お知らせ

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東京教区ニュース第19号

1977年02月01日

目次

  • 足もとから推進を! '77年度 代議員会テーマきまる
  • ダミアノで公式見解
  • 信仰のふところ 生まれ変わった小平
  • ひろば
  • あした葉
  • 既成化をねらう「靖国」 「からめ手」ほんとにご用心
  • 教区大会の初心に帰れ
  • 主日は礼拜感謝の日
  • 典礼法規・教会法メモ 6
  • 広報テーマ「広告」
  • よい出会いを ―カナの会ー
  • 要理講座3回目に
  • 移動信徒連絡密に
  • 「津」にカンパを
  • 招く!池の平山荘

足もとから推進を! ’77年度 代議員会テーマきまる

教区は3月21日(月)ー春分の日ー聖心大学マリアン・ホールで、1977年度の代議員会を開く。今回は問題をしぼり、小教区における教会共同体の充実・発展を主要テーマとすることになった。教会での成功・失敗の例や率直な意見をもとめるアンケートはすでに小教区に配られているが、まずブロック毎に内容を討議・整理し、教区でまとめ、議案として今後の方針を検討してゆくという。ここ数年、代議員会で決められる活動方針は、教区レベルでのものが主であったが、教会の現状から見て、いかなる運動の具体化と浸透も、まず小教区のたがやしからとの反省にもとづいたもの。アンケートの諸事項は、ただ代議員会の議案作りの便のためばかりではなく、教区民一人一人がつねに問題意識としてもっていなければならぬことがらとして、ひろく一般にも知られることが望まれる。

めざす 小教区共同体 づくり

「小教区」が起点

教区では毎年3月、代議員会を開いて活動方針をきめているが、活動は多岐にわたるため、今年は特に「小教区」をテーマにとりあげた。したがって教区レベルでの活動は報告程度にとどまるが、これは中断されたことを意味するものではなく、前年度にきめられたことはそのままつづく。

小教区に配られたアンケートには代議員会が何故まとを「小教区共同体づくり」にしぼったかについてのレジメがあり「教会は、神との親密な交わりと全人類一致のしるしとなることに、その存在理由がある。すべてのキリスト者は、この共同体を形成する責任をもちひとつの体の有機的な器官として各々独自の働きをすることが必要。教会内部の活動をする人も、協会外の活動をする人も、ともにひとつの目的を目ざして働いているという自覚と、相互のおぎないあい尊敬がなければ、教会はなりたたない。教会が真の共同体としての姿を示すとき、それはまたさらに大きな人類共同体の推進者ともなるのであり、その姿を地域であらわしてゆくのが小教区である。」とのべられている。

この観点から、現実の教会を反省しアンケートの諸項について問題意識をもつことは、代議員会での審議を別に常に必要とされる。

「教会報」責任大

代議員会のテーマが小教区における共同体の充実と発展であることと期を一にして、このところ「小教区報担当者の集い」が数回センターで開かれている。

小教区共同体内はもとより、小教区と地域社会との交流のために小教区報の果たす役割は大きい。毎回30人位が集まって討議しているが基本的な問題点は、やはり編集方針にあるとされる。

今後は(1)小教区報は何らかの編集方針にもとづいてつくっているか(2)小教区報が「小教区共同体づくりの深化のために」役立っているか(3)作るにあたっての一番の苦心点などを中心に、より深く掘り下げてゆくという。

あなたに問いたい

ひとつのからだ

A、教会共同体がひとつの体として親しく結ばれているか。

1、典礼が共同体としての交わりの場となっているか。

(1)ミサにどのような工夫をしているか。

(2)子どものためにミサをどのように工夫しているか。

(3)ミサの後の信者の交わりはどのような状況か。

(4)新しい入信の秘跡を実施しているか。実施にあたっての問題点は。

(5)共同告解(回心の祭儀)をしているか。

2、教会委員会や協議会について。

(1)委員会や協議会は、共同体の中でどのような働きをしているか。

(2)委員や協議会員はどのように選出されるか。

3、地域集会など、信者同士の地域ごとの結びつきを、どのように進めているか。

4、教会内の親睦・交流をはかるために、どのような活動をしているか。

(1)教会全体として

(2)各グループとして

5、未受洗者をどのように迎えているか。

(1)はじめて教会に来た人に対し、どのような配慮をしているか。そのような人に対する信徒の態勢ができているか。

(2)教理(要理)クラスの人(入門志願者)が教会活動に参加しているか。

(3)受洗志願者の代父母は、どのようにきめ、どのような働きをしているか。

6、転出入者についてどのようにしているか。

(1)転出入の事務手続きはどのようにしているか。

(2)転出入者をどのような形で信徒に知らせているか。

(3)九州・東北など、遠方からの転入者に、特別な配慮をしているか。移動信徒連絡事務所との連絡があるか。

7、在籍不在者(名簿上在籍していても、実際には他所に移っていて不在の者)をどのように見出すか。

(1)在籍不在者をたしかめるのに、どのような方法をとっているか。今後どのような方法をとることを考えているか。

(2)在籍不在者の転出先をたしかめているか。

(3)在籍していてもあまり教会に来ない人と、どのように接触しているか。

グループ活動

B、教会共同体のメンバーはそれぞれどのようなグループ活動をしているか。

1、各活動グループの名称・会員数など。

2、各グループ活動の内容と問題点は。

3、各グループ間の交流は。

4、教区レベル、全国レベルの使徒職団体などの活動に対する関心・参加の度合いは。

深めよ信仰を

C、信仰を深めるため教会共同体としてどのような努力をしているか。

1、信仰を深めるためにどのようなことをしているか。

(1)教理(要理)・聖書の勉強をどのようにしているか。

(2)人生体験・信仰体験等を話し合う錬成会を行っているか。

2、子どもの教育について、どのような配慮と努力をしているか。

3、中・高生について

(1)中・高生への宗教教育はどのような形で行われているか。

(2)中・高生に関する諸問題は。

4、説教についての要望は。

宣教する信徒

D、教会共同体として宣教にどのような努力をしているか。

1、未受洗者の教理(要理)クラスについて

(1)クラスの人々を集めるのに、信徒はどのような協力をしているか。

(2)司祭以外にだれか教えているか。信徒の協力があるか。

2、宣教する信徒が養成されるよう努力しているか。

3、具体的な宣教活動は。

家庭への配慮

E、未受洗者のいる家庭に対して教会共同体はどのような配慮をしているか。

1、家庭の信仰を深めるために、教会共同体はどのような配慮を。

2、家庭会を行っているか。

地域との交流

F、教会共同体として地域社会への奉仕・交流をどのように。

1、ボランティア活動は。

2、地域との親睦・交流は。

3、社会活動への参加はどうか。

4、子どもと、その親に対する配慮がなされているか。

5、クリスマスにおける地域との交流はどうか。

6、地域の文化活動の場となっているか。

ダミアノで公式見解

最近、イタリア、ビアンチェンツァ教区、サン・ダミアノで起こったといわれるいわゆる聖母の「ご出現」や「奇跡」について、教会の公式な見解が告示された。

それによればこれらの出来事は超自然的なものではなく、それをさわぎたてるのは教会に対する明らかな不従順であると。サン・ダミアノへの巡礼結成はすでに公式に禁止されていたが、白柳大司教はこれについてさらに同地の司教エンリコ・マンフレディ二師に公式文書を求めたところ、このほど当問題に関する責任者ジョバンニ・カンパナ師から次のような書簡が届いた。その骨子は(1)サン・ダミアノに集まることを正当化するいかなる超自然的出来事もない(2)この現象に信頼をおかせるようにつとめる者は、教会に対するあからさまな不従順の状態にある(3)ここに集まる修道者たちは、躓きの機会となる。司祭の場合ミサを献げたり、説教したりする権利はない、というもの。

聖母信心は大切なものの一つであるが、不従順のうちに聖母を崇拝し、ゆるされていない宗教行為を捧げ、聖母と異常な交流を行おうとするなど、すべて真に聖母をほめたたえることではないとしこれらの勧告に協調しないよう白柳大司教も、教区民に呼びかけている。

信仰のふところ 生まれ変わった小平

小平小教区は一昨年の12月の7日、ともかくも新聖堂の献堂をすませた。

旧聖堂が、毎日曜日のミサに集まる参会者を収容しきれなくなったという現実を前にして、祈りの平安にふさわしい場を神に捧げたいという主任司祭と小教区民の願いが、懸案の事業を細々と支えてきた。

昭和44年に聖堂改築を目標として醵金の積み立てをはじめて7年余。篤志家の多額の寄附や大司教館からの借入金に救われて新聖堂の竣工をみたいま、1千500万弱の債務になお数年にわたる積立をどうにか維持している。

想えばこの小教区はラッキーであった。いまを去る20年前、小教区教会の少なかった三多摩の一角現在の地に、旧聖堂がはじめて成った背後には、やはり篤志家の寄進と、当時いまだ数少なかった信徒の集まりが大きい支えであった。

その頃の幼児やまだこの世になかった新しい生命がつぎつぎに育ち、老壮若の男女が明日に光を求めてそれぞれに活動をつづけている。市川嘉男師と藤岡和滋師により、20年にわたって育てられた芽が、小林五郎師の指導のもとにいよいよ成長することを期待しながら―。

私たちの小教区では一人一役をモットーとして、一人でも多くが小教区の運営と活動に参加するようよびかけている。教区民の流動定まりがたい新開の地にあって、遅々とした活動の中で、いまは幼い明日の生命を、たくましく伸ばしてゆくことこそ私たちに課せられた役務の一つと考えている。

ひろば

カト高ってなアに

教区ニュースのために、すこしニュース用の話をしてくれよ。

A.カト高って高校生の自由な活動の場だろ。自分たちで自主的に責任とってやってるんだ。教区ニュースというのは教会のものだろ。カトリック教会の下部組織みたいに考えられるのは反発するな。

B.せっかく善意の人たちが話をきこうとしているのに、それじゃ味も素っ気もないわ。「わたしたちはボランティア活動とか、錬成会を通じて知り合いになった人たちなんです。カト高の活動で少しめざめた私たちは、仲間と一緒に、仲間をつくる運動をしているんです。」こういうようにお行儀よくこたえれば、善意の人にわかってもらえるのよ。

A.君は楽観的すぎるよ。ぼくはさ、教会のおとなだって、ふつうの人間だと思うんだ。つまり体験がなけりゃカト高って何だかわかりっこないよ。君のいってることなんか通じないよ。

B.あら、A君はおとなたちにカト高の体験をさせたいの。相手は高校生じゃないのよ。

A.わかってるよ。でもさ、自分たちの問題を解決する自分たちのグループをつくる自主的な活動の体験のない人にはカト高って何だかわからないと思うよ。いま自分がおかれている会社や社会の立場を守ろうと努力して、それだけにしか目のない人にカト高の話したって、変なグループだと思われるだけだ。

B.ずいぶん悲観的ねえ。私だって、初めカト高に来た時、何の問題意識もなかったと思うわ。でも活動しているうちに自分身分が何だかわかってきて、やりたいことをやりたくなったのよ。みんなに開かれた場が必要なの。わかる?

A.でも、大人たちは開かれた場を独占するの、うまいんだぜ。

(カト高生活指導者会事務局)

あした葉

「現代っ子はシアワセ!!」と、ある大新聞が報じた。青少年を対象とした総理府の調査のまとめである。74%が生活に満足し、約23%が悩みや心配ごとがなく学校生活にも改善の希望をもつ者は50%どまり、父とは50%、母とは80%以上が対話をし、78%が心を打ちあけて話せる人をもち、3人に1人はサークルなどに加入している。「金や名誉を考えず、自分の趣味にあった暮らし」(55%)や、「その日その日をのんきに、くよくよしないで暮らす」(23%)ことを多くの青少年が望んでいるという//総理府青少年対策本部では「生活条件が整備されてきたこと」を大きな要因としてあげている。「この通りなんでしょうけれど、ほんとにシアワセなのかしら」「それならどうして、私たちの心はこんなに重いのかしら」記事を見た高校生の反応だった//昔から西洋ではビリケンを福の神とし、日本では福助を幸福のシンボルとして来た。前者が小頭症、後者が脳水腫、共に白痴ではなく、高い理想をもつ者ならば、現実との相克に悩むことは当然ではないのか。感謝すること、現実を受容することは美徳だが、満足しているのが、深く考えないためであるなら怖しい//現実をも批判できる独自の視点を持てず、思索する余裕もなく、公式を覚えたり推理によって正解を出す訓練に偏った教育であれば自分と身内の者の衣食住に事欠かぬ限り、痛みも悩みも感じない、無気力な現状満足型青年が増えるだろう//福音は神の視点から常識に挑戦する。ことばと生きざまとをもって、神の問いかけを世に響かせるのが預言者である。その役割を担える素地を培うことも必要だろう。神に目を上げると同時に神と共に世を見る力を養いたい//「若者は本質的に予言者である。かれらが明日の世界を創るのだから・・・・・・」(シラー)明日の世界と教会を予想させる若者と共に預言の力を錬磨しよう。人の声と世の声を深く聴きとる力を養い、神の声を聞きとろう。 (K・K)

既成化をねらう「靖国」 「からめ手」ほんとにご用心

1972年、教区大会で靖国神社法案反対の決議がされて以来、教区は布教司牧協議会の靖国問題実行委員会を推進機関としてこの運動にとりくんできた。「ヤスクニ」は大きく曲がり、表面は下火になったようにも見える。しかし推進派は決して断念せず、法的手続きでこれの実現に役立つあらゆる事柄の既成化をねらっている。津地鎮祭違憲訴訟の最高裁判決も楽観をゆるさない。「日本カトリック正義と平和協議会」もこのほどこの問題をとりあげた。推進派の工作が、いわば国民の心情に訴えて、からめ手からなされようとしているとき、われわれもまた問題をとくに内側からとらえ、その重要性の認識を一層ふかめる必要があるのではなかろうか。広報部では、永年この運動にたづさわっている政教分離の侵害を監視する会事務局長・西川重則氏に、問題点や今後の方向などをきいてみた。

根は深く道険し

天皇在位50年記念式典問題が、大きな問題となっている。昨年11月10日に政府が国民こぞって天皇に祝意を表明するよう呼びかけると共に、日本武道館において一方的に式典を強行したことから、キリスト教界はじめ民主的諸団体および多くの国民はいっせいに式典問題に反対の意思表示をしたことは当然であろう。

しかし、問題は今後の私たち自身にある。すなわち、天皇在位50年記念式典問題とは、天皇ないし天皇制問題であるからである。この本質的認識を欠如した関心・疑問・反対は早晩消え去ってしまうであろうことは明らかである。

そうした意味で、この天皇在位50年式典問題は、まさに私たちの天皇、天皇制問題に対する認識あるいは姿勢を自らに問う格好のテスト・ケースであったと言わねばならない。

ところで、多くの人は昨今の靖国問題をめぐる諸問題を事実に即して把握するのに困難を覚えているのではなかろうか。靖国神社法案の提出はおろか、慰霊表敬法案すら姿を見せなくなり、「英霊にこたえる会」にしても結成以来あまり活動しているようには見えないではないかというわけである。つまり、教会にとってこのような時にこそ伝道に専念すべきであって、いつまでも靖国問題にエネルギーを使ったり、天皇問題に貴重な時間を費やすのは、結局は教会の第一義的な責任と使命を忘れてしまっているのではないかというのである。

狂信集団の誕生か

なるほど確かにそのような声が聞こえてくる時代になったことは事実であり、そのような錯覚を与えるような状況であるようにも思える。しかし、そのような状況認識がどんなに事実誤認に基づくものであるかは冷静に考えれば容易に気づくはずであろう。

そもそも天皇在位50年記念式典の政府主催による強行それ自体が靖国状況がどんなに根深いものであるかを端的に立証したのではなかったろうか。天皇在位50年をトータルにお祝いする発想そのものが靖国問題の核であるということに気づかないことがむしろ大きな問題なのである。同時にそれは天皇および天皇制問題の本質が全然理解されていない証拠でもあろう。

次に私たちは靖国問題について考える場合忘れてならないことは言うまでもなく「英霊にこたえる会」の誕生とその後の運動の広がりについてである。「英霊にこたえる会」の誕生とその後の運動の広がりについてである。「英霊にこたえる会」が発足した時、その基本路線が英霊顕彰運動の展開にあったことは周知の事実であろう。と同時に、彼らが「英霊」を自己限定して、靖国神社に合祀されている戦没者のみを「英霊」と断定していることは、いったい何を意味するのであろうか。

靖国神社の成立過程からみて、その祭神は天皇の認可による祭神であり、天皇制国家における護国の鬼としての位置を与えられて今日に至っていることは自明のことである。従って、天皇との密接不可分の関係をもつ祭神のみを「英霊」と呼ぶ集団が発足したことは、靖国問題の本質である天皇の下に護国の鬼として「散華」した「英霊」にストレートに答える国民的道義の再建を企図する新宗教集団の誕生を意味しており、今日の靖国状況はかつての靖国法案提出時代よりは一段と幅の広がりと質の厳しさを見せていると言わねばならない。しかも、「英霊にこたえる会」の基本構想の実現、すなわち全県ブロック単位の活動の具体化が図られつつある現状なのである。

信仰危機の実感を

さらに言えば、その会に私たちと同信であるはずのキリスト者、しかも指導的立場のキリスト者が幹部に就任している現状をどのように判断すべきであろうか。靖国状況が的確に認識できないという事情もあろう。しかしより深い理由はそのような状況判断の問題ではなくて、むしろキリスト教そのものについての認識の問題であろう。より具体的に言えば、キリスト教神学ないし信仰の問題が深く関わっているように思われる。それだけに、根は深く、その解決の道は険しい。しかし、私たちは今日、そのような厳しい状況下にあることを自覚しなければならない。

一方、国家と慰霊との癒着が公然となされようとしている昨今、さらに来る2月11日は「建国記念の日」制定満10周年であることから、靖国推進派はますます国家による祝典の完全実施を要求しようとしている。それらが、天皇思想の深化のために極めて有効な運動であると彼らが信じていることは、疑う余地もない。私たちが今、直面している状況とはまさにこのような危機的現実なのである。靖国状況に対して、今こそ目を覚まして真正面から対処すべきではあるまいか。

(西川重則)

教区大会の初心に帰れ

土井枢機卿によって提唱され、具体的には1970年1月から始まって、1972年1月23日の、代議員会第3回会議に至るまで行われた「東京教区大会」によって、東京教区は、日本の全教会の注目のうちに新たな出発をした。

教区大会の概要は、東京教区大会「中間報告」(70年)、同「議案集」(71年)、同「代議員会議事録」(72年)、同「部会報告書」(73年)に克明に記されている。

第二バチカン公会議は、カトリック教会の新たな方向を示し、またそれがやむにやまれぬ願いと熱意に燃えてひらかれたものであるが、教区大会もまたさまざまな困難をのりこえ、予知しながら、教会が真に地の塩、世の光となろうとして、公会議と同じ迫力をもってひらかれたものである。

それから、間もなく満5年となるが、その間、この教区大会の目指したものがいろいろの形で実を結びつつある。

組織面では、布教司牧協議会、ブロック会議が着々と動いているし、また活動面でも、それまで個人レベル、または小教区レベルで行なわれていたものが、ブロックレベルや教区レベルで行われるようになったものもいくつかある。

そして、多摩ブロックの夜間錬成登山、中高生のための錬成会、活動費を集めるための音楽会、城南ブロックの文書配布活動、中央ブロックの青年のための修養・錬成会等、ブロックで企画し、活動しているものも多くなった。

また、代議員会決議による東京教区要理教育講座、使徒職研修コース、靖国神社問題、教区ニュースの発行、カトリック書籍を一般書店におくための努力などが地道に一歩一歩進められている。

このようにして、教区大会が基本的態度において意図した「教会共同体づくり」が徐々に進められていることは、まことによろこばしいことである。

今年3月21日(春分の日)には第4回の代議員会開催が予定されている。この代議員会を前にして、これから諸方面からの準備と努力がつみ重ねられてゆくことになるが、それを始めるにあたって、これまでの教区大会以後の歩みをふりかえり、その基本的姿勢すなわち「教会共同体づくり」をもういちど教会全体にしみわたるような働きかけを積極的に行うことが必要であろう。

最近各小教区発行の小教区報をみると、その巻頭に、教会共同体という観点からのことばがのせられることが多くなってきている。それは、現代の教会の姿と方向をよく反映している。

時は更に熟しているというべきであろうが、同時に熟成を促すために、教区大会の時点では、考えの及ばなかった面についての検討、そして、特に教区大会に直接関係した人々だけがもつ熱意と願いになるような努力を、更に一層積みあげてゆきたいものである。本年度の代議員会のテーマは、「」

主日は礼拜感謝の日

昨年の「生きた典礼をめざす集い」は、とくに「主日」をテーマとして行われた。

典礼憲章の発布によって、従来の、掟を前面に出しての主日とそのミサについての考えは改められ神の民であるわれわれの共同体としての教会が、感謝と礼拝をささげるという積極的な面が前景にうち出されたといわれる。

それにより、定められた故にではなく、信徒ひとりひとりが主体的に典礼のうちにひめられているものをよりよく理解して感謝をあらわし、よろこびを示すことができるようになった。典礼文その他の邦語化、また聖書、特に民の声をうたいあげた詩篇をもとにしての典礼聖歌がつくられるなど、活発な前進的な動きがあった。

木に竹つぐ感も

しかし、かなりの前進があったことはみとめつつも、もう一歩のつめがなされていない。依然として、典礼改革が木に竹を継いだように行われたという感覚が残り、釈然としないという意識が、どことなく残っている。典礼に関す論議は、形式論が終始しがちである。主日のミサへの参加は、相も変わらず「おつとめ」的になってしまう。

そのような問題を意識しつつ、「生きた典礼をめざす集い」と銘うって、生き生きした、典礼への参加者の人格的参加が行われるようにと願いつつ、4年前から、集いを行なってきた。

救いのしるしミサ

「主日」について話されたいくつかの点をひろってみると、

(1)日曜日、つまり安息日というものは、心と身体を休めるだけでなく、すべてのものが、おさまるべき所におさまる日であるはず。休日と神を想うということとは表と裏のようなものでなければならない。神との正しい間柄に自己を復元させることこそ中心。

(2)さらに、キリスト者にとっては死んで復活したキリストに結ばれる日であるということ。キリストが人間性において神のものになりきったことによって、同じ人間性をもつわれわれもまた神のものになり切る道がひらかれた。この受肉の秘儀と秘跡性を現実化するのが主日である。

(3)ミサは、神とわれわれとの間柄を明らかにする時であり、救いのしるしである。それに参加することは救いのダイナミズムに加わることを意味する。しかも、教会共同体としてキリストを記念し、その共同体のうちに救いがもたらされようとしていることを宣言し、完成させてゆかねば。

などが主なもの。

典礼法規・教会法メモ 6

教義聖書は、カトリック以外のキリスト者の死者のため、カトリック教会でミサを献げる事に関して次のような教礼を発布した。

1.私的ミサを献げること、信心・友情・救霊湯の名目でミサを献げることは問題ない。

2.公のミサについては、死者の良心を尊重する上からも、カトリック以外の人々のためにミサを献げないという現行規則は残る。

3.ただし前項2の規則は、新しい教会法が発布されるまで、次の条件がみたされる限り廃止してよい。(1)死者の家族・友人・部下によって、明白に宗教的動機から、公のミサが願われること。(2)裁治権者の判断で、信者のつまづきがないこと。

4.死者の記念はカトリック教会との完全な一致を前提とするので奉献文で死者の名は出さない。

5.カトリック以外のキリスト者の典礼への共同参加については、バチカン公会議およびこの点に関する諸規則に従う。

広報テーマ「広告」

今年の広報の日のテーマは「広告」である。全国広報委ではどのようにこれにとりくむかが議論されているが、広告についての倫理要綱を信徒に紹介し、批判の目を養わせることを主眼としている。

同時に広告、とくにテレビのコマーシャルが子供にあたえる影響が大きいことを問題とし、市民団体とも手をとってこれに取組んでゆく構えである。

よい出会いを ―カナの会ー

結婚を望んでいる人々のためによい出会いの機会を世話したいとカナの会が東京教区の連合委員会の下に組織されて、もう10数年になる。本部は麻布教会内にあり、年間20組前後の新しいカップルがその中で成立している。各教会で選ばれた委員がこの隠れた仕事をしている。

現在本部の外に、吉祥寺、関口、本所、初台にそれぞれ事務所を持ち、更に真生会館の中で毎月1回出張相談をしている小林事務所と身障者を特にお世話するステラ事務所とが加えられて、7ヶ所となっている。

カナの会はこの他、年間10回前後の結婚講座を後援し、教会の内外から好評を得ており、去年の秋にはその70回目を終わった。

カナの会が今持っている一つの悩みは、女性申込者が男性を大幅に上回っていることである。

要理講座3回目に

第3回目の東京要理教育講座は、4月15日から開講される。対象は、要理教育にたずさわるキリスト者(学校における宗教や倫理の教師も含む)。目的は、従来と同じく要理教育にかかわるキリスト者(司祭・修道女・信徒)の養成・研修となっている。

移動信徒連絡密に

教区の移動信徒連絡事務所は、このほど教会と同事務所との関係を次のようにまとめた。

移動信徒連絡事務所の担当者は、東京教区に転入して来た移動信徒が、小教区に入り、持っている信仰が成長し、この地に適応して、人びとに福音の証しをしてゆくことができるよう小教区の司牧者の手伝いをする。

(1)転入する移動信徒の出身小教区から送られる転出証明書(長崎の場合は教区センター連絡事務所より送られる名簿)を基にして、移動信徒の出身教区別名簿を作り備えると同時に、各小教区に連絡する。

(2)名簿に従い、転入してきた信徒に、手紙・電話・面接などで個人コンタクトを始める。一方、出身教区の信徒県人会のリーダーたちに転入者の名簿を送る。

(3)転入者の住所が安定したなら、各信徒がそれぞれの地区の小教区に入れるよう相談に応じる。

(4)転入信徒が自分から小教区へ行けない時には、小教区を案内し、主任司祭を紹介し、その信徒が小教区に入りやすくなる配慮をしていただく。

(5)連絡事務所の担当者は、時々小教区を訪問し、連絡をとり、たのまれればその小教区に適応できない移動信徒を助ける。

「津」にカンパを

「津地鎮祭違憲訴訟」の最高裁判決が近づいた。この裁判は、憲法にある信教の自由・政教分離の原則が現実にわれわれの社会に定着するかどうかがかかっている重大な裁判である。信教の自由という人権を大切にし、その実現・確立を強く望んでいるわれわれは、津市の挙行した神道式地鎮祭を違憲であるとした名古屋高裁の判決が最高裁においても支持されるよう、世論を喚起してゆかなければならない。

名古屋高裁の判決で示されたものは、人権の尊重・平和の実現という立場から、靖国神社国営化に反対してきたわれわれの考えと全く一致するものである。支援団体として「津地鎮祭違憲訴訟を守る会」があり、われわれもその運動に協力しているが、活動には多くの資金が必要である。できれば、たとえ小額でもカンパが望まれる。

(靖国問題実行委員会)

招く!池の平山荘

研修所のご利用を

・ 冬はスキー! 妙高地帯はスキーのメッカとうたわれている。現地池の平(三ツ山)をはじめ、東には赤倉、関、燕、西には妙高国際の各スキー場があって、ベテランも初心者も存分に青春を楽しむことができる。

・ 夏は避暑!教区山荘は妙高の山麓、三千坪の森林にかこまれ、極めて閑寂なところにある。近くにいもり池、苗名の滝などの名所があり、笹ヶ峰キャンプ場、野尻湖などへもバスの連絡があって、夏の高原散策には最適。また、妙高、黒姫、火打ちなどへの登山も簡単で、夏の涼味を満喫することができ、テニス、ボート、自転車、釣り、ゴルフなども可。

・ 春秋は湯治!山荘には天然温泉の設備があり、カルシウム、鉄などの成分を多量にふくみ、リウマチ性疾患、神経痛、運動障害、疲労回復に特効がある。飲用すれば胃腸の働きを整え、天然の冷水と共に健康増進に役立つ。老人、病人の湯治には、若者の出入りが少ない春秋を。若葉や紅葉をめで、山菜やきのこの採収もできる。

 

(1)1泊2食大人3千円、小学生以下2千700円(予約金未納のときは追加金500円をも)。

(2)団体25名以上30名まで1割引。

(3)予約金は、1人につき500円。

(4)申込みは電話で確認後、予約金を振替口座に(長野11651)。

(5)日帰り部屋代300円、温泉料金200円。

(6)司祭、修道者1割引。

(7)予約金は、キャンセルの場合を除き宿泊料金から差引く。

(8)洗面具・寝具(ねまきなど)は、持参のこと。

電話 02558-6-3478

研修所管理人 野口 進