東京教区ニュース第20号

1977年03月01日

新しい柱に「小教区」 継続させ発展めざす方針案

教区は3月21日(日)―春分の日―午前10時から聖心大学マリアン・ホールで、1977年度の代議員会を開くが、このほど昨年度の活動報告、本年度の活動方針案の大綱がきまった。方針は今までに決まったものをそのままうけつぐが、本年の主眼として「小教区共同体づくり」が新しく加わる。すでに各母体に配られたアンケートをもとに提案をまっている。可決されれば、そのまま具体的な方針となる。今までの方針の中には実行に移され、かなり軌道にのったものもあるが、手つかず、中途半端、ゆきづまりのものも多い。報告ではこれらの問題点ものべられ、必要に応じて各推進機関の責任者が補足説明することになっているが、事前に実状のあらましを教区民に知らせ全体の知恵を借りたいと関係者は言っている。布司教を通過しているが、財政面で決算の報告予算案の承認があるのは勿論である。

3.21代議員会

中途半端の活動も反省

教学部
<要理教育講座>教会その他で活動している一般信徒の受講がふえ、現代にふさわしい新しい要理教育が次第に浸透しつつある。しかし宣伝がまだ不徹底であり、宣教は神父のみという考えが一部では残っている。4月15日から第3回の開講。研修会の用意も。
<使徒職研修コース>5グループで研修し約100人の参加があった。食事を共にしたり、老若男女和気あいあいの雰囲気も。スタッフ不足、全然参加者のない教会が多いなどが問題点。普及はパンフ・ポスターなどで知らせているが、参加者の声をも紹介したい。

財政部
不動産を含めて教区財産のあり方について検討をつづけているが、明るい見通し。教会維持費・小教区負担金について、教区民がその理解をいっそう深めるために、維持費研究会(仮称)が発足している。今後も財政部に所属してつづく。教区財政自立に向かっての教区民全体の努力は、ここ数年次第に成果をおさめつつある。そのほか、「資産運用」確立の仕事なども。

福祉部
小教区にカリタスの家の窓口をふやす運動をつづけているが、現在23ヶ所。「地域に根づいた福祉拠点づくり」では、松原と麻布を新しいモデル地域とした。関係行政機関、民間団体、施設などとの連絡を密にし、地域ニードの受け入れづくりに力をそそぎたい。地域のボランティアの窓口としての連絡員は、カリタスの家と連帯しながら各地域の実情に合わせて活動している。

構成新たな典礼委

典礼部
今年から事務局に新しく「典礼部」が設けられ、実際活動のため、そのもとに「典礼委員会」がおかれる。同委員会は具体的活動のために、さらに研究会や実行グループをつくることもできる。構成と任務は(1)司祭団の中に司教任命による司祭典礼委員(教区全般の典礼について考え、典礼活動を推進する)(2)ブロックより選出される典礼委員(ブロック内の典礼運動を推進する)(3)必要に応じて司教により任命される典礼委員となっている。
「生きた典礼をめざす集い」は目玉だが、典礼音楽やオルガンの講座も。今年は司教書簡や手引きなどを出して、とくに「新しい入信の秘跡」の推進をはかる。

高校生指導者会
活動として(1)新高校1年生の錬成会を行った(2)各ブロックのリーダー研修会を行う意図があった。しかし、実際に行ったのは多摩だけ。中央は主旨説明のみ。他からは何の反応もなし(3)ミッション・スクールの教師中心の研究会はできているが、その他の小教区教会間での高校生指導者の研究会はない。
ブロックにも母体にも高校生問題についての土壌がなく、これをうけとめる機関もない。事務局に、青少年に関する部や委員会が置かれていないのもおかしい。

教会学校部
従来の「児童教育部」の名前を「教会学校部」と改めた。しかし、今のところ事務局内の他の部と並立するものではない。日曜学校教師養成講座の開催や「教えの手帖」発行などが活動の一端。年1回のスタッフ研修会も。教会学校のむずかしさは毎回0からスタートしなければならない点にある。

広報部
「小教区報担当者の会」を発足させ2回の会合をもった。主要テーマは「小教区報の性格」について。小教区共同体づくりの深化のために小教区報の責任は大きいので、ためになり、読まれる小教区法づくりを目標に会を重ねる。
カトリック出版物を一般書店の本棚に並べて、布教の一端にと只今準備中。修道会・学校・出版社の3つが協力して話をすすめているがいま可能性のあるものとして都内に5店が数えられている。教区ニュースが教区の機関紙であるなら、原則として2ヶ月に1回の発行は死守せよとの声も。

靖国実行委
「英霊顕彰新国民組織」に反対する公式見解を出す。討論会には、仙台のカトリック靖国委をも招き他教会との連絡をはかる。靖国神社法案が国会に提出されなくなってから、推進側の動きがにぶった印象がひろまり、反対運動の風化の懸念がある。しかしかれらは国民感情に訴え、あらゆる方法で右傾をもくろんでいる。われわれは、警戒してかれらの術策に反対するとともに、信仰の観点から事がらの重要性を教区民と共にたえず考えてゆかねばならない。
さしあたり、「津」訴訟の最高裁の勝訴をめざし教区に世論を喚起する。これに類する「町のヤスクニ」が今後身辺でおこる可能性が大きいため、これらの問題を教区民と共に機を逸しないようにとらえていく。なお、この種の運動を全国レベルでも展開できるよう、正義と平和協とも連係する。

社会部
この1年の歩みで、具体的なものはない。社会部の活動はほかと異なり、特に教区の信徒の社会に対する意識を高めてゆくことがその眼目となる。同時に教区レベルでかかわることのできる諸問題を扱ってゆくことが必要であるが、そのプログラム作成がまず行われなければならない。大変先の長いことでもあるので、教区レベルという名にふさわしく、教区から浮き上がらない活動を考えることとしている。
また、教区内にある社会にかかわる活動が、教区全体において理解されるようにしてゆくことも必要なことである。さらに、日本の教会が社会に対して持っている責任を熟考し、社会の隅々まで福音の光が届くことをねらいとした活動が、この部のもつ課題といえるであろう。

<教区活動方針案>(布司教関係)
1976年度の活動方針をそのまま続け、本年度はさらに「小教区共同体づくり」を新しい柱として加える。
1.われわれ教会が、人類の平和と一致のしるしとなるよう、互に信仰を深め、人権尊重の行動に積極的に参加して行こう。
(1)司祭の研修会を充実させて行く。
(2)「要理教育講座」(要理教師対象)を今年も行う。
(3)「使徒職研修コース」(信徒対象)の計画を実施する。
(4)「生きた典礼をめざす集い」を今年も行う。
(5)司祭・修道者の召命、神学生養成の共同責任の自覚を深めて行く。
(6)「靖国神社法案」に反対する行動を今年も続けるとともに、すべての戦没者の霊のために祈り、平和を求める平和祈願祭を実施する。
(7)人権が不当に弾圧を受けている事実に敏感な心を持ち、正義と平和協議会(司教会議内)と連携を保ちつつ、時宜に適した行動をしていく。
(8)「カリタスの家」の支援活動、ボランティア活動を教区内に広げて行く。

2.予算・決算の承認を通して教区財政の現状を知り、財政自立の責任を自覚し、教区の共同体化をいっそう進めよう。
(1)不動産を含めて教区財産のありかたを検討する。
(2)教区活動をささえる教会維持費、小教区負担金についての理解をいっそう深める。

3.新しい時代の青少年の活動の活発化に協力しよう。
(1)「カト高生」指導者の活動を積極的に支援し、特に小教区・ブロックレベルでの高校生の活動の活発化をはかる。
(2)JOCなど、勤労青少年に対する活動に協力する。
(3)教会学校(対象、小中学生)教師養成の活動を支援する。
(4)各ブロックは、中学生司牧の問題を検討し、その活発化を推進する。その結果を、適宜事務局に報告する。

4.これらの活動をさらに前進させて行くために、ブロック会議・布教司牧協議会の機能を十分に生かし、「教区ニュース」を充実させて行こう。

5.小教区という教会共同体の充実、発展をめざそう。

(具体的な方針はアンケートからの提案にもとづいて、代議員会できめられる。)

信仰のふところ 50周年を迎える本郷

1975年、当時の主任司祭内山神父は、私たちに本郷教会創立50周年の記念行事を行おうと呼びかけた。信者全員、早速その準備を始めた。
先ず壮年会、婦人会、青年会から準備委員が選ばれ、本郷教会の歴史を明らかにすることから着手、同時に戦前、戦中、戦後の在籍信者の調査を行った。はじめは、期間も短いので準備が充分にできるかどうか危ぶまれたが信徒全員の努力によって着々と進み、どうやら目やすがついてきた。
内山神父が50周年の記念行事を行おうと決意した理由は2つあった。第1は、本郷教会の歩んできた道、教会の歴史をとどめておくことは、次の世代の人たちにとって小さな道しるべとなり人間社会のつながりになること、第2には50年の歴史はそのままキリストのみ業である救いの歴史であり、それは今もつくられつつあるという意識をしっかりと持たせることができるということである。
現在の主任司祭は昨年春、市川教会から赴任された柴田神父であるが、市川は当教会の元主任、平田神父の居たところ、何かと縁がある。柴田神父は平田神父の3年後輩で、本郷教会で50周年を迎えることになったのは不思議な気がする。柴田神父は着任早々、この話をきいて「こりゃア大変なことになった」とこぼしたそうだが胸中察するに、この記念行事を立派にやりぬく決意と思う。
来る7月3日(日)は、当教会の保護の聖人、聖ペトロの公式の祝日、記念行事はこの日に開催し、あわせて50周年誌の発行も予定している。本郷教会について何か知っていること、資料、写真などがあれば、たとえどのようなことでもお知らせ願いたい。
終わりにこの行事を成功させるようひろく教区民のみなさまの御協力と御好意を願ってやまない。

(行事準備委)

ひろば

日曜日の朝。ねぼけまなこの子供たちを促して、早朝のミサへ。すがすがしい貴重なひととき。往来には人影がなく、家々もまだ寝静まっている。
早朝のミサは本当にすがすがしい。心が洗われる大切な時間だ。だが・・・・・と、いつも私の心は疑問にとらわれる。これで、いいのだろうか。私の心が洗われてすがすがしくなって、・・・・・それで? 私は誰のために信仰を持っているのか? もし、人が信仰心を起こして、自分のためだけに信じているのだとしたら、それはずいぶんと空しくはないだろうか?
世の中には解決を待っている問題が山のようにある。ローデシアや南ア共和国における白人と黒人の対立とか、アジアにおける病と飢えの問題とか、そんな大きな問題はさて置くとしても、この東京の中に対立、不和、紛争は数えきれないほどだろう。世の中から貧困や憎悪が消えることはそう簡単ではないだろうがそれにしても、主義主張の相違やあからさまな蔑視等からくる人間相互間の対立不和はますます激しくなってゆくようにさえみえる。時代が進むにつれて、平和はますます失われてゆくのだろうか。
仏教流にいう末世になってから既に久しい。平安末期には世は既に末世だったのだから。末世になっても人間は死に絶えはしないが、日本人が宗教心を失ったことは驚くほどだ。先日新聞に出ていた米ギャラップ調査によれば、世界70カ国で「日本人がいちばん信仰心が薄い」そうである。日本人は、よき宗教心を失って、次第に巨大なるエゴのかたまりと化しつつあるのではないだろうか。そこで誰のために信じるのか、とあらためて問いかけてみることが必要なのではあるまいか。

(小金井教会  難波洋三)

あした葉

去る年の12月8日、最高裁判所大法廷で開かれた「津地鎮祭違憲訴訟」の最終口頭弁論を傍聴した人たちからいろいろな感想を聞く。そして、それらに共通している内容はいずれも被上告代理人と上告代理人との対比を通してなされているのが特徴的である。わが弁護団の弁論のすばらしかったことが印象深く述べられ、あるいは語られていることはいうまでもない。//それは、いったいなぜなのか。最大の理由は何と言っても、わが弁護団の弁論内容がこの国の憲法原則にマッチしたものであったからだろう。もちろん、憲法原則に忠実な弁論だから、その内容がすばらしいとは限らない。問題は日本国憲法成立の歴史的背景を踏まえてよく準備された内容、すなわち、相手側の反憲法的論理矛盾を指摘するだけでなく、全日本人の良心に訴えうる内容であったかどうかにかかっている。ここであえて全日本人の良心と言おう。このことは世紀の歴史的判決を下す特権を持つ15人の最高裁判事はもちろんのこと、その日傍聴し、わが弁護団の発言を直接聞くことのできた相手側の人たちをも含めてすべての日本人ということである。//ところで、私たちは改めてその日の被上告代理人の弁論がこの国の人権裁判しに画期となったことに深い感動を覚える。学会最高の英知の協力のもと、わが16名の弁護団が5年の心血をそそいで練り上げた弁論は、その論理の明解さにおいてまさに圧巻であった。大司教差し入れのウイスキーを燃料?傍聴権入手のため冷雨に堪え夜を徹して列をつくった甲斐あるものであった。//マスコミも異常な関心を持ち、一流各社が競うがごとくその弁論ぶりを報道しただけでなく、「読売新聞」は12月9日朝刊の「今日の断面」において、政教分離原則の確立が必要であることを強調するすぐれた解説を掲載した。整然とした論旨、格調高い熱弁は、まさに最高裁法廷という無題で演じられた芸術であった。しかし、もったいなくもこの世紀の弁論に聴き惚れる幸運を得たものはカトリック側からは2人だけだった。(S・A)

共同体づくりに燃えよ 入信式推進に大司教が教書

今年の代議員会の主題は「小教区共同体づくり」であり、教区の活動方針に新しく加えられるわけだが、これに先だち白柳大司教はこのほど四旬節の教書を出した。教会共同体の本質を、パウロの手紙を引用して述べているが、「小教区」に焦点をしぼったのが特色。信者は例外なく、まず最初に「小教区」という共同体にくみこまれて出発するということが視点であり、代議員会のテーマとしてとりあげた主旨もここにある。この共同体の一員となることを目指したのが新しい「成人のキリスト教入信式」である。洗礼とは、復活されたキリストと結ばれることであるから時期としても当を得たもので教区ではこれを強く推進してゆきたいと望んでいる。

小教区こそ出発点

教会の任務
主イエズス・キリストの十字架と復活は、全人類を罪から解放して神と人との和解をもたらし、同時に人間が互に兄弟として生きる希望を与えました。
したがって、キリストの使命をひきつぐ教会は、キリストによってもたらされた「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具である」(教会憲章1)ことに、その存在理由を持ちます。すなわち教会は、神と全人類とが父と子の関係にあること、すべての人は互に兄弟であることを、目に見えるしるしとしてあかしするものであり、それゆえに教会は「キリストにおけるいわば秘跡」(教会憲章1)といわれるのです。

教会共同体
教会が、全人類の兄弟としての一致をあかしするしるし・道具であるためには、教会自体がまず真の共同体でなければならないことは、今さらいうまでもありません。では、共同体とはどのようなものでしょうか。
私たちは洗礼によってか身の子として生まれかわりますが、これは洗礼を通じて単なる個人的な神との交わりがはじまるということだけではありません。私たちは、洗礼の秘跡を受けることによって、ほかの人々と有意義につながる関係を持つようになるのです。聖パウロが、「わたしたちは、ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由民も区別なく、ひとつのからだとなるために、ひとつの霊によってみな洗礼を受け、そしてひとつの霊を注がれた」(Iコリント12・13)と言っているように、私たちは洗礼によってほかの人々とひとつのからだをつくり、各々がその一器官となるのです。このからだこそ、キリストのからだ(=教会という共同体)であり、キリストの神秘体とよばれるものです。
聖パウロはこのことを、さらにくわしくのべています。「からだはひとつの器官で成りたっているのではなく、多くの器官で成りたっている。足がーわたしは手ではないからからだに属していないーといっても、それだからからだに属していないわけではない。もし全身が目であれば聞くところはどこか。神は思し召しのままに、からだにそれぞれの器官を置かれた。みながひとつの器官なら、からだはどうなるのか。器官は多いが、からだは一つである。だから目は手に向かってーおまえはいらないーと言えないし、頭は足に向かってーおまえはいらないーとは言えない。からだの中で、もっとも弱く見える器官は、かえって必要である。からだの中で他よりも見劣りがすると思えるところには、ものを着せていっそう見よくする。美しくないところは特に美しくするが、美しいところはその必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになった。それは、からだの中に分裂がなく、器官が互いに助けあうためである。ひとつの器官がとうとばれればすべての器官がともに喜ぶ。あなたはキリストのからだであって、各人はそのひとつの器官である。」(Iコリント12・14ー27)

多様の中の一致
この聖パウロのことばに示されるように、共同体、特に教会共同体は、諸器官の有機的結合としてのからだにたとえられます。
共同体は、けっして画一化を意味するものではありません。みなが同じ役割を持つのでもなく、みなが同じ力を発揮するのでもありません。強い部分もあれば弱い部分もあります。しかしそれらがバラバラに集まっているのではなく互に有機的につながり、連帯性を持っているのです。各々異なった性格や才能を持ち、異なった社会環境に生活しながら、共通の目的に向かうことで一致し、互に補い合って行くのです。
私たちにとって、その共通の目的とは、究極的には、すべての人がひとつになって神との親しい交わりを持つ全人類共同体であり、教会共同体はその推進者となるのです。

一員として自覚
洗礼によって、各人がキリストのからだの器官という有機的つながりを持つことはすでに述べましたが、私たちはしばしばこれを意識せず、意識しても日常の生活の場で実行に移していません。そのようなとき、受洗によって教会共同体の一員になってはいても、それが共同体の目に見えるしるし、あかしにはなっていないのです。共同体の一員であることを自覚しているか否か、次の点にはっきりとあらわれて来ます。それは、自分がその共同体に対して、第三者的立場をとることはできないということです。その共同体のよさも悪さも、その責任の一端をになうと言う共同責任感を持つか否かであって、第三者として批判している限り、その人は共同体の一員であることを自覚しているとはいえないでしょう。

小教区こそからだ
教会の中にも、いろいろな共同体があります。小教区教会・修道会・使徒職団体など、多くの共同体がそれぞれに活躍しながら、教会共同体という大きな共同体を形成しています。それらの活動はみな尊いものであり、優劣をつけるべきことではありませんが、今回は特に小教区という共同体に焦点をしぼって考えたいと思います。
東京都と千葉県という社会に、キリストのからだの姿を地域ごとに示すのが小教区です。そして私たちのだれもが、例外なく、どこかの小教区に属します。
小教区という共同体を形成する以上、私たちはそれに対して、第三者でいることはできません。私たち各々がキリストのからだの一器官であるとすれば、小教区においてもひとりひとりが何らかの役割を持ちます。ある人は祈るという行為を通じてその役割をはたすかもしれません。ミサへの奉仕や教理の手伝いという役割もあれば、りっぱな社会人としてのあかしを通じての役割もあるでしょう。それらのどれが他よりすぐれているかは、だれも判断できることではなく、ただ各々がそれぞれの器官としての働きをすることが重要なのです。
したがって、私たちには、他の人を心から受けいれる寛容さが要求されます。小教区のいろいろな活動グループに入って働く人も、小教区外の活動をする人も、あるいは種々の事情でミサにあずかることしかできない人も、それぞれがキリストのからだの重要な器官として働いているのですから、尊敬と信頼ともって接することが、小教区共同体一致のしるしとするための重要なポイントでしょう。
もしも教会の一員としてふさわしくない行為をする人があっても、あるいは何の役にもたたないばかりか教会にマイナスになるように見える人があっても、私たちは同じからだの痛みとして、それをになわなければなりません。ふつうの社会では、不要に、あるいは有害に思われる人があっても、神の目にはひとしく御ひとり子の死をもってあがなわれた尊い人なのです。
こうした互いの理解と寛容があってこそ、はじめて、私たちは小教区共同体を形成しているのだということができましょう。

主の姿を地域で示せ

入信と「ゆるし」
以上述べたような共同体の一員となることを目指したのが、新しい「聖人のキリスト教入信式」であり、教区においてこれを推進してゆくことを強く望んでおります。この共同体から離れたメンバーをふたたび受け入れることを明らかに示したのが新しい「ゆるしの秘跡」です。これについては、式文などが近いうちに発表される予定になっています。

開かれた小教区
小教区共同体は、本来、外に向かって開かれ、外に働きかけるものです。その存在そのものが、地域社会に対する目に見えるしるしであり、また種々の具体的活動を通して外部への働きかけが行われますが、それだけでなく、小教区の構成メンバーである各信者が、各々の生活の場でキリストをあかしする力をそこから得るという意味でも、小教区共同体は外に向かっています。そしてその力の本源となるものは、ミサーであると言わなければなりません。
ミサにおいて、私たちは共同体として神のみことばを聞き、司祭の手を通してしゅきリストとともに聖体の犠牲を献げ、主の御体と御血に養われます。そして、みながひとつのパンにあずかるがゆえに「わたしたちは多数であっても一つ」(Iコリント10・17)なのです。
この力を得て、私たちはあかしびととして生活の場にもどり、週日を送るのですから、主日における小教区のミサがどれほどたいせつなものであるか、おわかりのことと思います。具体的な小教区の教会活動をする時間のある人も、ミサにあずかるのが精一杯の人も、「行きましょう、主の平和のうちに」のことばとともに、家庭や学校や職場に、ミサで得た力を持ち帰り、そこで生かしてこそ、小教区共同体の一員としての働きをしていると言えましょう。

結び
以上述べたような小教区共同体を育て、理想に向かって進めて行くのは、私たちひとりひとりの重要な任務です。この共同体が、互に助けあい、理解しあい、だれをも包みこむ暖かな、真の兄弟的な共同体になるためには、具体的に何をなすべきでしょうか。各々の小教区において、ひとりひとりが、自分の問題として考え、実践していただきたいと思います。
1977年四旬節にあたって
東京大司教  白柳 誠一

教書は機関紙で

四旬節や待降節に司教の出す教書は、従来別刷りで出されていたが「教区ニュース」(本紙)が発行されるようになってからはこれに掲載される。今度がはじめてではなく、前回の場合もそうで、あらためて印刷物にならなかったため、それを待っていた向きもあったようだが、注意してほしい。四旬節、待降節時に出る機関紙は、その意味でも大切なものとされる。

解説 成人のキリスト教入信式

<はじめに>
初代教会の頃から、キリスト者になるということは、一人一人が洗礼を受けて神とのつながりをもつようになるだけではなく、キリスト共同体、即ち教会の一員となり、キリストの体一器官としてキリストの福音に生き、これを証しして行くことなのです。
幼児洗礼式が定められたのは、後になってであり、根本的に成人の洗礼とは異なるものなのです。
西欧諸国では、洗礼は幼児期に授けられ、成人の洗礼は殆どありません。しかし、成人の洗礼式次第がなかったわけではありませんが、成人が洗礼を受ける時に幼児も一緒に洗礼を受けるとか、成人受洗者が多数あるならば、幼児洗礼の式次第を用いることが認められていました。
今回、第二バチカン公会議で典礼の改訂が行われ、本来根本的に異なる幼児洗礼とは別な成人の洗礼式が確立され、段階的に行われることになりました。

<入門式>
一人の成人がキリスト教に関心を持つようになるには、無数の原因があると思われます。悩みごと、友達の影響、ラジオ、テレビなど数限りがないわけです。そして、教会の門をたたきますが、それでも、その時はまだ洗礼を受けるかどうかは決めていないことがあると思われます。でも、私たちはその人をより近い人として、仲間に迎えます。これが「入門式」といわれるものです。
入門式はミサの時、またはミサ以外の時に適当な場所でも行うことが出来るので、その人に不必要な気苦労をさせないよう配慮することは大切です。
しかし、私達の仲間として迎えるものですから、ミサ以外の時に入門式を行う場合でも数人の既受洗者がこの式に参加することは当然なことです。
入門式はおおまかにいってみて
(1)「キリストの教えをいってみて知りたい」という意志の表明、
(2)私達の仲間になったことを示す「十字架のしるしを額にしるすこと」、
(3)キリスト者は祈りの人であるのですから、主御自身が教えられた「主の祈り」の伝授の3部分から成り立っています。
「キリストの教えをもっと深く知る」ことは人によって異なると思われます。また、洗礼を受けようと決心するまでの期間もそれぞれ異なるのは当然です。一年、三年、或いはもっと長いかも知れません。中にはついに洗礼を受ける決心がつかないままに、私達の仲間から去って行く人もあるかも知れません。その間、私たちはこの人々を仲間として、キリスト者の交際を続けて行くわけです。

<洗礼志願式>
洗礼を受ける決心がついた時、こんどは洗礼を志願する「洗礼志願式」に臨みます。
洗礼とは、復活されたキリストに結ばれ、キリスト者共同体、即ち教会の一員になることなのですから、復活祭の正式で洗礼を受けるのが相応しいわけです。しかし、復活祭以外の時には洗礼がけられないということはありません。
「略式入信式」といって、病気、高齢、引越し、長期出張のような特殊事情がある場合の「入信式」もあります。
更に「緊急洗礼」といって、死の危険にある人、死がさし追っている人への洗礼もあります。
復活されたキリストに肖るためキリスト者共同体(教会)挙げて「よりよいキリスト者として生きるため復活祭に向かって準備する四旬節」があります。私達はこの期間を洗礼志願者とともに過ごします。それで、この洗礼志願式は四旬節の第1主日のミサの時行なわれることになります。
復活祭以外の時に洗礼が授けられる場合でも、四旬節の意味するところを考慮し、出来るだけ四旬節の期間に相当する期間をとって「洗礼志願式」を行うことはよいことです。この場合、祭日ではない主日のミサの間、またはミサ以外の時にも行なうことが出来ます。
洗礼志願式の骨子は次のように
(1)「信仰宣言」の伝授、
につづき、
(2)「救いの油」(志願者用聖油)で額に十字架のしるしをする、の2つです。
その後、洗礼式の日まで3つの主日のミサの時、洗礼志願者のために特に祈ります。復活祭の洗礼の場合には四旬節の第3、第4、第5主日がこれに用いられます。

<入信の祭儀>
・洗礼
いよいよ復活祭を迎え、既に洗礼を受けている人々の集っている聖土曜日の夜、復活祭の聖式で洗礼志願者は洗礼をうけ、神の子として再生し、キリスト者共同体(教会)に名実共に仲間入りするわけです。
そこで聖土曜日の聖式につづく聖体祭儀(ミサ)または他の時でも、今洗礼、聖心の秘跡を受けた成人は聖体拝領をするのです。
このようにして成人はキリスト者になって行くわけです。これが今度出た新しい「成人のキリスト教入信式」の概要です。幼児の洗礼は一言でいえば、親、その教会のキリスト者共同体の信仰に支えられて授けられるもので、決してこの「成人のキリスト教入信式」の縮小版ではありません。従って成人と幼児とが一緒に洗礼をうけることはないことになります。但し、親子で洗礼をうける場合には親・子の順で洗礼が授けられるわけです。
東京教区というカトリック者共同体がこの方式で育っていくことこそ刷新を目指した第二バチカン公会議後の教会の姿であると思います。確かに今までの洗礼式になれていた私達にとって、この新しい「成人のキリスト教入信式」はなじみにくいかも知れませんが、よく勉強して早い時期に教区全体がこの方式に移りたいものです。
司教教書の中で共同体の一員となることを目指したのが、新しい「成人のキリスト教入信式」で、教区においてはこれを強く推進してゆきたいとの望みが示されていますのでその概要を述べました。  (典礼委員会)

前向きの姿勢で
この入信式はすでにいくつかの小教区でこころみられている。新しいものを導き入れようとするときの常として実際に使った体験からいろいろな声がある。ダメなほうでは
(1)日本人は個人的意識で洗礼を望むものが多い
(2)復活祭の頃は学校、職場などに変動が多く落ち着いた気分になれない
(3)入門式を行うととらえられたような感じになって心理的圧迫をうける
(4)復活徹夜祭にやるのは長く、疲れ、子供がやかましい
(5)洗礼、堅信が一ぺんにさずけられると、堅信がいつ行われたかわからない。うけていないと思い込み再び堅信をうけたいなどと申し出るものがいる
(6)人前でれいれいしくやられるのは日本人の性格からてれくさい
など。
ヨイのほうでは、
(1)洗礼と復活とつながりがよく理解できた
(2)洗礼ー堅信ー聖体の関連性がよくわかった
(3)共同体の意識が高まった
(4)自分一人のために、教会がすべてをあげて祝ってくれるのは感激
、などである。別にダメ、ヨイ点を数で競っているわけではない。アンケートによってどちらかにきめようとしているのでもない。しかし神学的側面と司牧的側面がはり合うと最後はケース・バイ・ケースということになる。日本固有の問題もあるし特殊事情からして復活徹夜一本にしぼることは無理ではないかとの声がある。
けれどもこれは結局今まで通りでよい、新しい方式を採用してもしなくてもどちらでもよいというような消極的なものであっては困る。新しい時代に即した指針であるなら当然前向きの姿勢でとりくむべきだろうとされる。この点でわが東京教区はまだ進んでいるほう。司祭集会でとりあげられたり何よりも今度の四旬節司教教書がそれを雄弁にものがたる。ゆっくりとしかも確実に浸透させてゆかねばなるまい。
「成人のキリスト教入信式のしおり」(220円)が典礼司教委員から出ている。これを見ればもっと詳しく理解できる。そのほかの参考書として
(1)秘跡のシンボリズム(P・ネメシェギ)
(2)洗礼ー契約の民に受け入れられるための祭儀(K・ワルケンホルスト)
(3)イニシエーション(鈴木範久)
いずれも教区典礼委員会版。申込みは事務局典礼部へ。

少数者の人権守れ 最高裁の判決間近か

「津地鎮祭違憲訴訟」もいよいよ大詰めとなり、昨年12月8日には最高裁での最終弁論を終え、3月末頃の判決を待つばかりになった。12年前に原告ひとりで始めたこの裁判は、わが国初めての政教分離となり、5年前には名古屋高裁の画期的な違憲判決となって結実した。この判決は、国民があまり気にとめたことのない国家や地方団体と宗教との関係について深く解明し、人びとの認識をあらためさせたものであるだけでなく、日本における信教の自由、政教分離原則の系譜に新時代を画したものといえよう。最高裁でもこの判決が支持されるよう各界から要望書が出されているが、白柳誠一東京大司教、相馬信夫名古屋司教、森田宗一正義と平和協委員長なども署名している。靖国問題実行委員会ではこのほど左記のようなチラシを配布、全教区民の世論喚起を望んでいる。

ヤスクニと一体
憲法20条の解釈を争点とするこの裁判の支援は、靖国神社法案反対の運動と一体をなすものといえよう。最高裁における勝敗は法案の成否に端的に影響を及ぼすと覚悟してかからねばならない。

尾崎弁護士
日本の平和憲法は、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こらないようにという国民的悲願から生まれた。その信教の自由・政教分離の原則は、神権的天皇制と結びついた神社神道が、侵略戦争への道を掃き清めたことの深い反省の現れである。現れである。それは世界人権宣言とは通じるものがあっても、旧憲法の信教の自由とは異質なものである。
地鎮祭訴訟は、靖国闘争とともに、芽ばえつつある新しいファシズムとのたたかいで大きな役割を果たしている。

望まれる世論の喚起

合祀拒否原告  中谷康子
現代の日本において、津地鎮祭訴訟がどんな意味をもたらしているかを考えますとき、思想・良心・信教の自由をかちとる同じ性格の訴訟の原告として、強く連帯を感じて力づけられております。今後とも訴訟のなりゆきを祈りつつ見守るとともに、近い判決の日には全面勝利を確信しております。

劇作家  木下順二
1933年のある日、ドイツの町々の商店に「ドイツの商店」という札がはられた時、人々は、なんとも思わなかった。またある日、その札がはられなかった店に黄色い星のマークがはられたが、まだ人々は平気だった。10年後のアウシュヴィッツ、ユダヤ人虐殺は札がはられた日から始められていたのだ。地鎮祭という一見何でもないような行事が、さきゆきどういう意味を持ってくるか恐ろしい。

浜松政教分離  溝口 正
大詰を迎えた最高裁、まさか信教の自由に反する判決は出せまいという確信と、いや、とんでもない判決が出るのではないかという心配とが、五分五分に錯綜しているのが偽らざる気持ちです。とにかく、この判決が日本の今後の思想・両親・信教にかかわる方向を決定する重大な岐路になることだけは確実でしょう。靖国国営問題や町のヤスクニの戦いにも決定的な影響を与えるでしょう。ですから、日本を本当に愛するものは、誰でもこの裁判の勝利のために戦わなければ取り返しがつかないと考えます。

「津地鎮祭違憲訴訟」の勝訴をめざして
教区の皆さん
「津地鎮祭違憲訴訟」の最高裁判決が近づきました。この裁判は、憲法にある信教の自由・政教分離の原則が、現実に私たちの社会に定着するかどうかがかかっている重大な裁判です。
信教の自由という人権を大切にし、その実現・確立を強く望んでいる私たちは、津市の挙行した神道式地鎮祭を違憲であるとした名古屋高裁の判決が、最高裁においても支持されるよう、世論を喚起してゆきましょう。

「津地鎮祭違憲訴訟」とは
1965年1月、津市が市体育館起工式(地鎮祭)を神道式で挙行したことに対し、津市会議員関口精一氏は憲法の信教の自由・政教分離の原則に反するとして提起しました。津地鎮祭の第一審では、神道式地鎮祭は習俗と認められるので、宗教性が絶無とはいえないが違憲とはいえぬと訴えを退けました。名古屋高裁の控訴審では、靖国神社国営化反対運動の高まりの中で、キリスト者弁護士を中心とした弁護団や支援団体が結成され、それらの人々の活動の成果として「津市の行った神道式地鎮祭は、憲法20条3項に違反する」というわが国初の画期的な判決が生まれました。

「名古屋高裁判決の内容」
高裁の判決は第一に地鎮祭の宗教性の有無について判断を示し「本件地鎮祭は神社神道の祭祀としてなされるその固有の儀式の一つである」とし、習俗説に対しては「宗教的意義が希薄になった正月の門松、クリスマスツリーなどとは異なり習俗的行事とは到底いえない」と詳細な考察を通じはっきりと否定しています。判決は第2に信教の自由・政教分離の原則について判断し、その沿革については「神道を国境化した苦い経験と戦争の惨禍を経て憲法に確立されたものである」と述べ、地鎮祭との関連については「国家または地方公共団体の政治権力、威信及び財政を背景にして、特定の宗教が公的に宗教活動を行なうこと自体が、その特定の宗教に利益を供与し、これを国教的存在に近づけ、他の宗教及び反対する少数者を異端視し、疎外する間接的圧力になるのである」「政教分離に関する軽微な侵害が、やがては思想・良心・信仰といった精神的自由に対する重大な侵害になることを怖れなければならない」と述べています。
判決内容は、慎重、詳細な判断をしながら、徹底した人権尊重の姿勢によって貫かれており、信教の自由に関するわが国初の違憲判決として歴史に残るものと思われます。

私たちの態度
名古屋高裁の判決で示されたものは、人権の尊重、平和の実現という立場から、靖国神社国営化に反対してきた私たちの考えと全く一致するものです。私たちは最高裁において高裁判決が支持されるよう世論の喚起に努力するとともに、ふだんの生活の中でも信教の自由を実現してまいりたいと思います。

お願い
この訴訟の精神と内容を広く市民に訴え、勝訴をめざす支援団体として「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」が結成されておりますが、私たち靖国問題実行委員会もこれに努力しております。支援団体には多くの資金が必要です。できましたら小額で結構ですから資金のカンパをお願い致します。カンパは各母体ごとに集め、ブロックを通じて事務局にお送り下さい。なお直接事務局にお送り下さっても結構です。

1977年2月6日
カトリック東京大司教区布教司牧協議会内  靖国問題実行委員会

読まれる小教区報に 担当者がセンターで集い

1月30日(日)関口教会信徒会館で第2回小教区報担当者の集いが開かれた。出席32人。今年の代議員会のテーマも「小教区」であることから、担当者はそれぞれ重責を感じ、編集方針や、共同体づくりの深化のために小教区報がどのように活用されているかなどについて3つのグループにわかれて討議した。
全体会議では各グループからのまとめ報告のあと、カトリック新聞や教区ニュースとの関係などについても意見交換。およそ教区民にとって必要であると思われる事がらはルートの如何をとわず、重複をかえりみず互に補足し合うこと、執筆者なども紹介し合ってひとりじめしないよう約束した。具体策の一つとして小教区報1部をカトリック新聞社に送ることを申し合わせた。
「ためになり、読まれる小教区報づくり」が当面の目標で、地域差から画一的な編集方針などあり得ないとの声もきかれた。信者のためになるといっても、通達や親睦面だけにとどまらず、信仰生活や社会問題に対して信者の言動指針となるような記事を、しかも地域差を考えて載せよとの注文も。

地域差が問題
<第1グループ>編集方針は別に考えていない。また全体に共通した方針をたててみてもそれぞれ地域差のあることだしあまり意味がない。編集方針などいわずに編集のねらいといったらどうだ。現状では宣教的役割を小教区報に期待するのは無理。教会内の各部の活動や、信徒の動静などをのせた告知・連絡的色彩が強い。
理想的な編集方針もあると思うが具体的には現実の中での必要事項を載せるのが方針ともいえる。必要事項とは告知や連絡ばかりでなく、小教区民全員をいかにして小教区活動に参加させるかとの視点にたってのことだ。この意味で主任司祭の巻頭言は当然のことと思う。
小教区の状況がそれぞれ違うということを、つねに考えていなければならない。カトリック新聞や教区ニュースなどで取りあげられた問題を、地域に即しかみくだいてすみずみまで徹底させるのも小教区報のになう役目の一つではあるまいか。3者の関連を突込め。

カト新との関連
<第2グループ>小教区報の特徴は教会の歴史づくりにある。ローカル色を出すよう工夫が必要。信者の自由な発言のために提案箱をそなえているところもある。スタッフ不足が深刻だが、継続することに価値があるとして定期的に出すことを主眼としている。折角作っても全体にゆきわたらなければ無意味であるので、配布方法にはいろいろな工夫をしている。
外部への働きかけは小教区報では無理。「心のともしび」の余白を利用し、教会学校の子供などを通じて教会外の人の目にも触れるよう努力している。このグループにはカトリック新聞の三浦神父がゲストとして加わっていた。カトリック新聞、教区ニュースなどとの関連において記事の競合など全く考えていない。信者に指針を与えるような記事はおのずから執筆者も限られる。小教区内の狭い範囲内でさがす時代ではない。互に小教区報を交換し合ったりして執筆者を紹介、情報を提供しあうべきだ。

若い世代に期待
<第3グループ>はっきりした編集方針はなく、制作者にまかされているが、若い層の考えをもっと入れ家庭集会のテキストとしても使えるようなものにしたい。子供たちへの配慮がなされていないことも指摘された。ガリ版刷りを脱せず、毎月発行が無理もある。
読まれる小教区法にするためには何よりも制作者自身が、教会の実状をよく知っていることが先決である。後継者の問題もたえず念頭におかなければならない。使徒職委員会の仕事の一部になっているところもあるが、大抵はやりたい人、好きな人が勝手にやっているのだとの無関心が多い。制作者の中に若者が入ってくることによって小教区報は生き生きしたものになるはずだが興味なし。
カトリック新聞との関連については、重複する記事はさけ特殊性をもたせるようにとの意見と、逆に新聞を読まない人が多いからダブッてもよいではないかとの意見にわかれた。内容をかみくだいて紹介すれば、両立するだろう。トップ記事で苦労するのでは情けない。

小教区報担当者
・<麹町>八鍬収治(聖イグナチオ教会報)  ・<麻布>岡野照男(こころ)  ・<成城>堀尾卓司(成城)  ・<関町>三島聖司(こみち)  ・<喜多見>小佐野哲二(喜多見)  ・<三軒茶屋>小楠千早(おとずれ)  ・<田園調布>織田勝三(でんえん)  ・<豊島>加藤美智子(豊島教会新聞)  ・<五井>直井寛治(五井教会ニュース)  ・<秋津>足立英行(まつぼっくり)  ・<柏>秋場朝太郎(柏教会ニュース)  ・<瀬田>牛窪 正(会報)  ・<板橋>鈴木一男  ・<高円寺>永島洋三(教会報)  ・<吉祥寺>長村 玄(教会報)  ・<徳田>山本新治  ・<本郷>村野ユリア(かわらばん)  ・<荻窪>一籐 甫(おぎくぼ会報)  ・<赤羽>伊東義治(マリア)  ・<八王子>新井利之(熱心)  ・<松戸>小島知巳  ・<小平>星野 弘(小平教会報)  ・<築地>藤野秀夫(つきじ)  ・<本所>氏家義一(希望の家庭)  ・<関口>北沢典子(関口ニュース)  ・<亀有>中沢 啓(鐘)  ・<洗足>岸良弘子(キリストの光)  ・<多摩>八巻信生(多摩カトリックニュース)

招く!池の平山荘

研修所のご利用を
・ 冬はスキー! 妙高地帯はスキーのメッカとうたわれている。現地池の平(三ツ山)をはじめ、東には赤倉、関、燕、西には妙高国際の各スキー場があって、ベテランも初心者も存分に青春を楽しむことができる。
・ 夏は避暑!教区山荘は妙高の山麓、三千坪の森林にかこまれ、極めて閑寂なところにある。近くにいもり池、苗名の滝などの名所があり、笹ヶ峰キャンプ場、野尻湖などへもバスの連絡があって、夏の高原散策には最適。また、妙高、黒姫、火打ちなどへの登山も簡単で、夏の涼味を満喫することができ、テニス、ボート、自転車、釣り、ゴルフなども可。
・ 春秋は湯治!山荘には天然温泉の設備があり、カルシウム、鉄などの成分を多量にふくみ、リウマチ性疾患、神経痛、運動障害、疲労回復に特効がある。飲用すれば胃腸の働きを整え、天然の冷水と共に健康増進に役立つ。老人、病人の湯治には、若者の出入りが少ない春秋を。若葉や紅葉をめで、山菜やきのこの採収もできる。

(1)1泊2食大人3千円、小学生以下2千700円(予約金未納のときは追加金500円をも)。
(2)団体25名以上30名まで1割引。
(3)予約金は、1人につき500円。
(4)申込みは電話で確認後、予約金を振替口座に(長野11651)。
(5)日帰り部屋代300円、温泉料金200円。
(6)司祭、修道者1割引。
(7)予約金は、キャンセルの場合を除き宿泊料金から差引く。
(8)洗面具・寝具(ねまきなど)は、持参のこと。

電話 02558-6-3478
研修所管理人 野口 進

おことわり

「ブロック便り」は(1)「教区ニュース」がここのところつづけて発行され間隔が短いこと(2)ブロック委員の交替で担当者が決まっていないなどの理由で掲載を休みました。(編集係)

身近な話題も 第3回使徒職コース

使徒職研修コースも3年目を迎える。第2年度は約100名が参加し、体験を語りあって、日常生活の使徒職に生かして来た。
第3回コースは、教区教学部の事業として4月からはじまる。毎火曜午前・夜が3グループ、月1回土・日1泊が2グループ、全5グループで行われる。
各グループの特色とねらいは、
(1)婦人たちが集まり、嫁姑の問題をはじめ日常生活の具体的な話題を、キリスト教的視点で見直す。
(2)日常生活の中での疑問や反省の経験をふまえ、みことばの生き方と悩む人との痛みの分かち合いを。
(3)個々の信者の宣教力の向上と布教の実践化を図ることが方針。
(4)キリスト者としての喜びから、人々とともに生きる姿を探し、固有の使徒職への呼びかけを見る。
(5)黙想によるキリストとの親しい交わり、教理の理解、信仰体験などを通して霊的成長を目指す。

76年の金銀祝司祭

<金祝 ― 50年> P・ビソネット(ドミニコ会 1926・5・1)/渡辺吉徳(ドミニコ会 1926・6・13)
<銀祝 ― 25年> M・デフレン(大司教館 1951・3・18)/L・ノレ(H・ベルトランド 1951・3・20)/J・ウマンス(吉祥寺 1951・8・19)/小林五郎(小平)/高井幸一(センター)/青山謙(八王子)/市川嘉男(北町)/沢田和夫(神学院)  いづれも 1951・12・21 叙階。