東京教区ニュース第391号

2022年04月01日

仙台教区司教叙階式

ガクタン・エドガル司教様おめでとうございます。

叙階式を終えたガクタン司教

3月18日、仙台教区カテドラル元寺小路教会大聖堂にて、菊地功大司教の司式により、ガクタン・エドガル被選司教(前松原教会主任司祭、淳心会会員)の司教叙階式・着座式ミサが行われた。

3月16日深夜に福島県沖で発生した地震の影響により、東北新幹線は運休し、高速道路も一部通行止め。司教団の到着も危ぶまれたが、車で駆けつけた菊地大司教を始め、参加を予定していた全ての司教が無事に仙台に到着した。

前晩は道路が白く覆われるほどの雪だったが、当日は一転の青空。感染症対策のため、参加人数を大幅に制限してのミサではあったが、暖かな日差しの下、会場は新しい出発の喜びに包まれた。

仙台教区の岩手県宮古市出身でもある菊地大司教は、お祝いの言葉の中で、自身が小学校3年生のときに、岩手県の信徒大会で小林有方仙台司教(当時)から堅信を受けたことに触れ、「自分が堅信を受けた仙台の司教様の後継者を自分が叙階することになろうとは思ってもみなかったので、非常に感動しておりました」と述べた。また、ガクタン司教がフィリピン出身であることについて「フィリピン出身の宣教師が司教になるとは誰も考えていなかっただろう。しかし、教会は互いに与え、助け合う連帯の関係にあるという中で、教会の普遍性を示す象徴の一つとしてガクタン司教様の存在はあると思う」とも述べた。

叙階式直後の、ガクタン司教から 東京教区の皆様へのメッセージ

「東京大司教区民の皆様、こんにちは。御覧のとおり、今日、滞りなく無事に司教叙階式が終わりました。松原教会の任期中にはいろいろとお世話になりました。仙台教区は東京教会管区に所属していますので、また出会いと交流があると思いますので、是非よろしくお願いいたします。どうぞ、いつもお祈りを通してわたしを支えてください。よろしくお願いします」

仙台教区司教叙階式・着座式ミサの動画はこちらから視聴できます。

叙階式前日。菊地大司教とガクタン司教

ミサに参列した松原教会代表の信徒、ガル神父(左:松原教会小教区管理者)、オノレ神父(右:レジオマリエ東京レジア指導司祭)と一緒に。

ガクタン司教紋章

 

東京大司教区司祭人事(第4次)について 

東京教区では、2022年度の司祭の人事異動(第4次)を以下のように決定しましたので、お知らせします。

東京大司教
 菊地 功

3月5日付

任地 名前 現任地
清瀬教会小教区管理者(兼)  野口 邦大師  秋津教会主任司祭
病気療養のため退任 西川 哲彌師 清瀬教会主任司祭

追記

野口邦大師は、4月17日付で秋津教会主任司祭と清瀬教会主任司祭の兼務とする。

以上

教会は常に改革されねばならない

教区シノドス担当者(瀬田教会主任司祭) 小西広志神父

教会には数え切れないほどのラテン語の慣用句・定式句があります。短いことばで様々な教えの本質を表現しています。教会は多くの人々に伝えられ、語られた慣用句・定式句を大切に守ってきました。そればかりか、時代の移り変わりとともに新しい意味を与えていきます。こうして、教会が生きようとする信仰はより豊かで、深いものとなっていくのです。

すこし、前置きが長くなりましたが今回皆さんに紹介したいシノドス的教会を表すことばは「教会は常に改革されねばならない」(Ecclesia semper riformanda est. エックレジア・センペル・リフォルマンダ・エスト)です。このフレーズはアウグスティヌスまでさかのぼるとも言われていますが、実際にこのフレーズをよく使ったのは宗教改革者たち、とりわけ17世紀のオランダの宗教改革者たちでした。そして、第二次世界大戦後、プロテスタントの神学者ではカール・バルトが用いましたし、カトリック側ではイヴ・コンガール、ハンス・キュングなどが用いました。この慣用句は第二バチカン公会議前後の教会の必要性を説くキーワードとなりました。

この慣用句は公会議の公文書には登場しません。しかし『教会憲章』には次のように記されています。「自分の懐に罪人を抱いている教会は、聖であると同時につねに清められるべきであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのである」(8項)。恐らく、この慣用句が背景にあっての公文書の一節でしょう。教会は常に清められ、改革されて歩んでいくものなのです。かつての教会は「完全な社会」(societas perfecta ソチエタス・ペルフェクタ)と呼ばれて、その機構と教えの堅牢さを誇っていました。しかし、実は教会は罪人の教会であり、聖にして俗なる部分を兼ね備えているのです。ですから、この世にあっては不完全であり、主キリストの再臨の時まで常に清められ、改革されるべきなのです。 「教会は常に改革されねばならない」という呼びかけのもとに第二バチカン公会議を通して、わたしたちの教会は大きく変革しました。あれから半世紀以上を経て、教会は「変革しなければならない」という自らの内に秘められている特性に目覚める必要があります。現代、教会の変革の必要性を訴えたのは、教皇フランシスコでした。すでに滅多に使われなくなり、歴史の教科書にしか記されなくなったこの慣用句をもう一度取りだして、司教たちの司牧のあり方と結びつけた説教をしたのは2015年11月のフィレンツェでのことでした。ちょうど高位聖職者たちのスキャンダルがマスコミを賑わしていた時です。

確かに、教会は改革されなければなりません。教会が見失ってしまった自分自身の中にある美しさと気高さに気づかなければなりません。そして、それらを活用して、人類のために仕えなければならないのです。

教会の改革には二つあるでしょう。一つは外からの改革です。世界や社会の要求に応えていく改革です。もう一つは内からの改革です。教会自身が気づいて、教会の自浄作用によってなされる改革です。どちらの改革も必要ですが、より重要なのは内からの改革です。なぜなら、教会はいわば神秘体としてこの世に存在し、教会の中に聖霊が働いているわけですから、改革の必要性に教会自らが目覚めることができるからです。

シノドス的教会は聖職者主義を排除し、民主的な教会であると理解する方々がいらっしゃるのは確かです。聖職者主義とはいったい何か? 民主主義が終焉を迎えているとまで言われている現代社会にあって民主的な教会とは何か? が問われない限り、それは外からの改革の刺激でしかないです。すべてのキリスト信者の目覚めの中で教会の改革はなされるはずです。

小西神父によるシノドス解説動画シリーズ「シノドスへの歩み」(毎週更新)はこちらからご視聴ください。

祈りの小冊子 「ミャンマーのためにイエスと祈る」

ロシアのウクライナ侵攻による痛ましいニュースが絶えない中、クーデター以降、国軍による民衆の弾圧が続くミャンマーの状況も、いまだ改善の糸口さえ見えない。 この度、レオ・シューマカ神父(東京教区ミャンマー委員会担当司祭)による祈りのための小冊子「ミャンマーのためにイエスと祈る」が完成した。ここに、レオ神父による冊子の解説を掲載する。

冊子は「山上の説教(真福八端)」に基づく8つの祈りが掲載されている。各ページは、ミャンマーの現状を伝える写真と解説、そして祈りという構成になっている。

不幸にも、ミャンマーの状況はいまだ改善されていません。軍のクーデターによる内戦が続き、100万人近くが避難を余儀なくされてから1年以上になります。毎週届くミャンマーの友人からの知らせに心を痛めています。ある時、ロイコー教区の神父と電話で話していると、遠くから爆撃音が聞こえてきました。

ウクライナで新たな戦争が始まった今も、ミャンマーの状況が改善しているというわけではありません。 メディアがミャンマー以外に焦点を合わせている今、軍隊がさらに残忍で残酷になるのではないかという恐れがあります。実際、3月に入ってからいくつかの地域では戦闘が激化し、教会の建物も狙われています。わたしが訪れたことがあるミャンマーの村々は、今では戦場になってしまいました。

しかし、最も暗い時でさえ、イエスはわたしたちに、祈りによって神に立ち返り、互いに支え合うことを教えてくださいます。この精神に基づいて、マタイ福音書5章の「山上の説教」(~人々は、幸いである)をテーマにした、ミャンマーのための祈りの小冊子を作りました。確かに悲しみや苦しみはありますが、勇気や希望や霊感もあります。そして「神のみこころが地にも行われますように」という信仰があります。

現在のミャンマーの写真と情報も載せられている祈りの小冊子「ミャンマーのためにイエスと祈る」を使っていただければ幸いです。

レオ・シューマカ神父

※「ミャンマーのためにイエスと祈る」は復活祭後を目安に各小教区に配布いたします。

表紙の写真は翡翠のロザリオ。ミャンマーのカチン州は世界的な翡翠の産地として有名。

 

 

福島の地からカリタス南相馬 第10回

聖霊奉侍布教修道女会 Sr.村上多美代
「共にある」ってどんなこと?

わたしのカリタス南相馬での活動の一つはお年寄りとの関わりです。南相馬市においては、年々高齢化率が上昇し続けています。地震や津波、特に原発事故による避難生活、その後の住宅再建や帰還などの過程を通じて高齢世代と子ども世代が分かれて住むことを余儀なくされてきているのでしょうか、高齢者の一人暮らしや高齢夫婦だけの世帯が目立っています。

時々わたしは同慶寺というお寺で檀家の方々と一緒に清掃奉仕をします。ある時草取りをしていると、「人のいないところに座ろう」と話しかけられました。彼女は80歳を超えているのにいつも参加者のためにおにぎりやお漬物を持って来られます。彼女の住まいは福島第一原発事故で帰宅困難区域とされ、避難生活が続いています。木陰に座って彼女のお話を聴きました。他の方々が清掃に励んでおられる中、座り込んでいる自分にちょっと後ろめたい気持ちがありましたが、今は「聴くことが大切だ!」と心に決め、彼女の話に耳を傾けました。最近この方が亡くなられたことを知りました。あの時の関わりはいとおしく、懐かしくそして哀しい思い出となってしまいました。

わたしはある老夫婦を定期的に訪問しています。奥さんは仮設住宅にいたころから認知症が始まり、今は炊事洗濯など、家事一般が難しく、妄想や暴言などの症状も見られ、難聴のためにコミュニケーションも難しいです。介護をしているご主人は「ほとほと疲れ果てている」と身体的・心理的負担を訴えます。

わたしが訪問すると、ご主人は他愛のない雑談や冗談を言って大笑いすることが常ですが、若いころの苦労話や避難生活、これからの生活の不安などを話されます。聴いてくれる人がいることはご主人にとって少なからず支えになっていると信じます。 わたしが出会う人々、関わる時間の長短に関わらず、その人の言葉と心に耳を傾け、自分自身の内なる声にも耳を傾けながら真摯に向き合うこと。「共にある」とはそのような姿勢ではないかと体験を通して学びつつあります。

カリタスの家だより 連載 第141回

故岡田武夫名誉大司教 追悼ミサについての報告
公益財団法人東京カリタスの家 事務局

公益財団法人カリタスの家から、故岡田名誉大司教様の追悼ミサについてのご報告を申し上げます。

故岡田名誉大司教様は、2003年に当時財団法人であった当法人の理事長に就任なさり、2012年に公益財団法人に組織変更をしてからも引き続き、大司教の激務をこなしながら理事長としてご指導くださいました。2017年に大司教を引退なさってからは、法人の新たな未来を築く為に法人が抱える諸問題に積極的に取り組んでくださいました。それらの問題解決に明るい兆しが見えてきた矢先、闘病を余儀なくされる状況となられ、一昨年の12月18日に神様の御許に旅立たれました。お住まいであった本郷教会信徒会館で朝、様態が急変し救急搬送され、その日の午後帰天されるという余りにも突然のお別れでした。

法人として、追悼ミサを執り行い多くの皆様にお別れをしていただきたいと願ったのですが、緊急事態宣言下であったために延期となりました。ご帰天から一年後の12月に、菊地功大司教様より、感染症についての規制が少し緩和された期間に追悼ミサを執り行ってくださるという大変有難いご提案をいただき、ようやく2022年1月22日(土)に大幅に人数を制限し感染症対策を万全に行った上で、追悼ミサを執り行うことが出来ました。多くの方々にご参列いただける御ミサが実現しなかったことは大変残念でしたが、菊地大司教様主司式、当法人評議員である浦野神父様共同司式、パイプオルガンの荘厳な調べ、イエスのカリタス修道女会の皆様の美しい歌声により、厳かな中にも温かさのある御ミサとなりました。故岡田名誉大司教様も天国で喜んで下さったことと思います。

頭脳明晰で一見近寄りがたい印象の名誉大司教様でいらっしゃいましたが、弱者に寄り添う優しい視点と時々お見せくださる明るくユーモア溢れる一面が、私たちをほっとさせてくださいました。法人が障がいを抱える就学児の放課後等デイサービス事業を起ち上げる際は、「子どもたちが未来にはばたくための翼となる支援」をという願いを込め、イザヤ書40章31節の「鷲のように翼を張って上る」から「カリタス翼」と命名して下さいました。未来に向けてはばたいていってほしいというその願いが子どもたちだけでなく、東京カリタスの家に集うすべての方々においても実現できるよう、役員、賛助会、職員、ボランティアの一人ひとりが、それぞれの立場で力を尽くし、現理事長の菊地大司教様のご指導の下、公益財団法人として更なる前進を果たしていくことをご遺影に誓いました。

感染者を出さない、基礎疾患のある方の生命を守るという観点から少人数の内輪だけの追悼ミサとなりましたことを、お別れを切望なさりながらご参列が叶わなかった方々に、お詫び申し上げますと共に、ミサの準備そして当日、多大なるお力添えをいただきました皆様に、心より御礼を申し上げます。

岡田名誉大司教様、長い間法人をお支えくださり、本当にありがとうございました。

知っていますか?私たちの「信仰」を?「共に歩む信仰の旅 ─同伴者イエスと共に─」

担当司祭◉猪熊太郎

今回はカテキスタ養成講座第4期生2人の声と、すでに現場で活動している第1・2期生2人の声をお届けします。

受講生の声

キリストを伝えたい…
受講者◉第4期生
調布教会 今田 潔

2021年10月より東京大司教区の「カテキスタ養成講座」を受講しています。カテキスタの養成を受けることになった経緯について述べさせていただきます。

2021年の夏に還暦を迎え、勤務先は定年再雇用、単身赴任先から東京へ戻ることになりました。仕事はまだフルタイムですが、時間の余裕が少しできました。2人の子どもはすでに独立し、自分の両親は神さまのみもとへ見送りました。定年後の人生をどのように生きたらよいか、数年前から祈りのうちに考えていました。

思い返せば、20歳で受洗して信仰生活は40年を迎えました。20代前半にはカトリック入門サークルの世話役をしていましたが、社会人になってからは仕事が忙しく、主日ミサへ参加するのが精一杯の時期もありました。しかし40代からは所属した2つの教会で、のべ17年ほど、宣教・広報・司牧・典礼などの教会委員として貴重な経験をさせていただき、周囲の理解者に恵まれて、信仰を深める恵みをたくさん頂きました。どの奉仕においても「キリストを伝えたい」という心の願望が原動力だったと思います。

さて、定年後の生き方について考えた結果は、「信仰をもっと深く理解して、キリストを多くの人に伝えたい」ということでした。

そのような時、妻からタイミングよく「教区カテキスタ募集」の紹介がありました。心の望みをかなえるために最善の道ではないかと思いましたが、自分がどこまで神さまの役に立てるか不安もありました。

主任司祭から推薦をいただき、応募が認められて、10月から関口での養成講座に参加しています。入門講座の模擬演習はすでに2回経験しましたが、毎回学びの連続で、自分の視野の狭さを思い知らされます。信仰の恵みをどう理解して、教会が初めての方にどんな言葉で伝えればよいのか、毎回、苦心しており、日々そのことに思いをめぐらしているところです。

「使徒の時代から2000年間、教会に伝え続けられてきた信仰を理解し、受け入れ、現代の人々に伝える」ことは教会の使命です。特に日本の教会においては、信徒の手を通して信仰を次の世代に伝える経験を持つことは、わたしたちが「宣教する教会」として成長していくために、大事なことだと思えてなりません。 いつも共にいてくださるイエスさまに従い、聖霊の導きに信頼し、皆さまのお祈りに支えられて、わたしたちの信仰を正しく伝えられるよう、研鑽に励みたいと思います。

皆さまどうぞよろしくお願いいたします。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」
受講者◉第4期生
高輪教会 重面佳嗣

「過去を振り返ることは将来に対する責任を負うこと」 「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」

いずれも激動の時間を生き抜いた方からのメッセージからですが、やはりイエス様に愛された方の言葉は時空を越えて胸に響きます。

いつの時代も想定を超えた出来事に直面し、恐れを抱いたり、不安を感じたりするものですが、それでもこの星で生を受け育ち、そして、いずれ死を迎えるであろうという人の営みは、古今東西変わることはありません。

とはいうものの、その頂いた命をどう活かすかによってその人の人生が、今以上に豊かになるか、あるいはそうでなかったか、それは神様から命を与えられた者への問いかけだと、この20年ずっと考えてきました。

私も既に人生の折り返し地点をとっくに過ぎました。もっと楽な生き方も選択肢としてはあったはずなのですが、結果として不器用な生き方を選択してきました。それは、出会いを通してより多くの喜びや悲しみに触れるためだったのかもしれません。

カテキスタ養成講座の開催は、コロナ禍で一時どうなるかと危ぶまれましたが、無事に開講されて早いもので4ヶ月が経過いたしました。

開催に向けてご尽力いただきました、担当司祭の猪熊神父様をはじめ、関係者の皆様、また、講座の都度、会場の準備や模擬授業で暖かく見守り、適切なアドバイスを下さる先輩カテキスタの皆様に紙面を借りて感謝申し上げます。また、今回のコロナ禍で様々な痛みを覚えられた皆様にお見舞いと、今なお苦しみの渦中にある皆様には一刻も早いご回復をお祈り申し上げます。

今回、カテキスタ養成講座を受講して感じたことをお伝えして欲しいとのご依頼をいただきましたので、私なりに感じたことをお伝えさせていただきます。

私はカテキスタ養成の第4期生になりますが、既に前回の教区ニュースで猪熊神父様からご案内があった通り、今回は第3期生の皆様と合同で養成講座が進められています。全20回の講義の中で、最初の3回は担当司祭によるキリスト教の基本中の基本について授業していただきました。私は金曜日に夜勤を入れることが多いので、土曜日は辛いと言えば辛いのですが、猪熊神父様の気迫あふれる講義は眠気を吹き飛ばしてくださいました。16年の間、信者を名乗ってきましたが、(エッ!そういうことだったの?!)と感じることも少なからずありました。正しい表現を覚えることが出来たことで、ここで学んだことが、私にとっては、その後の模擬授業の講義をする際のベースになりました。その意味において、この猪熊シリーズは1回も欠かさないで出席して良かったと思います。

オリエンテーションの中で神父様より、わざわざ別のノートを作り、取ることは禁じられました。勿論、毎回、プリントを準備し、そこにメモを取ることはOKです。神父様も仰っていましたが、確かにノートを作っても、それを手に取って振り返る時間はなかなかありません。

4回目からは、いよいよ受講生による模擬授業が始まりました。

模擬授業を報告者として担当する受講生以外、聴講される方は求道者としてのスタンスで授業に望まれます。それぞれの回毎にテーマが与えられ、福音の箇所が課題として示されています。

福音をどう読み解くのか、どこにポイントがあるのかそれぞれに抽出し、イエス様が2000年の時を越えて、今を生きる私たちに何を伝えようとしているのか、自分の生き方にどうつなげていくかを発表します。

毎回、受講生は2名が同じテーマを担当します。方法は特に示されません。ただ聖書を理解するには、その当時の背景や言葉の定義が大切となります。皆さんレジュメをその都度ご用意されますが、それぞれに写真や絵を挿入し、趣向を凝らしておいでです。すごいなと毎回、感心させられております。

持ち時間は一人当たり50分ですが、修了後に神父様や既にカテキスタに任命されている先輩の皆様方等から様々な講評をいただきます。私はこれまで2回担当させていただきましたが、1回目も2回目も、聖書を読んで自分の心に浮かんできた自分の過去の体験をお話しさせていただき、その出来事を通じて、心が動かされた自分や周囲の人たちのことを、エピソードとして織り込まさせていただきました。

信仰とは何なのか、イエス様が深く憤られたこと、深く憐れまれたこと、その結果、当の本人や周囲の人々はどう変わっていったのか、などなど話題は尽きません。

準備にあたって自分に与えられた50分はとても長いと感じました。しかし実際に準備に入る中で、何度も、何度も聖書を読み、そこに出てくる登場人物それぞれの感情に触れるにつれて、実は50分ではとてもまとめきれない、と思いました。何をポイントにするかの見極めが大切だなと、毎回、感じています。

1回目は聖書だけではなく、外国の神父様の著作も引用しレジュメを用意しました。結果としてレジュメではなく、ほぼ原稿に近いものを皆様にお配りし、それを読んで終わるという一方的なものに終始してしまいました。結果、講評ではレジュメの作成方法や私自身が伝えたい思いについて、もっと前面に出すべきとのお言葉を皆様から頂戴しました。それとなく模擬授業で準備すべき資料やどのように進めるべきかを理解したつもりでおりました。

そんな訳で2回目は開き直ってシンプルに行こうと考えたのですが、途中で伝えたいことがどこかに飛んでしまい、不完全燃焼となってしまいました。なかなか難しいと思いましたが、やはり時間配分が大切だよ、という先輩のお言葉にハッとさせられました。一方で、同期生の「伝えたいことが私には伝わったよ」という声に救われました。

この2回目では、準備を通して確認したい事実が多々あり、実家に電話をかけ母に当時(私の小学校時代)の事実関係や、他界して今はいない父親のことを懐かしむことができて、本当にいい時間を過ごさせていただきました。

いずれにせよ不特定多数の方にお話しをすることの難しさは、1回や2回の実技でクリヤーできるものではなく、私にはとても大変なことだと感じた次第です。でも、準備する課程で過去を振り返り、これからの人生に活かさないといけない点も幾つか思い出したことは良いことでした。

次回から、福音の箇所を味わうことから、教会の制度を調べ、授業することに内容が変わってきます。随分前に教会委員会の活動に関わり、委員会の開催が平日の夜で帰宅するのが大変だったことなどがトラウマとなっており、少々距離をおいておきたいところです。一方で、教会も組織ゆえに制度設計があり、経済について触れないわけにはいきません。頭を垂れて学びたいと思います。

全体として、講義は信仰者としての大先輩である方々のご協力も頂きながら、順調に進んできています。毎回、気持ちを鎮め、心を神様に向ける方法や、スモール・グループでの分かち合いの方法など、技術的なご指導もいただき、楽しいひと時も提供していただいています。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」

この原稿を用意させていただきながら自然と浮かんできた聖句です。

まだ、講座は修了したわけでもありませんが、これまで私が講座を通じて感じたのは、私たちに学んで欲しいことは理屈ではなく、その時、その場での感情(受け止め方)を大切にすることだと思います。

16年前、いろんな出来事にいささか疲れを覚えた時、カトリック教会に足を運びアルファ・コース、そして、その後の入門講座へと駒を進めた時に、当時、パウロ故古川正弘神父様にお世話になりました。師はカトリック教会の入門書をなかなか手に取ろうとはなさいませんでした。毎回、毎回、プリントを用意してくださり、いつもエッセイや詩をみんな(と言っても、当時は3人から、多くても5人でした)で回し読みしながら、感じることを思うがままに、自由に語らせてくださいました。会社人間として、自分の弱みは他人には見せないことを美徳として育てられていたこともあり、入門講座に通い始めた最初の頃は、他者の気持ちを汲み取る作業は本当に難しいと思っていました。何を言えばいいのか本当に苦労したものです。しかし、どんなに忙しくても、古川神父様の入門講座には休まず通い続けました。

やはり、毎回講座を通じて無償で施された結果、自分自身の荒んだ気持ちが癒されたのだと、今は、言葉にできます。それは次なる活動の力の源となっていました。そして、そういう体験は誰かに不思議と伝えたくなるものです。それこそがイエス様の働きだったのでしょう。そして、今回は、カテキスタの養成講座に招いてくれました。

まだまだ先は長く、カテキスタへの道のりは遠いのですが、今はただ、この講座が最後まで無事に開催され、無事にゴールにたどり着けることを願っています。そして私のような者でもゴールにたどり着けるよう、皆様のお祈りをお願いしたいと思います。

この記事をご覧になっている皆様、どうぞ、第5期生への応募をお待ちしております。聖書の分かち合いは仲間がいて、より深まります。

2人は「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」と語り合った。(ルカ24:32)

ありがとうございました。

現場の声

洗礼準備講座の受講生の方との交わりの中で
カテキスタ チーム関町 第1期生
秋津教会 原 一之

私はチーム関町のカテキスタとして洗礼準備講座に関わりました。そこでの「現場の声」を少し御報告したいとと思います。

チーム関町の講座は関町教会の稲川神父様と相談し、入門講座ではなく、洗礼準備講座という名称になりました。チーム関町は幸い、神父様や信徒会長が講座に理解があり、コロナ禍にあっても、信徒ホールの会議室を講座の会場として提供いただきましたので、去年12月初旬に3名の受講者が、無事、講座を修了することになりました。

その後、猪熊神父とカテキスタ3名で受洗の準備ができていることを確認し、猪熊神父様から受け入れ教会の神父様に報告がされました。準備ができているかは、私たちが、受講生の発言の変化や何気ない会話の中で感じることを頼りに判断しました。後は神様にお任せしました。具体的には、当初、「分からない」を連発していた受講生が、修了間際には「神様のなさることだから、そうなのでしょうね」と発言が変わったのを目の当たりにして、とても感動したのを覚えています。

毎回の講座での様子ですが、まず感じたのは受講生の背景の違いが大きいことです。受講生には、とても熱く信仰を語る人もいれば、様子を見ている人もいました。このため、このように背景の異なる受講生が私の講座に物足りなさや難しさを感じて受講生が来なくなったら困るな……と心配していました。でもこの心配は必要ありませんでした。

私たちは1年間のカテキスタ養成講座でしっかりとした基本を身に付けました。さらに得意分野や性格の違うチームの仲間が居て、私とは別の視点から講座を展開しているので、飽きる間がなかったようです。そして何より、私たちが話したことを受講生がどう受け取るかは、私たちの能力ではなく、受講生への神様の働きにかかっているのです。だから神様にお任せしましょう……ということです。

私が皆さんに一番大切だと申し上げたいことは、頑張って準備を完璧にして講座を完璧に終わらそうと思わないことだと思います。それを一番感じたのは、講座中、静かに聞いていた受講生が、講座の後の雑談の中で、私たちの信仰体験を話した時に、「そうそう!」と嬉しそうに相槌を打ってくれた時があったのです。この時が、一番、信仰が伝わった気がしました。きっと受講生には考える時間が必要で、私が考える時間を与えて来なかったので、ずっと静かだったのだと気がつきました。

拙い話でしたが、何か参考になればと思います。

+神に感謝!

反響し合う時間
カテキスタ チーム関町 第2期生
高幡教会 森 邦彦

2021年の12月4日に、関町教会で行われていた、教区カテキスタによる入門講座(関町教会での呼称は洗礼準備講座)が、最後の1回を終えました。講座を修了した3名は関町教会での受洗を希望していたので、私たちは、後のことを関町教会主任司祭の稲川保明神父様と関町教会の皆さんにお委ねしました。この記事が発行される頃には、洗礼を受けられていると思います。3名の方が、信者として、一歩ずつ成長していけるよう、心からお祈りいたします。

以前、とある講話で、ノートルダム・ド・ヴィのアンヌ=マリー・ルブリスさんが「カテケージスには『反響させる』という意味がある」と話されました。教える人の心の響きが、教わる人の心に響いていくのだと。

また、教区カテキスタ養成講座で猪熊神父様は、「自分の体験を語りなさい」と繰り返し話していました。まとめると、神様を知る体験、愛を知る体験が自分の心に響いている時、それが教わる人に響いていくということだと思います。

本当は、各回ごとに合わせて体験を語れたら良かったのですが、残念ながらそんなに体験豊富ではありませんので、実際の講座では無理に体験を話すことは諦めて、自分が理解し、楽しんで話すことが出来るように心がけていました。

例えば、「からしだね」はマスタードに使われるシロガラシの近縁種なので、「粗挽きマスタードに入っている粒」を思い浮かべてもらいました。今度からは、「からしだね」の話を、親しみを持って聴いてもらえるのではないでしょうか。

講座の中で、関町教会で講座を担当したチーム関町の教区カテキスタたちは、それぞれ自分の受洗の体験を話したのですが、なんとなく教会に引き寄せられた人から、家族の洗礼のついでという人まで人それぞれで、神様の呼びかけは様々な形で行われることを強く実感させられます。今回、受洗を志望した方々も、自分と同じような体験を聞いて、また様々な形があることを知って、自分の体験も、神様からの呼びかけなのだと信じる勇気を持っていただけたのだと思います。まさに心に響いていったのではないでしょうか。

幼児洗礼で、教会に通って育った自分の体験は、残念ながら受洗の参考にならなかったように思います。何せ、物心ついた頃には受洗が済んでしまっていたわけですから……。講座の中ではその体験を羨ましいと皆さんから言っていただきました。自分で望んで出来るわけではない体験というのは、たしかに素晴らしいものです。しかし、神様に出会ったという皆さんの体験は、それ負けないくらい素晴らしいものだと実感してもらえたら嬉しいです。

また、講座の中で受講者の皆さんが語ってくださった自分自身の話が、それぞれ独特な体験で、とても苦しい人生を歩まれたり、幼い頃の出会いがあったり、これもまた、人それぞれであったのですが、その中でも確かに神様は私たちを見守り、導いてくださっているのだということを、私たちに強く感じさせてくれました。

カテケージスは反響させるものなので、お互いの心から心に響き合います。 聖人たちの天上の教会が私たちのために祈ってくださっている、と話したところ、天上に応援団がいてくださるんですねと、とても分かりやすい返事をしていただいたこともあります。

私たちが頑張って教えたことに負けないくらい、私たちが受講者の皆さんから多くのものをもらいました。関町教会で行われていた洗礼準備講座というカテケージスは、関わった人すべてにとって、実りあるものであったと心から思います。

5月から次の洗礼準備講座が関町教会で始まります。 新しく集まる受講者の皆さんと、実りあるカテケージスが行えることを楽しみにしています。

新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」等の実施に向けて

感謝の典礼1

今年の待降節から導入される新しい「ミサの式次第と第一~第四奉献文」。ミサの流れに沿って、教区典礼委員の小池亮太神父による具体的な変更点の説明を掲載しているが、今号では「感謝の典礼」部分の解説に入る。

今回は、祭壇で執り行われる〈感謝の典礼〉の変更箇所を見ていきます。

※「司」は「司式者」、「会」は「会衆」、「先」は「先唱者」の意味です。

【パンとぶどう酒を供える祈り】

司「神よ、あなたは万物の造り主。 ここに供えるパン(ぶどう酒)はあなたからいただいたもの、 大地の恵み、労働の実り、 わたしたちのいのちの糧(救いの杯)となるものです。」 
会「神よ、あなたは万物の造り主。

現在はコロナ禍で、主日のミサでも奉納の歌を歌わずに唱えている小教区も多いと思われます。奉納の歌を歌わない場合は、司祭は祈りをはっきりと唱えることができます。その場合は、結びに会衆ははっきりと唱えることができます。

ミサの式次第と奉献文が変更される11月末にどのような状況になっているのか、まったく分かりませんが、司祭がはっきりと唱えた場合は、会衆もはっきりと唱えるということを覚えておいてください。

※紙面の関係で祈りは一つにまとめてありますが、「パンを供える祈り」と「ぶどう酒を供える祈り」は、一つにまとめて祈ることはできません。

【奉納祈願への招き】

司「皆さん、ともにささげるこのいけにえを、  全能の父である神が受け入れてくださるようにいのりましょう。」
会「神の栄光と賛美のため、 またわたしたちと全教会のために、 あなたの手を通しておささげするいけにえを、 神が受け入れてくださいますように。」

祭壇の準備が整うと、司祭は奉納祈願の前に招きの言葉を述べます。会衆は立って、招きの言葉に答えます。

現行版では招きの言葉のあとに沈黙を勧めていますが、会衆が応唱するようにも取れる表現があるため、司祭の祈りへの招きの言葉に、会衆が答える、答えない、という不統一が生じていましたが、改訂版では会衆は応唱することで統一されています。なお、会衆の応唱の言葉は変更されていますのでご注意ください。

日本のための適応として、応唱の後に一同はしばらく沈黙のうちに祈り、司祭によって奉納祈願が唱えられます。

ここから、奉献文(エウカリスティアの祈り)です。

【叙唱前の対話句】

司「主は皆さんとともに。」
会「またあなたとともに。」
司「心をこめて、」
会「神を仰ぎ、」
司「賛美と感謝をささげましょう。」
会「それはとうとい大切な務め(です)。」

古代キリスト教の時代からの伝統に従って、この対話句は三組で構成されていましたが、日本語に訳された時に二組にまとめられました。今回、規範版と同じ三組の対話句に変更されます。

第一の対話句は、「あなたとともに」に変更されています。

第二の対話句は、直訳は「心を上に」と「主に向けています」となりますが、意味が掴みにくいので、現行版で司祭が唱えていた言葉を「心をこめて」と「神を仰ぎ」という対話句にしました。

第三の対話句は、現行版では会衆が唱える言葉を司祭の言葉として採用しています。そして、現行版で省略されていた会衆の言葉が改訂版では訳出されました。

対話句が三組になり、また、最後に会衆の答える部分は今までなかったので、慣れるまではチグハグしてしまうかも知れません。なお、「(です)」は歌う場合は省きます。

【感謝の賛歌(サンクトゥス)】

 「聖なる、聖なる、聖なる神、すべてを治める神なる主。 主の栄光は天地に満つ。 天には神にホザンナ。 主の名によって来られるかたに賛美。 天には神にホザンナ。」

叙唱の結びとなる、感謝の賛歌が口語に変更されます。

「万軍の」という言葉は、「軍隊や戦いを連想させる」ということで変更が求められていたので「すべてを治める」となりました。また、「天のいと高きところに」は、受難の主日に行われる枝の行列の時の交唱に合わせて「天には神に」となりました。

今回はここまでです。次回は【記念唱】から見ていきます。

ウクライナの平和のための祈り

共に祈る菊地大司教とポール司祭。ポール司祭は日本で唯一のウクライナ正教会司祭とのこと。

灰の水曜日にあたる3月2日、ウクライナ正教会のポール・コロルク司祭とウクライナ正教会信徒4名が東京カテドラルを訪問し、ウクライナの平和のために祈る時間を共にした。

ポール司祭とウクライナ正教会信徒の方々は、カテドラルで行われた灰の水曜日ミサに出席。ミサ終了後、場所を聖櫃の置かれたマリア祭壇前に移し、菊地功大司教とポール司祭によってウクライナの平和のための祈りが献げられた。灰の水曜日ミサに与っていた多くのカトリック信者もマリア祭壇前に集まり、心を合わせて祈りを献げた。

祈りの最後に話された菊地大司教によるメッセージの書き起こしを掲載する。

● ● ●

沢山の方に集まっていただきありがとうございます。わたしたちは、いのちは神様からの賜物だと、神様が善いものとしてわたしたちにいのちを与えてくださったと信じています。それは、キリストを信じる者は全て、カトリックも、正教会も、プロテスタントの教会も通じて、キリストを信じる者は全て、いのちは神からの賜物であり、尊厳があり、大切なものだと信じています。

そのいのちが暴力によって奪われることは、どこにあっても許されることではありません。特に、国家という大きな権力、力を持っている存在が、他の国を蹂躙していのちを奪う行為は、人類の中から、この世界の中から無くならなければならないと、長年にわたって教会は主張してきました。長年にわたって戦争を止めるようにという教皇の呼びかけにもかかわらず、色々なところで戦争は繰り返され、そして今回、このロシアという大国がウクライナに侵略をするという事態になってしまいました。

国際社会と協調しながら、わたしたちは政治ではなくて、祈りの力をもってこの状況を変えていくことができるように、人々が神のもとに立ち帰るように、そして本当の平和を確立することができるように、祈りを続けたいと思います。

※「ウクライナの平和のための祈り」の様子はこちらからご覧になれます。

2022年 カトリックスカウト東京大司教区支部合同B-P祭ミサ開催

B-P・オレブ ありがとう!~奉仕・だれかのために、わたしたちができること~

JCCS大司教ミサを受けて
麻布教会 ボーイスカウト港第5団
先唱:マリア 諸橋 莉沙

©Naohiko Takasaki

2022年2月11日、2年ぶりにカトリックスカウトが一堂に会してミサを受けた。コロナ禍前に比べ人数は少ないものの、壮大なカテドラル教会に響き渡る鐘の音は心を静かに落ち着け、1年を通して行われた活動の記録、共同祈願はそれぞれのスカウトの思いが伝わってくるようでとても素晴らしいものだった。コロナウイルス対策のため、皆で声を合わせて歌うことはできなかったが、心を合わせて歌うことができたように感じる。オルガンの演奏に耳を澄ませ、心の中で歌うことで、より音に耳を澄ませ、音楽を楽しむことができた。

今回のミサでは、通常のミサの数倍もの共同祈願が読まれ、ここに来ることのできなかったスカウトの気持ちも伝わってきた。実際にミサの場に来ることのできなかったスカウトたちの存在も確認し、つながりを感じることができた。

全体を通して、2022年B-P祭は“離れていても心はつながることができる”ということを改めて確認することのできる素敵なミサだった。 感染対策を行ったうえでのB-P祭開催にあたり、さまざまなサポートを行ってくださったすべての方々に感謝の気持ちでいっぱいだ。

©Naohiko Takasaki

毎年、東京大司教区内の教会や学校などに本部を置くボーイスカウト・ガールスカウトが、ボーイスカウト運動の創始者であるB-P(ベーデン・パウエル卿)とその妻でありガールスカウト運動を委ねられたオレブの生誕を記念し、700名ほどが共にミサに与り、交流しているが、新型コロナウイルス感染症流行のため、昨年はそれぞれの団で「祈りのリボン」をつくり、カテドラルで捧げ、祝福を受けた。

今年は、年長部門のみの参加として人数を制限し、更に、開催時の流行状況を鑑み、多くの団が参加を見送らざるを得なかったが、菊地大司教司式による感謝のミサを捧げることができ、「私たちは、互いに助けるものとして命を与えられている」というお説教は、スカウトの心に響くものであった。日頃の奉仕活動を通し、他者を思う共同祈願、お祈りカード、折り鶴などが多数捧げられ、当日集まることができなかったスカウトたちからも事前に委ねられた。また、キリスト教章受章者は祝福をいただいた。励ましを受けた。

当日のミサをオンライン配信し、また後日、報告動画を参加できなかったスカウトたちと共有した。 (JCCS東京支部事務局)

CTIC カトリック東京国際センター通信 第256号

緊急食料支援の現状

コロナ禍で困窮する外国人のための食料支援活動について、度々書かせていただいておりますが、コロナ禍同様終わりが見えない状況です。現在では1か月に約70組、120人弱の方が来所して支援を受取っておられます。また、緊急支援活動以外にも、家族支援として現時点で18家族43人にそれぞれの家族の必要に応じて支援を継続しています。

CTIC の食料支援では、毎回それぞれの方の生活状況をお聞きしています。これは統計資料を集めるためのアンケートのようにやっているわけではありませんし、強制的に全部話さなければならないというわけではありません。言いたくないことを無理に聞き出すようなことはしておりませんが、何度かいらしているうちに、だんだん信頼感が育まれてきて、ほとんどの方がより詳しい状況について話してくださいます。お話しをお聞きすることで、他にもお手伝いできることがわかるかもしれないというのがインタビューをする理由の一つです。

昨年このコーナーでも書きました在留資格のない方の新型コロナワクチン接種のお手伝いも、こうしたインタビューから行うようになりました。現在、主にインタビューをしているシスターは、非常に自然な感じでそれぞれの方のお話しを聞いているので、初めは遠慮がちに支援を受取りに来られていた方も、本当はこういうものがあったら欲しいのだけど、などと打ち明けてくれたり、シスターと話すこと自体が目的かなと思うくらい、ずっと話しておられる方もいたりするようになりました。そういった中で、就労資格を得たり、仕事が見つかったりなど生活状況が良くなった、あるいは良くなりそう、ということを話して下さることもあります。ただそういう場合には、お話しして支援の量を減らしたり一旦終わりにしたりすることになります。これは初めにご説明していることでもあります。いただいた物資を本当に必要とする方のもとに渡るように、必要性が減じた方にはそれなりに対応することが、皆さまからの支援によって活動しているセンターの責任だからです。

それでもご自分にとっての良い情報を率直に話してくれるのは、受け取れる物資の量が減るなどの損得ではなく、自分にとって嬉しいことを、シスターにも一緒に喜んで欲しいという、信頼関係の表れなのかなと感じて見ています。中にはまだまだご自分の生活が軌道に乗ったとは言えないのに、ご自分の方からセンターに何かを持って来て下さる方もおられます。とは言え、全体としては状況が好転しているとは言いがたく、先日もそろそろ支援を減らしても良いかとスタッフで話していた方が、子どもがコロナに感染してしまって全く働けなくなってしまい、支援継続ということもありました。

というわけで、実はCTIC では現在お米が不足しつつある状況になっています。世界を見渡せば、支援を必要とする状況が多くあることに心が痛みます。このような中で、皆様のお祈りと支援のリストに引き続き、日本において困窮する外国人の方々ことも留めていてくだされば幸いです。

CTIC 所長
高木健次

ひな祭りや復活祭など特別な日のプレゼントもいただきました。

編集後記

春は突然やって来る。もちろん日に日に寒さは緩み、草木は芽生える。それでも、「今日から春だ」という日は毎年必ずある。空気の色が一気に変わる日。そんな日は突然やってくる。

神との出会い、救いの訪れも同じなのかもしれない。涙に暮れていたマグダラのマリアの前に、復活したイエスが突然現れたように。

四旬節は、復活したイエスとの出会いを待ち望む時。必ず春が訪れるように、イエスと出会う日も必ずやって来る。イエスはすでに復活なさっているのだから。(Y)