東京教区ニュース第21号

1977年06月01日

開かれた共同体づくり 長期視点の’77代議員会

教区は3月21日、聖心大学マリアン・ホールで1977年度の代議員会を開いた。出席代議員255人。代議員会のおもな役目は布司教関係での教区の活動方針をきめることにあるが、方針はもともと長期的なものであるはずのことから、従来のものをそのままひきつぐ。しかし今年は「小教区という教会共同体の充実、発展をめざそう」が方針案の第5の柱として加えられた。審議はおもにこれについて行なわれ、具体的に提案された(1)教会学校の振興による子どもの教育への努力(2)地域における宣教・司牧について、小教区母体と修道院・施設母体との協力・交流(3)在籍者を確認し、在籍不在者をなくして行くこと(4)新しい入信・ゆるしの秘跡について実行方法などの検討と趣旨徹底を可決、促進することを決めた。ついで財政面でも決算を承認、予算案も通過した。

小教区の責任を自覚

会議は午前10時15分、議運委谷元一義氏(赤羽)の開会の辞につづき、布司教議長・塚本伊和男(洗足)高根和雄(田園調布)両委を仮議長としてはじまった。祈りのあと白柳大司教が挨拶「今度の代議員会は小教区に焦点をあわせた。一人一人に責任のあることを自覚し、自由のうちにも愛と尊敬をもって審議を」と述べた。

焦点をみじかに

つづいて代議員の中から山本譲治(麹町)村岡昌和(赤羽)嶋津悦子(女子パウロ会)の3委を議長にえらび、プログラムにしたがってまず永島洋三委(高円寺)が活動報告、昨年度の方針がどれだけ実行にうつされたか、問題点はどこかなどを中心に、各部・委員会・実行委員会・各ブロック・布司教などの活動が総括的にのべられた。質疑ではとくにやすくに委の活動が問題になり、教区ニュースにもかかわることがらとしてそれぞれの責任者が答弁した。

意味ない画一化

浜尾司教の基調演説は、今年度の方針の新しい柱「小教区」を中心になされたもの。アンケートで出された提案の中で(1)家庭を共同体の基盤とし聖化につとめる(城東)(2)ミサを交わりの中心にする(城北)(3)未洗者のいる家庭についての配慮(同)(4)現小教区再編成の検討など、本題議員会の議題にのぼらなかったものの主旨をも含めてとくに一人ひとりの差を強調した。すべての人がそれぞれにかけがえのない者であり、共同体化は決して画一化を意味するものではなく、小教区は万人に開かれたものであるはずと述べた。

どこから逸脱か

午後の活動方針案の審議では再び「ヤスクニ」が問題となった。最近の靖国問題実行いの活動には疑問があり、このままエスカレートするのでは方針として認めてよいものか、例えば(1)「天皇在位五十年年を考える会」に出席したりデモに参加したりしているが、これは本来の法案反対の域を逸脱した政治活動ではないか(2)教区ニュース2月6日号に、西川重則氏のことばが記載され、靖国問題と天皇制との問題にふれているが、公の機関紙に個人の意見をのせるのは不当ではないか(3)津の意見訴訟にかかわるも不当で別の団体が行うべきではないかなどというもの。これに対する教区の回答要旨は次の通りである。

(1)信教の自由を現実社会に実現させるのは政治活動だ。同実行委は天皇制反対を表明していない。しかし靖国神社が、天皇により霊が慰められ賛美される国民の宗教ということには反対せざるを得ない。西川氏の言葉も問題の深さに気づくきっかけになればと掲載した。教区ニュースは官報ではないので個人的意見も署名入りでのせる。津は「ミニ靖国」であり、法案提出を未然に防ぐための闘い。誤解をまねかないように行動範囲を考える配慮は勿論忘れていない。

充実めざす小教区

本年度の方針案として新しく加えられた第5の柱「小教区という教会共同体の充実、発展をめざそう」は次の4つの具体的な提案として可決された。

明日の子どもに

1.教会学校 ー

信徒の子ども、地域の子ども両面への配慮から。指導者・父母の協力・教材不足などが難点。教区教会学校部の指導、財政面での援助など教会全体の関心で。(振興策事例 1.教区の教会学校部の存在をPR 2.教師養成講座への参加 3.PTAの充実 4.壮年も婦人もたやすく教育に参加し得る方途を 5.教区とつながりをもつブロック教会学校部の発足も)。

互にアイデアを

2.同一小教区内における母体間の協力 ー

小教区共同体意識を深化させ、主の望む姿で地域に育てることが主旨。小教区運営には修道会なども参与を。協力は形の上でなく、地域のニードへの分担の仕方の観点から。観想修道会は祈りで。(具体的事例

1.「初教区宣教司牧会議(仮称)」を開き、アイデアを出す 2.大祝日などに、全母体構成員が1つのミサに与かる)。

暖かなふれあい

3.在籍不在者 ー

調査は事務的に処理する一方、当人との暖かいふれあいが必要で重点はこちら。行きすぎからの反発も考えねばならないがむしろ事前の配慮が肝腎だ。移動信徒連絡事務所の存在もPR不足。まずブロック内で不在者を確認するなど問題への心が第一。(具体方策

1.通信 2.家庭訪問 3.同一時期・方法での実態調査 4.在籍不在者の名簿作成 5.追跡調査)。

布司教で努力

4.新しい入信とゆるし ー

新しい入信の秘跡は、教会共同体づくりに重要である。教区はその主旨を徹底させ、方法の検討をも含めて実施を推進させてほしい。「共同告解」など言葉の誤解もある。単に典礼の問題ではなく小教区の充実、発展のために出された提案で、まず啓蒙活動が必要。この提案は活動方針としてはおかしく、末尾を「推進をはかって行こう」とすべきだとの意見があった。主旨はもっともだが、これは布司教の努力事項としてうけとめ、皆にかえって行くものと理解される。

監査要請の声も

<決算>目下財政自立にむかって進んでいる。1969年外国からの援助が50.45%だったものが、昨年度は16.47%、信徒の献金は67.24%になった。土地の処分もしなくてすむ。挙式献金減はカテドラル負担ゼロのため。

<予算>小教区負担金は一昨年度の2割増でたてた。神学生育成献金500万は大幅増である。助成金は為替レートのため減。支出で小委ゼロは部ができたため。職員給与は約1割増。管財費は営繕修理費。(収支決算予算書は本紙20号)会計監査役を要請する声にはこれに相当するものを出すとの議長提案も否決。考慮対象として財政委での検討を後の布司教で決めた。

信仰のふところ 病院が生んだ小金井

「みなが1つになるように」と小金井教会の新しい聖堂(使徒聖ヨハネ)の定礎の銘にラテン語で刻まれている。「父よ、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにおるように、みなのものが1つになるためである」(ヨハネ17の11)。

教会はキリストのこの祈りの達成である。キリストの時代にイエズスを信じて集った人たちが、新しい民として形づくられ、この民は教会と呼ばれた。聖書において愛と信仰に結ばれている神の家族1つの共同体にならなければと、建物や組織をつくることよりも、教会の内面的な命をもっていきいきと成長し発展していくように、各人が祈りと秘跡の典礼生活を大切にし、信仰によって活動することを、教会作りの第1の方針としている。

この教会の発祥の足場とも支えともなったのは、桜町病院を創立された故戸塚文卿神父と聖ヨハネ会のシスターたちをはじめ、40年の歴史にかくれた多くの恩人たちであり、これらの人びとのことを忘れてはならない。

かって戸塚神父は「カトリック病院は単なる医療活動だけでなく神の家、愛と祈りの病院とならなければ・・・・・」といわれたが、困難な中にもこの言葉に従うよう努めている。ムニー神父の小金井教会着任以来、みなの活発な宣教活動によって病院も教会も求道者がふえ、地域の人びとが容易に福音に接する場として、また神の民が集まって主を記念し、秘跡の恵みをうけるために、目に見えるかみの共同体(教会)となりつつある。

一粒の麦の喩えとはこのことであろうか。幾多のかざ波をこえて、先人の信仰の遺産が実り、美しい聖堂ができたのも、信者・求どうしゃその他多くの恩人たちの信仰にもとづいた犠牲、感謝の心から・・・・・。

ひろば

クリスチャンといわれる人びと、その中で特にわたしたちカトリック者の中には意外に政治に対し、無関心を装う人が多い。否、無関心を越え、アレルギー的現象を示しているといってもよいくらいだ。

勿論、宗教と政治は全く異なったもの、「政教分離」の原則は守り抜かなければならない。が、かっての教会の教えはあまりにもこれを強調していたために、いつしか政治に口出しするのは「罪」につながるといった思想が信徒の大勢を占めてしまったのではなかろうか。

わたしたちはカトリック信者であると共に人間である。一人の日本人である。毎日三度三度食べる一杯の御飯すら政治が絡まってはじめて食膳にのぼる。政治からの直接あるいは間接的派生物の恩恵にあずからなければ生きてゆけない時代ではなかろうか。

 政治活動とは一つに時の体制側に反旗をひるがえすことではない。ムルグ師はいっている。「沈黙は暴君の最良の友である」と。どんな悪政をやられ、ために人びとが苦しみの渕に落ちこんでいるのを見ていても「俺たちには関係ない」と手をこまねいているのなら、果たして御主は「それでも良し」とおっしゃるだろうかわたしは思う。己のみを投げ打ち、暴君と闘い、苦しんでいる人びとをその中から救い出す勇気こそ、キリスト者の心ではないだろうか。

よからぬ政治の魔力は、今ひたひたとわたしたちの身近に迫ってきている。その一つに「靖国神社国営化」や「津地鎮祭裁判」などの問題がある。体制側はこれらの問題を契機として、宗教(神社神道)を国家宗教に格上げしようと企てている。「明日」では遅い。政治の動向は何であるのかと本気に見据え、はっきりした態度を表わさない限り、わたしたちの毎日の祈りとは何だ、と問われるだろう。 (J・K)

あした葉

新教の人びとと「ヤスクニ」を共闘してゆくときしばしばぶつかる問題に「慰霊」がある。カトリックでは死者のために祈るがプロテスタントでは祈らないとよくいわれる//「英霊」とよんだり「国家」が慰霊を行うことの不当性を別として、死者の霊にかかわりうるというのがカトリックの立場だ。これは煉獄についての教義「まだ償いを完全に果たしていない義人たちの霊魂が償いの罰によって清められる煉獄が存在し、信者たちは霊的業によって彼らを援助することができる」の立場から出る。つまり、在世者は死者を祈りによっても助けることができるわけである//助けられれば慰められるから「慰霊」ということにもなろうが、プロテスタントは祈りをはじめ恩恵による自由な信心業の立功性をみとめない。これらの業には単なる人間的価値しかなく、あえて行なえば神の固有の領域を侵すことになるという。従って、その前提となる煉獄の存在とともに人為的ないっさいの慰霊を拒否するのである//さてわれわれの立場で注意しなければならないのは、祈りは神に対してであって死者に対してではないということである。したがって愛にもとづく最高の価値があるにもかかわらず、そのかかわり方からすればなんとなくものたりないような気もする//ところが一方、神学者たちの通説によると「煉獄の霊魂もとりなしによってわれわれを助けることができる」とされる。彼らの祈りは自らのためばかりでなく在世者のためにも捧げられるからである。しかも肝腎なのはわれわれはその霊にむけてとりなしを願うことさえできるということだ。彼らとのかかわりあいはこの方がずっとじかではないか//こうなるともう助けて楼を減らす「慰霊」どころか逆にこちらを助けるために労を増させる「依霊?」だ。戦没者にギブとテイクでもないが今夏も「千鳥ヶ渕」へ。 (S・A)

二進一退の実践 肝腎なことはてつけず
’76教区活動報告

代議員会の午前の部では、先年度の方針がどれだけ実行にうつされたかの活動報告が総括的に述べられた。方針のなかにはかなり軌道にのったものもあるが、召し出し・勤労青少年など、ほとんど手をつけなかったもの、中途半端なものも見られた。報告のあとそれぞれの推進機関の責任者が補足説明、質疑に応答したが、とくに靖国問題には教区ニュースもからめて論議が集中した。

 

「靖国」つるしあげ 宣教・人権

1、司祭研修会―11月15日から17日まで河口湖・富士緑の休暇村を会場に、白柳・浜尾両司教をはじめ、40数名が参加。「福音の社会的側面」というテーマで神言会・三好迪師、イエズス会・ニコラス師が講師にあたった。このテーマの聖書・神学的背景を系統的に解明するもの。

2、要理講座―第2回は12月10日に終了。希望者には資格認定試験があり、合格者には認定書が与えられた。教会その他で活動している一般信徒の受講がふえ、現代にふさわしい新しい要理教育が次第に浸透しつつある。しかし宣伝がまだ不徹底であり、宣教は神のみという考えが一部では残っている。4月からの新規ものでは信者再教育の研修会の用意も。

3、研修コース―5グループで開き、約100人の参加があった。食事を共にしたり、老若男女和気あいあいの雰囲気も。スタッフ不足、全然参加者のない教会が多いなどが問題点。普及はパンフ・ポスターなどで知らせている。3回目は教学部の事業ですでに4月から開講。

4、生きた典礼―「主日とミサ」「奉献文」「みことば」をテーマに、主日を中心とした3回の集いを開いた。主日のミサへの参加もおきてまたは義務という意識がつよく、典礼としてのもり上がりがないとの観点から、典礼を生活の中心にしてゆくことをねらった。

5、司祭・修道者の召命―ほとんど手をつけなかった。

6、靖国神社問題―「英霊顕彰新国民組織」に反対する公式見解を出す。「天皇在位五十年を考える会」出席。これは靖国国営化阻止キリスト者青年連絡協議会などおもにプロテスタントの団体で形成された「考える実行委員会」が主催、日本キリスト教協議会靖国問題特別委員会(カトリック靖国委も加盟)後援で行われたもの。つづくデモにはボランティアの行動として参加。津地鎮祭違憲訴訟の勝訴をめざしてチラシを信教自由の立場から全教区民に配布。

7、人権―社会部が担当し「正義と平和協」と連係をとり、国内では「多摩の自然を守る運動」などの公害問題、外には韓国問題をはじめとする人権擁護の活動にとりくんでいる。

8、カリタスの家―小教区に窓口をふやす運動で現在23ヶ所。「地域に根づいた福祉拠点づくり」では松原と麻布がモデル地域だ。ボランタリズム普及の意味で勉強会や講座を開いている。

土地処分まぬがる 財政

1、不動産―教区財政確立のため活動に直接関係のない土地を整理処分して教区基金をつくる案。教会敷地で、当面の司牧と宣教に必要なもの以上の余分のものについて布司教で検討した結果、現況ではさしあたってその必要なしとの結論が出たため考えない。

2、教区維持会員(仮称)―教区民が直接、教区財政に寄与できる方法として立案されたものであったが、別途組織をつくることは、教会そのもののありかたから見ても、誤解と疑いが残ることが指摘され結局これも棚上げとなった。

3、教会維持費研究会―維持費について信徒の意識を高め、教区レベルでの宣教と司牧に対する責任と自覚を、財政面においても盛り上げることにもとづいてもうけられた。教区財政は教区民自身の自覚と奮発によって、全員が一致してこれを支えてゆくという教会本来の姿勢をつらぬくべきであるとの主旨から出たもの。数度の会を重ねているが、司祭の経済状態、教区レベルでの活動の重要性、外国からの援助の減少など認識がふかまるにつれて教区民に反映、努力は次第に成果をおさめている。

おちこぼれ中学生 青少年

1、高校生―しんこう校1年生の錬成会を行った。各ブロックでのリーダー研修会を行う意図があった。しかし、実際に行ったのは多摩ブロックのみ、中央ブロックは主旨説明のみで、他のブロックからは何の反応もなかった。ミッション・スクールの教師中心の研究会はできているが、その他の小教区教会関係での高校生指導者の研究会はできていない。ブロックにも母体にも高校生問題についての土壌がなく、従ってこの問題をうけとめる機関もない。また中央事務局にも、青少年に関する機関がない。

2、JOC―勤労青少年に対する活動に協力する面は不充分であるが、専任の司祭を配属させてそれなりに力をおいている。永代、千葉に「働く人の家」もあり、ACOの指導もつづけられている。

3、教会学校―教師養成に力をいれている。講座の開催やスタッフの研修会なども。教材として「教えの手帖」を発行。ブロック会議で教会学校の位置づけをPRしている。教会学校のむずかしさは、責任者皆無という点にある。みな2、3年でいれかわるので、毎回ゼロからスタートしなければならない。その意味で、積みかさねができず相互の連係もない。ブロックごとに小委員会、連絡員を設置したらとの案にもブロックの運営委かたがわりしているのが現状。教会学校が新方針「小教区」の具体的提案の一つとして可決されたことはうれしい。これを機に各ブロックに教会学校部をの構想も。

4、中学生―城東ブロックからの提案であるため、同ブロックが責任を負って取組んでいる。まず実状認識の手段として現状の計数的把握と教育内容の調査をした。しかし調査前により十分に討議されるべき背景の広く深い問題の所在も指摘され、ブロック内中高生連盟の結成も事実上流れた。そこからこの問題はブロック会議において取扱う問題ではないとする意見すら出ている。しかしなお一層の努力と忍耐を続けるようとの共通の責任感もみとめられる。

教会における中学生問題また彼ら自身ないし全信者の信仰の問題として、息の長い取扱いが強調されている。同問題は社会的、歴史的誘因(受験・唯物的教育)と教会内的誘因(信仰)とに分けて考えられる。前者は急には手のほどこしようもないが、後者にはわれわれに重大な責任があり、改善への手段もあり得る。実行委員会の発足をも急いでいるが、城東ブロック会議中は中学生問題にかかわることによって結局は教会の救いの事業にかかわれるものと誇りをもってこれをうけとめている。

ブロック会議などの機能を十分に生かすことは方針案5にももられているが、同会議と会議員の任務は次のよう

(1)ブロック会議は、ブロックと母体とをつなぐ場となり、会議員は布教司牧に関する母体の意見を会議に反映させ、会議の決定を母体に連絡し、その実行を推進する。会議員は各ブロック独自の布教司牧活動の推進にあたる。

(2)ブロック会議は、布司教と母体とをつなぐ場となり、布司教への課題を提出する。会議員は母体に布司教の決定事項を連絡し、その実施の推進にあたる。

「極右」に迎合せず 教区ニュース

機関紙としての使命のため、原則として2ヶ月1回の発行(偶数月で8月は休み)が必ずしも実行されなかったことを反省し、今年になってからは3回も発行した。しかも20号は初めてタブロイド版4ページとした。重大なことがらを教区民に知らせる機関紙として、さらに充実させ、提起発行を守ってゆきたい。

本紙2月6日号に西川重則氏の「靖国と天皇制」についての意見をのせたことに対し、たとえ署名入りでも教区の機関紙に出すこと自体、それを公に支持しているような誤解をあたえるとの指摘があった。これについて3つのことを区別しなければならない。

(1)全く反対の意見であったなら、たとえ署名入りでも記載するはずがないという見方からすれば確かにその通りだが、靖国問題の危険性とその根の深さを、くり返し訴えつづけてきた本紙として、信教の自由のかかわりあいからも一つの問題提起としてかかげた。

(2)教区としてこの意見に全面的に賛同しているわけではなく、したがって機関紙本来の使命である公の見解を示す記事という底のものではない。

(3)教会は信仰に関して統一見解をもたねばならないが、社会・政治への適用は未熟であり、いろいろの態度がある。たとえ牧者や教区が、方針をもって公の形でひとつのことに反対しても、全体が良心的に反対しなければならぬのではない。反対は個人の自由に任される。

かけがえない個人 生きた活動めざし示唆

代議員会を行う基本は公会議にある。公会議はすでに10年前に終わったが、それがまだ十分浸透しているとは思われない。日本人の宗教感覚は、個人的な神とのつながりに始まり、そこでとまってしまう。しかし福音はそのような形で救いを実現しているのではない。神の子どもらしく、神を父とする兄弟らしく生きて、はじめてキリスト者であり、その集合は教会としての使命をはたすのである。本年度の教区活動方針をきめるにあたっての根本精神は次のよう。

1 まず、神との親しい交わり、信仰を深めたい。私たちが何のために信者であるのかという根本的な問いかけのため、これにかかわる催しを促進する。

2 互に兄弟として生きることを目ざし、同時に信者として、全人の兄弟的つながりのしるしとならねばならず、キリスト自身がなされたように、精神面だけでなく社会で苦しんでいる人の側に立って、兄弟として生きなければならない。

キリストの愛は相手のために損をするということの中にあらわれる。自分のところが十分でないから、他人のためにすることができない、というのは理由にならぬ。なぜなら私たちが十分になるときは絶対になく、従ってその論法でいけばいつまでたっても他人のために働くことはできないからである。

国内にも多くの社会問題がありはっきりした答えが出せない場合が多く、教会もそれに慣れていない。しかし社会的、人権上の問題に関する限り、政治的にならざるを得ない。一党一派にかたよってはならないが、正義の実現のためこれらの問題に積極的にかかわるべきである。たまたまある党の所持している問題とわれわれの主張や行動が一致したとしてもその党を支持していることにはならぬ。ただなぜその問題にかかわるか、動機、目的ははっきりすべきだ。

3 神の国の完成は世の終りに来る。それまでは常に不完全だ。私たちが目ざすのは、私たちにとって都合のよい教会でなく、あすのための教会である。その意味で青少年司牧が重要な課題となる。

4 小教区を共同体としてつくりあげて行くためには、すべてのものが共同責任をもたなければならない。小教区教会共同体の充実発展は教会の真の姿から生まれ出たものであって便宜上のことではない。共同体は複数であるということがキリストの教えである。個別の救いでなく民としての救いであり、いいかえれば、皆のおかげで救われるのである。

共同体は画一的ではない。例えばミサにしても、種々の形態により、統一がこわされたかに見えても、それは外見上のことであって、内面においてはひとつのものである。コリント人への第1の手紙12章に描かれている人間の身体のたとえは、共同体の姿をよく示している。各々の器官は互いに異なるものであればこそ、ひとつの身体をつくることができるのである。

共同体の中にひとりも、これと同じであって、各々他の人によって代行できないことを行っているのである。従って、小教区活動に全員参加せよというのではなく最も大切なのは、それぞれの生きている場を神の国の実現に向かわせることである。ひとりひとりがそのような生き方をしたとき、小教区は生きるのである。

それゆえ、私たちのだれもが第三者になってはならない。コリント書に、互いに相手はいらないといってはならないとあるように、私たちの共同体においてもその精神が実現されねばならない。あの人がいなければ、といってある人を排除する例はよくあることであるが、教会にそれがあってはならない。立派な人でなければ教会に来られないというのであれば、教会は証しとなってはいないのである。キリストは罪人のために来られ、罪人のために教会をたてられたのである。

私たちの信仰は、いわゆるヒューマニズムだけではない。神の国の表現にあたって、われわれは互いに弱い人間だと言うことを認めなければならない。いいかえれば私たちの共同体は神の恵みなしにはなりたたないのである。城北ブロック提案の、ミサを生活の中心にしようというよびかけも、この点から深い意義をもつ。

城東、城北ブロックからは、家庭を共同体の基盤としようという提案が出ている。この要請は、家庭に共に祈る姿勢を実現させることを意図しており、未洗者のいる家庭では、その人びとへの配慮を心がけようというのも、未洗者が一致ということを知るようにという配慮である。

私たち東京教区内の小教区の現状は様々である。人口の面から見ても、ベッドタウンとオフィス街とでは、大きな違いがある。中央ブロックの指摘した小教区再編成の問題も、この現状に基づいてなされた提案であり、今後考えてゆかねばならない大問題である。

この心で神の国の実現に真剣にとりくんでゆきたいが、事務局の力だけでは不十分である。兄弟間の交わりのこころで皆の協力をあおぎ充実させてゆきたい。

(補佐司教 浜尾文郎)77年代議員会基調演説要旨

典礼法規・教会法メモ 7

新しい告解の秘跡(ゆるしの秘跡)の儀式書は、司教団の典礼委員会で目下検討作成中であるが、典礼聖書から出された教令に基づく告解の秘跡の形態としては(1)個別の告解(2)多数者の告解(3)集団的ゆるしの3つがあげられる。この(2)が現在一般にいわれている「共同告解」にあたる。その内容は次のようである。入祭の歌、司祭の挨拶と招きのことば、聖書朗読、説教、糺明、告白の祈り、個別的告白、共同の感謝の祈り、司祭の祝福。

現在「共同告解」は、ふつうミサ中に行われるので、特にあまり時間をとりすぎないよう、多くの聴罪司祭を集めるなど、十分な配慮がほしい。また現在のところ、特別な罪を除いてつぐないの祈りは共同でとなえるのが通常のようである。なお、上述(3)集団的ゆるしは、いわゆる「共同告解」とは異なり、特別な環境において個別的告白なしに痛悔の心と遷善の決心をもって集団として罪のゆるしをうけるもので、現在のところ日本ではまだ許されていない。

教区新運営委員(布司教選出)

<中央>斎藤 浩(かつらぎ会)

<城東>谷元一義(赤羽)

<城西>渡部豊雄(初台)

<城南>高根和雄(田園調布)

<城北>津賀佑元(豊島)

<武蔵野>馬場義文(荻窪)

<多摩>新垣壬敏(立川)

<千葉>D・カラン(千葉寺)

「津を考える集い」 多数参加を待つ

と    き/6月11日(土)午後2時

と こ ろ/真生会館(信濃町駅隣)

発題者/浜尾文郎(教区補司教)・松浦基之(訴訟弁護士)・津賀佑元(靖国実委長)

司 会/森田宗一(正平協会長)

主 催/正義と平和協議会 

山荘にどなたでも

カトリック東京教区研修所

942-21 新潟県妙高高原町池の平

電 話 02558-6-3478

宿泊料 大3千円、小2千700円

予約金 1人につき500円

特別報告

代議員会で述べられるはずであったが、時間の関係で割愛されたブロック(武蔵野・多摩・千葉)からの特別報告は次のよう。

しおん会に手を

<武蔵野>人間は神の作品であって私たちはいかなることがあろうとも生命の尊厳をおかすことはできない。荻窪教会の「しおん会」も、開演以来はや10年の歳月がたち、やっと形あるちえおくれの保育園として成長してきた。

この間、教区本部・武蔵野ブロック・各小教区・修道会・学校及びあらゆる方面から暖かい支援の手をのべていただいたことをこの紙面を借りて厚くお礼を申し上げたい。とくに武蔵野ブロックからは所属の小教区毎に独自の支援体制によって強力な援助を賜っている。吉祥寺・高円寺の両教会からは理事が1人ずつ選ばれ、荻窪教会選出の理事と共に教区長を理事長として運営にあたっている。

幸いにして51年度決算で600万円の積立金を計上できたが、1ヵ年の運営費用が800万円とかかるのでこれは1年の経営にも満たない弱い運営基盤でしかない。然しちえおくれの幼児の保育を通して信仰の上に学ぶことは測りしれず、社会の要求がある限り私たちの任務も終わらないのである。

みどりをかえせ

<多摩>同ブロックは、東京教区の中でも、地域性の強いブロックである。この特徴をふまえた2つの活動を紹介しよう。まず「多摩の緑を守る運動」が目をひく。4年前に行われた夜間錬成登山のあと、多摩カトリック社会問題研究会が誕生した。毎月定例会を持ち、明治初期の三多摩教会史、自由民権運動、「金芝河の良心宣言」読書会などの学習活動を行なう一方、三多摩の市民団体と連帯して、自然保護、とくに奥多摩の山を崩す砕石事業反対の実践活動をしている。4月29日には、五日市、八王子の自然保護団体に呼びかけて「呼わばり山」登山集会を行い、東京都知事の砕石認可に対してアッピールをすることになっている。

つぎは「青少年に対する活動」である。4年続けた中・高生の小教区合同錬成会の成果として、そこで育った大学生達の連帯が生まれて来た。3月中旬には2泊3日の合宿をやり37人が参加した。これにかかわる司祭、修道者、神学生の連帯も育っている。広い区域に散在する教会のあり方としても、活動による連帯こそ先決だ。

距りが心の痛手

<千葉>他とちがってブロックを構成している各小教区がいずれも東京と距離的に離れているため、小教区信徒には東京教区に属しているという意識がうすい傾向がある。その要因の第1として各種の会議、研修会、講座等はすべて東京で開かれ、とくに平日の夜の催しには時間的にとても参加できないことがあげられる。

またブロック自体にも次のような特別な事情があり地域的連係がむずかしい(1)各小教区が互に離れているため集まりがあまりできない(2)小教区内でも距離があるためまた交通機関などの制約から教会へ来にくい(3)信徒数の関係からミサの回数も少ない(4)中高生がとくに少ない小教区があり、彼らの活動の場がない。このような特性から夏期学校、講演会、運動会などを1回ずつ年間の行事として続けている。今後は西千葉、船橋、柏などの隣接教会ともっと連携をはかりたい。なお教区への要望として、各種の行事を参加者がまとまれば千葉地区でもやってほしい。