教区の歴史

教区の歴史

東京教区「こころのセミナー」第1回ミサ説教

2009年09月05日

2009年9月5日 麹町教会にて

 

今日はこちらの麹町教会で、「こころのセミナー」の第一回が開かれ多くの人が参加してくださいました。教区の優先課題の一つである心の問題について、精神科医の井貫先生にお越し頂き、お話をうかがい大変教えられるところがございました。井貫先生の話を念頭に置きながら、今日の福音のメッセージを一緒に味わってみたいと思います。

今日の福音マルコによる福音で、「エッファタ」という言葉が出てきます。「開け」という意味だとマルコが言っています。このエッファタという言葉は、アラム語ですね。イエスが使っていた言葉、私のこの発音がどれだけイエスが実際に発した言葉に近いのか分かりませんけれども、なぜ「エッファタ」という言葉がいろんな言語の聖書でも元のイエスの言った音声に倣って伝えられているのでしょうか。そういう例はほかにもあります。「アーメン」とか、あるいは何週間か前の主日の福音の「タリタ・クム」ですね。これも同じです。その場に居合わせた人の心に深く強く刻まれた言葉でありました。それで二千年ずっとこの言葉が伝えられて来ました。このイエスの言葉は、非常に力があり、その言葉の意味する内容が現実になるような言葉です。イエスの時代も多くの人が悩み苦しんでおり、ここに耳が聞こえない口が利けない人がいました。その人をお癒しになったその時の力強い言葉が「エッファタ」でした。

先ほどの先生のお話の中で、人間と人間のコミュニケーションのことがありました。私たちの生活は、自分の思っていること、考えていること、感じていることを人に伝え、あるいは人から伝えてもらって成り立っています。言葉による伝達というのは、どれだけ効果があるのでしょうか?意外と言葉は大したことはない、むしろそのときの人の表情とか態度とかそういうものの方が大きな割合を占めていると井貫先生はおっしゃいました。どれだけ真剣にどんな態度で言っているか、そしてその言葉を、どれだけ普段生きているか、実行しているか、と言うことが重要なのです。何を言ってもその人の生活がその言葉と全然かけ離れていれば、相手は聞く耳を持たないそういうことになります。確かそういうお話を先ほどお聞きしたように思います。

これは非常に耳に痛い話です。イエスは自分の言葉にちゃんと責任を持ち、その言葉通りに生き、ですから、その言葉の指し示していることを現実の中で引き起こすことが出来ました。創世記の初めに「神が『光あれ』と言われたら光があった」そういうように神の言葉は事実、出来事と同じであって、神の言うことがそのまま出来事になる。預言者も「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくはわたしのもとに戻らない」(イザヤ55・10))と言っています。人間の言葉はそうはいかない、しかし、せめてできるだけ自分の言葉に責任を持ち、自分の言う言葉の意味を現実の中で生きるようにしなければならないと思います。

今日の第二朗読ヤコブの手紙、このなかで「人を分け隔てしてはいけません」と言う言葉がありますが、さらにヤコブと言う人は非常に厳しく教えている人で、「口に轡(くつわ)をはめなさい」と言います。「あなた方は自分の言うことをちゃんと制御して、良い言葉を話すようにしなさい。でも現実にはそうではないですね。現実にはヤコブの言うとおりです。「舌を制御できる人は一人もいません。舌は疲れを知らない悪で死をもたらす毒に満ちています。わたしたちは舌で父である主を賛美し、また舌で神にかたどって造られた人間を呪います。」

「賛美と呪いが同じ人間の口から出てくる」、そういうことがあってはならない、でも事実はそうだと思います。人間は自分の中に闇を抱えている、あるいは自分で制御できない部分を持っていて、ある時そちらの負のほうが出てきてしまうことがあります。真っ白な人もいなければ真っ黒な人もいない。100パーセント白の人もいないし、100パーセント黒の人もいない、白か黒か人間は割り切ることは出来ない。神様は世の終わりにいろいろなことを最後にはきちんと整理して、私たちの生涯に採点してくださるのかもしれませんが、今の時点で、あなた方はまだまだこれから世の終わりまでかかって自分を清めていかなければならない、そういう時間を与えてやるよ、と言ってくださるのかなぁと思います。私たちは、言葉で神を賛美し、言葉で人を助けるそういう使命をいただいております。毎日の生活の中で是非そうしたいが現実になかなかそう出来ていません。

私たちは、ご存知のようにあの旧約聖書から引き継いで神の十戒・十の戒めと言うのを持っておりますが、先日、仏教のお寺の掲示板を見たら、「十善戒」というのが書いてありました。十の善い戒め、仏教にも十の戒めというのがあるのですね。その十の中で、四つが言葉に関するものでした。簡単に紹介したいと思います。

一つ、「不両舌(ふりょうぜつ)」。両方の舌に「不」がつていて、二枚舌はいけない?でもこれはむしろ筋の通らないことは言うな、人の仲を裂く言葉は使わない、言い換えれば思いやりのある言葉を話そうという意味だそうです。

次に「不妄語(ふもうご)」。これはうそをつかない、正直に話そう、ということ。

それから「不綺語(ふきご)」。綺という言葉ちょっと説明しにくいですが、無意味なおしゃべりをしない、逆に言えばよく考えて話そう、ということ。

「不悪口(ふあっく)」わるくち、汚いことば乱暴なことばを使わない。美しい言葉、優しい言葉を話そう、ということです。

言葉を使って生活し、仕事をしている私たち、特に司教とか司祭は、言葉に関するこの四つの戒めをどういうふうに実行しているか、と考えると自信がありません。もっと言葉を大切にしなけりゃならないと思います。

今日の第一朗読のイザヤの預言で、「見えない人の目が開く、聞こえない人の耳が開く、そして歩けなかった人が鹿のように踊りあがり、口のきけなかった人が喜び歌う、荒野に水が沸きいでる」と言われています。今日のマルコの福音の「エッファタ」とこのイザヤの預言の両方を考えてみると、本当に神の国が到来し、私たち全体が本当に神のあがないにあずかり、さらにこの世界も神様がお創りになり、そのすべてを「良し」と見られたその世界を、さらに完全なものにしてくださるであろう、と信じることができます。そういう信仰と希望を新たにし、わたしたちの心を清め、癒し、そして強めてください、という祈りを捧げて歩んでいきたいと思います。