東京教区ニュース第64号

1987年07月01日

平和祈願祭に集まろう

すべての戦没者の慰霊と平和への祈りをこめて、次のように平和祈願祭を行う。多数の参加が望まれる。なお当日は晴雨にかかわらず挙行の予定。

日時 8月8日(土) 午後6時半から
場所 千鳥ヶ淵戦没者墓苑(地下鉄九段下下車徒歩10分)
内容 共同司式ミサを中心とした祈り、光の行列など
主催 教区平和旬間実行委員会

新社会造りへ 宣教にいま広報の出番 実践へ触発された200人 第13回大会

教区は5月24日、カトリック・センターで、広報委員会主催のもとに第13回「教区広報大会」を開催した。今年の「世界広報の日」のテーマは、「正義と平和に奉仕する広報」だが、日本ではこの秋に開かれる「福音宣教推進全国会議」をふまえ、「新しい社会づくり-あなたが支える正義と平和」にしたため、内容もそれに関する講演などが主なものとなった。午前の部ではR・アビト神父(上智大学助教授)が、「フィリピンの政情とマスコミ」について、昼からはSr白井詔子(カトリック国際映画協議会・日本会長)が、映画「愛の奇跡-アウシュビッツの聖者コルベ神父」の上映と共に、「ジャーナリズムと人間愛」について話した。福音宣教にいまや広報が出番-として、それに寄せる期待は大きい。

会は午前10時すぎ、酒井新二氏(広報委・共同通信)の司会で始まった。まず冒頭に広報問題の重要性が指摘され、特に今秋、福音宣教推進全国会議が予定されている所から、今日の広報大会には特別の意義のあることが強調された。
つづいて森司教が挨拶、「教会広報は今まさに出番だ。司教団の打ち出した姿勢は広報を通して教会全体に滲透する。福音もまた広報を通してこそ社会に伝えられるべきだ。広報の重要性を改めて自覚する要がある」と述べた。
「広報の日」のテーマ解説は広報担当の青木静男神父が行った。教皇メッセージの骨子を紹介、「社会的コミュニケーションの諸手段は交流と対話に欠かせぬもの。正義にもとづく平和の推進のためには、信頼による均衡への転換が必要であり、マスコミがそのための交流と対話の場になるよう-」を導入として(1)正義の業は平和をもたらす(2)平和は対話なしにはありえない(3)真の対話は正しい情報がなければ成立し得ない(4)世論というすぐれた情報は、正義と平和の推進に直接影響を及ぼす(5)マスコミは、正義と平和のための世論を創りだすための役割をになっている-などの要点を示した。しかし一人ひとりが伝え手になることこそが大切で、「平和のために働き、身近な世界へ正義をもたらすために、各自がそれぞれの立場で手段・道具を用いて、何ができるかを考えて見る-」が肝腎であるとしていることをも指摘した。
午前のR・アビト神父の講演では、フィリピンの政情下を例としてスライドなどを使い(1)報道は誰の視点からなされるべきか(2)現象の奥にある原因の追究こそ肝要(3)真実を知ったものの実践的義務-など、多くの示唆があった。
昼からの、映画「愛の奇跡」と講演では、コルベ神父の英雄的犠牲への賛嘆もさることながら、その映画の制作のため実際にポーランドを訪れたSr白井詔子が、自らの体験をもとに、アウシュビッツの残忍性、或いは取材の困難さ、当地での、メディアを選ぶ自由の無さなどについて話した。ひるがえって、日本ではメディアをもっと勇気をもって、遠慮せずに利用すべきこと、制作を共にしたり、取材に応じたりすることは、キリストのメッセージを間接的に伝える良い機会-とも述べた。
3時からは地下聖堂で、広報関係司祭3名の共同司式による「広報の日」のミサ。この日の参加者は約200人で、中には遠く名古屋から来た人もいた。また小6の12歳の少女が、「フィリピンの政情とマスコミ」の講演に関心を持ち、しかも父親をも引っぱって出席するなど変った風景?も見られた。

アビト師講演要旨

Ⅰ、被抑圧者の視座。
(1)対岸の火事見のような態度でフィリピンを見るのではなく、私達の足もとに迫っている課題への1つの照らしとして聞いて頂きたい。
(2)マス・メディアの時代などといわれて、情報が簡単に手に入りすべてを知っているかのような印象をもっているが、大きな錯覚である。
(3)例えばフィリピンの大手新聞は、この国の毎年の成長率をうたい、韓国に次ぐアジアの希望などと、バラ色の未来に向かっているような印象を与えているが、漁民、農民、工場労働者など、一般の人々の生活は全くその反対の状況である。
(4)フィリピンのいわゆるマスコミで報道されている内容と、いろんな所で働いている人々の生活実感とは大差がある。
(5)注意すべきは、草の根の人々の身の廻りに起っている現実が、フィリピンの多くの人々にさえ伝わっていないということである。
(6)新聞でいわれていることは決して嘘ではないというかも知れない。なるほど年5〜6%の成長率は確かである。しかしそれは誰による誰のためのものかが問題で、結局多くの人々のためになるような成長率ではなく、経済力を支配している1%そこそこの人々のためのものに過ぎない。
(7)大手新聞は、結局は権力或いは経済力をもった人々の側を伝えているのであって、犠牲にさせられている側を伝えることが殆んどない。先ず報道は誰の視点からなされるべきかに敏感にならねばならない。
(8)そしてまさに教会広報やミニコミ紙などによって、大手新聞が書かない本当の現実に気づくことが肝要である。

社会ガンの摘出を

Ⅱ、構造的暴力という仕組み。
(1)しかし、知識は現象にだけ留まるものであってはならず、その原因を追究するところまで行かねばならない。
(2)専門用語で言うなら、そこには1つの構造的な暴力のあることを知る。世界の社会・経済のすべての仕組みにもかかわりが出てきて、自分も決して無関係ではないことに気づく。
(3)しかし自覚した後、ただ罪意識とか何もできないという無力感に終ってはならない。それを解放させようとする活動が出てくるはずである。
Ⅲ、実践的立場に立つ。
(1)知ってしまったことを自分だけに留めるのではなく、新聞に投稿するとか、ミニコミ紙や教会広報を通して人々に伝えることが肝腎である。知らせるということ自体実践の第一歩なのである。
(2)構造的暴力そのものを打ち破るべき具体的な実践は、各地域に根ざしている者の課題になるのではないかと思う。
Ⅳ、信頼感とマスコミ(教皇メッセージから)に関連させて。
(1)まず人々を目覚めさせる-目覚めさせるという背景には、先ず自分自身が気付いていなければ何も伝えられないということがある。それには周りに起っていることを見ようとする姿勢が大切である。
しかも現象だけでなく、何故そうなるのかを考え、構造的な暴力がそこにはびこっていることまで見破らねばならない。人々を目覚めさせるとは、まさに福音的な広報そのものの使命である。

虐げられた側から

(2)暴力と紛争のすべての原因を告発する-教会の中に対立を生み出すものと考えてはならない。福音自体が一つの告発ではないか。告発すべき具体的な事がらは勿論それぞれの場で異なるが、注意すべきは、それは同時に自分自身の告発かも知れないということである。自分も構造的暴力や企業などに加担し、それを仕組む一人なのだから。
(3)暴力と不正の根源をも拒否する-多くの人々を犠牲にする何らかの構造を拒否するとは、例えば、自分さえよければいいというような、或いは物質文明に流されるような消費主義的な生き方を拒否することである。
(4)他の4つのポイント-克服する、貢献する、広める、確認する、は自然にわかる。初めの3つが非常に重大である。「世界広報の日」の教皇メッセージは読めば読むほど深く、ただ広報担当者だけでなく、すべての福音の担い手としての課題がそこに出ているような気がする。

君もメディアになれる

1、映画「愛の奇跡」を見る前に、これを作るために現地取材に行ったポーランドの事情にも触れておいた方がよい。この国の政治の混乱、苦しみは予想以上に大きかった。まず経済的困難がある。食堂で料理を注文しようにも選ぶ自由がないほど物資が不足している。
この選ぶ自由がないということは、そのまま精神の分野にもあてはまる。アウシュビッツは国境に近く、軍関係の建物が多い。そんな所でカメラを回すということ自体が危険なことなのである。撮影は困難を極めた。
2、コルベ神父が亡くなった餓死室がある第11号棟の入口に、「人間は、人間にとって狼である」というラテン語の諺を書いた板が掛っている。アウシュビッツは大量殺人工場があった所として名高い。いかに多くの人を能率的に殺し、処分できるかの観点だけから研究した機械、ガス室、焼却炉など-。人間がマイナスの面でこんなにまで智恵と技術を駆使できるかは驚くばかりである。もしこの神経を、世界から飢餓や戦争を亡くそうなどということに使ったとしたら、話は全く違ってくるであろうに-。
3、人間が、人間にとって狼となったときは、既に選ぶ自由が亡くなっているときである。それは情報の選択のことを考えればすぐわかる。自由に情報が入って来ない、そして選ぶことができない、それは人間がコントロールされていることを意味するものである。
ひるがえって日本の状況を考えて見よう。我われはむしろメディアの氾らんの中で、それを自由に選ぶことができる。選べる此の社会にあって、我われが何を選んでいるか、また悪用されている場合、黙っていたりしないか-などを立ち止まって考えることはもちろん大切であるが、もう一つ大事なのは、選べるメディアを使って、我われが一緒に生きている人々に何を伝えようとしているかだ。

図らずも教会宣伝

一両日中にTBSテレビが、赤坂にある私達の修道院を取材に来るという。番組は「そこが知りたい」という、興味本位のものなので、どういう取材をするのかスタッフに会って見た。色いろ話してゆくうちに取材班は修道院の生活自体に真面目な意味で関心を持ちはじめ、取材のわくを拡げ、放映時間ものばし、はからずも「教会」を紹介する番組となった。メディアを遠慮してはならない。断わればそれっきり。気持ち良く開いてゆけばチャンスはあると思う。
4、コルベ神父が日本語を知らないからだとか、経済的に大変だなどという理由で、何もしなかったら、雑誌「聖母の騎士」もなかったし、修道会の仕事もそんなに発展しなかったであろう。今の日本には色んな価値観や好みをもった人がいるので、最早一つのメディアや作品で訴えようとするのは無理である。手軽にできるメディアも馬鹿にならないし、誰でもやれる。電話サービスでも、パンフでも口コミでも何んでもよい、あのコルベ神父の「何んでもやる」という精神に通ずるものである。
5、今の日本には国家秘密法とか、防衛費1%枠突破とか、危険な徴しが見える。それに反対する平和運動もあるが、政治のことだからとか、興味のある人にやらせて置けばよいなどと無関心でいることは許されない。メディアの中にいる我々は、そういうことに関心を持ち、自分のこととして見、アビト神父の話のように、その現象の奥にあるものは何かを捕らえてゆく必要があるのではなかろうか。  (白井修道女の話から)

合同堅信式

教区は、6月7日(聖霊降臨の主日)午後2時からカテドラルで合同堅信式を行い、白柳・森両司教を中心とする20人が共同ミサ、15教会、96人が堅信の秘跡をうけた。
参列者全員は「神から頂く大きな恵みに感謝するとともに、それを無駄にすることなく、同時に頂く使命をも忠実に果たすことができるよう」祈る。
司教・司祭たちは各受堅者に按手しながら、聖香油に浸した右の親指で各々の額に十字架の印をした。この瞬間、キリストの兵士たちが生まれた。
今回は、ちょうど当日が聖母年の始まる日とあり、受堅者を中心に、参列者一同カテドラル構内ルルドの前庭まで聖歌をうたいながら行列した。白柳大司教は「今回の聖母年設定は、キリスト教の21世紀を迎えることを助けるため」と述べ、聖母に対する深い信心を訴えた。

小さな感想

▽やっぱり緊張した。 中2・岡健一(汐見)
▽オデコに十字印したんだョ。 小5・安井雪子(初台)
▽司教汗ダクで受堅!に感動。 中1・津山寛子(豊島)
▽嬉しかった。しっかりせねば。 中2・水野秀之(上野)
▽終ったあとほっとした。 中1・小野良平(世田谷)

宣司評議事要旨

◇第2期 第1回(4月9日)
1、白柳大司教挨拶。(抄)
「第2バチカン公会議で、特に信徒と聖職者の共同責任が強調された。ブロックの利益代表としてではなく、教区全体のことを考えて欲しい」。
○仮議長(9月例会まで)・市川裕、福川正三。(本議長は9月の例会において、委員の推薦によって大司教が任命する)
○運営委員・福川正三、国富佳夫、渡部真、Sr沢村記代子。(本議長は自動的に運営委)
○書記・沢村記代子。
○記録係(広報)・青木静男。
○全国会議代表者若干名を、宣司評委員に加える。
2、自己紹介。(略)
3、「宣教司牧評議会規約」の説明。(福川正三)
4、今年度の宣司評の課題について。(白柳大司教)
「日本の教会全体が取り組んでいる福音宣教を目ざし、全国会議を中心に進める」。
5、全国会議の目的、ねらいについて。(森司教)
6、今年度の宣司評の課題についての諸意見。(概略)
○理想と現実を一致させる証しの話し合いをしてはどうか。
○テーマをしぼって方々で話し合いを。
○信仰の生活の遊離があるのは当りまえ。
○家庭会など、小さな集まりの話し合いが必要。
7、連絡事項。
○難民定住について。(寺西)
相互扶助制度を作るよう準備している。5月31日に担当者に説明する。質問は6月に。相談があれば出向くこともできる。
○ブロック連絡係、新宣司評委員の名を事務局に。(青木)
○平和旬間について。(渡部)
平和祈願祭。8月8日(土)午後6時半 千鳥ヶ淵戦没者墓苑講演会。「平和について」アグネス・チャン 6月11日(木)麹町教会 真和会と共催

『ミニ公聴会』総まとめ

86年春に開かれた東京管区公聴会に刺激された信徒は、ブロックを生かした教区だけの更にきめの細かい公聴会を望んだが、今年1月15日の城西を皮切りに、3月8日の多摩を最後として8ブロック全部終った。「ミニ公聴会」のネライは(1)できるだけ多くの人に意見を述べてもらう(2)近隣教会との交流を促進させる-だった。秋に開かれる福音宣教推進全国会議では、教区代表が教区民の意見を出来るだけ吸い上げて持ってゆくのが一つの役目になっているので、そのためにも大いに役立つ。しかしこの公聴会は教区独自のもの。全国会議と切り離しても、良い提案は採用、実践に移したい構えである。

城西ブロック 1月15日

ブロックを4つのグループに分け、白柳大司教、森司教には別々に分かれて、午前と午後それぞれ掛け持ち出回ってもらった。分けたネライは(1)教区総会のコピー版になることを避け、できるだけ多くの一般信徒が参加し、司教と身近に接して、本音を発言できる機会を作る(2)各グループが独自の企画と運営を準備する活動を通して、小教区毎に固まっていた共同体を開かれたものとし、近隣教会との交流を深める-ことにあった。
当日は各会場とも平均120人前後の参加者があり、活気に満ちた熱意ある話し合いが行われた。
Aグループ(麻布・渋谷・初台・聖心会・聖パウロ女子修道会他)
会場は渋谷教会で、午前中は白柳大司教が担当した。基調演説に続き、代表質問と自由質問を行った。その質疑応答の主なものをあげてみると、
問 青年が教会から離れていくが、どうすればよいか?
答 彼らに仕事を与えるようにすればよい。例えば病気でミサに来られない人に聖体を届ける「聖体奉持者」などになってもらってはどうか。
問 ミッション・スクールは、信者の子弟をもっと入学させてほしい。
答 信者でない人を入学させるのも、宣教の一端を担うことになる。
問 職場の中で、信者のあり方は難しい。
答 職場において、それでもキリスト者かと言われることを恐れてはいけない。キリスト者は完全であろうとして努力しているのであって、完全でなくても信者のイメージをこわしていることにはならない。
Bグループ(松原・世田谷・赤堤・カノッサ修道女会・聖マリア修道女会他)
会場は松原教会で、午後から白柳大司教が担当した。同大司教は初めに挨拶、「小さな話し合いの場を持ちたいという希望が多かった。第2バチカン公会議は、教会全体が宣教の使命をもつことを確認した。生活と信仰、教会と社会の遊離が根底にあるため、-開かれた教会づくり-を狙いにする」と述べた。

カタリック精神?

代表質問、関連質問の中からいくつか拾って見ると、
問 「開かれた教会づくり」では、まず司教と司祭の強い一致が大切と思うが。
答 司教と司祭の間では折りにふれ話し合いの場を持ち、大きな線で一致している。
問 ミサが形式的な感じがしてならない。もっと分かり易く、また共同祈願も自分達の言葉で表現して見ては。
答 賛成。小教区ごとに工夫してもよい。
問 主婦にとっては、自己を磨くとか、祈りによって周囲の人々に良い影響を与えることが宣教-という考え方があるが、その効果には即効性がなく、目に見えない。
答 主婦にとって、福音宣教の大切な場は家庭である。家庭は小さな教会である。主婦は家庭の内外で、たくさんの人々と出合いながらキリストの価値観を伝えることができる。福音に基づいた判断をすることで周囲に大きな影響を与えることができるものである。
問 信者の数が増えないのはどうしてか。日本の信者は眠っているようで、活気もなく喜びにあふれていない。魅力ある教会とは、よりよい人間関係以外にはない。「愛し合う教会」のためには、互いによく語り合うことが必要だと思う。カタリックの精神で行こう。
答 信者が増えないのは、まず第一に自分自身の内にある問題でもあるし、教会に魅力のないのが原因でもある。特に内的な状態として、キリストの愛を伝えたいという意慾が不足している。「開かれた教会」は、「ぬくもりのある教会」だという意見はその通りである。「分かち合い、支え合う教会」「暖かい教会」を作っていただきたい。
Cグループ(成城・喜多見・礼拝会・扶助者聖母会他)
会場は成城教会で、午前中、森司教が担当した。同司教は基調演説でおおむね次のように述べた。「今の教会の動きは、日本の教会史上初めてのことである。教会は何を狙いとし、どう変ってゆくことを願っているのか。教会としては、まず信徒のナマの声を聞くところから始めたい。福音宣教のために何をするかは、信者の数を増やすことではなく、社会の現実の悲しみや苦しみを一緒に分かち合ってゆくことである。キリストの心を心として外の人と共に生きてゆくことである」。
その後、「開かれた教会づくり」のうち、「生活を通して育てられる信仰」について、(1)職場でいま(2)家庭でいま(3)青少年のこと-、をテーマとして話し合った。主な発言から。
(1)職場でいま=職場では、信者として沈黙して行動する人と公言する人とがあるが、その行動は他の人を考えさせるものがある。
(2)家庭でいま=子供の教育には塾を頼ることなく、夫婦が互いに協力し合って行こう。
(3)青少年のこと=一時的に教会から遠のく若者をあまり束縛せず、暖かく見守るべきだ。
Dグループ(三軒茶屋・瀬田他)
会場は三軒茶屋教会で、午後から森司教が担当した。基調演説、代表質問、自由質問と続いた。演説の内容はCグループと同じだったが(1)秘跡を通じての福音宣教(2)日本社会の価値観をキリスト教的それへと変える(3)イエスの心を心として共に生きる-は、互いに相い補うべきものであることを強調した。

借り部屋教会を!

質疑応答の中からめぼしいものをぬいてみると、
問 宣教にあたっては、自分に資格がない、出しゃばっていると思われたくないなどの遠慮や心配がまだまだ多く、心の内面と外面のかかわり合いをどうすればよいか。
答 内面と外面の違いを感得することが第一歩。欠点だらけの人間が助け合ってゆくことが、キリストの愛であり、そのドロドロしたものに気付くのが宣教の始まりである。
問 公教要理は大変むずかしくつまらない。もっと面白く、わかり易くしては。
答 公教要理は、まず迷わない知識、教義を知るために必要だが、これからは多分日本人になじみ易く変わってくると思う。
問 どうしたら教会に出られるかを考えたい。街の中に教会があって、昼か夜に気軽に行けたらいいと思う。
答 信者の人々が、例えば町なかの一室を金を出し合ってでも借りる-など考えたら。

宣教フェスティバル実現

城東ブロック 2月11日

城東ブロックの公聴会は、2月11日、午前10時半から午後4時まで、錦糸町駅前「すみだ産業会館」8階展示場で、「伝えよう、福音のよろこびを!!」をうたい文句に、約600人を集めて開かれた。
準備委員会によれば、(1)明るく活力ある催し(2)青年・婦人の声(3)連帯意識の向上-をねらったという。そのため催しの名前も「司教様を囲んで-みんなの宣教フェスティバル」とし、会場も明るい雰囲気の一般の会館を選んだ。
昼前の部では、実行委員長・下山神父と白柳大司教の挨拶を皮切りに、12時過ぎまで、所属全教会・修道会及び管内活動団体・修道院(未加盟)の活動報告「こんなことやってますタイム」が行われた。司祭や教会委員より、活動当事者の報告がおおむね好評だった。
その後、参加者が希望によって分かれ、(1)家庭と子供の教育広場(2)職業と信仰広場(3)福祉ボランティア活動広場(4)若もの広場-など、地域に似あった課題の分科会「ご飯とおしゃべりタイム」に移った。どの分科会も白熱の状態だったが、特に若もの広場が活発。この間、両司教は4会場を逐次巡回した。
午後2時半からは「あのネ司教様タイム」。一般と青年に分かれ、一般の部には白柳大司教が、青年の部には森司教が参加した。

ひんぱんに巡回を

1、一般の部-初め「若もの広場」を除く3つの分科会の代表的発言が報告され、その後いくつかの新たな発言があった。
(家庭と子供の教育広場から)
▽家庭の崩壊の原因は祈りの欠如であると思う。幼い子供と一緒に簡単な祈りからでも……。
▽信者の夫婦も大半はケンカするが、そこからより理解を深めてゆく。教会離れの子供も、幼児宗教教育がなされていればやがて教会に戻ると信じる。
(職業と信仰広場から)
▽会社では信者であるといえないので、日頃のふるまいで表明している。
▽それは良くない。口で表明しかつ自分を鍛えていかなければいけない。
▽職業生活と信仰生活を重ねることは実際には無理だ。教会では教会のことをし、世間に出れば仕事をする。混ぜてはダメ。
▽公務員は、宗教的表明が非常に難しい。
大司教==教会離れの子供は共通の悩みである。社会のひずみの影響をうけるのは、いつも家庭と教育だ。家庭がシッカリしていれば必ず立ち帰る。
職業・日常生活と信仰の遊離の問題は、秋の全国会議の大きな課題である。合わせて教会と社会の遊離、小教区と地域の問題についても骨組み作りをしてゆきたい。
(福祉ボランティア活動広場から)
▽難聴者の一人だが、信者の障害者同志の横のつながりはないか。軽度障害者にも聖職者への道を開いて欲しい。
▽福祉法人施設は、物質的には充分支援されている。精神的奉仕や、掃除など物理的奉仕も。
▽組織的奉仕が少ない。横のつながりやひろがりを望む。
大司教==教会の障害者の協議会2、3あるが隅々に行きわたっていない。しかし、徐々に良い方に向かっている。手話ミサなども進められているが啓蒙が必要だ。聖職者への道は、受け入れ態勢ができなければ難しい。海外では盲人の司祭もいるし、日本でも受け入れる女子修道会はある。
ボランティア活動が世界的になってきたことは喜ばしい。マザー・テレサが多くの祈りに支えられているのを強く感じる。
(自由な発言から)
▽「小さい人々」が、弱い立場とか助けてあげる人々という感覚でとらえられている。聖書の言葉とはいえ、注意して用いなければ宣教の妨げとなる。
▽成人式を、大司教司式のもとに教区レベルで行い、そのあと話し合いの機会を設けては。
▽大司教に、もっと小教区を回って欲しい。
▽一粒会は教区司祭養成のためといわれるが、修道会司牧の小教区もある。カトリック新聞の赤字についてもお尋ねしたい。
▽バチカン展の積極的推進を。

教会の魅力とは?

大司教==「小さい人々」の言葉にはご指摘の危険もあると思うので注意する。教区レベルでの成人式は関係者に検討させたい。小教区へはほとんど毎週出向いているが、回り切れないのが現状である。
一粒会献金は、ほぼ教区神学生をまかなえる状態になってきた。将来、修道会担当小教区の神学生にも手を回したい。カトリック新聞は、司教団としてもあらゆる犠牲を払って続けるつもりだ。人材を集め、多くの人が読めるものにしたいが皆さんも手伝って欲しい。バチカン展は誤解を与えるという声もあるが、歴史として見て貰いたい。
2、青年の部-「あのネ司教様タイム」から。
▽平凡な家庭や幸せを望むことは間違いだろうか。
▽目標のない走り方はよそう。
▽ボランティア精神は持っているが、自分を見つめていないために力を出し合えない。
▽幼児受洗者は神の計らいの中で泳いでしまい、感謝が薄い。
▽プロテスタントや他宗教との比較に関心が高い。シツッコイことに抵抗を感じやすい。
▽練成会など自分たちの行動の場に出合って、初めてやり甲斐を感じた。
▽司祭から、ミサのワインの残りをいただいて感激。
▽ミッション・スクール卒業、海外生活、国際結婚を通じて人生が開けた感じ。
▽根気よい親切に接し、婦人会の人に感謝。
▽私達は犠牲を払うことによって、次の原動力が湧いてくる。
▽若ものの教会離れを問われても、一概になぜと言えない。
▽なぜ教会に行くのか。幼児洗礼のため習慣的に。しかし、ばかばかしくなることがある。でなければぬくもりを求めて。
▽未信者がたくさん来る教会を離れていく古い信者がある。新しい信者も、やがてそうなるか離れてゆく。
▽教会は、日常生活と違和感がある。教会は別に大した問題ではない。だから行かない。
▽年配者の威圧的発言がイヤ。
▽友達を教会に連れてこられるかどうかは、その教会による。
▽信者でもミッション・スクールの教育を受けた者と、そうでない者とに考えの違いがある。
▽教会離れは、居場所がなく一員という気が持てないから。若者に教会の情報がよく伝わらない。悩みを癒す場になっていない。次の日の疲れにさえなる。
▽教会行事が多すぎる。
▽なぜ女の子は侍者ができないのか。
▽教会の魅力って何んだろう。
○他ブロック「ミニ公聴会」は次号以下順次掲載します。

霊園が増区画

五日市霊園管理事務所では、墓地を増やし、自由に求められるようにとの教区民の要望に応えて、霊園の山頂部約一万平方メートル(3000坪)を切り開き、新しく700区画を造った。
現地は奥多摩の山なみの最後の丘陵で、ここから南一面に武蔵野の平野が始まる。従って日照、眺望ともに大変よい東南向きの台地で、晴れた日には新宿の高層ビルも望める。また墓地の傍まで乗り入れできる自動車道と大駐車場も完備している。
都では適地の入手難と地価の高騰によって、85年から都営墓地の新設を中止し、以後の供給は一切民間に任せることにしてきた。こうした情勢下で五日市霊園はいま空きがたくさんあるため、教会共有を始め個人の墓地を選ぶのに最適という。この墓地は、埋葬のための永久使用権として土地で渡しているので、必要の生じるまでそのままにしておいても、また自由なデザインで墓碑を造ることもできる。ただし土葬は都条例で禁止されている。価格は一区画(3平方メートル)35万円から60万円までである。
墓地は一家にとって、いつかは必要となる施設、思い立った時を機会として一度現地を視察し、検討されるよう同管理事務所では望んでいる。
◇武蔵増子駅よりの案内
徒歩15分。駅を出て本道を右折、踏切を渡りすぐ左折、5分ほど歩くと霊園の山が見えてくる。電0425-96-2330

平和旬間へ招き

Ⅰ、平和祈願祭(1面参照)
Ⅱ、平和行進-祈願祭に徒歩で参列しようと、今年もまた昨年に続き、平和行進が吉祥寺教会と武蔵野ブロックを中心に企画されている。
この行進には誰でも、どの地点からでも参加できる。希望者は、人員確認の要があるので、その地点で係に申し出ること。
9・00 吉祥寺教会集合 みことばの祭儀 9・30 出発 10・20 荻窪教会着 休憩 10・50 出発 11・40 高円寺教会着 昼食 みことばの祭儀 13・20 出発 14・40 新宿中央公園着 休憩 16・10 出発 16・30 麹町教会着 休憩 17・00 出発 17・30 墓苑着 講話と祈りのあと設営を手伝い、祈願祭に。
Ⅲ、教区レベルの他の行事は行わない。
Ⅳ、平和旬間に向けてという意向で、麹町教会真和会と共催したアグネス・チャン講演会(6月11日)には、500人を越える参加者があり盛会だった。
Ⅴ、小教区・ブロックなどで。
○講演会、シンポジウム等を企画してほしい。
○旬間中の日曜日のミサでは特に平和のための説教や祈りを。
○原爆投下時刻などに、できれば鐘をならして地域に訴える。

第2期宣司評委員

(◎は仮議長、○は運営委)
【中央】○国富佳夫(関口)杉浦 茂(本郷)I・リバス(麹町)渡部栄一(麹町)【城東】浜端照子(アシジの聖フランシスコ宣教修道女会)荒井奈次雄(浅草)小林章雄(船橋)山口正美(葛西)【城西】○沢村記代子(聖パウロ女子修道会)山本量太郎(喜多見)若杉由旗子(松原)【城南】栗田信子(お告げのフランシスコ姉妹会)山口一雄(大森)○渡部 真(上野毛)岩崎 尚(高輪)【城北】与謝野 達(清瀬)辻 茂(清瀬)木村 宏(北町)津賀佑元(豊島)【武蔵野】得藤一務(調布)鈴木弘道(吉祥寺)木村きぬ(コングレガシオン・ド・ノートルダム)【多摩】佐藤正一郎(高幡)加藤泰彦(多摩)【千葉】田中精一(茂原)村田増雄(千葉寺)R・ケルソー(茂原)谷口良樹(西千葉)篠崎昌美(成田)【家庭会】沢田信夫(麻布)【婦人同志会】荒井佐悆子(大森)【事務局】白柳誠一。森 一弘(教学)徳川泰国、田中隆弘(総務)小宇佐敬二(召命)◎福川正三(財務)金井 久(社会)寺西英夫(難民)三好 満(福祉)青木静男(広報)◎市川 裕、本田清次(宣教)

教会学校部研修

教区教会学校部は次のように夏期教会学校リーダー研修会を開く。内容・これからの教会学校の姿を考える 期日・8月28日〜31日(ラサール会研修所)問い合わせ・司教館 田中神父

能・イエズスの洗礼

信仰の土着の試みとして創作能が7月15日、千駄ヶ谷の国立能楽堂にて上演される。全指定席でチケットは上智大学東洋宗教研究所、電238-3106。

難民定住に協力を

扶助制度の問い合わせは高円寺教会寺西神父、電314-5688へ

全国会議に期待する No. 2 宣教のページ

全国会議に向かって各教区とも着実に準備が進められている。長崎大司教区では8月までに各地区で信徒大会が計画され、大阪教区では信徒の体験や意見、提案を6月末までに提出するよう求めている。今回は全国会議代表者4名の御意見を掲載した。

ひびき渡れ!福音の交響曲  聖心会 Sr 広戸直江

司教団の声明文の中に「日本の福音宣教のために重要なものばかりでしたが……これらの根底にある共通の問題を確認しました。それは私たちの生活と信仰の遊離・教会の日本社会からの遊離でした。」と書かれているのを読み大きな希望を感じました。「日本社会を現実から考えていく」ということにこれからの新しい宣教の方向づけがなされるならば、今、教会が目指す「開かれた教会」に少しづつ変っていけると信じています。そこにこそ本来の教会の扉を開く鍵があるのではないでしょうか。
現代の一般社会は、「草の根運動」「草の根声」という言葉をよく耳にします。一般の人々の声を聴き、それを重んじ、民衆のニードに応える政治、経済、教育、文化となりつつある時代なのです。欧米ばかりでなく、アジアの教会はこの社会の動きを反映し、「民衆の神学」が生まれ、広がりつつあります。即ち、あらゆる身近な出来事、人々の動き、声、そして反応をとらえ、それを通して、その中に「時のしるし」「聖霊のささやき」を読みとっていく新しい神学なのです。今までの教会の姿勢は、信者は社会の中にあって、司教、司祭、修道者の教え、導きに従って社会を見、生活を営むものとみなされました。そして、カトリック聖歌集157番にある様に、「世のもの忘れて、天のみ慕う」心がけが要求されました。「世のもの」は人間を汚し、毒し、神から引き離す、誘惑に満ちたものとされていました。
長年にわたって形成されたこの流れを変えるには、余程強力な舵とりが必要でしょう。その上、多くの船頭さんが一致していなければ船はひっくり返ってしまう恐れがあります。
全国大会では船頭さんとなれる人が心を一つにして、「日本の社会の現実に根ざした」方向づけ、舵とりができることを期待します。
そのために、今までの流れの中で「変えないで維持していくべきもの、変るべきもの、新しく取り入れるべきもの」を互いに見極めることが大切ではないかと思います。しかも、その話し合いは抽象論でなく、具体的な、体験に基づいたものであってほしい。どの様に信仰と教会が社会から遊離したか、どうしてそうなったか、今後どの様にしたら人々の苦しみを分ち合い、貧しい人々の友となれるかを互いの話し合いの中から学んでいきたいと願っています。
今後の全国大会はどうしても話し合いの場となるわけですから、先ず意識改革だけでなく、これからの実践への原動力、エネルギーを燃えたたせる機会となってほしいと望んでいます。
21世紀は信徒の時代と言われています。信徒にもっと発言と活動力を持たせ、それを育成させねばなりません。例え口で言っても実際に教区の司教、司祭、修道者が力を握っているのではなしのつぶてです。信徒養成を叫ぶと同時に、司教、司祭、修道者の再養成を声高らかに叫びたいのが私の本音です。
私は修道者として教えて頂きたい。今までどの様にして信徒の声を聞かず活動と育成の芽を摘んでしまったか。これからどの様にしたら共に手をとりあって社会の中に入って、キリストがなさった様に「病人を癒し、とらわれ人を解放し、みなし児たちの友となり、飢えている人、渇いている人を慰める」ことができるか、教えて頂きたい。きれいごと、立前、理屈、べき論ではなく腹の底から本音で、しかも、キリストの様なゆるしと寛容の心を持って語り合えば、その真実の中から自から一人一人が聖霊の声を聴いて、学んでいけるのではないかと期待しています。
修道者は修道者として、司祭は司祭として、信徒は信徒としての立場を状況に合わせて、それぞれキリストのメッセージを聴きとり、伝えていければ、日本の教会の「交響曲」が日本の社会に響き渡る日がやってくるのではないかと、大きな夢を私はいだいています。

老いて愛徳に向って進む ラサール会 水上留次郎

福音宣教

日本人の平均寿命も延び続け、世界1、2を争う長寿国となり、私もいつしか男子寿命の平均を過ぎた。せっかく長生きしても寝たきりや植物人間にならぬよう心身共に健康で、毎日少しでも他人に奉仕しながら神さまのお与え下さった生命を大切に生きたい。
この度、福音宣教推進全国会議に東京教区から男子修道者の代表としてクリオの私が指名を受け、いささか戸惑いを感じながらも司教団の声明を読み返し、現在の自分の布教のあり方を反省し、老人たりとも安閑としていられない高齢者社会において、何ができるか、何をせねばならないかを読み、聞き、考え、実践につとめる決意である。
ラサール会は学校経営を通じ宗教教育による布教で教会に奉仕し、さらに会員たる修道者の聖性の向上に務めるのが目的である。福音宣教こそ、ラサール会員の最大の使命であり、天職であることを私自身、再確認したい。

死刑囚のことば

修道生活の傍ら、刑務所の教戒師、特志面接委員、家庭裁判所委員、青少年問題協議会委員、保護司などを委嘱され、青少年の善導にたずさわってきたが、幼少時の家庭教育、特に道徳教育、宗教教育の重大性を認識させられた。
宮城刑務所長の要請により、一死刑囚にカトリックの教理を教えたことがある。教理の過程が進むにつれ、入所当初のきびしい顔や目つきが温和になり、職員に対しても礼儀正しく従順で、全く別人のように更正した。彼の希望により洗礼を授け、刑の執行に立合ったが、彼がこの世に残した最後の言葉は次のようであった。
「もし私がもう3年早くカトリックの教えを学んでいたら、あのような大罪は犯さなかったでしょう。これ以上私のような不幸な人間を作らないよう、どうかカトリックの教えを広めて下さい。」これこそ天の声であり、今回の司教団声明と相通じるものがある。
毎日曜日、ボーイスカウトの訓練をやっているが、入国の際、「私は神と国とに誠をつくし、掟を守ります」と誓う。富士や隼の上級スカウトとなるため、宗教彰の取得に必要なカトリック教理の履習と実践が条件となる。
週日には重症身体障害者施設「多摩更正園」やねたきり老人を収容する「回心堂南平病院」に足を運び布教と慰問に務めている。

一杯の水

人間は一人で生活できない。家族、親族、友人、恩人、教え子その他の人々と接触する。
できるだけ不愉快な感じも与えず、相手も幸福になることを願う。
「大恩は謝せず」との言葉どうり、私たちの生活に一日も欠くことのできない太陽、空気、水は無償で供給されているので、その恩恵は忘れがちである。
両親、衣食住についてもどれほど多くの人々のお世話になっていることであろう。しかし、これらの全ての与え主である神については案外無知であり、無関心である。全ての人々を愛し、相手の立場になって考える思いやりのある人間となり、福音に出会う恵みを与えられた私たちは、重荷と労苦を背負う全ての人々とともにキリストから与えられた喜びと希望を分ち合っていきたい。
この世に完全な事は存在しない。しかし、一歩でも理想に近づくよう努力するところに意義がある。「この小さな人の一人に与えた一杯の水さえ、永遠に報いて下さる主を信頼し」救霊という大きな愛徳に向って進むことこそ、私たち福音宣教推進全国会議代表者と全ての信徒に与えられた使命である。

初めに言葉があったように 青年代表 萩野友紀

主の平安のうちに祈りをこめて、福音宣教推進全国会議に出席するに当って決心した事、期待などを述べさせていただきます。
今、青年の教会離れや教会のあり方が問われる中で、福音宣教推進全国会議が開かれることは大変意味深いことだと思います。また、会議そのものも重要ですが、さらに、全国会議に至る過程、会議の後の発展こそが重要だと思います。
東京教区各ブロックでの公聴会、東京教区総会、小教区内での討論や分ち合い、各グループ内での話し合いなどを通して得られた多くの意見を、先に司教団が出された課題に照らして分類し、問題点を討議し、解決案を作成し実行することが、この全国会議を通しての一連の流れだと思います。
「開かれた教会づくり」を実現する上で、一番問題となるのはコミュニケーションであると思います。課題の中の9項目の要点に注目すると、コミュニケーションさえ確立できれば解決できる問題だと思います。
話し合いの輪をいかに広げるかがポイントになると思います。悲しいことに、私たちは話をしなければお互いに理解することもできません。人の立場に立って思いめぐらすことができれば、これらは問題にならないはずです。
初めに言葉があったように、私たちも言葉をもって、言葉の壁、心の壁を打ち砕いて、本当の意味での「開かれた教会」を目指すべきだと思います。私も自分自身の心の壁を打ち破って人の立場に立てる人になりたいと心から望んでいます。
福音宣教推進会議に携わる全ての活動が一つの方向を目指し、お互いに心を開き合えば「開かれた教会」は実現できることを確信しつつ、祈りのうちに進みたいと願っています。

福音化を通して開かれる日本 大森教会 荒井佐悆子

11月の全国大会に向けて、ブロック公聴会や教区総会の公演や分科会が行われ、さらに各地で福音宣教に関する研修会が行われています。これらを通して信徒にゆさぶりがかかり、眠っていた人も目覚め、何となく世間が騒がしいと感じるようになってきたのではないでしょうか。
静かな修道院にも新風が吹きこまれつつあるようにも思われます。
各地の公聴会の結果、現状把握と分析が行われ、そこから大会のテーマ「開かれた教会」が決まりました。「開かれる」という多義的な言葉は、様々な角度から討議されることによって、スローガンとしても、方向性を示すにしても適切であると思います。
カトリック教会だけでなく、日本市場の開放も世界から求められている今日です。開かれることが、人、社会、国に要求され、さらに実践に移されることが急務の時代になっています。市場開放も、国際化も、言葉として唱えられてから久しいのですが、その証しが示されない所に問題があり、他国との関係、特にアメリカとの間に摩擦が起っています。
島国としての閉鎖性、家族制度の縦社会を伝統にもつ日本は、とかく自己防禦的であり横への拡がりに馴れていない体質を持っているようです。
各国の連帯、共存が必要になっている現代、「開かれる」という言葉の意味を考えるのは日本社会にとっても大切なことなのです。
カトリック教会が開かれるということと、日本の国際化とは密接な関係があるように思われます。開かれるということは、心を広くし、他人を受け入れることであり、それは人であれ、社会であれ、国であれ、その関わりの中の他者を理解し、大切にすることであるからです。
カトリックとは普遍的を意味すると、昔公教要理で教わりましたが、その頃はドグマチック(独断的)な意味での普遍性であったようです。今こそ本当の意味での普遍性が浸透されなければならないのです。
人の痛みが代るためには自分も痛みを経験しなければなりません。日本も痛みを経験しました。それなのに何故日本は世界から非難されるのでしょうか。開かれた心が少ないからだと思います。
人間に関しての基本的考え、犠牲の上に立つキリスト教の愛の思想が充分、人々の心に植えつけられていないのだと思わずにはいられません。
母親が子供に躾をする際に発する言葉で最も多いのが、「みんなに笑われますよ」というデータが出ています。
善悪の基本、価値判断の基本を母親がしっかり持ちながら、それに加えて他人を大切にする心を躾けることが今後の教育にますます重要だと思います。
「開かれた教会」の中でその深い意味を祈りの中で考え、信仰の証しをする信徒は社会的、教育的にも多くのものを得、また、多くのものを神のみ国に返すことができるのではないでしょうか。

過去を総点検し -開かれた教会づくり-新しい方向を探る 宣教のページ

第1回福音宣教推進全国会議実行委員会(委員長相馬信夫司教)は、5月19日に開催した中央協議会において決定した全国会議の日程とともに、全国会議が多くの信徒に浸透していないとして、会議の目的、目指しているものについて課題検討資料を発表した。
資料は、第1部 全国会議課題決定までの経過、第2部 全国会議課題の内容、第3部 全国会議の日程概略となっているが、今回は第2部についてその内容を紹介する。

「聴き、吸い上げ、生かす」姿勢で全国で開催した昨年の公聴会と各教区で作成した全国会議の課題案を通して、司教団は日本の教会の共通の問題を「信仰と生活の遊離、教会と社会の遊離、生活と日本社会を見つめながら確立する日本の信仰様式」にあるとして、課題「開かれた教会づくり」と3本の柱、9項目の要点を発表した。
この課題と柱と要点は、有機的なつながりを持ち、それぞれ切り離して考えることはできない。
第1の柱「日本の社会とともに歩む教会」には現代日本の社会の中に生きる教会のあり方や私たちの信仰や愛のあり方を問い直す呼びかけがある。
「人々と苦しみを分ち合うには」(要点)では経済の表面的繁栄の裏で苦しむ人々のために、神の愛と救いをもって心の扉を開こうとする積極性が求められている。
「社会の良心となるには」(要点)では人間性を守るため正義と愛に満ちた社会作りに働いている人々との連帯を呼びかけている。
「新しい社会をつくるには」(要点)はキリスト者や人間の真の希望と喜びとなるために、あらゆる分野で関わりを持つことを奨めている。
第2の柱「生活を通して育てられる信仰」は、信仰が生活の光と力となり信仰と生活が一つとなるために、私たちの生活を見直し、信仰のあり方をどのように変えなければならないか、大胆に切り込む積極性を求めている。
第2の柱と関わる要点「職場で信仰を生きるには」「家庭で信仰を生きるには」「青少年が信仰を生きるには」では、働く人たちの信仰生活の成熟のために何を考えるべきか、社会の苦しみの根が家庭、学校、職場という生活に密着した場にまで入り込んでいる現実を通してどのように信仰を育てていくか、真剣な応答を求めている。
第3の柱「福音宣教をする小教区」で小教区の問題を取り上げたのは、小教区が人々と教会の出会であり、信仰を得て育てるための基本的な単位であり、小教区を離れて具体的福音宣教が考えられないと判断したからである。
「地域に開かれる」(要点)では司祭、信徒を含めた教会全体が福音宣教に対して今まで以上に明確な意識に目覚めるべきであると指摘している。
「信徒と司祭でつくるには」(要点)では司祭と信徒の役割の見直しと相互信頼を、「小教区の壁を越えるには」(要点)では複雑で広範囲な地域社会問題を小教区単位を越えて協力する体制の確立を問題提起している。
教会が日本社会の福音になるためには、日本社会に扉を開き、そこに生きる人々と重荷や労苦を分ち合い、ともにあろうと努めることである。全国会議のいかんにかかわりなく、福音の光を求めて、率直に、大胆な心で、具体的な知恵を出し合い体験を分ち合ってこそ日本の教会全体が実りあるものになる。

ナイスに向けて講演とパネルディスカッションの夕べ 宣教のページ

第1回福音宣教推進全国会議を目前にして、課題である「開かれた教会」とは何か、を学び分ち合う「連続講演会とパネルディスカッションの夕べ」を福音宣教推進部が企画した。
この夕べの目的は、
(1)弱い人々が置かれている立場から現実の社会を知ること。
(2)生活の場で起る様々な信仰と現実の社会のギャップを感じること。
(3)社会に対する教会的役割を体験を通して見つめること。
(4)それぞれの問題点に対し私たちがすべきことを自からチェックし実践に移す霊的力を養うこと。
(5)全国会議が目指す目的に沿って、東京教区が歩んでいる実態を分ち合うこと。
であり、参加者一人一人が「開かれる」ことに喜びを感じることができるよう、下記のプログラムとなっている。
会場は都心の真生会館を使用、多摩方面、千葉方面からもJR中央・総武線が利用できるため、多くの方々が参加されることを期待している。
○日時 9月4日、11日、18日、25日(毎週金曜)午後7時より
○場所 真生会館(総武線信濃町駅前)
○入場料 1回につき500円
○問い合せ先
市川裕神父(03-943-2301)東京大司教館
岡田武夫神父(03-321-5182)宣教研究所
○プログラム
9月4日 講演「開かれた教会とは」沢田和夫神父
9月11日 講演「開かれた教会とは」岩島忠彦神父
9月18日 講演「全国会議のめざすもの」岩橋淳一神父
9月25日 パネルディスカッション「開かれた教会をつくるには」パネラー(全国会議東京教区代表)藤井泰定神父、福川正三氏、長島世津子氏、シスター広戸直江
まとめ 森一弘司教

広報の日に思う 心に迫る証しを記事に! 宣教のページ

5月3日午後8時過ぎ、朝日新聞阪神支局で発生した痛ましい事件は、言論を伝える仕事をする者にとって許しがたい問題である。
亡くなられた小尻記者には主の下に召されることを祈るとともに、今後も言論を持って社会不安に挑戦する多くの方々の勇気を見守っていただきたい。(合掌)
多くの方がこの事件を「言論の自由を否定する社会風潮につながる」と危惧をもって語られている。そのバックには、無言電話や言論に対する妨害の体験があり、さらに複雑化した競争社会の中で、読む人の意志に反する言論に対して、言論で相対する余裕を失ったイライラが直接行動に走ってしまう社会的現象を、幾つも経験しているからである。
こうした日本社会の風潮に対して、新聞やテレビが正しい事を正しいと伝えられる言論に挑戦している。その中でも朝日新聞は人間が生きる事の尊さ、その尊さの中に起るあらゆる生き様を取り上げている。
故小尻記者と未熟児網膜症の少女辻本昌美ちゃんとの愛の点字の文通もその一つの現われであろう。悲しみを綴った昌美ちゃんの手紙には見えぬ目から落ちた涙の跡がにじんでいたと報じられていた。
人間が生きる尊さを知り、その尊さを隣人に伝え合い、互いに感謝し合う。これは人間の持っている基本的本能である。しかし、この本能が外的要因によってねじ曲げられようとしたとき、それを修正しようとする宗教がその時代と風土の中から誕生したと言っても過言ではあるまい。信仰によって生きる喜びと本能を取り戻した民衆のパワーは時代の変革をもたらしていった。
神がイエズスを遣わされた時代と場所も例外ではない。それは福音にも示されているが、生きる喜びに満ちて宣教の道を歩んだパウロの手紙の中に読み取ることができる。
しかし、現代日本社会では、現実を超越した体験が得られ、自分の創造が高められる新興宗教や、今までの自分を捨て新しい自分に生れ変れるという集団催眠的な宗教に若者が集る傾向が強い。こうした宗教には人間性を阻害する政治的方針をバックアップするものまで存在する。
宗教はいつの時代にも存在し、人々は心の扉を開き、生命の喜びのために信仰を持ったが、現代のように情報システムが発達し、国家間の政治的利害と国と企業をあげて利潤追求の上に構築した経済大国における信仰を体験したことはない。
こうした社会における信仰とは何か。宗教が持つ社会観とは何か。そしてカトリック教会の役割とは何か。「開かれた教会づくり」とは何を目指しているのか。
生きる喜びを伝えることによって社会に福音をもたらす。この基本的な人間の本能を回復させることではあるまいか。
今、この喜びを人々に呼びかけているのは一部の言論機関になってしまったような気がする。例えば、朝日の「ひととき」、“普通の主婦”たちの何げない心の証しは、教会の原点である家庭に起った様々な問題であり、時として神父の説教より心の支えとなるのでは、と思う。
私の手元にカトリック関係の発刊物が多々ある。カトリック新聞、東京、大阪等の教区報、そして小教区報もある。
どれを見ても「カトリック」という音の響きの如く畏まった記事で埋られている。その内容は司教や神父に言論統一されているようにも思われる。
「主に結ばれた者として喜びなさい。重ねて言う。喜びなさい。あなたがたの寛容さを人々に知らせなさい」(フィリピ4・4)
このパウロの言葉を言論の場で実践するためには、まず、私たち教会の「読み物」から変えていく必要に迫られている。主に結ばれた私たちの証しの束、これこそ教会の原点であり、そこに、巨大な経済大国の歪に挑戦する力が結集されているのではないだろうか。
5月24日は広報の日であった。「開かれた教会づくり」を言論の場で実践するために、広報担当者は何をすべきか。小教区報からカトリック新聞、出版に携わる全ての人たちに、黙想し分ち合う機会を持たれることを望みたい。(国富記)

森司教様が創刊 月刊誌「手づくりの教会」御愛読を! 宣教のページ

急速に進む時代の流れの中で、現代の感性に追いつけず、人々の飢えと渇き、ニードに応えられなくなってしまった教会に、教会を愛する人たちが心を合わせ、手をとりあって「開かれた教会づくり」の輪を広げたい。この小さな雑誌が新たな動きのきっかけとなれば……と、素人スタッフで「手づくりの教会」を発刊しました。
森司教様が編集責任になって毎月発行されることになったこの雑誌は、普通の読者のみなさんが生活の中で体験した様々な心の内側の証しを束にすることが目的です。
みなさんの声を下記までお寄せ下さい。特に、社会(家庭や仕事の場)と教会の二面性に苦しむ30代、40代の夫や妻の証しは大歓迎です。
連絡先=〒108港区白金4-11-1 聖心会・シスター林香枝子(441-0454)

あとがき

いま宗教ブームだという言葉をよく耳にする。書店における宗教書、精神世界の本への人気や、神秘主義やオカルトへの関心、占いや易のブームがよくマスコミに取り上げられている。
日本経済が曲がり角を迎えた1970年代から宗教統計において宗教に関心や信仰をもっている人の割合が増えている。
街頭や自宅訪問での宗教の勧誘もおこなわれており、強引な勧誘に感情的な反発をもっていても、自分なりの宗教観を持っていない為又、自分の悩みに応えてくれるのではという気持ちの働きもあり、あっさり入信してしまう人も少なくないそうだ。
しかし本当に宗教ブームなのだろうか、神秘主義や超能力、超心理学に関する本が売れるのは、一種の科学的探究心が旺盛なのではないか。オカルトや占い、易への関心は遊び心によって支えられているのではないか等ともいわれている。
現代人は宗教へのかかわり方も個性的になり情報の使い方にたけている。私達も受けての心に触れる接点に心をくだき人に読んでもらえるものを書きたい。

今月の編集=Sr佐藤、宮澤、市川、阿部、国富。