お知らせ

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Tangible第11号

2023年05月02日

軽井沢黙想会のご報告

3期生
田中芳保
チーム松原 亀有教会所属

教区カテキスタの黙想会は、静寂に包まれた自然の中で、1泊2日(3月18日~19日)の日程で、長野県の軽井沢町にある「御聖体の宣教クララ会軽井沢黙想の家」で開催されました。

新型コロナウイルス感染症の影響は、幾分、和らいできたものの、マイクロバスで移動中の車内ではマスク着用とし、黙想の家に到着した頃には、降っていたみぞれは雪へと変わり、気温は5℃前後と肌寒く、地面のあちらこちらに残雪が見られ、都会での生活とは一変する世界に参加者たちを招いてくれました。

この黙想会の参加者は、教区カテキスタ養成講座を昨年9月に修了した第3期・4期生(計7名)と、他にカテキスタ・スタッフ(第1・2期生)の皆さん、および、引率責任者の猪熊神父様、並びに、京都教区司祭で仙台教区派遣中の森田直樹神父様を含む総勢21名でした。

今回の黙想会の参加者の中心メンバーたちは、第3期生と4期生です。 振り返りますと、教区カテキスタ養成講座が修了し、認定任命ミサを経て、昨年9月中旬より今年2月まで「派遣前講習」が、毎月、1~2回ほど開催され、軽井沢の黙想会をもって一つの節目を迎えたのでした また、これとは別に、カテキスタメンバー全員による、毎月1回の定例会では、各チームの活動状況報告や、チームメンバーの話し合いの場として予定されています。

ところで、私の住まいのすぐ近くには国道があり、コロナ禍での3年間は救急車の往来が絶えませんでした。そのためでしょう、日々の生活の中に、すっかり、サイレン音が溶け込んでいたのです。しかし、軽井沢の黙想の家では、そうした騒音はおろか、都会の混雑ぶりや、排気ガスの臭いも感じられません。

さて、黙想会のプログラムには、現地到着後から、参加メンバーで分担する様々な作業があります。 例えば、食器の準備、食後の片付けと食器洗いは当番制、起床後の部屋の掃除やシーツの片付け、部屋内のお風呂と洗面台は、次に使用する方々のために清掃します。これらは、私が社会人となり、社員寮で過ごした頃を思い出させてくれましたが、大きく異なる点は、部屋にテレビや冷蔵庫はなく、自販機も設置されていない点です。このため、おのずとここが、黙想に相応しい場所であることを気づかせてくれます。

森田神父様の講話サマリー(全2回)

テーマ 「神との密接な結びつき」

7つの秘跡と、 一生に一度限りの秘跡を中心にして

皆さんは日々の祈りやミサを通して、イエス様と結びついておられると思います。しかしながら、私たちが思っている以上に、まず、神様が、私たちとつながろうとしてくださっている。また、つながっていてくださるのだということです。

秘跡は7つ(洗礼・堅信・エウカリスチア・赦し・叙階・結婚・病者の塗油)あります。 このうち、一度しか受けることのできない秘跡は、「洗礼・堅信・結婚・叙階」の秘跡であり、一生に1回しか受けられません。

教会は、これら一生に1回しか受けられない秘跡の特徴として、「霊印(れいいん)」を押されていると考えます。それは神様が、霊のハンコを押してくださるというものです。

秘跡の定義

秘跡の定義とは、「目に見えない神の恵みの、目に見える効果的なしるし」のこと。

「しるし」には、いろいろな「しるし」があります。例えば、交通信号も一つの「しるし」です。しかしながら、交通信号は、赤になったら、自動的に、何が何でも車にブレーキが掛けるという力はありません。その「しるし」を見た人が赤信号だと思い、ブレーキを踏まなければ車は止まりません。ともかく、信号という物は一つの「しるし」、単なる「しるし」であって、その「しるし」を見た各自が判断し、そして、止ったり、進んだりすることをしなければなりません。

ところが、秘跡という「しるし」は、単に「神の恵みがありますよ!」という漠然とした「しるし」に留まりません。必ず、一定の「効果」をもたらすのです。つまり、秘跡というのは、目に見えない神の恵みではあるけれども、それが目に見える形で、具体的に、私たちの背中を押してくれる「効果的なしるし」なのだということなのです。これが、秘跡と言われるものです。

結婚の秘跡

例えば、結婚の秘跡というのは、生まれも育ちも違う二人が出会って、お互いが愛と尊敬をもって、お互いに忠実に尽くし合うことを約束することです。約束は非常に尊いものですし、ここに結婚の秘跡の根本があります。

巷でよく言われる離婚の原因が「性格の不一致」だといいますが、「性格が不一致」なのは、当たり前のこと。性格が違う人同士が結婚しているわけだから、それをどのようにして乗り越えて行くか?それが結婚生活ではないのか?そのために必要な力を与えるのが、まさに結婚の秘跡の「効果的なしるし」なのです。

洗礼の秘跡

私たちの背中を押してくれる「効果的なしるし」が秘跡です。人はいろいろな悩みがある、苦しみがある、困難がある、罪がある、そんな中でもっと私は生き生きと生きていきたい、神と一緒に生きていきたい、神の子どもとなって光の子として歩みたい、そういう人の背中を、まず、押してくれ、自分に結びつけてくれるのが洗礼の秘跡です。

堅信の秘跡

神と共に歩み、神の霊に従って、神の霊に導かれて、この生涯をお献げして生きて行きたい、その背中を押してくれるのが堅信の秘跡です。

ヨハネによる福音書15章1~5節 (イエスはまことのぶどうの木) 抜粋

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(中略)

…ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」中略

私たちは、イエスにつながっているからこそ、実を結ぶことができる。逆に、イエスにつながっているならば必ず実を結ぶことができると、読むこともできます。神は、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをする。皆さんお一人お一人がイエスとつながっている、結ばれている。そして、カテキスタという奉仕の中で実を結んでいく。そして、実を結んでいることに対しイエスは、さらに実を結ぶように助けてくださる。

わたしたちは、毎週のミサの中で、または、信仰を求める人たちと共に歩む中で、み言葉を耳にします。また、み言葉を伝えていきます。それによって私たちは、既に清くなっているとイエスはおっしゃる。

だから、いつも、わたしにつながっているようにと、イエスは私たち一人一人に呼びかけられる。そして、イエスもそれに応えられる。

これは非常に大切なイエスの約束です。

今の日本の社会状況で、宗教活動というのはなかなか多くの人たちに受け入れられるわけではありません。しかし、そんな中にあったとしても、私たちの告げる良い知らせ、福音は自ら伝わる力を持ち、そして私たちの奉仕を通して、より多くの人たちに対して、実を結ぶものとなっていく。例え、わたしたちが、同伴していく、共に寄り添っていく方が、たった、お一人であったとしても、そのお一人を通して、もしかすると、多くの人たちにみ言葉が、良い知らせが広がって行くかも知れない。そう言った意味で、私たち一人ひとりが、ちょっと意識をしてイエスとつながる、ぶどうの木であるイエスにつながっていくのだということです。このことを、繰り返し思い起こしていきたいと思います。

カテキスタの奉仕の道

カテキスタの奉仕は、イエスと共に歩む奉仕の道です。

イエスとのつながりをもう一度、確認してここから大きな力をいただきたいと思います。私たち一人ひとりは、決して、孤軍奮闘しているわけではありません。そうではなく、周りの人の助け、何よりも、神の支え、助けがあってこその奉仕なのです。そのためには、私たちがもう一歩、意識的にイエスとつながること、神に祈ることを深めていくならば、より実り豊かな奉仕へとつながっていくのではないか、と私は思います。

この黙想会に参加した一人として、日頃の生活環境や地域社会との交わりから、少しの間、遠ざかったことで、同じ目的を持って集まったカテキスタのメンバーたちと霊的な時間を過ごし、黙想し、共に祈り、貴重な体験を得ることができました。

また2日目のミサでは、四旬節第4主日にあたっており、今年、伝統的に洗礼志願者のための朗読が読まれるので、自分自身の受洗の際に、大変お世話になった方々のことを思い起こす良い機会ともなりました。

第3・4期生は、今年の4月から、入門講座やフォローアップ講座の現場に立ちます。 そこには様々な困難や戸惑い、参加者からのお叱りをいただくかも知れません。しかし、私たちといつも共にいてくださる神を信じ、カテキスタのメンバーは互いに助け合い、切磋琢磨し、その精神を尊重し合いながら、祈りのうちに信仰の道を歩もうと教会を訪れる人たちのために奉仕できるよう願っています。

最後に、このような黙想会を企画・遂行してくださった、教区カテキスタ養成委員会の猪熊神父様と運営委員会の皆様、遠路はるばるご指導のためにいらしてくださいました京都教区司祭の森田直樹神父様、そして私たちを迎えてくださった修道院のシスターの皆様方に感謝申し上げます。

典礼あれこれ

第4回 「復活祭の典礼」

4月9日の復活の主日から、私たちは、主の復活の喜びのうちに、復活節の典礼を祝い続けています。復活の主日に続く8日間は「主の復活の8日間」呼ばれ、主の祭日と同じように祝われました。任意ではありますが、復活の主日同様「復活の続唱」をささげることもできます。

この復活節は、復活の主日から聖霊降臨の主日までの50日間続きますが、これらの日々を一つの祝日として、歓喜に満ちて祝われるものとして、古来よりとらえられてきました。 聖アタナシオの言葉を借りれば、「大いなる主日」として祝われるものです。

この期間の典礼祭儀には、復活のろうそくが用いられます。主の復活のシンボルともなるこのろうそくは、復活徹夜祭の光の祭儀の前に、次のような言葉で祝福されたものです。 「キリストは、きのうときょう はじめと終わり アルファとオメガ 時間も 永遠も、かれのもの 栄光と支配は かれに 世々とこしえに。アーメン。 その聖なる 栄光ある傷によって、 わたしたちを支え、守ってくださる 主・キリスト。アーメン。」

復活節主日では、ミサの「回心の祈り」の代わりに、時には洗礼を思い起こすために、「水の祝福と灌水」を行うことができます。また、第一朗読には、旧約聖書からの朗読の代わりに、教会の伝統に従って、使徒言行録から朗読がとられます。加えて、アレルヤ唱(「主をほめたたえよ」の意)が高らかに歌われる季節でもあります。アレルヤ唱も、通常は2回ですが、この季節には、3回、「アレルヤ」を繰り返すものになっています。

このような祝祭に満ちた性格から、復活節の主日には、待降節や四旬節の主日同様、他の儀式を伴うミサを行うことはできません。また、葬儀ミサを行うこともできません。それほど、主の復活の喜びを盛大に祝い、意識的に祝うことが求められる季節だとも言えます。

古代の教会では、この復活節は、復活祭に洗礼を受けた人たちが、自分たちの体験した秘義について教えを受ける「入信の秘跡直後の導き(ミュスタゴギア)」の期間でもありました。すでに洗礼を受けた私たちも、この季節においては、典礼を通して表現される「新しく生まれること」を知識、体験の両面で、喜びのうちに受け止めることを大切にしていきたいと思います。