原仮設住宅集会所で3か所目を開かれました。 「和みサロン眞こころ」を始めた頃は、災害でのショックと仮設住宅という住まい環境の中、笑顔もなくただ日々が過ぎていくようでした。しかし、同じような苦労をした人達の集まりだったことから、お互いを支え合い、時には励まし合うことで前を向いて進めるようになりました。「和みサロン眞こころ」は、前に進む力を皆で出し合える場でした。

2015年9月にはサロン活動も4年が経ち、生活が落ち着きを取り戻しつつあったことから、仕事をしている人が多く住んでいた角川原仮設住宅集会所サロンは終了。続いて牛河内第一仮設住宅集会所サロンも終了しました。2017年6月にほとんどの仮設住宅が閉鎖されたことで、寺内第一仮設住宅集会所サロンが終了になり、それに伴いカリタス南相馬のホールをお借りして「和みサロン眞こころ」をカリタス南相馬で開くことにつながりました。

東日本大震災から12年を迎えて

仙台教区震災犠牲者追悼・復興支援ミサ

東日本大震災発生から12年目の3月11日、仙台教区カテドラルにて、東日本大震災犠牲者追悼・復興支援ミサが行われた。ミサは、ガクタン・エドガル仙台司教と、震災発生直後から2年間、仙台教区サポートセンター(サポセン)事務局長として復興支援に携わった成井大介新潟司教の司式によって行われた。 共同司式は小野寺洋一神父(仙台教区)と、シャール・エメ・ボルデュック神父(ケベック外国宣教会)。

小野寺神父は成井司教の後任としてサポセン事務局長を長く務めた。また、エメ神父と同じケベック外国宣教会に所属していたアンドレ・ラシャペル神父は、震災発生直後には仙台に滞在していたものの、周囲の制止を振り切って当時の任地である塩竈市に車で戻る途中に心臓発作で帰天し、震災関連死の認定を受けている。

成井司教は説教の中で、震災直後に平賀徹夫仙台司教(現仙台教区名誉司教)が打ち出した「新しい創造」という言葉に触れながら、「12年前に起こったことはそこで終わるものではない。『新しい創造』はある瞬間起こってそれで終わりなのではなく、日々続いていく」「わたしたちの復興とは、ともに歩む、ともに生きる、ともに希望を持つこと。そこに期限はない」と述べた。

左から、エメ神父、成井司教、ガクタン司教、高木助祭

3人の司教、東日本大震災を語る

上記の通り、成井司教は東日本発生直後から2年間、サポセン事務局長として復興支援の最前線で活動していた。現在仙台司教として「新しい創造」をリードするガクタン司教も2014年1月から2017年の3月まで岩手県の大船渡教会に派遣されていた(東京教区ニュース第389号参照)。さらに、菊地大司教も、カリタスジャパン責任司教として長い間カトリック教会の復興支援の指揮を執り、被災地である岩手県宮古市の出身でもある。

東京教区ニュースでは、東日本大震災復興支援に深く関わった3人の司教に、それぞれの想いを寄せていただいた。なお、成井司教にはZOOMによるインタビューという形でお話をうかがった。


あの時を振り返りながら

東京大司教 菊地 功

人生の中で、その日その時、どこで何をしていたのかをはっきりと記憶している瞬間は、それほど多くはありません。時間の経過と共に、記憶は適度に修正され、細部は曖昧になってしまいがちです。それでも明確に記憶に刻まれている瞬間はあります。2011年3月11日の午後2時46分からの出来事は、まさしくそういった記憶に残される出来事であったと思います。

わたしはその日、秋田の聖霊短期大学の卒業式に出席して、昼過ぎの特急で新潟へ戻る途中でした。被災地とは背中合わせの日本海側、山形県の鶴岡に間もなく到着という少し手前で、電車は急停車し、それからJRが手配した代替のバスが到着するまで五時間、余震で揺れる電車の中で、一体何があったのかと途方に暮れていました。大きな地震があったことはすぐに分かりましたが、しばらくすると携帯の電波が途絶え、詳細は分かりません。バスに乗って新潟の司教館に到着したのが深夜零時を回っていました。世界各地のカリタス関係者から、大量のメールがパソコンに届いていました。朝まで寝ることなく、情報の収集とメールへの回答に追われたことを記憶しています。

岩手県はわたしの故郷ですし、津波に襲われた宮古市は、わたしが生まれ、洗礼を受け、幼稚園時代を過ごした懐かしい町です。震災発生から一ヶ月が経って、4月9日に、同じ岩手県出身である新潟教区の坂本耕太郎神父様を伴って、宮古まで出掛けました。地元の幼なじみに伴われて出掛けた、田老の港町での衝撃は忘れません。歴史の中で何度も津波に襲われた田老の町は、万里の長城とまで言われた巨大な防潮堤に囲まれていました。そのコンクリートの塊が見事に打ち砕かれて、破片が港の中に転がっているのを見たときに、自然の力の巨大さを感じました。その港を見下ろす丘を挟んで反対側の海の中に、三王岩という高さが50メートルほどの壁のような岩がそびえています。その岩は、津波にあってもびくともせずに立ち続けていました。この時ほど、人間の知識と技術の限界を感じたことはありません。すべての創造主である神の前で謙遜にならなくてはならないと思ったことはありません。

被災地の方々のこの12年は、そこに実際に生きていない「よそ者」であるわたしたちからは推し量ることのできない複雑なものであったと思います。愛する人を失った方の悲しみと苦しみはいかばかりだったでしょう。

その三月末、司教会議の決定を受けて、援助を担当するカリタスジャパンの責任者に加え、司教団の復興支援室担当として全国の教会の支援活動を統括する役割を担いました。わたしは実際には現場に出ない裏方ですが、現場で働かれた方々は大変な思いをされたことだと思います。同時にその体験は、かけがえのない出会いも生み出したと信じています。当初から、国内での大規模災害への対応体験がなかった日本の教会にできることは限定的だと想定されました。しかし、現場のみなさんは想定以上の働きをしてくださいました。教会は、大きな花火を打ち上げることよりも、「忘れられた」という思いを抱かれる方がないように、じっくりゆっくりと、一緒に歩むことを当初から心掛けてきました。考えてみれば、いま教会が歩んでいるシノドスの歩みは、あのときからいまに至るまで、東北の地で実践されてきたのです。

日本の教会は、福音宣教の実践を、東北での体験から学ばなくてはなりません。その歩みは、大切な宝です。

あれから12年 これからも新しい創造へ

仙台司教 ガクタン エドガル

2011年3月11日、あの日から、どんなに多くの方から祈っていただき、心のこもった思い、献金、物資が届けられたことでしょう。心より感謝してもしきれないほどです。

その日、その直後、仙台教区にいなかったわたしですが、前任者平賀徹夫司教と仙台教区民に代わって、まず感謝の言葉を申しあげます。

12年経った3月11日、仙台教区カテドラル元寺小路教会大聖堂において、隣の新潟教区司教成井大介司教と約160人の参列者と共にミサを捧げました。震災後、仙台教区に派遣され、復興活動に関わった二人が司教として一緒にミサを司式することを不思議に思いました。12年前のように、まず隣同士の教区長が共に祈り、悩み、これからも共に歩んでいく、そういった連帯の絆がその日のミサを通して新たにされた感じがしています。

思い起こせば、日本のカトリック教会は、災害発生直後の2011年3月16日に、仙台において復興支援のための仙台教区サポートセンターを立ち上げ、東北の被災地を管轄する仙台教区を中心にした活動を始めました。その後3月の末には、全国16の教区が一丸となって力を結集し、10年間にわたり復興支援活動を行うことを決議しました。これまで東北沿岸各地にのべ8カ所のボランティアベースを設置して、全国からのボランティアを受け入れてきました。

今、多くの人は、「12年たっているからもう復興しただろう」と思い込んでいるように感じられます。確かに、高い防潮堤は完成し、仮設住宅はなくなり、復興公営住宅は完成しています。しかし、それらの住宅が完成するまでに、若い働き手は職を見つけて他市町村、他県で就職し、家庭を築いているので、故郷に帰ってくる人は少ないのです。その上、復興公営住宅は、津波の来ない高台に建てられているのです。近所に店はありません。買物難民という言葉もあるほどです。住民のほとんどが高齢者で、新しいコミュニティを築くことができず、孤立し、孤独な状況に追いやられています。

これまで仙台教区の復興支援活動を通して生まれた絆、縁を生かし、東京や千葉から多くの人が来てくださったらうれしいです。特に、福島や、仙台教区は東北電力圏内ですが、東京をはじめとする関東圏に電力を送るために稼働していた福島第一原子力発電所の事故によって被害を受けた福島県の人々は、ぜひ、福島の現状と課題を、自分の目で見てほしいと望んでいます。

わたしは、教区長として、2014年から実施されていた地区制と呼ぶ宣教司牧体制を教区民や司祭たちの意見を踏まえた上で、その改善を決めました。新たな地区制の実施は、今年の5月からです。この改善により、各地区、各ブロックで、話し合いをすることによって、全信徒が宣教と交わりと愛の実践をどのように具体化していくかを探っていきたいと思っています。

わたしはみなさまの熱い思いと支援を受けた側として、大災害などが起こらないことを願いつつも、何か災害などが起これば、すぐ皆さんのように、あらゆる壁を超えて対応できる教区づくりを願っています。皆様から助けられ、教えられ、気づかされた教訓を生かしたいと思っています。仙台教区が3・11による苦しい道を過ぎ越すことによって新しく創造されていることを実感しています。神に感謝、みなさまに感謝。

ガクタン司教(左)と成井司教

寄り添い、共に歩み、共に生きる

新潟司教 成井 大介

―被災地に来ることになったきっかけは?
成井司教 その当時わたしは、カリタスジャパンの援助部会秘書として、主に国外で支援を行う実行担当者を務めていました。それまで、国内でカリタスジャパンが活動することはほとんどなかったのですが、震災復興支援はカリタスジャパンの援助部会が担当することなので、震災発生直後から、3月16日まで仙台教区事務局に電話をかけ続けました。3月14日頃にようやく少しずつ電話がつながりはじめ、仙台教区事務局長の小松史朗神父と約束をして、菊地功大司教(当時、新潟司教、カリタスジャパン責任司教)、谷大二司教(当時、さいたま司教)、カリタスジャパンのプログラムオフィサー、そしてわたしで仙台に行きました。

―被災地の第一印象を教えてください。
成井司教 新潟経由で山形の山道を通って仙台に入りしたため、津波の被害を受けた地域を通って仙台に着いたわけではないので、だんだんと被災した状況が見えてくるということはありませんでした。仙台市内には地震によって何かが壊れている風景もありませんでしたが、信号は全て止まっていました。その中で、車を運転している人たちは皆、全ての交差点で一回一回止まって周りを確認してからまた出発していたことを覚えています。雪が降っていて、街の灯りも付いていないので、とても静かで、色がないモノクロの世界という印象が強く残っています。

3月16日に津波の被害を受けた沿岸部を視察に行きました。すでに自衛隊の重機が入っていて、ガレキや壊れた車が道の横に寄せてあったこと、仙台では非常に早く道が通行できるようになっていたことは本当に驚きました。わたしが滞在していた直接津波の被害を受けていない仙台の中心部では、皆が「大丈夫ですか」と声をかけ合って、互いを配慮していたことが印象に残っています。

―特に印象に残っている出来事はありますか?
成井司教 印象に残っていることは沢山ありますが、とにかく大勢のボランティアの人たちが来てくれて、中でも組織的に来てくれている人たちが多かったんですね。ある病院がローテーションを組んで毎週職員を派遣してくれたり、シスターズリレーだったり。さらに、あの時、急にボランティア休暇が日本で注目されて、勤務先からボランティア休暇を取得して来た人もいました。多くの学校で新学期が始まるのが遅れたので、それを利用して来てくれる学生も大勢いました。個人の善意だけではなく、社会全体が、社会の仕組みが被災地を向いたことは素晴らしいと思いましたね。何か災害が起こったら会社ぐるみで派遣するとか、そういうことができる社会に一歩近づいたのかなと思いました。それが続いていけばいいですね。

自分は支援する側にいたので、支援してくれる人の印象がとても強いのですが、震災以前から続けている炊き出しを震災直後もそのまま続けていた地元の方々のことを思い出します。わたしのように震災後にやって来た人間のことも受け入れてくれたことがとても嬉しかったです。地元の人たちの地道な素晴らしい活動を絶対に忘れてはならないと思います。

―ボランティアの方々について印象に残っていることはありますか?
成井司教 災害直後のボランティアは寝袋と缶詰を持参してやって来るというのが普通の考え方でしたが、わたしたちは「寝泊まりする家と食事を提供します」ということを最初からコンセプトとしてやっていたのですね。「それは甘い」という意見もありましたが、災害が起こると外からやって来て、つながりも人脈もないところから活動を始めていく一般の支援団体とは違い、カトリック教会は元々そこで生きていて、家があって、そこに人脈があってという団体です。なので、教会が持っているリソースはきっちりと生かして長く関わっていこうと。それが特徴だったと思います。 そのような活動をするに当たって、「寄り添う」ということを活動の中心にしていました。2、3日交替で次々に新しい人がやって来るにもかかわらず、ベース長やシスターズリレーのシスターたちのおかげで、寄り添うことを大切にする雰囲気、カリタスベースならではの雰囲気が、どのベースでもずっと保たれていたのは大きな特徴だったと思います。つまり、どれだけ早く、沢山綺麗にしたかではなくて、共に歩む、共に生きる、共に苦しむ、共に希望を見いだす、そういうことを大切にするという活動だったと思いますよね。そして今でもそれは続いているのです。

―被災地を離れて感じたことは何かありますか?
成井司教 被災地で2年間活動した後、神言会の総本部(ローマ)で正義と平和環境担当者を務めるよう任命を受けて仙台を離れました。2年間全てを捧げてやってきたので、自分がそこにいないことは残念な気持ちでもありましたし、その後も被災地のことは気になっていました。 離れて何年か経つと、災害が大きければ大きいほど地元の人が中心になって活動するのは難しいと、特にベース長などの役職は地元の人に無理を言ってお願いしないように配慮しなければ活動を継続することはできないと強く感じるようになりました。

―コロナ禍のローマで感じたことはありますか?
成井司教 イタリアは世界で最も早く国全体のロックダウンをした国です。それだけ多くの人が感染して亡くなったということです。感染症について噂レベルの情報しか得られない点、どちらも目に見えないし、どのように気をつければいいのか分からない点で、福島の放射能災害の状態と似ているなと思っていました。それでも、自分が助けなければ死んでいってしまう人がいる場合には動くと。不確実な情報しかない、家の中にいるのが一番ということが分かっている時でも、教会は必要なところに出ていくというのは、東日本でもコロナ禍でも共通すると思います。

―今、仙台教区のお隣の新潟司教として思うことは?
成井司教 今も福島県から新潟教区に避難している方々が大勢いるので、その方々をサポートし、共に歩むことを大切にしたいと思っています。そしてこれは仙台教区サポートセンターのセンター長補佐だった小松神父がよく言っていたことですが、お隣同士、普段から仲良くしておくこと、災害についての話し合いの他、黙想会等、色々なことを一緒にする交流は大切だと思います。その意味で、今年の3月11日に仙台カテドラルの追悼復興祈願ミサに呼んでいただいたのは嬉しいことでした。

―今、被災地以外の地域で暮らす人々はどんなことを大切にすべきでしょうか?
成井司教 思い出して祈ることはとても大切だと思います。復興支援活動をする中で、沢山の人が来てくれて、献金・募金をしてくれたことと同じくらい、祈りを届けてくれたのはすごく有り難いことでした。祈る、祈られるのがとても大切だということは皆さんが感じているんじゃないでしょうか。

そして、災害はどこにでも起こるということを自分のこととして受けとめ、災害に備えてほしいと思います。災害に備えるということの中には、普段から自然を大切にして生きる、自然環境を保護するということも含まれることを心に留めてほしいです。

今もこれからもカリタスとともに

東日本大震災の復興支援は、全国からのボランティアによって支えられているが、地元の教会、地元の信徒の力がその土台であることは言うまでもない。震災発生当時から今も続いている仙台の教会、仙台の信徒による活動について、「カリタスみちのく」世話人の濱山麻子さんに、これまでの歩みを振り返りながら、今も続く活動について手記を寄せていただいた。

カリタスみちのく世話人
濱山 麻子(仙台教区信徒)

東日本大震災から12年となる今年の3月11日、仙台教区カテドラルでは4年ぶりに、制限のない形で追悼・復興祈願ミサが行われました。聖堂には仙台教区サポートセンター(サポセン)の仲間たちやボランティア活動を通じて出会った方々の懐かしい顔がそろい、その変わらない笑顔を見て、この12年の歩みを思い返していました。

私は震災後の2011年5月からサポセンで働き始めました。当時は、岩手県の釜石、宮城県の米川、石巻、塩釜に仙台教区が運営するボランティアベースがあり、次から次へとボランティア希望や物資支援の申し出や訪問がありました。「何かしなければ」「お祈りしています」と、国内のみならず全世界から寄せられる思いに、圧倒される日々でした。

月日が流れ、ベースの活動はそれぞれ独自に発展し、サポセンの仕事も、スタッフの人数も変わっていく中、それまで事務所内での仕事に専念していた私は、ベース等を訪問する機会が増えていきました。その中で、初めて帰還困難区域を通って、福島県の楢葉町を訪ねた時の衝撃は忘れることができません。2016年の夏のことだったと思います。震災と原発事故から5年も経っていました。常磐道から、生い茂る草に飲まれそうになっている家が見えました。黒いトン袋が積み重なった広大な土地も。避難指示が解除されて1年以上経った楢葉町の中心部には、学校や復興住宅が造られていましたが、すぐ近くの道路にはトラックや工事車両が走り、人の生活の気配がありませんでした。それまでに福島で活動するベーススタッフ等から現地の様子を聞いて理解していたつもりでしたが、現場に立ち、自分の目で見ることで、原発事故の影響がいかに重大なものか、初めて体感したのです。それ以来、「福島の支援をしたいのです」とサポセンに相談があると、「とにかく見に行ってください」と実感を持って話せるようになりました。

2019年、震災から10年となる2021年を見据えて、各ベースの活動の状況と展望を知るため、サポセン事務局長の小野寺洋一神父様と一緒に、岩手県のカリタスみやこ(宮古市)から福島県のいわきサポートステーションもみの木(いわき市)まで、全ベースを回ってスタッフから話を聞きました。活動の内容はそれぞれに違っていましたが、どこのベースでも、「カリタスさん」が地域の一部となって、地元の方々と一緒に歩んでいる姿がありました。菊地功大司教様の「教会は、災害の前も、最中も、後にもそこにいる」という言葉のとおり、カリタスの仲間たちはそこで生きていこうとしていたのです。

サポセンは、2021年3月で活動を終了することが決まりましたが、このままで良いのだろうかという思いが強くありました。ベースをはじめとしたカリタスの仲間たち、ボランティアさんたち、これから何かしたいと思っている方々が情報を共有し、支えあえる形を残したい。仲間たちに相談し、2021年1月の会議の中で、今の「カリタスみちのく」を作ろうということになったのでした。私はその形が残れば、安心して去っていけると思っていましたが、気づけば世話人としてかかわりを続けています。

カリタスみちのくは、オンラインでの集いを中心に、メーリングリストとSNSでの情報発信をしています。東日本大震災をきっかけに出会った私たちですが、全国各地で災害が頻発している中、情報をたくさんの方と共有し、いつでも立ち上がることができるようにしていきたいと思っています。コロナ禍も終わりが見えてきたと言って良いのでしょうか、リアルに顔を合わせられるようになってきたこれからは、現場で会う、集う機会を増やしていきたいと願っています。オンラインの「カリタスみちのくの集い」で出会ったボランティアさんからは、「早くまた東北に行きたい」「今の状況が知りたい」という声がよく聞かれました。久しぶりの方だけでなく、これまで東北に来る機会がなかった方にも、ぜひ一度足を運んでいただきたいです。現場に立ち、感じることが、いつか起こりうる災害の時に、大切な命を守るための備えにつながることでしょう。みちのくの地で、お待ちしています。 

レオ神父のケルン訪問記

レオ・シューマカ神父
教区ミャンマー委員会担当司祭

去る1月29日にケルン大聖堂にてケルン教区東京デーミサが行われ、東京教区を代表してレオ・シューマカ神父が出席した。先月号で予告したとおり、今号ではレオ神父にケルン訪問のレポートを寄せていただいた。

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1月29日の日曜日に、姉妹教会であるケルンの教会と一緒に東京デーのミサを献げた時のことです。わたしは美しいケルン大聖堂の中に立っていましたが、そこの気温はマイナス1度しかありませんでした。ミサは午前10時に始まりましたが、このドイツで最も大きな聖堂には暖房設備がありません。その日は日差しも弱く、室内は凍えるような寒さでした。ヨーロッパのゴシック建築のカテドラルでミサに与るのはこれが初めてでした。ミサが進むにつれ、わたしは高さ40メートルの天井までつながる石壁を見上げ、この壮大な大聖堂を作り上げた人々の偉大な献身と労力を感じました。数世紀の時を超えて、わたしたちは同じ信仰を共有し、わたしたちの祈りは神聖な空間に共に響いていました。

2024年は、わたしたちが姉妹教会関係を結んでから70周年の記念の年です。わたしたちがコロナ時代の「ソーシャル・ディスタンス」の後に再会し、今後の協力について話し合えたのはよいことでした。第二次大戦後、東京はケルンから惜しみない支援を受け、今は共にミャンマーの教会を支援しています。そのため、ミャンマーからマンダレー教区のマルコ・ティン・ウィン大司教とオーガスティン神父も東京デーのミサに招待されました。

熱帯の国から来た彼らにとって、ケルンの寒さは厳しいものだと分かっていたので、せめて手を温められるようにカイロを余分に持っていきました。小さなことでも互いに助け合うことができるのです。 ケルン大司教区はドイツで最も大きな教区です。500以上の小教区の他、多くの学校、大学、そして病院があります。彼らは独自のラジオ局、インターネットチャンネル、その他多くの施設を運営しています。わたしは、東京教区とは全く異なる、ケルンの教区職員の数と資源の多さに圧倒されました。しかし、ケルンの側からは、小さな教会であるわたしたちが、どのようにして大都会の東京で福音を証しできるのか、そのことに関心を持たれていたことも印象的でした。

わたしたちはケルン教区の様々な部署と何度もミーティングを行い、東京、ケルン、ミャンマーが協力し、互いに貢献できる方法について話し合いました。わたしは、出会った人々の、姉妹教会関係を続け、新しい交流の機会を見つけようという希望に勇気づけられました。 ケルン大司教区は4世紀に設立されました。ケルン大聖堂は13世紀に建設が始まり、600年の歳月をかけて完成しました。壮大な大聖堂に立つと、その歴史が身近に感じられます。最初は、自分が取るに足らない者に思えてくるような冷たさを感じました。しかし、聖パウロは、わたしたちは皆、キリストのからだの一部であり、教会を築くために必要な存在であると教えています。わたしたち一人ひとりの小さな祈り、小さな優しさの積み重ねによってのみ、教会は真に福音に応えることができるのです。わたしたち東京の教会が、ケルンの信徒たちのこの偉大な伝統に結びつくことは、本当に大きな恩恵です。

聖遺物を触って

 

「役割」によらない人間関係を目指して

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

「役割によってのみ人間関係が規制される現代利益社会の中で、役割によらない人間関係の小さな場所を創ることを夢みたいだけである。」

これは京都の法然寺の第三〇世管主であられた橋本峰雄師の言葉です。「寺の住職になって」と題された一文のなかにあります。師の随筆などを記した『くらしのなかの仏教』(中公文庫、1998)に収められています。橋本峰雄師は元々は大学で西洋哲学を講じておられた学者でした。僧籍に入り、寺の住職になられたのは40歳代のことでした。

この一文は半世紀以上も前、1968年11月に朝日新聞に掲載されたものでした。しかしながら、今を生きるわたしたちにも響く言葉です。人は何らかの役割を担っていきます。その役割は何か利益を得るために必要な役割です。全体のために益となるように一人ひとりが役割を担うのです。そして、役割は人間関係を築きます。小さな役割のおかげで人と人がつながっていきます。何の役割もない人は社会の中で孤立しますし、人との関わり合いを生きることが難しくなります。しかし、橋本老師は、「役割によらない」人間関係を創りたかった。人と人が分け隔てなくつながり、交わり、一致する共同体を創りあげたかったのです。

最近、わたしはこの一文がお気に入りです。小教区の共同体でも、修道院の共同体でも、この一文をこころに刻んで生きるようにしています。なぜなら、復活された主イエス・キリストが共にいてくださる信仰の共同体は、役割や務めだけで結び合わされるようなものではないと信じているからです。

今から60年前、第二バチカン公会議が終わりました。その後、教会は大きく変わりました。そして、教会の中で多くの役割を司祭も修道者も信徒も担うようになりました。人々が持てる力を合わせることで、小教区共同体は成り立っていきました。確かに様々な役割が新しく生まれました。そして、それぞれの役割が果たす内容も豊かになっていきました。典礼の係が生まれました。お花の係が祭壇を飾りはじめました。オルガンの係が交代で奏楽してくれました。聖歌隊の係が一生懸命練習して歌いました。お掃除の係は地区ごとに分担し合ってお当番を果たしました。お互いの交わりを深めるためのお茶やコーヒーの係は朝早くから準備に取りかかりました。「お知らせ」をつくる係は昔は蝋引きの原紙に鉄筆で原稿を書きました。その他にも小教区共同体の事情に応じてたくさんの係が生まれていきました。こういった共同体の小さな部分を担い、責任を果たすことで小教区共同体は出来上がっていったのです。

そこに、公会議後に広まった「補完性の原理」というものが役割を果たすうえでの動機づけとなったように思います。「補完性の原理」とは、簡単に言えば、不十分なところをお互いに補いあってより完全なものとすることです。そして組織のなかで上位にある人は、この原理に従って自分よりも下位にある人々がしていることにあれこれ口を挟んではならないことになっていきました。なぜなら、その人々に託しているからです。小教区共同体を例にとって考えてみますと、「補完性の原理」のおかげで主任司祭は信徒が行うそれぞれの役割に介入してはならないと考えられていきました。さらには、信徒も自分たちの役割に責任と誇りを抱いているので、司祭にとやかく言ってほしくはないわけです。

さらに、小教区共同体が多くの役割を担う人々によって存在するという理解を助けたのは、「奉仕」という言葉でした。1980年代頃から、日本の教会の中で「奉仕」とか「奉仕者」という表現が多くみられるようになっていったように思います。そして「奉仕しなければ」ならないと呼びかけて、小教区共同体の中に数え切れないほどの役割やお当番が生まれていきました。

「補完性の原理」と「奉仕」は現在の小教区共同体を特徴づける言葉となるでしょう。前者は、教会に集う一人ひとりの尊厳を大切にしました。教会は聖職者だけで成り立つのではないことを明らかにしました。後者は教会に集う一人ひとりのあり方に注目しました。イエスさまが仕える者となったように、教会では互いに仕えあうのです。「補完性の原理」は、19世紀末の教皇レオ十三世の社会回勅『レールム・ノヴァールム』を起源とします。「奉仕」は「コイノニア(交わり)」と「ディアコニア(仕える)」こそが教会の具体的な姿だとした第二バチカン公会議から生まれた考え方であり、行動の指針です。「補完性の原理」と「奉仕」に彩られた1970年代から90年代の日本のカトリック教会は、社会の中で異彩を放つ共同体であったかもしれません。その意味でこの世に対して預言的な存在でした。「補完性の原理」が2000年代に内閣府の策定した「新しい公共性」を引き起こしたと考えたら少し大げさでしょうか。互いに仕え合い「奉仕」する働きが、1990年代に社会に芽生えた「ボランティア活動」の下地となったと考えたら少し買いかぶり過ぎでしょうか。

しかし、この10数年、わたしには「役割」だけが小教区共同体の中で一人歩きし始めたように思えてなりません。そして、いつの間にか信仰の共同体である小教区が一般の社会と何ら変わりのないものと変わってしまったように思えるのです。橋本老師が指摘しているように「役割によってのみ人間関係が規制される」共同体になってはいないでしょうか。「補完性の原理」を都合のよいように理解してしまい、司牧者の意見が排除される信仰の共同体になってはいないでしょうか。「奉仕」という名のもとに、共同体の兄弟姉妹に役割を無理に課してはいないでしょうか。

もちろん、小教区共同体で果たされる様々な役割は尊いものです。かけがえのないものです。しかも実際に役割がなかったら、主日のミサすらも執り行うのが難しいかもしれません。実は、教会の教導職の発表する文章の中に「奉仕」という言葉はずいぶんと減ってきました。なぜなら、「奉仕」という言葉が持つ語感には「奴隷」というイメージがつきまとうからです。その代わりに「ミニストリー」という表現をよく使うようになりました。「ミニストリー」の語源は「ミニ」(小さい)に由来します。相手に対してより小さくなることこそが、教会における務めのあり方なのです。そこには「役割」という概念を超えるものがあります。シノドス的な教会とはお互いに相手に対して小さくなる信仰の共同体です。それこそが「現代利益社会」に対する預言的な教会のあり方なのです。

東京大司教区司祭人事(第3次)について

東京教区では、2023年度の司祭の人事(第3次)を以下のように決定しましたので、お知らせします。

大司教
菊地 功

新任地 名前 旧任地
東京教区(4月10日付け)    
北町教会・豊島教会助任司祭 熊坂 直樹師(新司祭)  
松戸教会・市川教会助任司祭 冨田 聡師(新司祭)  
ミラノ外国宣教会(4月10日付け)    
府中教会主任司祭  ヴィンセント ラズーン師 府中教会助任司祭
府中教会協力司祭  アンドレア レンボ師 府中教会主任司祭
神言修道会(4月10日付け)    
吉祥寺教会(居住) ボスコ マニマラ師 吉祥寺教会助任司祭

以 上

編集後記

春は新しい始まり、旅立ちの季節だ。

とはいえ、変わらない日々が続く人もいるだろう。何も始められなくて苦しんでいる人も、旅から戻る人もいるだろう。

それでもやはり、全ての歩みは祝福された新しい一歩なのだ。

桜は毎年変わらずに花を咲かせるけれど、変わらないことは、桜の美しさを少しも損なわないように。変わらずに咲くことと、新しく咲くことは同じであるように。(Y)