大司教

灰の水曜日ミサ@東京カテドラル

2021年02月18日

2月17日は灰の水曜日。東京カテドラルでは関口教会と韓人教会の二つの共同体で、朝7時、午前10時、午後7時の三回のミサが行われ、わたしは夕方午後7時のミサを司式させていただきました。ミサの模様は、関口教会のYoutubeアカウントで配信されています

教皇様は四旬節にあたりメッセージを発表されています。中央協議会のこちらからご一読ください

以下、午後7時のミサの説教原稿です。

灰の水曜日
2021年2月17日
東京カテドラル聖マリア大聖堂

「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」

東京教区は、戦後にケルン教区から大きな援助をいただきましたが、その友好関係の25周年を祝った1979年以降、今度はケルン教区と共にミャンマーの教会を支援する活動を始めました。これまで主に、ミャンマーの神学校の支援などを行ってきました。自分たちが受けた善意をさらに隣人へとひろげていく心は、感謝され褒められることによる満足のためではなく、隣人の思いに心をあわせ、共に生きていく姿勢、すなわち常に共にいてくださる主ご自身に倣う生き方の具体化です。そのミャンマーでは今月に入ってから軍によるクーデターがあり、非常に不安定な状況が続いています。ヤンゴンのボ枢機卿も、非暴力の内に対話を呼びかけていますが、長期的な混乱も予想されます。この四旬節の間、ミャンマーの兄弟姉妹のためにお祈りください。同時に、わたしたちの近隣には、国家の政策によって、人々や教会が厳しい状況に置かれている国もあります。暴力的な政治や軍の力で、信仰の自由が奪われたり、賜物であるいのちが危機にさらされてはなりません。

さて一年前、先行きの見えない状況の中で四旬節を始めたことを記憶しています。一年前の灰の水曜日の説教で、わたしは、「こういった状況の中では、どうしても自分や自分の近しい人たちの安全と安心だけを追い求める結果、思わず利己的な判断をとってしまうことも少なくありません。暗闇を不安のうちにさまようときにこそ、わたしたちはお互いを思いやり支え合うことの大切さを思い起こしたいと思います」と申し上げました。一年が経過した今も、状況はそれほど変化しておらず、やはり同じ言葉を繰り返さざるを得ません。

こういう状況にあって、いったいどのような道を歩んでいけば良いのか。いったいどのような生き方を選択すれば良いのか。

悩むわたしたちに、今日、預言者ヨエルは、「あなたたちの神、主に立ち帰れ」と呼びかけます。四旬節は、まさしく、わたしたちの信仰の原点を見つめ直すときです。この困難な時期のただ中で、わたしたちは信仰の原点に立ち返りたいと思います。

わたしたちが立ち帰るのは、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいる主であると、ヨエルは記しています。信仰に生きているわたしたちは、主に倣って、憐れみ深いものでありたいと思います。忍耐強い者でありたいと思います。慈しみに富んだ者でありたいと思います。

マタイ福音は、人々からの賞賛を得るために善行を行う偽善者について記します。わたしたち自身が現在の状況のなかで、人々の賞賛を得るために善行を行うということはあまりないのかも知れません。しかしここでのイエスのポイントは、自分は心の眼をどこに向けているのかの問題です。賞賛を得たいと願う心は、心の眼を自分の心の内に留めておこうとする多分に利己的な思いであります。イエスは、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と述べることで、心の思いを自分のもとに留めておくのではなく、助けを必要としている隣人のもとへと心を馳せる必要を説きます。なぜならば、わたしたちが倣って生きようとする主は、「憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富」んでいるからであります。わたしたちの信仰は、自己実現の信仰ではありません。

パウロはコリントの教会への手紙の中で、「わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています」と述べています。さらには、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」とも述べています。

四旬節は、まさしくこの点を自らに問いかけ、神の前でわたしたちが誠実な僕であるのかどうかを振り返るよう呼びかけます。果たしてわたしたちは、それぞれに与えられた神からの恵みを十分に生かして、キリストの使者としての務めを果たしているのでしょうか。

この困難な状況の中で、感染症の治療のため、孤独の内に闘病生活を送る人、医療関係者であるがために、いわれのない差別を受ける人、また経済の悪化によって職を失った人、住む場所を失った人、人間関係を失った人。多くの人が、孤独と孤立の鎖の中で、助けを必要としています。

教会はこの一年の大きな困難の中でもがき苦しみました。いま四旬節となり、信仰の根本を振り返り、見直し、原点に返る時を迎えました。わたしたちがどう生きるのか、あらためて振り返りましょう。主に立ち帰るとき、そこには必ず希望が生まれます。

四旬節にあたり、教皇フランシスコはメッセージを発表されています。

今年のテーマは、「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く……」というマタイ福音の20章18節の言葉が選ばれ、副題に「四旬節――信仰、希望、愛を新たにする時」と記されています。

教皇はメッセージで次のように呼びかけます。

「信仰は、神とすべての兄弟姉妹の前で、真理を受け入れ、そのあかし人となるよう、わたしたちに呼びかけています」

その上で教皇は、「断食する人は、貧しさを受け入れるという経験を通して、貧しい人々とともに自ら貧しくなり、受けた愛、分かち合われた愛という富を「蓄えます」。このように理解され実践されることで、断食は、神と隣人を愛する助けとなります。聖トマス・アクィナスが教えているように、愛とは、他者を自分と一体の存在であるとみなして他者に思いを寄せる行動なのです」と指摘します。

教皇は四旬節の節制のつとめが、愛の奉仕に直接つながっていることを述べ、「四旬節は信じる時、つまり神をわたしたちの人生に迎え入れ、わたしたちと一緒に「住んで」いただく(ヨハネ14・23参照)時です」と記しています。愛の奉仕とは、わたしの善行のことではなく、わたしのもとに神を迎え入れる業であるとの指摘です。

この説教の後、今年は方法が例年と異なりますが、わたしたちは灰を額にいただきます。灰を受けることによって、人間という存在が神の前でいかに小さなものであるのか、神の偉大な力の前でどれほど謙遜に生きるべきかを、心で感じたいと思います。司祭は灰を頭や額にかける前に、皆さんに向かって、「回心して福音を信じなさい」と唱えます。

この言葉は、四旬節の持っている意味、つまりあらためて自分たちの信仰の原点を見つめ直し、神に向かってまっすぐに進めるように軌道修正をするということを明示する呼びかけです。

この四旬節の間、神のいつくしみに包まれながら、わたしたちの信仰の根本を見つめ直しましょう。