東京教区ニュース第8号

1974年08月01日

活動方針を決定 -49年度略式代議員会開かる-

東京教区は6月30日、カトリック・センターで昭和49年度の略式代議員会を開いた。布教司牧協議会が発足し、その活動が開始された昭和48年から一年半の、同協議会関係の教区の活動が報告され、今後の活動方針案が可決された。また教区の経済的自立のための第一歩としてはじめて教区の財政を公開、その決算が報告され、本年度の予算案も可決された。こちらは本来、教区代議員会を開いて行なうべきものであるが、今年度はすでに半年を経過し、代議員選出規定、予算・決算の詳細な検討等、その準備が不十分であったため略式とし、合同ブロック会議の形で開かれたもの。来年度は正式な代議員会が望まれている。

教区共同体化へ一歩

会議は午後2時から6時まで開かれ、白柳大司教・浜尾補佐司教および各母体からの代議員、布教司牧協議会員、事務局長、オブザーバーなど、計155名が集まり熱心に討議をかわした。
定刻、布教司牧協議会(以下布司協と略す)議長後藤正司氏の司会ではじまり、浜尾司教の祈りに続いて、大司教が今日に至ったことに対する感謝の意を表し、会議における神の現存を信じ、今後の躍進のため尊敬と愛と自由のうちに力をつくしてほしいと述べた。
続いて代議員の中から、シスター高倉節子(中央)・江野沢一嘉(城北)・福島達夫(城西)の三氏が議長団として選ばれ、それぞれの議題を担当した。
審議が終わったあと、再び大司教は諸報告に力強さと神の民の一致を感じるとのべ、刷新は教会の本来の姿に帰ることであり、内的刷新こそ必要である旨を強調した。

1年を顧みて
1、活動報告(布司協関係)
A 布司教活動報告(寺西英夫委)
教会の刷新、社会にキリストの光を、という目標で教区大会は開かれたが、中々容易なことではなく、その第一歩としてわれわれの力の結集が叫ばれた。
布司教小委・実行委の活動は左の通りである。
① 布教小委-宣教的信徒養成のための責任者・信徒使徒職団体リーダー・要理教育研究者・教会一致運動推進者の4グループで会合を開いている。第3のグループは要理教育教師対象の講座を準備中。
② 広報小委-「広報に関する教令」の司牧指針の翻訳、広報の日の計画、教区ニュースの定期的発行。
③ 青少年小委-主として高校生問題を扱って来た。
④ 対社会小委-人権尊重と平和実現運動へ協力の基本原則をつくり、これにもとづいて南ベトナム政治犯釈放運動に協力した。またカリタスの家への協力のため、各所に窓口を設けた。
⑤ 財政小委-財政自立を目ざして現状を把握するためのアンケート、資料作成配布等行なった。
⑥ 靖国問題実行委-靖国神社法案反対の署名運動、ビラ配り、集会等行なった。目下平和祈願祭の準備に参加している。

小教区観点を超えよ

聖年行事も企画
B ブロック活動報告(各代表)
① 中央 - 主として青年問題を討議
② 城東 - 信心に重点をおき、聖年の行事を考えている。また各教会の歴史を検討することになった。
③ 城西 - 布教の協力態勢を目ざしその結果として合同ミサを行なった。また、パネルディスカッションを行う。
④ 城南 - 共同の年中行事として運動会・聖体大会・江戸殉教者記念祭・墓参を行う。
⑤ 城北 - 高校生問題・典礼問題の小委をつくる。後半典礼研究会カリタスの家説明会、靖国運動等。〝城北〟を発行している。
⑥ 武蔵野 - 司教団の〝社会に福音を〟の研修会、地域社会との宣教的接触についての話しあい、対社会問題について合同で教会外によびかけることの検討を行なった。
⑦ 多摩 - 昨年今年と夜間練成登山を行なった。また昨年は中学生の、今年は中高生の練成会がある。ブロックの活動資金のための音楽会を開く。
⑧ 千葉 - 隣接教会を援助した。維持費、日曜のすごしかた、小中学生の問題を考えている。

今年は5大目標
2、活動方針案(徳川泰国案)
これをスタートに、すべては今後にかかっているという観点から次の5方針をたてた。
① 人権尊重の行動への参加。
信仰の反省のため、黙想会、研修会、練成会、要理教師研修等。
人権尊重、平和実現のため、諸国法案反対運動、福祉活動の拡大。
② 予算・決算の承認による教区の共同体化。
③ 青少年活動の活発化。小教区を超えた活動への協力。
④ 母体・ブロック会議・布司教の活動促進による教区民の相互理解と協力活発化。
⑤ 教区ニュースの定期的発行と購読。

9月13日から開講 -第1回 要理教育講座-

東京大司教区立東京要理教育研究所主催の第1回「東京要理教育講座」が、いよいよ9月13日から四谷駅前「かつらぎ会ホール」で開催される。
既に申し込み数も定員を越し、講師陣、受講者ともにこの催しでの大きなみのりを期待している。
現代人に適合した要理教授法の必要性はかねてから痛感されていたが、東京教区大会で検討したことが発端となり、要理教育者の養成と目的とした同講座がようやく実現の運びとなったもの。
受講者の恩典は、必要な条件を全て満たせば①東京大司教の公認の修了証が与えられる②要理講師としての正式の資格認定証が与えられる③引きつづき研究を望むものには共同研究の場が提供されるなどとなっている。
問い合せは、電話 265-2971

初の予算案承認

今回の略式代議員会に、東京教区の1972年度と73年度の決算が報告されると共に、本年度の予算案が上程され、承認されたことは画期的なことであり、これは東京教区が真の共同体として刷新されてゆくための財政面における第一歩であるとされている。
予算の中には多くの欠陥と不十分さが見られ、時期的にも半年を経過しているにもかかわらず、あえてこの手続きを踏んだのは、これによって教区民一人一人が「われらの教区」の収入と支出の実態をつぶさに知り、それによって教区の財政に責任をもってかかわり自立への道を歩みだしたいためであるという。
予算について、この代議員会で説明された主なものをひろってみると、
1、従来の教区財政は、もっぱら維持管理を主体としてきたが、これを宣教的、活動的方向へと転換させるため、不十分ではあるが「活動」と「助成」の項目の中にそれに向っての第一歩を計上した。
2、教区財政を、外国への依存から自立へどのように移行させてゆくか、布教・司牧の活動に合わせてその長期計画をどうするか等は、それらに関する基礎資料が不足しているためいまだ決められていないことを遺憾とする。
3、この予算に計上されている司祭の給料は誠に不十分なものであり、そのありかたから根本的改善が望まれる。それには司祭協議会並びに関係機関の協力が必要である。

ひろば

【弱者強者】
2ヶ月ほど前、遠藤周作氏の「切支丹の里」を読んだが、特にこの小片では弱者の救いの問題について強く考えさせられた。それは「沈黙」を書くに至る著者の動機や心の変化が、地理的、歴史的考証とともに集約的に表現されているからであろう。
しかし、それだけではないような気がする。遠藤氏はそうした弱者を「ふたたび灰の中から生きかえらせ、歩かせ、その声をきくこと」は、文学者だけができるものと書いている。もしそうなら私は文学者を本当に羨ましく思う。
私の専攻する経済学で弱者といえば、競争に敗れ市場を追われた企業が、生活力のない家庭ということになろう。資本主義の論理が優勝劣敗であることは知っていても、発展した企業、いわゆる金持ちや成功した人のかげに、はるかに多くの弱者がいることも事実なのである。何としても割り切れないのは、他人を蹴落としても地歩を築いた人のかげに、心を美しく持ち続けていた人びとが、またそうであるが故に社会的には成功しなかった人びとが、経済的弱者となっていることである。
経済の分野で、そうした弱者を「生きかえらせ、その声をきくこと」は難しい。その全体を文学者のように表現することができたら、あまりにもむごいものになるような気がしてならない。
それとも、貧しくとも心の清い人びとは、谷間の百合のようにそっとしておくほうが望ましいのであろうか。
(学習院大教授 島野卓爾)

あした葉

8月15日はわれわれ日本のカトリック者にとっていろいろの意味で忘れることのできない日だという。教会と国家と家族の3つは、社会の代表的な例だとされるのが伝統的な考えのようだが、これらの社会と8月15日は、何故か不思議に符合するのだから妙である。▼今から420年程前の天文18年、フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸、わが国に初めてカトリックの教えを伝えたのが8月15日とされる。日本の「教会」の夜明けとでもいうべきか。そして30年前第二次世界大戦に敗れ、信教の自由が認められる契機となったのも8月15日であった。いわば日本の「国家」の夜明けとでもいうべきか。しかしこれは同時に試練への夜明けでもあった。われわれは今この2つの社会の激しい揺れ動きの中に身をおきながら、自らの進むべき道を探さねばならない。▼このたび東京教区では略式ながら代議員会を開き、布教司牧協議会関係での本年度の教区活動方針を打ち出した。混沌とした場にある時これらの指針は大きな助けとなるであろう。方針が抽象的だという声もあるが、昨今はこの教区ニュースなどによっても「聖年」や「靖国」など「教会」と「国家」に関する事柄についてかなり具体的な示唆が与えられようとしている。▼教会はときどき「母」なる教会と呼ばれる。また自分の生れた国家を「母」国という。2つの社会にわれわれは母の幻影をみるのであろうか。遊び場にゆく道は忘れても「教会」と「国会」にゆく道は忘れるなと教えるのは「家庭」において母であると聞く。教会に対する使命感と国家に対する義務感を小さい頃からしっかりと身につけさせようと配慮する母の姿の中にわれわれは究極的には「被昇天」という形で凌駕されたにせよ「天上」と「地上」のそれぞれの価値を最後までふまえたマリアのうつしを垣間見ることができる。そしてその祝日がまたまぎれもない8月15日なのである。(S・A)

免償の恵みを! -大司教が具体的指針-

白柳大司教はこのほど「聖年」の意義とテーマにつづいて、この年をふさわしくすごすためのいくつかの具体的指針を示す書簡を出した。祈りと助け合いこそがすべての活動の根源的な力になることを強調。特に罪の償いを互いに背負ってゆくための「免償」の恵みに浴することができるよう、この聖年にあたって教区としてもいろいろの機会をもうけたとし、これへの積極的な参加が望まれている。

聖年に連帯感の強調

聖年は、教会を形づくるすべての人と善意の人びとに神の限りない愛を告げしらせる恵みの年です。この機会に私どもは今まで受けた数々のお恵みに加えて、教会の配慮によって与えられる恩恵を受けるように努力し、これに感謝するだけでなく、お恵みにふさわしく生きる決意を新たにするのです。
聖年の意義と、今回の聖年のテーマである「和解」については、すでに教区ニュース第6号で述べましたので、今回はいくつかの具体的指針を示したいと思います。

祈る民となろう
教会の各分野で、宣教、司牧、福祉、教育等いろいろな仕事が行なわれていますが、その基礎に祈りがなければ、根源的力を失っているのだということを強調したいと思います。祈りなしには、それらは人間の次元に留まり、決してキリストの業とはなりません。私どもは祈りを通じて、常に自己を反省し、神なしには何もできない自らを見つめ、神にのみ希望をおいてその恵みを願うようになりたいものです。
キリストによって初めて真の和解がなりたつことを信じる私どもは、もし真剣に和解を望むのであるならば、キリストとのつながりをますます深めるよう努力すべきでしょう。そしてキリストを通じて、すべての聖人、栄光を待ち望むすべての死者、そしてこの世に生きているすべての人と結ばれ、共に神を賛美しつつ、現実の活動に赴いてゆくのです。聖徒の交わりという偉大な真理の前に、喜びと力を持ち、各々の仕事が確固たる信仰にささえられて、ますますその意義が深められるよう努力いたしましょう。

助け合う民となろう
私どもは唯一の神を父とする兄弟です。お互いに異なる人間同士であっても「ひとつの体となるためにひとつの霊によって皆洗礼を受け」(Ⅰコリント12の13)たのです。私どもは、自己中心に、自分のことだけを考えるのでなく、互いの重荷を背負いあってこそ、はじめて名実ともに兄弟であるといえましょう。
キリストは善きサマリア人のたとえをもって、私どもが常日頃何を心がけるべきかをはっきりと示されました。ヨハネもその書簡の中で「目で見ている兄弟を愛さない者には見えない神を愛することができない」(Ⅰヨハネ4の20)と述べ「行いと真実とをもって愛そう」(同3の18)と呼びかけています。
また「罪を犯しているのを見る人があるなら、その人はかれのために祈りなさい」(Ⅰヨハネ5の16)「互いに罪を告白し、互いにいやされるために祈れ」(ヤコボ5の16)と述べ、信者相互の連帯感を強調しています。

努力して免償を
私どもの犯した罪が赦されてもその償いはまだ残されています。この償いをお互いに背負ってゆくために、教会の聖なる伝統は免償というすばらしい神の恵みをわかち与えてくれます。主イエズス・キリストの限りない功徳、聖母マリアをはじめ、無数の聖人たちの功徳は、罪人の果たすべき償いのために働き、傷ついた心を清め、悪への傾きを弱めます。
教会は恵みの年である聖年に、全世界で免償が与えられる機会を設け、その恵みに浴することのできるようすすめています。ですから私どもも、自分のためだけでなく、他の人々のためにこの恵みをいただくように努めましょう。生きている人々のためにも、この世を去った人々のためにも、この恵みをいただきましょう。これはお互いに助け合う兄弟的愛の表われであり、免償を通じてその愛がいっそう深くなることが聖徒の交わりの最も深い関わりとなることを忘れないようにしましょう。
私どもが身近な人々のためだけでなく、どんな宗教や思想の人々のためにも、その人たちにかわって償いを果たし、免償をいただくことは、私どもに課せられたキリストの望みでもあります。従って私は東京教区の皆さんが、この聖年を機会に、全免償をいただく恵みに積極的に参加して下さることを望みます。
この目的のため、ミサの他に、東京教区としては、8月15日聖母被昇天の祝日から来年12月末まで、次のような機会に全免償が得られるように定めました。条件としては、告解の秘跡にあずかって心を清め、聖体拝領し、和解のための回心を促す教皇と全世界の司教団の意向のため祈ることが必要です。1日何回でも全免償をうけることができますが、自分のためには1日1回だけです。

聖年行事に参加を
① 上記期間に催される黙想会。研修会への参加。聖年をテーマによるものが望まれる。(註1)
② 教区の目に見える中心であるカテドラルへの巡礼。(註2)
③ 隣接教会への巡礼。
④ 殉教者記念行事への参加、ならびに各種巡礼。
⑤ ブロックあるいは小教区合同の典礼行事、祈祷集会。
⑥ 死者の月(11月)における墓参(納骨堂も含む)。
【②〜⑥の行事の際には「主の祈り」「信仰宣言」「聖母への祈り」を加えること。】
⑦ 福祉施設訪問、奉仕、ボランティア活動への参加。
⑧ 前記祈りを唱えて病人訪問。
⑨ 病気等の障害でこれらの行事に参加できない人も、前記の意向で祈りと苦しみを献げることによって聖年の全免償が得られる。
以上の行事は個人で行なうこともできますが、なるべく団体で行なわれることが望まれます。聖年の恵みを感謝しつつ、これにこたえて立派なキリスト者になるよう努力いたしましょう。
1974年8月1日
白柳 誠一
(註1)黙想指導のため、沢田和夫、井上洋治の両師を任命した。
(註2)カテドラルでは毎月の最終日曜日正午のミサが聖年の意向で献げられる。グループでの巡礼は責任者志村辰弥師まで連絡を。

池司教事件に -センターでの集い-

正義と平和を求めるカトリック有志の会は7月21日、池司教が逮捕された事件を考える集会を開いた。事件の詳細報告や同司教のメッセージなどのあとで、参加者一同による声明文を採択した。

句集「心開眼」発刊 -癩者の祈りが結晶-

取次所・東京都新宿区四谷1-2、中央出版社へ。頒価1,000円。

マリアは神の傑作

マリアは、イエズス・キリストを通して与えられる神の恵みによって救われた人間の典型です。神が人類に対してどれほどすばらしいことを成し遂げられ、どれほどの恵みを与えてくださったか、またどのように人間を導いておられるかということを、マリアの中に見ることができます。
マリアは、もちろん、神の傑作ですが、私たち一人一人の中にも神はそれに似たものを作ろうとしておられるのです。したがって、マリアの中に、私たちに対する神の働きをながめることができます。マリアは、みずから精一杯努力して、それによつて神から恵みを受けたというわけではありません。神が先にたって偉大なわざをマリアの中に行なわれたのです。ご自分の愛で満たした傑作をご自分でつくられたのです。
私たちはマリアを尊敬するときに、神の傑作をマリアの中に尊敬するのです。彼女の偉大さのすべては、神の全く自由な慈しみから来るものです。先行する神の恵みによって全く清く守られているということ、罪は何一つ犯すことなく、いつも神から豊かに流れてくる恩恵によって支えられているということ、これこそマリアの最も大きな栄光です。
神の恵みがどれほど無償のたまものであるかを私たちは痛感しなければなりません。そしてマリアと同じように感謝にあふれることが、当然、私たちのとるべき態度です。「教会は感謝する人々の集いである。」と定義できます。私たちはまず感謝する以外にすべはありません。
天使はマリアに、御子の受肉を告げて、「喜びなさい、恵まれた女よ、主があなたとともにおられます。」と挨拶しました。これは確かに喜ばしいたよりです。みずから永遠の光栄で満ち足りておられる神は、あふれるばかりの慈しみをもって、私たちのための神になられました。ともにいるということは、互いのためにいるということを意味します。神が私たちとともにおられるということは、神が心を開いて、愛をもって、ほほえみながら、私たちに自分自身を与えてくださるということです。
神がこのように人類とともにおられることは私たちの大きな喜びですが、マリアもこの喜びをあふれるほどに感じたに違いありません。そこで「主がともにおられる」という告知から、マリアが引き出した結論にもよく耳を傾けなければなりません。「主がともにおられる」という特権を与えられたのであるから高ぶってもよいという結論をマリアは決してせず、「私は主のはしためです。おことばどおりにこの身に成りますように。」と答えました。
「おことばのとおりに」、「み旨のままに」、この承諾こそ、マリアのすべてを表しています。彼女の一生涯は、この根本的承諾の実現にほかなりません。それはまた、信仰、希望、愛に生きているキリスト者の根本態度でもあります。神への絶対的な帰依のみ、神の絶対的な愛の啓示にふさわしい答えです。そして、限りなく愛することができるように人間を自由にするのは、この帰依のみです。
マリアは、あの偉大な受肉告知を受けてから、エリザベツに奉仕するためにでかけます。そしてエリザベツは彼女に挨拶します。「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんと幸いなことでしょう。」(ルカ1・45)と。
マリアは信じたので幸いです。彼女は信じなかったならば、その幸せもことごとくなくなってしまったでしょう。この点でマリアは私たちと全く同等の立場にあります。マリアは神のことばにすべてをゆだねて、それを堅く信じそれに自分の一切をかけたので、いつまでも聖霊の住家でありつづけることができました。マリアのこの信仰こそ、彼女と神のつながりの根本です。
マリアは聖霊に照らされて、信仰をもって神と結ばれていたのです。そしてその結びによって彼女は常に聖霊を神から受けて、常に自分と神の間の一致を保つことができました。私たちも、信仰によって、神と結ばれ、いわば神の中に根を下ろしているのです。それを通して私たちに、聖霊における神的生命が絶えず与えられています。この信仰からキリスト者の根本的な楽観主義が生まれてくるのです。
マリアの場合もそうでした。彼女は一生涯を通して非常に苦しみましたが、決して落胆はしませんでした。信仰によってささえられ当然起ってはならないことが次々と起ってきても、神の愛、神の知恵、神の無限の慈悲を信じ、神のほうが自分よりも賢明に、その慈悲の勝利へとこの世を導いていかれることを信じました。私たちは世の終りに神の懐から顧みるなら以前にはわからなかったがすべてはよかったのだ、ということがわかるでしょう。それを今から信じるのが、世に打ち勝つ信仰です。マリアの受けた聖霊が、私たちに勧めている信仰です。
(上智大学神学部長 P・ネメシェギ)

ヤスクニは福祉崩壊への道

東京教区は、昨年10月、反対署名運動を各母体を通じて行なったことを初めとし「靖国神社法案反対」運動をこの種のものとしてはかつてなかった程の強いエネルギーをもって展開している。
去る5月18日、カトリックセンターで行なわれた布教司牧協議内靖国問題実行委員会主催の「靖国国営化阻止カトリック集会」が成功裡に行なわれたこともこれを如実に裏書している。にもかかわらず、敬虔なカトリック信者の中にさえ「お国のために亡くなった人びとを英霊としてまつるのが何故悪いのか」といったり書いたりする人達も意外に多く、反対を唱えている私達を嘆きの渕におとしいれている。
教会側がこの法案に対して反対する第1の理由は、現憲法で保障されている信教の自由を「侵害される恐れあり」ということである。もちろん、それは教会の成員である私達にとっては重大な事柄である。しかし果たして事はそれだけの問題なのだろうか。
何回か提出されては廃案になり先の国会では衆議院において強行採択という暴挙をとったにもかかわらず参議院で時間切れ、廃案となった。

戦争への一里塚
この法案を自民党はまた次の国会に出そうとしている。このどこまでも押し通そうとする執拗さの裏にひそんでいる何かをこそ私たちは凝視しなければならない。
靖国神社法案は誰が何といっても「軍国主義、戦争への一里塚」である。「英霊を讃美することは、すなわち戦争を讃美すること」なのである。戦争とは人権無視の最たるものである。かつて私たちの父、兄弟たちは赤紙1枚で否応なしに戦場に送られた。ここのどこに人間の自由が、人間の福祉があるであろうか。
福祉とは単なる貧民救済的慈善行為ではない。「基本的人権」に基づいた全人間的なものである。戦争はこうした思想を人為的に1回転させる。

全人間的な福祉を
人間の価値を戦争遂行に役立つ者か否かで判断するのだから、今年46才になる私など、戦時中は身障者なるが故に世間から「穀潰し」「国賊」とまでいわれ表を歩くことさえできなかった。
人間が、人間である故に尊重されるのが福祉社会であると思う。ならば、愛を説く者、少なくとも福祉を口にする人びとは、先ず軍国主義化復活の第1弾である靖国神社法案に抗議の意志を示すべきではなかろうか。福祉を真面目に考えるなら…。
我が国がもしいつかきた道を辿るなら、国の予算面でも福祉予算は削られる程度のものではなくなり、再び「枯木に水をやる必要はない」という恐ろしい見方が大勢を占める世の中へと逆戻りするも畢竟と覚える。

カトリック身体障害者の会  「心の灯」会長 金沢 恂

ブロック便り

まずは乾杯!
【城北】 ブロック会議員の任期が半年延長されたとは言うものの、発足当時言われていた「任期2年」を迎え、略式代議員会の報告を主とする7月7日のブロック会議の後半を議員懇親会と銘うってすし、ビール、ジュース、おつまみ、果物〆て1人1,000円で楽しいひと時を過した。
先ずビックリさせられたことはシスター達の活発な発言であった。その日、教区事務局から出席の青木神父との紳士的やりとりにヤンヤの喝采。神父が、シスターが、信徒が「いろいろお世話になります」とビールをついで回る。
時ならぬ時に「緊急提案!」と立ち上った某師。「このように私達がよく話せるために、毎回会合の終りにこのような催しを行うことを」など、初めて打ちとけたブロック会議であった。次第次第に興にのって、ブロック会議最長老の鈴木一男氏が和歌を朗詠し盛り上りを見せた。
やがて時間にうるさい運営委から「一応時間です。2次会、3次会はご自由に……」と四時半解散。三三五五帰路についた。

新しい司牧拠点を
【武蔵野】 当ブロックでは5月12日、吉祥寺教会に白柳大司教を迎え、司祭、修道女、信徒など約60名が参加して研修会を開いた。今回は特に「これからの教会のあり方」をテーマに、同大司教と原町田教会の建設計画の専門家、河野貞信氏の話をきき、質疑応答を行った。
白柳大司教はこの会で、教区内では郊外に信者がたくさん居住するようになった。しかし教会へ来るためには時間が大変かかる。片道1時間半もかかる信者もいると聞く。このようなところに小さな共同体ができて、開かれた拠点となるならばすばらしいことだと述べた。
また河野氏は、建設計画を行っている町田市とその周辺地域は最近もっとも住人の転入のはげしい所で、従来の教会ではその対応ができかねている。そこで原町田教会を中心とする周辺の四地域に分教会とでもいうべき施設をつくり、日常の信仰生活の地域拠点とし、一方地域のセンターというべき機能は原町田教会が果たすこととし、そこが司祭の生活や休養、財政の調達などをはかる場としての役割をもち、地域全体として機動的なシステムを取り入れたらと語った。

公害追放に立つ
【多摩】 当ブロックが毎春行なっている夜間練成登山の多摩丘陵の眼下を走る灰色の道は、名にし負うダンプ街道。昭和37年からブルドーザーで線を削り、マイとで破壊した人口砂利を採石しつづけ、なお100年分に余るジャリ岩石が埋っているとあっては、建設ブームの宝庫として、採石業者が見逃すはずはなく、昼夜5,000台の大型ダンプが疾走する恩方陣馬街道沿い5,000世帯の住民は、騒音、震動、不眠、事故死などに脅えている。
八王子市では、採石期限の切れる今年4月、市長を先頭に市民、カトリック者も加わっての公害反対運動が起り、デモが行なわれた結果、とるに足らぬ程僅かの公害は減ったとはいえ、ダンプは今でもわが物顔で走り回っている。
6月3日にはカトリック者が事務局長である八王子自然保護協議会も採石全面禁止など強力な運動に乗り出した。「多摩の土は死んだ」と某国際学者が叫んだように多摩だけではなく緑の東京の海伊豆七島も廃油に冒されるなど、都民のための自然は、開発の美名のもとに犯されつつある。
問題は当ブロックに限らない。各地区に起った公害には、カトリック者として、市民として社会の中に飛び込み運動に参加する。それが行動するカトリック者の使命でなければならない。