教区の歴史

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聖香油のミサ説教

2005年03月24日

2005年3月24日、 東京カテドラル聖マリア大聖堂にて 

 

聖香油のミサは司祭職制定を記念するミサです。今日はわたしたち司祭が受けた叙階の秘跡を思い起こしましょう。今年は2月と3月にかけて叙階式が非常に多かったです。今年はとくに助祭の叙階式が多かったです。助祭叙階は司教による按手と叙階の祈りによって授けられますが、その後聖書を授与する場面があります。そのとき司教は次のように言います。

「キリストの福音を受けなさい。あなたは福音を告げる者となりました。読んだことを信じ、信じたことを教え、教えたことを実行するようにしてください。」

何度も式文を唱えているうちに、助祭に叙階される人に向かって言うというより自分自身に言い聞かせる、という気持ちになりました。 

今日、司祭職制定の記念の日であり、司祭叙階のときの約束を更新するときです。司祭になったからといって助祭を卒業したわけではありません。わたしたちは助祭叙階を受けたときの決意を新たにいたしましょう。まず、わたしたちは聖書を読み、深く味わい、分かち合いを行い、自分の信仰を深めなければなりません。信じていないことをただ言葉だけで告げても空しいです。わたしたちは自分が信じていることを告げ知らせ教えなければならないのです。自分の信仰を深め、その実りを伝えなければなりません。この点においてわたしたちはどうなのでしょうか。今日はその点を反省したいです。さらに、もっと耳に痛いことがあります。教えていることを実行しているのか、ということです。実行の伴わない言葉には力がありません。わたしたちは人に教えるとおりに生きていかなければなりません。それが困難であることを痛感します。しかし、そのように生きることを約束したのであり、そのように努めなければならないのです。 

このように、司祭は自分が執行する祭儀の言葉を生きるものでなければなりません。このことはミサ聖祭の聖体制定の言葉にも当てはめられます。わたしたち司祭は毎日ミサを捧げ、パンとぶどう酒を聖体に聖別するコンセクラチオ(consecratio)の言葉を唱えます。すなわち、それは次のとおりです。

「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの体である」

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪の赦しとなる新しい契約の血である。これをわたしの記念として行いなさい」 

2000年にわたって司祭はこの言葉を唱えてきました。すっかり慣れてその意味を深く味わうことをしないようになっているかもしれません。せめて今日は少しこの聖体聖別の言葉を味わい、この言葉をいかに生きているのか、反省しなければなりません。実は教皇様が今年の聖木曜日の司祭あての手紙の中でそのことを勧めておられます。教皇様はこの手紙を、ローマのジェメリ(Gemelli)という病院で3月13日付けで発信しておられます。司祭職制定を記念する聖木曜日のために世界中の司祭へ向けて出された教皇様の手紙から、切々たる思いが伝わってきます。わたしは教皇様のこの手紙を読んで二つのことを皆さんに申し上げたいです。 

第一に「すべての人のために渡されるキリストの体」ということです。イエスの十字架はすべての人の罪の赦しのためでした。例外なしにすべての人のために、キリストを知らない人、信じない人がいても、その人のためにもキリストは十字架上で血を流されました。もちろん、すべての人の中にわたしたち司祭も含まれます。このわたしのためにキリストはご自分を渡されたのです。司祭はまず自分の罪の赦しを信じる者、そのことを喜び感謝する者であるはずです。そのうえで司祭はその喜びを多くの人に伝える者なのです。 

第二の点は「渡される体」「流される血」ということです。聖体はキリストが渡された体、流された血そのものです。キリストはご自分のすべてを渡し、捧げられました。わたしたちの救いのために。キリストに倣いキリストと共に歩む司祭は自分自身をいつも「渡す」者でなければなりません。キリストの名において生きる司祭は、キリストの姿を現しその生き方を実行に移すものでなければなりません。司祭はキリストに倣って共同体の必要のために、貧しい人々のために、神の国の到来を証しするために自分自身を捧げる者なのです。弱い人間性を担う司祭にとって、それには困難が伴うことをわたしたちは知っています。しかし、キリストがいつも共にいてくださり助けてくださいます。本日のこのミサの中で聖霊の力が司祭に豊かに与えられるよう祈り求めましょう。ご出席の皆さん、今日も、これからも、どうか司祭のために祈ってください。