お知らせ

お知らせ

Tangible第10号

2023年04月07日

受講生の声

頭ではなく、心から心へ伝える信仰を目指して

受講者 
第5期生
高円寺教会 成田 雅江

カテキスタ養成講座の5期生として歩みを始めて、早くも5ヶ月以上が経ちました。この間、私自身が改めてカテケージスを受け直しているような、多くの気づきを与えて頂き、感謝しています。

昨年、私は会社の役職定年を迎え、仕事は続けるものの、ある程度仕事量を減らし、これからは何か教会のお仕事もさせていただきたいと考えていました。

その矢先に、カテキスタ養成講座の小さなリーフレットを手に取り、瞬間的に、「これだ!」と思いました。

実のところ、私はちょっと勘違いをしたまま受講を申し込んでいたのです。

私はこの講座では、求道者に対しては、こういうテキストを使って、このように要理を伝えましょうといった、いわゆる、ノウハウを教えて頂けるものだと思っていたのです。

でも、それは全く違いました。

もちろん、最初の数回は猪熊神父様から基本的な講義を受け、毎回カテキスタの先輩方や講師の神父様の講座もあります。

私たち受講生は、与えられたテーマを元に、自分で何を語るかを調べ、組み立てて、模擬授業をしなければなりません。

私は5期生の中では周回遅れ。

それこそ「的はずれ」な質問しかできず、授業にも厳しさを感じていました。

しかし、回を重ねるごとに、カリキュラムの一つ一つが神さまの愛を求道者に伝えるためのエッセンスであり、その神さまの恵みのメッセージをリレーのように、次の回の御言葉に繋げていけるのがわかりました。

私は信徒になって30年以上、もちろん聖書は繰り返し読んできましたし、頭では内容を理解しているつもりでした。

しかし今回、模擬授業を組み立てるために御言葉を読み返し、資料を調べていくうちに、ごく浅くしかイエス・キリストのメッセージを受け取っていなかったことに気が付かされたのです。

そしてまた、本やネットからいくら知識を得て、自分では感動していたとしても、それをそのまま語ったのでは、まったく意味が無いこともわかりました。

私はある日の模擬授業で、「伝えたいのはこういうことです」とその日のテーマを括ろうとしましたが、終わってからの講評で、「伝えたいというのは誰が誰に伝えたいんですか?いったい、誰のメッセージなんですか?」と問われて、はっとしました。

伝えなくてはならないのは、誰かが言ったキリストの言葉ではないのです。

私が出逢ったイエス・キリストとはこういう方で、「私はこの大切なことをどうしても皆さんに伝えなくてはならないのです」という心からわき上がってくる熱意がなければ、人にメッセージを伝えることはできないのです。

猪熊神父様は「あなたの信仰を語ってください」と繰り返し言われます。

自分の言葉で、自分の体験を通して、御言葉が伝えようとしているメッセージを伝えることの大切さは、まさにその通りだと思います。

そのように言われたことで、私は自分が求道者だった頃のことを思い出しました。

当時通っていた教会の主任司祭をはじめ、イタリア人のカテキスタや、代母になってくださった方、お年を召した大先輩の信徒の方など、多くの方に受洗前の期間を支えていただきました。

その方々から教わったのは、通り一遍のカテケージスではなく、まさに、その方々の信仰でした。

私はその時期のことをかけがえのない一生の宝物だと思っています。

私はこの講座を受講するのを機に、所属教会の入門係を始めました。

現代の求道者の皆さんが求めていることを実際に知る必要があると感じたからです。

まだ短い期間ではありますが、入門講座のお手伝いをして、求道者の皆さんそれぞれが心に深い思いを秘めている様子に触れ、その皆さんに寄り添って歩んでいくことは、決して軽い気持ちではできないということを実感しました。

さらに、私がカテキスタ養成講座を受けて将来目指しているのは、その入門講座の講師をしている神学生と同じように、信仰を伝えていく立場になるのだと思えば、責任の重大さも感じています。

私自身が経験したように、求道者の方にとって一生の宝物となる時期をともに歩むことの意味をさらに深く心に刻みたいと思います。

講座はあと半年しか残っていません。 これまでの半年があっという間だったことを考えれば、あとの半年で目指しているような「自分の信仰を伝えられる」人になれるのか、実のところ心許ない状態です。

「派遣前講習」参加者の声

認定・任命と講座担当のあいだで…

カテキスタ
第3・4期生
習志野教会 鈴木 真理子

2022年9月に、東京教区カテキスタの第4期生として認定・任命され、派遣先が松戸教会に決まり、今まで信仰について教わる立場にいた私が、人に信仰を伝える立場になるのだと気を引き締めてから早や半年、派遣前講習期間のありがたさをかみしめています。いきなり現場に放り出されることなく、実際に行われている入門講座の様子を見ながら、無理のない範囲でチーム松戸の一員として参加させてもらえるという、夢のような待遇です。

でも、この期間、脱力ばかりはしていられません。

現場の様子を見ていると、1年間のカテキスタ養成講座では知り得なかった数々の事に気づかされるからです。

最初に、入門講座に参加される人に寄り添うことは、思いのほか難しいことなのだと感じました。

思うに任せて行動をしてしまうと、人に寄り添いたいがために、近づくための努力をしてしまいます。

でも、その行いは、その人と神さまとのつながりの間で必要なことですか?と、ひと呼吸おいて自分に問いかけなければ、方法を間違えてしまいます。

キリスト者としての行いとは如何なるものかを、きちんと考えるようになりました。

また、入門講座に参加することを希望している方々は、要理の内容を理解するよりも、何よりカトリック教会の人間になりたいと思って参加しているのではないかと感じています。

小教区での入門講座を見学し、受講者とお話する機会もそれなりにありましたが、お勉強をする中で「考え方が違うのでやめます」と言った人には巡り合ったことがありません。

逆に「他の宗派の教会に行きましたが、考え方が違うので、ここに来ました」と話してくれ、最終的に、カトリック教会で受洗したという人を何人か見ました。

その「考え方」とは、神さまに対する信者たちの姿勢や、共同体としての在り方なのだそうです。 そのような方々の思いを大切にするには、カトリック教会の共同体にいることが心地よいものでなくてはなりません。その入口での案内人となるカテキスタは、要理を伝えるだけではいけないのだと、身をもって理解する良い経験ができました。

2023年4月からは、神田教会と松原教会でフォローアップ講座が始まるということなので、その準備講座にも参加してみました。

最初にテーマに関するお話があり、ひとりで考える時間があり、みんなで分かち合って他の人の思いを知ることにより、自分の理解を深めるという流れでした。

カテキズムの本にかじりついてばかりいた私は、この何とも斬新な方法に目から鱗が落ちました(お恥ずかしながら、私は「目から鱗が落ちる」という言葉は、使徒言行録9:18に由来するということすら知りませんでした)。

そう、キリストの教えは生き物です。

活字ではありません。

「講座」という単語に惑わされがちですが、決してアカデミックなものではなく、あらゆる人に神の国を実現していく方法を伝えることであり、私は、その思いでいっぱいになりました。

カテキスタの養成講座を修了した後だからこそ、今、原点に帰って、カテキズムを、そして、自分自身を見つめ直すことができたのだと思います。

実際に講座を担当する前にいろいろな気づきを与えてくださった神さまに、感謝の気持ちでいっぱいです。

カテキスタとして働くにあたって

カテキスタ
第3・4期生
習志野教会 田中 潤

昨年の9月にカタキスタ養成講座を終え、カテキスタに認定されて、松戸教会に派遣されることとなりました。

実際に講座を担当するのは3月からです。 それまでの半年間、1、2期生の先輩方が担当する実際の入門講座を受洗希望者と共に受講しました。

初めは、カテキスタというものは、受洗希望者の受洗に向けた準備のために、「教義を教える」「信仰に導く」「準備を手伝う」役割と思っていました。なんとおこがましいことを考えていたのでしょう。

先輩たちは、知識、教義を用語の解説として教えるのではなく、自分の体験・経験を交えて教えています。人生の経験から語られる言葉にハッとし、そこに生き方を感じます。教えを学ぶという受け身の受講者から、時にハッとするような言葉ももらうのです。「おお、この人たちは、神様を心から求めている」と感じる瞬間です。

また、カテキスタ同志や入門講座などで時々行われる「分かち合い」でも、貴重な経験や知恵を参加メンバーからもらいます。

同じモノを見て、同じ言葉を聴いているのに、人によって全く捉え方が違う。ここでもハッとします。

カテキスタ養成講座の1年間は、ただひたすら、学ぶ・覚える・体系立てて理解する、の繰り返しでした。ところが、この半年はハッと、ハッとの繰り返しで、言葉が心に刺さる瞬間がたくさんあったのです。

ヨハネ福音書1章1節「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」とはこのことかぁ…。顧みると、いままでの人生、いかにノホホ~ンと過ごしていたことか。思えば、今まで、聖書の言葉も物語として頭で理解し、教理も頭で理解しようとしていました。心で理解していなかったのです。イスエさまの受難も、歴史の一コマとして捉えがちでした。

この1年半、「何故?」「何故?」と繰り返し問い、受難を受け入れたイエスさまの心境と、伝えたかったメッセージについて深く感じ取る中で、高校生の時、コルベ神父のことを知り、深く感動したことを思い出しました。

まだまだその感動を自分の言葉としてスラスラと発することはできないけれども、心に新しい葉が繁り始めた気分です。

入門講座の受講生には、若い人もベテランもいます。カテキスタも30代から70代までいます。年代、背景のバラエティーを持った、受講生やカテキスタの仲間たち、教会の人々がお互い、学び合う、気づき合う、助け合うことがきる場。それが、入門講座の場だと思います。そして、互いに成長を促進し合うことができるのです。

神田教会や松原教会で、入門講座とは別に、もっと学びたい人のための「フォローアップ講座」も始まります。

聖書には、飲食のシーンがたくさんでてきますね。日本語には「同じ釜のメシを食う」という言い回しがありますが、ユダヤにも似たような言葉があるようです。

彼らは食事を通して神の恵を知り、互いを尊重し合い、共同体を創ってきたのです。そして、分かち合いや祈り合う場は、まさに、食事の疑似体験です。

語り合う、聴き合うことでお互いを理解し、自分を深めることができますよ。「フォローアップ講座」も、是非、体験し、お互い与え合い、何かを感じてほしいです。

そして、カテキスタとして働く仲間がもっと多く誕生することを願います。カテキスタになりませんか?

「教区カテキスタ養成講座」第6期生の募集は続けています

「教区カテキスタ養成講座」への申込みを考えてはいるものの、今ひとつ、決断がつかない方。 どうぞ、一度、講座を見学しに来て下さい。事前に、専用ダイヤル 080-8888-6943 まで、ご一報をお願いします。

今年度の応募締切は6月23日(日)17:00必着となります。
受講希望者は、まず、所属教会の主任神父様に御相談になったうえで、必要書類を整えてお申込みをなさってください。

典礼あれこれ

第3回 「聖週間の典礼」

皆さまがこの紙面を受け取られた日から、教会では、聖週間の典礼が行われます。

復活祭は「春分の日の次の満月の次の日曜日」と定められていますので、今年は4月9日が復活の主日となります。したがって、復活の主日の1週間前の今日、4月2日は、主のエルサレム入城を記念する「受難の主日(枝の主日)」の典礼が行われました。皆さまそれぞれ枝を持って行列されたことと思います。

そして、4月6日の聖木曜日の夕刻は、最後の晩さんを記念する「主の晩餐の夕べのミサ」、4月7日の聖金曜日には、「主の受難」の聖式、そして、4月8日の聖土曜日の夜には「復活の聖なる徹夜祭」がそれぞれ行われます。これらの典礼に復活の主日(厳密には復活の主日の晩の祈りまで)を加えたものは、「聖なる過越の三日間」と呼ばれ、典礼の中で、特に、主の受難と死、そして、復活が連続して記念されることから、全典礼暦年の頂点と位置付けられています。

「主の晩餐の夕べのミサ」では、『ヨハネによる福音書』の記述に従い、任意ですが「洗足式」が行われることがあります。「神の民の中から選ばれた人々」の足に司式者が水を注ぎ、その足を拭くというものですが、イエスご自身が弟子たちの足を洗ったことに由来するものです。ミサの最後には行列の後、聖体安置式が行われ、仮祭壇に聖体を安置します。これ以降、教会は一切の盛儀をつつしみ、翌日の聖金曜日には断食をして、復活徹夜祭までミサも行われません。聖金曜日にはゆるしの秘跡と、病者の塗油の秘跡以外の秘跡を行うことはできません。

「主の受難」の聖式は、裸にされた祭壇の前に司式者が沈黙をもって床に伏して典礼が始まります。この日の典礼はミサではなく、豊かな「ことばの祭儀」の形をとっています。

受難の朗読の後には、盛式共同祈願が唱えられ、教会のため、洗礼志願者のため、キリスト者の一致のため、ユダヤ教の人々のため、キリストを信じない人々のため、神を信じない人々のため、困難に直面する人々のためなど、10個の意向による祈りが捧げられます。

次いで、十字架の礼拝式が行列をもって行われ、主の祈りを唱えた後、前晩に聖別された聖体拝領が行われます。翌日の聖土曜日には、臨終の聖体拝領だけがゆるされ、ミサも捧げられません。

「復活徹夜祭」は、聖土曜日の日没後に行われ、光の祭儀、ことばの典礼、洗礼と堅信、感謝の典礼の四部構成になっています。紙面の都合上、詳しくは述べられませんが、復活のろうそく、一人ひとりが手にするろうそく、暗い教会堂内、復活賛歌、神の救いの歴史を語るみことば、栄光の賛歌とアレルヤ唱、洗礼の水と堅信の聖香油、そして、パンとぶどう酒と数多くの典礼のシンボルを身をもって体験する祭儀となっています。

日本では、聖週間はお休みではありませんし、これらは主に夜に行われる典礼ではありますが、典礼暦年の頂点である「聖なる過越の三日間」の典礼に関心を持っていただければと思います。

学びあい、支えあい、わかち合い、祈りあう「フォローアップ講座」が始まります!

カテキスタ養成講座 担当司祭 猪熊太郎

教区カテキスタたちは、現在、7つの小教区に派遣されています。そして、毎年、増減はあるものの、受洗を希望し、入門講座に参加したいという方々と共に、信仰の道を歩んでいます。

しかし、この間、どのチームでもそうでしたが、既に洗礼を受け、教会の仲間として歩んでいる方々からの問い合わせがありました。

「洗礼を受け、毎週、教会に通っているが、まだ、知らないことがたくさんあるので、勉強を続けたい」「自分の信仰生活を振り返ると、基本的なことが分かっていない気がするので、もう一度、学ぶ機会がほしい」というような問い合わせでした。

これまで、カテキスタたちはチームごとに講座を準備し、そこに受洗希望者たちの方々を迎え入れてきました。そして、既に何人もの方々が洗礼の恵みを受け、新たな教会の仲間となって巣立っていきました。

一方で、既に教会の仲間ではあるものの、信仰を共に歩む体験に欠ける人、あるいは、共に歩むに際して共通に知っておいてほしいことを分かち合ったことのない人々のためには、何もしてはこなかったのです。

それには理由がありました。 多くの場合、このような方々のための講座は、教会ごとの工夫として、あるいは、あくまでも司牧の一環として、「フォローアップ講座」という名前で準備されている場合が多かったからです。

しかし、現実の教会を見てみると、コロナの影響もあって、現在、入門講座もない、聖書講座もない、もちろん、「フォローアップ講座」なんて、聞いたこともないし、今まで一度も開催したことがないという小教区がたくさんあります。

でも、ニーズはあるのです。

毎年、問い合わせがあるのです。

そこで、生涯養成委員会としては、この春から、2箇所の拠点で、皆さんの声に応えるべく、「フォローアップ講座」を開催することにしました。

手法としては、御言葉を通して、祈りを通して、分かち合いを通して、自分自身の信仰を振り返るというものです。

そして、知らないことがあれば、疑問があれば、周りの人にまっすぐに聞いてみる。尋ねてみる。確認してみるのです。

単に知識を増やすための「講座」ではありません。授業でもありません。一人ひとりが御言葉・祈り・分かち合いなどを通して、共に信仰の旅を歩むことの意味を振り返っていく。信仰生活そのものを振り返るための「フォローアップ講座」。

そんなひと時にしたいと思っています。

如何でしょうか?

興味があるという方は、以下リンクから開催場所・日時などをご確認のうえ、どうぞ、時間までに集合なさってください。

お待ちしています。

東京大司教区 フォローアップ講座

どなたでも参加できます

神田教会

「祈りの集い」と「フォロー・アップ講座」
4月21日開講
最寄駅:JR「水道橋駅」

松原教会

フォロー・アップ講座(分かち合いの集い)
4月22日開講
最寄駅:京王線「明大前駅」

洗礼を希望される方はこちら 

東京大司教区 教区指定 入門講座

2023年の入門講座 日時場所などについては下のリンクをご確認ください。

葛西教会
清瀬教会
関口教会
関町教会
西千葉教会
松戸教会

キリストに「触れられ」受洗を望むようになった人々に、日々「接している」カテキスタたち。 そのようなカテキスタになることを望み、カテケージスを、より「手触り感のあるもの」として学ぶ受講生たち。 そんな彼らと、彼らを支える小教区の信徒の皆さんが「接する」ための媒体になれれば…、と願っています。