お知らせ

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東京教区ニュース第70号

1988年11月01日

平和へ熱祷 暗夜に燃える八百八灯〝祈願行進″3ブロックに

教区は8月6日(土)、千鳥ケ渕戦没者基苑で、平和旬間の主な行事として、第15回平和祈願祭を開いた。主司式は白柳大司教、共同司式司祭は森司教ほか21名。ここ2、3年、参列者の数は横ばいだったが、今回は800人近<が集まった。参加者の多かった一因として、今年は武蔵野ブロックのほかに城北、城南の両ブロックが「平和祈願行進」をおこなったことがあげられる。「平和祈願行進」は、祈願祭に身をもって参画させるアイデアとしても評価され、さらに他のブロックにも広がることが望まれている。なお平和旬間実行委は、これより先の6月15日(水)、麹町教会にNHK特別主幹・磯村尚徳氏を招き、同教会共和会と共催で「世界の中の日本」と超する講演会を開いた。

史上最高という善い方があるが、今年の平和祈願祭は、参加者約800人ということで今までの記録を破った。

教区は1974年から毎年8月、千鳥ケ渕で平和祈願祭を開いていた。一時は参加者も少なくなり、継続さえあやぶまれたが、82年、司教団が「平和旬間」を設けた頃から盛り返し、ここのところ教区の平和旬間の公式行事としてすっかり定着していた。

特に一昨年、吉祥寺教会有志によって初めて試みられた「平和祈願行進」は、武蔵野ブロックの協力を得て大きな反響を呼び、今年は城北、城南の間ブロックも徒歩による祈願祭参加を計園、実施した。平和祈願祭に色をそえる意味は大きい。

式は例年通り第1部「ミサー平和を祈って」と、第2部「献花・光の行列・平和の祈り」にわかれ、小冊子に従って行われた。大司教の説教は、20世紀の反省と真の人類愛への決意。

聖書朗読は平和旬間実行委、共同祈願は各ブロックからの代表によって行われた。聖歌も例年奉仕の麹町教会歌隊有志で指揮は岩子昭氏、オルガンは坪川裕子氏。奉椚の取の聞の献金は、この平和祈願祭をはじめ平和旬間行事の諸費用にあてられるものだ。そろそろ暗くなり、係りの者が祭壇のローソクからとった火をもってまわり、手元のあんどんに火がはいる。

聖体拝領も係りの誘導に従ってということだったが800人にはさすがに骨が折れ、聖体を投げる司祭が参列者の後方に2人ほど出向いてもなお多少混乱した。献花の今年の当番は城南ブロックで、赤谷鑑氏夫妻(田園調布)が参列者を代表して基前に花束を捧げた。なお赤谷氏は、並々ならぬ熱意によって当日の城南ブロック平和祈願行進を実現させた人である。

いよいよハイライトの「光の行列」。800人のあんどんの灯の輪は見事である。あんどんに書かれた平和の文字が樹の間にちらちらする。片手にローソクを持ち、もう一方の手で車椅子を回す体の不自由な人、若い母親におぶさって、消えたままのあんどんを握りしめる幼子の姿などが印象的だった。

行列を終えて席にもどり、いつものように教皇ヨハネ・パウロⅡ世の「平和アピール」の録音から一部を聞いたが、テープが古くなったせいかガーガーいって何んだかよく分からなかった。あとでたくさんの人から文句が出た。要一考。最後に「平和の祈り」を唱えて解散した。

なお、献金総額は、387、810円(最高)だった。

声・声・声

■平和というものは、一人ひとりが努力することによっておとすれるものだと思う。ロさきだけで平和といっているだけではだめだ。自分のことを考えてもそうである。たまには兄弟や友人とケン力もするし、言葉で人を傷つけることもある。

そのケン力も、国と国との間になれば多くの人の命と生活をうばうことになる。この祈願祭に参加して、できることから努力しなければと痛感した。(藤沢真澄・吉祥寺)

■聖母被昇天に洗礼の恵みを頂く主人と肩を並べて歩き、ほんとうに嬉しく思った。

せみしぐれの下でミサにあずかり、ローソクの光のなかにアベ・マリアを歌いながら墓苑を一周したときは、青葉に表わせない感動を覚えた。(キョウ君子・板橋)

■千鳥ケ淵に初めて行った。あの下にたくさんの人が眠っていることを知り、とても悲しくなった。私は戦争もほんとうの平和の大切さもよく知らない。しかし、祈願祭に参加して今までよりは平和の大切さが分かったような気がした。(山田州子・碑文谷)

■ローソクの明かりで慕苑を一巡した時は参加者の心が一つになり、たくさんの平和の文字が闇夜にひときわ輝いて見えた。

共に祈り、平和への麻いをアピールし続けることは大変意義深い。若者の参加がもっと増えることを望んでいる。(久場洋子・お告げのフランシスコ姉妹会)

■ふだんの運動不足を解消するためにというお恥しい発想によって徒歩で参加した。ミサのあと、真っ暗な墓苑をローソクの光で聖歌を歌いながら一周する頃にはそのような軽率な考えも消え、心から平和を祈った。(鶴谷敬子・高円寺)

■ローソクの光が大きな嶺となって墓苑いっぱいに広がり、聖歌が夜空にひびくなか、来るべき21世紀には何んとか真の平和をと、心から願った。

平和は祈るだけではなく、一人ひとりがその心をもって生きてこそはじめて実現するものではなかろうか。(佐藤 新・上野毛)

■暗い夜空に墓苑を取り巻くローソクの波。何も知らされずに若くして散っていった幾万の魂よ安らかなれ。過ちは再度とくり返さぬよう精一杯祈った。(斉藤よしゑ・ベタニア修道女会)

■光の行列のときは、天国というのはこういうふうに、ただそこにいるだけで心が一つになり平和になるところなのかなと思った。初めての参加だったが、千鳥ケ淵の痛みと重みをもっと知りたい。(末吉偕子・清瀬)

■憎しみと差別は戦争の橙。この行革は参訓することに意義がある。

また来年もこよう。それにしても日本は平和だ。帰りのビールは格別にうまいだろうと心を散らし、夜風に吹かれていたらミサが終った。(松本仁・徳田)

戦争!分裂!物質

教皇様は、昨年の聖霊降臨から今年の聖母被昇天までを、聖母マリアの年として定めた。それは20世紀を終えようとしている我われが、マリアの眼のもとで過ぎた世紀をふり返り、新しい決意をもってつぎの世代を迎えるようにとのこころからであった。

20世紀とはいったいどういう時であったのか。ます、かつてなかったほど、人類が多くの戦争を体験した時代だといわれる。たたかいは憎しみの結果であり、キリストが互いに愛し合うようにといわれたことにまっこうから反するものである。我われ現代に生きている者は、多かれ少なかれ戦争のみにくい結果結果を受けているに違いない。

第2は分裂の時であった。東西の分裂や、南北の離反をはじめ、一つの国あるいは民族が分割されるというようなことを数えあげればきりがないほとである。これもまた「我われが一つであるように、皆も一つになるように」と言われたキリストの心に全く反する。

次の特徴は、物質の価値を過大視するということである。この時代には、より豊かな物を、より良い物をというふうに、物質に向かって我われの努力が集中されてきた。そのため社会に多<のひずみができたことは承知のとおりである。新しい世紀が来ても、もしこのような状態が続くなら、人類社会は希望のない暗いものになってしまう。

今こそ、はんとうの意味の人類愛を目標に新しい世紀を迎えなければならない。このような仕事は、我われの力だけでは足りない。神のめぐみが必要である。我われは平和のために働く者であるとともに、平和のために祈る人にならなければならない。そして、ミサこそ平和を願うためにもっともふさわしい祭りである。

今宵、千鳥ケ渕に集い、戦争犠牲者の冥福を祈るとともに、次の世代にも平和が与えられるよう切なる祈りを搾げよう。

(東京大司教・白柳誠一)

歩き通したウバグルマ

武蔵野ブロック

核兵器の戦争は、大国の政治家の手腕によって避けることができるが、通常兵器による闘いは群発地震のように起こり、それによって死んでゆく人間はさみだれ的に多くなるだろうと各国の識者は見ている。

生科学者は、科学エネルギーの放出により、地球の生体系が狂ってきていると警告を発している。だが先進国をはじめ世界の各国は、いっこうに改める気配がない。地球は核兵器で一瞬にして死滅させることができるが、生体系の破壊による滅亡は一般人が気づかないうちに確実にやってくる。

平和は、神と人間と自然との調和である。いまや人間が神になり、横暴になっている。扇い立場にある人を個人の利益のために殺している。しかも当事者はそれに気づいていない。

かつて罪とは本人が事柄を知り、承許し、意志決定して成り立つものとされていたが、今日では地球規模で見なければならない。人類は運命共同体であり、個人は知らぬうちに大きな罪を犯す。平和への祈りは人間の改心と生活改善・慣いの業であり、愛の実行である。こういう考えで平和祈願行進をした。

(及川 正・吉祥寺)

▼順路は、吉祥寺教会-荻窪教会-高円寺教会-新宿中央公園-麹町教会-千鳥ケ淵。
▼7月17日、行進方法についての説明会が吉祥寺教会大ホールで開かれた。子供たちの描いた平和の絵の展示や作文の朗読などもあった。
▼全コース参加と部分参加とがあった。
▼原則としてグループ参加。個人の場合、編成は事務局に一任した。
▼出発前、自分の体力や体調にあった行程を選ぶこと-、装備や服装は行進に最適なものであること-など、「参加者心得」を配った。
▼直射日光を避けるため、右側の歩道を利用すること-など、「行進道路に関する留意」も。
▼ワッペンをつける。祈りの花束用カードを、各休憩地で受け取る。
▼みことばの祭儀を、吉祥寺、荻窪、高円寺の各教会で行う。
▼千鳥ケ渕に到着後は、「感謝のことば」に続いて会場経営の手伝い。

城北ブロック

梅雨が明けてからも晴れ間の少ない空が続いていたが、この日は朝から雨の心配は全くなかった。集合の場所である関口教会・ルルド庭には定刻前から参加者が続々と集まり、用意した記念バッジもたちまち品切れになってしまった。

午後4時30分、森司教をはじめ数名の司祭とともにロザリオ一環(栄えの玄義)と平和の祈りを唱えたあと、行進の第一歩を踏み出した。全員が事故もなく、全行程の1時間あまりをたのしく?歩いて千鳥ケ淵茄宛に着いた。

参加者の中には70才を越す男女も数人いた。それはもちろん敬意と注目の的であったが、我われは特に、乳母車と背に一人づつ、さらに一人の幼児の手を引いて、汗に輝く笑節を絶やさす歩き通した母親を見つけ、惜しみない拍手を贈った。こうした素晴しい経験と充実感は、ひとりでに来年への決意や計画にもつながったようだ。

(小林又三郎・徳田)

▼1つの小教区から10人ぐらい参加するように誘った。
▼帽子や日傘の用意をし、汗拭きにはタオルが好適なと指示。
▼行進は三々五々で、規制の対象外。世話係は各教会で1人。

城南ブロック

今から43年まえの原爆投下の日、あの時の広島と同じ炎天下の午後1時、田園調布、洗足、上野毛の3教会から同時に出発した。碑文谷教会で合流、目黒教会まで約1時間かけて行進し、目黒-四ッ谷はJR線、麹町教会で武蔵野ブロックの大きな流れと合体した。

世話人たちの申し合わせによって、誰でもとこからでも自由に参加できること-を旨とし、予め参加申し込みや説明会を行うことはしなかった。各教会では「平和アピール全文」を3つにわけて順次朗読した。あの感動的な、広島でのアピールから7年を経て、その切なる平和への願いがともすれば風化し、忘れられがちのこのごろだからである。

参加者は延べ74人。行進はしなくても、教会で祈りを先唱してくれた主任神父、冷い飲物でねぎらった婦人会や修道女の方なと、約15名の支えを得た。全員があ<まで自発的な参加だった。一人ひとりの「平和の祈り」が源流となり、支流を集めてやがて平和のミサの本流となる力強さを実感できた。

(渡部 共・上野毛)

▼「時間・コース一策図」「平和アピール全文」など配る。
▼各教会で「平和の祈り」を唱えてから出発。
▼行進は、隊列を組んだり、聖歌を歌ったり、祈りを唱えたりはしない。ワッペン類なし。

第3回実践総会

3月21日に開かれた第3回教区総会につき、前号に続いて福音宣教推進会国会議教区代表者の発題3、4と残りの分科会からの報告を掲載する。総会を経て後、、全国会議で提出された提案を具体化するために、いろいろな提案が大司教のもとによせられている。

これをどう取り扱うかについて事務局や宣司評で検討した結果、専門家に任せたほうがよい点もあることから、現状を把握できる大司教を中心に、素案づくりのスタッフ選定からはじめることにした。

発題1、日本社会の現実に眼を。(国富佳夫)
発題2、ホンネで分かち合いを。(長島世津子)

発題3、眠っている人おきて下さい。(荻野友紀)

教区レベルの活動として「みんな友達がかり」という会をつくって続けてきたが、今年を最後に消滅するであろうところまで来てしまった。どうしてそういう結果になったのか。結局は若いスタッフが続かず、後継者を育てるのに失敗したということが実態である。

ブロック規模の活動として城西を例にとって見ると、中学生練成会がある。7年ぐらい続けて来たが今年はついに開けなかった。これも失敗といえば失敗だが、まだ希望はある。今年はたまたま大学生でリーダーシップをとる人が表われなかっただけで、来年はまた練成会を開けると思う。

小教区レベルの活動の例として、赤堤教会で若い人を集めてフォークミサのバンドをつくった。今は自然消滅のような形で活動していないが、これも若い人達が就職したりして、リーダーがいないということなどが原因だった。このように述べてくると失敗だらけのようだが、このへんで、青年達がどうしたら動き易いだろうかを考え、4つほどにまとめて見た。

ます一点目としては、活動するには何かのきっかけが必要だということである。ただ青年だけが集まって、何もないところから何かを始めようとするのは無理で、誰かがどこかでお膳立てをするか、何かの糸口をつかむことが最初はどうしても必要だと思う。

2点目として、仲間といっしょに働く喜びを知ることが大切である。自分達が喜んで自主的に始めた活動だけが長続きするものだ。

3点目に、これはお願いであるが、大人の方には長い目で見守って欲しいということである。活動の主体が学生では何年か後には卒業ということもあるし、コンスタントに続けるのが学生のレベルではむずかしいということだ。今年は駄目でも、また来年やってくれる人が出るという希望を持ちたい。

第4点日は、活動を決して義務にしないことである。おしつけであれば長続きがしない。

発題4、女性の参加の場を広げよう。(荒井佐よ子)

内むきの教会を外むきにしようということは、つまり開かれた教会を-、ということと同じだと思うが、何に対して誰が開くのか、これをとことんまで話さなければいけない。もし地域に開かれることが1つだとすれば、担い手は信徒である。地域の中にいて、すでにいろいろな運動を町でやって来た信徒にとっては、住民としての個人の行動が教会からも認められたということで、大いに自信を得るところである。問題は、今まであまり地域に関係なく生きて来た人である。これからは自分と神だけという狭い信心にととまらず、地域に出て行って、それに貢献できるような信仰であってはしい。

教会に来て、いわゆる宗教的な感情的満足感をうるというのはいかにも日本的で悪くはないが、キリスト教にはもっと深いものがあるはずだ。行事なとで忙しすぎるのもいけない。教会に来ない信徒の問題もふくめて、何が今の日本の教会で大事なのか真剣に話し合わなければならない。気になるのはチームワークの不足だが、このへんのことも分科会でじっくりとやりたい。

司教団が女性信徒の働きを評価し、活動の場を認めてくれたのはありがたい。それに勇気を得て、どんどんやって行かなければならない。日本の社会一般を考えても、将来は女性がもっと働くようになるだろう。そうなれば、社会での働きを男性だけにまかせておくより、かえって家庭や子供を大切にするという風潮が生まれるに違いない。

最後に、内輪の組織の問題だが、いくら制度をかえても、それを構成する人の考えが変らなければ同じだと思う。意識の変革から自然に出てくる新しい制度こそ本物だ。課題はたくさんあるが、ひるからの分科会ではこれらのことを真剣に話し合い、一つでも進展させてゆきたいと思う。

それにしても、せっかくやった福音宣教推進全国会議に反対する零囲気が、なんとなく感じられるのは残念だ。

分科会

自己紹介は昼食時。全国会議を受けて一歩前に-が目的。

■柱Ⅰ「日本の社会とともに歩む教会」

会社人間か、宣教人間か

分科会(3)
(司会 岡田啓一・麻布)
(書記 中村 肇・麻布)

若杉(松原) 柱の中には福祉の問題が出ていない。信じられない欠落だ。

小川(松戸) 週日は会社人間で教会を考える余裕はなく、ややもすれば祈りも忘れる。物質的には次第に豊かになるが、本当の害びとは何か-を突っ込んでみたい。

小川(高幡) 私の信仰生活は掟を守ることに終止し、愛を行うことが欠落していた。キリスト教を伝えるのには困難さを実感しているが、隣人への心配り、愛の行為を生活の中でするしかない。

国富(関口) 個々の人は心に深<イエズスを信じる喜びを感じているはす。喜びの証し体験を伝える運動をやりたい。

大倉(町田) ナイスでは労働者のことも扱われていない。労働者とともに歩むことは大切である。プレーンも大事だが、つながりを果たす人材と場所があるといい。

黒川(麹町) 会社人開からキリスト人間へ! 心を神と語れる状態に置け。教会は分かち合いの場であり、初めて来た人に声をかけよう。

山下(洗足) 教会の共同組合をしていて痛感するが、心の問題の中にお金の問題も避けて通れないことである。私の会社では、職場の稲荷にお参り出来ない人は重役になれない規約がある。

山肺(鴨川) 教区立幼稚園の職員している。父兄がいるのでチャンスはあるが実際の活動はない。

広瀬(館山) 農漁村の風俗習慣が強く残り、特有の民間債仰が日常と結びつき、その中でやれることは、身近かに苦しむ人と苦しみ、行いで愛を示すしかない。

生他(茂原) 教会の真の教え、回心は発想の転換が必要である。納得することが基本だ。

村上(ミラノ宣教会) 中高年には第2バチカン公会議以前の意識を持つ人が多く、トラブルの原因となりやすいが、本音の話し合いで解決を図ろう。

鶴田(大森) 今年も青年が少ない。どうしたら青年の関心が向くか。同世代の中で話すことを続ける。

佐藤(大森) 基本的には各小教区の関わり方が一番大切である。まず教会の社会化に努力しよう。

林(三軒茶屋) 信者は教会を選べないか。あちこちの小教区に通い、その良さを自分の教会に持ち帰りたいと努力してみたが、信徒の力は微々たるものである。

ベルムイ(聖マリア修道女会) 教育の問題が大きい。今の学校は頭だけで心の教育が欠けている。死ぬまでに日本人と一緒に何とかしたい。

片平(間瀬) 第3回国連軍縮特別総会に関し、市役所に請願を出した。説得に努力した結果、主任司祭がその代表者になった。誰が見ても反対できない内容だし、司教団がやることに対して教会が横を向いているのは良くない。

出口(援助修道会) 若い人々が教会に来ることが難しくなり、特に底辺で働く青年労働者を見かけにくい。喜びのある時にだけ、分かち合えるのではないか。

山本(北町) 同僚が自分をどう見ているか切実だ。宣教といっても社会に引きずられがちだが。

黒川 最も大切な情報伝達の手段であるカトリック新聞を、なぜ各信徒は購読しないのか。

若杉 カトリックは新興宗教のような宣伝はしないもの-という怠りのつけが今日信徒にまわってきた。

熊川 各教会や修道会問の協力態勢の一本化など、大司教がイニシアティブをとることが大切である。

国富 ブレーンの充実と言うが、信徒をも含む、しっかりした財源のある「中央機関」を作り、信徒の負担で、まともな給料を支払ってすべきだ。

駆け込み寺風の窓口を

分科会(4)
(渡部 真・上野毛)
(田村浩子・高輪)

木村(三軒茶屋) 人間の尊厳を推し進めて行くための教会づくり-などという発想に驚いた。社会とのかかわりなど、プロの技術的なものからも、生涯教育的に勉強して行きたい。今井在日外国人で因っている者に、教会として積極的にかかわりたい。

芝崎(成城) 日本の非常に変った社会に順応して行こうとする教育を、自分もそれなりに勉強してゆきたい。

粕谷(洗足) 仕事づけになっているサラリーマンに、教会はとうやって手を差しのべたらよいのか。

田澤(小岩) 現在社会で仕事をしているので、信仰表明する手段もうかがいたい。

藤原(シャルトル聖パウロ修道女会) 信者の方々が、実社会でどのようなことをしているのか知りたい。

朝日(高幡) 教会の門を開く-ということで、結婚式をさかんに、とかいうことには、若干疑問がある。

藤倉(関口) ナイスを終えて、どんな活性化が始まるのか興味がある。自己改革して行くための講話を聞きたい。

森川(高円寺) 教会を新しく訪れる人に馴染んでもらうために心を砕いている.

山崎(垂心会) 私立学校の新しい在り方を、皆の問題として考えたい。

辻村(礼拝会) 修道会は、特に社会とともに歩んでゆかなければ、取り残されてしまうと思う。

小山(蒲田) カトリック校が、信者の家庭の子供に、経済的な面で門を閉ざしていることに疑問を持っている。ある修道会から、5才の男の児が里子のような形で来ている。自分の子供たちの成長のためにもよいことと思っている。

氏家(本所) 中小企業の町で皆忙しく、教会委員で出席したのは私一人。

福岡(聖パウロ女子修道会) 社会問題に取り阻むことは、教会の使命として大切だ。アプローチの仕方、表現法などどう勉強して行ったらよいのかまだ分からない。

今井(三軒茶屋) 聖パウロ女子修道会は、出版物なとでは実によくやっている。

氏家 私の住んでいる千葉4区は、小規模選挙区で、全国一選挙権の軽い地区である。その不平等をなくするため、市民運動として人権の立場から、一票の格差をな<すべく、原告の一人として活動している。私鉄運営の公聴会に、口述人として参加し、値上げに反対した。4人の父親として、教育費のためのアルバイトでもしたいところだが、社会とのかかわりも大切にしたいと思う。

朝日 私がカトリックに求めたのは、厳しさに通じるものを見出したからで、本当の信者が定着する方が、10人20人の力を持っているのではなかろうか。

藤倉 いろいろな問題の、かみあわない歯車のレベルをどうするかというのが、第2バチカン公会議からやっとスタートしはじめた今の姿だと思う。

木村 教会の中の違う年代の人々との交流を考えたい。前から来た流れを連綿と続けて行くのか、人間としての仲立ちの役割を感じながら、教会の中で生活できたらと急う。

藤倉 司教団は「遊離」という表現をしているが、「緊張」という言い回しの方が良いと思う。生涯養成は、「博士」になるような雰囲気でなくて、生活して行くことの話し合いができたらよいと思う。

芝崎 どうして「開かれた教会」という形で、教会当局が社会に歩みよって行かなけれはならないのか。

朕合(清瀬) 宗教は、その時代の人々の生活あっての宗教と思う。

今井 小山さんの話を聞きたいが。

小山 施設に通って、親元にいられない子の世話している。子供が馴れて里親のようになった。苦しい時は祈りながら、自分も育てられたと思う。

今井 教会もだんだん地域社会の政治に携わって、位置が認められ、意見が採用されるようになったらすばらしいと思う。

小山 74才で五島から出稼ぎに来て、非常に辛い労働をしている人がいた。家族に仕送りをしていたが、地価の高騰でアパートから出され、住む所がなくなったので、家の2階に住んでもらった。区の婦人学級とか勉強会で言った方が、好意的に反応しても貰える。教会では、「私にはそんなことは出来ない」といわれた。

田澤 現任は、因っている人は創価学会か共産党の人が、区にもって行って話すということになってしまっている。カトリックとして相談を受けても「一緒に教会へ行って、お祈りしましょう」では済まない話しなので……。

来合 カトリックでは、人とのかかわり真剣に受け止めてやってあげようという人がいないのでは。

分科会(5)
(柴崎春樹・高円寺)
(稲留敦子・高円寺)

馬場(ビジョンの会) 神父は司教と信者のサンドイッチになっていて、神父の意見を吸い上げてナイスに持っていった方がよかったのではないか。信者は従順で権威に弱いので、上からの命令系統がしっかりしていてこそ動きやすい。

苫田(蒲田) 主任司祭として教会をながめると、小教区には本音で話し合えない部分がたくさんある。地域の人々とかかわりを持つため教会を開放している。

馬場 開かれた教会-といっても信者の意織を変えねば…、自分だけがよければというのはダメ。

海老名(五日市) 若い頃、労働組合を作ったことを神父に反対され教会を離れた。社会改革には他の団体のガが早く手をつけていた。教会は政治に関係すべきでないという感じで、声を出せば過激のレッテルをはられてつぶされる。

竹原(ベタニア修道女会) ベトナム難民の母子にかかわって考えさせられた。教会で折あるごとに勉強会を企画したらよいと思う。

斉藤(清田) ミサだけが教会のすべてではない。個人の苦しみと宣教とを切り離して考えているのでは?

吉田 青年は友達に会いに教会に来る。ミサに遅れても叱ってはいけない。

関口 健康人なら自分の持つすべてを出して活動すべきだ。

今来(豊島) あせって実生活と教会生活を一致させようと思っても無理。日曜日に教会へ行くことで、社会生活と違った部分があって安らぐ。

阿部 ミサに重点を起きすぎて、社会とのかかわりがなさすぎると患う。

菊池(扶助書聖母会) 社会と教会の価値観のギャップをうめてゆくのが我々の仕事だ。自分の内面を深めてゆくことしか解決はないと思う。

中村(小平) 最終的には神の望むことを行うことで支えられている。己のいただきものを自然体であらわしたいと思う。

大竹(町田) 今まで信者ということをかくしたこともないし支障もなかった。社会とのかかわりの中で、自分の信念を持って信仰生活をしたい。

苫田 子供同志は希望の学校に合格すれば、また教会に来てもとの道のつながりができる。

佐藤(浅草) 変則的な勤めを持つ人間が世の中にたくさんいる。夕方8時50分からミサのある教会を見つけた。

川島(大阪聖ヨゼフ布教修道女会) 修道者は昔と異なり、どういう形で社会とかかわるか話し合っている。

分科会(16)
(津賀佑元・豊島)
(大水恵子・宮崎カリタス修道女会)

前田(麻和) 教区福祉部で各小教区の福祉担当署の集いを開いた。55教会からの参加があり、福祉を通して何ができるかを考えた。ブロック毎に福祉関係の窓口を作ることを始めた。

新田(西千葉) ミサ後、原発に反対する意見を説教台から述べ、署名連動を行った。過去の日本の教会では考えられなかったことだが、これは今からの教会の姿であろう。

前田 社会のことを考える前に、大司教と神父の間に問題があるように思う。

大村(ベタニア修道女会) 修道会というのはあまり情報交換がなかったのでロスが多かった。各分野で活躍している人たちは、情報を交換し分かち合うべきである。

新田 今までは大司教の指示に従って動く嫌いがあった。横に連絡をとりながら進んでゆくべきだと風う。

長谷川(無原罪聖母宣教女会) アジアで弱い立場にある人のために働く時、協力してはしいがむしろ足をひっばられる。

新田 教会全体の理解を深めてゆくためには、報告・連絡・相談が不可欠である。

前田 個人レベルで働いているならあまり公けにする必要はないが、自分の周囲には理解を求めてゆくべきだ。

司会者 政治がからんでくると、教会内には拒絶反応が見られる。

荒井(浅草) 政治問題については、適確な判断を下せない人もいるので、教会としては指針のようなものを示す必要があるのでは。

岡本(立川) 社会問題に目を開けと言われても、教会自体がそのような教育を受けていないので、生涯養成の要がある。

前田 駆け込み寺風な相談窓口を各ブロックに作りたい。受付ける人のための講座を開こうとしている。

岡本 躯け込み寺のことは、どのように一般の人に伝えているのか。

木村 窓口をたくさん作り、情報を得た人が紹介するという方法がある。日本では社会問題にかかわると左翼だと言われがちだが、このような偏見を打破しなくてはならない。

湯川(西千葉) 教会活動に若い世代の参加が少ないという分析があったが、教会に喜びがないからではないか。

橋本(マリアの宣教者フランシスコ修道会) 司教と信徒との距離がだんだん近くなって来たことは感ずる。

三崎(八王子) 信者として政治問題を避けて来たが、今からは勉強しなければと思う。

安原(市川) 日本をどのように解釈し、教えをどうして広めるかが問題。民族性を大切にし、同化してゆく方法を考えるべきである。

分科会(17)
(山口正美・葛西)
(草野幸彦・葛西)

金沢(心の灯) 教会の中で貧乏人、障害者に対する差別がなくならない限り、教会の発展はあり得ない。

菅沼(荻窪) 地域の人と接する場合、お客様的存在として対処してはいけない。何かの役を願うとかして、いっしょにやってゆくこと。

石川(秋津) 教会の中に、本音で話し合う環境ができていない。その雰囲気をつくることが原点だ。ナイスである程度うっぷんははらしたと思う。具体的な問題について実行に移さなければならない。

木庭(荻窪) 人はそれぞれ運命を背負っている。光をあてれば陰の部分も出てくる。そのような部分にふれたくない人、心に秘めて教会にくる人もいるだろう。それをさらけ出す必要もないと思う。

斎藤(荻窪) 分かち合いに水をさすつもりはないが、あるとき突然この言葉がでてきたような気がする。一般の社会では通用しない、なじまない言葉だと思う。

小林(西千葉) 言葉の意味が分からなく、独り善がりに終ってしまうきらいがある。

鈴木(西千葉) 1ヶ月をこう生きようという目標を福音の中から選び、どう生きたかを発表した人がいた。そんなふうにやれば福音を生きることができるのかと、身近かなことを実行する訓練ができた。

菅沼 分かち合いと云う言葉はエキュメニカルなもので、他の宗教でも使われている。

石川 勉強会や茶飲み話などをも総称していうのでしょう。

杉浦(太郷) 近くの未信者の方々に集まってもらって聖書の勉強会をしている。信者になった人はいないが、他の宗教の勧誘には応じなかったり、葬式は教会でやって欲しいなどという者もいる。

谷口(西千葉) 言葉が先に出ないと、行動にうつすことができないと思う。

山口(葛西) キリストもいろいろな人に声をかけて近づいた。それは宣教の節一歩かも。

長留(蒲田) 貧富の差は社会構造から来ている。これを変えなけれは問題は解決しないと思う。基本から取り組みたい。

深田(蒲田) 本音で話しうことが一番大切だと思う。言いたいことを思い切り言えば、本気で喧嘩をするかも知れないが、本当に互いの気持を通ずるためなら喧嘩も必要だ。

福川(聖心会) それぞれ性格や考え方も違うので、本音で話し合うのは難しいこと。それが出来る人も出来ない人もいるので訓練が必要だと思う。

石川 聖書のみ言葉を通した生き方の分かち合いが必要なのではないか。

小林 特別提案として取り上げられた離婚、再婚の問題がある。教会法にどの程度拘束されるのか?今の世の中で、教会法が必ずしも福音の聖心を全うしているとは思えない。

内藤(三軒茶屋) 難民定住に関してだが、仕事を紹介するがなかなか続かないのが現状のようである。

福島(松戸) いつも零からの出発を繰返している。具体的な問題を決めて解決のしかたをつめた方が、積み重ねになる。

木庭 アメリカの大学のカタログには、身障者設備についての度合がパーセンテージで記されている。日本の社会は健常者のためにある。我われはこの事実をふまえなければならない。

河崎(荻窪) 各教会の情報を記した小冊子が出ているが、中央出版社に置いてもはとんどさばけないのが現実である。

梅田(豊島) 聖堂に雑記帖を置き、コメントを書くことにしたところ、ふれ合いが始まったようだ。

河崎 韓国のように苦しんでいる国の強勢は伸びるのではないか。飽食の時代にある日本は宣教が難しい。

小林 危機感が切迫しない限り教勢の発展はないようだ。青年たちにも魅力ない存在となるのではないか。

■柱Ⅱ 「生活を通して育てられる信仰」

いい子でいたいは古い

分科会(6)
(村田増雄・千葉寺)
(陣野友久・千葉寺)

畑野(葛西) 本音にも人を傷つけるものと喜ばすものがある。きれいな本音で分かち合う配慮が必要だ。

村松(清瀬) 典礼をよく理解できたらそれが行動の源となる。ミサなとの教育の徹底を。

清水(三軒茶屋) 離婚や再婚などで悩んでいる人に対し、教会法の問題ということで信者は何もしてやれないのか。

村松 いろいろな問題で、夫婦ともに生活できないほど苦しんでいる人々を、なぜ教会は認めようとしないのか。

堀川(高幡) それらはまず手続きをちゃんと踏んでいるのだろうか。

久富(関口) 教会法の専門の司祭はたくさんいるので、誰にでも、何度でも相談に行思う。

福山(松原) 教育問題は社会の価値観の転換が必要であって、そう簡単に解決できるものではない。

諸岡(秋津) ナイスに関する情報を快く思わない司祭や信徒「も多いが、皆に知らせることは非常に大切だと実感した。

堀川 労働者で言えばユニオンに相当するような横のつながりのある会を作りたい。同じ考えを持つ現場の担当者、司祭、専門家の集まりを作り、具体的に話し合ったら。

福山 総会のことも、小数区内でははとんどの人が知っていない。ナイスの内容、活動など、情報の伝達ルートをしっかり作ることが先決だと思う。

堀川 試行錯誤でよいから、迅速な活動が必要かつ大切であると思う。

影山 やれる人がイニシアティブを取ってやって行くことが肝腎である。

村松 自分がやらなけれはならない-、とかりたてられている人でなければ積極的な活動はできない。

風間(小岩) 福音書の言葉で典礼の大切さが理解でき、ミサにも積極的に参加して人々にかかわれるようになった。

畑野 老後のことなと、同じ悩みを持った人々とかかわり助け合いたいと思うが、仲間づくりがむずかしい。

朝穂(師イエスス修道女会) キリストとの出合いの喜びとその充実感がもろもろの活動の力となる。

鍛治(関口) 人と入とのかかわりの中で大切なのは、ちょっとしたことで人を裁かないことだと思う。

分科会(8)
(荒井寮次雄・浅草)
(横山友比古・市川)

シモンチェリ(三河島) 福音は喜びを伝えること。伝えようとする人自身が喜びを感じていることが大切である。

佐藤(聖パウロ女子修道会) 修道者は、修道院に入るまえの喜びに満ちた表情を、入った後にも保たねばならない。

岡田(関口) 結婚式、葬式、その他の目的で、教会がもっと利用されてもよいのでは。信者でないのに聖堂に入っても良いかと質問する人がまだいる。

小山(関町) 未信者の家から葬式をしてほしいと頼まれて行った。家族には喜ばれたが教会内では批判もあった。

林(関口) 教会に来なくなる人は、自分で敷居を高くしてしまっているのではないか。

桝谷(吉祥寺) 生活の中で失敗した痛みを皆で受けとめることの出来る場を、教会の中に作らなければならない。「分かち合い」を練習している。信者同士でも、本音でつき合うのはむずかしい。

シモンチェリ ほんものの喜びを大切にすることを、あらためて訴えたい。

嶋(聖霊会) 女子学生の世話をしている。生活の中で教えが現れるようにしている。信者でない学生のはうが、キリスト教に関心が深い。

館森(成城) 教会の中に話し合いの場を作るように工夫している。

シモンチェリ 行事で追いまくられるなら、むしろやめてしまったはうがよい。宗教という言葉は儀式などにつながるが、信仰は生活につながっているのではないか。

伏見(蒲田) 職場での活動を教会で話し合う機会があり、いろいろなことを教えてもらっている。

シモンチェリ 楽しみは教えられるが、喜びは教えることができない。

佐藤 神社、寺院の中にいると、たとえカトリック信者であっても落ちつける。教会も日本人の素朴な心情に訴えることができるようにしたい。

桝谷 苦しさを背負う姿勢こそが開かれた教会の大切な要因である。

分科会(9)
(近藤明夫・貫多見)
(湯川 修・喜多見)

関(小岩) 開かれた人間ということについて、高年者はサークル活動などの交わりを通してこちらの詰ができる。

駒沢(幼きイエズス修道会) 自治会の役員をしながら家庭訪問をして個人的なつながりができた。

青山(小平) 若い人達のたまり場がないこともあって青年が集まらない。

片岡(赤羽) 若い人達の場合、仲間と集まりたい気持はあっても自分らの発案がなく、友達づき合いで終ってしまう傾向がある。

林(松原) 小中高生会なとがあるけれども、青年独自の活動は少ない。

関 各層を越えたタテ割の集まりが必要と思う。

首藤(吉祥寺) 婦人層の集まりに、若い人が積極的に入って来ない。

カックス(青梅) 若い司祭にとっては、青少年に何をすればよいかが問題となっている。

青山 若者のグループがあって聖体奉仕をしている。行事に若い人達を引き込もうという考えが必要。

村上(拍) 青少年のための独自のミサがあり、その後で食事、談笑をする。

大工原(碑文谷) 聖歌の練習には老若男女が参加し、そのあとお茶、話し合いの時を持っている。

清原(蒲田) 青年会はおもに教会行事を中心に、JOCは外に向けての活動にかかわっている。定例会は固定されたメンバーしか出席しない。

村山(田園調布) 東雨アジアの青年と交流している若者を見ていると不十分なこともあるが、それでもいいと思う。青少年と高齢者のパイプ役が必要ではないか。

首藤 寺と教会との関係で、墓を作って寺に納骨する等、以前ほどきつくないのでは。

高野(聖マリア修道女会) 信仰に入る上でまよう1つの不安でもある。説明する小冊子があってもよいのではないか。

分科会(10)
(西勝敏夫・調布)
(小川艶子・調布)

杉田(葛飾) 民間家屋の2階を借りてミサを上げている。近隣の人とすぐ挨拶するようになった。相手の痛みにも直接ふれている。

野田(シャルトル聖パウロ修道女) 重度障害者から歌を教えてほしいと頼まれ、経験が活用できた。

今泉(蒲田) 働く青年のメンバーである。聖書を読み、生活について語る。問題が起きた時、個々の考え方を話し合う。

杉田 大きい教会でも、徹底して小さい仲間作りを。小数区はさまざまなグループの共同体の集まりでよい。

吉武(目黒) 同心状況でないと話がわからない。しかし年長者から学ぶことも多い。

大塚(麹町) 本音で話すと云うが、深い接点がないと分かち合いはできない。苦しみを分かち合える人、それは泥沼にはまり込んだとき話し合える人のことではないか。

中村(多摩) 分かち合いの意味がわからない。ゆるし合いのことか話し合いのことか。

宮尾 物、金、気持ちすべてを分かち合うことだ。カトリックは苦しんでいる人、弱い人を助けよと教えている。同じ目的で活動する他の団体とタイアップするのも効果的ではないか。

杉田 分かち合いの問題は効率化についてではない。一人合点の思い込み人間が多いが、あなたの意見はどうか-これが分かち合いではないか。

田坂(洗足) 若者の問題について受け皿となるところがない。自分の苦しみもわかってもらい、またひりの悲しみもわかってやりたい。

吉武 教会は母船のようなものだと思う。信徒一人ひとりが意識をもって話し合うとよい。

奈切(小平) 互いに分かち合いの心を共有する。親切の押し売りや、助けてもらって当たり前の考えに気をつけること。

田坂 相手にとって適切でない場合は苦しみがともなう。

伊藤(立川) 5人から10人ぐらいまでの数なら相手の話も充分に聞け、本当の分かち合いができるのではないか。

仲本(イエズス孝女会) 長い間教会をはなれていた人がたずねて来た時の受け入れ方は大切だと思う。

石川(高円寺) SOS難民のグループに入った。本音の話がしたいが遠慮している。

工藤(多摩) 地域の中で教会への分かち合いがほしい。

山口(小平) 教会の中に分かち合いがあるだろうか。役員を親子でやっている家もある。

大塚 主人が教会委員になった。「委員会に行ったら何も言わないで」と言わざるを得ない。

伊藤 立川、豊田両教会を主人の神父が共同司牧するという新しい試みになった。暫定委員がこれをどこまでこなせるか。

分科会(11)
(佐藤正一郎・高幡)
(佐藤 正人・高幡)

高松(板橋) 本音でのつき合いはむすかしい。未信者を持つ家庭、子供の問題を主に取り組んでいる。

上野(お告げのフランシスコ姉妹会) 修道女は企業の大変さを知るような場にふれる機会が少ない。どうすれば若者の集まる教会づくりができるか。

粕谷(洗足) 教会委員長をすることで夫婦、親子間での会話が増えている。

小林(立川) 委員の交替に伴う地区集会の拡大なとで、教会は変化してきている。

清水(三軒茶屋) キリスト教が目指している内容が直接ナイスに関係しているので、一つひとつに触れてゆくことが刷新につながるのではないか。

佐藤(上野毛) 教会内の運営はうまくいっている。浮ろう者、やくぎなどに対するメは冷たい。家庭内のデリケートな問題に関してはこれから。

千葉寺(平賀) 聖母会の勢力が強い。男性ぜけで気の合う仲間が集まっていい雰囲気を作っている。

中村 子どもはどうして教会に来ないか-が素案の問題になったとき、非常につらいものがある。家庭集会の普及、小グループの活動に力を注いでゆきたいと思う。

那口(築地) 信者同士でも本音のつき合いはできない。受験期の子どもはどうか、就職、結婚後はどうか、回り道があってもあまり心配しなくてよい。

山本(赤羽) 既存の組織から自由なっていないのではないか。小教区が自分の家だという感覚がない。

水上 教会ではいい子でいたいという思いがあるのでは話が出ない。青年会と壮年会がふれ合う機会がほしい。

関口(師イエズス修道女会) 青少年の黙想会でアンケートをとり、関心を持つような項目を加えて話の糸口にしている。

分科会(18)
(渡部栄一・麹町)
(木島武次・麹町)

関口(赤羽) 転勤で移動すると要理の勉強なとも中途半端になり、常に振り出しに戻されるのだが。

西郷(麻布) いやがらせをする相手に対し文句も言わずにいたら、教会の話を聞かせてとのことで、良い機会になった。

赤野(初台) 自分から心を叩くということが大切だ。幼児洗礼を受けた中学生以上の教会離れが日立っている。

長島(吉祥寺) 男性は職場にかける比重が多く、家庭内での夫婦の対話がすくない。家庭を固めることにより、教会をも開くことができるのでは。

中野(拍) 家庭の面倒な問題にわずらわされたくないなどという理由で、逃げている面もある。家庭内での対話の必要性は感する。

沢田(麻布) 仕事と家庭と教会での時間をバランス良く配分することが必要。現代の教会には、福音を生活に生かす活動がなさすぎる。それぞれの場でもっとグループを作り、分かち合いをするべきではないか。

合羽井(板橋) ナイスに対して無関心な司祭がいる。教育が必要ではないか。

福川(麻布) 司教は司祭への徹底が悩みの種だ。だから信徒に呼びかけている。

粕谷(神田) 志願者に対する導き方で、強制せずに近づける方法を。

和田(小金井) 教会内に、気楽に助け合えるつき合いがほしい。

竹内(市川) 自分の子供の宗教教育は非常に難しい。他人に対してはなおさら。身近かなところから仲間を増やすことが大切ではないか。

田端(荻窪) 何事も負担に思ったり、被告者意識を持ったりするのが一番いけない。喜びをもってやること。

福川 小冊子「ともよろ」の意味を誤解のないようにとらえよう。生活の中で信仰を見てみてはどうか。

菊地(メルセス宣教修道女会) 人間としての弱さや失敗を受け入れてこそ一致が生まれるのでは。一人ひとりの回心によってのみ教会は開かれる。

木島(麹町) 家族の対話のため、共通の話題を持つようあらゆる機会を利用する。職場や地域で、信者であることを隠さない。

分科会(19)
(木村 宏・北町)
(木村美智子・田無)

得藤(調布) 信徒同士の交流がなく、自分たちが信者であることを隠す傾向がある。

佐藤(葛西) 団地に住んでいて信者であるということが知れ、近くの人を教会へ誘った。

西田(町田) 信者であることは自然にわかるので主張する必要はない。

安藤(町田) 自分にも日曜は信者、平日は普通の人というところがある。

青山(洗足) 信者であること宣言するのは大切だ。信者としてふさわしくなければ自分の信仰に責任がある。

亘(渋谷) 恵みの中にあるということに気づき、心からしあわせに思わなければ生きているねうちがない。

斉藤(徳田) 里親をしているが、良いも悪いも全部うけ入れなければむすかしい。

小林(北町) 十字架をふんづけながらかなづちでたたいている子供を見て驚いたが、聞くとイエズス様の釘をぬいているのだと言われ感動した。

木村(田無) 祈りながら勇気を出して発言すれば必ず助けてくれる。

小林(渋谷) 信仰生括の根本は家庭にある。

■柱Ⅲ「福音宣教をする小教区」

ユタンポ教会から脱皮

分科会(12)
(田中精一・茂原)
(鮎貝秀興・茂原)

カンガス(麹町) 受洗者と転入者に対し、オリエンテーションやセミナーなどをやっている。50歳以上の信者夫婦の集い、同職者の集い、有織婦人の集いなと、分かち合いは大切。

志村(高円寺) 府中の教会は宿泊所であると聞いたが。

ジュセプペ(小金井) 普通の教会と同じである。

佐無田(梅田) 福祉施設であったのが、ドーンと教会になったし教会としてアピールしていない。

実相寺(関町) カトリック教会は営業が下手である。福音は金儲けではないが、売る品物を知っていなくてはダメだ。受け皿がしっかりしないと獲った魚も逃げてしまう。

山川(葛西) ある教会に行ったが、皆んな初めて来た人に対して知らん顔をしていて応対もよくなかった。第4日曜日を親睦の日としているが特徴を生かした何かをやりたい。ナイスに参加した大阪の人の目の色が輝いていた。

井野(田無) 教会は洗礼を授ければ責任を果たしたという感じがする。信仰を深めるためにも、そのあと何をやっているかが重要ではないだろうか。

斉藤(五日市) 本来は何のために信者になるのかという意志を持つべきだが、いざ洗礼を受けるとどうしていいか分からない。そういう信者をどう導くべきなのか、司祭も要請されないのが現実である。

斎藤 宣教活動をあまりやり過ぎると心の中に深いキズを負ったりする。信者も今の神父がいるならいかないなとということもある。

満留(西千葉) 今の日本の教会は窮屈である。カトリックは基本的に間違ってはならないのだが。

里見(板橋) 社会に開かれた教会としてどうしたらよいか憎み続けた。町内会で年越しそばを出したりなとしてつながりをもっている。

金子(田園調布) ミサには青年が少ない。それだけ教会に魅力がないといえる。キリストの言葉を自分のものとして感動しなくてはダメだ。

花牟礼(千葉寺) 教会を知らない人は、恐ろしい所と見ているのではないだろうか。したがって信者も敬遠される。

満留 何が本物で何が違うかを区別し、そのことを教える人が実際には教えられない。飲み食い会だと来るが、勉強だと来ない。

坂梨(赤羽)小・中学生は盛んだが、高校・大学になると少ない。聖歌隊も年輩になって来た。

分科会(15)
(小林章雄・船橋)
(大塚 明・松戸)

及川(吉祥寺) 外に開放することが開かれた教会という意味ではない。

三井(田園田布) そのこととは別に内部にも開かれていなければ。

岡藤(船橋) 互いに話し合わなければ、開くという、共通認識が得られない。

本多(高輪) 静かに祈ることを目的としているなと、個人の信仰のありかたの面も強いので、無理に開かせるのは問題ではないか。

田井(聖ドミニコ女子修道会) 少人数で集いがあり、そこで喜びが得られれば自然に何かをやるようになるだろう。

山脇(拍) ミサが中心であり、みんなが参加するように作り上げてゆくことが大切だ。

マーフィ(豊島) 教会で活動するのは古い同じメンバーばかり。もう少し若い人達にまかせ、活きいきとした共同体にしたい。

広岡(梅田) 人数の少ない小教区なので、どのようにして開かれた教会にしたらよいのか悩んでいる。

及川 神父は信徒にとんとん問題提起をすべきだと思う。これが遠心力となって開かれた教会になる。理解の薄い神父がいても互いに根気よく働きかけることが大切である。

奥野(田園調布) 現状では主任司祭の力が強く、無駄なエネルギーが使われている。

佐藤(三軒茶屋) 小教区毎に問題が異なるのだから、少人数で対話して解決して行くよりしようがないのではないか。

築根(関町) 福音宣教をする会を作った。ミサ中心などいろいろ変更したが、反省も多く出てきた。とにかく若い人達に活動の機会を与えている。

山下(大森) 信者の子と末信者の子をくらべると、後者のほうが人間らしい。これは大人にもいえるのではないか。これはカトリックぼけによるのであろう。

及川 全人類は福音の喜びを得る権利がある。司祭自身も変革されねばならない。神の前でどうであるかであり、互いに本音を出し合って共同体を作るべきである。

三井 司祭の交替を数年毎に行うことで解消できるのではないか。また司祭の短期交換もよいのではないか。

奥野 小教区レベルで信徒と司祭の役割を明確化するのは大変むずかしい。

及川 他者に対する姿勢は、各自が主任司祭のつもりでやってほしい。明確化とは線引きではなく、我われがどこに居て何をすべきかを考えることである。

本多 私達の教会は、これに対して大へん無関心である。

分科会(20)
(黒田 和雄・関町)
(木村薫太郎・田無)

高根(八王子) 教書に記されていることは焦点が定まっていない。もっと具体的に例をあげて説明してはしい。

白柳(八王子) 小教区によって事情が違うため、その教会で一番よい方法で解釈してゆけはいい。

吉川(西千葉) 福音宣教する立場にいる我われにとって、この教書ができたことは非常に有り難い。

山根(福生) 役割の明確化について、教会がしたいということを明確に出してはしい。

スーハン(調布) 教会で働く信徒は義務感が多い。信仰生活は自発的であってはしい。

本橋(柏) 本音はなかなか言えない。しばられてはという気持ちから横のつながりもできない。

洗川(調布) 本音と建前は大人の考え方、子供たちに目を向けるのも必要である。

本橋 教会では「あの人は」という目で見られるので本音はなかなか言えない。

伊藤(洗足) 本音も言わないが建前も言わない。仕事も指名されればやるが自分から進んでやろうとはしない。

山根 宣教とは自分の体験を通して福音を語ることである。

洗川 信者とくに幼児洗礼をうけた人には勉強会が必要だ。

粕谷(目黒) 「ともに喜びをもって生きよう」は、キリストが示した原点だと思う。

光安(立川) 人をなるほどと思わせるには、まずその人を理解しなければならない。相手にいい影響を興えるためには、自分の言葉で話すことが大切。

高根 家庭会は良くやっているが、福音の話をすると人が集まらない。

神官(赤堤) 来信者の人が多くいれば普通の話をする。

山根 現在の小教区は、中だけ温かいいわゆるユタンポ教会が多い。

徳田(市川) 信者でない会に出席した時には、ます自分自身が喜びに満たされていなければだめである。

山根 行事がたくさんで福祉活動が思うように出来ない場合が多い。

牧田野(碑文谷) 教会は外から来る人に対して不愛想だ。

白柳 信者自体の協力が福音宣教の第一歩である。

神宮 教会に関係のない集まりに出席する場合、神父を理解させるのが大変である。

山根 世界に向かって宣教する会のようなものを作る。自立している教区は、自立していない所を助けなければならない。

分科会(21)
(小林 隆・青梅)
(伊藤和彦・青梅)

丸中(徳田) 福音宣教推進全国会費の精神は、小教区の一般信徒まで伝わっていない。せいぜい役員までだが、その人たちも行事が多くて忙しすぎる。

泉(荻窪) 教会は辻説法で始まり辻説法に終わる。現在の教会は守る態度が強すぎる。出ていく姿勢に変わらなければ。

田中(豊田) 「ともよろ」の内容は多かれ少なかれ信者の中にあることだと思う。福音宣教につながるのなら、どんなことでもやるつもりでいる人はたくさんいる。

津川(千葉寺) 教会で社会問題をあつかうような活動をやると、神父に理解されなかったり批判されたりする。

山田(葛西) 神父の頭をやわらかにしてほしい。

牧瀬 内部の協力はうまくいっているが。信者でない人との対人関係に問題があると思う。

森谷(亀有) 教会は社会問題に対して関心がない。

河住(碑文谷) 外部との接触が多く、結婚式を挙げた人を招待するなとして信者が増えている。

丸中 教会が広域活動を阻害しているふしがある。小教区の中でも福音宣教を声に出して言いにくい面がある。

田中 ただ飲み食いをやっても出て来ない。

桝潟(松原) 上が動かないと動きようがない面がある。

泉 開かれた教会とは、施設を開放すると同時に一人ひとりが心を開いていくことだ。

泉 信者はいちいち神父をたてないで行動しても良い。法も教会も変ってゆくのだから。
田中 福音宣教の雰囲気がない。気持ちが一つになるまで待ったはうがよい。

泉 待っているといつまでも始まらないので、分かった人からやらなくてはならない。

(感謝とお詫び)編集責任者の交通事故負傷にあたっては、各方面からのお見舞い有り難うございました。本紙発行がおくれましたことお詫び致します。

その後の宣教司牧評議会

1、宣教司牧評議会は、先に開かれた教区総会において、福音宣教推進全国会議で提出された諸提案の具体化をはかることの必要性が指摘されたなどのことを踏めて、具体化にむけて大司教の諮問にこたえることを当分の間の主な任務とする。

2、大司教は、さしあたって次の諸提案の具体化に取り組むことにした。

(1)生涯養成問題について
(2)「社会に仕える教会」について
(3)「人の心に訴えるような典礼」について
(4)情報コムニケーション(情報センターなど)について。

3、大司教は、具体化のための素案をつくり、宣司評及び司祭評さらに教区全体に示して諸意見を求めながら、次期総会をめどに中間報告などをする。宣司評は、大司教の意図を理解して、よりよき具体化のために積極的な答申をもって協力する。

4、提案1、と4、については、まとめ役として核になるスタッフを大司教が任命し、スタッフは、これまで当該事項に携わってきた者の経験を尊重して、協力を仰ぐ。

5、スタッフは、必要に応じて前記の者や一般の人々(準スタッフ)から諸意見を求める。

6、スタッフは、次期総会に基本的な構想プランを提出することを当面の目標とする。

決算・予算書

決算概況

収入

献金総額は、31、286、000円余にのぼり感謝している。修道会方も多くの献金があった。

支出

養成諸費に、22、401、000円を叙階・ローマ献金・運営費として、1、681、000円を使った。500、000円を基金に振替え、後期繰越金に、19,630、000円を計上することができた。これは教区の神学生のかずが14名から11名に減ったためである。なお今年度の人数は10名となった。

予算概況

収入

献金目標総額は、神学生の人数減少のこともあり、29、000、000円を見込んだ。繰越金は、引当金も含めて19、630、000円となり、必要とされる金額をほぼ保つことができた。

支出

叙階・ローマ献金・運営費で、2、400、000円を見込み、そのため後期繰越金として25、105、000円を計上した。一粒会運動の実践に一層務めたい。

訃報

永遠の安息を

■ヨゼフ・大越菊次郎師

1899年水戸に生まれる
1929年司祭叙階(ニース)
関口教会助任、上田、 署多見、成城教会王位なとを歴任
88・5・8 帰天

■J・ヨゼフ・ムーニー師

1924年アメリカで生まれる
1951年司祭叔階 四日市教会主任、メリノール会管区長、小金井教会主任などを歴任
88・8・14帰天

(埋葬は両方ともカトリック府中基地)

能イユズスの洗礼、12月西欧公演へ

創作能「イエズスの洗礼」は国立能楽堂なとで上演され、大きな反響を呼び、新しい型の福音宣教といわれているか、いよいよ海外公演が実現する。日本の伝統芸術のなかでもより高い精神性をもつ能が、聖書から取った題材で上演されることは画期的な出来事である。バチカソでは教皇の特別謁見の場でも演じられ、いま地頭の観世秋暁夫シテの梅若猶日彦氏らは準備に余念がない。企画した上智大学東京宗教研修所長の門脇佳吉神父は、すでにローマに飛び、ブリゥッセル、ケルンの教会での公園のため関係諸都市と密接な折衝を重ねている。

”能”ヨーロッパ公演協賛ツアーもも組まれ、12月20日〜31日の12日間、東京教区の国枝夏夫神父が同行する。ツアーの申し込み・問い合わせ・グロリアツーリスト(郵便番号104中央区京橋3-6-1、TEL.535-4011)