東京教区ニュース第58号

1986年05月01日

献金ありがとう

教区では61年度、宣教のための特別経費として、司祭特別研修費、福音宣教費、アジア司教会議費、広報部費など多額の支出が予想され、約1,200万円が経常収入で賄い切れない不足額となっている。献金などで何んとか工面したいとし、さっそく総会で呼びかけたところ、474,561円集まった。教区・財政部では心から感謝している。

第1回教区総会 サシの公聴会 宣教主体は信徒か 司教団は力の給油所か

教区は3月21日、港区白金・聖心女子学院で1986年度教区総会及び東京管区公聴会を開いた。司教団は、先に打ち出した「基本方針と優先課題」につき、1987年に開かれる福音宣教推進全国会議に向けて、信徒の声を聴き、その趣旨を徹底させたいと望んでいたが、教区としてこれに答えたもの。また、教区の宣教司牧評議会は昨年来、大司教が諮問した「福音宣教に関する課題」について答申の作成を続けてきたが、その過程で出合った問題点を8項目にしぼり、代表質問という形で、他は一般質問として司教団の考えを聴いた。応答には、具体的な方策を示すというより、対社会宣教の仕方に関する信徒の着想に期待、支持する色が濃かった。信徒の声としては、宣教をテーマの11分科会での話(次号掲載)がそのまま届く。その他討論会や講演会等盛り沢山で、参加者は700名を超え、遠く札幌、新潟などからきた人もいた。こんどの催しは、司教団とじかに対話-という初の試みであり、中身はともかく、接触を深めたものとしては評価されている。

会議は午前9時55分、教区事務局・辻神父による会場使用説明に続き、小宇佐、福川両宣司評委の司会ではじまった。会場を提供した聖心女子学院校長・Sr井上千寿子氏の歓迎の挨拶のあと白柳大司教が説教、「宣教に関わり合おうとして集まったからには、建設的に話し合い、聴き合って明日への活力を得よう」と述べた。
続いて司教団が登壇、相馬司教が公聴会の趣旨説明をしたあと、午前の部のはしらである「代表者による質問と司教の応答」にはいった。質問の要旨はあらかじめ参加者に知らされていたので、代表者からはむしろ質問の背景について説明をうけそれを参考にして司教団の答えを聴いた。そのあと予定時刻を大幅に越えていたが、小林宣司評委が午後に開かれる分科会につき説明、市川神父による懸賞文入選者の表彰式もあった。
分科会のテーマはいずれも宣教に関するもので、おもに信徒のナマの声を司教団に伝えるのが目的。なおこの時間、別室では討論会「信徒の役割と司祭の役割」、講演会「日本でなぜカトリックの信者は少なく、シンパは多いのか」も開かれた。参加者には疲労の色もかなり濃くなったが、再び一堂に会し、渡部、国富両宣司評委の司会による、「自由質問と司教の応答」にうつった。代表質問にせよ一般質問にせよ、司教団の応答はやや具体性を欠くものがあり、中にはピントを外れたものや弁解に近いものも見られ、教示を求めた者の内には失望した人も出た。これは解決をむしろ信徒の、「時」の着想に期待している姿勢ともとられ、かえって奮起する人もいたが、司教団と差しでやりとりできた意義は何よりも大きいということだけで満足すべきかの声はやはり-。

代表質問

◇応答司教団・白柳大司教、相馬司教、佐藤司教、森司教。

1、「福音宣教における司祭の役割、信徒の役割、固有の召命の自覚」に関して

(質問 杉田  稔・葛飾)
(応答 白柳大司教・東京)
福音宣教における司祭・信徒の役割はどうあるべきかという視点から、今後の司教団の指導力に期待して司祭の立場で次の質問をする。
1、第2バチカン公会議から20年を経たが、日本の教会、各司教区の歩みについてどのように評価しているか。
2、「基本方針と優先課題」を浸透させ、実現を図るには様ざまな障害を乗り越える必要がある。その中には司祭の手に余る課題も多々あるが、司教団は問題を自らの責任で取り除く指導力をどのように発揮するか。
3、現在、管区、司教区、小教区において種々の討議が行なわれているが、その成果、事例報告など、具体的指針を周知徹底させるための方法について司教団の考えを聞かせてほしい。
▽(1)楽観的、悲観的の両方の見方がある。第2バチカン公会議によって日本の教会も沢山の成果を得たが、その精神が徹底しないところが多く見られる。信者は典礼にも積極的に参加するようになったし、教区レベルでも色いろな機関が設けられ、教会内外の諸団体とも協力して現代の悩みに答えている。しかし文書などが再三出されているにもかかわらず、必ずしもすべての人びとに公会議の精神が広くゆき渡っているとは思えない。
(2)障害は1つにかかって公会議の精神が理解されていないところにある。とくに古い司祭の中には、頭でわかっていても心で感じない-、心で感じても行動に移せない-者がいる。方向転換はむずかしいが、それにはまず司教団と司祭団が一致することが必要である。
(3)この公聴会のたぐいのようなものを多く開いて信徒の意見を吸い上げ、指針は全国レベルでも教区レベルでも新聞などの出版物や書簡等で知らせることを考えている。

2、「地域社会に対する小教区の宣教のあり方、工夫」に関して

(寺田公之・西千葉)
(佐藤司教・新 潟)
私たちが積極的に日本の社会の非福音的部分に立ち向かってゆこうとするとき、多くの困難に突き当るが、それを克服する手段として次の質問をする。
1、地域社会にとらわれず、職域や専門域での人間的なかかわりを重視したグループを、新しい教会共同体として扱う可能性はないものだろうか。
2、家庭と職場とを持つ社会人(婦人も含む)がさらに宣教に立ち上ろうとするとき、場合によって家庭や職場の地位を犠牲にしなければならない。この現実に対して司教団はどのように指導しようとしているのか聞きたい。
▽(1)出来ればそれにこしたことはない。勤め先などで信者が自分1人しかいない場合、グループの作りようがないが、職域、専門域となると仲間が集まって協力し合うこともできる。司教団としても全面的に支持する。
(2)宣教の第1の場は、生活しているところ、働いているところである。犠牲も大切だが賢明さが必要である。教会への奉仕のために家庭や職場での地位がメチャメチャになるのではもとも子もない。

3、「日本社会に対する宣教のあり方、可能性があるのか、その方法は?」に関して

(渡部 真・上野毛)
(相馬司教・名古屋)
各おのの教会では活動グループがあるが、これらのグループや個人が孤立することなく、有機的に働いてこそ、日本社会に対する宣教の可能性が生じると思われる。そこで福音宣教のための3つのネットワークづくりについて、司教団の理解とバックアップの見通しを伺いたい。
1、「カトリック・シンパ」の人々への集中的宣教のために、フォローアップや工夫などを行なうネットワークづくり。
2、現代の人々に一番必要なことを敢て伝える「辛口の宣教」のためのネットワークづくり。
3、マスコミ、マスメディアを使ったネットワークづくり(7で質問)。
▽(1)すばらしい提言ですべてOKである。教会には教皇や修道会の総長を中心とする本来のネットワークがあり、2千年来有効に働いてきたが、現代はそれだけでは欠けるであろう。
(2)「辛口の宣教」とは旨い表現だが、犠牲を伴う行動から出た言葉が必要である。平和運動でも、人に悪口を言われながら、手弁当で何か具体的なことをやる-。本当のネットワークづくりは、まず活動のネットワークから出発するのが現実である。

4、「宣教における家庭婦人の役割」に関して

(一藤 甫・荻窪)
(森 司教・東京)
日々忙しい家庭婦人のなかにも自発的に宣教に携っている者もあるが、全体的なものにならないのが現状である。司教団が家庭婦人に望まれている考えをも含めて、次の質問の具体的方向性を聞きたい。
1、婦人の霊性を高めるために婦人たちが比較的自由になる時間帯を選んで、聖書講座や福音的講演会等が行なえるよう、小教区への指導ができないものだろうか。
2、同じ目的や悩みを持って集まった婦人のグループを画一化しようとせず、司祭自らこれを認め、励ましてくれるよう小教区へ働きかけて貰えないものだろうか。
3、PTAの仲間、近隣の婦人たちと趣味や特技を生かして集まり、気軽に教会の門をくぐって貰うために、教会の施設を自由に利用することができないものだろうか。
4、悩みを持つ婦人たちに気軽に紹介できる「宗教色の薄い、具体的悩みに触れた」出版物を司教団指導のもとに発行できないものだろうか。
▽(1)教会に出入りすることだけで婦人の霊性が高められると考えるのはあやまりで、宣教のゆきづまりはまさにそこにあると思う。暮しの中の苦しみに関わり、闘いに勇気を与える言動こそ宣教であり、神に近づく道であるとの確信が必要である。生活の根っ子に足をおいた祈りが新しい霊性として要求されている。その意味で、単なる聖書講座などではダメである。またそのための新しい指導書は下から出てきてよい。
(2)同じ命のしがらみで、苦しみをともにする小グループが沢山生まれてよい。司祭もそれを援助すべきである。

トキの着想に期待も

5、「宣教におけるミッション校の役割」
6、「青少年を引き寄せるためには」に関して

(国富 佳夫・関口)
(白柳大司教・東京)
(森  司教・東京)
物質的価値観が優先し、人間性重視が失われつつある現代社会にあって、青少年育成問題は明日への社会構築のために欠かせない問題である。こうした現代社会にあって、教会が福音的視点から、人間性豊かな青少年を育てるためにどのような手段を考えたらよいのか。また、こうした課題について、日本の教会全体が問題の本質を福音的視野からどのように回心していくべきなのか(1)教会のあり方(2)教会学校の方向性(3)ミッションスクールの指導方針について具体的なプランを聞かせて欲しい。
▽ミッション校が宣教において今までに果してきた役割は大きい。入信や改宗した人の動機の大部分は、何らかの形でこれに関したものである。このように確固たる信念をもって教育にあたる姿勢は世間でも高く評価されているが、同時に公共機関として存続させられ、法的な規制をうけているので本来の使命を100%発揮するのは大変むずかしい。
司教団としては、カトリックの理念に基づく教育の改革を政府に提言するなどしているが、カトリック者の子弟だけを入れるということも法の精神からできないし、結局、役割は予備宣教の場を提供するということになる。ただ教師の不足などの問題は修道会同士で助け合うことが必要である。進学校と化しているとの声もきくが、そうでもない。また停学や退学等の処置についてであるが、それらがないほうが教育的であるとは必ずしも言えない。不平をならべるより、励ます姿勢をもつことが肝要である。(白柳)
▽青少年育成に関して、東京では教区に「教会学校部」をもうけ、リーダーの養成に力を入れたことが効果的であった。しかし、特に中・高生を対象とした指導者が足りないとか、就職の度に変るなどの困難がある。数はともかく、青少年の要求の多様性に対応し切れないという質の問題はより深刻で、この点信徒の多方面からの協力が絶対に必要である。(森)

7、「宣教のための広報活動、出版、雑誌、その他」に関して

(小林又三郎・徳 田)
(相馬 司教・名古屋)
人間が疎外され、理想を失っている日本社会に、教会が福音的価値観を伝え、広げていくためには、マスコミと出版物が重要な役割を持っている。次の質問をするので、司教団の指導方針を聞かせて貰いたい。
1、教区レベルで専門委員会を設置し、マスコミを通じて日本社会にタイミングよく社会問題を告発し、福音的対応を呼びかける宣教活動ができないものだろうか。
2、出版に携る信徒団体、修道会が連携を深め、読者層を明確に定めて特徴ある編集、企画を行なうことによって信徒が宣教に使いやすい図書の出版やビデオテープの製作ができないものだろうか。
▽(1)マスコミの大切さはいうまでもなく、提言の内容も理想的だが、とくに教区レベルではむずかしい。質問の答としては少しずれるかも知れないが、カトリックのテレビ放映はよくやっているし、カトリック新聞も出ている。今あるものを育て、よく利用するという姿勢が大切である。タイミングよく社会問題を知らせることは絶対必要だ。
(2)全国レベルとしては、出版に携る修道会などを中心に教会のマスコミ関係者が横の連絡をとり、集まって話し合うことが必要である。これらは、司教協議会内の広報委員会やそのもとにあるカトリック出版連絡会などがすでにやっていることであるが、提案を尊重し、司教団としてもう一度考える。

8、「宣教推進のための祈り、犠牲、殉教者へのまねび」に関して

(小林章雄・船橋)
(佐藤司教・新潟)
全ての信徒はどのような状況におかれても、同じように霊性の問題に参加できる権利と義務がある-と言われているが、このごろ、教区や小教区によって少なからぬ違いが見られるように思う。白柳大司教はこの諮問に際し、たとえ身体の不自由な人であっても、観想修道会の人びとであっても、祈りと犠牲によって福音宣教に参加されるよう希望された。この点から次の質問をする。
1、福音宣教のために、祈りや犠牲を捧げることの価値、それらを奨励する必要について、司教団の考えを聞かせてほしい。
2、現在は新旧様々な祈祷書があるが、どの共同体でも使え、家庭でも使える全国統一の祈祷書が1冊あってもしかるべきだと思うが、司教団はどのように考えているのだろうか。
▽(1)祈りや犠牲の必要性はいくら強調しても足りない。宣教の第1の働き手は神であり、神は我われの必死の願いに答えてくれるものである。しかし、おん父の望みどおりに生きるためには同時に大きな犠牲が必要である。
(2)全国統一の祈祷書は、只今、司教団で検討中である。「教会の祈り」もまた大切にしてほしい。

手べんとうこそ底力

一般質問
◇応答司教団・白柳大司教、相馬司教、浜尾司教、島本司教、佐藤司教、森司教。

【立川】(東金)-さきほど婦人の霊性についての答弁のなかで、聖書講座や福音的講演会ばかりだとゆきづまるというようなことをいわれたが、宣教の立場から、聖書に対する考え方としてどうかと思う。カトリックはプロテスタントと比べて聖書を軽んじる-とはよく言われることだが、聖書はキリスト教の根本である。宗論などへの知的な備えとしても、そのための時間は必要なのではないか。
▽聖書を軽視しているわけではない。体験による聖書の理解を積極的に生み出してほしいと言ったまでだ。講座や講演は教導者から拝聴するものが多い。誤った「司祭は牧者、信徒は羊」の発想は転換すべきである。ダイナミックな生活の出来ごとの中で、喜びとして自分はこういう言葉でキリストを理解したというやり方が望ましい。(森)
【新井】(横浜・片瀬)-信徒の司祭職という視点から、特にミサの聖変化や閉祭の儀の典文や祈りの中に、宣教への意欲を起させるようなものを入れて頂きたい。
【伊藤】(秋津)-子どもたちがミサの言葉を理解して参加しているかどうか疑問である。色いろ工夫している小教区もあるらしいが。
▽(1)宣教の意欲を起させるような典文や祈りは、すでに典書にのっているので自由に選ぶことができる(2)子どもとともにささげるミサの指針については、典礼司教委員会の訳したものが、奉献文については司教協議会の認可したものが出ている。言葉の祭儀の時、子どもだけ別室でやることもできる。(白柳)

アミか1本釣か

【高橋】(高円寺)-都心の小教区の建築物など、これからは効率的に建てられると思う。祭儀や司牧に必要なものを確保するのは当然であるが、信徒のために活用することも考えられないか。例えば信徒が「修道的」な生活によって人生の仕上げをしたいというようなときの場としてなど提供できないか。
▽教会の財産は先輩が取得したものであり、よりよく活用すべきことは論をまたないが、小教区を真の宣教共同体とするためにこそまず運用されるべきである。それには教会を信徒のためばかりでなく、地域にも開かれた場とすべきである。宣教の拠点を他に求めるためになら、売却することさえある。(浜尾)
【田坂】(洗足)-司教団は宣教のために、たとえば(A)小教区などの母体を充実させる(手うち網)(B)生活の中で手をとりあってゆく(と網)(C)1人ひとりの暮しのうちで(1本づり)-のどれに力点を置くつもりか。
【阿部】(関口)-司教団は私たちの中に降りてきて、現場に行って苦しみ、一緒に行動してほしい。みな奮起するだろう。
▽(1)大切なのはどれにきめるかよりも、何が望まれているかを探ることである。宣教は基本的には人との出合いを大切にし、1人ひとりに心をうつしてゆくことだと思う(2)現場と切れない配慮は必要だが、宣教の主体はあくまでも信徒である。司教団は、その活動に恵みと光を供給するガソリン・スタンドのようなものではないか。(相馬)
【津賀】(豊島)-(1)社会の福音化に関して、たとえば難民定住促進、靖国神社国営化反対、核兵器廃絶、外登法改正、被差別部落解放などにつき、司教協議会や社会司教委員会で一致して決定したことを、推進機関を常設したり、責任者をおくなどしてフォローアップしてゆく仕事が不充分ではないか(2)各司教区において、司教協議会ないしは社会司教委員会で決定した事がらを、より深く教区民に浸透させ実施してゆく継続的な活動が微弱ではないのか(3)各司教区で、一部の司祭や信徒が行なっている社会の福音化についての活動に関し、それをより司教区の広範にひろげてゆく努力はどのようになされているのか。
▽(1)フォローアップや継続性が弱いといえば弱いところが確かにあったと思う。ただ難民問題では司教団として難民定住委員会を設け、各小教区や修道会などに呼びかけている。指紋押捺や外登法の問題についても関心が高まってきたが、継続性をも含めて充分とは言えない。これについて司教団はこれからも更に考えてゆきたい(2)各教区によって違う。それらのことを担当する特別の委員会が設けられているところもあれば、その都度対応する委員会を作るところもある。東京は特殊な状況にあるため、たとえば正平協でも全国的なものとは別に教区の正平協を作るのは簡単でないが心がけてはいる(3)確かに一部の人の働きで全体にまでいっていない。これをなくするため司祭の集まりなどでこの種の話をし、互に啓蒙し合うつもりである。今年計画している司祭の特別研修会でも、とくに「分かち合い」の時を設けている。(白柳)

草の根姿勢から

▽横浜でも正平協のグループがおもになってやっている。各部門の担当司祭もいる。活動も神奈川県だけではなく、静岡、山梨、長野の各県で芽生え出している。しかし地域性にもとづいた社会の福音化が何よりも大切であるし、また関心もある。中央で決めたものがその地域で具体化することをあまり期待しても仕方がない。むしろその地の特色を生かしたい。(浜尾)
▽司教団がうごくことも大切だが、上にまかせておくという気のでる危惧がある。運動は草の根から起らなければ散発的になるし、下がになってゆく姿勢こそが大事である。司教団のすべきことはむしろ励ましで、実際的な働きはやはり「よし俺たちがやろう」という個々のメンバーによってである。(相馬)
【黒田】(関町)-(1)特に「司祭の役割、信徒の役割」など、8項目全体にわたって質問の形態が制約的、限定的で問題がある(2)宣教は外的成果を狙うだけではダメである(3)信徒にとっての救いは、信仰をうけ入れるからではなく伝えるからである。
▽(1)貴重な意見としてうけたまわっておく(2)司祭は信徒に任せてよいはずのものを、背負いすぎていて、やるべきことをあとまわしにしている。司祭の役割は、何よりも宣教できる信徒の養成である(3)信徒を目ざめさせるためには信仰の正しい理解が必要である。真理を貰って守っていさえすれば救われるのではない。他者の救霊にかかわることによってこそ、自分も救われるのである。(島本)
【松本】(横浜・大船)-信者になるには1年近く教会に通わねばならぬという関門がある。洗礼に必要な最少限度の信仰で秘跡を与え、喜びの中であとから教育を-というのはどうか。
▽たしかにそういう方法もあってしかるべきである。(佐藤)
(おことわり 都合により関連質問の一部は省略しました)

討論会 信徒の役割・司祭の役割

討論会の部は本館3階の多目的室に約100名の方が参加して行われた。テーマは「信徒の役割と司祭の役割」。パネラーは信徒側より井上英治氏(町田教会)、村田増雄氏(千葉寺教会)、司祭側より後藤文雄神父(吉祥寺教会)、相馬信夫司教(名古屋教区)の方々で、西村英二氏(成城教会)の司会で進められた。内容は全てをお伝えできないので、一部を要約させていただいた。

もっと自覚を 後藤文雄神父

後藤神父は1960年に叙階後、12年間の吉祥寺教会主任を含め17年間の経験から、4つの場において信徒に対するするどい指摘を次のように語られた。
1、「家庭の場について」
人間を社会の歯車として生産価値があるかと見る価値評価が家庭の中まで持ち込まれ、子育ての時から結婚に至るまで子供たちは現状に「立ち向かう姿勢」が欠如している。
こうした社会の傾向に勇気を持って抵抗できる家庭を作るために、まず親たちが弱い立場の人たちと共感し、その人たちの痛みを感じ、その人たちと皆が連帯しているのだということを、体で子供たちに示すことができるようになって欲しい。
2、「社会と労働の場で」
軍需が拡大し、第三国からの搾取が行われる日本社会において、会社人間であり、もう一方で善良なキリスト者であることに痛みを感じないとしたら、果して本当のキリスト者の感覚であろうか。
私たちが、自分の中にある二重人格性を感じたならば、「仕方がない」と片づけないで、罪の意識を痛感したい。痛みを感じながら、社会問題、人権問題、核問題に参加して欲しい。
社会は信徒にとって祭壇である。社会という祭壇に立って自分の苦しみを自らをいけにえとして捧げるならば、信徒は立派な司祭職ではないだろうか。
3、「日本文化を支える場において」
日本の文化は尊重されなければならないが、その一部には教会を圧迫している事実もある。文化をただ鵜呑みにするのではなく、批判的精神を持って見ていただきたい。
靖国問題など、信徒がもっと考え、働く場は多いと思う。
4、「教会生活の場で」
傷を癒していただく受け身の「慰め型」、罪を許され傷をなめていただきいい気持になる「免罪符型」、また新しい戦う力を備蓄しようとする「基地型」、仲間作り互いにまあまあで終る「仲間型」など、教会への信徒のかかわり方はいろいろある。どれが一番よいとは言えないが、福音宣教になにが役立つか考えて欲しい。
一般的に信徒は司祭に依存が多すぎる。例え同じ事を言ったとしても司祭ならさらに、司教ならもっとありがたみを感じるという権威づけが、信徒の甘さを生みだしている。
司祭を育てるために、例えば説教に対する意見など、司祭に意見を言ってほしい。特に社会的地位の高さや評価がそのまま教会に持ち込まれて教会役員になることなど、信徒自身が考え変革することが望まれる。

神父の後に神がいる 村田増雄氏

後藤神父の手厳しい意見を受けて、氏自身の経験を語られた村田氏は、司祭に望む前に信徒が反省しなければならない事態を指摘された。
「昔からの信者の方々は神父を含めて封建的で、ラテン語のミサにありがたみを感じるようなところがまだある。新しい方だが、かえって知らない方が今後のために、と神父から誘われて教会運営を引き受けた翌日から、「受洗からたった1年で委員長を引き受けるなんて…」との電話がしょっちゅうかかり、女房がノイローゼになりました。
こんなことではいけないと、いきさつをみなさんにお話ししましたが、協力者は1人もいませんでした。しかし、皆が集まれる場所をと地下ホールを作るなど、一つ一つ積みかさねていくうち、次第に皆が積極的になってきました。
それから7年、今では教会を建て直し、他に誇れる千葉寺教会になりました。」
と前置し、信徒の役割として、
1、福音宣教は自分たちの小教区が天国であるように、しっかりと固まっていなければならない。今の教会には魅力がない。魅力ある教会には皆が寄って来る。まず、教会作りから始めるべきである。
2、信徒の役割は司祭を助けることである。信徒は皆それぞれ社会の中で、猛烈人間として働いている経営のプロであるから、教会運営を信徒の手で積極的に行う姿勢が必要である。
と2点を強調した。さらに神父に対し、
1、神父の教会と疑いたくなるような忙しさから、信徒をもっと活用することによって自からを解放し、背後に神の存在を感じる神父であって欲しい。
2、神父が代わると教会全体がガラッと変る。許可されていた事が新しい神父によって否定されることがある。これは大問題ではないか。教会運営は神父が代ろうと変るものではない。
と神父に霊的な深さと意識の変革をうながされた。

牧者に徹せよ 井上英治氏

井上氏はフィリピン情勢のテレビ報道に触れて、マルコス軍と民衆の間に入って一生懸命民衆を説得する神父の姿に村田氏から指摘のあった魅力をいっぱい感じた、と村田氏の発言を受けてミンダナオ島ダバオ郊外にある信徒使徒職が大胆に展開されている教区に滞在した経験を語られた。
「司教館に泊めて頂いていた私は、ある日、夕食後司教に誘われて教区立病院に行きました。そこは、本当に貧しい人がいっぱい入院していました。看護婦さんと共に全ての病室を回りました。どの病室に入っても、司教は看護婦さんに“この中で重病の人は?”と尋ねられるのです。
ある小児科病棟に来た時のことです。重病の子供を抱えた母親と本当に手を取り合い、痛みを分ち合って、いっしょに祈ろうと言っておられました。その姿は牧者そのものです。その時、私は司教といっしょに帰るつもりでいましたら、司教は私にこう言うんです。“あんたは1人で帰りなさい。私は今晩この母親と共にいる。”この司教はもう65歳を過ぎていられるでしょう。
こういう司教のもとには神父も集ってきます。信徒も修道者も集ってきます。事実、教区事務所に入ってびっくりしました。そこにいたのは信徒ばかり、財務から全ての仕事を信徒に任せているのです。それでそこは基礎共同体と呼ばれる運動が盛んに行われているのです。」
井上氏はこう語られた後、神父、司教は牧者に徹することを強調され、そこに魅力ある神父像があると結ばれた。

信仰に自信を 相馬信夫司教

「「牧者たれ」と言われましたが、キリストの言うことには2つのことがあります。
“われに従え”と言うことと、“おまえを遣わす”、つまり“私と行こう”と“先に行け”ということです。
宣教とはまさに“先に行け”と言われた事であり、“私が行こうとする所に、まず、行って来い”という事でしょう。
今日の日本の問題は教会があまりにもじっとしている、教会が司牧型になりすぎたのだと思います。教会の中に生きる司牧ではなく、未信徒の中に生きるのが教会です。
1000人に4人の信徒(日本における信徒の率)のために教会があるのではなく、4人が996人のために世話をし教会を開くのです。これが日本の司教団の発想です。」
パネラーとして最後に発言された相馬司教は、司祭中心になりすぎている日本の教会に反省を促しながら、4%の信徒に指針を示し、次の4点を強調された。
1、信徒として自信を持つこと。2000年の歴史と教皇、司教と司祭そして自分が一体となって動いていることを自覚することが大切である。
2、信仰の核心をつかむこと。キリスト教はもっとも簡単な宗教である。キリストが言ったことは「父なる神はあなたを愛している」とそれだけである。父なる神は命がけであなたを愛し、そのために自分の子を十字架上で死なせたのである。
3、キリスト教は簡単な3つの文章で言い表わせる。
「父が私を愛したように、私はあなたたちを愛した。私があなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。」
4、宣教は「あなたも愛されています」ということを伝えることである。
信徒の中には絶対に自分たちは宣教ができないという確信が強い。理由は公教要理や聖書の複雑で高尚なことを人に教えるために大変な勉強が必要であると思っていることである。「神が私を愛してくださった」ということが本当に分っている人には、宣教をする資格がある。
最後に相馬司教は、「信徒はキリストの福音をなるべく短かく、中心をぎゅっとつかむことであり、それを持っているから宣教できるという確信を持って、周りの人に親切にしなさい。」と重ねて強調し、「新しい発想と創造性を持って、教会を、自からの力で発展させて下さい。」と期待をされて発言を終られた。

現代社会に罪の意識を 討論より(敬称略)

司会 パネラーの方々に意見の補足をいただいた後、参加者の意見をお聞きします。
井上 私の神父は司牧者司牧者であってほしいに対し、相馬司教から従来は司牧者になりすぎたとの指摘がありましたが、その通りだと思う。ただ私の考えるところの司牧の牧する郡は小教区にとどまらないで、その地域全体、さらにアジアの人たちと共に生きるようなことを考えるのはどうなのだろうかと、そんなことを考えて一言付け加えたい。
村田 後藤神父から二重人格という話がありました。日本の社会では二重人格にならざるを得ない人がたくさんいるような気がする。
私が迷って相談した神父は「バランスの問題だ」と言われた。私もバランスをうまくコントロールすることによって教会と社会の両立ができるんじゃないかと思う。
相馬司教の教会は4人以外の人のためにあるとの発言はその通りだと思う。しかし、4人以外の中に、日本には多くのカトリックシンパがいて教会に行こうと考えている。このシンパを神父の人格に触れさせるために、私たちの手で教会にひっぱって来ることをしなければならないと思う。
司会 井上さんは司祭は司牧者であれといい、司教は、いや現場であるからそれも信徒の仕事であるという。
村田さんは二重人格ではなくバランスで生きる方法もあるといい、後藤神父は二重人格になるような心の痛みを感じ、せめて罪の意識を持つことが信徒の社会における司祭職だと言われる。
こうした生き方の違いについて神父から発言をどうぞ。
相馬 私は司祭、信徒の両方が一体になってやることが必要と思っている。今まであまりにも信徒は司牧される人、神父はする人で分業がはっきりしすぎていた。これをこわしたい。
大事なことはいくら宣教しても教会に来てがっかりしたのじゃしょうがない。来たら楽しいという教会を作るのは司祭と信徒の共同作業だ。
その意味で、井上さんは広く解釈している。強調したいのは、司牧する人、される人に分かれても困るから、外に行きましょうと言うと司牧はうまくいく。外に向いている教会ほど教会はもっと和気あいあいになっている。
後藤 私の父は浄土真宗の僧侶だが、私自身カトリック神父になって二重人格を大いに生きていると感じた。でも私はバランス感覚という名の自己欺瞞にごまかしがあると思う。むしろ、二重人格性の中で罪の自覚が本当に体験されて、そしてゆるしの体験がある繰返しを生きて、はじめて福音宣教の基ができるんじゃないかと思う。自己欺瞞がアジテータ的発言かも知れませんが気を悪くなさらないように。
井上 私共は機能優先の時代に生きていて、私共の価値観全てがそうなっている。これを元に戻すことはまず不可能だ。従って、本当にわびる心の形を自分の中に強く根付けない限り、罪の自覚を体験するようなことを意味づけることはできない。だから、そんな自分が生きている不思議を感謝しながら生きるために、キリスト教が必要であり、その信仰を生きていくということではないか。
村田 バランスに火をつけた役として一言。たしかにわびの心は必要だし、そういう心の大切さも分っている。しかし、これから教会に呼び寄せようとする人に、そう言う話をしたら、「それでは死ぬ時に入信する」と言うと思う。
現実に、福音宣教をするならば、バランスの問題ということで解釈せざるを得ないし、平たく言わざるを得ない。この点誤解のないように。
司会 4人の方の討論はまだつきないでしょうが、この辺で参加者の意見を伺いたい。
馬場(荻窪教会)日本人は階級に対する忠誠心が強い。相馬司教の発言にもあった通り、原点にたちかえって、司教団の福音宣教に対する意識を鮮明にして、全ての司教、司祭、信徒にその趣旨を生かすよう徹底願いたい。
安室(木更津教会)私たちの教会では神父が一切をしておられる。2年前から信徒の活性化について神父と話し合っているが、教会運営の基本的なマニュアルがあると参考になる。
黒木(大宮教会)以前から、司教に信徒の声を是非聞いてほしいと願っていたので、この公聴会はよい機会に恵まれた。東京教区では、小教区で多くの話し合いが行われ、それが積上げられてここまで来たと思うが、大宮教会でも、ここ数年信徒の話し合いの機会が多くなっている。
大宮教会では教会運営をすべて信徒が行っている。すべて信徒にまかせるという英断を小教区の神父が持って頂けるような教会同志の交流も考えてみてはどうか。
西村(土浦教会)私たちが宣教のために働くためには、信徒として聖霊に満されていかないと、自ら喜びを持って福音を宣べ伝えることはできない。論議する前に聖霊の力を頂くことが先決だと思う。
野田(日立教会)村田氏の司教や神父は霊的に精進してほしいとの発言に関してですが、神父でも信徒でも心の触れ合いが必要だと思う。その中で分担し合って共同体の一致がある。(村田氏の発言のように)分けてしまうと、今でも近づきの少ない間が、さらに離れ、神父とは霊的な問題、聖書の話しができないという観念になってしまうのですが。
悩みを皆と分ち合い、司祭と心から話し合える魅力ある一致した教会の土台作りの方が宣教に必要ではないのか。
村田 野田さんの発言もっともである。舌足らずだったのですが、司祭、神父が雑用を離れてということは、できるだけ教会内外の人に接触してほしいと言うことである。
信徒が自主的に開く集まりが沢山あるが、教会運営と雑用で参加できないことのないよう、私たちがその時間を作るべきだと言う意味だ。
神父には教会に来る多くの方たちと本当に手をとり合ってスキンシップをやって頂きたい。

教区総会をアンケート結果に見る

東京教区総会を兼ねた東京管区公聴会は3月21日聖心女子学院で開催され、約800名の参加者の声を質疑応答で、分科会で、討論会で集約することができた。
その中でも、当日参加の方々に書いて頂いたアンケートには、日頃思っていられたこと、考えていられたことが生の声として浮彫になっている。
そこでアンケートのまとめから気付いたいくつかの問題点をとりあげてみた。

左のグラフは当日アンケートを提出された方々の年齢別構成である。白抜部分は司祭修道者の数である。
今回の公聴会は教会の運営に当っている男女各1名とブロック会議員、自由参加の方々で構成された。グラフはその状況を示している。つまり、いかに高年齢者が多いか、である。この点を討論会の発言の中から見るならば、「教会委員、役員は社会的地位や評価が要素となり、長くその教会にいる人で、権威づけのできる人」となる。その結果、「神父が代ると教会役員まで方向性を失い、信徒と遊離し、新しい発想と創造性に乏しい教会」になってしまうことにならないであろうか。
アンケート意見の中で、20代30代の方が、「高年齢層が多くギャップを感じた、教会は若い人のニードに答えられないから取り残される、年寄は理屈だと言って若者の死活問題を全く顧みない」と書かれていることに注目しなければならない。
下方のグラフは司教団との質疑応答について、公聴会に参加した理由を表わしている。
一般にこの種の質問は関心がないと「よかった」にほとんどの方が印をつける。今回この傾向が変っていることに参加者の福音宣教への関心がいかに高いかがうかがえる。
結果では約3人に1人が何らかの疑問を持っていると見てよい。意見を見ると、「司教団の答えは立場上やむを得ないのか」と前置をしながらも、「具体性に欠ける、分りにくい、迫力に乏しい、本音がほしい」等、もっと司教団に期待していたことが分る。
一部に、司教団の司祭への指導と教会運営の具体的指針を求める意見があることを、司教団は忘れてはならない。
公聴会に参加した理由、「役目がら」にはほとんど印が付かないのでは、と考えていたが、答えの重複率約19%で30%ちかい方が印をつけられたことをどう考えたら良いのだろうか。もし、この公聴会が自由参加であったのならば、例え責任ある教会役員であろうとも、出席しなかったと受け取っても良いのだろうか。
代表質問の最初に、司祭研修にも信徒研修にもいつも誰も出て来ない教会がある、との発言が思い出される。
「これからもこういう機会が欲しいですか」との問にはほとんどの方が欲しいと答えられた。意見にもそれが反映している。「画期的、泊りがけでもやりたい(20代)、宣教の多様性と本質を知ることができた、今後も続けたい、定期的にこの形式でよいから続けて欲しい、小教区に帰って次の総会参加の準備をしたい(40代)、大変有意義だった、司教団と共に話し合えるから続けて欲しい(60代)」と期待する声も大きい。
一方、運営面でも反省させられる多くの意見を頂いた。宣司評で検討し、これからの参考としたい。

懸賞文入選作発表(続) 宗教教育を通して見た福音宣教

お告げのフランシスコ姉妹会シスター 熊田昭子

今から何十年か前、学校卒業後に受洗した私は感激にひたりながら、このすばらしさと喜びを出来るだけ多くの人々に伝えたいという気持ちにかられた。このために私の人生の進路はすっかり変り、予期していなかった教職そして更に修道生活によってこれを実現しようと思ったのだった。当時確かに宣教熱にかられていたことに疑いはない。しかし今思うとキリストを伝えるという美名の下に、実は教会伝来の教えを伝えていたような気がしてならない。
公会議後福音の重要性が叫ばれるようになり、私も幾つかの大人の宗教クラスを受け持つようになって、単なる公教要理というより生活に密着した福音を伝えようと努めた結果か、比較的多くの受洗者を出すことが出来るようになった。それに気をよくした私はひそかに福音宣教に自信を感じ始めていたのだったが、最近任命された新しい仕事、高校生の宗教を受持つようになって、この事は完全に粉砕されてしまったのである。
それはあるカトリック女子高なのだが、私も過去に多少の経験があるとはいえ現代の高校の宗教科を受け持つのは初めてだったので、不安も大きかった。初めは生徒の方も物珍らしさと緊張が手伝ってよく話を聞いてくれたから、これならいけると大いに希望を持っていた。ところが回を重ねるに従って授業中の私語が目立って多くなり机にうっ伏して意識的に眠る人、内職をしている人が増えて来るようになった。私自身学生時代に宗教の時間に反抗したことがあるので初めは同情的に見て見ない振りをしていたのだが、あまりに失礼な態度に湧いて来る怒りをどうすることも出来なくなった。もう宗教の話をするどころではない。注意をする。すれば言うことを聞かず反抗的な眼つきで一瞥を返す。この悪循環は夏休みを過ぎるとますますエスカレートしていった。ある日、内職の生徒を咎めようとしたら、その生徒は突然ノートを破いて紙玉をつくり私めがけて投げつけた。隣りの生徒は、これもまたいやと言う程ノートを机にたたきつけてうっ憤晴しをする。あきれた私が茫然と立ちすくむと残りの生徒が嘲笑を浴びせる。一体生徒達は何に不満があるのだ。私は何も悪いことをせず、一生懸命キリストを伝えようとしているのに……収拾がつかなくなった。
生徒たちは実際自分達がしていることが分からないのだ。私は教師や修道女の身分を根底からくつがえされ、赤裸にされてしまった。生徒達が何に不満を感じているのか分からなければならないと思い話し合いの場を持つことを決心した。いざとなれば誰も勇気を持って話せないのだが、それでも生徒達の言ったことはこうである。「(1)自分達は小学校の時から宗教を聞いているので、あり来たりの宗教の話は聞きあきてしまった。面白い話をしてくれる塾の先生の方が余程よい。(2)先生の叱り方が悪い。」などなど。私はどんなことを言われてもひたすら聴くことだと思っていたから至って平静だった。よく考えて見れば生徒の言い分は私個人に対するよりも長年うっ積していた宗教教育と厳しい規則の中におかれたいわゆるカトリック学校のあり方に対する反抗のようだった。とするなら私の生徒理解は全然出来ていず、一方的な押しつけだったと言うことになる。
それからというもの、たとえ教務がどうであれ私は成るべく生徒の要求を容れられるものは容れて、現代感覚と現実を交えて人間や人生を考えてもらう時間にしようと思うようになった。
それから不思議なことに生徒達は静かになってしまった。勿論内職をしている者はあっても私の話を妨害する者はいなくなった。その上授業が終わると簡単とはいえ、質問に来る生徒さえ出て来たのである。それ以来私は別な意味で授業準備に追われるようになった。しかし一時おさまった生徒は、いつまた反抗してくるか分からない危機に絶えず直面している。そしてその都度、私はキリストに出会うだろう。
こうして体験した私なりの福音宣教の場で私は多くの事を教えられた。そしてこのことは学校だけでなく、どの福音宣教の場にも当てはまるものではないかと思う。
第1に私はやはり布教しようとしていた自分を反省させられた。相手の心を理解するより先に私自身が宗教家になり切ってしまい、教え込んでいたことである。宣教という字が教えを宣べ伝えることを示すにしても私は信仰の喜びを伝える以前に教えを伝えることに汲々としていたことである。第2に私達の前に立つ相手の心を感じとること、つまり共感する心と姿勢を持たなければならない。イエズスは人間の生きる難しさを痛みとして徹底的に味あわれたのであった。私達も先ず自分自身の痛みを体験しその上で隣人の痛み苦しみを感じ取ることによってキリストと共に歩まなければならない。今までの宣教はどちらかというと一方的でこの隣人に対して共感する心と姿勢をあまり持たなかったのではないだろうか。それなら今からはなお一層それぞれの生活の中で心の目を見はり、耳をすまして隣人の声を聴き、キリストを感じることが出来る恵みを願わなければならない。第3は私達自身が日常体験の中でキリストの十字架に従うことである。現代の世相の波にもまれる高校生の宗教を通して私は再びキリストに生きる道を教えられた。キリストを品行方正の師として遠い彼岸に仰ぐよりも、道・真理・生命といわれたキリストの道を共に辿ることである。そうすれば、一見喜びの否定のように受け取られ勝ちな十字架の道もキリストによって遂には神の力、知恵の現われとして(Iコリ・1・18〜25)復活の喜びと栄光に輝くことだろう。福音宣教とは神学やカテケージスを云々する以前に人々の中でキリストの死と復活に生きるその生きざまが問われることである。そしてそれはまさに初代教会の弟子達のケリグマを伝えることである。
こうして宗教の時間を通して出会った高校生は私にさまざまなことを教えてくれた。生徒を理解したつもりで実は何も分かっていなかった私、それでいて無意識のうちに一方通行的によい話をしている思い上った教えの姿勢、生徒の反抗によって根底からゆすぶられた私の過去の価値観、絶望の中のキリストとの出会い、感謝等々。
カトリック校の宗教教育のあり方、現代の世相の中に生きる高校生の実態の問題については後にゆずるとして私は今、しみじみ福音宣教を次のように思っている。つまり一口で言えば方法論よりも何よりも先に私達自身のキリストに従う“生きざま”が大切であり、福音宣教は学歴、教養を問わずキリスト者誰にでも開かれている広い門ということが出来よう。しかし同時に毎日の生活体験の中で十字架のキリストに従うという狭い門であることを忘れてはならない。そして私は今聖パウロの次の言葉を改めて深く味わうのである。「兄弟たち、それでわたしもあなたがたのところへ行ったとき、神の神秘を告げ知らせるのにすばらしい弁舌や知恵をもってしませんでした。わたしはあなたがたの間では、イエズス・キリスト、しかも十字架につけられたこのかた以外のことは、何も知るまいと決心したからです。あなたがたのところに行ったとき、わたしは弱っており、恐れに取りつかれ、ひどく不安な状態でした。わたしの言葉も宣教も説得力のある知恵にあふれた雄弁によるものではなく、神の霊と力が示す証明によるものでした。それは、あなたがたの信仰が人間の知恵にではなく、神の力に基づくものとなるためでした。」(Iコリント2の1〜5)

入選作表彰

福音宣教に関する体験・意見・提案の懸賞文入選作の表彰が、3月21日聖心女子学院講堂で開かれた東京教区総会の中で行われた。
代表質問終了後、入選者一人一人に賞状と記念品が市川裕神父(福音宣教推進部長)の手で渡された。
小学校の部で入選したすずきえりこちゃんのお母様は、「思いがけない賞を頂き、ありがとうございました。宣教の意味がほんとうに分る子供に育てたい。」と喜びを語られた。

あとがき

公聴会で講演して頂いた木村尚三郎氏の著書に「獅子の教育」という本がある。この中の自由の精神という一文に、「キリスト教の聖職者や、多国籍企業、世界企業に従事する人びとと共通するところがあり、彼らはひとしく土離れした人びととして、使命感に支えられ……苦痛を背負いながら赴いていく。(略)
自分を生かすも生かさぬも、土に執着し切った女性的な人びとに、自分が見えるはずがない。そして自分が何をすべきかも分からずに、真に個性的な仕事などできるわけがない。」(略)とある。
講演の内容は参加者の方々にとって大変参考になったようである。今号も氏の講演要旨をメインに置いて……と紙面の割付を考えていた矢先、教区ニュースのスタッフには何の連絡もなしにカトリック新聞に全内容が掲載されてしまった。
同じ内容を同一読者に対し別々に掲載したところで意味がない。奉仕で原稿を書き編集している教区ニューススタッフはやむなく方針変更である。その点、あらゆる土を踏んでいる我々は臨機応変すぎるのかも知れないが……。
そんな訳で、講演会の木村尚三郎氏の内容はカトリック新聞4月6日、13日号を参照願いたい。井上洋治神父の内容は次号に掲載する。
ところで、後藤神父の二重人格性に罪の意識を持つことと村田氏のバランス感覚の論議は大変面白い。休暇を取ってニュースの原稿書きなどしている私は、休暇を取ることに何となく罪の意識があって、……まだキリスト者の感覚になれないのかなぁ……。
今月の編集・宮澤、坂井、寺村、Sr貝原、市川師、国富。