東京教区ニュース第56号

1986年01月01日

1986年度教区総会

日時 3月21日(金)午前10時〜午後4時半
場所 聖心女子学院(白金)<中・高等部校舎>
対象 ブロック委員、教会委員、自主的参加者
内容 (1)K・Yの趣旨説明と代表質問(2)答申を生かしたテーマについての分科会

諮問議題【当番ブロック】

1、宣教における信徒の役割、司祭の役割、修道者の役割、役割の違いの認識と固有の召命の自覚。(6月30日)
2、地域社会に対する小教区の宣教のありかた。工夫。【千葉】(9月19日)
3、日本社会に対する宣教のありかた。可能性があるのか。その方法は?福音のメッセージは、日本社会に魅力あるのか。(社会の現実と福音の価値観)【城南】(同日)
4、宣教における家庭婦人の役割。【武蔵野】(10月24日)
5、宣教におけるミッション校の役割。【中央】(同日)
6、青少年を引き寄せるためには?(魅力ある教え、魅力ある教会、青少年の問題)【多摩・城西】(11月17日)
7、宣教のための教えのありかた。(言葉、方法、内容等について)【手違いにより、他の機会に補う。】
8、宣教のための広報活動、出版、雑誌、その他。(マスコミ)【城北】(12月15日)
9、祈りの運動を、ぜひ起してほしい。【城東】(同日)

宣教司牧評取扱事項

1、大司教の諮問事項について答申すること。
2、大司教の指示または承認のもとに、本教区の宣教司牧活動の具体策を立案・決定し、ブロック会議等に勧奨または要請を行なうこと。
3、ブロック会議等の機関または宣司評委員の提言または意向のうち、妥当と思われるものを大司教に具申または伝達すること。
4、大司教の指示のもとに、教区本部事務局とともに教区総会の準備・運営にあたること。
5、財政評議会の要請により、本教区の予算・決算について意見を開陳すること。
6、その他、大司教が必要と認める事項を処理すること。

K.Y浸透?! 教区総会は公聴会に 答申みんなで深めよう

教区の宣教司牧評議会は、先より、大司教が諮問した宣教、司牧に関するいくつかの議題(別掲)について、当番ブロックを決め、答申のための審議をつづけてきたが、すでにほとんどを終えた。この答申は、86年度の教区総会を一応のメドとしたものであった。たまたま司教団は、87年の福音宣教推進全国会議に向け、基本方針と優先課題(K・Y)についての公聴会を、管区毎に4月までに開くよう要請してきた。教区では総会をこの公聴会の趣旨にそってやることに決めた。狙いはK・Yの浸透であり、関係司教による趣旨説明や聴衆側の代表質問が主なものになるが、要は宣教推進が目的であることから、これに関する諮問の審議をかさねてきた教区としては、さらにこれを深めるために、答申を生かしたテーマについての分科会をも予定している。宣司評ではとくに総会準備委員会をもうけ、プログラムの細部をつめる。

2、地域社会に対する小教区の宣教のありかた。工夫。

宣教はどうあるべきかなどは本でも勉強できるので、まずやっていること、工夫したことを紹介する。審議の呼び水ともなれば幸いである。これについての意見や感想をきき、他のブロックでの試みをも披露して貰ってよりよい姿を探したい。
活動の条件としては、「宣教における信徒の役割」の自覚等を前提とし、地域社会の対象を一応小教区の所在地区、および構成信徒の居住地区にしぼっている。自由討議で詳述するが、地域社会に対する小教区の宣教活動、工夫としては、公民館での映写会、バザーの際のコンサート、市民合唱団との交流、手話の勉強会、一般人を招いての家庭集会やクリスマス会など。
討議の課題として、宣教の使命についての信徒の意識改革、地域社会へ開かれた教会とする工夫、日本の因習と教会の規則との整合性などがあげられる。
しかし何んといっても今後に期待されるものは、ブロックぐるみで取り組みはじめた「明日の宣教を考える集い」の連続開催の成果であろう。千葉地区担当の森司教とブロックの司祭との会合で提案され、ブロック会議での実施が決ったもの。千葉地区の殆んどの教会をもち廻るのは気運の浸透が目的という。

まず地域交流

(1)手話によるミサが行なわれたとき、信者でない者もいた。交流は図れたが、ミサの理解までは無理だった。
(2)千葉ブロック大会には、信者の子供達が友達を誘うとか、グランドを療養所から借りているので、そこで教理などを勉強している者が参加する程度。
(3)バザーの際、一般人を招いたり、ミサ後、コンサートを開いたりしても、交流のためには時間が足りない。呼んだ人へのアフター・ケアもよくなされていない。こういう機会にアンケートをとるのも一工夫である。
(4)西千葉教会では、パイプオルガン中心のコンサートを開き、市民との交流をはかっている。
(5)木更津教会では、聖歌隊が土地の文化祭に参加し、一般人に隊への加入を呼びかけている。
(6)赤羽教会では、クリスマスや復活祭のミサに、都民合唱団が加わって歌っている。
(7)職業のPRに新聞の広告欄を使っている人から一部提供をうけ、人生相談の場などとして教会の紹介を行なっている。
(8)千葉寺教会では、所在地の案内として電柱の広告権利を買ってPRした。
(9)千葉港に着く外国船員のために、市内の教会案内を作って港に置いた例もある。
(10)田園調布教会では、コンサートの際、一般の人にアンケートを出し、さしつかえなければ住所、氏名を-とつけ加えているが約3分の2は書いてくれる。
(11)本郷教会には、家庭集会で信者でないものを招待しているところもある。聖書を読むほか、祭礼の寄付や葬式など一般の習慣とカトリックの考えなどを話し合っている。
(12)赤羽教会では、日曜学校の生徒にバザーのためのポスターを画かせ、家の近くに貼らせて教会の所在をPRしている。
(13)「聖書を読む会」といっても1時間ぐらいで、そのあと「飲み会」に移る気楽な会もあり、けっこう求道者も出ている。
(14)荻窪教会では忘年会にボーイスカウトの父兄を招待して交流をはかっている。またバザーの際にはチラシを新聞に折り込んで教会を知らせている。その他華道教室や書道教室を開き、教会を楽しみやすい場所としている。さらに七夕や七五三などの折には地域へ呼びかけ、希望者に参加してもらっている。
(15)高輪教会では夏に「納涼の夕べ」を開催している。今年は企画、実行のすべてを青年が担当したが、多くの友達を誘うことができ良い成果をあげた。
(16)麹町教会の、「真和会」という講習会は年10回開かれ、すでに14年目をむかえている。そのチラシを朝日新聞の麹町地区に約3500枚も配布している。
(17)日本の風習との整合性の問題について、「仏教」のことはよく論じられているが、「神道」については少ない。地域社会に対する宣教のあり方を論ずるときに、欠落させてはならない視点である。

「二兎追い」ハンパ

共同体意識の向上を目的とする催しと、外部に働きかけるための催しは性質が異るから、二兎を追うと中途半端なものになってしまう。「地域社会に対する宣教のありかた。工夫。」なら、それに主眼をおくべきであろう。集会などで一般人に呼び掛けたあと、教会に関心をもつようになったかどうかわからないというが、アフター・ケアをしっかりやるべきである。
「福音宣教」という言葉をきくと、むずかしいものとの観念をもつ人がいる。また何か教えなければならないのかとおじける人もいる。宣司評委や教会委は別として、一般信徒の宣教についての意識はどの程度か疑問である。しかし、諮問議題に答えようとして、何とか皆が参画することで意識がかわってくるのではないか。実際、昔は何もやらなかったが、今になって眼を開かれ、ハッスルしているお年寄りの信徒もいる。
ともあれ、信者の中に宣教の意識が乏しいのは事実であるから、教会の各分野で何回でもとりあげる姿勢をつくることが望ましい。必ずしもどうやってよいかわからないから諮問しているわけではない。諮問に答えるには勉強や話し合いをせねばならず、それらを通して宣教への意識を高めることも諮問の1つの目的なのである。
先に紹介されたような教会の催しは、多かれ少なかれ、昔からどこの小教区でもやってきたことである。要は魂の救いであるから、1人の求道者でも出るということは勿論それなりの成果であるが、それが本当に「地域社会への宣教」と結びついているかは常に問われなければならない事柄であり、そのためにもう一工夫-もまた絶えざる課題である。
○福音宣教について学ぶ会合
鴨川(1月)木更津(2月)館山(3月)西千葉(4月)五井(5月)佐原(6月)成田(7月)銚子(9月)
(千葉ブロック)

福音やはり日本の座標

3、日本社会に対する宣教のありかた。可能性があるのか。その方法は?
福音のメッセージは、日本社会に魅力あるのか。
この議題を審議するにあたっては、議案を次のように言いかえ、全員に発言を求めた。各項目毎に記されているものは、ブロック自体の論評ではなく、代表の宣司評委員の感想をも含めたコメントである。
Ⅰ、どんな質問をうけたか。
▽カトリックでも墓を大切にするのか?香典返しをするのか?法事をするのか?
▽カトリックでは酒が許されるのか?
▽キリスト教は科学と矛盾しないか?奇蹟をどう受け入れるのか?科学史上の対立をどう見るか?(最近の知識では決して矛盾しないし、科学の側の偏見と誤解があることを、個別的に時間をかけて説明する)
▽カトリック信者は偽善者ではないか?(キリストを仰ぐことと偽善との違いを説明する)
▽あなたは他の宗教のように布教しないが何故か?(家へ招かれて話し合うようになった)
【コメント】職場や一般の集まりの席で、カトリック信者と知って問いかけてくる質問は、概してカトリックを「別世界」と見、信徒を「異人種」と決めてかかって、無理解や誤解や偏見に基く解答を予め用意して聞いてくる例が多い。
その思い込みに反する新しいカトリックの意外な面を教えても、それを積極的に受けとめることは少く、偏狭な自説を主張することが多い。特に上司や同僚との間の気マズさを避けるために、深く掘り下げることを諦め、信仰の核心に触れるような会話にまで発展することは稀れである。結局、特に強い関心や疑問を持ちかけた数少ない個人との親密な話し合いの方が効果的ということになる。
平均的日本人の通性である分類好き、ラベル貼り癖、仮説への思い込みと事実の軽視、異質排除などの壁を、カトリック信徒の日常生活において、「自然な自分の言葉」で取り払ってゆくことは、実際には決して容易なことではない。
社会の最前線にあって苦闘する信徒の、個人的な才能や努力に待つだけでなく、教会外からの質問や意見を分析し、そこからどのように自然に会話を誘導して行くかを研究し教育する組織的な対応が、いまや必要である。

「言」より「行」

Ⅱ、どう働きかけているか。
▽何よりもカトリック信者であることを表明している。
▽まず行ないで示す。例えば人の厭がることを進んでやる。親切にする。絶対に怒らない。自然さを大事にする。
▽人生の話を進んでする。世の中の出来事を材料に話し合う。
▽宗教書を手渡す。親族や友人にカトリック通信教育、入門書を送る。
▽カトリックのリーフレットを学校、店頭、待合室等に置く。
▽興味を示した人を教会につれて行く。親友を教会に誘う。
▽体の不自由な人の介護を通じて働きかける。
▽学校での講義の最初に、カトリック者としての立場をはっきりと説明し、個別の疑問には充分時間をさく。
▽信仰をもつ人間も同じ罪深い人間で、そうだからこそかえって信仰を求めているのだといい連帯感を強める。
▽教会学校で未信者との交流を大事にし、信者と差別しない。
▽カトリックを好意的に見る未信者の夫には、気長に待つ。老人男子のテレを理解し、ムリ押しは禁物である。
▽親、兄弟は持ち上げながら気長に接近するのが大事である。
▽職場で酒を飲みながら神の存在などについて議論する。
▽職場でカトリックの平和運動のパンフレットや署名用紙を回し、賛同して貰う。教会の講演会、音楽会、バザー等に誘う。
▽ボーイスカウトなどでの分ちあいも効果的である。
▽特殊な例であるが、神津島巡礼を機に、島民との宗教上の接触を試みている。まず土地の背景を学ぶこと、人びとの警戒心を解いて同化すること、目立つ動きはさけること-などが大切で、長い年月が必要である。
日本社会に対する宣教のあり方を論ずる時、見落してならないのはカトリック校の働きであるが、これは、「宣教におけるミッション校の役割」という別個の議題を設けて審議する。

狙いうち宣教

【コメント】不特定の一般社会を対象としたいわゆる「盲うち宣教」と、特定の個人や集団への働きかけを目標とした「狙いうち宣教」とは、区別すべきである。平均的日本人を対象とした前者は、厚い壁に阻まれ、多大のエネルギーの投入にもかかわらず、深い挫折感を招いている。一方、この厚い壁を自ら越えて来ようとしている数少い人びと、またカトリック校や、信徒の家族を通し、この壁を透かしてカトリックに少なからぬ好意を寄せている「シンパ」の人びと、人数おいては決して少くないこれらの人びとに対する「狙いうち宣教」のはたらきかけが、これまで遠慮勝ちに過ぎた傾向は否めない。
すすんで教会に近づいて来た人びととの接点、たとえば結婚式、葬儀、音楽会、バザー、学校行事などの機会を、自然な形でうまく利用する工夫をそれぞれ持ち寄って、改良し伝え合う組織的活動を提案したい。また家族のなかの未信者を、自然なかたちで教会に招く努力と工夫とが、もっと真剣に取り上げられるべきである。

Ⅲ、何が阻害しているのか。

▽宣教者であるという意識、人間としての生き方の自覚が不足している。多忙で時間がない。
▽PTAなどで、口に出して行なうことは勇気が要り、困難。
▽職場では年齢、序列を考えると反論できない。
▽信者は異人種という先入観。
▽ご利益を期待する人が多く、得られないと去ってしまう。
▽信者の宣教への協力不足。
▽教会の設備等をかまいすぎ、活動に資金がまわってこない。
▽寺の先祖の墓地問題。
【コメント】阻害の要因は3つの側面に分けて考えられる。
1、日本の社会の側から。
(1)日本社会の同族意識と集団主義。異質な者を排除する傾向。
(2)日本の精神的風土としての、「座標軸欠失思考」。すなわち根元的思考の停止など。
(3)物質第一の経済至上主義。自己優先・集団本位の利益追求。損をしたくないという根性。
(4)そのような「社会的病人」としての症状に気づいていない。「真の健康人」へ近づこうという意志の欠如。
2、日本のカトリック教会の側から。
(1)「社会的病人のための病院」としての教会の使命感、自覚、熱意が欠けている。
(2)教会外の新しい動きから絶縁孤立し、自己閉鎖的、内向きの発想にこり固まっている。
(3)現実を固定化して捉え、外への活力を喪失し、現実を動かせないものと諦らめて、教会外への働きかけの意欲が乏しい。
(4)「なわばり根性」のために、組織として硬直化し、流動的に対応する能力を欠いている。

依然ヨソ意識

3、宗教一般の側から。
(1)日本人の原体質からくる伝統的宗教観は、現世ご利益を根本とし、自己に役立つものをあがめ、自分のために神のたたりや死者の霊の怨念を鎮める-というようなものである。
(2)それに対して、キリスト教の絶対神への信仰、神に役立つ自分として修練し、神のためには現世的な損をすらすすめる宗教は、平均的な日本人の宗教観からは隔絶した「別世界」であって、所詮、カトリック教徒は、「ヨソ者」なのである?
日本社会に対する宣教のありかた、その可能性、方法は、現実としてのこれら阻害要因を常に考慮しつつ、しかもなお希望を捨てず、実際に応じて現実的に対処して行くべきであろう。
Ⅳ、日本の中の教会の位置。
▽結婚式や葬儀で感動する人は多く、出会いの大切さ、結婚の意義、死者への崇敬などは、教会外の人びとからも共感をもって受け容れられている。
▽カトリック校の潜在的能力は極めて大きい。大手をふって宣教のための働きかけができる。
▽ボランティア活動の人びとと共感しあえる部分が多い。もっと連携を図るべきである。
【コメント】信仰による喜び、安らぎを伝える、いわゆる「甘口の宣教」の方が、多者に歓迎され、入信数を指標とする実績はあげ易い。宗教にご利益を求め、等質の調和を第一と考える日本人の原体質に訴えるにも効果的である。しかし、現世的利益渇望集団と化し、国民の大多数が目先の仕合わせ追求に忙殺されて、広い視野からの理想を見失っている現在の日本社会において、真の意味で効果的なのは、「辛口の宣教」であろう。
これまで享受してきた「既得権」や、自らの「偶像」を捨てる痛みに耐え、損になることでも避けず、他民族の自由な選択を尊重し、他人の違いを理解しつつ、異質な人でものけ者にせず、他人の痛みを共に負う-これを福音のメッセージとして伝える「辛口の宣教」は、特に世界の中の日本が、その進路を決めるための座標軸を示すという働きを果すはずである。
とはいえ、大多数の平均的日本人から、抵抗なく受け容れられるとは到底考えられない。しかし、それは日本が脱皮するためにどうしても必要な回心なのであり、その規範としての福音のメッセージを、我われが伝え得ないとしたら、誰ができるだろうか。
【総括】言われていることは本当で、とくに指導者層はこのような認識をもたなければならない。宣教を阻害している諸要因の分析の中で、日本の社会の側についての指摘はわけても傾聴に値する。日本の精神的風土との対決は、およそ宣教をまじめに考えようとするなら避けては通れない永遠の課題である。それは社会問題や政治問題にも関連してくるであろう。

長所に着目も

しかし、今はそこまで深く考えず、さしあたって一般信徒は何ができ、何をせねばならぬかを探すことが肝要である。理想にはほど遠いかも知れないが、日本の社会や日本人にも好いところがある。それを福音の芽生えと見て、その要素に着目することから始めるべきである。
縦社会だからといってもその中に横のつながりも充分あるのだから、毎日つきあっている人と福音的な視点からも相槌が打てる道をさがせばよい。信徒の自主性と発言権を大いに発揮できる日々の対話こそが宣教の場であると考える。この場合、直ちにキリストや教会の旗をふりかざして抽象的にひっぱろうとするのはせっかちである。教会や信者の体質改善とは、宣教にあたってまず相手の言うことをじっくりと聴くこと。聴くに早く、語るに遅くということだ。
(城南ブロック)

伝えよう!恵み体験

4、宣教における家庭婦人の役割。
この議題は婦人に関するものであるため、小教区などでの話し合いにおいても、いきおい婦人会、あるいはボランティア活動をしている婦人たちが中心となった。
Ⅰ、宣教についての基本姿勢。
宣教とは人に神学や教理を説くことではない。特に家庭婦人としては、日常生活の周辺において、神から受けた恵みの体験を伝えることである。これはまた信徒の務めでもある。司祭、修道者、信徒の関係は上下で結ばれたものではなく、横のつながりであり、それぞれの役割りの違いを識り、家庭婦人でないと出来ないことに目を向ける。
宣教だからといって、力んで何も新しいことをするのではなく、聖霊の助力を願い、祈りつつ、キリスト教的な謙遜と愛の心を持って、信仰を深め、福音的に生活するよう努力し、幸せそうな明るい心で暮すように努める。貧しさの中でも神の愛に生き、家事・育児も愛をこめて行なう。宣教を行なうに当っては、聴き上手になることが肝要である。
Ⅱ、家庭における宣教
未だ洗礼の恵みにあずかっていない家人には、自分の日々の生活態度をとおして福音を伝える。子供の教育の場としては、ミサの説教の内容をかみ砕いて話す、宗教番組を見せる、食前に聖書を読ませる-など。
目につくところに聖書、教会報、霊的書物等を置く。これについては、もっと積極的にという意見もあったが、未信者の夫をもつ家庭婦人の気配りからなら、さり気なく置くのももっともとされた。
教会共同体の一員としても協力して行かねばならぬ自分の立場を、家族に理解してもらうよう努力することが肝要である。

進んで世話役

Ⅲ、社会・近隣を通じての宣教。
近隣の人びとと接する日常の態度が大切である。悩みを聴くとか手助けをするとかの心がけを大切にし、信者であることを表明して良い点を汲んで貰う。
宗教的に異る感覚を持つ人びとの多い日本では、他の宗旨の行事にも理解を示すこと。
地区集会、家庭集会を初め、カトリックの映画会、音楽会、講演会に誘い、教会報やバザー券を友人、知人に送るのも一方法。老人会の世話役などは進んで引きうけ、PTAにも極力参加し、地域社会に奉仕するとともにそこを宣教の場と考える。また教会で、例えば料理、菓子等の1日講習会を開き、門を気軽にくぐれるようにする。
要は家族、近隣の中で、自己の生き様を通して教会を紹介するにある。特に神との出合いの体験を語り、相手がキリストを受け入れる下地をつくること。

まずはひと声

(1)すでに議論されたことだが、生活上避けられない場、例えば団地の集会室やマンションの管理組合において、世話役などを積極的にやり、仕える姿勢で真のリーダーシップをとること。
(2)生協の食品販売等のグループに参加し、まず相手のニードの理解に努める。
(3)幼稚園児の送迎の場所で、母親同志がお喋りするのも宣教につなぐことができる。
(4)「まず、ひと声の挨拶を近所の人と交わすことから-」が宣教である。
(5)病院奉仕、老人の世話、盲人案内等のボランティア活動は、いうまでもなく宣教に効果的。
(6)婦人信徒の姿勢の問題であるが、人間関係がぎくしゃくしていると外に向かっての共同の働きなど出来にくい。
(7)司祭や修道者が支援しているものだけが確かだというわけではない。

聴き上手一番

議題の性格上、小教区などで行なわれた討議には女性が目立ち、宣司評での審議でも婦人が大いに発言した。話は小教区における婦人会の存続の良否にまで及んだ。旧態然として、宣教のため外に向おうとする足をひっぱる?ところもあるそうだ。
審議も終了時近くになって、いよいよ女性らしい問題が盛んに投げかけられた。結論は一見平凡なもので、姑息因循-とする向きなきにしもあらずだが、結局、婦人信徒が宣教において地道にできるのはこれで、独得のねばりが期待される。また話し合いの中では、「宣教の一番優れた方法は聴き上手」ということが繰り返しいわれた。
(武蔵野ブロック)

福音のタネマキ校に

5、宣教におけるミッション校の役割。
この議題を論ずる場合、これがいわゆる学校の経済的意味での経営や、学校を経営する修道会自体の問題ではないことをまず確認したい。
考えなければならないのは、国が押しつける教育体制のなかに我がカトリック校もはいりこみ、その独自性を失って、しかもそれでよしとする傾向ではないか。さらに受験を初めとし、1つのわくに入れておけば或るコースを育つという期待から、-無論それも必要だが、一人ひとりがもっているものを引き出すという教育本来のあり方から外れているのではないかということである。
とはいえ、素人が集まってとやかく言ってもはじまらないため、「とくに信徒の先生達は一体何を考え、どんなことで苦しんでいるのか」を、直接教育に携わっている現場の教師から聞き、そこに問題を絞ろうということになった。必ずしもすべてのカトリック校に共通することではないが、さしあたり担当の中央ブロック内にある白百合学園の副校長・Sr水原洋子から同校に於ける様子を聞き、方向性をさぐることにした。
審議の折には、幼稚園や教会学校にまで話が及んだ。幼稚園にもミッション校と似たような間接的な宣教効果がある。またミッション校があくまで一般校なら、教会学校こそ誰憚からぬ信者教育の場であるとされた。

確保せよ特色

Ⅰ、カトリック学校における宗教教育の実態。
1、在校生に対して。
カトリックの特色はしっかり保たねばということで、宗教および関連ある科目、例えば宗教音楽などとそれらの時間数は確保している。宗教行事・活動としては、修養会、奉仕・募金運動、ミサ(以上年間)、祈り、講話、聖書朗読(以上日課)、教会・施設訪問、研究会、錬成会(以上課外)などで、生徒の自主性を尊重してやっている。
一般科目を宗教との関連において扱うこともできるが、これには先生の意識がものをいう。たとえば理科や保健などでは生命の大切さを教えるとか、習字にしても教材に聖句を用いるとか。また廊下に宗教画を飾るなど、女子校だけに校内の宗教的雰囲気づくりには心を配っている。しかし「甘美さ」だけでなく、清掃など人の厭がる事も卒先してやるようしつけている。
2、家庭への働きかけ。
母親を対象としては講話会、宗教関係の出版物や催し物の紹介、コーラス、父親を対象としては研究会、ミサ参加、教会訪問をやっている。また両親を対象にした講演会、家族を対象とした親睦会等も企画している。
3、卒業生などに対して。
卒業生やその周辺の人への働きかけであるが、これには最近の卒業生のための研究会の他、家庭人となった者達の集会があり、知人等を誘って講話会や黙想会、奉仕活動をやっている。
4、一般教職員への働きかけ。
上述の指導を徹底するためには、いわゆる一般教職員の協力が不可欠である。そのため校内研修会を設けるとか、外部の研究会に参加することを勧めたりしている。またキリスト教精神に基づいた教育をしている学校であるという意識昂揚のため、折りにふれ建学の精神の理解を深める講話を行なっている。

板ばさみ進学

Ⅱ、現場における信徒教職員の実態。
生徒対象の活動一般について積極的に協力するのは、熱意ある一部に過ぎず、他は、「カトリック校に勤務している信者の教師」程度の意識で、宣教に関しては積極性に乏しい。
Ⅲ、問題点。
全般に修道召命の減少や採用教員の人数、人材の不足があげられる。その他、先生の熱意、使命感、指導力、時間つまり心のゆとりが不足している。中でも時間の不足は大問題である。
指導者側としては、宣教以前の生活指導上の問題が多発してくる時代になり、課外活動の指導、学校経営、学級運営上の仕事も複雑化、多様化しているため、これを処理するのに大変な時間をとられる。また教化内容の高度化に伴い、先生方は授業準備や個人研修にかなりの時間をかけなければならない。生徒側としても、遠距離の通学、校内の諸活動、課外活動、スポーツ練習、稽古事、それにいわゆる塾通いなどで時間が足りないという。このため目先のことに追われがちで、神とか心の問題を腰をおちつけて考えるゆとりがなくなっていると思われる。
学校運営上の大問題は、何んといっても、カトリック校としての社会的評価を保つことと、大学への進学率を高めることとの矛盾である。また一貫教育校の場合は中学、高校に進むにつれて学力の隔差が目立つということがあり、そのための補習時間をも確保せねばならぬなど、宣教活動などもおろそかになり両方のかみ合わせが大変で、学校教育の場での限界を感ずる。
毎年春になると入学者選抜で悩む。信者はできるだけ入れたい意向であるが学力の面でなかなかむずかしいことがある。またカトリック校としての社会的評価を高めるためには、教職員の待遇で学費の問題も出る。
カトリック学校は教会学校ではない。信者の教育をカトリック学校だけがうけもたなければならないわけでもない。家庭や教会で、信者としての教育をしっかり行なえば、むしろそういう子を公立校に通わせることによって福音の種蒔にもなろう。
Ⅳ、カトリック校の担うべき役割について。
一口で言えば「学校教育の中での福音的精神に基づく人間教育」ということである。したがって、現代の日本社会におけるカトリック学校の福音宣教の役割は、福音的見方、考え方へ導くいわゆる予備宣教である。カトリック大学には、教会が、現実社会の諸問題に理論的な回答ができるよう、その準備のために知的学問的分野で貢献するという面もある。

乞う相互協力

宣教におけるミッション校の役割は、結局福音のタネマキということになる。卒業後改めて宗教を問いなおす者も増えている。一般信者の洗礼の契機にもミッションスクールに関係した例が圧倒的に多い。少なくとも女子校に関する限り予備宣教に成功しているといってよく、過去に果した実績から、信徒はあまり深刻にならず、大手をふってミッション校にもっと働きかけるがよい。
特に将来父親となるべき者を教育する男子校に対し、男の信徒はもっと関心をもつべきである。男子校の中には、未信者の教師がカトリック学校の本質について理解を欠き、偏った思想で教育の場をのっとって?方針に反するような指導をし、しかもそれに対して校長が何も言えぬ-というところがある。
教師である修道女の高齢化とか、召命の減少とかもいわれるが、資格を持つ若い修道女を他の会から求めるなど、修道会同志が助け合う時代もきている。
(中央ブロック)

宣司評議事要旨

第1回(4月25日)

1、大司教挨拶。
「宣司評も、共同体実現の場」
2、自己紹介(略)。
3、特に宣司評の性格、任務その他についての解説。
4、宣司評仮議長、議長、運営委員選出について。
5、日程提案。
6、諮問議題(別掲)の説明。

第2回(6月30日)

1、宣司評運営委員の任命確認について。以下の者を確認。
村岡昌和(城東)渡部 真(城南)国富佳夫(中央)。書記・Sr沢村記代子(城西)。【事務局関係者を除く】
2、宣司評の規約作成につき。
3、(1)福音宣教をテーマとした懸賞文募集(2)上記懸賞文募集と福音宣教呼び掛けをかねたポスター作製について(3)福音宣教のための祈り文について。
4、教区ニュースに福音宣教のための紙面をもうける。
5、宣司評の議事進行、方法について。(諮問の審議に関し)
6、諮問議題が多いため、宣司評は毎月開くことにする。
7、「議題1」の審議。
8、自由討議。

第3回(9月19日)

1、宣司評などの規約につき。
2、議長選出について。
3、「議題2・3」の審議。

第4回(10月24日)

1、議長決定について。
白柳大司教は、塚本伊和男師(城南)福川正三氏(事務局)の両名を議長に任命した。
2、宣司評などの規約の成文化について。
3、前回諮問議題のまとめ。
4、「議題4・5」の審議。

第5回(11月17日)

1、61年度教区総会、及び1月以降の宣司評について。
公聴会の趣旨で総会を開く。(KY説明・質問・分科会)
2、前回の諮問議題のまとめ。
3、「議題6」の審議。
議題7は他の機会に補う。

第1期宣司評委員

(◎は議長、○は運営委)
【中央】○国富佳夫(関口)杉浦 茂(本郷)渡部栄一(麹町)岩子龍男(築地)【城東】山田節子(亀有)小林章雄(船橋)○村岡昌和(赤羽)杉田 稔(葛飾)【城西】三戸 繁(渋谷)初田正平(赤堤)星加光子(瀬田)沢村記代子(聖パウロ女子修道会)【城南】◎塚本伊和男(洗足)栗田信子(お告げのフランシスコ姉妹会)菅又立夫(田園調布)○渡部 真(上野毛)【城北】J・シュバリエ(秋津)小林又三郎(徳田)田中精一(板橋)阿部賢晤(下井草)【武蔵野】一藤 甫(荻窪)鈴木弘道(吉祥寺)田中昌子(汚れなきマリア修道会)【多摩】小宇佐敬二(多摩)新垣壬敏(立川)高根和雄(八王子)【千葉】陣野友久(千葉寺)寺田公之(西千葉)田中精一(茂原)【事務局】略

教会は変りうるか! 福音宣教推進部主催 公開討論会より

11月23日(土)関口教会で催された集いに約100名の方々が参加した。
信徒と司祭の役割を考える公開討論会は教区福音宣教推進部が企画、司祭側は寺西英夫神父(高円寺教会主任)、吉田善吾神父(蒲田教会主任)杉山稔神父(葛飾集会所担当司祭)が出席した。
信徒側は矢代静一(劇作家麹町教会)、川中なほ子(津田塾大講師小平教会)、阿部泰久(三菱電機関口教会)各氏が出席し、午前中講師の方々の発言、午後からは参加者を交えた活発な討論が行われた。
司会は小林章雄(船橋教会)森一弘司教が行った。

神父にのぞむプロの霊性

外に向って行動する教会が福音宣教に如何に大切か、私の経験を話したい。(阿部氏)司祭は神の喜びの中に生きている人であってほしい。(川中氏)神父は万相談所ではない。信徒は神父に負担をかけないでほしい。(矢代氏)3人の神父像とは。
私は、小教区の障害者問題委員会に属している。今まではカトリック教会からだけ集まっていたが、思いきってキリスト者以外の団体といっしょに交われないかと考えた。
文京区に、障害者とボランティアがいっしょになった団体があるが、最近私はそこに加わった。ある時、そのグループの方々に声を掛け教会に迎えた。同じ話でも、全く違った反応や答えが彼らから返って来るのに驚いた。私たちの小委員会には今までとは違う新しい雰囲気が流れるようになり、互いに啓発された。
もう1つ、森司教から頼まれて引き受けたのが難民の問題である。外部の人との接点になり、心の交流ができる。
難民の人のアパートを捜す時も不動産屋が「なぜそんなにいっしょうけんめいなのか」と聞いてくれるので訳を話すと、熱心に耳を傾けてくれ、家を捜してくれた。いやだなあと引き受けたのが、今はほんとうに良かったと思っている。
職場でのキリスト者の証しは一番難しい。信仰について話す機会がほとんどない。教会の価値観よりも会社の価値観が正しいのではないかと思えてしまう。そんな時、司祭の姿を思い出し軌道修正をしている。
司祭は霊性においてはプロであって欲しい。できるだけ多くの信徒にそれぞれの役目を与え、生かしていただきたい。(阿部泰久氏)
司祭は十字架の人であって欲しい。神の人、神の霊性と喜びを自らの内に持ち、その中に生きて他者に伝える人。
司祭は、信徒の中に生きているキリストの生命、霊性がどんな形で生活の中に受肉して行っているかを見つけ出して欲しい。
平均的な信徒は、教会の仕事を引き受けると、めちゃめちゃに忙しくなるので逃げている。精鋭の信徒の養成とともに、このような平凡な信徒をどうするか、具体的事実を考えて行かなければならないと思う。
平凡な小教区のあり方を考えたい。教え子たちが、反戦運動や難民援助をしているが、学生から刺激を受けて教会で分かち合いたい気持があっても、場がない。聞いた主日の説教や生活について話し合い、自然の祈りが出てくるとよいと思う。司祭は信徒の家庭の痛みを感じて欲しい。
教会そのものが外に向くために、司教中心でなく宣教中心の教会になって欲しい。(川中なほ子氏)
私のせがれは今、上智大の学生であるが、小学校3年の時、ぼくは神父になるのだと云っていた。中学生になると神父の「し」の字も云わなくなったが。
今仮にぼくのせがれが神父になっていたらと、父親の立場で神父を見ると、これは大変なことである。信者は、神父は選ばれた人だとか、神格化された人、なんでも解って欲しいとか欲を持って見るけれど、せがれも人間だからそう万相談所のようにはいかないだろう。
私は、神父に何も望まない方がいいのではないかと思った。しかし、皆の話を聞いているうちに、次のことが浮んだ。
日本語は下手でも、ハートで表現できる外人司祭がいる。信徒はユーモアやハートのある話をする司祭が好きだ。
カトリック作家やプロテスタントの芸術家たちとキリスト教芸術センターを創っているが、遠藤もぼくも60なので、教会の踏石になって死にたいと思っている。(矢代静一氏)

神父がのぞむ信徒とは

新しい教会像を模索し、教会の体質を改善していくために、今、信徒が行うべきことは何か。教会に一石を投げかけることになるよう期待して開催されたこの集いで、3人の神父は期待する信徒像について次のように話された。
少年の頃、少年講談本で塚原卜伝に弟子入りした人の話をふと思いだした。底のない桶につるべで井戸水を汲まされる。一生懸命に水を汲む姿に卜伝は新しい仕事を与えた。今度は底のないつるべ桶で底のある桶に水を汲むのである。どちらも同じようだが、後者はわずかな水滴で桶は満たされてくる。
信徒のホームグランドは職場、家庭で生き生きのびのび自由に生きる事であって、そのホームグランドが満たされてくる桶になるように信徒が働く……私自身ここに力を注ぎたい。
小教区にはあらゆる考えを持った人たちが集って来る。自分の信仰のために最底辺からキリストを仰ぎ、どんな人たちとも一致できることが必要だ。そのためには教会自体も柔構造でなければならない。(寺西神父)
信徒が育っていく過程の中にミッションスクール出身の方々の力が大きい。その方々の姿に見られる特徴は「信仰をもう一度変えられる」ことである。
アリの町で11年過した私は、アリの町に託身することによって信仰を変えていった北原怜子さんの底辺の人たちの側に身を置いた姿や、JOC(カトリック青年労働者連盟)で活動する青年たちの姿に、私自身はげまされる。
教会の良いところは、立場の違う人たちがそれぞれの活動の場で交り合ってあかしをしている姿である。しかし、弱点はカトリックはカトリックでやろうとすることである。カトリックにはそれだけの力があるだろうか。教会のグループが種々の団体と手を結び合って、信仰を変る手段を受け入れてはどうか。(吉田神父)
JOCの指導司祭会議に出席した時、働く青年たちの運動が広がっていくと、司祭や教会委員長から、教会のプラスにはならないと云われる、という嘆きが聞かれた。この嘆きに対して返って来る答えは、また教会の慣習が出た、ということであった。
キリストが動かしたいのは信者であり世界である。ふんぞり返った教会を作ることではなかったはずである。
しかし、制度・管理を考え指導する事を忘れた神父を作ったのは、ギブアンドテイク、信徒たちなのである。
神父は信徒たちと交わって変革していくのであって、信徒がうまく交わらなければ神父の進歩は止ってしまう。
イエズスは第三者的であった。神の引いた路線はこれではなかったか、と問いかけている。原点に返っている。
本来の姿に返ろうとするとき今までと違ったものが出てくる。そうでなければ変革は得られない。(杉田神父)
原点に返り、底辺からイエズスを仰ぎ、自分を変えられる信仰を持つ信徒像を描く神父は神父自身を変革できるのであろうか。

遅れている?女性観

小林氏の司会で意見発表の終った後、討議者同士の討論に入った。
意見発表の中で、川中氏から指摘のあったミサの説教の後、信徒から説教者への質問をしたり、話し合い、又分かち合い祈り合う場所を持ちたい、と言う意見に対し、杉田神父より、ミサの後で説教の質問を受け話し合いを持っている教会もあり、ミサの終った後次の主日のミサの勉強会をやっている教会、又共同祈願をその教会に合ったものに作り変えている教会もあると言う発言があった。
矢代氏から意見発表の時に神父に望む事はないと発言したが、それは各個人に対してであり、教会の上層部、組織者としての神父に望む事が無いと言った訳では無いとの発言から、吉田神父は教会の上層部もさまざまな意見が出て、意見が一致しないと漏れ伺っている。もっと底辺から動き出さなければと意見が出された。又阿部氏より、信徒が動かなければとは思うが、神父と信徒は違うものを持っていて、けじめが必要で、神父を信徒側にまで引き降ろす事はなく、神父の霊性を認めていると発言があった。
小林氏より神父の管理主義権威主義があったと思うがの問いに対して、川中氏よりあった事は事実だろうが、上の人は動きにくいから、それを動かしていくのは信徒の役割だろうと発言があり、又討議者中紅一点の女性の立場から、カトリックは女性に対する考え方が遅れていると思う。一般的に女性は保守的だが、信徒としての男女平等は分かるが、カトリックは女性をどのように考えているのかとの問いかけに対して、聖書の中の女性像を手がけている矢代氏は、一般的な事は分からないが具体的には妻はだいたい満足しているのではないかと思います。が、20代の娘は付いていけない所もあると言っているようですとの発言があった。寺西神父は、小学校から神学校まで女性と机をならべた事がなく、時には素敵な方にお会いする時もあるが、個人的にはどう付き合ってよいかギクシャクしています、と聴衆を笑いの渦の中に誘われた。
午後の自由討議に向けて小林氏から、神父と信徒の立場、役割りの違いが問題提議され、午前中の討議は終った。

新しい司祭像

司祭のあり方、について話し合っていただきました。
司祭の霊性の向上のため再教育は必要であり、現在計画中である。司祭はみことばの配達人であり、秘跡を行うことを役目としている。本来、教会は信徒が支配するべきものである。(吉田神父)
司祭は責任という名の支配慾と戦え。信徒に命令するのではなく、神を伝えるのが役目だと思え。神父に言わなければ何もしない、という自主性のない信徒をつくってはならない。(杉田神父)
教会はこれまでの“内輪の親睦会”に安住していてはいけない。外に向かわなければならない。教会に新しく来た人を包みこんで迎えるふところが必要で、入口の整備だけで満足してはならない。司祭も教会も閉鎖的な面を捨てて外に出てほしい。建て前を本音で生きる強さが必要なのではないか。(阿部)
信徒は大てい司祭に不満があることと思うが、司祭にも個性があり、すべて完全にはできない。それぞれ特徴を持つ司祭に、どのような使い道があるか、考えていただきたい。また、生活感のない司祭には一般の人の悩み、苦しみがわからないこともある。具体的にどんなところで悩んでいるのか教えてもらいたい。(寺西神父)
教会で活動してないので神父への不満というものが解らない。ただ、「入りやすい教会」も重要だが、お茶飲み友達ではなく、ある程度のきびしさも必要なのではないか。特に婦人グループに共通しているようだが、善意の押しつけが多く見られる。知らず知らずのうちに犯してしまう罪についても、もっと大きく人々に開らかれた教会であることを、教会外の人々は期待している。(矢代)

ファリザイ信徒に勝て

後半は司祭から見た信徒のあり方について話し合いました。
熱心に奉仕してくださっていた方が、信仰上の理由でなく、司祭がいや、友達がいや、という理由で来なくなってしまうことに寂しさを感じる。キリスト者として、宣教のむずかしさ、キリストを信ずることとはどういう困難があるのかを、神父と子供たちに教える必要がある。(寺西神父)
地方から上京して来た働らく青年たちは、1・2回顔を出すが、もう来なくなる。そういう落ちこぼれた人たちを拾い上げ、面倒を見、話し合いをして行く中に、すばらしく成長する。自分と教会の中のファリザイ主義に勝たねばならない。信者がミサに来なくなると、相手の事情も考えずに怒ってしまう。仕事をする人の足を引っぱったりする。悪口を言う。一生懸命生きている人たちは悪口など言う暇などない。同じ基盤を持って分かち合うようになりたい。
他のグループを排除するのではなく、協力し合うようになれない。キリストの福音の光を仰いで、どのような貢献が出来るか考えるようになりたい。(吉田神父)
教会は親睦パーティーではなく、一緒に悩んで行くグループにならねばならぬ。聖書によって問題を解決することによって、そのグループ自体も、他のグループ同志も団結する。教会は大丈夫だと安心していられぬ。(杉田神父)

参加者の質問から

◎日本のカトリックは上流階級のステータスシンボルではないか。信者は自分の信仰を深め、内に向いて外に向っていない。教会はそれでよしとしている。教会は社会の底辺の人々を汲みあげて、社会と離れた存在になってはならない。司祭は社会の人間のいたみを分ってほしい。
◎司祭が信徒に何を望まれているのか、もっと具体的に聞かせてほしかった。本音の部分は上手にかくされていて、話し方教室のように思いました。
◎家にいると新興宗教の人たちがたくみに話しかけてきます。彼女たちの話しに負けそうです。彼女たちは自分の中で消化した自分の言葉で語りかけてくるからです。司祭方には、家に居る私の気持をお分りでしょうか。
◎大多数の信徒は洗礼後勉強していない。つまり、落こぼれ信徒に対してどのような期待と考えをお持ちですか。
◎教会の仕事を限られた人がする、という意見がありましたが、信徒自体ができるだけ申出るようにすればと思う。ただし、何をするのかが今の教会の中では良く判らない。申し出たら押つけられそうで。

教区だより

61年度教区総会について

○日時 61年3月21日AM10時より
○場所 聖心女子学院中高部
○内容 司教団から要請された公聴会の趣旨にそって、教区総会を開催する。
1、司教団からの「基本方針と優先課題」についての説明、及び質疑応答
2、諮問議題に対する中間答申を分析し、深め、検討すべきテーマを扱う。分科会でディスカッションを行う。
○参加者 各ブロック委員、教会委員は参加を義務とする。公聴会の趣旨にそって、信徒の自主的参加を呼びかけ熱意のある信徒は誰でも参加することができる。参加人員は800名から1000名を予定して準備を進めている。
○準備委員会 宣教司教評議会運営委員及び答申案を作成した信徒司祭等によって臨時運営委員会を構成し、準備委員会とする。
○お願い 各々の小教区において、福音宣教の実践された体験をまとめ、総会において答申を補足されるよう信徒の方々に期待する。

私の体験(2)

本質に帰れ!! 放送作家 北村文代

本当に三日坊主である。日記、家計簿はいうに及ばず、35歳にして、初めて授かった娘の育児記録でさえ、実に1日でギブアップ。だが、性懲りもなく、計画を立てたり決心したり、誓ったりするのが大好きである。おととしは、むやみやたらと怒るのは止めようという禁怒の誓いを立てた。(無論あわれ、数時間の生命ではあったが。)去年は、ダラダラと生きるのはよそうという誓いを立てた。が、そこに旧友からのお久しぶりねコール。延々3時間半の長電話で、この時ばかりは心底自己嫌悪に陥った。そして今年、半紙に墨跡鮮やかに踊るのは「基本に帰れ!!」なる5文字!この誓い、売れないママさん放送作家の汗と涙の体験から生まれて来たものである。
放送作家とは、テレビ、ラジオのドラマ台本や、歌番組、クイズ番組の出題や構成にたずさわる仕事であるが、私は、子育てのかたわら、クイズ番組やラジオのトーク番組の構成を細々と続けている。
その日は、特集番組の内容を決める会議であった。プロデューサー、ディレクター、アシスタントディレクター、放送作家A、B、そして私で、カンカンガクガク言いたい放題の議論が続き、混乱の一途をたどっていった時、部屋中に、プロデューサーの怒声が響き渡った。
「一体だれのための番組なんだ!!」
緊迫した静寂の中、心は、名指しで叱られる時の弁明をあれこれ考えている。皆をにらみすえての説教は続く。
「この番組の客はだれで、その客に、何が言いてえのか、そのためには、何が必要で、何がいらねえのか、本質を見きわめて、基本から考え直せ。てめえの趣味ばかり押しつけこねくり廻して、訳のわかんねえもの作るな!!」
激するほどに、乱暴になっていく言葉の矢を満身に受けながら、ふっとわかった。
私はよく、妙なところで人生の真理(?)に触れる癖がある。神への愛のおぼろげな輪郭をつかんだように思ったのは、昼下りの、ガラ空きのバスの中だったり、渋谷のバーのママさんの身の上話を聞いたりしながら、人が人を愛する事の極限をかいま見たような気がする。そしてこの時も、日々、私の胸を圧していた問いに対するメッセージを得たように思うのである。
<基本に戻り、自分をチェックせよ>
これは仕事上だけではなく私の生活に対する警告ではないか。
去年、教会の記念誌編集の手伝いをさせて頂いた。恥かしながら、受洗13年にして初めて経験した教会活動である。素晴らしい諸先輩方に出会えて、充実した体験であったが、1つ自分自身の心の中で、気になる部分が出て来たのである。……というのは、毎日曜日、教会に行くのだが、その目的を厳しくチェックすると、ミサに与り、キリストに出会うために馳せ参じるのではなく、実に、“仕事”をするために出かけていたのである。仕事の完成が、目的となり、効率を優先させる余り、他者への愛、思いやり、弱者への気配りという“信仰の宝”をすっかり忘れていたのである。こうなったら、他の労働と何ら変らない。教会のために働いていても、私自身、少しも善い人にならず、魂の満足感がないのである。なまじっか仕事の場が、教会なだけに、勝手な幻想を抱き、<教会の仕事って、なんで、こう疲れるの。>という悪癖になる。
でも、これは、“何の為の誰の為の仕事か”という、基本に戻って考えてみると、至極当然なのかもしれない。教会の仕事は、神様と人への愛のため、福音をのべ伝えるための手段であるという基本を忘れ、方向違いの事をしていたのだから。これからは、効率や経済性を度外視し、仕事を担い合う人が、お互いに愛と信頼を深めるとともに、信仰の息吹きを得られるような方法を探すべきではないか。
机の前の“基本に帰れ”の文字を見ながら反省することしきり。そして、「一を聞いて十位ひけらかす」悲しい放送作家の習性により、エラそうな文をしたためた次第である。この“誓い”の事を夫に話したら我が夫曰く「もう1つ、人の悪口を言わない誓いっていうのは、どうかね、君達の宗教でいうと、口は神様の愛を語るためにあるんじゃないの」と。

心の扉

11月の初め、青少年問題をテーマにした討論を放映していた。他の事をしながら聞いていたので発言者の名も覚えていないが、その一説を借用させて頂く。
「心には扉がある。この扉には内側にノブがあって内側から開けることができるが、外側にはノブが無く開けることができない。教育とは子供が覗見をするときのように、内側から扉を開けるチャンスを獲て、扉を自分の手で大きく開けさせることである。」
この一説は青少年問題にかかわらず、現代社会と人間の縮図を表現しているように思われてならない。物が豊かになり、豊かさのために必要な情報を手軽に選択できる現代社会では、不必要な情報が忘れ去られるように、社会の片隅に生きる人たちも忘れ去られてしまっている。
心の扉を開いても相手にしてくれない現代社会、心の扉を開く気力も失った人たちはどのように生きていけばよいのだろうか。
3面の隅に載った死を選んだ人たちの中には、姉妹で、親子で心と家の扉を閉めきったまま何ヶ月も世間から忘れられてしまった例が見られる。
しかし、こうした人たちはほんとうに自から心の扉を開こうとしなかったのであろうか。事件を調査した関係者の報告では、必ずと言って良い程死に至る前に何かの形で人に接触しようとした形跡があるという。それは、子供が親に対し身体を寄せて来たり、親の前をうろうろしたりしながら何かのきっかけをつかもうとしているのに似ている。
私たちの教会に見知らぬ人が目立たぬように入って来ることはありませんか?何かを求めて接触しようとする人たちが心の扉のノブに手をかけながら……。
私たちの教会はこうした人たちを受け入れる条件が整っているでしょうか。神父はいつも新しい人たちに声をかけられるように、一番大切な時間を空けて、一番目立つところに立っているでしょうか。
信徒は新しい人たちをいつでも迎えられるように、広い心で教会を運営しているでしょうか。
現実はまだ“自分たちの教会”であって、教会そのものが外側にノブのない鉄の扉を閉ざしてはいないでしょうか。
ミサの後30分で結構です。信徒の方々は神父を新しい人たちに開放してあげて下さい。神父は教会の庭の一番良い場所に立って新しい人たちを迎えて下さい。(国富)

信徒の先生方に中央ブロックからのお願い

中央ブロックでは大司教からの諮問議案「宣教におけるミッション校の役割」について、答申案をまとめています。
その作業の中で壁に当っているのは、ミッション校で教えておられる信徒の先生方が学校で、教室でキリストをどのような形で生徒たちに教えようとしているか、という問題です。
そこで、ミッション校だけではなく、先生をしておられる信徒の方々に次の質問にお答え頂きたくお願いする次第です。宛先は下記へ
〒171 豊島区雑司が谷1-44-2 国富佳夫
○質問
1、男女、年齢、小中高
2、あなたの担当教科でキリストを宣べ伝えるためにどんな努力をされていますか。
3、学科以外で宣教の場がありますか。どんな時ですか。
4、カトリック校とは何か。
5、御意見をどうぞ!

喜びに心をはずませ 葛西教会献堂式

どこの小教区聖堂も、その誕生は大きな喜びだが、去る10月6日、献堂式を挙行した江戸川区中葛西1丁目の葛西教会(主任司祭パーセル神父カトリック新聞10月27日号既報)の誕生は、最近問題になっている都市再開発による人口急増に応えて、同じ江戸川区にあった旧松江教会が移転したところに、一味違ったものがある。
まずこの移転話しがもちあがった一昨年から城東ブロック会議が大いに協力してきた。
もちろん、まだキリストの食卓を知らない人々への強力な宣教拠点には違いないが、同時に「私たちがここに移ってから、毎日のように離れキリシタンが訪ねてきます」というパーセル神父のジョークにもみられるような、もうひとつの意義がある。
信徒も住居の移転に当って離れキリシタンにならない熟慮と努力が必要だが、教区行政上も、首都圏の変動にいちはやく対応できるような、調査と先行投資が望まれる。
当日は、あいにくの空模様だったが、遠くは米国そしてバスを仕立てての名古屋組や長崎からも協力者たちが約450名も集まり、白柳大司教並びに米国アウグスチノ会ビラノバ管区長のダフィー神父を迎えての、盛大な献堂ミサと祝賀会であった。

市民ダンス愛好会に教会ホールを提供

11月17日午後6時から赤羽教会のホールにおいて、チャリティ・ダンスパーティーが催された。これは当教会出身の吉田神学生の母堂トミさんが会長をつとめる市民ダンス愛好会「日曜会」が主催し、教会が会場と裏方の奉仕を提供したもので、入場料の大半がアフリカ難民に贈られる。
参加者は、終戦直後のダンスになじんだ人、健康に良いということで最近はじめた人たちが大半で、いま、かくれたブームをよんでいるという。
当夜も約250平方米のホールに約250名もの、周辺の熟年市民が集まる熱気の中、ミラーボールのキラメキと軽快な音楽に合せて汗を流していた。
主任司祭深堀神父談…
信者のなかには社交ダンスに誤解をもつ人もいるが、本来は健全なものであり、一般の方がたが教会に少しでも親しむチャンスになればと思い協賛することにしました。

ふだん着でひと言(2)

体験から出た宣教 シスター・カタリナ酒井に聞く

「私の宣教は、自分の体験からスタートしたものです。」そう言葉を続けて、シスター酒井は雙葉の女学生の頃のご自分の体験として、次の3つの問題をあげられた。
(1)私はキリストがなんにも分らなかった。大部分の日本人もそうだと思う。(2)聖書の信ぴょう性が全然分らなかった。聖書にそう書いてあります-と聖書を最後の切り札にするシスター方に教わって、こういう所に住んでいるから一種違う人間になってしまったのではないかと思った。(3)信仰と理性の使い方が分らなかった。それは修道生活に入ってからも度々でてくる問題だった。
「それらの問題が、今では全部解決したのです。」とシスターは確信をこめて言われた。それは戦後、ロゲンドルフ師が始められた神学講座からだった。当時、修道女は全員再教育を受け、土井枢機教の許可証を頂かないと教えてはならないという厳命がきた。2年間で1単位、70点以下だともう2年やり直しという厳しい試験だった。シスター酒井にとってはそれがお恵みだった。その講座によって信仰の部分の理性的裏づけができて、とてもうれしかった。2年間で許可証を頂くと、多くのシスター方はそこで止めたが、シスター酒井はそれから本当の欲がでた。試験から解放されて、のうのうと色々な講座に通われた。神学ほど面白いものはなかった。哲学と西洋史とを、松本正夫、近山金次の両先生に十数年間も講義をして頂いた。
「こうしたことが私の理性的裏づけとなって、私はカトリックの素晴らしさが身にしみて感じられるようになりました。この時から『教え』をする時、私にはこわいものはなくなった。どんな質問を受けても答えて下さる後ろだてがあるという安心感。なにを聞かれてもカトリックにはこわがる所がないという確信。それから『教え』に度胸がすわったのです。」シスターはきっぱりとこう言われた。
ではシスターの『教え』のやり方は?「私は3つの立場からキリストのみ言葉を実践しようと心がけています。第1は立体的に。キリスト様の愛のお言葉を立体的に動かさなければならない。2番目は動的に、活動的に。3番目は日常的に。毎日の生活の中で愛のお言葉を応用できないならば意味がないのです。」さらにこう言われた。
「実は、私は演劇にとても興味があるの。だから今のパパ様が大好きなの。俳優をなさっていたから、ああ話せるなあと思ってね。それは私の環境から来るので、5、6歳の頃からお芝居に縁があって、早熟だったのか、よく分るんですよ、それが-。
私の『教え』は、そういう演劇の立場からやります。」
(次号完)

おしらせ

新司祭誕生

3月2日(日)午後2時から福島助祭が司祭に叙階される。7つの秘跡の中で一番壮厳で一見に値する。司祭と一緒に新司祭の誕生に立ち会って下さい。聖霊の光を願いながら、彼が出会うさまざまな人にとってキリストを現わし、キリストへのかけ橋となれるよう支えて下さい。

司祭研修会

87年の全国総会に向けての準備が始まる。各小教区で働く教区司祭、修道会、宣教会の司祭を全員集めて、6月30日から7月5日まで研修会を開くことが決まった。
福音宣教に向かって、すべての司祭が1つの心になり、同じ目標に向かって力強く歩み出せれば、すばらしい。今から司祭方に準備を要請する。

あとがき

雨、編集作業あり、小教区報担当者会議あり、あわただしい日曜日になりそう。と急ぎ足で歩いていたら、面白い光景にぶつかった。
大きな椎の木のそばを通りかかったとき、雀のさわがしい鳴声が耳に入った。傘をあげてみると、何と、椎の木の小枝という小枝に雀がびっしりと雨宿りをしているではないか。目白通りに面し、車がひっきりなしに行きかう場所に根を据えた大きな高い椎の木は、雀にとってカテドラルなのかも知れない。唄い続け、人の気配がしても飛立たない雀たちの方が、安住の小枝をよく知っている。と考えるのは私だけでしょうか。

今月の編集、Sr貝原、秋谷、阿部、寺村、宮沢、渡部、坂井、市川、村岡、Sr沢村、国富