お知らせ
Tangible第17号
2023年12月06日
受講生の声
カテキスタの理念「共に歩む信仰の旅―同伴者イエスと共に―」は、私の望み
受講者
第6期生
町田教会 井上 めぐみ
◆始まりは「信仰の迷い」
第6期のカテキスタ養成講座が開講され、これまでに3回の講座に参加させていただきました。猪熊神父様の講義を受講しながら、これから始まる模擬授業に少なからずの緊張感を覚えているところです。そのような状況ですので、今回は私のカテキスタ養成講座に応募までの経緯と、参加した3回の講座について記していきたいと思います。
始まりは、「信仰の迷い」からでした。自分の信仰生活の根幹を揺るがす出来事があり、年単位に及ぶすさみの時期を経験しました。私の苦しみは、その出来事が自分に起こったことの意味を見いだすことができないことにありました。点と線が結びつくように、あの出来事は私にとって必要だったと理解することができたら、その時期の苦しみも甘受できるのに。そう思いながら年月だけが過ぎていきました。
◆カテキスタ養成講座
リーフレットを手にした瞬間
そのすさみの時期の合間にも神さまの導きが何度もあり、「信じられないけれど、信じたい」というアンビバレントな思いを抱くようになりました。そんな時に教会でカテキスタ養成講座のリーフレットを手に取ったのです。手にした瞬間に「これだ!」と、養成講座に参加してみたいという気持ちが沸きました。
神さまも自分も信じられなかった私は、申し込みまであった数カ月の猶予を、本当に参加するべきかという迷いのうちに過ごしていました。養成講座に参加すれば、自分の信仰をもう一度取り戻せるのではないかと、カテキスタ養成講座の趣旨とはかけ離れていましたが、一縷の望みをかけたのです。
◆講座に参加する度に感じる
神さまの救いと恵み
講座が始まってから「信仰の迷い」にまつわる自分の思いを同じ受講者の方に話したところ、「それは神さまとの関係が今までよりもぐっと近くなるための恵みの時」だと教えてくださいました。その言葉でそれまでとは違った捉え方ができるようになったり、猪熊神父様の講義で旧約時代の話題に触れた際に、それまでどこか他人事のように感じていた旧約の出来事が自分のことと重なるように受け止めることができたりと、講座に参加するたびに神さまの救いと恵みを感じています。
不信心な私でしたが、神さまはそのような私でも見放さずに希望の光を灯し続け、行く道を照らしてくださっているのだと実感しています。
今おぼろげに感じていることは、私が経験した「信仰の迷い」も、もしかすると神さまが結果的に善い方向へと計らってくださるのではないかということです。出来事の意味は見いだせていませんが、それがあったからこそカテキスタ養成へと導かれた、そう考えるとその出来事がなくてはならないものだったのだとも思うのです。
◆自分と共に歩んでくださった方々のように、
私も求道者の方々と共に歩みたい
養成講座初回のオリエンテーションで猪熊神父様が、カテキスタの理念として「共に歩む信仰の旅―同伴者イエスと共に―」をお話してくださいました。現代では、カテキズムを「教える」のではなく、「共に歩む」姿勢が主流であるとのこと。
思い起こせば、私がカトリックでの受洗を決めた当時、共に歩んでくださった大学の先生と、シスター方がいらっしゃいました。その方々の信仰を生きる姿勢に感銘を受け、さらにカトリックへのあこがれを強めていったことを覚えています。そのような姿には到底近づけませんが、「共に歩む」という姿勢は学んだつもりです。
今後、カテキスタの役割を担うことができたなら、私がしていただいたように、求道者の方々の傍らで共に歩みを進めていきたい。それが今、私の望んでいることです。
「派遣前講習」参加者の声
カテキスタと呼ばれても
カテキスタ 第5期生
チーム関口
麹町教会 髙橋 宏樹
◆これからが本当の意味での出発
2023年9月9日(土)、東京カテドラル聖マリア大聖堂で、「教区カテキスタ認定・任命ミサ」が行われ、菊地大司教様から、分厚い「修了証」と「認定証」「任命書」を仲間2人と共に頂いた。カテキスタの誕生である、と叫びたいところではあるが、とんでもない、これからが本当の意味での出発である。
思い起こせば1年前の9月に、教区事務所地下1階ケルンホールに集合したわれわれ5期生は、さまざまな都合で人数が減り、認定証を受領できたのは3人。いろいろな理由があるにせよ、残念な卒業だった。
◆レジュメなしで熱く語れるように
私自身についていえば、この1年間の研修期間、キリスト教を学びたいとする人に対し、少なくともキリスト教信者としてお話をするのに、いちいちレジュメを見なければ話せないのか、と何度も自分にあきれた。
好きな映画について、音楽について、食べ物について、なんでもいいのだが、話をするのにメモがないと話ができないというのは、本当は、単なる勉強不足か、好きではないのではと、思わせるもので、聞きに来ている人に対して、単なる失礼な対応をしているに過ぎない、ということであるはずだ。このような話し方では、むしろ聞いている人は、「本当にこの人はキリスト教、キリストを信じているのか」と考えてしまうのではないだろうか。もちろん、キリスト教入門とはいえ、その範囲と深さはかなりなもので、その全てを知り、語れるものではない。
しかし、もう少しできてよかったのではないか、せめて、好きな料理について熱く語るときくらいに、というのが本心ではある。
◆先輩カテキスタのようになりたい
任命後、カテキスタ全員での会合、関口教会に派遣されたカテキスタとの会合など、今年度後半、さらに来年度に向けての会合が進んでいる。
最近、先輩方の講義を直接聞くことができた。何か高邁なことを高い立場から演説するのではなく、参加者の皆さんに同じ目線で語りかけながら、しかし、しっかりと結論に導いていく。参加者から質問を受け、参加者に質問する形で講座への参加を求め、その発言をベースに話をまとめていく。こういう講座であれば、また次回も参加したくなるな、と思う講座だった。
先輩の作成されたレジュメも、確かにこれが「キリスト教入門」の1時間半用のレジュメだな、と感じられるものだった。一つ一つは一見細かくとも、丁寧に叙述され、それがまとまって大きな流れになり、後で全体を俯瞰できる、そんなレジュメだった。 「1時間半話すんですよね」「話しますよ。足りない、と思いますけど」とあっさりと答える先輩カテキスタ。自分もいずれはそうなりたいと思っている。
◆生活が変わる、
生活を変える力を手渡していきたい
講座の内容には、イエス・キリスト論はもちろん、教会や祈り、秘跡といった大切な論点が並んでいる。その話を聞いた人が、受洗へと進み、そのうえで、週1度でいいから教会に通ってほしいと思う。教会のミサに与り恵みをいただくことで1週間の生活の疲れを癒し、また次の1週間の生活に戻る。その繰り返しの中から、自分なりの信仰生活を見つけ出し、教会での奉仕活動や学習を進め、実りある信仰生活を進んでもらうことができれば、ありがたい。
そのためにも、一つ一つの論点について単に詳しく情報を伝えるだけではなく、生活が変わる、生活を変える力を何とか手渡ししていきたい。その試みは、カテキスタだけでできることではないが、最初の入り口のカテキスタから努力を始めていくべきことだろう。
◆1年間学んできた
「自分の信仰を語る」こと
今の時代、哀しみ、苦しみ、疎外といった負の状況から、喜び、楽しさ、明るさといった状況へ移りたいと考え、そしてそのための手法として教会の勉強会に参加される方々と、お会いすることになる。その実際の生活の様子は分からないまでも、なんとかして、今の状況から逃れたいと思う気持ちに、私がどう向き合えばいいのか、その手法を会得しているわけではない。
「そんなきれいごと言って、実際に私の人生がどう変わるんですか」という質問に、何と答えればいいのか。その答え方こそが、この1年間分からないなりに学んできた「自分の信仰を語る」ことなんだろうと思う。自分の狭い人生の中で学べたことなど、他人に役立つものがあるのかどうか全く分からないが、仮に少しでも役立つのであれば、そのことを共有することが、一つの回答になるかもしれないと思っている。
◆辛く苦しい時も、仲間と喜び合う時も、
共にいてくださるイエス様を伝えたい
仕事上どうしてもやらねばならないこと、これは働く者として当然のことではあるが、必ずしも楽しく、いつもやりがいのあることばかりではない。その中で歯を食いしばり、汗を流し、頑張らねば、生活もできない。その時にこそ、イエス様に寄り添い、イエス様に抱きかかえられながらも、仕事を終える。そんなこともあるかもしれない。その時、遠慮なく、「助けてください」と呼ぶ相手がいることをお話したい。
逆に、みんなで頑張り、仕事を成し遂げたときに、仲間と喜び合うことはもちろん、イエス様とも喜び合いたい。そして、自分の周りにいるかもしれない、将来のクリスチャンのために、微力ながら、カテキスタとして奉仕していきたいと思っている。 最後に、1年間のカテキスタ養成講座を計画し、実施してくださった猪熊神父様や関係者の方々に感謝したい。また、今回私を受け入れて下さった、関口教会の天本主任司祭様をはじめ、ヘルパーの方々に感謝したい。まずは、ご迷惑をかけないように、先輩からの指導を受けつつ頑張っていきたい。
現場の声
「派遣」を実感して
カテキスタ 第4期生
チーム清瀬
調布教会 今田 みゆき
私は2022年9月10日に菊地大司教様から教区カテキスタとして認定・任命を受けて、清瀬教会に派遣され、この4月から活動しています。
◆派遣の祝福のことばは
神様からの温かい励まし 活動を続けるうちに、ことに最近、感謝の祭儀の閉祭部分で唱えられる派遣の祝福のことばが、以前より、さらに喜びをもって、受け止められるようになりました。ご存知のとおり、2022年の待降節第1主日からミサの式次第が変更になり、新しい式文では派遣の祝福のことばは「行きましょう、主の平和のうちに」のほかに、「行きましょう、主の福音を告げ知らせるために」と「平和のうちに行きましょう、日々の生活の中で主の栄光をあらわすために」が加わり、一層具体的で、より豊かになりました。
派遣のことばは、私にとって「置かれた場で、1週間がんばりなさい。そしてまた戻って来なさい」と、神様から肩をポンポンとたたかれるような、温かい励まし以外のなにものでもありません。そして、教区カテキスタを拝命したことによって、それがさらに現実的なこととなって、自分自身に迫ってきた実感を持つようになりました。
◆初めての担当の日は
忘れることのできない大切な日に
派遣先の清瀬教会は2023年4月から講座がスタートした新しい活動拠点です。他のチームも同様ですが、チーム清瀬も2022年9月から半年をかけて開講の準備を進めてきました。そして4月にオリエンテーションを経て講座がスタートし、7月には無事に私の初めての担当の日を迎えることができました。私にとっては、とても印象深く、忘れることのできない大切な日となりました。受講してくださった方やスタッフの方々の温かいまなざしに感謝しております。
◆講座のための事前準備は
派遣のことばをかみしめる瞬間
講座に臨むには、事前にさまざまな準備をします。まず必要な資料を集め、関連する本を読んだり、調べたりもします。このようなことをしながら、担当するテーマを自分なりに深めていきます。私はこの事前準備が、カテキスタの役割の半分を占めていると考えています。そしてまた、この準備こそが、カテキスタ自身が成長する時でもあると感じています。
けれども、準備をすればするほど、伝えたいことが盛りだくさんになっていきます。それを入門の段階の方に分かりやすく、どのように説明するのかを再考する過程で、涙を呑んで(笑)それらを少しずつそぎ落とす作業をしていきます。
そして、結果として、伝えきれない思いを抱えながら講座に向かうことになります(これはあくまで私のケースです…)。講座の前には、このようにとても苦しくて楽しい時間があり、私にはこのことが「行きましょう、主の福音を告げ知らせるために」という、派遣のことばをつくづくかみしめる瞬間でもあるのです。
◆奥ゆかしく控えめな
神様の愛に気づくお手伝い
これは、私の職場でのことです。現在、私はキリスト教系の社会福祉法人に勤務しており、直属の上司はクリスチャンです。上司も私がカトリック信者であることを知っていて、毎月私は上司が執筆する職員向けのワーシップサービスのメッセージ原稿のチェックを依頼されます。 ある時渡された原稿のテーマの聖書箇所が、サムエル記上3章1~10節でした。少年サムエルが主に呼びかけられますが、最初は主であることに気づかず、エリからのアドバイスもあり、4回目の呼びかけでやっと「どうぞお話しください。僕は聞いております」と答える場面です。私は、この聖句を神様がこの場この時に私に贈り、「見守っているよ」と伝えようとされたと受け止めました。
このように、何気ないことの中に神様は愛を込めていらっしゃるのではないでしょうか。典礼聖歌386「風がどこから」の歌詞にもあるように、だれも知らない、たずねない、気づかないのかもしれませんが、とても奥ゆかしく控えめな神様の愛に気づくお手伝いをすることも、求道者の方々と共に歩む、カテキスタの役割であると、改めて感じる今日この頃です。
このようなカテキスタの歩みのために、どうか皆様お祈りください。
与えられたいのち(=時間)を神様に使っていただけますように
カテキスタ 第4期生
チーム清瀬
調布教会 今田 潔
私は、2022年9月に菊地大司教様から新任の教区カテキスタとして認定・任命を受け、清瀬教会に派遣されました。そして、23年4月からチーム清瀬6名による入門講座がスタートし、半年余りが経過しました。
◆主日ミサに信者と共に参加できる
「ハイブリッド開催」講座
チーム清瀬の入門講座は、原則月2回で日曜・土曜が各1回の「ハイブリッド開催」です。しかも、日曜と土曜では雰囲気がかなり異なっています。
日曜は、清瀬教会の主日ミサに受講者と共に参加するところから始まり、ミサ後に会場の図書室に集まって講座を行います。主日ミサの余韻が残る中、その日のミサの聖書朗読を導入として、講座を始めることもあります。例えば、私が担当した「主の晩餐・主の受難」の回では、ミサの福音朗読が「イエス、死と復活を予告する」(マタイによる福音書16章21節)でしたので、「イエス様はご自分の十字架の死を自覚しておられた」ことから話を始め、自然な流れで「主の晩餐・主の受難」のテーマに入りました。
一方、土曜の講座は、静粛な雰囲気の中で神のみことばを読んで味わうことができます。
この日曜・土曜の「ハイブリッド開催」は、東京教区カテキスタの入門講座としては初めての試みでした。課題はありますが、受講者が教会の信者と共に主日ミサに参加することから得られる利点も大きいと思います。ミサの聖書朗読・説教・信条・聖歌・式文などから、知識面でも霊的にも刺激を受け、信仰への理解が深まると実感しています。
◆伝えたい情報を整理して、
ミサの意味と関連づけてお伝えする
実際に入門講座を担当して、教区カテキスタとして私が感じた課題についてお伝えしたいと思います。
先に挙げた「主の晩餐・主の受難」の回は、キリスト教の信仰の本質的で重厚なテーマでした。受講者にお伝えしたい情報がどうしても多くなりました。情報をどう整理しても内容が難しく感じられ、信仰の本質にたどり着けるか、自分の信仰が問われているような気がしました。
そこで、ミサの意味と関連させながら「主の晩餐と主の受難」をお伝えし、イエス様による「新しい過越」というテーマを理解していただくよう努めました。ミサは、イエス様の十字架の死を記念し、復活の勝利を喜び祝う、感謝の祭儀です。ミサの意味が分かることを通して、神様の深い愛が実感として伝わればうれしいです。
◆「信仰の喜び」を伝えたい
教区カテキスタとして私が伝えたいことは、キリスト教の教義だけでなく信仰、それも「信仰の喜び」です。受講者にとって情報が過多にならないよう、整理し削って、でも本質が豊かに凝縮されるように工夫して、そこに「信仰の喜び」が伝わるようにお話しできればと思っています。しかしそれは自分にとって容易なことではありません。試行錯誤をしながら、指導司祭や先輩カテキスタの皆様からこれからも学びを深め、経験を積んでいきたいと思います。
◆病気を通じ、教区カテキスタとしての
成長を祈りのうちに願う
最後に個人的なことですが、入門講座開講前の23年2月から体調を崩し、4月の開講時には参加が間に合いませんでした。これまで六十数年、大きな病気には縁がなかったのでショックでしたが、5月には元気に回復し、それからは予定していた入門講座を担当することができました。
病気を通じて「健康に働けること」のありがたさを痛感し、一日一日を神様への感謝のうちに、いとおしむように大事に生きていければと思いました。自分に与えられたいのち(=時間)を、みこころでしたら神様に使っていただけるよう、教区カテキスタとして経験を積み成長していければと、祈りのうちに願っています。
典礼あれこれ 第9回
「待降節の典礼について」
本日から、教会は待降節に入り、主日の福音朗読配分は、マルコによる福音書が中心的に読まれていくB年が始まりました。この待降節は、待降節第1主日の「前晩の祈り」から始まり、主の降誕の「前晩の祈り」の直前まで続きます。
この季節は、今からおよそ2000年前のイエス・キリストの誕生を祝う準備をするだけでなく、終末におけるキリストの第2の来臨の待望へと心を向ける季節でもあります。言い換えれば、“愛と喜びに包まれた待望の時”と言えます。すでに来られた救い主を待ち望む時です。
この季節、典礼で用いられる祭服の色は紫色です。しかしながら、待降節第3主日(ガウデーテの主日)には、習慣のある所ではバラ色の祭服を用いることもできます。
待降節の四つの主日には、待降節第1主日「目覚めて待つ」、待降節第2主日「主の道を整える」、待降節第3主日「主は近い、喜べ」、待降節第4主日「みことばは人となった」をそれぞれテーマにして聖書朗読が選ばれています。そして特に、12月17日から24日は、主の受肉の祝いのための準備期間となっており、17日から23日の『教会の祈り』「晩の祈り」の「福音の歌」では、「おお」で始まる長い交唱が唱えられます。
12月24日の主の降誕の「前晩の祈り」からは、降誕節が始まります。日本では1月2日から8日の間にやってくる日曜日に主の公現が祝われるのですが、この主の公現の祭日直後の主日、主の洗礼の祝日まで降誕節が続きます。この主の洗礼の祝日は、来年のように、主の公現の祭日が1月7日(または、1月6日)になる場合、翌日の月曜日に祝われます。
「希望して待つ」ことが主なテーマとなる待降節なので、師走の忙しい時期ではありますが、聖書のみことばに耳を傾けて、私たちの心の希望をさらに増してくださるように、また、心を整えて主を待つことができるように、祈っていきたいと思います。