東京教区ニュース第50号

1984年12月01日

千鳥ヶ淵戦没者墓苑とは?

この墓苑には、主として太平洋戦争でなくなった軍人、軍属ら220万の戦没者の遺骨のうち、政府等が外地から持ち帰り、遺族に渡すことのできなかった約32万2千体(現在)を納めてあり、全戦没者を象徴するものである。わが国の「無名戦士の墓」と称してよい。

厳粛な祈願祭 平和努力こそ真の葬い 辛口説教 時局に危機感

教区は8月11日(土)、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、平和旬間の行事として、布教司教協議会主催のもとに、第11回平和祈願祭をひらいた。白柳誠一大司教はポーランド出張のため出席できなかったが、教区総代理・宮内薫行神父が主司式者となり共同司式祭は20人、参列者も家族づれを中心に700人を超えた。平和旬間の主要行事としての意識が、教区民にようやく滲透しはじめたものと見られるが、時局に対する危機感と平和への悲願を反映してか、参加者の数の割には会は盛況というよりむしろ厳粛であった。切迫した核の恐怖を具体的事例で訴えた後藤文雄神父の説教もこれに追い討ちをかけ、参列者に衝撃をあたえた。なお旬間中ではないが、教区はもう一つの行事として、秋に「平和の集い」(別掲)を開催する。

平和祈願祭は、第1部が「平和を願って」のミサ、第2部が献花・光の行列・平和の願い、とパターンが決ったようだ。
夕闇せまる午後6時30分、ミサは東京教区総代理・宮内薫行神父を中心とした20名の司祭の共同司式で始まった。
聖書朗読は、例年どおり布教司牧協議会の議長。圧巻は何んと言っても吉祥寺教会主任・後藤文雄神父の説教(別掲)で、核兵器の配備による世界情勢の緊迫を説き、これについてのカトリック者の認識不足と対処のなまぬるさを指摘、平和への努力こそ現代信仰の証し、戦争犠牲者に対する真の葬いである-と述べた。
共同祈願も今年は8ブロック全部がそろった。1つのブロックも欠けないということが力強い。椅子にすわりきれない人たちが後方を扇形に囲んでいる。
奉納の頃には闇が濃くなり、めいめい手にした「あんどん」に祭壇のローソクからとった火を入れた。献金は前もって用意された献金袋に。聖体拝領時には、混雑をさけるため、後方の参列者一群のために特に祭壇から二人の司祭が出向いた。
献花は千葉ブロックの受けもちで、塩津夫妻(千葉寺)、児玉、浦両氏(西千葉)が参列者を代表して墓前に花束をささげた。つづいて美しい光の行列、今年も有志のつくった「あんどん」が好評だったが、用意した数では足らず、むき出しのローソクを片手に行進する人の姿も見られた。今回も周囲の遊歩道を大きく廻る。納骨堂の外側をちょこちょこっと廻るだけで足りてしまった一時期にくらべると大きな違いだ。
終って、録音で教皇の平和アピールの一節をきく。「戦争は人間の生命の破壊です!」。これは慣例となった。つづいて、アシジの聖フランシスコによる「平和の祈り」をとなえ、午後8時すぎ解散した。

ガンバル麹町

【平和旬間実行委員会】
杉浦茂、大柳博士、清水恵美子(中央)矢作健之助、角田大(城東)初田正平、景山佐和子(城西)木邨健三、渡部真(城南)阿部賢晤、小林又三郎(城北)◎西野良明、一藤甫(武蔵野)○金井久(事務局)。
▽司会・大柳博士▽現場責任・金井久▽受付責任・阿部賢晤▽献金、聖体拝領、光の行列案内責任・一藤甫、杉浦茂▽設営責任・角田大。
▽主司式者・宮内薫行神父(教区総代理・関町主任)▽式長・岡野利男神父(事務局)▽旧約書の朗読・村岡昌和(城東)。
▽使徒書の朗読・津賀佑元(城北)▽説教、後藤文雄神父(吉祥寺主任)。
▽共同祈願・飯盛昌三(中央)荒井奈次雄(城東)近藤明夫(城西)石丸重尚(城南)小野塚啓治(城北)小川艶子(武蔵野)新垣壬敏(多摩)松実助政(千葉)。
▽聖歌隊・麹町教会聖歌隊有志▽指揮者・岩子昭(麹町)▽オルガン・坪川裕子(同)▽献花・塩津武夫、塩津典子(千葉寺)児玉甚右衛門、浦寿恵子(西千葉)▽撮影・熊沢剛(本所)▽報道・広報部。
▽受付係・栗田一雄(高円寺)里見義勝(板橋)堀江信一(足立)寺西武美、乾忠貞(立川)松実助政、寺田公之(西千葉)Sr七種洋子(聖心会)。
▽場内整理係・狐崎しげ、阿部朋子(吉祥寺)藤井釣而(小金井)小林清純(荻窪)稲川福司(本所)渡辺久吾(松原)矢作元(上野)須田信良、坂口有久(赤堤)。
▽設営隊
【中央】飯盛昌三、油谷弘幸、池亀和世志(麹町)本島明郎、中本慶三、船越孟(本郷)。
【城東】森口幸雄、高橋岩男、荒井奈次雄(浅草)加藤英一(三河島)藤山雷太(足立)大京寺輝一(町屋)。
【城西】近藤明夫(喜多見)杉浦重吉(松原)。
【城南】池田公信(大森)高橋秋治(碑文谷)関根裕(目黒)。
【城北】小野塚啓治、山本慶、酒井利夫、笹崎修、森山周徳(板橋)。
【武蔵野】古畑佑二郎(吉祥寺)横山昇一、高島寿一(調布)。

小さな祈り

▽戦争、原爆で亡くなった人たちのために心から祈った。 小3・佐竹めぐみ(田園調布)
▽大いに勉強になった。 小4・山路悟史(上野)
▽戦争の恐しさ知らされた。決して起さぬよう努力したい。 中1・古畑朋子(吉祥寺)
▽世界中の皆と仲よくしたい。 小4・永井英輔(田園調布)
▽戦争が二度とないよう、世界が平和になるよう祈った。 小4・建野みどり(多摩)
▽ずいぶんたくさんの神父で平和のミサをやっているなァ。 小3・石塚 崇(洗足)
▽自分は戦争に行かなかったが戦死した人のおかげで平和になったことを感謝している。 中1・小林 明(麻布)
▽トマホークなどが、うろちょろするのはイヤだ。 小2・根上玲位(麹町)
▽来年も来ようと思う。 高1・伊藤昌平(麹町)
▽平和のために、皆で集まって祈るというのがすばらしい。 中1・高橋純子(麹町)

多い家族づれ

(1)何んと言っても、今年はまた参加者が多かった。約700人。
(2)共同司式をする神父の数も今までの中で一番多かった。小教区の邦人神父の割合は依然として少ない。
(3)しかし、ミサはあげないが一般参列者としてあずかる姿はチラホラ。
(4)平和旬間における教区行事でのこの種のミサには、まして主司式者が教区総代理なら、せめて入祭時に、一言ぐらいのせつめいがあってもよい。
(5)主司式者の担当する小教区では、貸切りバスで20人が集団参拝?した。やる気になれば!
(6)説教は、神父にしては珍しく具体的な、パンチの利いた辛くちだった。
(7)参列者に家族づれが多くなった。好ましい傾向である。
(8)後の方は立ちんぼうーでつらかったろう。出す椅子の数と、うまく合わない。
(9)献金は、275,128円(昨年より約2万円増)。

平和の集い

10月28日(日)午後1時〜5時 上智大学10号館
講演 木下恵介氏
映画 「この子を残して」
整理券 500円

記念堂でも祈り

9月1日(土)関東大震災の記念日の宵、東京都慰霊堂の一隅で、十字架の旗のもと、平和のために祈る信者の一群が見られた。「戦争反対」を一人一人が願っている、本所教会「平和祈願」有志一同の呼びかけで集まった約25人だ。
大正12年のこの日は、大震災で多くの犠牲者を出した忘れられない日。その慰霊のために建てられた記念堂には、さきの戦争で亡くなった人の遺骨も葬られている。この場で、平和のために祈ることは、教皇の訴えかけにも応えることになる-ということから企画されたもの。
午後5時、記念ミサのあと、そろって教会を出発。堂内でロザリオを中心に祈った。

知らなすぎる核の現状

我々は今、平和旬間の教区の催しの1つとして平和祈願祭を行なっているのであるが、まずはじめに、その目的と真の意義を確認しておきたい。
この平和祈願祭の本来の主旨は、第二次世界大戦によって心ならずもこの世を去られた戦没者の冥福を祈り、単に戦争をしないというだけでなく、進んで人びとの和解をはかり、本当の国際的平和を祈願すること-である。
1980年、日本カトリック司教団は、靖国神社の国営化に関する法案にはっきり反対することを表明した。しかし法案や公式参拝に反対するばかりでなく、「キリスト者として死者への礼を尽し、遺族の人びとを理解し尊重する責任を有することを忘れない」ための具体的実践活動が要求された。平和祈願祭はその1つでもあった。しかし我々の祈願祭は、靖国神社などで行なわれている慰霊祭をただカトリック流でやるというようなものであってはならない。ヤスクニの精神には加害者意識が根本的に欠落している。我々の行なう戦没者追悼にもややもすれば被害者の面だけが強調され、反省なき慰霊に陥る危険がありはしないか?前大戦で、中国や東南アジアにおいて、非戦闘員まで含めた多くの人々を死に追いやったのは我々である。
したがってここに立つのは、失った身内や親族やそういう人びとに対する個人的追悼の念だけではなく、そこまで我々が手をのばして死に追いやった名もない人びとに対するおわびの念をこめてでもなければならないことを、一同心から確認しておきたいと思う。
また一人一人が、キリスト者としての自分の良心に忠実でなかったがために、キリストが命じられた最大の掟を守らなかったがために、戦争という悲劇のひき金をひく一つの担い手になってしまったことに対する反省もなければならない。
前大戦において死亡した私ども日本人や隣国の人びとだけでなく、全世界をふくめて推定3千万人を超えるといわれる全戦争犠牲者のためにも祈り、彼ら死者の声を謙虚に聞かなければならないと思う。彼ら死者の声とは何んであるか。それはただ一つ、二度とこういうことを起さぬよう、あなた方即ち我々が平和に対して決定的な責任をもつようにということである。
今日、世界にあらわれる神の国の印は平和だけだと思う。我々が神の国の印を目に見える形であらわしたいならば、平和に対して全責任をもち、それをつくるために、必要なら命さえもかけなければならない。全戦争犠牲者に対する追悼も、もし平和への誓いの中に表明されないのならば無意味である。
さて、戦後39年経った今日の世界の現状はどうであろうか。核戦争の悲惨さがいろいろな方法で訴えられているにもかかわらず、東西陣営は、核による畏怖を核戦争回避の手段として用いるという、非常に矛盾したやり方をしている。こういう核抑止の考え方は、とりもなおさず核兵器の使用を容認することである。
発射ボタンはいつでも押されるように仕掛けられている。これほど高い金と多くの時間をかけて作られた核ミサイルが、ただのおどしのかかしとしてだけミサイル台やサイロのなかに置かれていると考えられるだろうか。いつでもすぐに使用できるよう準備されているのが現状であり、これは人類滅亡を意味する強迫以外の何物でもないということを我々は知るべきだ。
全面核戦争のはじまりは、限定核戦争だといわれている。これは両大国が、自分らの本土を戦場とすることなく、ヨーロッパとか、アジアとかの離れた場所で、限定された方法で核戦争を行なうことである。こうした特定の地域で行なわれる核戦争のために使われる核兵器は、すでに全世界に配備されているということを我々は知らなければならない。たとえばソ連の「バックファイアー・SS20」、アメリカの「パーシングⅡ」「核巡航ミサイル・トマホーク」など。しかも、これらの命中率は非常に高く、誤差円半径は、40〜50メートルにすぎない。軍事専門家の計算によると、日本の主要軍事基地と政治、経済の中枢を壊滅させるには6基のSS20があれば充分だという。これも我々がよく知っておかなければならないきびしい現実だ。
我々は世界唯一の被爆国のカトリック者である。このカトリック者が、こうした現実の中にあってどういう態度をとらなければならないか。その点について、日本のカトリック教会は今まで余りにものほほんとしていたのではないか?なるほど一人一人のなかには、そういう意識をもっていた者もあったかも知れない。しかし教会として、この問題についてはっきりとした態度、決定、意志表示がなかなかできなかったということは、大変残念なことだと思う。
我々は1981年、日本カトリック社会司教委員会が、「時のしるし」として宣言した日本国憲法を、勇気と決断とをもって護る使命があると思う。同委員会は、この平和憲法を、内外の多くの人の生命を奪った恐るべき前大戦の犠牲の中から生まれ出た最も貴重な宝、戦争の罪科と責任をつぐなう唯一の道であると指摘している。これをしっかり念頭において頂きたい。
つぎに、バランスをとろうとする現在の軍拡政策の中では、たとえ何万発の核弾頭があっても、核戦争抑止のためには足りないという、このわかり切った理くつを、我々一人一人がまず深く認識せねばならない。しかもこの馬鹿げたことが、実際に行なわれているということに我々はどれほどの認識をもっているであろうか?核のバランスだけが平和の原理だと思い込んでいるカトリック者も多いのだ!
最後に、神学者スキレベックが出した一つの非常に勇気のいる提案を深く考えて見たいと思う。「危険な一方的核武装解除を真けんに考えよう。核拡張競争という悪循環は、善循環以外の方法ではやぶれない。その善循環をつくるには、危険と思われるかも知れないが、勇気をもって、この一方的核武装解除を真けんに考えることだ。これを実行させるべく働きかけよう。これこそ歴史の主である神を信ずる者にとって残された唯一の具体的な可能性である。」
我々にとって、平和への努力は信仰の必要条件である。今や事態はそこまで来ているということを確認したい。信仰者であるということは、平和に対して絶対的な責任を負うものであって、もしこの問題をさけるならば、我々がいくらキリストを信仰していると言っても、その信仰は本物ではない。
我々がほんとうに復活の信仰に生きたいならば、平和のためには自分の生命すらも失うことをいとわぬという決意さえしなければならない。これこそが平和祈願であり、戦争犠牲者に対する真の葬いであると思う。 (吉祥寺主任・後藤文雄)

ご一緒に考えませんか 教会は今沈滞?何故

関口教会は、7月23日から25日の3日間、「カトリック教会は、今、沈滞?何故」をテーマにシンポジウムをひらいた。この問題は、もともと同教会壮年会の例会で出たものだが、小教区報でもとりあげられ、その後アンケートなどによっていろいろな意見がよせられたため、公開の場で討論することにしたもの。「福音宣教の強化」は、春期司教総会で採択された日本の教会の基本方針の1つであり、教区でも事務局会議や布教司牧協議会の議題となった矢先。まことに時宜を得たものとして、白柳誠一大司教も講師の1番手となり、このような気運が教区全体にひろがることを望んでいる。

Ⅰ、教会のしきいは高い?

東京大司教・白柳誠一
今の時代は、宣教の好機である。世間はキリスト教的なものを求めるというふうに変ってきたとさえ感ずる。今こそ私たちは、声を大にしてキリストの教えを伝えねばならない。
しかし多くの妨げが決してないわけではない。それは私たちの外と内とに見られる。
先ず、外的な妨げの最たるものとして、わが国の物質的な豊かさが精神的なものに対する無関心を呼び起している-ということがあげられる。
次に私たちが決して過少評価してはならないと思うことに、無教会主義の影響というものがあろうかと思う。第三の妨げとして、愛と一致を説く教会が、いくつもに分裂しているという悲しい現実がある。しかし最も大きな妨げは、私たちの内側にあるのではないか。
一番大きな理由は、宣教への情熱の不足である。キリストは教会全体に、宣教するようにと命令された。教会を形づくっているすべての人がこの責任を自覚しているか?これについては教職者がそのように指導してきたかも問われねばならない。
他の理由として、たとえ情熱はあっても、何をどう伝えたらいいのかわからない-ということがある。しかし、すべての人に「教義」を理論整然と説くことは不必要でもあり、不可能でもある。むしろ、信仰の歓びと希望を、日本人の心にピンとくるようなドロくさい言葉や行ないによって直観的に伝えることが大切で、しかもこれなら誰にでもできることである。
それから妨げのもう1つとして、私たちが現代社会との関わりに余りにも不足しているということがある。私たちは、現代人が最も注目している平和とか教育などの問題に、信仰がどのように役立っているかを示さねばならない。これはまた同時に現代人に対して、教会が信頼に価するものだという目を開かせることだと思う。
最後にいうまでもなく大切なこと、それは祈り、とくに聖霊に対する祈りである。宣教の業につくとき、私たちに喋らせるのも、殉教に至るまでの堅固さを与えるのも聖霊の力である。したがって、私たちは聖霊に対する信仰をいよいよ深めると共に、祈りの中に宣教の業を進めて行かなければならない。

欲しい開放性

柏教会主任・岡田武夫
私たちの信仰生活は、あまりにも個人的、閉鎖的すぎるのではないだろうか。自分の信仰だけでなく、外に開かれた信仰をもたなければ、私たちの集まりは社会に対して小さな閉鎖的な共同体で終ってしまう。
つぎに、私たちの教会は、あまりにも聖職者中心主義でありすぎたのではないだろうか。信徒の自覚の不足もさることながら、司祭は信徒の自発性を尊重し、その意見をもっときいて協力すべきである。
さらに、私たちの宣教は、現代日本の実状と遊離してはいないだろうか。これは2つの点から見ることができる。
1つは、私たちの文化と信仰がすれちがい、両者の間に溝があり、しかもそれさえ問題として感じていないのではないか?もう1つは、現代の日本の社会問題に対して、私たちがどれだけ真けんに取り組んでいるか?である。
以上3つの点について反省したが、その反省をどのように実行するかということになると、最初に言ったように、まず「よりよいキリストの体」をつくる必要があるのではないか。皆で宣教しようと言っても、ミサを中心とした祈りの集いというものが基本として出来ていなければむずかしいと思う。否、私たちが共に祈り、慰め、励ましあって、その輪をひろげてゆくことこそとりもなおさず福音宣教ではないだろうか。

大和教会主任・梶川 宏
教会は、入るよりも出てゆく方がむずかしいのではないか。われわれ日本人は身内意識が強い。自己中心的な社会にとじこもり、身内の同じような人間とだけつき合って、なかなか外へ出てゆこうとしない。しかし、ほんとうに教会に入ることを知っている人は出てゆくことをも知っているはずである。
だが外に出て行くとしても、頭の上から人を見たり、何かの役に立ちたい-などという効率を求める考えはダメである。人間は自分がどん底に陥った時、はじめて人を通して神を見、人間を見ることが出来る。そしてはじめて人びとに通ずる言葉を喋ることができる。キリストが十字架上で死んだ出来事のどん底性に気づいたとき、はじめて神は全世界の人びとに通ずる言葉を与えてくれるのであって、自分がつかわされた者であることを実感する。
つかわされた教会というのは組織中心のそれではなく、あくまでも生命のパンの恵みに関わりのある集まりであり、共に喜び、共に悲しむことのできる共同体でなければならない。しかも、教会の外にもそのような共同体をつくるというか、現代社会そのものを変えてゆかなければならない。
また司祭中心の教会から、兄弟的共同体への転換が必要である。信徒の客意識は捨てなければならず、招かれたものから招くものに変らねばならない。旅する教会とともに自分の場所をすてて出かけることによって。

質問・意見

◇「教会のしきいは高い?」かを、一般の人をも交えず信者だけで論じても意味がない。そういう人たちへの気配りが肝腎。
◇物質的な豊かさが信仰への道を妨げているというが、新宗教の信者は増えている。カトリックは客をとられたのではないのか?聖職者は断食して祈っているか?
◇講師の話は感銘したが抽象的だ。結局何をしたらよいのか?
○教会のすべてのグループに参加し、宣教をテーマとせよ。
○共に福音を読んで黙想し、話し合い、生活の中の課題を共同の祈願にしたらどうか。
◇伝えるべきメッセージが明らかでないとか、伝える方法がわからぬというのもさることながら、自分が信仰のほんとうの歓びを実感することが先決だ。
◇初めて教会に来た人がどんな思いをするか考えているか?未信者などという言葉もダメだ。
○司教団は「まだキリストの食卓を囲んでいない人々」という表現にすることを決めた。
○応待の仕方なども、新宗教を見習うなどして反省したい。
◇身上相談の組織を作ったり、日本の羽慣をとり入れた儀式を作ったりなどして呼び入れよ。
○生身の人間だから、相手もわからぬのに相談するだろうか?
○典礼委員会で研究している。
◇障害者にとって、集いに参加することがどんなに困難なものであるか理解して頂きたい。
(司会・生島明)

宣教はふだん言葉で

Ⅱ、教会の言葉はむずかしい?

あけぼの編集室・大岩一美
一般の読者を対象とした雑誌を編集することによって宣教に励んでいるが、教会を知らぬ人たちに向って-ということで、テーマも、執筆者も、その点を考えて選んでいる。
どんな問題をとり上げても、色いろのことが複雑にからみ合っている現代社会の仕組みの中では、価値観が問い直されている。これが善いとか、あれが悪いとか簡単には言わぬドロ臭さをもって大衆にのぞむことが大切なのではないか。
言葉や用語にはいうまでもなく細心の注意を払っている。教会のことばを使うか使わぬかはさておき、要は易しくということだ。この点、神父の話や書いたものは、おしなべて内容も表現もむずかしい。原稿を書く人も、説教する人も、相手の立場に立つという心があれば、おのずから共通の言葉、相手の心にひびく言葉も見いだされるのではなかろうか。

欲しいドロ臭さ

中央出版社・谷口不二男
昨今、韓国の教会は非常に教勢を伸ばしているが、その要因の中でも、信徒の役割が卓越している。活動するためには語る必要があるから、おそらく彼らは自分の信仰について、自分の理解のもとに、自分たちの言葉で喋りまくっているにちがいない。宣教に生かされているのが自分たちの日常生活で使っている言葉だという実例である。
宣教の第一線に立っているのは信徒ではないか。家族全員が信者でない場合、朝目が覚めて最初に会うのは「まだキリストの食卓を囲んでいない人」かも知れない。出勤の途中や職場で顔を合わせる殆んどは、まだ福音をうけ入れていない人びとである。つまり宣教の第一線に立っているわけである。キリストの教えを、かぐわしい香のように、自分の言葉でそこへはなってゆかねばならない。
さらに思想、文化の問題に目をむけて見よう。日本は明治以来、沢山の文明を欧米から導入したが、ヨーロッパの精神的底流とでもいうべきキリスト教はポツンと置きざりにされた。残念だが、これからでもいいからキリストの教えがもっと文化の中にほんとうに入り込んでもたらされてくるようつとめなければならない。そうすれば文化とキリスト教が同じ言葉で紹介され、またピンと来る言葉もおのずから考案されてくると思う。

上智大神学部・山本襄治
カトリックの言葉がむずかしいと言われるのは、必ずしもむずかしい漢字の並んだ言葉を一ぱい使っているからというわけではない。たとえ易しい言葉を使ったとしても、それで普通の人が画くイメージ以外のことを伝えようとするからである。
しかし何よりも、私たちが使っている言葉自体が、教会という特殊の社会の言葉で、周りの人びとと同じ言葉でないということがむずかしさの最大の理由である。
これを改めるためには、私たちの使っている言葉は、ひょっとしたら周りの人には通じないのかも知れぬということを、まず考えることである。私たちは自分の言葉が人に分かるかなどということにつき何の不安もないばかりか、分からなければ嘘だなどと確信していさえする。
さらに、私たちがむずかしい言葉をつかう理由の1つに、伝えようとする事がらの内容がよく分っていないので、自分が普段使っている言葉で、勇気をもって、自由に言いかえることができない点にある。
一ぱつで全部をふくんでしまうような、選びぬかれた術語を使うのは魅力であるが、相手に通じなければ何にもならない。
他の言葉でさんざん説明したあげく、このようなことを表わすのに教会はこういう言葉を使うのだ-というならまァよい。
今、ここに座っている人に分らせようと真けんになれば必ず言葉を選ぶはずだし、相手も分ってくれると思う。

質問・意見

◇先日、某新聞の声欄に、ミュージカル「ジーザス・クライスト スーパースター」についての批判がのっていたが、いまだにああいう投書が出されるのは驚きである。どう考えるか。
○ミュージカルは芸術であり、信仰とは別である。
○キリストのことが出てくれば100%正しくなければいけないというような考え方が、教会の中には根強い。言葉をむずかしくする固い心の原因も、その辺にあるように思う。
◇パネラーの話の中には、言葉を選ぶにせよ、宣教とはこちら側から一方的にわからせることだという姿勢があるような気がする。むしろ聞く言葉!をもつことが大切なのではないか。
○少なくとも二度目の語りかけは、こちらの語りかけに対して答えてきたことに耳を傾けて語るという、循環的なものでなければならない。
◇言葉のむずかしさに関連し、教会用語の不統一も信徒を混乱させ、力を分散させる結果だ。
○教会一致運動との関わりもあり、学問と司牧とどちらを先にするかなど、司教協議会レベルの問題である。
(司会・永井光彦)

まずヨロイからの脱却

Ⅲ、教会は日本社会の異邦人?

毎日新聞社・徳岡孝夫
ちかごろ韓国の教会が非常に活発であることをしばしば耳にする。いろいろ要因があると思うが、歴史的に見て韓国の教会は日本と第一歩からして違うのだ。まず集団を代表して北京に行った2人の者がそこで受洗、帰ってきて口づてにカトリックの要理を教えたそうである。今の言葉で言うと、信徒使徒職によって始まったわけである。
それにくらべると、日本の教会は西洋から神父が来ることによって始まった。その辺りにバタ臭さ、異邦人的なものを感ずるのであろう。外から見るとやはりほんやくの宗教のように見える。大体「愛」などという言葉もなじまない。ネクタイを締めている人ばかりを対象にしないでもう少しくだけた話をしてもいいのではないか。カトリック教会にはクラシックはあるが演歌はない。その辺りが弱い所だと思う。
しかし、教会一致や他宗教との交流に熱心なあまり、教義そのものを曲げたり、遠慮して言わなかったりしては困る。近ごろは天国とか地獄とかも余りいわなくなったが、人をおどかして見るのもある程度信仰に導く方法ではないかと思う。とにかく異邦人的であるといわれようと何んといわれようと、真面目にやるならどんな型でもよい。

欲しい演歌調

劇作家・矢代静一
多くの日本人が、教会は異邦人だと言っても別に反感をもっているわけではなく、いわば縁無き衆生というにすぎない。
何かの機会で接触するようになっても、とくに若者にとっては一種の知的アクセサリーの域を出ず、肌に合わないというところがある。しかし友人だとか配偶者だとか、そういう身近なものがカトリック者だと肌にだんだん合ってくるのだ。
受洗して同郷人になると、こんどはこちら側に客を連れこもうということになる。平均的な日本人は、カトリックを非常に厳格主義的なものだと考えている。まず身の上相談などで個人的な交流をもつとか、自分の仕事を通して、意外だと驚くかも知れないが必要悪を書いたり喋ったりして、とにかく食べさせる工夫をしている。教会への呼び屋というところか。教会が異邦人にうつる日本社会にとっては、これこそ一番必要なことではないかと自負している。

東大教育学部・東 洋
異邦人という言葉には色いろな意味があるが、日本社会にとってカトリックには西洋の香りがあり、この異邦人性が大きな魅力だった時代もあった。しかし、今やこれが弱みになっている。日本ではカトリックが経済的、社会的に高い階層と癒着している。ほんとうに貧しい者、苦しんでいる者に、カトリックの活動は対応し切れていないのではないか。現代日本の、さまざまな政治的、社会的矛盾と対決して、この国の良心的な人たちと一緒に、それこそ命がけで戦っているだろうか?少なくとも外部の人にはそう感じさせていない。この意味では異邦人などと呼ぶより他国人と言った方がはっきりする。しかし教会が社会の変動とともに成熟するためには、あらゆる意味での異邦人性を脱却しなければならぬ。
教会は沈滞?の正体は、キリスト教の本質の周りに、ヨロイのようにまとわれている要素から脱却するにあたっての戸惑いやズレなのではなかろうか。
教会が新しい課題に対応しようとして、自らの殻を破る時、これまでの役割社会的なあり方に対して、人格社会的価値をもっと大たんに言い出してくるだろう。とくに欧米を中心とする近代化の中では、役割社会と人格社会の重みの逆転が起っているが、わく組の性格が強い日本社会には、いつどれだけ波及することか。日本社会にとって異邦人とも映るカトリックに、人格社会の温みを伝える使命があるとは皮肉である。

質問・意見

◇日本では地域的、血縁的共同体信仰というものが強く、仏教すら日本の仏教になってしまった。日本の文化には、伝統的にそういう性格がある。個人の人格に根ざすキリスト教というものは、日本の社会では今後もやはりずーっと健全な少数派でありつづけるのではないか。
○質より量が大切だということになると、やはり間違ってしまうだろう。
◇異邦人性を感じさせないための専守防衛だけでなく、カトリックになったがために、どういう点で人生においてプラスになったかをアピールしてゆくことが肝要である。
○カトリックになって得した点ばかりでなく、損した面もついでに言うこと。綺麗ごとばかりだと疲れてしまうから、裸の告白をするがよい。
◇日本人の神仏観や祖霊観をもっとうまく生かして、キリスト教を紹介すべきである。このためにも、他宗教の人びととの対話をしっかりやる必要がある。
(司会・山本房男)

ユニークな本「宗教のこころ」

日本の宗教とキリスト教の対話の姿勢に立って、「宗教のこころ」が神学・哲学・人間学の専門15人の著者により出版された。5年余にわたる上智大学での共同研究の実りで、古来からの日本の諸宗教とキリスト教との接点を探る貴重な書物。文体が「です」「ます」の敬体で書かれ、よみやすいのが特徴。内容は3部にわかれ(1)宗教体験と宗教のこころ(2)日本の宗教-各時代を通じて(3)接点を求めて
(みくに書房刊・1200円)