東京教区ニュース第57号

1986年03月01日

春あけぼの叙階式

司祭 福島 健一 3月2日(14・00)カテドラル
助祭 岡本 昇 2月23日(10・30)世田谷教会
佐藤 敦俊 3月9日(10・30)青梅教会
秋保真理夫 3月16日(9・30)麻布教会
晴佐久昌英 3月23日(9・00)小平教会

諮問議題【当番ブロック】

6、青少年を引き寄せるためには?(魅力ある教え、魅力ある教会、青少年の問題)【多摩】(11月17日)
7、宣教のための教えのありかた。(言葉、方法、内容等について)【別扱い】
8、宣教のための広報活動、出版、雑誌、その他。(マスコミ)【城北】(12月15日)
9、宣教推進のための、祈り、犠牲、殉教者等へのまねびについて。【城東】(12月5日)

第1回教区総会
いま司教団に聴く そしてわたしたちは…

教区は3月21日(春分の日)午前10時から、港区白金・聖心女子学院で1986年度・第1回教区総会を開く。総会は、「大司教を中心として、互いに啓発し、教区全体に対する認識を深め、宣教司牧の基本理念、活動等への理解を高める」ためのものである。司教団は、先きほど打ち出した「基本方針と優先課題」につき、1987年に開かれる福音宣教推進全国会議に向けて、信徒の声を聴き、その趣旨を徹底させたいと望んでいる。教区では、今度の総会をこの目的にしたがって開く。我われは昨年来、大司教が問いかけた「福音宣教に関する議題」について答えるため、母体、ブロックなどを中心に研究、討議してきたが、このほど答申案もほぼ出そろった。これをさらに深め、生かすためにも大変よい機会である。また総会は、教区の活動を発表する場でもあるが、今回は時間その他の理由で、口頭ではいっさい行なわず、すべて本紙本号への掲載(全2面)をもってこれにかえる。教区予算・決算の報告も、当日は刷りもの配布だけとする。

6、青少年を引き寄せるためには?(魅力ある教え、魅力ある教会、青少年の問題)

多摩ブロックにおける様ざまな実践の中で、青少年活動は常に中心的な課題であった。これに視点を定めながら考察する。

1、青少年活動

(1)夜間練成登山-小教区の壁を取り払った画期的な試みで、以後の活動に大きな役割りを果した。回を重ねるにつれてマンネリ化し、当初の意味を見失い中止となる。連帯は続いている。

(2)練成会-1つの小教区だけでは中・高生の数が少ないので、合同合宿を試みたことが発端になった。「自分を知ろう、友を知ろう、そしてキリストを知ろう」がスローガンである。初期のリーダーは司祭や神学生だったが、次第に大学生が中心となる。班運営によって教会的センスを伝えようとした。

しかし慣れによる意識低下や指導者間の認識のズレが生じ、「集まることの楽しさ」だけを追い、責任感がうすれてマンネリ化した。指導者の年代交替、未経験者の参加なども一原因である。昨年度から高校生はワーク・キャンプに切りかえた。能力に応じて奉仕し合いキリストの共同体を生み出そうとつとめた。しかし2回目からはや狎れ合いが始まり、不完全燃焼。

2、問題点の総括

(1)意識のズレ-青少年が何を考え求めているのかを汲み取って対応せねばならない。それは迎合することではない。彼らの多様性の中から一番よいものを引き出すことが課題である。

つづく練成の縁

(2)小教区において-中・高生の日常活動とブロックのそれとが有機的に結びついていない。自分の楽しみにしか意味を見出せず、困難に挑む活力を欠いている。成長してゆくいのちの喜びに触れることができない。

(3)甘えと無責任-いわゆる決断不能症候群が見られる。神父が手をかけ過ぎるのか?愛することを優しさだと思う。

(4)知的幼さ-青少年は「何も教えて貰わなかった」といっている。むろん公教要理を丸暗記させることではないが、それにかわる知的教育も必要である。

3、展望にかえて

青少年を集めることには成功した。しかしどこへ行くのか、どんな方法があるのかの問には悪戦苦闘している。彼らと意識を共有しながら、彼らの意識の中で求めてゆく姿勢が大切だ。

▽ブロック規模の行事は小教区の壁を取り払うが、各教会の活動を弱めることにならないか?
▽青少年の問題については、信者の中で専門家も多いので、人間学的な分析や対策の研究を。
▽教会は社会の縮図であるから色いろなグループがあってよいが、訓練と遊びとを峻別せよ。
▽引き寄せるというより離れさせないために、教会の中で自分が必要とされているという自覚を持たせることが大切である。
▽ブロックの取り組み方としてはよいが、諮問に答えるには、大きな立場からの提言が必要。
▽我われは与えられた環境の中で体験を通してしか語れぬ。
▽これは1ブロックの単なる活動報告ではない。具体的な実践によって「青少年を引き寄せるためには?」に答えるものである。理屈はむしろこのような試行錯誤からあとで探せばよい。

(多摩ブロック)

城西ブロックを構成する母体の小教区や修道会の殆んどは外国の流れを汲んだものであり、海外での福音宣教、福祉活動、教育事業はめざましく、当地区においても地域社会との交わりが広い。また独特の開放性からか、母体間の交流も割りと見られる。こういう恵まれた中で、教会の若者は、とくに外部の青少年をも引き寄せうる魅力ある教会作りを申し合わせている。

(1)今の青少年は、表面とはうらはらに精神的な危うさをもっている。頼り甲斐のある話相手、神父の適切なみちびきを求めている。教会は、年齢は各層、生活環境も様ざまな集団である。互いに分かち合い、助け合えば青少年が淋しいとかいう問題はなくなる。

ほしい教区指針

(2)大人や神父の意識改革が必要である。ある問題を信徒に相談しても、余り積極的な答えを出してくれない。神父も青少年のために充分な時間がとれるよう少し仕事を整理してほしい。

(3)若者の意見を聴き、感動を与えるような指導方法が必要である。第三世界に目を向ける教育も必要である。それには指導者自身が姿勢を示さねばならぬ。

(4)地域社会への奉仕もよいが、活動の原動力となる精神を充分に認識させないと方法を誤る。

(5)フォーク・ミサ、青少年向けの歌、子供のミサなどに、大人はもっと協力してほしい。

▽青少年を指導するに当り、大人は少し消極的過ぎはせぬか?
▽若者の教会行事への協力の仕方を見ていると、既にお膳立てされたものに、手が空いていれば手伝うが、自分達で企画するなど、主体的に参画する姿勢に乏しい。
▽一般の若者を、どうして教会に引き寄せるかの視点も忘れてはならないが、一度はいってきた者が、なぜ教会から離れてゆくのか、その理由を真剣に考えて、対策を立てることが肝腎。
▽教区からは、青少年問題について何か指針のようなものを出して欲しいし、若者の訴えをきく窓口も設けて頂きたい。

(城西ブロック)

7、宣教のための教えのありかた。(言葉、方法、内容等について)

○全議題に通ずるものとして、勉強会を開くなど別扱い。

祈り!宣教の原動力

8、宣教のための広報活動、出版、雑誌、その他。(マスコミ)

この諮問は「教区として」であるが、広報の課題は、全国規模で取り組まなければならないもの、教区あるいは小教区単位で工夫できるもの-などが互いに交錯している。

1、小教区における教会内広報活動。

(1)小教区報は共同体を結ぶ役を果しているが、より多くの人のものにするにはどうすべきか?

(2)教会売店に、カトリックの本や新聞などを置いている。

(3)カトリック出版物は、紙面の編集の仕方について、読者と発行者とが交わることが必要だ。

(4)「聖書と典礼」の余白に刷ったりする毎週の知らせは、委員等によりよく行なわれている。

2、小教区における教会外広報活動。

(1)外の掲示板に聖書の言葉などを記し、常夜燈をつける。

(2)初めて訪れる人のために、案内の小冊子をつくる。

視聴への工夫も

(3)バザーなどでは地域にも呼びかけ、国内外の「小さい人々」へ利益金の1部を送る。

3、教会の広報活動に対する批判と提言。

(1)教理なり、教会がかかわる社会問題なりを、映像化して知らせることが大切になってきたのではないか。中央協議会、教区等がそれをやってほしい。

(2)カトリック新聞、カトリック雑誌などは、ミニコミとして読者対象を限定し編集すべきだと思う。中央協議会あたりで整理し、その案内を小教区に配ったらどうか。

(3)日本の社会で問題になっている事がらについて、カトリック者として一言呈するグループを作り、カトリック新聞等で発言すべきである。マスコミ一般に投稿することも必要である。

(4)閣僚の靖国神社公式参拝に反対する司教団の要望書や、指紋押捺拒否運動等、社会の福音化に向かっての積極的な行動は、教会の大きな広報活動となる。

(5)中央協議会や教区は、印刷やレイアウトなど、広報の専門家や意欲のある人を集め、センターを作るなどして組織的に広報活動を広げてほしい。

▽広報は無駄を承知でしなければいけない。
▽活字よりは、眼で見たり、耳で聴くものを活用する時代だ。
▽教会外の人を対象とした宣伝誌のようなものも必要である。
▽小教区報を外向けにも-という発想転換の気運がある。
▽教えを絵本やマンガでは?
▽盆踊り、納涼会などは、教会PRの好機である。
▽教会の看板や掲示にも一工夫を要する。車内広告等も一考。
▽カトリック出版物を店先や待合室に出す。わざと忘れ置く。
▽デパート・コーナーのメリットは大きい。無くなったのは残念で、信者は協力すべきだ。
▽番組は良きにつけ悪しきにつけ、投書するなどしてはっきりした反応を示すべきである。
▽何はさておき、マスコミを利用して宣教するという考え方を訓練する必要がある。

(城北ブロック)

9、宣教推進のための、祈り、犠牲、殉教者等へのまねびについて。

画一的な対策で総てを充足することは不可能だが、教区としてはやはり大きな方針をたてることが必要である。

1、宣教のための祈り

(1)司祭などの教導者やその補助者達は、宣教のための祈りの必要性を説き続けるべきである。

(2)教会学校をはじめ家庭でも、機会を捉えて、継続的に子供たちに対し、宣教のための祈りの貴さを教え、かつ実践するように教育すべきである。

(3)「宣教のための祈りのサークル」(仮称)を結成したらいかがか。

2、犠牲

(1)司祭などの教導者は、神から与えられている各人の生活そのものを甘受し、特定の目的のために神に捧げることの価値、貴さ、効用を、もっと積極的に説き続けるべきである。

(2)教会学校をはじめ家庭でも、機会を捉えて、継続的に子供たちに対し、宣教のための犠牲の貴さを教え、かつ実践するように教育すべきである。

(3)「宣教のための犠牲(用語は要検討)のサークル」(仮称)を結成したらいかがか。

3、殉教者等へのまねび

(1)教会内に、殉教者から学び、あるいは取りつぎを求める気運をもっと高めるべきである。

(2)教会学校等を通じて次代を担う子供達に史実を教え、また、信仰を保ち、良心に従うという事は、時に多大の犠牲を伴い、特別な勇気を求められるものであることを教育すべきである。

(3)家庭においても全く同様の努力をすべきである。その為にはまず父母の教育が前提となる。

(4)教区として、江戸の殉教者関係の遺跡の巡礼案内を作成することが望ましい。たとえ現在はビルの谷間になってしまった遺跡でも、先輩の血の足跡を辿るということは、彼等の苦難を身近に感じ、力づけられる。

(5)教区として、いま保存されている迫害関係の歴史的な資料を整備して展示館(室)を設置すること、また書籍や「教区ニュース」などの定期刊行物を利用して殉教者の血の啓蒙に努めることが望ましい。

3テーマに共通する問題は、外的活動が盛んになればなるほど、内的活動の充実を図る必要があるということである。

▽日曜日の夜などに家族がともに祈るのは何んとすばらしいことか!
▽祈りとは神に対して謙虚に、自分にない力を与えてくださいと訴えること。「宣教」と「祈り」は特別には結びつかない。
▽「犠牲」という言葉は、何か誤った概念、イメージを与えかねない。
▽犠牲は本来隠れておこなうもの。一斉に「皆で犠牲を捧げましょう……」はナンセンス。
▽「殉教者たちの血はキリスト信者の種子である」。(テルトウリアヌス)
▽韓国では殉教者の精神をまなび、それに傲って今日の発展をかち得たようである。
▽迫害は昔よりもっと陰湿な形で我われに迫っている。

(城東ブロック)

教区総会プログラム

日時 3月21日(金)春分の日 午前10時~午後4時半

10:00 開会

10:30 代表者による質問と応答(応答:白柳大司教、相馬司教、森司教)

11:45 分科会のテーマ説明 懸賞文入選者発表

12:00 昼食(弁当は各自持参)

13:00 分科会テーマ(1)小教区を宣教母体にするには (2)職場で宣教するには (3)地域社会への宣教 (4)宣教における家庭婦人の役割

討論会「信徒の役割と司祭の役割」発題者:相馬信夫司教、後藤文雄師、村田増雄氏、井上英治氏

講演会「日本でなぜカトリックの信者は少なく、シンパは多いのか」講師:井上洋治師、木村尚三郎氏

15:30 一般参加者による質問と司教の応答(上記の他、濱尾司教、島本司教)

16:30 閉会

場所 聖心女子学院 〒108 港区白金4-11-1 電話444-7671

参加問い合わせ 各教会、修道会

’85教区活動
福音宣教に十部一丸

宣司評

教区組織の改善に伴い、宣教司牧に関する大司教の諮問機関として新たに設けられた。さっそく出された9つの議題につきブロックの協力を求めるなどして答申をつくる本来の仕事に専念した。他に規約制定、総会準備などを行なう。

事務局

【総務部】85年度の代議員会で教区組織の改善が行なわれ、同年11月1日、教区本部規約が制定された。総務部とは全体を司るところで、福音宣教活動につき、各部や委員会の連絡軸として機能している。

「ビジョンの会」小委員会-「東京教区の便利帳」をつくることに全力を投入した。教区全体で作るように進言したが、下部へ徹底するまで待つわけにはゆかないということで、少数精鋭でスタートした。会としての編集は終りに近づいたが、発行の主体を当会とするか、教区とするかが今一つはっきりしないため、司祭評等で検討する。

【教学部】▽要理教育講座-満10周年を迎えたため、本年度の前半は充電期間とし、後期だけの短期集中講座にした。主題は「新しいキリスト教宣教の上手な方法論」で、人数も30名と限定した。講義はゲストとして井上洋治、山本襄治の両師を招き、いかにしてキリスト教に興味を持たせ、祈りによってキリストになじませるかについて話をきいた。

あとは越前喜六師と斎藤いつ子氏がワーク・ショップを行ない、実際的な方法と開かれた考え方について学んだ。最後には鎮目光雄氏から、人間のさまざまの悩みと、それに答えるキリスト教の話があり、締めくくりとした。

教会学校部-5月の初め、リーダーのための研修会を開き、6月には「みな友」という有志の会と協力して運動会を行なった。また8月には3泊4日で全国からの指導者を集め、今後の活動方向を探った。11月にはとくにクリスマスの準備に役立つ会を設けた。

月刊誌「教えの手帖」は聖パウロ女子修道会の援助のもとに発行しているが、リーダーと両親のため、カリキュラムの作成や家庭教育に参考になるよう努力している。

泊りがけコース

使徒職研修コース-2年前から、9月開講、7月修了というサイクルであるため、まず85年7月、第10回の修了状況を報告する。講座の80%以上出席した人を修了者とみなしたところ、参加者約100名のうち62名であった。

9月からも同じように7グループで開講されたが、12月9日、各組スタッフの代表で構成する運営委員会を開いた。その時の中間報告によると、成城・木曜昼(参加者約30名)、小岩・火曜昼(同約4名)、千葉寺・隔火曜昼(同約30~35名)、吉祥寺・火曜夜(同約20名)、洗足・隔火曜夜(同5名)、上野・木曜夜(同約3名)、黙想の家・月1回土、日1泊(同18名)であった。

カト高生活動指導者会-3月に、3泊4日の練成会「平和を求めて」を行なう。高校生が前年の10月から、大学生や大人とともに準備を進めたもので、平和な社会をつくる仲間になることを学び考えた。4月、1泊合宿して活動の基本線を検討、各グループは大学生をも含め、一貫した自己形成の場とし、その代表によってカト高中心メンバーチームをつくる、相互の連絡をはかるためカト高事務所通信を発行する-などを決めた。

夏休みには7組がそれぞれ合宿。8月の東アジア高校生練成会の準備と実施にも全面的に協力した。10月からはすでに春の練成会を準備中。専従の指導者が交替してからは、全国のカト高活動との連絡、指導者間の協力、国際的な学生運動などとの連帯-に、再発足した。

イエズス探究会-活動を開始してから7年目になる。第13回探究会を5月17日から19日まで神学院で(参加者は12教会から23名)、第14回を11月29日から12月1日までラサール研修所で(16教会から25名)、それぞれ開催した。毎回参加する信徒もいるし、熱心な者も増えているが、一方この7年間参加ゼロの小教区も多い。呼びかけ方に工夫が必要である。

85年度のテーマは2回とも「キリストを伝える」で、これは司教団の呼びかけ「基本方針と優先課題」に答えてゆくために選ばれた。参加者の中に宣教に対する具体的取り組みの意識が生まれている。

聖書週間-本年度も11月15日から11月24日まで、司教協議会聖書委員会、上智大学キリスト教文化研究所と共催で、「聖書週間講座」を同大学において開いた。テーマは「聖書における福音宣教」で、講師は新約担当と旧約担当の2つにわけた。最終日はパネル・ディスカッションを行なった。

また聖書講座に並行してミニ聖書展覧会も開かれ、参加者の興味をひいた。講座終了後には関係者の反省会もあった。

殉教の血に学ぶ

【典礼部】▽典礼委員会-2月23日、カテドラルで森司教の叙階式が行なわれた。当典礼部は儀式に関する色いろな分野で活躍したが、とくに式次第の手引きをつくって関係者に配った。祝典はとどこおりなく終了した。

5月26日の合同堅信式には3月下旬から受堅希望者の下調べを始め、「合同堅信式を希望される皆さんへ」という小冊子を配布した。手落ちなく用意したつもりであったが、やはり数多い人のうちには多少の混乱もあった。さらにいっそうの工夫が検討される。

6月9日には第16回教会音楽祭「エキュメニカルな音楽による一致と祈りの集い」が行なわれた。また10月27日、生きた典礼をめざす集いを開き、山本襄治師が「ご先祖と親しくするには-」と題して講演した。その他オルガニストの育成も、毎月1度、約25名の参加で続けられている。

【召命部】▽召命委員会-原則として月1回の例会を開き、召命についての問題の掘り下げや、具体的な活動へどう結びつけるかなどを試行している。構成員は、男女修道会、宣教会、神学院、司祭評、宣司評、一粒会、事務局から選ばれている。

昨年度のアンケート調査を踏まえて、1月15日には「召命担当者の集い」をひらき、修道会、宣教会、小教区等から80名の参加者があった。5月19日には、召命を考える会と共催で、「召命の日の集い」を持ったが、60名の出席を見た。

今年度は、この2つの会を充実させ、さらに召命を考える会との結びつきを強め、研究を重ねる。また「一粒会だより」等を通じてPR活動に力を入れ、教区全体に召命の意識や気運を盛り上げたい。

東京教区一粒会-16名の神学生養成のための献金と、教区全体が邦人司祭の育成で一致協力してゆく体制をつくることに活動の重点がおかれた。5月13日には真生会館で、各小教区での担当者約50名を集め春期総会を、11月20日には神学院で秋期総会を開いた。

各小教区での担当者と委員会を結び、直接に活動と支援を呼びかけるのをさし当っての狙いに、「一粒会運営委員会通信」を発行している。また「邦人司祭育成の日」には、ミサに与るすべての人の手にわたるよう、「一粒会だより」をも印刷配布し、協力を求めた。

【社会部】▽ビルマ委員会-11月17日のビルマ・デーに向けて数回の会議を開いた。今年はちょうどケルン教区において、戦争で壊された教会の復興記念祝典が行なわれた。

同教区が自らの復旧をあとまわしにしてわが東京教区を援助したそのこころを思い、ビルマの教会を助ける意義を再確認することをビルマ・デーの中心テーマとした。そのアピールのため、チラシ2万枚を教区全体に配布、協力をよびかけた。

靖国神社問題実行委員会-首相および閣僚の公式参拝に対して、反対・抗議し続けた1年であった。司教団もこれに反対することを表明し、善処されるようにとの要望書を首相あて差出した。反対署名運動では、正平協の呼び掛けで、布司協-ブロック会議のルートを通して各母体に協力を依頼した。

また若者のつどい「カトリック・ユース’85」に参加、スライドで事の重大性を訴えた。正平協全国会議にも委員を派遣した。その他(1)「追悼の日」を認めない市民集会(2)公式参拝反対集会(3)同「国会報告」集会(4)院内緊急集会(5)2・11、8・15東京集会等に参加、共闘団体と共に抗議文、声明書等を出した。

平和旬間実行委員会-8月10日夕、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、旬間行事の主眼である平和祈願祭を行なった。84年度は、「戦争体験を正しく伝え、これからの平和を考えるため」の小冊子を発刊したが、今年は8月11日、同じ意向のもとにシンポジウムを開催した。少数ながら真剣な集いだった。

原爆投下より40年を数える記念すべき年にあたり、森司教を団長とする43名の巡礼団は山口、津和野を巡り、広島・長崎で開かれた「平和の集い」に参加して意義深い旅をした。

けん賞文で活性

【福祉部】去る1981年の国際障害者年にあたって実施した各小教区に対するアンケート調査の結果が、関係方面において好評だったので、さらにその後における小教区の実状について再び調査を行なった。調査表は目下回収中であるが、集まり次第集計・解析をして報告書にまとめ公表する。

前年度に報告した、教会用語の手話に関する手引書については、担当者が外国勤務になるなどの事情からその刊行が遅れていたが、これを決定版とせず、1つの試案として発表することとなり、近く印刷にまわす。

そのほか、カリタス・ジャパン、カトリック障害者連絡協議会等に対する協力、四旬節「愛の募金」についての呼びかけや配分などの業務は例年どおり。

障害者問題小委員会-7月14日、関口教会信徒会館で、第5回「障害者とともに考える集い」を開催した。出席者は120名でこれまでのうち最も多かった。文京区の障害者やボランティア団体からも約20名が参加したのは、外に向う教会の姿勢として画期的のことだった。

集いの内容としては今回初めてゲームをとりいれ、前半は話し合い、後半は遊びとした。遊戯を組んだことには異論もあったが、全体に楽しい集いとなり約80%の人が評価していた。

【広報部】▽広報委員会-5月12日、カトリック・センターで、「マスコミと青年」をテーマに第11回教区広報大会を開く。11月24日、同センターで、「小教区報は福音宣教にどう答えるのか」について担当者の集いをもった。教区ニュースに宣教のページ(福音宣教推進部編集)が加わった。

【難民定住推進部】小教区内に定住した難民、むしろ在日ベトナム人、カンボジア人といったほうが適切であろう-は、それぞれの教会をあげての助けのもとに、落着いた生活ができる状態になった。

当推進部は、各小教区等の自主的な活動を前提とするものであるため、数度の部会開催、難民定住推進ニュースの発行、10月に行なわれた難民定住セミナーへの参加などのほか、めだった活動はなかったが、86年度には、定住推進における諸問題についての研究と発表の場を設け、受け入れ小教区の一助となるような集いを開きたいと計画している。

【福音宣教推進部】まず6月中の毎土曜日5回にわたり、関口教会信徒会館で「明日への宣教を考える集い」を開いた。また教区民に福音宣教の意識が高まるよう祈り文を刷った御絵を配布した。同じ目的で「すべての人に福音を」という題で懸賞文を募った。

広報部の協賛を得て教区ニュースに宣教のページを併載し、軽いタッチの報告をすることになった。10月の司祭研修会では岡田武夫師の講演を開き、布教から、福音宣教、福音化へについて討議した。また11月23日には再び関口で「教会は変わり得るか」「どんな司祭を望むか」「どんな信徒を望むか」というテーマで公開討論会を開催した。

【財政部】▽財政評議会(組織改善によって財政委員会を改称)-例会を10回ひらいた。おもな議題は江東区8号埋立地・蟻の会敷地の整理ならびに会自体の今後の問題であった。また浅草教会の改築と同地区の再開発をも検討した。

資産運用相互協力制度は新規の4教会を加えて48教会となり、預託申込は27件あった。年度末の決算配当利息は金利低下によって年7.18%。融資は新規1件、完済1件で残高は5件の4,024万円となった。教会財務連絡会は3回開催、神学院の財政状況やカトリック教会保険等について説明を開いた。また6月には森司教から、経済と信徒の責任についての講話があり、11月には教区から「教会の経済をご存じですか」というパンフレットも発行された。

答申づくりひとすじ

ブロック

【中央】従来の諸活動のほかに、「基本方針と優先課題」との取り組みも加わった。教区新組織に伴うブロック会議の規約制定なども行なった。

運営面では議長を交替制とした。典礼、一粒会、難民定住促進、平和旬間、移動信徒連絡、ビジョンの会、教区ニュース宣教のページ担当、障害者問題などの各分野にはそれぞれ専従の活動委員を置いた。大司教の諮問議題で当ブロックに割りあてられたのは、「宣教におけるミッション校の役割」であったが10月24日の宣司評で答申の原案を報告した。麹町教会で、初めて教会を訪れる人達への対応についての会合が開かれた。

【城東】新旧委員の改選がおこなわれ、多くの新しい顔が登場した。教区の組織改善により、ブロックの位置づけがどのようになるのかは、大へん興味あるところであった。宣教司牧評議会からの諮問議題の進めと取り扱い作業で、全体会議やグループ別の会議は大いに盛り上った。しかし各グループ内での活動にはもう一歩の踏みこみが足りなかった。

86年度にはもう一度、水元公園での平和行進など、先輩たちが残した業績と教区の行事等を考えて、当ブロックの地域性や特徴を押し出せるビジョンを打ち立て、それに基づく年次の計画を作ることが急がれるのではないかと思う。

【城西】小教区、修道会で会場をもちまわりとし、2ヶ月に1回会議を開いている。当ブロックの受けもった大司教の諮問議題「青少年を引き寄せるためには?(魅力ある教え、魅力ある教会、青少年の問題)」について、数回討議を行なった。これには、若者のナマの声に接しようということで、特に教会学校、中・高校生会、青年会、ボーイスカウトなどから、リーダーを中心に毎回5、6人を招き3回にわたって貴重な意見を聞いた。

難民問題については、無原罪聖母宣教女会の難民受け入れでブロック内の協力体制ができたため、今後いっそう強い相互関係を確立したい。

【城南】事務局を洗足教会に移し、運営委員、議長団を一新して活動を開始した。例会では自由討議及びグループ討議を通じて、全員が発言し、各母体の現状や意見を汲み取るよう工夫した。テーマは(1)基本方針と優先課題の受けとめ方(2)宣教共同体づくりの計画(3)ブロック会議のあり方(4)信者でない人への働きかけ(5)初めての人への教会案内、ブロック・ガイドブック-などについて。

ブロック宣教委員会の企画によって、7月7日、田園調布教会で、「白柳大司教を囲んで福音宣教の体験を話し合う集い」が開かれた。10名の話題提供者につづき、約90名の参加者による質疑と自由討論が行なわれた。また福祉委員会は、各母体から出したバザー純益の一部を基金とし、ベトナム難民家族の生活支援と、児童養護施設への援助を続けている。

「研修」花ざかり

【城北】通常の例会は2ヶ月に1回、豊島教会で開催している。その約2週間まえ、例会をより良くするために運営委員会を開く。

平和旬間行事で、千鳥ヶ淵戦没者墓苑の平和祈願祭にブロックとしても協力し、積極的に参加した。しかし何んといっても熱心に討議したのは福音宣教についてであった。白柳大司教の出した諮問議題1につき、9月8日、杉田稔師を招いて話を聞いた。

なお諮問答申作成にあたっての当ブロック受け持ちは議題8であった。また教会バザーの利益の一部を「心のともしび」に寄附したり、映画会を開いて地域の人びとに呼びかけた。

【武蔵野】地域社会へ向けての宣教を目的とする行事の1つとして「映画と講演」を計画した。公共会場使用はくじもれ。

大司教の諮問議題のうち、当ブロックの担当は「宣教における家庭婦人の役割」だったが、各小教区の地区会、婦人会、活動グループ等において、現況把握から将来への展望-と活発に話し合った。

青少年問題、教会学校担当者間のつながりを作るため-では吉祥寺教会が音頭をとり、若者の連帯感を育てるのに大人が手助けをするという形で努力することをきめた。

【多摩】八王子教会で行なわれた拡大ブロック会議と、それに続いて開かれた新年会が皮切りとなった。10月13日、純心女子高等学校の講堂において、ブロック合同ミサを3年ぶりに開いた。

夏場には、恒例の中学生練成会、高校生や大学生を中心としたワーク・キャンプも行なわれた。また、11月20日から4日間、これも恒例の研修会が、竹山昭神父を講師に迎えて行なわれた。12月25日には、中・高生のためのクリスマス会が開かれ、多くの参加者でにぎわった。

【千葉】3月28日から30日まで、十字架のイエズス修道女会において高校生などのリーダー研修会を開催した。中学生を対象とした夏期練成会は、8月22日から25日まで館山教会で開かれた。

第11回の千葉ブロック大会は、「合同ミサとレクレーション大会」として、9月8日、聖母マリア幼稚園をミサ式場に、国立下総療養所グランドを会場として開催された。「明日への宣教を考える集い」は回を重ねるごとに参加者が増え、有意義な討論がなされている。

カラオケで福音宣教

西千葉教会 谷口良樹

1、長崎の女(ひと)

昭和22年5月上旬の早朝、原爆の焼跡が残る長崎駅のホームに5人の戦災孤児が降りた。漁港に隣接した駅前にテント村があって、荷上げされた魚の仕入れで活気にあふれていた。とにかく腹が空いたので、何か食べようとテント村へ入った。中程に来た時、七輪の上で5、6匹ほど、良く焼けた鰯を見つけその前に立った。「おばさん、さかな食べさせてよ。」突然声をかけられた60位の老女は驚きのためか黙ったまま魚を焼いていた。「お金は払うよ。」靴磨きしていたので多少の貯えは皆持っていた。「お金は大切だから持っていなさい。」といって受け取らず魚1匹づつと、自分の弁当であるオニギリを、我々に与えてくれた。

しばらくして老女「あんた達はこれから何処へ行くの?」少年達は胸を張って、「今夜の汽車で東京へ行くんだ。」と言った。昨日佐世保から最終列車に乗り真っ直ぐ東京へ行くつもりが、途中長崎見物をしようという話になって長崎に来てしまった。何処へ行くにも薩摩守(サツマノカミ)であったので気楽な旅が出来た我々である。

老女は心配して、「いつまでもそんな生活をしないであんた達のような子供がたくさんいる聖母の騎士園に行きなさい。」私、「聖母ってなに」「聖母とはマリア様でキリストのお母さんよ。」イエス・キリストの御名は佐世保に居た時、進駐軍や従軍牧師に聞かされていたが、「マリア様」の名は初めてであった。5人の間にいろいろと考えの違いが出た。

「騎士園に行く。」という私に、「東京へ行く約束でここまで一緒に来たではないか。」「騎士園なんか行くと呪文をかけられ足かせをはめられたようになって逃げれなくなるぞ。」等なじられた。それでも行きたいと思っている私に老女は、「マリア様がキット助けて下さるよ。」と言った。

私は他の4人と別れて市電に乗り螢茶屋から坂を上って本河内の聖母の騎士修道院に着いた。この長崎の老女こそ福音宣教の原点ではないか。困っている人、悩める人、苦しむ人に一言、イエズスとマリアの御名を知らせ、オニギリと魚を必要としている時と場所で与える。これこそ生きた信仰であり生きた福音宣教ではないか。

カラオケ百曲以上あるレパートリーの中から人前で必ず「長崎の女」を歌う。偉大なるミロハナ神父、ゼノ修士、園長の深堀先生。その他多くの修道者、神学生、先生方への感謝は勿論であるが、信仰に導いてくれた駅前の老女、騎士園で働いてくれた炊事係の女(ヒト)、洗濯係の女(ヒト)、繕い物係の女(ヒト)、そしてシスターの卵達に感謝の気持を込めて、今日も明日も「長崎の女」を歌っているのである。

「長崎の女」を歌っていると、不思議と気持が休まる。苦しい時、悲しい時、悩みと信仰の危機の時、「マリア様が助けて下さるよ。」との声がするのである。この声こそ私にとって信仰の支えなのである。

2、共同体とカラオケ

カラオケを歌うもう1つの理由は、教会内で親睦の絆を深めたいからである。

日曜日には欠かさずミサに与かり、上手な説教を聞いて感激、御聖体を拝領してまたまた感謝感激、「私ってなんて立派な信者でしょう」と自己満足、ハイ次の日曜日までさようならバイバイ。こんな信者がいかに多いか、教会全体に当てはまるが、長年教会で顔を合わせても挨拶一つするじゃなし、他人の苦しみや悩みなどとんと無関心、これじゃせっかくの信仰の恵が泣くというものだ。私はカラオケを歌えるからカラオケを歌うが、囲碁でも将棋でも趣味を通じて親睦を深めればいいと思う。ここで私が強調したいのは、たかがカラオケと馬鹿にしてはいけない。「私達が集っているここにも主イエズスはおられる」と確信するからだ。

3、地域社会とカラオケ

神父さんも結婚式を司式した後、披露宴に招かれ、必ずカラオケの指名があるという。そこで一声自慢のノドを聞かせると、一同アッと驚いて神父さんを見直すのではないかな。信者とて同じで、歓送会、新・忘年会、個人的な付き合い、教会内でも飲む機会があると決ってカラオケが出る。「私はカトリック信者であるから聖歌とか讃美歌しか歌えません」じゃ話しにならないし、まして酒席で聖歌でも歌うものは異質な人間としての評価しか受けないだろう。カトリック信者だって3つや4つ演歌を上手に歌えることを見せてやれば同じ人間として付き合えると思ってくれるだろう。

日本人の心である演歌は、地域社会との融和には絶対必要である。パート、アルバイト等初めて働き出した信者の主婦がカラオケを習いたいと言って来ることからしてそれを証明できる。

4、この世に生きたキリスト

私は長崎時代、そして各地で多くの神父、修道者と生活し、シスターにも接して来た。一生懸命に働く姿に感動し、人格的にも優れ、中には聖人ではないかと思える人もいた。しかし心の温かい人は稀であった。長年神父職にあろうと数十年修道生活を送ろうと、熱心な信者であろうと、キリストを除いて人間は自分自身が一番可愛いのだ。我々だって真剣に福音宣教をしなければならないが、嫌なこと、困難なこと、利益にならないことは出来るだけ避けたいのだ。要するに自分自身が一番可愛いのだ。我々も主イエズスに倣って己を捨て、他人に奉仕することに努めなければいけないと思う。

日本の言葉に悪人を譬(たと)えて「血も涙もない人間だ」と言う。キリストはどうであったか、キリストこそ一番熱い涙と温い血の通った人間ではなかったか。福音とは、「神が人となられ33年間この地上で血も涙もあった人間として生活された」ことではないか、そして「マリア様の思い遺りのある温い心。」この聖心と御心を度外視して何百回、何千回、福音宣教の研修会、集会を重ねても豊かな実りはないと思う。私も何回か集りに参加したが、各自勝手なこと調子のいいこと言うけど本音がないからである。信仰は学問や理屈ではない。熱き血の通ったイエズスの聖心を取り入れ、教会内でも未信者にも接していくのが福音宣教であり生きた信仰の証である。

5、イエズスのもとへカラオケで

現在「カラオケ愛唱会」には、主任神父、応援のアメリカ人の神父、神学生、信者を含め20数名、卒園児の未信者のお母さんも入会希望者が出て来た。少しづつ増える傾向にある。月1回の例会ではあるが皆集ってお互いの絆を深め、真のイエズスのもとへ導けたらと念願している。これが私のカラオケによる福音宣教である。信者の皆様カラオケを歌って聞いてストレス解消、頭と心を柔軟にし明日への生活と信仰の活力にしようではないか。冷い浮世で生きるには、みんな手を取り合って生きるしかないのである。

私の夢はカラオケ聖歌を作ることである。

他の宗教に信心すればもっと気楽に生きられ御利益があるかもしれない。でもいかに十字架が重くても矛盾を感じようとも教会を離れられない。イエズスが完全な姿で世の終りまで止まっておられるのは我がカトリック教会しかないからである。

+主に希望と信頼をもって、主の聖心に従うことができますように。 アーメン

福音宣教に関する体験・意見・提案
懸賞文入選作品発表
東京教区福音宣教推進部

福音宣教推進部では昨年8月より11月末日まで、福音に出会った喜び、福音を伝え、受け入れられた喜びなど、誰でも何らかの形で宣教できることを具体的な体験や意見、提案を綴っていただく懸賞文を募集した。全国各地より179名の方が応募されたが、最優秀作に該当する作品はなく、佳作4点(成人2点、高校生1点、小学生1点)を選出したにとどまった。作品は今回と次号で紹介する。入選者の表彰は教区総会で行われる。

光の子塩の子になって
(小学校1年)すずきえりこ

わたしは、かみさまの子どもです。でもときどきいたずらをします。お兄ちゃんとけんかをします。わがままをいいます。でもわたしは、かみさまのこどもです。

いつもねるときは、おいのりをしてねます。わたしは、かみさまのこどもです。おかあさまのこどもでもあり、かみさまのこどもでもあります。

かみさまってどこにいるの、とおかあさまにきいたことがあります。こころの中にいるの、とおかあさまがいいました。心ってどこ?わたしは、またおかあさまにききました。それは、からだぜんたいよとおしえてくれました。わたしは、わたしのからだぜんたいに、かみさまがいるのだなあとおもいました。

かみさまの、いる、わたしのからだはとうといとおもいました。

勇気ある行動こそ福音宣教
清瀬教会(高校1年)天川千鶴

学校でいじめられている子がいる。私の学校は中高つながっていて、高校から入るのは十数名しかいない。私もその中の1人で、ミッションという名にあこがれて高校から入学した1人だった。そのいじめられている子は中学の時途中から転校して来た人だったらしい。その子は足が不自由で手の神経なんかもうまく動かせない。中学からあがって来た人全員が全員その人をいじめたり避けたりしているのではないけれど、やっぱりみんな不自然な行動をしている。聞いてみると「きたない」とみんな言う。「生意気」「人の言うことを聞かない」とも……。たしかにきたないかも知れない。あれだけみんなに言われ、やられたためか強気になって、わざと知らんぷりしたり、生意気ぶっているのかも知れない。

私はとにかく入ってとてもびっくりした。中学校の時、障害児学級や老人ホームなどが近くにあったため、福祉活動が盛んな学校だった。そんな中に入っていたからだろうか。他の中学校もこんないじめがあったのだろうか。ミッションスクールなのに。信者さんが少ないからか、と思っていた。でも、1学期2学期が過ぎて分かった。みんながみんなこの人の事をそういう風に思ってはいないことを。私も特別にはベタベタしてはいなかったが普通の人と同じようにしていた。ちょうど私と同じ高校から入った人が1人とても仲の良い友達になった。その友達もこの様子に、とってもびっくりしていた。

ある日、先生がお弁当の時間グループを作って食べてもいいと言った。私達はもうグループが出来ていたのですぐ組んでしまった。そしたらその人が私の所に来てグループにいれてほしいらしいことを言って来た。ひねくれて言っているけどすぐ分かった。私は他の友達がいやな顔をするかも知れないなとも思ったけれど「いいよ」と答えた。私のグループの人は案外すんなりその人を入れてくれた。食べる時他のグループの人の批判がすごかった。その人も気まずそうに食べていた。私は何も言えず黙っていた。その時私の友達が大きい声で「私達がいっしょに食べたいから誘ったのよ」とどなった。みんな黙った。私は自分がなさけなかった。私が言わなければいけない言葉だったような気がしてしかたがなかった。私には言う勇気がなかった。心のどこかで、やっぱり、その人をみんなと同じような目で見ていたんだ。きっと。みんなと同じ目をしていたんだ。そしてみんなからはずれて、まちがった目を直してあげる勇気がなかったと思う。

私はその日から一生懸命そういう風に思っていた心を捨てようと思った。努力していこうと思った。数日たって、数学の時間に私のとなりに座っている子に言われた。「最近さ、私あの子に対する気持ちみたいなもの変わったんだ」。その友達はみんなのような目でその子を見ていたり、いじめていた私の仲間の1人だった。私はうれしかった。友達は「私もいつああなるか分からないもんね」とも言っていた。次の理科の時間、さっきの友達のとなりにその子が座っていた。私はなにかとてもうれしかった。ただ座っているだけなのに。しゃべっているわけでも教えあっているわけでもないのに……。

私はこの出来事以来本当に心から思っていることは、ふとした行動に出るのだと思った。まだ私は福音宣教というものを未だにつかめないけれども、この私の友達の勇気ある行動こそ福音宣教なのではないかと思っている。

お告げのフランシスコ姉妹会・シスター熊田昭子さんの作文は次号に掲載します。

あるカトリック女子高校で宗教の時間を受け持たれたシスターが、女子高校生の授業態度に憤慨しながらも、押しつけ教育のむなしさを知り、本来のカトリック教育とは何かを実践していく。こうして体験した教えの心が、実はどんな時にも当てはまる福音宣教であると語られている作品です。

後評

昨年、福音宣教に関する懸賞作文を募集いたしましたところ、全国から179名(成人71名、小学生、中、高校生108名)の応募をいただきました。応募してくださいました方々に心からお礼申し上げます。

応募者の方々の多くが福音宣教に関する提案、体験等を綴ってくださいましたが、福音宣教推進部では次の5項目を柱に審査をさせていただきました。

(1)主観的になりすぎないもの。

(2)体験の場合には他の人々も共有できるもの。

(3)日常生活に身近なもの。

(4)提案の場合は建設的な前向きの意見であること。

(5)聖書を土台にしているもの。

審査の結果、応募者の中で聖書のみことばを土台にしているものが多く、残念ながら最優秀作に該当するものはありませんでしたが、次の方々の作文を佳作として選ばせていただきました。

○成人の部

谷口良樹 西千葉教会

熊田昭子 お告げのフランシスコ姉妹会

○中・高生の部

天川千鶴 清瀬教会 高校1年

○小学生の部

すずきえりこ 光塩小学校1年

作文の発表は東京教区ニュース57、8号に掲載いたしますが、記事の都合で一部を割愛させて頂きました。

表彰式は教区総会にて下記の日程で行います。

日時 3月21日(金) 午前11時45分

場所 聖心女子学院中高部 港区白金4の11の1

(福音宣教推進部 市川 裕)

教区だより

信徒総会に参加を

昭和62年開催が予定されている福音宣教推進全国会議に向けて、会議の実行委員長である相馬司教と司教団が各管区で、4月までに公聴会を開くよう要請されました。

東京教区では3月の定例総会をこの公聴会の趣旨に添って開催します。

公聴会の目的は、(1)「基本方針と優先課題」の趣旨説明とその浸透、(2)教区の問題点を摘出して全国会議自体に刺激を与える、等であるため、教区総会も従来と形式を変えて、(1)「基本方針……」を浸透させるための司教団との質疑応答、(2)いかに宣教すべきかを考える分科会、(3)新しい教会像を求める討論会、(4)日本文化とカトリックを考える講演会、で構成します。

総会には自由参加となっていますので、信徒の方々が多く参加されることを望みます。

◎日時 3月21日(祭日) 午前10時より

◎場所 聖心女子学院中高部

◎総会プログラム

9時 受付開始
10時 開会、総会説明
10時30分 代表質問と応答
11時45分 分科会説明と懸賞文入選者表彰
13時 分科会、討論会、講演会
15時30分 一般質問と応答
16時30分 閉会

◎分科会テーマ

(1)小教区を宣教母体にするには

(2)職場で宣教するには

(3)地域社会に宣教するには

(4)宣教における婦人の役割

◎討論会テーマ

司祭の役割、信徒の役割

◎講演会テーマ

日本でなぜカトリック信者は少なくシンパは多いのか

信徒の自由な信仰開拓

カトリック洗足教会 建築家 田坂好生

心の痛みは心を開いて

横浜教区信徒研修会も今年9月で13回を終えた。第2バチカン公会議以後の流れの中で、信徒自らの信仰の分ち合いの会として産ぶ声を上げたこの会の始まりを、私は古くからのスタッフや参加されていた方々から耳にする。旗揚げ当時は、信徒布教研修会と称したこの会の第1回は感動的だったという。

集まった人達は、自分の心の中にある、生活の中で体験してきた苦しみ・悲しみ・喜びを本当に心を開いて話し合えた。それはまるで生命の絶叫のようだったと。そしてこの会は今なおその趣旨を守り続けている。

私がこの研修会をお手伝いするようになって5年が過ぎた。今年の研修会は私にとってこれまでにも増してすばらしかった。

さて、5月に1年ぶりに帰国した私に、研修会のリーダーをしている兄から復帰の依頼があり、私は準備会に途中から参加することになった。スタッフは桜の咲く季節から準備に入る。皆勤め人だから土・日曜日を利用して月に1度集まり、事務的な打合せとテーマ決定の後、ディスカッションが始まる。参加される皆さんには知られざる面で、この準備会のすばらしさを私は少しお話ししたいと思う。

研修会というから、どなたか偉い方のお話しを中心に勉強会をするのかと言えば、そうではない。私が準備するのは、参加される方々がくつろいで不自由なく過していただける計画と、私達の心なのです。そして皆さんにどんな話をしてもらうかとか、話をどういう結論に近づけようかなんていう話し合いはしません。自分達で決めたテーマについての分ち合いと、自分達の心をまず開くことから始めるのです。もうこの時からスタッフにとっての分ち合いの会が始まっています。ですから本当のところ本番の日にもこの話し合いがどの方向に進むかなんて解らないんです。いつもドキドキ。私達が心掛けているのは、ただ話が脱線しないことだけ、今何について話す時かを示すだけです。

5年前、新しくスタッフに加った時は、話をどっちの方向にむけたら良いのか、どんな方向に導いたらいいのか、話し合いの手引きみたいなものはないのかと聞きました。でも、そんなものは無いんです。私1人の心を開くこと、本音を言うこと、本当に言いたいことを言うことが、話し合いをすばらしいものにすると気付かされたのは実に今年のことです。

マンネリは初心に戻り

今年は本当に苦しい準備でした。参加者が少なく、スタッフが20から30代で、参加者が40から70代、皆で「どうなるんでしょうね?」と悩み、参加者集めに骨を折りました。ここ2・3年、少しマンネリ化してきたこの会に、新しい風を吹き込みたいと色々な企画も考えました。この企画について助言してもらいに初代の指導司祭リバース師を訪れました。私は初対面の彼に、言いしれない魅力を感じました。その熱っぽさで「もし、痛いところがあるなら、そこを医者にみせなければ治らない。もし心の中にそれがあるなら、心を開かなければいやされないよ。」と語って下さいました。何回も耳にしてきたのに、何故はっきり気付かなかったのかと思いました。私はその足で準備会に行き、同じ熱っぽさでこのことを皆に話しました。私はこの時、今迄にない決心をしていました。話せないことなどない、心を開こう。皆を信じようと心に決めたのです。

準備会の中で、スタッフが何を心にいだき決心するか、スタッフ同志でも解りません。これが心の準備です。

だから心を開くことに少しでも抵抗が少なくなるから、本番でも少しリラックスして話し合いのムードが作れるのだなと今思っています。しかし、心を開くことは、本当に難しい、苦しいことだと思いました。

私は研修会の当日、私が最も苦しんだこと、今も心の中に傷ついていることを話しました。私は決心した時、平静を保って話せるだろうと思っていました。その時、私は部屋の中にいる人達を信じました。心を開くことは痛いことだと知りました。言葉は上ずって震えていました。血が逆流しているような思いでした。なぐさめの言葉も同情の言葉も有りません。要りません。ただ有難う皆さん聞いて下さって、そして皆さんが心を開いて下さった。皆さんも話して下さった。有難う。

本当にすばらしい会だったと、今年は思い出すたびに、心震える程うれしく思っています。

この会は私の大きな力になっています。この会で話せたことで、本当にキリストを信じて手を取り合って生きていくことはすばらしいと思えるのです。私と同じように苦しんだり悲しんだりしながらも主を信じて生きている人達がいること、分かち合える人達がいることこそ教会の在るべき姿だと思うのです。そして、これこそ、福音宣教の原動力だと思えるのです。生きていることはすばらしい、喜びにあふれていると思うのです。

続心の扉

先号の「心の扉」に5通の手紙を戴いた。御意見に賛同という内容のものが4通であったが、1通だけ心の扉を開けてあげられなかった悲しい内容があった。

『私は25才のOLで、学生時代から5年間つき合った彼を自殺という形で亡くした者です。夢と現実に悩み、世の中の汚ないものに出会うたびに悩み、まわりの人たちに受け入れられず、誰とも話さずひとり悩んで逝ってしまったのです。

子供の頃に洗礼を受けた彼は、あまり熱心な信者とは云えませんでしたが、死を目の前にして、何かを求めたくて家出した彼が2週間程だって私の所に戻ってきてくれたとき、私の田舎と教会に行ったと話してくれました。

最後に教会の扉を開いた弱く小さな心になった彼に気付いてくれなかったのでしょうか。彼のような者がこの先どれだけ教会の扉をたたくかしれません。扉をたたいているうちはまだ救われると思うのです。心の弱い人たちに会われる機会の多い教会の方々や信者の方々にお願いしたいのです。どうぞ、見知らぬ人が目立たぬように立っていたら声をかけてあげて下さい。生の意味、生のすばらしさ、世の中のいろんな生き方などたくさんお話してください。お願いします。

彼の事から、苦しい心の持ってゆき場がなくて、教会に行くようになった私です。お祈りは行きますが、信者の方とお話した事はありません。神への信仰がうすい私はまだ、自信がないのです。』

福音宣教の中でも教会を母体にした宣教が最も変革されなければならないこの時期に、あなたの悩みさえ聴いてあげられない教会があるとは……。

イエズスは自分を求め近づく者に必ず声をかけられ生きる勇気を与えられている。今の教会は聖堂にイエズスを閉じ込め、信徒が建物を占拠しているように思えてならない。

ふだん着でひと言〔3〕

キリストと共に演じる宣教

シスター・カタリナ酒井に聞く

「キリストの愛の受難劇、救世劇をやりましょう。キリストは座頭で、いつも主役なんです。全人類が配役を受け持って、なにかそのお芝居に協力しなければならない。そうして朝目がさめた時が幕開き。床につく時に幕が降りる。その一日が勝負。『今日だけ』という聖テレジア様の哲学を、私も実践して行こうと思うのです。」

「私のライバルは当分、水谷八重子です。あの方は60年も舞台に出ていながら、初日は震えるんですって。私そういう真剣さが好きなんです。花柳章太郎だったと思うんですが、幕が降りてから、お客さまに合掌しているんですって。すばらしいじゃないですか。お互いに尊敬し合って、自分を見てくれる、分ってくれるということに感謝できるなんて。そういうのが私好きなんです。」

「劇作家たちは、人生のいろいろな角度からものを書きます。それに対して答えられないようなカトリックだったら宣教なんてできないのではないでしょうか。泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶ。いろんなカテゴリーの人々の心が、演劇を通じて分ってくるのです。私が演劇好きになったのは、神のご意志ではないかといばっているんです。」

「私たち宣教する者は、政治、経済、社会、教育、福祉などすべてを勉強しなければならないと思います。世の中を知らないで話すことはできない。カンドウ神父様には、友人が大勢いて知識を分け合っていらした。それぞれの専門をビールを飲みながら話し合って、最後に神父様が霊的にまとめられた。そういう宣教ができるようになってほしいと思うのです。」

「宣教というのは、終りのない、人々との楽しい出会いだと思います。『全員が座員』となって楽しくできるはずです。その点、日本のカトリック信徒は、もっと笑顔をもって、もっと気楽に声をかけ合って、もっと社交的に、もっと交際上手に!信仰生活はもっと面白いはずです。もっと趣味のおつき合いをして、そこから座談的に打ち明けられる関係をつくったらどうかしら。私の『教』では聖書はあまり使わないで、日常生活や『校外教授』の中で話をします。小唄でマリア様を賛美できるのは、世界広しといえども私1人ではないかしら。」

「この頃の教会は、急速にいい方向へ動き出していて、希望がいっぱいです。小教区の中だけに固まってしまわないで、キリストが座頭で全世界の1人1人がその座員になるということが、今わかってきたのではないでしょうか、日本でも。今こそカトリックの出番ではないかと思います。時間はかかるけれども、見通しは明るいと思います。-」

ふだんの真(ナマ)のご体験に裏づけられた力強い一言一言に力づけられた記者たちは、「『教え』が楽しみで、その日の朝の目ざめのうれしいこと-」とおっしゃる若々しいシスター・カタリナ酒井が、これからも益々お元気で、キリストと共に演劇を続けて下さるように祈りながら、夕暮れの修道院を辞した。

(文責 渡部)

私の体験〔3〕

出会い 俳優 森田順平

演劇の世界に居ると、自分を見失わないようにすることの大事さを日々痛感する。混迷している今の演劇界で、本質的に自分の求めているものが何であるのか-それを見極めなければならない。俳優という立場は受身になりがちであるために、それはなおさら難しく思われる。俳優こそ自分を一番見つめていなければならない仕事なのであるが、つい楽な方へと流されてしまう弱さが自分にはあった。

そんな時、私はある演出家とある女優さんに会うことになる。もちろん、それは1つの舞台を創るためであって、普通ならその舞台が終わると「また機会があれば」と言って別れてしまうのだが、この出会いは私の人生を大きく変えることになったのである。

あらゆる表現形式には観せる人への礼儀としての規律が、様式がある。今の演劇界ではそれが乱れ、野卑な媚びが大幅に横行する。その中で、美しい言葉と演技を求める我身への厳しい姿勢-このお二人の素晴しい感性が、出会いと共に私の魂を感動させた。

迷っていることを正当化して、いたずらにエネルギーを消耗していた自分に気づき、自分の魂の求めているものに出会った喜びは、その舞台の結果にも表われ、私は道を得ることができた。

ここで「出会い」ということを考える。あとになって私は森司教様から「心を外に向かって開き、自分の魂の要求にぴったりするものを求め、それと一体になることが出会いというものでしょう。」と教えて頂いた。私の仕事の場でのこの時の出会いはまさにそのお言葉に迫るものであった。受身でいては決して「出会い」には逢えないものだと思い知らされた。心を外に向かって開いていくことがどんなに大事なことかよく理解ができた。それは個人の向上心によるものであり、さらに言えば克己心につながるものである。自分の置かれている環境にどっぷりと浸り、それを客観的に冷静な目を持って見つめることもできず、すべてを環境のせいにして愚痴ばかり言っていては、いつまでたっても自分を律していくことはできないのだと反省した。そして、「出会い」はさらに高まることになる。

演劇上でのこの体験で出会ったある女優さんとは村松英子さんであり、村松さんがカトリック信者でいらしたことから今度は私が教会と出会うことになる。当時、信者でなかった私は村松さんと一緒に御ミサに与ったのだが、御聖体拝領の時「信者でなくても祝福して頂けるから一緒に行きましょう」と村松さんに言われ私は拝領の列に並んだ。そしてその御ミサの司式をなさっていた、当時神父様でいらした森司教様は丁寧に私を祝福して下さった。教会は信者だけの場所と思っていた私がその時どんなに感動したことか。それからというもの私は度々マリア聖堂での御ミサに村松さんと共に与り、この教会が外へ向かって開かれていることへ喜びを感じた。私の心も当然教会に向かって開かれていったのである。そして私の魂の要求が神に向かうことだと自覚するのに大して時間はかからなかった。村松さんの影響はもちろん、村松さんを通じてお会いできた素晴しい聖職者の方々や心優しい信者の方々の影響に心から感謝しつつ、私は歓びのうちに洗礼に与ることができた。

それまでの人生で最も大きな「出会い」を私は短期間で体験できたわけだが、自分が心を閉ざし自己を過信していたら、それは叶わぬことだったろう。しかしこれからが大変である。どちらの「出会い」も私に生きることの本質を教えてくれただけに、これからはかつての甘えを捨てて、物の本質を見つめる目をもっと厳しく持っていきたいと念じている。そして「我等を試みにひきたまわざれ」という主の祈りの中の言葉を常に心にきざんでおかなければと思っているのだが。

前述の森司教様の言葉には続きがある。「「出会い」の『会』が、愛につながる時はその出会いは、永遠の生の始まりとなり、永遠の世への道を開いていくことになる。」人格の奥底にある魂の深く溶け合う出会いであれば別れを超越して恒久のものになるということであるが、そこへ到達するためにはまだまだ努力が足りないように思う。

信者になってまだ日の浅い私が、このような場で随分生意気なことを書いてきたが、自分の求めるものをしっかりと自覚する美意識を育て、「出会い」を大事にする心を持つことでより良い信者になりたいものだと願っている。

おしらせ

新刊紹介
『信仰の喜びを伝えるために』(女子パウロ会発行)
著者 岡田武夫 定価 500円

明治に宣教活動が再開されて百年になりますが、数のうえでは、日本のカトリック信者は、全人口のわずか0.4パーセントにすぎません。日本の社会に福音を告げるということはどういうことか、またどのようにしたらよいのか、著者はこうした問いに正面からとりくみ、具体的にわかりやすく説明しています。

あとがき

ある幼稚園で昨年のクリスマスに、ひいらぎの葉を貼って「霊的花束」を作っていたある日、1人の男の子が、そっと先生の側に寄って来て、「んとね、ボクきのう、いいことしたんだけど、だれもいなかったの、かみさま見ててくれたかな。」と心細そうに話し出しました。それを聞いた先生はもちろん、ひいらぎの葉を1枚貼ってあげました。

この宣教のページも今回で3号。皆様の目にふれない所で活動していますが、私達もこの純心な子供の心を忘れずに、神の目を信じて、充実したものにする様努力して行きたいと思います。皆様のお祈りをお願い致します。もうひとつのお願いは、この宣教のページのことをひとりでも多くの信徒の方にお知らせしてほしいのです。ご感想をドシドシ編集部の方にお送りください。お待ちしています。

今月の編集、国富、市川、沢村、貝原、村岡、渡部、阿部、坂井、杉浦、寺村、宮澤