お知らせ

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東京教区ニュース第73号

1989年07月01日

目次

  • 総会で語られたすべて
    5提案互いの連携もとめ
  • 提案1、情報センター
    教会と私たち、教会と教会、教会と社会を結ぶ情報機関を充実するために。
  • 提案2、生涯養成
    生活の中で信仰を育てるために。
  • 提案3、典礼
    人の心に訴えるような典礼を生み出すために。
  • 提案4、福祉
    社会的に弱い立場に置かれている人びとの必要に答える態勢の充実のために。
  • 提案5、教会と女性
    女性の信仰を育て、参加の場広げるために。
  • 次のステップへ
  • 「情報」アンケート
  • あした葉
  • 学費値上げで養成費増
  • 「だいじょうさい」考

総会で語られたすべて
5提案互いの連携もとめ

教区はこの春、聖心女子学院で、「ナイス具体策の実現をめざして」をテーマに第4回教区総会を開いたが、その主な内容は、諸提案の中から選んだ

(1)情報センター
(2)生涯養成
(3)典礼
(4)福祉
(5)教会と女性

についての中間報告と全体での討議だった。中間報告は前号に載せたので、今回は総会のいちばん大切な目的であった討議についてそのすべてを紹介する。これは分科会形式によって行われた。そのあと全体会では、今後のステップについての説明もあった。

準備スタッフ

大司教が任命した素案作りの協力者は次の通り。
(中間報告者、分科会の司会、書記、パネラー、次のステップへの説明者なとはこの中から出ている)

【情報】

村山素夫 (麹町)
国富桂夫 (関口)
小林章雄 (船橋)
矢島隆志 (高円寺)
原田進 (吉祥寺)
森一弘 (司教館)

【養成】

吉池好高 (関口)
田尻律子 (女子パウロ会)
新谷太佳子 (田園調布)
田中隆弘 (秋津)
森一弘 (司教館)

【典礼】

佐久間彪 (世田谷)
関根英雄 (木更津)
幸田利生 (高幡)

【福祉】

三好満 (東京カリタスの家)
塚本伊和男 (カリタス・ジャパン)
秋保真理夫 (洗足)
前田千恵子 (ボランティア連絡協議会)
春見静子 (上智大)

【女性】

伊藤雅子 (秋津)
鈴木晴代 (関口)
長島世津子 (吉祥寺)
広戸直江 (聖心会)
荒井任恵子、山口一雄 (大森)
渡部真 (上野毛)
川原謙三   (築地)
森一弘 (司教館)

白柳大司教は、ナイス5提案の具体化にあたり、さきに課題ごとの委員会を設け、素案をつくるなどして準備をすすめてきたが、この総会を一応のメドにしていた。プランの実現のためには教区民の理解と協力が必要であり、総会は全体の意見を更に聴くよい機会だったからだ。

委員会代表による中間報告のあと、分科会にわかれいよいよ意見聴取と討議になった。分科会の数は福祉5(1グループは平均27人)、教会と女性4(平均20人)で情報センター、生涯養成、典礼はそれぞれ約100人が一堂に会し、熱声溢れた。

提案のルーツ

ナイスの基本テーマは「開かれた教会づくり」であるが、その具体的なあり方は、大会の宣言文「ともすると内向きに閉ぎされがちであった私たちの姿勢を真剣に反省し、神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならい、すべての人の憩い、力、希望となる信仰共同体を育てる」の中に出ている。情報・養成・典礼・福祉・女性-の5提案はこの宣言文の要素をぬき出したものである。

神であるにもかかわらず兄弟の一人となられたキリストにならうためには、まず人びとの叫びに耳をかさねばならない。神が御独り子を私たちに送ってくれたのは、神が人間の苦しみと痛みを知ったからである。人びとの実状をしっかりととらえ、それに共感し、答えてゆかなければならない。(情報)

そしてその実状が苦しみと痛みであったなら、やはりそういうことに手をさしのべてゆかねばならない。今の日本の社会には人間の尊厳がそこなわれ、価値がゆがめられている悲しい出来ごとが至る所に存在している。そういうものに私たちが目覚め、いわゆる困っている人たちを受けとめて、応えてゆけるような態勢を教区に育ててゆかなければいけない。(福祉)

ともすると内向きに閉ぎきれがちであった私たちの姿勢を真剣に反省し、開かれた教会をつくってゆくためには絶えず学びなおしてゆかなければいけないのではないか。今まではひたすら教会を中心にして、ただ間違わなければいいということだけだったが、やはり開かれた教会づくりのためには、教えを一回うけただけではなく、生涯学んでゆく姿勢が必要なのではなかろうか。(養成)

そして同時に、私たちが共にキリストにならうためには、キリスト自身が制定した、祭りを大切にしなければいけない。ミサをはじめ、洗礼、堅信、結婚、ゆるしの秘跡など、さまざまの儀式はキリストと私たちとの出合いを育てるものである。教会がキリストのように育ってゆくためには、信仰の原点として典礼はやはり無視できないものであり、その刷新、とくに文化を大切にしたなじみ易いものにする努力が肝要である。(典礼)

それから最後に女性を取り上げた。これは宣言文の中には出ていないが、現実には、日本の教会の原動力は婦人ぬきにしては考えられない。婦人の力をもっと活用してゆくと同時に、女性がもっている問題を教会全体で考えながら、社会の人びとと共に歩んでゆこうということから出てきた。(女性)

提案の種類によってはむしろムーヴメントをねらうようなものもあるかも知れないが、今回はいつもの総会と違って具体化してゆこうとするところに目途があるのでその点に留意しながら積極的に参画してほしい。

(補佐司教・森一弘)

提案1、情報センター
教会と私たち、教会と教会、教会と社会を結ぶ情報機関を充実するために。

分科会

(司会 村山素夫・麻布)
(書記 鹿田 進・高円寺)
(バネラー 失島隆志・高円寺)
(バネラ一 国富佳夫・関口)

司会 情報センターのことは20年前に教区大会で話され、報告書が作られた。多くの人ががんばったが実現しなかった。白けて教会活動から離れた人もいる。再びこの宙が浮び上ってきた。センターは教会にとって必要であり、こんどこそ実現させなければならない。

矢島(バネラー) 準備委員会は毎月1回話し合って計画を立ててきた。パンフレットはその一部をまとめたものである。

木邨(目黒) センターがやろうとしていることは盛り沢山である。予算が知りたい。ただでさえ教会に人が集まらないのに、人材確保の点で心配だ。

矢島 情報交流とデータサービスが主な仕事になる。準備費として1000万円、次からは年間3000万円ぐらい見ている。財源は検討中。一歩ずつ進む(1)部屋を確保し、電話を入れ、名簿の整理などから始める(2)ファクシミリを各教会にいれる(3)次はコンピューターがはいる。マイコンで名簿やデータ作りをやる。

岩崎(高輪) 今までこの計画について全く知らされていなかった。準備委員に司祭が入っていないのはなぜか。情報を集める組織をもたず、机上の計画だけでいっているのでは。
氏家(本所)準備委員はその道のプロだそうだが、なぜ一般信徒が入っていないのか。パンフレットからは、プロだけが集まって、現実を見ないで勝手にやっている印象を受ける。

国富(パネラー) 計画を一定のレベルまで上げるため、大司教がプロを集め、計画を立てるよう命じたのだ。これからはつめの段階にはいる。名簿一つ作るにしても各教会の協力がなければできないので、たくさんの実行メンバーが必要である。

須賀(豊島) 3000万円も使おうという計画なら、教区民がどんな利益を得るのかをもっとわかるように伝えるべきだ。

国富 センターのメリットの一つは、情報を一カ所に溜め無駄を減らすことだ。

沢田(麻布) このような機関が必要だと思っていた。できることから始めようというのは結構だが、もうちょっと積極的に進めてほしい。

保坂(松原) すでに各教会が個々にやっているので調整が必要だろう。ばらばらなことをやってきて情報の統一がなかった。教会内のタレントも生かされていない。

荒木(関町) パンフレットを見れば大きなことが書いてある。話しを聞いていると電話相談規模ではないか。

渡辺(下井草) 教区以外の情報センターはどうなっているのか。世界の情報はどう考えているのか。

矢島 このセンターを全国レベルでやるつもりだったが、色いろな障害が出た。東京がスタートを切り、モデルになろうと考えた。

木村(北町) 前にこの計画を開いたのでブロックで説明したが理解されなかった。啓蒙する期間を2、3年ほしい。

奥野(田園調布) 今日の会をコンセンサスの場にして、建設的に協力しようではないか。

影山(北町) コンピューターに仕事をさせる?あれは役に立たない。願いでいるのは特定の人が儲けようとしているのではないか。

司会 そんなことを言うから誰もやらなくなる。何かやろうとすると、他の人が疑うという教会の悪い癖を直すべきだ。

福井(三河島) コンピューターは役立つ。情報センターもあって当然である。

島津(田無) コンピューターをリースにするというが、年に3000万円で足りるのか。

矢島 バカ高いものを買うのではない。先ずファックス網を敷くなど、金のかからないことからやっていく。

波多野(徳田) パンフレットにあるのは最終目標だ。実行計画があるだろう。早く知らせてほしい。

矢島 もっと詳しい計画を書いた小冊子を出すつもりだ。

硤合(清瀬) 計画の骨組みはプロがやらなけば実現しない。個人データは登録制にして無理強いしないほうがよい。

衣笠(柏) これだけの批判や意見が出たのは情報伝達が足りなかったからだ。センターの必要性が証明されたようなものである。

国富 くだけた形での説明のために、オーバーヘッドプロジェクターの用具を作っている。

近藤(多摩) パンフレットには霊的な言葉がイチゴも入っていない。気をつけたはうがよい。

黒川 パンフレットはスローガンに当たる。課題計画や実施計画を明示することが必要だ。

提案2、生涯養成
生活の中で信仰を育てるために。

分科会

(司会 吉池好高・関口)
(書記 新谷太佳子・田園調布)

司会 生涯養成という言葉に共通理解をもたなければならない。体験を発表してイメージをつ<っていきたい。

村岡(赤羽) 年令・職業別のテキストを紹介していただきたい。リーダー養成も必要であるが、参加者だけで終っている。

森(司教館) テキストの紹介は基本理念で考えている。リーダーについては、研修会などで行われたことを母体に伝えてほしい。

小林(荻窪) 研修会なとが沢山あるにもかかわらず、PR不足のためか知られていない。

田和(立川) 生涯、成長を続けるために、小さなことでも話し、育て合っていきたい。

光野(赤堤) 年に一度の祭りのようなものではダメで、数回の集まりに皆が参加するようにすればよい。

村岡(千葉寺) 生涯養成という言葉はよくないが、とにかくやってみることだ。

福川(麻布) ミサの後、み言葉を生活の中でどのように受けとめるかを話し合っているが非常に参考になる。

鈴木(関口) 対話によって眠が開かれるが、小教区は高齢化社会に追いついていけないのではないか。

小沢(町田) 職場の帰りに気楽会を作り、続けて小る。

桑本(同) 使徒職研修コースに参加し、前向きに生きる指針を示された。

波多野(碑文谷) 高齢者の問題などで話し合いのできる機会がほしい。

シモンチェリー(下井草)
相手を喜ばせなければ本当の喜びとは言えない。神と本音で話し合いのできる人になること。

宮田(町田) 親からも神父からも教育を受けていない青り年がある。そのニーズを考えたコースを望んでいる。

里見(板橋) 小教区で、難民を考える勉強会をしたい。

杉田(葛飾) 毎日の生活の中で起きた問題をどう対応するか。罪の女を赦したキリストのようにかかわってゆ<のが養成なのではないか。

デ・スーザン(麹町)
何がいちはん大事なのかを、今の子供には教えなければならない。

司会 話し合ったということは、生涯養成が教区として一歩踏み出されたことだと思う。

提案3、典礼
人の心に訴えるような典礼を生み出すために。

分科会(1)(2)

(司会 佐久間彪・世田谷)
(司会 関根英雄・木更津)
(書記 桜木京子・宮崎カリタス修道女会)
(書記 伊佐野夏子・聖パウロ女子修道会)

槻宅(麹町) 典礼の伝統には多様性と変化が見られる。試行錯誤でよいのでは。教会は新しい人のために大きく変ってゆかなければならない。

阿部(関口) 「ミサは宣教を目的としていない」といわれたが、一般人を教会に連れてくる苦労を考えていくのか。違う文化に生きる人にとって教会は入りにくい。

司会(関根) 宣教になるようなミサを作ることも必要だが、それは信仰の表現であり、その結果が宣教となる。

加藤(足立) ミサはキリストの制定によるもので、信者のためのものが大部分である。外から来る人が典礼の荘厳さに打たれ、心が洗われるものであればよい。

林(聖心会) ミサの構造を考え直したい。昔は必要だったかも知れないが、今は不要というものもある。

坂口(赤塚) 参列者のほとんどが未信者であるミサでは、教会をアピールするような説教が豊ましい。

槻宅 ミサ聖祭は神秘なのだから、わかり易くする必要はないと思う。

スーハン(調布)
未信者が来たら、信者のすることをよく見たり聞いたりするように勧める。彼らのためにミサを変える必要はない。

佐藤(三軒茶屋) 刷新する前にミサの本質について学ぶ必要がある。

渡辺(下井草) 大祝日はラテン語のミサで、バイオリンやトランペットなども使う。典礼は体験していくものだ。

館森(成城) ミサは心から捧げるものだから、形式にこだわらすいろいろなものがあってよいと思う。

川島(多摩) 司祭と信者が一体となって捧げるミサにするためには互いの準備が要る。

竹原(バタニア修道女会) ミサの形式を変えるよりも、今の典礼をよりよいものにしていくエ夫が大切。

田中(町田) 地域教会として、未信者にわかり易い典礼にしていけたらと思う。

新田(西千葉) 対象によって色いろなミサをしている。

司会(関根) 教会によって事情が違うので、話されたことを小教区に持ち帰って混乱しないようにしてほしい。

阿部(関口) うちでは奉納の時に祭壇布を持ってゆき、火をともして朗読台の火を消す。

船坂(徳田) 世界中どこに行っても同じミサであるため、基本的なことは変えてはならないだろう。

司会(佐久間) 教会として絶対に守らなければいけない部分について私たちの意見を交わし、アイデアを出せる。

槻宅 ローマ・カトリック教会に統一されていくヨーロッパの典礼も多様だった。

司会(佐久間) 今の典礼法規には幅はあるが、むやみに多様性をつくってよいという意味ではない。

槻宅 公会議の後、信者の生活には大きな刷新があった。典礼にももっと変化が見られてもよいと思う。

沢(大森) 国語化の一つとして、聖歌の表題は日本語のはうがよい。

藤田(梅田) ミサは、捧げる場所・形式・聖歌など多様化しているが、それぞれによいものだ。しかしムードに引かれる危険性もある。

森(葛西) ミサの前、聖歌を練習する。祈りたい気持ちになったところで聖祭に入る。これによってミサの認識と参加への積極的な姿勢が見えてきた。

荒井(浅草) ミサには基本的な考えをしっかりもって参加すれば、祈り方・表現・聖歌がとういうものであったらよいのか自ずと出てくる。

司会(関根)
ミサの時の姿勢は、国の文化や聖堂の様式によって決まること。自分の信念でやればよい。

寿田(田無) ミサは構造的にどこが間違いだというのでなく、あるものをどのように充実させていくかが大切である。

坂口 主祷文と天使祝詞を口語文に変えるという話であったが、99%の人が変えたくないとのことである。

司会(関根) 典礼は教会の一致を保ちながら、許された部分では工夫の余地があるということだ。聞きかじりの意見をもって様式だけを真似することはやめてほしい。

司会(佐久間) 典礼についていろいろな試みをする場合でも、教区長の権限の中にはいってのことである。

提案4、福祉
社会的に弱い立場に置かれている人びとの必要に答える態勢の充実のために。

まず相談窓口

分斜会(1)

(司会 秋保真理夫・洗足)
(書記 前田千恵子・麻布)

司会 相談窓口の設置について、基本原則をもとに意見を分かち合いたい。

田中(汚れなきマリア会) 修道女の恰好をしていると、家庭崩壊・登校拒否などの相談で声をかけられることがある。

鹿野(船橋) 痴呆老人の施設を手伝っている。家族の悩みを聞く機会がもてる。

富平(松戸) すでに「ももの部屋」という窓口を開いている。5年間カウセリングを学んだスタッフ8人が、週2日交替で受付ける。

五鬼上(松原) 教会敷地内にボランティア・ビューローがある。おもに外国人留学生を助けている。

山川(葛西) フィリピン女性をはじめ、たくさんの外国人が来る。生活相談にものりたいがのりきれない。

吉田(清瀬) 素人が相談にのるのは危険だと専門家が言っている。ボランティアで一般とカトリックの違いは?と聞かれたら、共通の答えがもてるだろうか。窓ロを設けても相談に来る人があるだろうか。

前田(麻布) いま考えている窓口は、むしろ素人の私達が悩む人と共に悩む場であり、必要に応じて専門家に結びつけていけばよい。一般とカトリックとの違いは、後者には活動に基本にキリスト教の信仰があるということだ。窓口に来る人があるだろうかというが、やってみなければわからない。宣伝が大切である。

阿部(瀬田) 宣教の一つと思ってかかわると、相手に入ってゆけない。

風巻(清瀬) 同じ教会の信者同士の相談はむずかしい。

松原(サン・モール会) ただ助けてやるだけでは問題の解決にならない。援助のネットワークの必要性を感じる。

風巻 ろう唖者が、理解してくれない父を殺すということがあった。話し相手がいたらそんなことは起らなかっただろう。

司会 ことは一つの啓蒙運動であるから、我われがやらなければならない。

前田 何をするのもいやだという孤独な男の人の所へ学生と掃除にいった。半日のあいだ話しなが部屋の整理をし、昼食を共にした。明るくなり、自分で掃除をするようになった。

押田(吉祥寺) 窓口をつくり、人材を登録して相談にのっている。

竹田(三軒茶屋) 必ずしも窓口という形にしなくてもよいではないか。むしろ他教会との連帯が必要である。

分科会(2)

(三好 満・カリタスの家)
(春見静子・梅田)

司会 霊的家族として遠慮のない意見を述べ合おう。相談窓口の必要性があるかどうか、考えや経験を聞きたい。

山口(小平) 離婚問題が重要で、深刻だから……。

小池(蒲田)
東南アジアの人など日本人と結婚することが多く、対応がむすかしい。国際的な手伝いが必要である。

山川(上野毛) 車椅子が利用でき、身障者の活動がさかんになった。聴覚障害者が背から受け入れられるということを体験した。

村川(鴨川) 年配者とのかかわりを大切にしている。

北山(足立) 活動していた人びとがとしを取ると手抜きになる。子育てが終ったので何かできそうだ。

野村(関口) 窓口をつくることで新しいかたちが生まれそうだ。秘密が守られるとなると深刻な問題をももこまれる。

川口(洗足) 共助組合の仕事をしているのでたくさんの相談をうける。連絡し合ったら。

中村(荻窪) 主婦のボランティア活動に家族も協力している。自分の勉強にはなるが、長く続けるのはむずかしい。

上羽(町田) 病気の予防も福祉にあてはまる。ボランティア活動の意義をどうやって教会の中へ周知させるか。

木村(田園調布) 敷地にボランティアセンターがある。初めは信徒が大半だったが、今でははとんどが未信者。カトリックの名を使えないということへの不満がある。

野口(小平) 婦人会がボランティア活動しているが、若い人の参加が少ない。

山口(汚れなきマリア会) ミサに手話通訳をおく公認をほしい。教会に聴覚障害者がいるかどうかも知られていない。

三宅(礼拝会) 自閉症の子供が多い。救いが得られるように、親とともに苦しむ心を。

国政(ナミュール・ノートルダム修道女会) 老人や障害者に接して、設備がないため教会に行けないという訴えが多い。

田中(宮崎カリタス修道女会) 社会福祉活動の会で、総合保育による思いやりを学んだ。

会田(目黒) 困ったひとがいることがわかっても、我関せずの人が多い。

皆川(関口) 婦人会が、結核・老人病院を訪問。教会の老齢化というか、身よりがないので預金通帳を出して死後よろしくと頼む人もいる。

木庭(荻窪) カウンセリングには専門的な知識が必要。守秘義務かどこまで徹底できるか。

司会 相談窓口が必要かどうか意見を聴きたい。

上羽 総論で賛成、各論で反対だ。教会の特色が必要か?

野村 聴く姿勢が大切。できることなら取む組みたい。

上羽 窓口設置には賛成。相談に来るときはせっばつまっている。同情するよりむしろ理解しろ。

会田 離婚の問題などは司祭にしか権限がないのでは?

司会 誰でも相手のいうことを聞き、自分の考えを述べることはできる。

司会 色いろな意見を開いて次のステップにつなげたい。

分科会(3)

(司会 塚本伊知男・カリタスジャパン)
(書記 林 一男・高円寺)

司会 社会福祉、ボランティア活動で見聞きしている、苦悩の現実や問題点などを互いに知らせ合おう。

及川(吉祥寺) 教育や離婚の問題が深刻である。心の病や悩みに関するものも多い。

木村(聴覚障害者担当) 障害者を受け入れる形が小教区によってまもまちである。高齢化社会の問題なども含めて、司祭と信徒の協力体制を考えたい。

伊藤(立川) 困るのは分裂病など、精神障害者の場合である。共同作業所なとでも、希望としてはキリスト教系の機関に行かせたい。

清水(三軒茶屋) うちでは心の相談室を開いているが、カウンセラーが来信者のためか利用する人はほとんどいない。相談はもっばら司祭のところに持ち込まれているのかも知れない。

松本(宮崎カリタス修道女会) 子供をあずける理由の半分は、母親など家族の病気と未の母である。母親が若い場合には育児のこと、また離婚なとで父親だけのケースでは親権の問題がある。

川端(同) 施設にいるために起るいじめ、就職のきびしさが問題になっている。相談の窓口はほしい。

石田(赤堤)
病院訪問、山谷の手伝いなとのボランティア活動をしている。窓口を設ける必要は感ずる。

高柳(高幡) いのちの電話の係員をしている。性の相談が多く性教育の不備を思う。窓ロにもその面の充実を望みたい。

山羽(成城) 個々の相談には神父があたっている。窓口は素人ではうまく対応できないのでカウンセラーの養成が必要になると思う。

橋本(上野毛) 難民の家族とかかわったが、日本に見切りをつけたという残念な経験がある。わが国は閉鎖社会であることを痛感させられた。また単身赴任は出世の道であるかも知れないが、家族がばらばらに暮すはど不自然なことはない。離婚につながる場合もある。この問題を考えて見たい。

加藤(小平) 補聴器の会社に勤めている。定年後は手話のボランティアがしたい。

友野(柏) 月にいちど福祉の日を決め、ミサの献金を手元にあてている。毛布や古着を外国に送ったりしている。

大工原(碑文谷) 売店によせられた寄付が福祉のために使われる。窓口を設けるにはほど遠い状況である。出来るだけ努力したい。

小南(援助修道会) 山谷などで働けなくなった、しかも住民票を持っていない老人に、公的援助の必要性を感じる。窓口が出かけてゆく覚悟も。

藤井(荻窪) 登校拒否児の母のための活動をしている。山谷への奉仕や老人の訪問なども考えている。

南部(関口) 難民救済、インド里親、身体障害者の集いなどの福祉活動をしている。聴覚障害者に対する配慮が欠けていると思う。カトリック系の病院などで、身内の者がしめ出された。受け入れ態勢の不備をつよく感じた。

死ぬのも苦労

岡藤(船橋) 在宅老人、夫婦、障害者等で相談にあたっている。時間的な余裕のある高齢者などに講習を受けて貴い、相談人を養成するのが急務だ。

佐藤(豊島) 筋ジストロフィー患者の援助、聴覚障害者問題への取り組みなどをやっている。生きることより死ぬことの難しい時代になった。カトリック系の収容施設の拡張を望む。

青山(多摩) 難民定住の援助をしている。就職や住居の条件は前より悪くなっている。敷金の関心も低い。

林(高円寺) 色いろな福祉活動は盛んだが、互いに抱えている内容や問題について分かち合う機会がない。

司会 カトリックの窓口として、どんな特色をもたせたらいいのか意見をほしい。

藤井 話しやすい雰囲気づくりに努めること。

高柳 ボランティアが電話相談を受けるということだが、噂さになり易く、安心度の点で問題がある。

清水 資金や人材などの問題が大きい。小教区でやるよりもカリタスの家に設けるはうが実現しやすいように思う。

司会 この案はまだ教区の方針までには至っていない。小数区全体の福祉に対する意識化をはかろうという啓蒙的な考えが含まれている。このプランについて抜けている点や修正点なとがあったら意見をほしい。

清水 カリタスの家と小教区のパイプを充実させたらよいのではないか。

高柳 いのちの電話は広範囲のケースを扱っている。教会との連携があればよいと思う。

佐藤(豊島) 相談機関や窓口のリストがほしい。応じられないとき、他に依頼することができる。

南部 教区福祉部の活動を先ず知らせ、その上でこのようなプランを発表するとなおよいのではないか。

橋本 よい案だが、大切にしなければならないのはプライバシーの問題だと思う。教会内の信頼関係を培わなければ無理。

青山 いのもの電話のような窓口なのか、社会的ケア一につながる部署になろうとしているのか、自分たちがそうしたことをしようというのか。

司会 当面は相談が主だが、ゆくゆくはケアーもやっていきたい。地域に開かれた相談所づくりを考えている。

清水 教会内に、或いは教会に対する信頼感がなければ、窓口をつくってもうまくいかないと思う。

岡藤 受け皿づくりは必要だと思う。どこのブロックでもよいから、窓口を試験的に2~5設けて見たらどうか。

及川 相談員の養成やシステム化は非常に大切なことだ。教会が痛みを分かち合うところになれば、どんなものであっても使うだろう。

司会 いちばんの願いは、教区民のみんなが痛みを分かち合える人間になることだと思う。

提案5、教会と女性
女性の信仰を育て、参加の場広げるために。

分科会(1)

(司会 山口一雄・大森)
(書記 伊藤雅子・秋津)

司会 教会への女性の参加の仕方、教会における女性の悩みなどについて話して頂きたい。

高橋(荻窪) 女性が教会委員に加わったため、バザーで聖堂を使わなくなったり、資金集めだけという考えが変った。

吉井(初台) 「女性神学」という話をはじめて聞いた。男女平等なのに、なぜこんな言葉が使われるのか疑問に思う。

佐竹(松戸) うちの教会では女性パワーに男性は押され気昧。学習する機会の少ない男の人のために「男性と教会」を取り上げてほしい。

吉武(目黒) これには地域差があると思う。うもでは男性の参加が多く、役割分担によって働いている。典礼には女性も積極的に参加させてほしい。

青井 わたしの所では聖体は神父しか配れない。教会委員にも女性はなったことがない

木村(三軒茶屋) 外国での経験だが、女性から聖体を頂いたことがあり感銘をうけた。

高松(板橋) 部が8つあるが、6つまで部長は婦人がやっている。

伊藤(五日市) 男性は忙しいけれども、企業などで訓練されているということで、教会の運営は男の人に任せている。

田井(ドミニコ会) 女性が圧倒的に多いのに、なぜこの問題が取り上げられるのか不思議だ。女性は学習の機会も多く、家庭に及ぼす効果も大きい。

淵脇(下井草) 女性が役員になることよりも、夫を信者にする問題を取り上げてほしい。

皆葉(洗足) なぜ女性が侍者をしてはいけないのか。教会法で決っているのか。

司会 教会法では何もきめられていない。女の子が侍者をしている教会があったりなかったむバラバラだが、神父の任命によってできるということを皆が知らなすぎる。

司会 婦人会をな<そうとする動きがありすでになくした教会や縮小中のところもあるときく。女性の教会委員長もいる。

津川(千葉寺) 女性の侍者は教会法上どうなっているか。

藤森(北町) うちは女性が多いが、行事などには夫との関係で出席者が少ない。子供の信仰面の教育ができないと悩んでいる人がいる。

司会 女性が教会で活動するのも結構だが、来店者の夫をほったらかしにするのはかえってマイナスだと思う。

吉武 主人を大切にする奥様のほうが、夫を早く洗礼に導くことができる。

伊藤 幼児洗礼だが、祖母にきびしくしつけられたのが習慣となった。夫を信者にさせるには教会がもっと助けるべきだ。

高松 夫を信者にするにはいっしょにパーティをやるなど、まきこみ作軟が必要だ。子供を利用して食事の祈りをするのも効果的である。

吉田(五日市) 組織の中で女性がまとまっているところは活発で男性も居心地がいい。前向きの女性は魅力的だと思う。

吉井 女性を行動と姿勢において認めてもらうことが大切。

佐竹 認められるために、朗読やオルガニストなどさらに勉強している。

関根(葛西) うちは委員長は男性、副委員長は女性にしている。両方とも女性にしたら男性は逃げたのかと思われる。

吉井 信者の再教育の機会をつくめ、この際神父も再教育してほしい。

司会 教区には朗読、オルガンその他500以上の講習会があるので活かしてほしい。

田井 主婦のため、10人ぐらいのグループでまわり持ち集会をしている。聖書をまわし読みにするだけでもよい。教会がとても変ってきた。

中野(ベタニヤ修道女会) もっと子供の教育とか、社会参加の面が解決されてゆけばいいなと思った。

分科会(2)

(荒井佐よ子・婦人同志会)
(渡部 真・上野毛)

司会 なぜこの分料会を選んだかを説明し、できるだけ具体的な案を出してほしい。

荻島(田園調布) 女性として迷いの経験を話したくて。

川下(赤羽) 女性恐怖症である。今の教会の現状は、女性の責任でもあるのではないだろうか。教会における女性の地位について、女の人の側から意見を聴きたい。

横山(目黒) 女性と男性の役割分担につき考えてみたい。

斉藤(調布) 今日の会のように、女性によって多くの発言がなされるのは結構だと思う

馬場(荻窪) 若い女性のなかで若返りたかったが、若い人がいないのでがっかりした。

木村(コングレガシオン・ド・ノ-トルダム) 教会のなかの女性の役割と可能性を知りたいと思う。

赤谷(田園調布) 家庭における女性の役割が大事だ。それを扱う家庭委員会を教区につくりたい。

加藤(サン・モール会) キリスト教的価値観与えるためには、子供たち以前に母親の教育が大事だと感じている。

今井(三軒茶屋) 婦人会が解散になったため拠りどころを失い、力が分散して弱体化したともいわれる。子供の教育には家庭が大事だが、我が子供を通じて福音を知ることもある。

斎藤 聖書のなかの女性観を学びなおすべきではないか。若い人に伝えていく普遍的な女性の問題を、教会として捉えてほしい。

川下 婦人会への依存度は非常に大きい。女性がリーダーシップをとった時など、他の女性が認めるかどうか。女性を引き降すのも女性であることを、女の人に考えてもらいたい。

牧野(目黒) 初めから婦人会はない。壮年会の仕事に女性も合流して働いてきた。

渡部(上野毛) 15年前に婦人会を解体した。閉鎖性と一種のいじめが動機だった。近ごろ兼つかのグループ内に前と同じような小婦人会ができ、辛い思いをしている人が少なくないということを知った。

赤谷 うちには婦人主体の掃除グループがある。

高田(田園調布) 婦人会の改革は困難である。部分的には縦割りになっている。

荻島 婦人会には古いものが残っていて、若い女性は入りにくい。地区の集まりがおもになってきて、縮小の傾向にある。

斉藤 男女の意識差、婦人の社会訓練の不足から、過渡的には男女別も止むを得ないが、窮極は共同的な部制に移りたい。

今井 教会委員に女性1名を増やし、男子6名女子2名とした。決定機関としての活動グループ代表の集まりには、女性が参加できるようにしている。

赤谷 婦人会の代表が、全体のまとめ役になっている。

高田 決定機関の半数は女性である。

川下 教会委員会が決定機関で10人のうち5人が女性である。典礼の原則としては、女性は認められていない。

司会 教皇は「女性の侍者」を黙認している。

川下 教会の対応が問題である。規則にとらわれぬというのならば、そのようなきまりをつくるべきではない。

斎藤 大司教の答えは「やりたい人はやって下さい。ダメとは言いません」。

川下 規則として残っているので、こだわる人があるのが現実だ。女性から聖体を頂くか?女性からの拒否反応はないだろうか疑問だ。

斎藤 抵抗があってもよいことは受け入れられる。

川下 男性よりも女性の反応が強い。

大村 修道女としては問題を感じない。女性にはこだわりがある。意識を変えることが第一である。

今井 女性に窓を開くということは、入れてほしい人に場を与えるということか?

木村 女性が分担を決め、触れ合いの場をつくるのは、初代教会の姿である。話い合いの和から暖かさを育て、女性を活かす方法を研究すべきだろう。

横山 男女一緒に働いているが、違和感はなにも感じない。

山田(葛西) 運営委員は男子2名女子2名。行事は壮年会と婦人会ととで分担し、婦人会には会長の名は使わない。若い人も参加して、結婚式の世話役などに当る。

真倉(宮崎カリタス会) 社会に出てゆく活動組織の中に、教会の女性の素晴らしさを活かすべきではないか。

小島(聖ヨゼフ布教会)
意欲ある女性がいるのに、教会委員に加われないという相談をうける。委員長を含めての話し合いが必要である。

加藤 男性も女性もむずかしさは同じだ。婦人会を超えた地域とのつながりに宣教の場がある。

鈴木(豊島)
婦人会の会長は持ちまわりにしている。壮年男子会、青年男女会などがある。

分科会(3)

(川原謙三・築地)
(鈴木晴代・開口)

司会 この一年、仕合わせを感じたのはどういうときだったか?その場合、信仰が充分に働いたか?男女の意識を出さすに話してほしい。

内藤(立川) 困難に立ち向う時、信仰を持っていて嬉しかった。同僚との関係や人事などに神の方向づけを感じる。

勝谷(梅田) 地域の人びとと共に働ける喜びを感じる。人の息づかいが聞こえるような所では、神を知らない人も一緒に祈ることができる。

小林(多摩) 信仰が身についていないのを感ずる。主日のミサにはあずかるが、生活に結びつかない。

大木(豊島) 老人や病人の世話しているが、救えられることが多い。

鈴木(関口) 山谷でボランティアをしている。そこでは飾ることなく、安堵感を覚える

清水(三軒茶屋) 女性の力をぬきにしてはかんがえられない。婦人会を改革しようと企画している。

山口(葛飾) 活発な婦人会がある。教会は女性なしではやっていけない。わかい母親が多い。神がいろんなところで働きかけていることをふだんに感じとればよい。

安藤(田園調布) 教会に通うようになったのは、子供がボーイスカウトに入ったのがきっかけ。主人をほったらかして毎日旺ミサにいったが、息子も結婚、嫁と洗礼を受ける。主人もかわった。

瀬尾(足立)
主人が交通事故で脳挫傷になったが、いまはミサに行けるほどに回復。教
の人びとの熱い祈りがあった。

平井(同) 聖堂が家から近く、早朝ミサにあずかれる。教会を離れていた子どもが、機を得て告解、聖体拝領してとてもうれしかった。

栄田(聖心侍女会) これからの女性の働きがどうなるのかを教えてもらいたい。

牧山(女子パウロ会) 書物の普及をしている。注文を10冊も受ける時などは嬉しい。神が本を通して人びとに働きかけることを確信している。

安藤 家庭を大事にし、女性として生きることが必要だ。病み、苦しんでいる人に対するつてを知りたい。

大木 病気で来られなかった人を訪問している。

安藤 電話をかけたり、手紙を出したりしている。

内藤 小教区で福祉の活動が見られる。

司会 教会で女性の決定権がほしい。意識の改革が必要である。いろんな小教区でやっているのではないか。

内藤 教会委員14人の中で4人が女性。男のほうが強い。表面的なことは男性だが、現実に働くのは女の人。

安藤 婦人会のまとめ役がいて、意見は上までとどく。

大木 3/2%が女性で、男の方が小さくなっている。男性に責任を負わせ、女は逃げる。

牧山 男性と女性の、福音的なかかわりを掘り下げていく必要を感ずる。女は命をはぐくむ。教会でどういう役割ができるか考察が必要である。

安藤 旧約のときから、女性は低く見られていた。

牧山 受付のことも、女性がするとかいう問題ではなく、共同体全員の責任としてかかわらなければならない。

内藤 社会では女性も中心として認められている。教会は少し遅れている。

清水 子どもの教育は、母親まかせである。

分科会(4)

(長島世津子・吉祥寺)
(広戸 直江・聖心会)

司会 女性は教会のなかで何を感じているか、男性は女性に何を期待しているかを日常生活の体験から話してゆきたい。

栗田(目黒) 幼稚園に勤め人間関係で苦しんだとき、女の世界はむずかしいと思った。

村山(田園調布) 女性が就職などについては考えない時代に結婚し、夫は平等な協働者として、やりたいことをやっていける仕合わせをもっている。

上羽(高幡) 強がりの己れを見出し、相手を傷つけたことに気づかされ自分が変った。互いに釘をぬいても傷痕は残る。

横山(関町) 教会の中で女の力は大きいが、うるさ型になり勝ちである。男女共に文化の福音化という原点に帰ることが大切である。

鈴鹿(三軒茶屋) 妻に対してはやり易いようにと務めている。衝突あるが、顔が上を向いていればそれを土台として積み上げていける。

高橋(福生) 少々いやなことがあっても、逃げないで補い合ってゆく工夫が必要である

完井(浣芋) 色いろな層がそれぞれに鳴動している。互小を積唖前に高める場の必要性を感する。

土屋(板橋) 教会では人と人とのふれあいが大切。でもあまり深入りし、かかわりすぎると疲れる。

矢崎(築地) 信仰がなかったら今の仕合わせはない。ケンカのもとは自分の我侭を押しっけることにある。

那口(築地) 教会ではこれから若い人が育ち、古い人はだんだん譲っていく必要がある。

小林(青梅) 女性中心の教会もよいが、そうすると男が甘えてダメになる。それぞれの役割を認めることが大切である。

河野(田無) 女性の提案で教会委員のあり方を改善し、活気が出てきた例もある。

有働(女子パウロ会) 修道女として母性をどのように開花させたらいいか悩んでいる。マスコミや女性運動におどらされて、大切なものを失っているのではないか?

大倉(町田) 教会には女性だから果せる役割がある。日本の教会はまだまだ社会意識が低いが、ちかごろ急に女性の力が出て来ている。

塩谷(聖心侍女会) 教会の中での女性の開花には時間がかかる。役割をきめつけるのはダメで一緒にやってゆくのが望ましい。

広戸(聖心会) 女性があまり意識しすぎて肩ひじを張るのはは望ましくない。今は体質改善のため意識化が余儀なくされているかもしれないが、補い合いが自然に生まれることを期待している。

鈴鹿 日本の体質の中に、男尊女卑があると思われるか。

次のステップへ

展望1、情報センター (矢島隆志)

ほぼ100人が出席、賛否両論の激しい討議をした。第1の意見は、教区民の必要ごとをもっと汲みとった充実した機関にすべきだというもの。また準備には一般信徒の参画も必要ではないかの声も。第2は、コンピューターのシステムが本当に役立つかという考えである。専門家からも質問があり、ハード中心主義では困るという叫びもあった。

第3は、センターの内容についてもっと広報すべきだという意見である。パンフレットを配っただけでは足りぬという考えで、設立へ向けてのPR不足を指摘するもの。準備委員会としては次のような方向で進むことにした。

(1)設立までの段階計画を作り、ステップ毎に具体像を示す。
当面の機能や役割の内容を明らかにする
(2)一般信徒や司祭の参加の方法について考え、その場を早急に設定する
(3)教区全体の理解を得るための広報手段を検討し、内容の認識をより深めてもらう
(4)具体的な必要事を広く調べ、それを汲みとる。

展望2、生涯養成 (新谷太佳子)

生涯養成という概念については、ある程度の共通理解を確認することができた。基本理念と具体化への指針にある。

(1)信仰を生きようとする者の課題としての生涯養成
(2)その場としての教会
(3)第一歩としての自覚で、多様性への配慮についての意見はすくなかった。
多くの体験を分かち合うことはできた。

これを分析、検討して養成のテーマに沿った交流会を実現したい。

提案3、典礼 (佐久間彪)

当然のことながら、福音宣教との関わりが問題となった。宣教は典礼の直接の目的ではないが無関係ではありえない。経験や要望についての多くの発言があった。現段階の典礼によっても、充実したミサは献げることができる。司祭、信徒の努力が必要である。司式者と会衆が心をこめて捧げるミサであれば、未信者にさえ感動を与える。教会を離れていた者も、再び自分の場所を見つけるであろう。

そこには、文化とは何かという大きな問題が前提になっている。文化の問題は、究極においてはそれを支える言語の問題である。典礼の日本化の課題は日本語と深くかかわってくる。わが国民は、共通な宗教的感性や儀書持ってるとはいえないので言語という最も基礎的な文化要素と典礼との関係を、単に美しい日本語というだけでなく、根本的な問題として取り上げてゆ<べきであろう。

現在の典礼について、何か重要なことが求められているのは確かである。その何かを手さぐるには、手をかえ品を変えての試みが求められると思う。そのためには、典礼改革に当初から関わり、なお今の典礼に問題を感じ、実践と研究し続けて来た者がそこにいるべきであろう。

展望4、福祉 (塚本伊和男)

うちは3つのグループに分かれた。各組がおなじ課題で話し合えるよう、3つの要点が設定された。その第1はどんなニーズがあるかで、見聞きしていることから、相談内容にもなる心配ごとや悩みごとが出された。

人間関係の悩み、離婚・家庭の崩壊から来る親子問題、非行・登校拒否等の青少年問題をはじめ、教会の受付で金品をねだる人への対応など、相談したいことが教会の内外に多くあることを知らされた。と同時に、福祉・ボランティア活動をより有効かつ活発にするために、教区福祉部を整備・充実せよとの声があった。

第2の点として、弱い立場に置かれている人びとに、キリスト者としてどんな心で接したらよいかが話し合われた。相手の立場に立って聴く姿勢が大事であり、キリストの心が求められることが確認された。

第3の点として、こんど出された叩き台について、率直な話し合いがなされた。賛否両論、色いろの意見が出て活発なやりとりが見られた。賛成する立湯からは、一般の相談所ではややもするとそっけなく取り扱われやすいが、教会の相談窓口では一緒に悩み、痛みを分かち合えるのではないかとの意見が出された。他方、ボランティアでは充分な対応が出来ないだろし、守秘義務の点、プライバシー保護から問題があり、既存の相談窓口で充分との反対意見も出された。いづれにせよ、教区みなが痛みを分かち合う心を養うことは大事であり、相談員の養成には時間がかかることでもあるので、すぐにでも始めるべきだとの意見が多かった。立案グループとしては、分科会での賛否の意見をそえて大司教に報告、今後の指示を受けることにした。

展望5、教会と女性 (山口一雄)

各分斜会それぞれの討議内容をみるとおなじような意見が多く、個々の特異性はあまり見られなかった。まず反論されたことは、なぜここで女性と限定するのか-であった。共同体の中では、男性と女性が自ら役員を分担すればよいことで、現に幾つかの教会が、諸事を従来は婦人会が中心にやっていたのをやめて、男性も参加した機能本位のグループに分けて成功している。仕事を持つ女性が増えている現在、婦人会そのものを廃止してしまったところも多い。

教会における女性の役所を前面に出すことにより、それをサポートすべき男性の姿が間わ問われ始め、話は教会から家庭へうつった。神の教えを子どもにつたえる、キリスト者としての父親のあるべき姿が、今日多くは失われてしまった-など、心に刺さる一言もあった。

教会の決議機関で女性の意見が反映されないのは、女の人にも責任がある。例えば会議の席では発言せず、後になってあれこれ言ったり、発言しても軽はずみだったりする。帰宅するや電話網が活躍し、裏でやり取りされたものが当日の決定事項としてまかり通る始末である。

女性がどこまで聖域にはいれるのか、女性の侍者は教会法上どうなっているのか、広報紙で明らかにしてほしいとの要望があった。また「女性神学」という目新しい言葉が出たが、神学上どんなことなのかという質問もあって今後どのように取り組むか、他の4提案と関連する事がらもあるので、協力を願いながら進んでゆきたい。

具体化へのステップにはなじまないような、意識化とか運動過程に重点を置いた解説もあったが、提案の性質や素案作りの形がもともと違っているのであるから、無理に足並みをそろえようとはしていない。

女性の侍者について、教会法は何も定めていない。

「情報」アンケート

賛成と期待

▽大いに進めて頂きたい。

▽情報センターのプロジェクトに完全に賛成だ。一日も争い設置を望む。

▽このような機関は、信徒の生活をより教会とかかわるものにすると思った。

▽社会と共に進む教会として、情報化は大いにやるべきだ。

▽非常に重要なことであり慎重に、しかし速やかに実行に移してほしい。

▽情報センターの具体化にむけて困難も多いことだと思う。開かれた教会のためには必要なものであるから、ぜひともスムーズに実現できるように。

▽ゆっくり考えて行動にうつしたほうがよいとの意見があったが、情報に関してはスペシャリストを中心に早く事を超すほうがよいと思う。

▽現代社会では教会もこういうことをやらねばならぬだろう。

問題点と提言

▽準備委貞会に参加するにはとうしたらよいか。できるだけ偏らないように。

▽委員がプロのためか5素案中最も進んでいるが、一種の危なさを感ずる。

▽既に機械の導入を前提にしているではないか。専門家だけで具体化を進めているが、もっと信徒の知りたい情報にそった準備がほしかった。

▽パンフレットは口出しできないという雰囲気を持っている。

▽結論があって賛成を無理おしする形になっている。

▽素人の知恵を集めて検討すべきだ。少数者での独断先行はやめてもらいたい。

▽準備の仕方が不充分だった。

▽何のための分科会か分からなかった。自分たちだけで楽しまないでほしい。

▽現状ではむしろシンクタンクの充実の方が大切ではないか。、

あした葉

「宗教が政治にかかわってはいはない」という声をよく耳にする。ある意味では正しくある意味では間違っている。

▼特定の宗教団体が国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。国及びその機関が、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならないという意味ならば正しい

▼それは「信教の自由」を保障する憲法20条の特に1項後段と3項「政教分離原則」の概念だからである。しかし宗教者や宗教団体が政治活動を一切してはならなぃということを意味するなら明らかに間違いである。こういう考え方には2つの流れがある

▼第1は、宗教は魂のことに携わるのが本領であり世俗の事がら特に政治の問題などにかかわるのは信仰の堕落であるというもの。第2のは、宗教者が個人として政治にかかわるのはかまわぬが、たとえば教会が政治的発言をなしたり、何らかの態度決定をすることは、福音の横道ではないかという考えである

▼この2つの流れに共通しているものは、政治と宗教とを全く切り離して考える「二元論」である。この世に生活する限り、政治と全く無関係ではあり得ない。現在の日本の教会に「社会と教会の分離」を見たからこそ、「開かれた教会づくり」を言うのではないだろうか

▼政治に宗教が「浸透する」ことがナイスの路線「社会の福音化」であるというのに、政治と宗教とは無縁だとか、世俗のことは政治家に任せておいて宗教者は関与しないなどと、まるで役割分担のようなことを言っていたのではしようがないではないか。我われが言うのは宗教(単に教団ではなく)と国家権力との分離であって、宗教理念の政治への介入の断絶ではない。「政教分離」を正しく理解しなければいけない。(S・A)

学費値上げで養成費増

【決算概況】

<収入>

一粒会献金は、予算額24,000千円に対し、25,777千円となった。邦人司祭育成献金も、予算額5,000千円に対し、6,791千円になった。別に育成基金献金500千円に加えて、利子収入が834千円あった。前年度繰越金は、引当金を含めて20、130千円であった。

<支出>

養成諸費は17,554千円でおさまった。叙階式関係費855千円、一粒会運営費413千円、聖ペトロ献金(ローマへの献金)700千円となった。以上により89年度への繰越金は、差し引き34、510千円と計上することができた。

【予算概況】

<収入>

非東部会献金・邦人司祭育成献金とも88年度と同額29,000千円を汲みいれ、利子収入は800千円を計上した。

<支出>

養成諸費は授業料等の値上げと考え、18、665千円とした。以上のより90年度への繰越金は43、045千円を計上することにした。

「だいじょうさい」考

日本カトリック司教団は、昭和天皇の逝去を機に、大喪の礼から即位の礼に至る諸儀礼において、政府が信教の自由と政教分離の原則を厳守するよう、首相に要望書を提出した。にもかかわらず、政府は「剣璽等承継の儀」や「即位後朝見の儀」等、神道色の強い儀式を国事行為にしため、「大喪の礼」と「葬場殿の儀」をなしくずし的に一体化する-など、政教分離の原則を極めてあいまいなものにした。

来るべき大嘗祭(だいじょうさい)及び即位式を迎えるに当っては再び同じ徹を踏まぬよう国会で充分議論し、国民の意志を問わねばならない。特に皇室祭祀である大嘗祭にいかなる名目をもってしても、国が何らかの関わりをもつことは、憲法の原則に照らして許されるものでないことを銘記すべきである。

現行の皇室典範には、「皇位の継承があったときは、即位の礼を行う」とのみあり、大嘗祭の文字は削られている。継承は即位未定のみで足れりと判断したからに違いない。しかし、王位の継承が、即位礼にひきつづく大嘗祭の儀礼をまって始めて完成されるという考えが生きているからこそ問題なのである。

皇位の万世一系性は、むろん国政上では即位礼によって正式に承認されるわけであるが、神話的には大嘗祭儀による天皇再生の永続性という観念と不可分に結びついて伝承されているのである。天皇の政治的・宗教的カリスマが、この秘儀なしに獲得できなかったことは、即位大嘗祭をおこない得なかった天皇を「半帝」と呼んだことによってもわかる。

斎田点定

来るべき即位礼、大嘗祭は日本のキリスト教の関頭に立ちはだかる天皇制の大攻勢であり、信仰の証しにかかわる大問題である。我われは、この大波を有効に迎えうつため、濃厚な神道祭祀である大嘗祭に深く切り込み、その正体を明らかにし、今後の戦いにそなえなければならない。さて大嘗祭とはいったいなんだろう。

その主な儀式をあげると、まず2月のはじめに斎田点定がある。斎田とは、秋の大嘗祭に使われるイネの実を栽培するために、聖なるものとして選ばれた田である。それを全国にある無数の耕田のなかから選ぶわけである。それには昔流に中国古来の占いの方法(亀卜法)が用いられる。亀の甲を斎火であぶるとひび割れが表に透るが、その割れ方(町形)を古事に照らして決めるのである。

伝統的には京都以東以南が悠紀の国、以西以北か主基の国ということになっていて、その2国が交代々々に選ばれるわけである。大切な点は、斎田や斎火といっても、普通の世俗的な田や火と変らないものを、とくに聖なるものとして聖別するところに、大嘗祭の宗教性が見られるということである。

こうして栽培されたイネはやがて稲霊として神格化され天皇と皇祖アマテラスオオミカミを霊的に合体させる聖なる媒介者となる。大嘗祭の仰々しい方式や調度は、すべてこの聖なるものを包んでいる覆いである。

抜穂の儀

こうして、苗代を整え、種を蒔き、草取りを経て9月に抜穂の儀を迎える。事実上の大嘗祭はこのあたりから始まるといってよい。抜穂の使が遣わされ、きめられた作法に従ってイネが収穫され、京都・北野の斎院に運ばれる。これが、大嘗祭の夜、天皇とアマテラスオオミカミとの共食につかわれる神饌と神酒(黒酒・白酒)の料となるのである。以上の斎場や斎院の神事で最初に手を下すのは、造酒児と呼ばれる童児であるが、それに斎郡の土豪の未婚の女が当てられたことも、大嘗祭を貫く聖なるものの信仰に関係があると思われる。これは聖別されたものという意味で、大嘗祭の宗教性を理解する上で重要である。

即位の札

11月になると、天皇は賢所とともに京都に行幸し、皇后も同行、神器は京都御所内の春興殿に安置される。こうして、11月10日、御所の中の紫辰殿とその南庭で即位の礼が挙行される。高御座が、即位式の中心的な設備である。この高御座については、タカマノハラの神座や天孫降臨の高千穂の峯との神話的関連を主張する人もあるから、ヒルの即位礼も、たんに中国の儀礼を学ぶものという古来の解釈以上の、宗教性があると考えなければならない。

ヒルの即位礼が終わると、いよいよ本番の大嘗祭が、11月14日の夜から翌朝にかけて行われる。これが日本古来の即位の礼である。大嘗祭が行われる場所を大嘗宮という。彼は京都の仙洞御所と大宮御所の中間の広場に設けられる。60間4方を板垣で囲み、その中に3つの主な殿舎、廻立殿(禊の場所)、悠紀殿・主基殿(大嘗祭の中心的な祭儀が行われる場所)が建てられる。その材料は、皮付きのままの黒木、やねは茅葺き、壁はむしろ、縁側は竹すのこ、床は青草の上に簀子を敷き、筵を置いたもので、この古代の素朴さも聖なるものの覆いである。それらの建物は祭りの2日前まで約5日間で造られ、祭りが終ると同時に撤去され、焼却される。注目すべききは、標の山、悠紀殿渡御、神饌行立などの行列で、宗教性を考える上で重要である。

嘗殿秘儀

祭儀の中心は、悠紀・主基両殿において行われる神饌親供である。嘗殿の中央には、神の寝床(神座)がしっらえられ、そのよこには巽の向き(伊勢神宮の方向)に、天皇の座席と主神に供える食物をならべる神食薦(かみのすごも)がおかれている。この神の床の上には、北側に靴が置かれ、靴の塵を払う布切れらしいものが用意されている。こういう道具の背後には、古来からの民族信仰もあるようだ。昔の新嘗の夜、ミノや笠などの旅姿で訪ねてくる祖霊のシンボルがここにあると考えられる。大嘗祭の夜、天皇はマレビトとして、悠紀・主基殿に代表される葦原中国を訪れるということになるのだろうか。

天皇はこの寝床(新座)に休息することに祖神と一緒に布団にくるまる所作をすることによって、祖神と一体となり、大嘗祭の祭式のあらゆる段階を通して担われてきた聖なるものが、その最終目的としての天皇の人格によりつくのである。新嘗の祭りの遠い背景には、祭主と斎女の聖婚伝説があるといわれる。それは呪術から祭儀への道程を暗示するもののように思われる。

この大嘗祭の中心的秘儀である神事においては、天皇の人格と大嘗祭の主神とがダブっていることになる。新穀の共食というと天皇と主神とが対座するかのような印象を与えるが、そうではなく、祭る神と祭られる神に食事を善し上げる、その時、祭る神と祭られる神は、天皇の人格の上で一体となっている、というのが、神道の人たちの考え方である。こうして、この神事が天子のミレアの儀式として説明されたり、記紀神話の天孫降臨野条の「真床追撃」(まどこうふすま)が引き合いに出されたりするわけである。

こうして、皇祖神の霊がよりついた天皇は陪膳女官から神饌薦の上に親しく供える。神座の神は、アマテラスオオミカミと考えられている。供え終わると天皇は低等して拝礼し、うやうやしく告文を奏する。次に直会(なおらい)となる。これは、いわゆる相伴ではなく、天皇のために用意された食事を、天皇自ら食すのである。神饌供進が始まる時刻は、悠紀殿は午後10時、主基殿は午前4時である。

服属儀礼

大嘗祭で強調したいもう1つの点は、この祭祀自体が服属儀礼として構成されているということである。こういう大掛りの祭りを行うためには、氏と呼ばれるたくさんの専門職の参加を必要とする。氏たちも先祖伝来の職掌を守るために、こういう祭りの場を求めているわけである。職掌をできる限り細分化してまんべんなく氏に仕事を分け与えるかのような、分割統治という支配の古典的力学が最高度に発揮されているのが、大嘗祭という儀式のである。こういう氏たちの祖先は、天孫降臨に付き従ったとされる五部神(いつとものおのがみ)が、その典型である。

今言った氏の服属は、特定の部族の服属関係であるが、大嘗祭は特定の氏だけでなく、国民総体の服属関係を確認するものである。そもそも神饌の料となるイネを栽培する斎田を、悠紀・主基両国郡から選定するというやり方自体が、この2国に全国を代表させて、食物共進という形で国民を天皇支配の中にからめとっていく、いわゆる食国(おすくに)の儀礼が高度に政治化されたものである。

大嘗祭は、天皇にたいする国民の服属関係を、その代替わり毎に契約更新するという意昧をもっている。この服属には、吉野の国栖のような平和的、牧歌的なものもあれば、神武東征の中にあらわれる天皇郡にまつろわぬ者に対しては、武力による征伐が待っている。そういうことの後、橿原宮の即位があるわけで、大嘗祭という日本古来の戴冠は、武力の行使によって完成するのである。

時の課題

ヒルの即位礼に加えておこなわれるヨルの即位礼としての大嘗祭の本質は一体なんであろうか。ヒルとヨルの即位礼が並行しておこなわれることの意味はなんであろうか。悠紀・主基殿の神饌共儀によって、天皇はアマテラスオオミカミと一体となり、天皇霊を受け取るとされるが、そのことを天皇の人間性、象徴天皇制との問題は、どう理解すべきであろうか。神道は、「有職故事」に詳しいが、理論的分析はタブー視されてきた傾向がある。大嘗祭の儀式に塗り込められた政治神話が、赤裸々に解読されたならば、それは近代の世界で行き続けることのできないものであることが判明するであろう。

戦前には、大日本帝国憲法およびそれと並んで皇室典範があり、大嘗祭について明確な規定があった。皇室祭祀令の中に豊極令もあり、大嘗祭の祭儀次第がくわしく規定されていた。現在の皇室典範は通常の法律にすぎず、大嘗祭の文字も見あたらない。こういう法的規定のもとで、大嘗祭ははたして合法的に行いうるであろうか。たとえ皇室の私事として行うとしても、自ら限度があるであろう。我われがこういう事がらに無関心であるならば、国家は法的規定のあいまいさをくぐって、純粋な神道祭儀である大嘗祭も国家行事化し、「神社非宗教」によって、政教分離を骨抜きにした大日本帝国書法をよみがえらせることになるであろう。もしそうであるならば、せいぜい文化遺産領域を出ない神話がまさしく政治の世界で生きていることになる。経済的にはGNPで世界高位を誇り、自他ともに近代先進国の称を許すとしても、その国家形成の理念においては甚だ未開的な呪術性を暴露するといわぬばならない。「日本の社会とともに歩む教会」を、ほんとうにナイスの柱としてかかげるならば、こういう動きに鈍感であってはならず、これらにかかわり合う人びとに冷淡あってはいけない。

(広報部)