東京教区ニュース第146号

1997年09月01日

償いと和解こそ連帯と一致のための確実な基盤 〜白柳枢機卿オランダで和解ミサ〜

8月13日アムステルダムに到着した白柳誠一枢機卿一行は、同夜、当地在留の日本人信者の歓迎を受け、和やかな夜を過ごし、翌日からの公式行事に備えた。

14日はオランダ東南に位置し、ドイツ国境に近いボクスメールの町で、戦争中オランダ人と日本人との間に生まれた人々の団体「さくら」、またそれと同種類の諸団体の代表者と会合を持ち、対話を重ねた。これには内外の多数のジャーナリストも参加し、問題に対する関心の深さが示された。

午後7時から同市のカルメル会付属の小教区聖堂でウトレヒトの大司教シモニス枢機卿、ベール司教、その他多数の司祭と和解のミサを挙行、それには同市の約1000人の市民が参加し、約50人の大合唱団が奉仕した。白柳枢機卿は説教で「ゆるし、和解、癒し」について述べたが、翌日のオランダの新聞は1面記事として大きくこれを報道した。

15日は、インドネシアに滞在し収容所に収容されていたオランダ人にとっては解放の記念日であり、亡くなった人々の追悼の特別の日であり、白柳枢機卿は午前中相次いで新聞記者のインタビューに追われた。

午後は首府ハーグ市の外務省に招待されたが、枢機卿は前日に対話を持った「さくら」財団などの要望を伝え、善処を願った。

それに続き、解放の記念碑に花輪、ろうそくなどを供え、戦没者のために祈りを捧げた。反日感情の強い地をこの日に訪問することは反対も予想されたが、好意的に受け止められ、テレビ、新聞も前向きな取り上げ方をした。

16日には、ウトレヒトにあるカトリック平和運動のパクス・クリスチの本部でシモニス枢機卿、ロッテダムのヴァン・ルイ司教、その他の役員と歓談した。午後は聖ボニファチオの殉教地である北部のドックム市を訪問、市長をはじめグロニンゲン教区のメラー司教などの歓迎を受け、同市を流れる運河を市長らと船をともにした。

夕刻にはキリスト教諸派の人々とボニファチオ記念会館で荘厳な教会一致の祈りを捧げ、その際、枢機卿は「和解、一致は神の恵み」であることを力説し、キリスト降誕2000年の大聖年に向かって呼び掛けた。公式行事を終えた一行は、その夜、有志の招きで深夜にいたるまで別れを惜しんだ。

17日にはハーグ市にバチカン大使アチェルビ大司教の招待を受け、かつて日本に滞在したことのある同大司教は、手厚く枢機卿の労をねぎらった。

ボクスメール・カルメル修道院の和解ミサ 白柳枢機卿説教

シモニス枢機卿様、司教様方、イエス・キリストにおける兄弟姉妹の皆様

私はまず、ひとつの小さなお話をしたいと思います。

ちょうど10年前、私は個人的に、レオ・ゲレインセさんにお会いするために初めてこのアムステルダムに参りました。その1年前、オランダの地方新聞に載ったある記事が偶然にも私達を結び合わせたのでした。その時以来、私たちは、いつか会わなければならないと感じていました。

その初めての出会いの後で、私は、集まっていた新聞記者の皆さんに、「この出会いを実現させたのは、聖霊の導きです」と申しました。その後、レオさんは、短い自伝をお書きになり、その本は直ちに日本語に翻訳されました。私は、この度もう一度この本を手にとって、「ゆるし、和解、癒し」という3つの言葉の意味を考えました。

この本の中でレオさんは、「1985年1月28日、まさにその日から私の人生は、全く変わりました」と書いています。まさにその時から、日本人との和解に向かっての彼の新しい旅が始まったのでした。その翌年、レオさんは、オランダのある地方紙で私が、先ほど申しました小さな記事をお読みになったのでした。

その小さな記事とは、東京で開かれたアジア司教協議会総会のミサで、私が日本のカトリック教会を代表して行った説教についての記事だったのです。説教の中では特定の国の名前はあげられておりませんが、それは、アジア太平洋の戦争で犠牲となられた2000万以上の人々に向けて捧げられたものでした。

本日、私はこの皆様の国、オランダの地で、過去においてばかりでなく今日に至るまで、日本軍の戦争犯罪のために苦しんでおられる全てのオランダの戦争犠牲者の皆様に、その同じ言葉をくりかえして申し上げたいと思います。

「私達日本の司教は、日本人としても、日本の教会の一員としても、日本が第2次世界戦争中にもたらした悲劇について、神とアジア太平洋地域の兄弟姉妹にゆるしを願うものであります。私達は、この戦争に関わったものとして、アジア太平洋地域の2000万を越える人々の死に責任を持っています。さらに、この地域の人々の生活や文化などの上に、いまも痛々しい傷を残していることについて深く反省します」

カトリック教会は日本では、全人口の0・3%という、まことに小さな群れであります。それにもかかわらず、私達の切なる願いは、日本の全ての人々の良心の声になることです。そのような心から、私達は1995年2月25日、終戦50年にあたり、”平和への決意”という文書を発表いたしました。

その中で、「私達日本カトリック司教団は、第2次世界大戦が終結してから50年がたった今、それまでの歴史を振り返り、日本が関わったさまざまな戦争において尊い命を落とされた数多くの人々に思いをいたし、つつしんで哀悼の意を表します。そしてここに、私達は日本の教会のすべての方々とともに、あらためて過去の歩みを反省し、キリストの光のもとに戦争の罪深さの認識を深めて、明日の平和の実現に向けて全力をつくす決意を新たにしたいと思います」と声明しました。

さらに、この文書において私達は、戦時中の私達の教会の過ちについてもはっきりと認めています。「戦前、戦中、日本のカトリック教会は、まわりからあたかも外国の宗教として冷たい目で見られ、弾圧と迫害を受け、軍部から戦争に協力するよう圧力をかけられており、自由に教会活動を展開することはできませんでした。

しかしまた一方、今の私達は、当時の民族主義の流れの中で日本が国を挙げてアジア太平洋地域に兵を進めていこうとするとき、日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気づかず、尊い命を守るために、神の心にそって果たさなければならない預言者的役割についての適切な認識に欠けていたことも、認めなければなりません」

今、これらのことを率直に認め、神と、戦争によって苦しみを受けた多くの人々に対してゆるしを願い、和解と平和を祈るために参りました。

また、同じ理由から、韓国、フィリピンにも訪問いたしました。終戦50年の1995年には、ワシントンの大司教、ジェームス・ヒッキー枢機卿、オーストラリア・シドニーの大司教、エドワード・クランシー枢機卿と共に、それぞれのカテドラルにおいて、同じ時刻にミサを捧げて、罪のゆるしと、私達が互いにゆるし合い、互いに尊敬の心を持って生きる道を学ぶことを願う同じ祈りを捧げました。

今日ここに、私は、シモニス枢機卿様、オランダの教会のお招きによって、はじめて皆様と共に、ゆるしと和解を祈る共同司式ミサを捧げています。これらの言葉を、皆様に直接にまた個人的に申し上げることができたことに対して、私は心から感謝いたします。

過去からの苦しみと怒りにもかかわらず、オランダの皆様が私の言葉を心の内に受け止めてくださいますように、衷心よりお願いいたします。

皆様すでによくご存じのように、私達は2000年の大聖年を迎える準備をしております。その準備の一環として、ヨハネ・パウロ2世教皇様が強調しておられることは、過去の過ちを認め、あたうるかぎり、これを正すことにあります。カトリック教会によるこのような行為は、単にカトリック教会自身にばかりでなく、すべての人々に、大いなる祝福をもたらすことになると、私達は確信しています。

なぜならば、償いと和解こそは、連帯と一致のための最も確実な基盤だからです。経済的、社会的なグローバリゼーションが全世界的規模で進んでいますが、そのような時こそ、全てのキリスト信者の一致こそ最も願わしいことであると思います。それこそ、現代の全世界のキリスト信者にとって最大の挑戦であります。

そのためには、反省と深い考察が必要です。私達が賢くそして正しく、和解と友情の道を進むことができますように、教会の母である聖母の取り次ぎを願って祈りましょう。最大の和解者であるキリストの誕生2000年の祝いに向かって、キリストの私達に対する愛と慈しみに信頼して共に歩み続けることができますように。

そしてこの聖体祭儀が私達日本とオランダの国とすべての人々に豊かな実りをもたらしますように。

アーメン

東京教区主催 マザー・テレサ追悼ミサに1400人が参加

9月8日午後4時から東京カテドラル聖マリア大聖堂で、東京教区主催のマザー・テレサ追悼ミサ(森一弘司教主司式)が、インド大使、教皇庁大使、WCRP(世界宗教者平和会議)、シュバイツアー協会の代表をはじめ、1400人以上の人々が参加して行われた。

ミサ後、「神の愛の宣教者会」の代表が、「マザーは、自己放棄と神の愛を、全世界に伝えることを、死の瞬間まで続けた」と全世界の人々へ支援に対する感謝のことばを述べた。

マザー・テレサお疲れさまでした 教区主催 追悼ミサ 森 一弘司教説教

日本時間で9月5日の午前1時にマザー・テレサは、87歳の生涯を閉じました。その死去を伝えるその日の夕刊の一面には、「貧者救済の生涯」、とか「貧困層救済の生涯」という見出しが並びました。極貧の人たちとともに生きようとした彼女の生涯を的確に表すためにふさわしい表現かもしれません。

事実、修道者となった彼女は、修道会が母体となる学校教育に飽きたらず、30代半ばで、あらたに「貧しい人々の中の最も貧しい人々に奉仕すること」を決意して、スラム街の真っただ中に単身飛び込んでいったのですから。

そして毎日のように、町中に飛び出し、積極的に見捨てられている人々、絶望している人々を探し出し、人種や宗教の違いにかかわりなく、全身全霊をあげて、世話をし、愛したのですから。

彼女のこの生き様に、インドの人々だけでなく、世界中の人々が引き寄せられたのは貧しい人々に対する姿勢が、自己満足ではなく、権威におもねるものでもなく、本物であったからだと思います。

彼女のさまざまなエピソードは、彼女が本物であったことを証ししています。

実に、死んだ後彼女が残したものは、2枚の質素な木綿のサリーと着古したカーディガン、そして常に持ち歩いた布袋だけでした。

本当に清貧そのものでした。また、権威にもおもねるようなことは全くありませんでした。教皇から送られた豪華な自動車は、貧しい人のために資金集めの賞品として提出してしまいました。ノーベル平和賞を受けた祝いの晩餐会も断り、その費用は貧しい人々のために使うことを求めました。ダイアナ妃から寄贈された衣服は、競売にかけております。

ひたすら貧しい人々を救うことに撤した彼女の生涯を「貧者救済の生涯」「貧困者のための生涯」と讃えることは、的確な表現かもしれませんが、ただそれだけだったのでしょうか。

彼女によって、希望を与えられ、救いへの道を与えられたのは、貧しい人々だけでなかったのではないでしょうか。現代世界そのものが、そして私たちが、彼女によって、光を与えられ、進むべき道を教えられたのではないでしょうか。

彼女によって光を与えられた世界の筆頭に、私はアジアのカトリック教会をあげねばならないと思います。4百50年前、東洋の使徒フランシスコ・ザビエルがインドのゴアを訪れたとき、彼はそこに洗礼を受けずに多くの人々が死んでいくのを見て、その人たちを救うために洗礼を懸命に授けたと報告されております。その数は、ときには1日数100人の数にのぼったとも言われております。その後、フランシスコ・ザビエルは、カトリック教会の中では東洋の宣教活動の保護者として祭られてきました。

しかし、帰天されたマザー・テレサとそのシスターたちは、同じインドで、死に瀕した貧しい人を前にするとき、まずその人がどのような宗教を信じているか尋ね、ヒンズー教であれば、ヒンズー教の祈りをその耳元で唱え、死んだあとも、その死者が生前信じていた宗教の儀式にそった葬儀を行ったといわれます。

この2人には、それぞれの生きた時代の違いがあることは確かです。

フランシスコ・ザビエルの時代は、植民地主義が何の疑いも抱かれず、肯定されていた時代であり、マザーの生きた時代は、他の宗教にも永遠の真理があると宣言し、諸宗教との対話を強調した第2バチカン公会議後の時代です。

フランシスコ・ザビエルには、自ら信じる教義の絶対性に基づく人間愛でしたが、マザー・テレサは、諸宗教が共存する世界の中で、一人ひとりの人間としての尊厳の絶対性をしっかりと見つめたところから溢れ出てくる実践的な人間愛でした。

いずれも、真実な愛なのでしょうが、ひびきが違います。フランシスコ・ザビエルの活動に対しては教会内の人々からしか感動を得られませんが、マザー・テレサのそれには、宗派を越えて多くの人々が共感します。

実に、植民地主義と歩調を合わせるように、東洋で宣教活動を続けてきたカトリック教会は、数100年の宣教活動の努力にもかかわらず、その教勢は、東洋では、フィリピンを除けば、微々たるものです。

その理由は何かと問われれば、さまざまな回答が帰ってくるでしょうが、その活動の根底に、欧米文明の優越感とそれに結びついた教会のおごりが流れていることは、見落としてはならないことのように思えます。

ところが、マザー・テレサには、これまでの教会に常についてまわった権力主義、植民地主義、凱旋主義等のさまざまな臭い、汚れのすべてが払拭されております。長い西欧の歴史の中で着込んでしまった、伝統という分厚い衣をすべてぬぐい去ったすがすがしさがあります。

それゆえにこそ、多くの人々が、その宗派、信条、イデオロギーの違いを越えて、警戒心を解いて、信頼をもって彼女に近寄り、そのメッセージに共感することができたのだと思います。実に、彼女は、私たちカトリック教会に、アジアで歩むべき道を明らかにしてくれたのだと思います。

彼女によって、歩むべき道を示されたのは、カトリック教会だけではありません。現代世界もそうです。

今、時代は、20世紀を終え、新しい世紀を迎えようとしております。彼女のメッセージは、新しい世紀を迎える私たち人類の歩みを照らすものです。

20世紀は、実に、大量殺戮の世紀です。長い人類の歴史の中で、これほど大量の人が戦争で殺された時代はありません。植民地主義、国家主義、帝国主義、さらにはイデオロギーや民族の対立の中で、人間の命がもてあそばれ、その犠牲となって、実に多くの人々の命が踏みにじられました。瀕死の状態にある貧しい人々に、「その宗教は何ですか」と尋ね、自ら信じる宗教を押しつけないマザー・テレサの中に生きているものは、一人ひとりの人生の尊厳に対する敬いであります。

一人ひとりの人間の尊厳への絶対的な敬意そして真実な愛。ここに、私たちが、しっかりと受け止めなければならないメッセージがあります。ここに、20世紀の過ちを2度と繰り返さないための光があります。国家、イデオロギー、民族の枠を越えて、私たち人類が手をとりあって生きていくための土台が、ここにあります。

マザー・テレサが安置された教会のホールで、ひとりの貧しい女性が「ああ、マザー、あなたが去ってこれから私たちを誰が救ってくれるのですか。ああーマザー」と泣き叫んだと今朝の新聞は伝えておりますが、天に昇られたマザー・テレサは、「さあ、この叫びを受け取るのは、今度はあなたたち一人ひとりですよ」と私たちに語りかけているにちがいないと思います。

マザー・テレサ、本当にお疲れさまでした。これから、私たちが、貧しい人々の叫びを受け取って、しっかりと応えていきます。今は天国でゆっくりお休みください。

神学生合宿 in 大島

恒例となっている東京教区神学生合宿が伊豆諸島の大島にある大島教会で行われた。ふだんは聖務に忙しい白柳枢機卿や森司教、今年から新たな顔ぶれとなった養成担当司祭、そして神学生7人が集まり、総勢12人での合宿となった。

1日目、大島教会に先発隊として古川師と神学生全員が現地入り。

司祭館と長い間使っていなかった別館の清掃を開始。居間の棚を整理していると、20年くらい前の神学生合宿のプログラムが教会所蔵のアルバムの中から発見され、ひとときの話題を提供した。

2日目、昨年の神学生合宿での作業以来手つかずだった庭を、素人ながらの手入れ。

広い敷地にうっそうと茂る樹木を相手に人力ではとてもかなわず、今年は2台の芝刈り機と1台のチェーンソーを導入した。

炎天下の中で精力的に作業をしたかいがあって、初日には草木に隠れて見えなかった教会敷地の真ん中にあるマリア像が、教会に面した道路からはっきり見えるようになるまできれいになった。

3日目、白柳枢機卿、森司教をはじめ養成担当司祭が大島に到着。その後、さっそくケーススタディのプログラムを行った。

ケーススタディでは、最近の多様化社会をもとにして起こり得る教会での問題の実例について、もし自分が主任神父であったらどのような対応をするか等を2グループに分かれて述べ合った。

最終日の5日目のミサは、枢機卿司式のミサであった。

その中で「神学生1人ひとりの中に神様からの召し出しをみた」とはじまり、説教の中で今年8月にパリで行われたワールドユースディのテーマ『先生、どこにおとまりなのですか』を取り上げ、さまざまな形の困難が直面する世界の中でつねにキリストをみる大切さを述べられた。

この神学生合宿の目的の1つに、司教団と養成担当の司祭、そして神学生との日頃では難しい交流をすることにある。今回は、日頃思っていることを神学生それぞれが分かち合い、司教、司祭もそれに対して親切に考え方を説いてくださったので、これからの奉献生活を力づけるものとなった。
(豊島治神学生)

マタタ神父のインタビュー 佐久間彪神父のアトリエを訪ねて

7月26日に世田谷区北沢にある世田谷教会の主任司祭、佐久間彪神父を訪ねました。佐久間神父は、教会の主任司祭でありながら、カトリック中央協議会典礼委員会メンバーとして、また白百合女子大学の教授として、さらに油絵、チェロなどといったことを大切にしながら、多忙な日々を送っておられます。そこで今日は、師の人生の一部とも言える、油絵という芸術を中心にして、話を進めたいと思います。

生まれ持ったもの〈本能〉としての絵

佐久間神父は、司祭となるために神学校に進む以前には、美術学校に行って絵の道に入ろうと考えていました。中学時代からの友人、そして神学生時代を知る友人たちなら、絵を描いていた師のことをよく覚えています。東京大神学院を卒業後は、フランクフルトに留学し、アーヘンで叙階されると、そのまま主任司祭として働き、帰国後も、教会の活動と他の仕事に追われて、全く絵を描くという時間はありませんでした。

しかし、2年前に交通事故に遇って、9死に一生を得た時、身体の回復のために、まさに40年ぶりに絵筆を握るようになったのです。

この師にとって、油絵を描くことは、ただ単なる趣味なのではありません。司祭であることは師にとって最も大切なものですが、絵を描くというのは、〈自分にとっての本能のようなもの〉と表現されています。そして、油絵によってこそ、神から与えられた宇宙が描写され、その神秘性が感じさせられ、神に近づく世界が表されるのです。そこにおいて、絵の美と教会の典礼の美とが一致するところが見えてくるのです。

感情、典礼、絵

教会の壁に飾られた多くの絵は、師の過去と現在、そして未来を語りかけているようです。それは、フランクフルトというドイツの町での神学の勉強であり、神への奉仕という典礼を通じて行われる、神への賛美、全宇宙への感謝なのです。

その中にあって、最も感動を起こさせるものは、絵で表現された〈主の祈り〉でした。それは、イエス・キリストの死と復活において、神が創造された宇宙全体が、神に導かれて再生されるということです。すなわち、こうした絵と典礼との関連性というものは、人間の深いところからの感動によって表現されるということにあり、そこに聖があり、それにおいて、美は一つに結ばれるのです。

訃報

フランシスコ・ザビエル 志村辰彌神父 (東京教区司祭)

◆略歴
1904年(明治37年)1月29日 生まれ
1904年2月28日 山城教会(甲府)で受洗
1933年12月25日 ラテラノ大聖堂(ローマ)で司祭叙階
1934年11月 カトリック中央出版部 編集部長
1938年5月 大森教会主任司祭
1942年1月 神田教会主任司祭
1944年7月 日本天主公教総務院庶務部長
1945年11月 カトリック教区連盟総務部長
1950年5月 松戸教会主任司祭
1955年5月 大森教会主任司祭
1969年9月 大森教会助任司祭
1971年9月 東京カテドラル大聖堂勤務
1983年3月 引退
1997年7月30日 帰天

青梅教会 新聖堂献堂式

8月31日午後4時から、青梅教会(主任:晴佐久昌英神父)の新聖堂の献堂式(白柳誠一枢機卿司式)、落成式典と祝賀会が行われた。

正門を入り、東西に長い敷地の西側に今年2月に落成した聖母幼稚園、東側に教会が園庭を挟んで「二」の字形に向き合い、2つの建物が効果的に配置されている。

6角形の聖堂の収容人員は、ゆったり座って120人。また、聖堂付属の事務室は畳敷きで、聖堂との仕切りが一面のガラス張りなので、ミサ中は「赤ちゃん部屋」として使用される。

当日は、歴代主任司祭をはじめ、多摩ブロックの教会、近隣、幼稚園等から大勢の人々がお祝いにかけつけ、青梅教会所属信徒とともに喜びを分かち合った。

晴佐久神父は、小教区報『おうめ新聖堂竣工記念特集号』で次のように述べている。

「新しい教会が建っても、そこが無人の館では何の意味もない。

教会の本質を一層極めながら、実際にいつも人が集まっている教会を目指そう。

どんどん使ってどんどん汚し、壊れるほどに使い尽くそう。もう、こんな教会じゃ狭くて不便だと言い出すくらいに人が集まってきたとき、神様は一層すてきなプレゼントをくださるに違いない」
(「教会活用術」結びより)

WCRP SUMMER CAMP ’97 報告

8月28日 (木)から31日(日)まで、千葉県九十九里でWCRP(世界宗教者平和会議 理事長=白柳枢機卿)日本青年部会主催のサマーキャンプ’97が行われた。

参加者は55名、参加教団は仏教系、神道系等計15教団に及び、「ねぱーる ―Never Ending Peace And Love」をテーマとして3泊4日を共に過ごした。

第1日目、28日は東京駅に集合し、会場となる妙智曾教団の千葉聖地に向かい、「新秋 薪かぶき」を鑑賞した。

2部構成になったこのプログラムは、一部で三味線の2部合奏を味わい、第2部で中村富十郎、澤村藤十郎出演の歌舞伎「百千鳥娘道成寺」を観劇するというものだった。ふだんあまり伝統芸能に親しむ機会のない私にとっては、大変面白味があり、特に女形の中村富十郎さんの7変化には息をのむ思いがした。

29日は午前中、導入レクリェーションが行われ、昼食を金光教の一食運動にならって断食する、という説明があった後、参加教団ごとに思い思いの教団自己紹介をした。

カトリックでは聖歌を2曲、即興の振り付け付きで披露した。午後は真正会館の余語神父の講演を聞き、早目の夕食のバーベキューを頂いた。

キャンプ中に考え込まされる機会は多々あったが、この日の夜、北朝鮮の現状レポートのビデオを鑑賞し、その後ディスカッションをした時もそのひとつである。ビデオを見た後、このキャンプに参加したものとして何ができるか、というテーマで話し合いが持たれ、各自の勉強不足、援助に対する疑問等の意見が出て、結局各教団に持ち帰ってこれからを話し合おうということに落ち着いた。

実質的な最終日となった3日目の30日は、午前中片貝海岸でレクリェーションをした後、清掃奉仕をし、午後は恋愛と結婚、欲望、飢え、教育、友情、宗教、自由、環境といったテーマごとに分かれ、2時間ほどディスカッションをした。

その後、全員の前で話し合った内容のプレゼンテーションを行った。この日いちばん印象に残ったのは、昼食時に妙智曾の奉仕の方がお代わりのお手伝いに走り回っていらっしゃるのを見て、参加者の一人が「申し訳ない」と語ったことだ。

私の周りでその言葉を口にする人はめったにいなかったので、新鮮に感じ、日本の昔からの思いやりの心が失われたとよく耳にしていたけれど、宗教者の間には残っているのでは、と思った。

4日目は宿舎の片付けや班ごとの反省をし、その発表も兼ねた閉会式を済ませて東京駅に戻った。反省では、「楽しんだ」という感想の他に、「本当に宗教の壁を越えて分かち合えたのか」、という声も聞かれ、それに対して、「それはこれからの実践にかかっているのでは」、という意見が出された。

私自身、カトリックに関する勉強不足から、他の宗教に対して今ひとつ突っ込んだ質問ができず、他の参加者との関係があいまいな”仲良し”で終わってしまった観がある。けれど、今までほとんど知らなかった日本の宗教に同じ年代の参加者を通して触れることができ、視野を広げる機会にはなったと思う。来年は関西で同様のプログラムが開催される予定だそうで、より多くの方が参加して、より良いキャンプとなることを願います。
(石丸智沙子)

CTIC 東京国際センター通信

「事務所の引っ越し (味よしから大安へ)

CTICのすぐそばに琉球泡盛という大きな暖簾のかかっている「味よし」という飲み屋がある。

交差点の角地という立地条件の良さにもかかわらず、店を立派にしようなんて意識は全くないようで、江戸時代からの居酒屋のように古くて薄暗い。70歳代のおばさんが店を切り盛りしているが、ワイルドな雰囲気が漂っている。仕事帰りに時たま寄るが、彼女の気に入らないことを言うと、ぎろっと睨まれ一喝されることがある。

CTICのスタッフの一人が他の人が泡盛を飲むのを見て「泡盛をストレートで飲むのか」と言うと、「泡盛はストレートで飲むものだよ」と吐き捨てるように激しく一発。これが最初の一喝だった。いつだったか季節はずれに「いちご」という献立表を見たナベ(渡辺)さんが「輸入物じゃあねぇーか」と言ったら、「うちは輸入物なんか置いてないよ」と怒る。こちらが未だ飲んでいるのに「勘定はいくらだよ」と言われ追い出されてしまった。でも、安くて旨いので、また行くことになる。庶民的で飾らない町、亀戸はそんな所である。

鰻の寝床、そんな言葉がぴったりするCTICの事務所。10坪の細長い事務所。道路に面したビデオ屋の真後ろにCTIC事務所があった。

窓は一つあるが、隣のビルとの隙間はわずか60センチ位、外の天気がどうかをこの部屋で知ることはできない程、昼間でも電気がいる。

隣のビルの壁が風化してボロボロ崩れている。地震があったら「助からないな」という思いが強かった。2つずつ向き合ったスタッフの机が6つあり、その机に並行して相談者のための机がある。それで事務所はマンタンになる。

ボランティア・スタッフは相談机に座っているが、相談者が来ると、僅かな隙間を求めて放浪しなければならない。渋谷教会からこの事務所に移ったのは3年前。

どんなに小さくても暗くても気にならなかった。亀戸まで相談者が来るだろうかという不安の方が大きかった。

そんな不安はすぐに霧散し、相談者は日ごとに数を増すようになった。結婚、離婚、出産、賃金未払い、解雇、労働災害、疾病、養育医療、結核、子供の教育、麻薬、売春、窃盗などの犯罪、司牧上の問題など人生のあらゆることが持ち込まれた。

悲しみや苦しみ、絶望、喜びや希望、安堵など彼らの思いを受け止めるに、この貧しい小さな事務所はふさわしいと思えた。「小さくて大変ですね」と言われても、頑固一徹な「味よし」のおばさんのように「これでいいんだよ」と言ってきたが、ボランティア・スタッフのことやこれからのことを考えると広い事務所を探さねばならなくなった。3年の契約が終わるのをきっかけに、事務所の移設を決めた。私には「味よし」のおばさん程の根性はない。

新しい事務所は約30坪、前の事務所の3倍である。窓のない生活から開放され、事務所が5階ということもあって、3面が窓で昼間は電気が不要なくらい明るい。

北側の窓から総武線の線路が見える。早速、窓ガラスにCTICという大きな文字を張り付けた。秋葉原から総武線で来ると、亀戸駅の直前、右側に「CTIC」の文字が見えるはずだ。

今は机が8つ、相談机が2つ、それに寄せ集めだが応接セットが置かれている。スタッフの有川君が「歩くと疲れる」と冗談が出るくらい事務所が広くなった。以前の事務所は蔵前橋通りだったが、今度の事務所は京葉道路沿いで亀戸駅から5分と近くなった。事務所が大きくなっても、3年間鰻の寝床で働いてきた精神を決して忘れまいと思っている。「味よし」は遠くなったが、「味よし」に負けないくらい安い「大安」という飲み屋が近くにあり、誘惑は計り知れない。ぜひご来所下さい。
(大原 猛神父)

CTIC新事務所
カトリック東京国際センター  (運営委員長) 森 一弘  (代表) 大原 猛
〒136 東京都江東区亀戸1-21-5 モンドビル5F
TEL03-3636-1981
FAX03-3636-1985 (TEL・FAXは変わらず!)

日韓修道女連帯の祈りの日 3年間、 毎月15日に

日韓の14,000人の修道女は、今年の8月15日から3年間、心を合わせて、毎月15日を「日韓修道女連帯の祈りの日」として、いたみの歴史のいやしと和解、そしてアジア太平洋のさらには世界の平和のために祈ることを始めています。

韓国の女子修道会総長管区長会は、2年前の12月、戦後50周年に従軍慰安婦に対する日本政府の公的謝罪と補償を求めて当時の首相に手紙を送り、徹夜の祈りと集会を持ちました。日本の修道会もこのアピールに応えて行動を始めたのが、日韓修道女連帯のきっかけです。

日韓修道女連帯の祈り

癒しと平和の源である神よ、日韓の修道女が心を合わせて祈るこの日を祝福して下さい。
祖国と文化、家族、友人、人間の尊厳、そして未来までも奪われた多くの人々の計り知れないいたみに、深く共感できる恵みをお与えください。

私たちが、このいたみの根を断つ努力をし、このいたみが真の平和を築く礎となりますよう、聖母の特別な御取り次ぎを祈ります。

私たちの主イエス・キリストによって アーメン
(日本女子修道会総長管区長会)

1996年に日韓司教協議会による「共通の歴史認識に基づく教材作成のプロジェクト」が始まり、さらに日韓修道女の共同行動が進み、両国の合同研修会の実施で祈りと交わりが体験的に深まり、感動と共感が「共に祈る」ことへと前進しています。

今年の5月の女子修道会総会は「壁を越えて 世界を共に創るⅡ―女性として韓国との関わりを振り返りながら」というテーマで行われ、その会議中に全員の賛同がこの連帯の祈りという結実になりました。

近くて遠い国といわれる日韓の交わりが、キリストにおける真の愛と祈りによって、少しずつ隔たりの溝が埋まっていくために、修道女のささやかな一歩が踏み出されています。

東京大司教区人事異動

(括弧内は旧任地等)

藤井泰定師 8月29日に帰国、 10月1日より、 8王子教会主任 (ケルン教区出向)
市川嘉男師 10月1日より田無教会主任代行(洗足教会協力司祭)
平原陽一師 9月2日田無教会主任司祭退任、 しばらくの間、 静養

過去の事実を客観的に直視する勇気を 平和祈願祭森司教説教

今日、私たちは、第2次世界大戦の戦場に派遣され、戦没された方々の冥福を祈るために、ここに集まりました。戦死された方々は、二百数十万人、その内この墓地に葬られておられる方は30数万人と言われます。そうした方々は、天上から現代の日本社会をご覧になって、どのような思いでおられるでしょうか。

戦後半世紀が経った今の日本は、かつての軍国主義の時代とは比較にならないほど、経済的に豊かになっております。また敵国と言われて、そのために戦った米国とは安保条約を結び、自由主義国の一員として繁栄しております。こうした今の日本の姿を見て、戦場に駆り出されて、ここに葬られている方々は、第2次世界大戦をどのような思いで振り返っておられるのでしょうか。

「戦場でのこと、戦争のことに関しては、どうか触れないで欲しい、それだけは勘弁して欲しい」という方々が多いかもしれませんね。ご遺族の方々の正直な気持ちは、「今さら、過去の戦争に触れて欲しくない。死者を安らかに眠らせて欲しい」ということかもしれません。

そうした気持ちを重々承知の上で、21世紀を迎えようとする今、20世紀の過ちを繰り返さないためにも、葬られている方々やご遺族の方々には大変失礼なことになるかもしれませんが、第2次世界大戦の戦場に行かれた方々の思いがどういものであったかの確認をしてみたいと思います。

「自分は祖国を守るために、喜んで命を捧げるのだ」「愛する家族を守るために、戦場に行くのだ」「天皇を信じて、天皇のために殉じるのだ」「日本を中心にしたアジアの発展と平和を信じて使命感をもって出征に応じるのだ」あるいは「カトリック教会の指導を信じて、ロシヤを中心にした共産主義勢力の浸透に抵抗するための聖なる戦争と信じて応じるのだ」あるいはまた、「嫌なことだが、自分だけ断ることは出来ない」「何も考えない」と言う方などなど。

全く異なる状況の中に生きる私たちに、それぞれの動機、理由づけを裁くことはゆるされるものではありませんし、その資格がないことは確かです。しかし、戦場に出かけた理由づけがどうあれ、ある事実は認めなければならないと思います。

その事実とは、朝鮮半島をはじめ、中国、その他のアジア諸国の無数の人々の命を奪ったという事実、その文化・伝統を破壊したという事実、そして癒すことのできない傷を与えてしまったという事実、そして戦場に駆り出された人々の内二百数十万人の方々が命を落とされたという事実です。

日本軍の侵略による犠牲者は、アジア諸国で数100万人になるといわれます。また、ナチスドイツの弾圧によって強制収容所で命を奪われたユダヤ人の数だけでも600万人を越えると言われます。
このように、実に膨大な数の人々が殺害され、国が、都市が、そして町や村が徹底的に破壊されたということは、これまでの人類の歴史の中にはかつてなかったことです。

これは20世紀の特徴です。20世紀を大量殺戮と破壊の世紀にしてしまった一つの原因は、核爆弾を頂点とする兵器の開発です。これにより、戦争犠牲者の数はかつてないほど、膨大なものになりました。

しかし、兵器の開発に戦争の責任を転嫁することはできません。兵器を開発し、それを用いたのは人間なのですから。

戦争を誘発した根っこにあるものは特定の共同体の、つまり国家の、民族のおごりです。20世紀に行われた戦争を振り返ってみますと、ある特定の共同体が、自らを絶対化している事実を指摘できます。

フランス革命によって誕生した「自由、平等、博愛の精神」は市民国家を誕生させ、国内での身分の壁を取りはずすことには成功しましたが、同時に国家を絶対化し、国と国との対立に向かう道を進みました。国家の利益を中心にした国家主義、帝国主義は、植民地に対しては侵略と弾圧そして搾取の道をたどりました。日本も、そうでした。日本の帝国主義は、アジアの人々を踏みにじり、その文化伝統を破壊するという、醜い過ちを犯してしまったのです。

自分たちの利益を絶対化する、自分たちの民族としての伝統・文化を絶対化する、自分たちの信条・イデオロギーを絶対化するとき、それは、すぐさま強者が弱者を虐げていくという不幸な道につながります。これが、20世紀を大量殺戮と破壊の世紀にしてしまったのです。

21世紀を再び、大量殺戮と破壊の世紀にしない。それを最も願っておられるのは、ここに葬られている方々だと思います。それに応える責任が私たちにあります。そのために、私は、ここに3つのことを強調したいと思います。

その一つは、過去の事実をきちっと見つめることです。事実を事実として冷静に、客観的に直視する勇気を持たなければならないと思います。

戦争そのものが、どんなに愚かなことであったか、どんなに多くの人々の尊い命とその人生を無にしたか、そしてどんなに多くの人々の人生に深い傷を与えたかを知ろうとする努力を怠ってはならないと思います。戦争の愚かさと悲惨さ、そして残虐さを肌でもって知ること、それは平和を守り、平和を育てていくためのたくましいエネルギーになると思うからです。

もう一つ、それは戦争への流れを止めることができなかった私たち日本人としての根本的な弱さを告白することであり、そして、土足でアジア諸国の人々の生活を踏みにじってしまったという過ちに対する謝罪です。それは、国家としての相手国に対する謝罪だけではなく、人間として一人ひとりの人生の尊厳を侵したことに対する一人ひとりの謝罪です。それは、国家間の話し合いで決着がついたと言われるレベルのものとは違います。あくまでも、一人ひとりにしっかりと向き合うような思いで行わねばならない謝罪です。このような率直な告白と謝罪がない限り、アジア諸国の人々から真の信頼をかちえることができないと思います。日本軍によって殺され傷つけられた人々の命は決して取り戻すことはできないでしょうが、しかし、心からすみませんでしたというひと言は、アジア諸国の人々の心を和らげるでしょう。そうしてこそ私たちも、確かな信頼を取り戻すことができると思います。

もう一つは、国家を、民族を、自分の信条を、あるいはイデオロギーを絶対化し、それを具体化しようとする動きを鋭く識別し、その過ちには声をあげ、強く抵抗できるビジョンを育てることです。

20世紀はあまりにも、国家に私たちのすべてを集中し過ぎました。国家の枠の中で私たちの生活を確立しようと、国家に依存し過ぎました。21世紀は、このような思いから脱却すべきです。国家を相対化し、国家の枠を越えて、私たち一人ひとりの人生の確立の道を切り開かなければなりません。それは、非常に困難な道ですが、私たちキリスト者にはそれを支えて導いてくれる光があります。それは、父なる神のもとに、すべての人間は、国籍、民族、宗教の違いを越えて、皆兄弟姉妹であり、だれも侵すことのできない人間としての尊厳をもっているという真理であり、そして愛の掟です。

このように、私たちが、きちっと過去の歴史の過ちを見つめて、整理し、2度と同じ道を歩むまいと固く決意すること、それこそ、ここに葬られている方々に対する最高の弔いになるのではないでしょうか。私たちが過ちを認め、謝罪し、アジア諸国の人々の真の信頼を勝ち得て、世界の平和のために歩み始める姿を見て、ここに葬られている方々だけではなく、広島、長崎、沖縄で亡くなられた方々や大空襲の犠牲者そして戦場で命を奪われたすべての人々は、天上でほっとされるのではないでしょうか。

東京教区司祭の平均年齢は58.53歳

司祭の平均年齢

■全司祭数 1,854人
平均年齢 59.16歳
内訳
日本籍司祭数 1,001人
平均年齢 56.11歳
外国籍司祭数 856人
平均年齢 62.73歳

■全修道士 276人 (日本籍 201人 外国籍 75人)
平均年齢 59.28歳

■名誉(引退)司教 8人
平均年齢 80.25歳 司教17人
平均年齢 63.47歳

カトリック中央協議会 広報部
’97・8月現在

教区別司祭平均年齢

教区 司祭数 平均年齢 最高齢 最年少
札幌 35 60.77 85 33
仙台 31 57.87 87 32
新潟 16 58.00 80 32
浦和 15 59.87 86 44
東京 91 58.53 90 30
横浜 47 53.17 87 32
名古屋 21 59.29 85 43
京都 18 58.50 85 32
大阪 58 56.48 87 31
広島 24 55.38 75 35
高松 11 53.64 73 33
福岡 34 54.59 81 26
長崎 97 53.65 89 26
大分 12 49.92 85 31
鹿児島 22 57.27 85 31
那覇 6 48.67 66 34
538 56.28 90 26

 

フランス・スタディツアー 〜日韓学生交流会〜 WYD ワールドユースデー

8月にパリで行われたワールドユースデーに、日本からいくつかのグループが参加し、東京教区の青年もその中に数多く見られた。世界中から集まった青年たちと交流しながら、100万人以上集まったミサなどに感動したり、ヨーロッパのキリスト教に感心したり、戸惑ったりした日々を過ごした。

その中でも、3日間にわたりルルドで行われた日本と韓国の学生交流会(団長:澤野耕司神父)では、20数名ずつの日韓の学生が、体を一緒に動かしたり、祈ったりしながら、理解と親睦を深めることができた。

アルプス地方での国際的な集まりに場所を移した後、日韓の歴史にからむ分かち合いを行った。韓国を訪問したときの喜びと悲しみ、戦争の被害者だと信じる日本(人)に出会っての体験、韓国人の血を引きながら日本人として育った体験、南北離散家族、従軍慰安婦、親から聞いた話、在日韓国人である親戚のことなど。

途中、ひやりとするような質問も出たが、司会の趙神父と余語神父も心の底から喜びを感じるほどの大成功であった。

両国の学生とも、「出会って、いろいろ知った上で、心を開いて話し合えば、これからの良い可能性が広がる」との確信を持ったようである。

最後に趙神父が「友情は山道のようだ。通わなければ雑草が生える」という諺で結んだが、その時には学生たちの心はすでに結ばれていたといってよい。日韓のこの交流は、カトリック紙のLACROIX(ラ・クロワ)などの新聞社やラジオ局から取材を受けることになった。

さらに学生たちに親近感を生ませたのは、『フランス』であった。フランス料理やフランス(ヨーロッパ)スタイルのキリスト教などに、飽きや疲れが出始めてくると、お互いに驚くほどの親近感を持ち始めたのである。

アジア料理を食べるチャンスを持ったり、アジアの集会に出たりした時、とても賑やかな音楽が流れていても、胃袋も心も体もホッと和む共通体験をして、「いがみ合っている場合じゃない。俺たちは同じアジア人、すぐ隣の隣人、いや、兄弟に他ならない」とつくづくと、あるいはしみじみと感じた学生が続出したのである。当然、司祭も学生も、再会を強く約束して別れることになった。できれば来年2月に韓国か日本で行いたいという話も出ている。

また、8月初めにまず実施されたノルマンディー地方でのスタディツアー(引率=シェガレ神父)では、農家での素朴な1週間の滞在をカマンベールやリンゴ酒と一緒に楽しみながら、牧場や農業高校や小工場訪問、ビーチリゾートや古い町の散策、そして聖アンセルモのいた修道院での黙想などを満喫した。

日本人のグループでの訪問は珍しいらしく、連日地方紙の取材を受け、さらに、リジュ(聖テレジアの修道院)を訪問した際の写真が、全国紙LEFIGARO(ル・フィガロ)に大きく取り上げられた。

ノルマンディーでの率直で暖かい触れ合いに基づく一人の学生の黙想と振り返り。

「今までは、私は積極性に欠けていたり、自分を主張することを怖がっていました。そういった自分自身で”嫌だな”と思う部分を直したいと思ってこのツアーに参加しました。

言葉の壁もあったけど、言葉ではなく、心で通じ合うことができて、自分を表現することも少しできました。人の心の中にあるものに触れることができて、自分の心にも新しい感動や、成長があったと思います。多くの人達と交流できたことは、私にとって大きな喜びでありすばらしい体験でした。

日本に帰ってからは、なんとなく毎日過ごすのではなくて、自分の目的を持って、生活していきたいと思います。まずは日本語でもっと自分を主張し、またノルマンディーに来る時にはもっと自分のことを話せるようになっていたいと思います」

教区委員会紹介 その15「東京教区移動信徒連絡事務所」

◎高度成長期のさなか、集団就職により上京したカトリックの青年信徒たちに対する司牧的な配慮から、1970年代中頃に設置されました。

故郷を離れることで教会の教えからも離れることにならないように、また新しい土地、厳しい社会の現実の中でさまざまな問題に直面する彼らをサポートすることがその目的でした。

当時東京にやって来た人々の多くは東北方面から、大阪には九州方面から、というのが一般的な人の流れの傾向でしたが、カトリック教会の場合はそのほとんどが長崎からで、毎年100人ぐらいが上京して来ました。その時代の労働環境はそれこそ「女工哀史」的な過酷なものがあり、上京した青年達の困窮もひとしおだったそうです。

◎長崎教区とも密接な連携をとり、担当の聖心侍女会のシスターや教区、修道会の司祭たちが関わり、長崎に出向いて上京前の青年たちと会い、上京後のさまざまなお世話や仕事、生活、信仰についてのさまざまな相談に応じて来ました。

また「移動信徒の日」が設けられ、彼らのために献金が集められたり(現在「国際協力の日」となっている)、教会に通う便宜のために小教区の地図が発行されたり、多彩な活動が行われました。

全国的なネットワークを持っていましたが、時代の変遷に伴い、社会の状況も「移動信徒」の性格も異なってきたために、各教区の必要に応じた機関となりました。

◎現在、東京大司教館内に事務所が置かれています。

〒112 東京都文京区関口3-16-15 TEL03-3945-6686

専任のシスター(メルセス会)がいて、青年の相談に対応し、故郷の教会とのパイプとなり、他の青年グループ(JOCなど)への紹介、集会の案内など懇切なコミュニケーションを図っています。

年4回の定期的な交流会があり、なごやかな雰囲気の中、互いの近況を分かち合い、励ましを得ていますが、次回は10月26日(日)、午前11時半より高円寺メルセス会で開かれます。

◎時代の要請と教会の事情から、これまでの活動が「長崎から上京して東京教区内で生活している青年」を対象という印象であることは否めませんが、設立の趣旨は決してそれに限られることはありません。

全国から自分の故郷や、住み慣れた土地を離れて、東京教区及びその近隣に在住・在勤している全ての方々に開かれたものです。より多くの方々のご参加、ご利用を望む次第です。
(油谷弘幸神父)

カトリック教会における結婚 ご存じでしたか? 考えてみませんか?

Q 実は、所属教会がありません。洗礼は受けていますが、教会には長い間、ごぶさたしていまして。どうしたらよいでしょうか?

A カトリック教会では、3年以上連絡が途絶えている場合、所属信徒を在籍不在者として扱います。従って、洗礼の記録が消えることはありませんが、教会には、事実上の信徒籍が失くなっていることもあります。カトリック信者には洗礼を受けていることだけではなく、教会との交わりの中に生きることが必要です。(信徒使徒職に関する教令4項、教会法典第29条1項参照)

所属教会がないという方、あるいは信仰生活から遠ざかっている信者の方々は、結婚を教会に申し出られることを機会に、きちんとした信仰生活をやり直すよいチャンスになります。要理について学んだり、結婚の準備講座を通して、信仰者の生き方を建て直すという心構えが必要です。

Q 結婚相手を紹介してもらえるのでしょうか?

A カトリック教会でも結婚相手を探している方々を紹介するという活動を行っているグループがありますが、カトリック教会の教えでは、結婚の最終的な責任は常に本人同士にあります。

日本の社会では、ある年齢に達したら結婚すべきだという風潮が根強くあり、また周囲の人々が結婚をお世話することが当たり前のようになっていますが、生涯を通しての伴侶となる人との出会いは簡単なことではありません。伴侶となる人を探す努力を他人に任せている、という態度は、しばしば、結婚の最終的な決断が本人にあることを薄めてしまいます。その意味から、これらの紹介を利用すべきか、慎重に考えていただきたいと思います。

結婚したいから、相手は誰でもよいのではありません。この人となら生涯、共に家庭を築いてゆこうという決意があって結婚に至るのです。見合いや紹介ということが、決して本人の責任を軽減するものではないことを特に付記しておきます。
(東京管区教会法事務局 結婚問題手続部門)

編集部から

●9月8日に行われたマザー・テレサ追悼ミサの際のいくつかの印象的なこと。目白駅前からバスに乗りましたが、停留所には大勢の人の列。明らかに追悼ミサに行くことがわかる人たち。「満員ですので、次のバスをお待ちください」ということで乗り切れない人もいました。車内は満員でしたで、なぜか心強かったカテドラルまでの道のり。皆の向かっている所が同じ所だから。

大勢の人が集まったミサも素晴らしかった。皆の心がマザー・テレサを通して、一つになっていたから。
(浦)

●90年9月に76号を発行してから丸7年が経ちました。速報性では日刊紙、週刊誌にはかないません。そこで編集部で確認し合ったことは、講演、講話、説教等はそのまま全文をできるだけ掲載しよう、一度に掲載できない場合は何回かに分けて、というものでした。

ところで、9月5日にマザー・テレサが死去され、教区主催追悼ミサが行われた9月8日は、146号の第1回校正が終った後でした。

その直後から信徒スタッフの所属教会や自宅などに電話あるいは口頭で、追悼ミサの森司教さまのお説教を何とか載せて下さいというご依頼が毎日のようにありました。

平和祈願祭のお説教にも同様のご依頼があり、力不足の信徒スタッフは困り果て、えーい両方ともと編集長に泣きついた結果、4面と6面に両方を全文掲載となりました。面割りのアンバランスな点などをどうぞご了承下さいますように。 (A)