お知らせ

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Tangible第5号

2022年10月05日

生涯養成委員会「教区カテキスタ養成講座」からの御報告

担当司祭◉猪熊 太郎

皆様のお祈りと励まし、そして、様々な形の支えによって、まことに喜ばしいことに、去る9月10日(土)、東京カテドラル大聖堂にて、第3・4期生9名の「教区カテキスタ」が誕生しました。

残念ながら、今年も、祝いの宴となる懇親会は中止となりましたが、大司教様による認定・任命式は、滞りなく行われ、カテキスタ一人ひとりの任地と任期が発表されました。これにより、来春から7チーム編成となり、新しく「チーム清瀬」が正式に誕生することにもなりました(任地ごとの派遣者一覧などについては、次号のTangibleが特集号となりますので、詳しくお伝えしたいと思っています)。

彼らカテキスタは、これから半年間、派遣先の教会と連絡をとりつつ、入門講座を、いつ開始しても良いように、さらに具体的な準備をすすめていきます。

アフター・コロナの世界は、今まで通りの世界ではなく、私たちが新たに造っていく世界、神の創造の業に、より積極的に参加していく世界となることでしょう。教会でも、きっと、活動方法が大きく変わっていきます。

新興宗教の問題が問われ、既存の宗教もその存在価値を問われている昨今、それでも、信仰を求めて、人々は教会の門を叩きます。決して低くない教会の敷居ですが、その敷居を超えて尋ねて来る人々が、少なからずいらっしゃるのです。

そのような人々を小教区の皆さんと共に受けいれ、入門講座を通して、信仰の火を次の時代に継承していけるように、教区カテキスタたちは、これからも、奉仕していくことになります。

第5期生たちの講座が、既に、始まったことも、この頁を借りまして、御報告させていただきます。 第3・4期生たちに比べると、人数は少なく、9名のこじんまりした集まりでありますが、1年後に彼らが認定・任命を受けられるよう、どうぞ、お祈りください。

また、最後になりますが、2023年1月になりますと、新たに第6期生の募集も始まります。皆様の応募をお待ちしています。 皆様のますますのお祈り・励まし、そして、有形無形の援助を、これからもお願いしたいと思います。

「更新プログラム」参加者の声

教区カテキスタは、3年という年月を区切っての奉仕職です。途中、何かあったら何時でもこの奉仕職から離れることができ、また、何時でも戻ってこられる仕組みです。このプログラムに参加し、面接・面談を経て、大司教へ再任命の申請をすれば、さらに3年間、教会における奉仕職に励むことになります。それが「更新プログラム」です。

聖書のたとえ話と「更新プログラム」
カテキスタ第1期生
チーム西千葉
市川教会 山下 充志郎

チーム西千葉の講座ではオリエンテーションの後、最初の4回は新約聖書の「父なる神」をテーマとして、「見失った羊」(ルカ15・1~7)、「いなくなった息子」(ルカ15・11~32)、「ぶどう園で働く労働者」(マタイ20・1~16)、そして、「ファリサイ派と徴税人」のたとえ(ルカ18・9~14)の話を取り上げて、父なる神と私たち、神の愛、神の義、神の恵みについての話をしたり分かち合いをしたりします。

しかし、触ることができない方、目に見えない方について語ることは困難です。受講者にとっても、初めてパソコンやスマホに触れた時以上の困惑があるのではないかと思います。ましてや、これら聖書について話をする時の、取扱説明書のようなものはありません。

4つの講座が終盤を迎えたころ、受講生の中から、「聖書ではなぜ『たとえ話』を語るのか。ストレートに結論だけを伝えればよいのでないか?」と言う質問がありました。聖書の中でも、同じような問いかけがイエスの弟子たちからもあり、核心を突いた問いであったように感じます。講座終了後、再度、チーム西千葉のオンライン会議などで話し合いました。

かつて読んだラッチンガー(後の、教皇ベネディクト16世)の『ナザレのイエス』において、聖書の「たとえ話」におけるダイナミズムが指摘されていることを思い出しました。

そのダイナミズムとは、「たとえ話」を聞く人、あるいは読者を、その話の展開に巻き込むことだと言われています。

さらに聖書の「たとえ話」のなかで登場人物は、なんらかの挫折、あるいは、つまずきを体験しています。たとえば、ルカの15章では、大切な羊を見失う羊飼い、群れから離れてしまった羊、息子を失いそうになる父親…、それぞれの「たとえ話」で、それぞれの登場人物が挫折を味わっています。

挫折の個別的な結果はいろいろ考えられますが、挫折を通して、真剣に聴く者となる、見る者となる、つまり、真の意味が開かれることになります。

「たとえを通してイエスの神秘がほのかに光り輝いてくるのですから、たとえは躓きへと導くのです(教皇ベネディクト16世/ラッツィンガー『ナザレのイエス』春秋社、2008年、P. 250~251)」。つまり、つまずき、あるいは、挫折の結果、登場人物は回心に至る、我に返る、あるいは神の慈しみに気付く。そして、その聞き手や読者も挫折を追体験して、あるいは巻き込まれて、それぞれが人生の意味を探し出すことができるだと思います。

「たとえ話」の語り手である主は「この世の物事の中に神の光が透けて見えるようなものを示そうとしている(前掲書、P. 252)」というのが、たとえ話が語られる理由なのだと思います。

巻き込むと言えば、教区カテキスタの活動もそうです。

かつての私は、それほど深い考えもなく、自分の信者生活の見直しができればいいと言うくらいの思いで、カテキスタ養成講座に参加していました。今、カテキスタとしての更新の時期を迎え、更新プログラムに参加しています。

これは、少し大げさな言い方かもしれませんが、このプログラムへの参加は、挫折、あるいは、つまずきの体験でした。

たとえば、分かち合いの時間に、自分の考えと違う意見には、反論したい衝動を抑え、素直に耳を傾けることだけでも、容易ではありませんでした。

ただ、次第に、他の受講生と共に、一つの仲間のような形を作りながら、自分のやり方を見つけたような気がします。

また、更新プログラムの猪熊師の講座では、Sr. 三好千春の『時の階段を下りながら』(オリエンス宗教研究所発行)を参考図書として、明治期のキリスト教再宣教の時代から現代までのカトリック教会の歴史を振り返りました。

「富国強兵」を目指した明治時代の政策は、欧化主義と相俟って、キリスト教宣教に有利に働いたかに思われるものの、キリスト教の本来的な姿を見失いそうになるような挫折を抱えながら、昭和に入って、太平洋戦争で大きな挫折に巻き込まれていきました。

また、「富国強兵」の果てにあるような、「24時間働けますか」というCMで歌われたような、「猛烈サラリーマン」の時代に突入し、経済的な発展を、戦後の日本はやり遂げます。

そして、その後のバブル崩壊以降、失われた30年の只中の現在、現代人は方向性を見失っているのではないかと言うことを講座で確認しました。 そのような中で、講座で指摘された共に生きるという意味の「共生」は、ほのかな光を感じさせる言葉でした。 今となっては少し使い古された感じがする言葉ですが、共に生きる、つまり、自分が、他者に対して開かれた存在であり続けることは、私たちが目指す教会の姿、あるいは、原点ではなかったかと思うのです。

時には、苦しみやつまずきの原因をもたらす存在でもある他者に向き合い、受け入れ、さらには友となることが、聖書の「たとえ話」の使信と言えるかもしれません。

今、私は、聖書の「たとえ話」の延長線上にある、「十字架と復活」の出来事を伝えると言う活動に巻き込まれていると感じています。

やがて、講座を聞きに来る人たちを巻き込むようになり、共に「たとえ話」の中の何かに気づき、そのダイナミズムに身をゆだねて、共に教会の交わりへと巻き込まれていくことになればと思うのです。

更新プログラムって?
スタッフ
田園調布教会 勝村 訓吉

東京教区のカテキスタ養成講座が始まって、今年の9月でちょうど4年が過ぎようとしています。この間、コロナによる中断を余儀なくされた時期もありましたが、これまでを振り返りつつ、新しく4月にスタートした「更新プログラム」について、改めて考えてみたいと思います。

2018年の9月に、29名もの第1期生を迎えてスタートした教区カテキスタ養成講座は、私の知る限り、小教区などで受けたことのない、今までの講座では経験したことのない、大変にユニークな講座であったと言えると思います。

なぜなら、今までの養成講座にありがちなスタイルである、講師と受講生の一方通行の関係を「覆す」(と言っても言い過ぎでない)、ある意味、画期的な試みだったからです。

受講生は講師たちの「模範授業」を受けつつ、一方では、自ら「模擬授業」を実践するというスタイルは、教区の生涯養成プログラムとしても、受講生にとっても、大きなチャレンジであることは間違いないでしょう。

しかも、これで終わりではなかったのです。 この講座で準備を終えた受講生たちは、菊地大司教様の認定任命ミサ、その後は、各拠点教会(現在、東京と千葉の6か所の教会)へと派遣されていくからです。

その拠点教会でこそ、「キリスト教入門講座」の実践へと入っていくのです。 1年間の講座と、現場に出る前の半年間の派遣の準備期間(認定任命を受けたカテキスタたちのための講座)を経て、受講生たちは、ようやく、東京大司教区のカテキスタとなるのです。

一見、長い道程に見えるでしょうが、受講生にとっては、充実した恵みの時となっています。

さて、ここまでで、まだ触れていないのが、実は「更新プログラム」です。

この内容については、猪熊神父のタンジブル創刊号に、詳しく載っていることは、皆様、ご存知でしょう(タンジブルの第3号・第4号には、「更新プログラム」を経験したカテキスタたちの、拠点教会での「体験」や「その思い」など、そして、この講座を支えているスタッフたちとの分かち合いを通して、まさに、信仰の体験や振り返りをしている姿が満載ですので、是非ご一読ください)。

今年4月から新たに始まったこの「更新プログラム」は、現在の教区カテキスタの任期を3年としたことに大きな理由があります。 その趣旨を創刊号から抜粋させていただきます。 『カテキスタたちは、社会人として、また、家庭人として、それぞれに与えられた役割を、日々、果たしています。カテキスタは仕事ではなく、教会の奉仕職の一つでしかありません。プロとして、カテキスタで食べている訳ではないのです。突然、仕事が忙しくなった方もいます。それぞれの所属教会での、他の奉仕を続けるか迷っている方もいます。中には、カテキスタとしての道半ばで、身体を壊され、闘病生活をなさっている方もいます。一人ひとりの生活状況が、置かれている状況が違うのです。私たちの毎日は、決して、自分の思い通りにはなりません。このため、教区カテキスタ制度を始める時から、この奉仕職は、3年という年月を区切っての奉仕職としました。途中、何かあったら、何時でも、この奉仕職から離れることができるようにするためです。但し、また、本人を取り巻く状況が変わり、カテキスタに戻れるようになった時には、再び、奉仕ができるようになった時には、何時でも戻ってこられるような仕組みを作っておきました。それが「更新プログラム」です』と。

当然、3年間の任期を終えたカテキスタで、さらに3年の奉仕を希望される方にとっては、半年間のミッションの「充電期間」となるのが、この「更新プログラム」といえます。そして再び、この9月に、菊地大司教様より再任命を受けた、カテキスタたちは、新しいチームで、各拠点教会へと派遣されていくのです。

文頭で、この教区カテキスタ養成講座は大変ユニークな講座であると述べましたが、実は、初代教会の共同体では、すでに「互いに信仰を学び、互いに支え合い、互いに分かち合い、互いに祈り合う」ということがなされていたことは、紛れもない事実です。

その原点に、「証しする宣教」に立ち戻っていこうとする、この教区カテキスタ養成講座は、2000年の時を経た今でも、「旧くて・新しい」プロジェクトになっているのだと思います。

私自身にとっても、スタッフとして、このカテキスタ養成講座に参加できたことは、大きなチャレンジの4年間でありました。 小教区で入門講座の奉仕をしている私にとっては、講師陣である神父様方の模範授業から、「目から鱗」のような大きな気付きを、また、模擬授業をする受講生の皆様たちからは、一人一人の信仰体験を分かち合わせていただきました。これは、本当に経験し難いほどの貴重な経験となりました。これが、所属教会の入門講座を担当する時の、大きな学びの祐(たすけ)となっていることは事実です。

そして何より、スタッフとしての奉仕を通して、私自身や家族の信仰生活を振り返り、問い直すという大きな恵みも頂きました。 私は、これからも教区カテキスタ養成講座と繋がって、共に歩んでいけることを確信しています。

今回、家族の健康上の理由により、7月末に、一旦、スタッフを辞退させていただきましたが、このユニークな教区カテキスタ養成講座に参加させて頂いたことに、そして、この講座に携わるすべての皆様に、改めてお礼と感謝を申し上げます。有難うございました。

現場の声

現在「信仰」形
カテキスタ第1期生
チーム松戸
西千葉教会 小幡 朋子

2018年9月に、四谷のニコラ・バレにて、カテキスタ養成講座を受講し始めたのが、私のカテキスタとしての入口となりました。

養成講座受講を希望した理由の一つは、たまたま、小教区ではないところで、何かしらの奉仕ができないかなと、ぼんやり思っていた頃だったからです。

小教区は自分の所属先として大事な教会ですが、他の教会はどんな様子なのか、関心(興味?)があったのです。

こんな私の野次馬根性と、神に奉仕するという思いが、ちょうど合致していると思われた、この養成講座(講座の実施・運営を直接に担当している方々には失礼な話ですね…)を受けることができて、まずは、本当に感謝しています。

実際、この養成の場に来て、神のために、教会のために働き、奉仕したいと望む東京大司教区の多くの仲間に出会うことができました。神は本当に多様で、素敵な信仰者たちを多数抱えていらして、私はその出会いにより、カテキスタとしての力を培わせて頂きました(あっ、今も培わせていただいています)。

その後1年間、第1期生として養成講座に参加し続け、2019年9月に大司教様による修了式と認定・任命式、その後、さらに半年間、派遣前講習を受け、最終的に2020年3月に、御聖体の聖クララ会軽井沢黙想の家にて、恵み深い黙想会に参加いたしました。

皆様ご存じのように、2020年からはcovid-19の旋風が世界中に吹き荒れ、私たち東京大司教区のカテキスタたちが、実際に、入門講座を開講するためには、数々の困難がありました。

特に、私が派遣され、所属しているチーム松戸(松戸教会にて、東京大司教区のカテキスタたちによるカテケージスが実施されます)では、結局、入門講座開催そのものが、2022年4月まで開催できませんでした。

この間、後輩となる第2期生のカテキスタの仲間たちとも出会い、また、チーム松戸の仲間であった末松正子さんが帰天するなど、人生の大事な節目に立ち合う体験もしました。

チーム松戸や、スタッフの皆さんを含めて、カテキスタたち全員、仲間たちとの関わりの中で感じる機微から、神の豊かな恵みを、心にも身体にも、味合わせて頂いているという実感があります。

私自身は幼児洗礼であったため、カテキズムをしっかりと学んでこなかった反省があります。しかし、今回、改めて、講義を受け、書物などでさまざまなことを学ぶことにより、信仰がより身近に感じるようになったことも大きなお恵みでした。

これは、今も、進行形です。

イエス様は復活・昇天なさる前、使徒たちに対して、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19a)と言われ、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」(使徒言行録1・8a)と、聖霊が来てくださることを約束されました。

この言葉によって、第2ヴァチカン公会議以降、信徒の役割として、信徒使徒職が明確にされました。しかし、かつての私は、この使徒職を、単なる義務として認識していたのです。

しかし、2018年からの学び中で、カテケージスを行うことは、信徒にとって、大きな恵みそのものであって、そのための信徒の「働き」こそが、私たちにとっては、「喜びの出来事(=福音)」であるのだと感じることができました。

チーム松戸の活動は、2022年4月から始まったばかりの入門講座なので、この原稿を書いている今(8月)、実質、まだ半年も経っていません。 受講者の数も多くありませんが、それでも様々なことが起こり、その度に、チーム内外で話し合いながら、一つひとつの出来事に対処しています。

松戸教会主任司祭の伊藤神父様には、いつも、丁寧にアドバイスを頂いていますし、同じく松戸教会の水田さんが窓口になってくださり、私たちを支えてくださっています。 神に向かって祈りながら、関係する皆様のご指導と祈りに支えられながら、これからも、共に、協力しながら、進んでいきたいと思います。

最後に、一人の信徒として、神の恵みの中で出来ることをさせていただく、その喜びに感謝しながら、もし、カテキスタになることを希望されている方がいらっしゃいましたら、ぜひ、仲間に加わって頂きたいと願っています。

みんなでお待ちしています。神に感謝しつつ。

ようこそ、はじめまして。
カテキスタ第1期生
チーム松戸
葛西教会
森山 ハツヱ

カテキスタ養成講座の修了後に、私たちは、まず、東京教区カテキスタとしての認定を受けて、私たちは派遣先となる松戸教会での開講というところで、コロナの影響を受けてしまいました。しかし、チーム松戸も、いよいよ、今年4月から開講することができ、受講者との学習がはじまりました。

開講までの期間は長くなりましたが、松戸教会の主任司祭である伊藤神父様と信徒の方々のご理解の中で、開催できたことに感謝の気持ちでいっぱいです。

すでに一歩先を進み、経験を積んでいる他のチームのカテキスタたちの温かいアドバイスを受けながら、開講準備に入ることができました。資料作りも含め、様々なことを、担当者だけではなく皆で共有して、意見を交換し、深い絆ができたのも、今回、与えられたお恵みだったと思います。

チーム松戸では、カテキスタ仲間の末松正子さんが帰天されてしまいました。

第1期生として、共に養成講座を受け、認定任命式で喜びを分かちあった友人です。 先月号のタンジブルには、認定任命式での笑顔の写真と訃報も掲載されました。彼女は、松戸教会を度々訪問し、伊藤神父様をはじめ、共同体の方々とも交流をし、資料作りでも皆を励まし、ズーム会議の「ニコニコ笑顔の末松さん」は、リーダーとして、私たちのお世話をして下さり、私自身にとっても、チーム松戸にとっても、大切な大きな存在でした。チーム松戸の講座は、これからもずっと末松さんと一緒に歩んでいくつもりでいます。

「ようこそ、はじめまして。」

受講者3名をお迎えして、松戸教会での入門講座は始まりました。

それぞれの環境、思いの中で受講をされているようです。

受講者それぞれの思いを、こちらに遠慮なく届けてほしいという気持ちがあります。この出会いは、主が導いてくださった出会いだからです。これを機に、大切にゆっくりと交流を深めていきたいです。

私は幼児洗礼です。

私には、毎日のミサの中で神父様がお話し下さる「み言葉」がありました。家庭と教会でのお祈りが、聖書の教えに基づいていました。そこが原点となり、自分で聖書を開き、学び、歩んできました。

しかし、目の前の受講者は、大人になってから洗礼を希望し、主の教えを学びたいと思って、教会の門を叩いておられます。聖書との出会いも、講座の一つとして、これから始まります。

私の信仰体験とは違うかもしれませんが、神の子供として、主を信じて生きて行きたい思いは同じですから、「み言葉」に触れ、一緒に学びながら、主の愛に包まれている大きな安心感の中で、信仰への道を共に歩んでいきたいと思うのです。そんな中で、私たちの信仰を深めていただけたらと願っています。

私たちは3年目を迎えて、今、スタッフやカテキスタと共に、更新時の講習を受けています。 講義後のテーマ別のグループでの分かち合いは、社会における教会と典礼を大切にする信仰の、これからの歩みについて、改めて考えさせられる貴重な体験となっています。

カテキスタとして、派遣先の松戸教会や所属教会である葛西教会において、神父様方やカテキスタの仲間たち、そして、出会っていく信徒の方々には、引き続きお世話になると思いますが、こんな私たちをよろしくお願いしたいと思います。

今、世界はコロナであるにも関わらず、あちらこちらの地域で争いが続き、沢山の人々が困難に陥っています。 「誰かのために働き、祈ることを続けなさい」と、イエス様が教えられていることを思い起こします。

配信されるミサにおいても、いつも、共におられるイエス様を感じながら、マリア様・ヨセフ様の取次ぎを願い、カテキスタとして、これからも信仰生活を歩んでいきたいと思っています。


松戸教会2022年の入門講座
日時場所などについてはこちらをご覧ください。

スタッフの声

「仲間」という恵みに感謝
スタッフ
麹町教会 小林 ひとみ

カテキスタ第1期生の渡瀬さんにご紹介いただき、この7月から、スタッフをさせていただくことになりました、麹町教会所属の小林ひとみです。

幼児期からカトリックの環境にあったものの、手術前の緊急洗礼であったため、学びが足らず、カテキスタ養成講座には興味がありました。

ただ、身体の動きに制約ある自分が、入門講座のある小教区に派遣されるイメージはなく、ご縁はないものと思っておりました。

一度、見学に来るように薦められてケルン・ホールを訪れた日、まず驚いたのは、模擬授業の後の講評や、質疑応答の熱量と鋭さです。 忌憚なく語られる指摘の数々に、正直なところ、たじろぎました。

指導司祭だけでなく、すでにカテキスタとして派遣されている方々や、スタッフも発言されます。これは大変なところに来てしまったと、冷や汗が流れました。

しかしそこには、カテキスタとして派遣されてからの一人ひとりを案じる愛が、確かにありました。

放っておかずに、何かを精一杯伝えようとする信頼がありました。

「用意したレジュメを一方的に伝えるのではなく、その場にいる人たちと共に作ってゆく意識を」

「あなたの信仰を、信仰を生きて来た自分の体験を分かち合って」という言葉が、心に残っています。

その場にいた方々も、要所要所で大きくうなずきエールを送る方。笑ったり、驚いたりとしっかり反応する方。もどかしそうに発言者を見つめる方など、50分の模擬授業における同期たちの奮闘を「我が事」として受け止め、共に成長しようとする意欲に満ちていました。

帰り道、彼ら数人で語り合いながら歩いていく姿が、清々しく眩しかったです。

信仰を言葉にすることは、とても難しいことです。

まして、これから受洗しようとする方たちに、そのような道を整えてゆく「言葉」を、私は、まだ、持っていません。

宗教を話題にすることを避けなければいけない職場だったこともあり、今でも、自分の信仰を語るのは苦手です。皆さんと一緒に学びながら、自分自身に問うてゆきたいと思っています。

腱が切れており、躯体に付いているだけの四肢ゆえ、会場の椅子を持ち上げることもできない身ですが、先輩スタッフたちが、私にもできる作業を具体的に指示して下さったとき、「なんとか自力でも…」と、強がる心を労らわれ、仲間として励ましを頂いたような気がしました。

主の祈りの中の、「私たち」という言葉が浮かびました。

子供の頃、わけもわからず「nos」と言っていた言葉が、「私たち」であることを、受洗して知りましたが、私の心が主から離れていた時にも、誰かの「私たち」というお祈りのお陰で、自分が、今、ここにあるということ。独りで頑張らず、仲間に頼り、共に支え合うことを学ぶ場でもあると感じました。

今期の養成講座は終了し、来月、認定任命ミサを受けて、第3・4期生の皆さんが、現場へと派遣されてゆきます。そして、また、新たな仲間を迎えます。

集い、語らい、学び合う日々が聖霊に満たされ、希望と光が注がれますように。 「私たち」が、喜びをもって主のまなざしの中で働くことができますように。

このご縁に恵まれたことに感謝し、お祈りしていきたいと思います。

キリストに「触れられ」受洗を望むようになった人々に、日々「接している」カテキスタたち。そのようなカテキスタになることを望み、カテケージスを、より「手触り感のあるもの」として学ぶ受講生たち。そんな彼らと、彼らを支える小教区の信徒の皆さんが「接する」ための媒体になれれば…、と願っています。