お知らせ

お知らせ

Tangible第18号

2024年01月10日

皆様がこのTangibleを手になさるのは、2024年の新春。 新しい年を迎え、如何お過ごしでしょうか? さて、今日は、生涯養成委員会からお知らせをしたいと思います。

生涯養成委員会 担当司祭 猪熊 太郎

教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」の配布について

1月中旬になりますと、教区カテキスタ養成講座「第7期応募要項」が、各小教区の主任司祭宛に配布されます。

カテキスタに関心のある方は、是非、各小教区主任司祭宛に送付されている応募要項、または、教区HPにアップされている情報をご確認のうえ、書類を整え、以下のように、期日までにお申し込みください。お待ちしています。

◉申込方法:「申込書」に必要事項を御記入のうえ、他の必要書類とあわせ、締切日に間に合うように、 下記の住所まで、直接、郵送して下さい。後日、講座についての通知をさせていただきます。
〈申込先〉〒112-0014文京区関口3-16-15 東京大司教区 生涯養成委員会 「教区カテキスタ養成講座」係
◉講座申込締切日:2024年6月28日(金)17:00必着

■2024年度開講情報について

生涯養成委員会では、2024年度も、受洗を希望する方々のための「入門講座」と、既に信仰生活を送っている方々の学び直しの機会としての「フォローアップ講座」の2本立で講座を開講します。 いずれの講座も、単に、キリスト教に関する知識を増やすための「講座」ではありません。また、授業でもありません。 一人ひとりが御言葉に触れ、共に祈り、分かち合うことなどを通して、共に信仰の旅を歩むことの意味を振り返っていく。そんな講座、そんなひと時にしたいと思っています。如何でしょうか? 興味がある方は、下にありますリンク(教会名をクリックしてください)から、開催場所・日時などをご確認のうえ、どうぞ、時間までに集合なさってください。お待ちしています!

入 門 講 座

受洗を希望する方々のための講座です

葛西教会
4月13日開講
最寄駅 東西線「葛西」駅

清瀬教会
3月3日開講
最寄駅 西武池袋線「清瀬」駅

関口教会
4月13日開講
最寄駅 有楽町線「江戸川橋」駅

関町教会
4月6日開講
最寄駅 西武新宿線「武蔵関」駅

西千葉教会
3月2日開講
最寄駅 JR線「西千葉」駅

松戸教会
3月9日開講
最寄駅 JR線「松戸」駅

フォローアップ講座

既に信仰生活を送っている方々の学び直しのための講座です

神田教会
4月19日開講
最寄駅 JR線「水道橋」駅

清瀬教会
3月3日開講
最寄駅 西武池袋線「清瀬」駅

松戸教会
4月13日開講
最寄駅 JR線「松戸」駅

松原教会
4月13日開講
最寄駅 京王線「明大前」駅

受講生の声

全ての方に受講して体験して いただきたい「カテキスタ養成講座」

受講者 
第6期生
町田教会 掛水 雅江

皆さん、できることなら全ての方に「カテキスタ養成講座」を受講していただきたいと、今、強く感じています。

まだ24回のうち5回しか受講していませんが、毎回、自分の信仰を確認でき、新たな気づきを与えられ、深められ、心の奥底から優しく温められていくのを感じています。

私が受講に至った経緯を、長いですが、聴いていただけますか。

◆逃げ出したい思いの連続の日々
私は、2024年1月で59歳になります。32歳で児童養護施設に転職し、2歳から18歳の子どもたちと寝食を共にしました。42歳で、3人の子持ちの夫と結婚しました。無宗教の夫、多感な高校2年生の長女、重度知的障害で高校1年生の次女を施設から引き取り、私との4人の同居生活、施設にお願いし続けることになった最重度知的障害で中学1年生の長男との生活が始まりました。結婚してすぐに事故で頸椎ヘルニアを患ってしまいました。

1年間、神父様に霊的同伴をしていただき識別した上での結婚でしたが、すぐに弱音を吐き、逃げ出したい思いの連続の日々でした。でも、勘当されての結婚でしたので逃げ出すわけにもいきませんでした。

◆妊娠を100%喜べず、声を押し殺して泣く
私の力量、年齢から実子は諦めていましたが、数カ月後、子どもを授かりました。うれしいことなのに100%喜べませんでした。「引き取った次女の面倒を見られるのだろうか?」。長女には、「相談もなく勝手に子どもをつくって!」と言われました。彼女は、小学校1年生時に両親が離婚し、寂しさと不安から出た言葉と頭では分かりながらも余裕のなかった私は、奈落の底に突き落とされたような気持ちになりました。

加えて妊娠を100%喜べないことが、いのちを授けてくださった神と、お腹のいのちに申し訳なく、声を押し殺して泣きました。その夜、アブラハムがイサクを捧げる夢を見ました。「大丈夫、神が共にいてくださる」と感じられ、なんとか歩むことができました。

◆ミサから急いで帰宅するだけ、神と信仰の共同体との関係を懐かしく思う
私は、エネルギー・チャージのためにミサに行っていました。ミサに行っていましたが、私にとって教会って何だったのでしょう?教会に集う全ての人と笑顔で挨拶を交わすこともなく、会話もほとんどなく、急いで帰宅するだけ。その昔、日曜学校の手伝いをし、青年たちで講演会などを企画実施し、司祭を囲んで夜遅くまで信仰のこと、教会のことを語りあったことを懐かしく思っていました。

私は、いつの間にか自分の家庭のことで手一杯になり、神と私の関係、もちろんこの関係は大切ですが、狭い関係にとどまってしまい、神と私たちの関係ではなくなっていました。この状態を神は喜んでいないと感じるようになりました。

◆一度は諦めた「カテキスタ養成講座」、「やってみるか」と応募
猪熊神父様は、「教会とは、イエスの想い(神の国=神と共にある国、を実現すること)を実行する集団」と言われました。

「私は、教会に集う仲間とその行動をしているだろうか?」、「できていない」。「では、私に何を望まれているのか?」、「何をしたらよいのか?」と思い巡らしている時、「カテキスタ養成講座5期生募集」の案内が目に入りました。イヤイヤ、時間・体力共に余裕がない、私が求道者に語るなんて無理、と、その時は終わらせました。

そして、今年も6期生募集の案内が目に入りました。イヤ、昨年と状況は変わってない、体力は確実に落ちている。家族も無謀と反対している、やはりやめておこう。でも、ずっと気になっていました。募集締め切りが近づいたある時、温かい大きな手に優しく背中を押された気がし、「やってみるか」と応募しました。

◆神の国実現のために共に歩みたい
猪熊神父様は、「カテキスタになるのも召命(向き不向き)」と言われました。神父様方、シスター方、友人たちに助けられ共に歩んでいただき、今の私がいます。私も、神の国を実現するために仲間と共に歩みたい、神が喜ばれることをしたいです。それがカテキスタなのか今は分かりませんが、仲間と共に学ぶ機会を与えられ、仲間に出会えたこと、最高の贈り物をいただきました。私は、ただ、一つ一つ祈りのうちに丁寧に、最善をつくすことで応えていきたいです。

模擬授業の準備は、とても大変です。時間が足りませんが、ワクワクします。心が温かくなります。模擬授業は、冷や汗ものです。 それでも、ぜひ、あなたにも体験していただきたいです。神の国実現のために共に歩みたいのです。

「派遣前講習」参加者の声

今年認定任命されたカテキスタたちの派遣先教会での活動は2024年4月からスタートします。それまでの半年間、月に2回の「派遣前講習」を受けます。

カテキスタとして歩み始めるためのさまざまな気づき

カテキスタ 第5期生
チーム葛西
高円寺教会 成田 雅江

◆先輩カテキスタの授業を見学、身が引き締まる思い
2023年9月9日に教区カテキスタの任命ミサにあずかり、葛西チームの一員として迎えていただいて、早くも3カ月近く。派遣前講習と授業の見学で、すでに3回、葛西教会に伺いました。主任司祭の柴田神父様や、教会委員長の上村さんにもお会いして、お話しする時間をとっていただき感謝しています。

先輩カテキスタの授業も見学させていただき、受講者が真剣に聞き入り、質問をする様子を見て、これがまさに信仰を伝えていく実践の場なのだと感じました。次の4月からは私もカテキスタとしてのスタートを切ることを思うと、身が引き締まる思いです。今から準備をしないことには到底間に合いません。

◆スケマ作りの中で共に歩む 「シノドス」の意味に気づく
チームのスケマ作りの打ち合わせにも参加させていただき、まだ何も分からない私は、ただただ先輩方の知識の豊かさと、和気あいあいと楽しそうに物事を決めていく様子に感心するばかり。こんな私が先輩カテキスタの皆さんについて行けるのか不安になりましたが、先輩方からはチームのみんなで一緒に歩むのだから大丈夫と励まされました。

そのとき浮かんだのは「シノドス」という言葉です。10月に菊地功大司教様が行かれたシノドス会議のあのシノドスです。私はこの言葉を自分からは少し遠い、聖職者の方々の専門用語のように捉えていました。しかし、阿部仲麻呂神父様の本(『キリストとともに-世界が広がる神学入門』)でこの言葉はギリシア語の「シュン(ともに)」と「ホドス(道)」を合わせた言葉で、「キリストという道においてキリスト者同士が相互に支え合ってともに歩む」(同書79頁)と言うことだと知り、それはまさに、カテキスタのチームとしての歩みや、キリストの道を求めて教会を訪ねてきた入門者と共に、私たちが支えあって歩んで行くことを表している言葉だと気づきました。

◆いつでも教えられるように備えつつ、誰も来なくても気を落とさずに待つ
ところで、私は葛西教会での2度目の派遣前講習の時にも、引き続き、先輩カテキスタの授業を見学させていただこうと思っていましたが、その日、受講者は一人もいらっしゃいませんでした。担当の先輩は、講座の終了予定時刻までずっと待ち続けていました。私はそれを知ったとき、ああ、これが第5期の養成講座の最後に猪熊神父様がおっしゃっていた「イエス様の旗印を掲げて待っている人」になることなのだなと理解しました。準備をして、いつでも教えられるように備えていながら、誰も来なくても気を落とさずに待っている。それもカテキスタとしての役割なのですね。

今、派遣前講習を受けながら、養成講座とはまた違うさまざまな気づきを与えていただいています。まだまだ、分からないことだらけの私ですが、4月からのスタートに向けて準備を進めて行きたいと思います。

現場の声

呼び集められ派遣されていく私たち

カテキスタ第1期生
チーム関口
麻布教会 高岡 詠子

2018年9月から「入門講座担当者養成講座」(現「教区カテキスタ養成講座」)を1年間受講した後、半年の派遣前講習を経て、2020年4月からカテキスタとしての入門講座が始まると思った矢先、Covid-19の影響を受け、現場を経験するのは1年遅れとなり、第1期生と第2期生は共に同じスタートラインを切ることになりました。

◆講座再開時の忘れられない喜び
2021年4月にチーム関口の講座は1期生3名、2期生2名の計5名のカテキスタと、講座を支えてくださる関口教会のスタッフ3名によって始まる予定でした。が、更なるCovid-19の影響により、開始を2カ月遅らせざるを得なくなりました。しかしそれだけではなく、7月にオリエンテーションから始まりこれからという時に、またもやCovid-19により講座は一時休止となりました。

受講者の方々も大変残念がっていましたが、10月に再開できた時は、講師の私たちはもちろん、受講者もスタッフも一体となって喜びに溢れました。「もう、コロナの打撃を受けたくない」という気持ちで、なんとか中断なしに最後まで講座を終えることができました。その時の喜びは忘れられないものとなりました。

◆誰のところにもイエス様がそばにおられる
原稿執筆時の2023年11月には、関口教会の3年目の入門講座が終わりに近づいている時です。今までの講座を振り返って思うのは、誰のところにもイエス様がそばにおられること、そして集められた私たちであることを感じていることです。

毎回の講座の締めくくりに受講者の皆さんからの質問タイムを設けていますが、ある時―その日のテーマは「イエスの復活・昇天」でした―受講者のお一人が「今、気づきました。私はすでにイエス様に出会っていたことを」とその体験を分かち合ってくださいました。このような分かち合いは、私にとってとても心休まります。私たちは「ここ」に集められて「ここ」から派遣されていることをしみじみ感じる時間です。

◆スタッフ、カテキスタ、司祭の真ん中におられるイエス様を実感
「入門講座担当者養成講座」を受講し始めてから5年が経過していますが、この間、カテキスタは養成講座に続き、派遣前講習、講座が始まってからの月1回の定例会、さらに更新プログラムなど、他のチームのカテキスタと共に学び、交流を重ねてきています。年が経つたびに新しい仲間も増えていきました。チームの中でも受講者、スタッフ、カテキスタが一体となっていることを感じていましたが、東京教区カテキスタ全体も、カテキスタ、スタッフ、猪熊神父様をはじめとする指導してくださる神父様たちが一体となっていることを感じます。一人一人が枝として段々に成長しつつ1本の木をつくっている、そして常にイエス様が真ん中にいらっしゃるということを実感しています。 イエス様を中心とする1本の木の枝としてこれからもあかしし続けていけますように。

仲間の存在

カテキスタ 第3期生
チーム関口
碑文谷教会 宮島 智美

2023度からカテキスタとして実際に講座の担当を開始しております。

2022年9月にカテキスタとして菊地功大司教様より任命をいただき、その後の半年は、配属先のチーム関口での習熟の期間を過ごしました。関口教会の主任神父様やサポートスタッフの方々とのコミュニケーションとコーディネーションの取り方、受講希望者や受洗希望者との面談の方法を学び、2023年復活祭後に講座の担当を開始したのですが、この半年という時間が、いかに貴重な期間だったかを、今感じております。

◆受講者から学ぶこと
チーム関口の講座には、本年度は12名の受講者が登録されています。諸事情により休止されている方もいらっしゃいますが、7名の方がほぼ毎回講座にお見えになります。

昨年度は、カテキスタとして活動を本格化させる前の準備期間だったこともあり、受講者の表情まで見えていなかった気がしますが、実際前に立って7名の方々と対面でお話をしていると、皆さんの表情や反応が手に取るように分かります。こちらが伝えようとしていることが響いていると感じるときは、受講者の目が輝いているように見えますし、逆に響いてない、うまく伝えられていないと感じるときは、受講者の表情に如実に見て取れます。 その反応を見て自分の資料に手直しを加えていき、より分かりやすい講座の実施を目指しています。

「受講生が変わる瞬間」が必ずあると、養成講座の中で言われた「その瞬間」には、私はまだ出会えていない気がしますが、これから経験を重ね、一人一人の受講者と向き合える心の余裕を養っていきたいと思っています。

私たちの講座にいらっしゃる受講者は、ほとんどの方がキリスト教と何かしらの接点があって今に至っておられます。カトリックの学校に通っていた、プロテスタントの教会に通っていたなどの環境を経て、教会の門を叩かれた方もいらっしゃれば、病気をきっかけに癒しを求めておいでになった方、またはふらりと立ち寄った聖堂の中で「何か」を感じたのがきっかけという方もいらっしゃいます。最初の面談の際に、講座に興味を持ったいきさつを饒舌に話してくださる方もおられれば、多くは語られなくとも熱意を秘めた方もいらっしゃいます。

実際、皆さん毎回よく予習復習をされて講座に参加なさっており、こちらが圧倒されることもあります。ありがたいのは、分からないことや知りたいことをはっきりと発言してくださることです。「何か質問はありませんか?」と言うとなかなか言葉が出てこない、手をあげる勇気はなくとも、「XXさん、いかがですか?」と問いかけると、とても活発に発言してくださいます。そのお話しくださる中で、私たちも多くの気づきや学びを得られます。

受講者の感性のほうが柔軟だと感じることも多々あります。例えば、「聖霊」の話をする回の講座の終わりに、「聖霊」のイメージを受講者に聞いてみると、一人の方が人気漫画に出てくる「スタンド」というキャラクターとイメージが重なると発言されました。そこから他の受講者たちも「あぁ、それ!本当だ!」と盛り上がり、その漫画を知らない私たちカテキスタやスタッフがキョトンとしていると、スマホでそのキャラクターの画像を出して見せてくれました。そのキャラクターは、エネルギーを絵にしたものだそうで、人間に、能力を超えた「力を与える」という意味では確かに共通点があるようでした。感性はその人その人で違いがあり、同じ話を聞いても、人それぞれイメージするものや関連付けるものが違うのは当然で、面白いと感じた出来事です。

◆仲間とのつながり
チーム関口の特徴を上げるとすれば、カテキスタ全員が都合のつく限り、各回の講座に参加していることです。利点としては、仲間のカテキスタの講座内容を把握することにより、次の回の講座との継続性を考えることができることと、受講者の反応を見て、その次の回で関連付けて掘り下げてお話しするべきポイントを把握できることがあります。レジュメを見ただけではわからない、細かい話の内容や受講生の反応は、自分の回のレジュメを作るときに役立つのです。

また、年度の途中から受講を開始された方がいらっしゃる場合、例えば、3月から受講されている方と10月から受講を開始された方では、聖書の箇所を探すスピードも違いますし、後から加わった方が気後れして疎外感を感じることもあるようです。そのような時は、新しく加わった方が戸惑わないように、同席しているカテキスタの仲間やスタッフの仲間がサポートしてくれるのです。もちろん、時にはひと月の全ての土曜日がカテキスタ関連の活動で埋まることもありますが、全員が無理のない範囲でこのスタイルを続けています。

まだまだチームとしてはあれこれ模索中で、ただ座って話を聞くだけの講座ではなく、もっと動く・見ることを取り入れたプログラム作りをしたらどうだろうかなど、試行錯誤の日々です。 コロナが第5類になり、規制緩和されたころから、講座の終わりにフリートーク形式の分かち合いのような時間を設けることにしました。そうした雰囲気のほうが質問をしやすいのか、個人的に知りたいことを質問する受講者もいらっしゃいます。また、その時間が、受講者同士の懇親の機会になっているようで、それが受洗後の信仰生活を助け合う仲間づくりにつながるのではないか、という期待もあります。 

2023年夏は、私にとって「有難い」経験がありました。

チーム関口には、ご家族のケアでカテキスタの活動を制限せざるを得ない状況に置かれている仲間がいます。ご家族は何にも代え難いもの。ケアに専念されたいでしょうに、それでも担当講座や、引き受けてくださっているX(旧Twitter)管理などの作業を継続してくださっています。

私が代わってできる事があるのではないかと考えていた矢先に、私自身が6月から9月の間、完全にダウンしてしまったのです。原因不明の体調の波が繰り返し襲ってきて、カテキスタの活動や教会での活動ばかりか、仕事に行くのもままならない状態が3カ月続きました。なんとか担当回の講座だけは乗り切りましたが、多くのコミットメントに穴を開けてしまったことに対し、完全に自信喪失状態に陥ってしまったのです。伏せっている間、脳裏をよぎるのは、カテキスタのご奉仕を継続できずに皆さんにご迷惑をかけてしまうのではないかという不安でした。そんな私の「All or nothing」の性格を見抜いていらっしゃったのか、猪熊神父様が「きちんと手当てを受けて健康になることが最優先。仲間に助けられながら、無理のない範囲で奉仕を続けてください。そのための仲間です」とおっしゃってくださいました。

そしてそれは本当でした。派遣先の関口教会でも、所属教会でも、職場でも本当に仲間がいろいろな場面で助けてくれたのです。脂汗を流す私に、冷たい飲み物を差し出してくれ、顔面蒼白の私の首の後ろにそっとクールパックを当ててくれた仲間がいました。ご奉仕をカバーしてくれたり、倒れてしまった私を病院に担ぎ込んでくれた仲間がいて、言葉には出さずとも、私の様子をずっと注意深く見てくれていた仲間もいました。そして私のために祈ってくださった仲間がいました。 「難が有った」ときにこそ感じる「有難さ」。体調不良は苦しく、孤独を感じることもありましたが、周りに目を向けると、なんと多くの方々に支えていただいたことか。困難の真っただ中にいると、傍らに仲間がいてくれることを忘れがちです。人間は決して一人で生きているわけではなく、支え合って生きているのだと再認識できた夏でした。

カテキスタには、同じチームの仲間ばかりではなく、チームの枠を超えて、互いを支え合う仲間がいます。ようやく体調が回復した今、「最も小さいものの一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25・40)と語られた主の言葉を胸に、今度は私が困難な状況にある仲間を助け、どんな形であれ、支えになることができればと思っております。

典礼あれこれ 第10回

「典礼で用いる祭服などの色について」

典礼季節に従って、教会では、祭服やろうそくなどの装飾にさまざまな色が用いられています。 初代教会では、白が用いられることが多かったようですが、9世紀ころまでに他の色が用いられるようになります。12世紀末の教皇インノチェンチウス3世は、白、赤、黒、紫、緑という典礼で用いる色についての説明を残しています。

現在、主に用いられる色は次の四つですが、これについては、次のような意味があると言われています。

白…神の栄光、神聖、清浄、喜び
赤…聖霊、殉教
紫…内省、悔い改め、節制、待望
緑…希望、成長、生命

また、色の多様性については、祝われる信仰の神秘の特徴や、キリスト教生活の意味を効果的に表すことを目的としています。司式者や会衆の好みで色を選ぶことはできません。 白色は、復活節と降誕節、受難の日以外の主の祝祭日、聖母マリア、天使、殉教者でない聖人の祝祭日、諸聖人(11月1日)と洗礼者聖ヨハネの誕生(6月24日)の祭日、聖ヨハネ使徒福音記者(12月27日)と聖ペトロの使徒座(2月22日)、聖パウロの回心(1月25日)の祝日に用いられます。また、現在では、結婚式を伴うミサや、葬儀ミサでも用いられています。

赤色は、受難の主日と聖金曜日、聖霊降臨の主日、主の受難の諸祝日、使徒および福音記者の帰天の日、そして、殉教者の諸祝日に用いられます。

緑色は、年間の季節に用いられます。

紫色は、待降節と四旬節に用いられます。また、死者のためのミサにも用いることができます。

黒色は、最近ではあまり用いられませんが、習慣のあるところでは、死者のためのミサに用いることができます。 ばら色は、習慣のあるところでは待降節第3主日(ガウデーテの主日)および四旬節第4主日(レターレの主日)に用いることができます。

その他、盛大に祝われる日には、祝祭にふさわしい祭服、あるいはより高貴な祭服を用いることができます。金色や銀色の祭服も用いることが可能です。 『ローマ・ミサ典礼書の総則』によれば、典礼色に関して、司教協議会は、国民の必要と性質に適合するように、適応を規定して使徒座に提案することができるとしています。 さまざまな祭服の色を目にして、私たちは視覚を通して、典礼季節を感じ、救いの神秘を祝っていきます。色の移り変わりだけに目を奪われるのではなく、その色で表現される典礼の奥深さを感じることができるとよいと思います。

 

キリストに「触れられ」受洗を望むようになった人々に、日々「接している」カテキスタたち。そのようなカテキスタになることを望み、カテケージスを、より「手触り感のあるもの」として学ぶ受講生たち。そんな彼らと、彼らを支える小教区の信徒の皆さんが「接する」ための媒体になれれば…、と願っています。