お知らせ

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東京教区ニュース第435号

2026年07月27日

MISSIO TOKYO 青年の祈りのひととき

2024年10月、瀬田教会にて

東京教区教皇庁宣教事業(MISSIO TOKYO)では、2024年9月から原則的に月に一度、「青年の祈りのひととき」と題して、若者向けの祈りの集いを開催している。

東京都と千葉県からなる東京教区内には、多くの大学や専門学校、そして若者が働く場が多く、日本全体と比べて、大勢の若者が生活しており、若者向けのカトリックの行事やイベントも一定数行われている。しかし、月に一度行われているMISSIO TOKYOのミーティングでは、「祈りに焦点を当てた行事はそれほど多くないのではないか」という懸念が共有されていた。もちろん、修道会主催の若者向けの祈りの集い、召命黙想会は行われているが、各修道会には固有の霊性やカラーがあるので、一回訪れた黙想会が偶然自分には合わなかったために、それ以降、祈りの集いや黙想会から足が遠のいてしまう若者もいるのではないかという心配も話し合われていた。

2025年1月カルメル会上野毛修道院にて

そこでMISSIO TOKYOでは、教区の組織である自分たちが主催となって「静かに祈ること」を大切にし、毎回異なる男女修道会を巡る集いとして「青年の祈りのひととき」を企画し、毎月の開催を続けている。

毎回のプログラムは基本的には共通しており、最初に40分間、祈りの時間が設けられる。祈りの形式は会場となる修道会に委ねられ、そこで生活している修道者とともに、教会の祈り(聖務日課)、テゼの祈り、聖体礼拝やその修道院オリジナルのプログラムなど、さまざまな祈りが体験できる。なお、集いには毎回、小田武直神父(教区本部事務局次長)が参加しているので、聖体礼拝を行う場合には聖体による祝福が受けられる。

次に、40分程度の「分かち合い」が行われる。ファシリテーターはMISSIO TOKYOメンバーの信徒や修道者が務めている。その日読まれた聖書箇所や祈りのことばだけでなく、参加者がそれぞれの生活で抱えている想いを分かち合い、静かに耳を傾け合う時間である。

2025年8月葛西教会にて

最後に、40分から1時間程度の茶話会が行われる。修道会の厚意でお菓子や食事が提供され、参加者同士で語らい、そこで生活している修道者から貴重な話を聞くこともできる楽しい交わりの場である。

次回の「青年の祈りのひととき」は8月28日(金)18時30分から、守護の天使姉妹修道会東京修道院(東京都世田谷区三軒茶屋1—27—27)で行われる。対象は18歳(高校生は除く)から35歳までの、カトリックの祈りや信仰に心が向いている方。洗礼の有無や宗教は問わない。申し込みはこちらからお願いいたします。

お問合せは080-8529-0993
教皇庁宣教事業担当:田所まで

参加者の声

省みる時間を
渋谷教会 羽石 誠之助

私は「青年の祈りのひととき」には2025年4月25日の第6回から断続的に参加しています。今となってはすっかり顔なじみとなり、古参の参加者になりました。

私が初めて参加したときには信者ではありませんでした。カトリックの祈りや信仰に関心があり、もう一歩踏み込みたいと思っていたときに、この催しを知ることができ、参加しました。また、かねてより修道院に興味があったことも参加の動機になりました。

実際に参加してみて、さまざまな祈りがあることを知りました。入りこみやすいものもあれば、なかなか難しいなと思う回もありました。分かち合いは、何度参加しても慣れませんが、同世代の参加者がどのように感じたのかを聞くと、よい刺激になっています。

私の場合は、いつも仕事終わりに参加していますが、その日一日の、特に仕事中の、自分自身の言動を省みる時間になっています。「慌ただしい日常から離れてちょっとだけ立ち止まり」というのはチラシに書かれている文言です。日常生活のなかに祈りの時間や自分自身の言動を省みる時間を持つことの充実感を味わえたことはよい経験となりました。

さまざまな修道院を巡れることも魅力に感じています。修道院は人里離れたところにあるように思っていましたが、意外と身近なところに、そしてかなりの数があることを知りました。このような催しでもないと知ることも、まして立ち入ることもできなかったようなところばかりです。

茶話会では、お食事をいただきながら、修道者や参加されたみなさんと交流します。実は、このときのお食事がとてもおいしく、参加する楽しみになっています。

「青年の祈りのひととき」には、未信者の方も参加されています。私の場合は、この催しに背中を押され、一歩踏み込むことができ、お導きにより洗礼を授かりました。信者、未信者に関わらず、カトリックの祈りや信仰に関心のある方が集まり、ともに祈りを捧げ、交流するたいへんよい催しだと思います。

いつも催しを企画・運営してくださる事務局のみなさんや、さまざまな趣向で参加者を迎えてくださるみなさんにとても感謝しています。

ほとんどが金曜日夜の開催となっていますが、平日夜では参加できない方もいらっしゃると思います。土曜日や日曜日の開催も増えると、よりいっそう豊かな催しになるのではと期待しております。

静かな喜びのひとときに

MISSIO TOKYOメンバー 赤井 悠蔵

私は、「青年の祈りのひととき」にはスタッフとして関わり、主に分かち合いのファシリテーターとして、若者たちの同伴をさせていただいています。参加者の背景はさまざまです。男性も女性も来られますし、日本人だけでもありません。キリスト者としての歩みもそれぞれ違いますし、まだ洗礼を受けていない方も来られます。

それでも皆さんは、「祈りたい」という同じ思いを持っています。神様に、そして分かち合いを通じて仲間たちに、自分の心を開いてくださいます。祈ることに渇いている若者がいる、飲み会やレクリエーションがなくても、ただ祈るためだけに教会の門を叩く若者がいる。これは教会にとって大きな喜びであり、希望でありましょう。

そんな静かな喜びのひとときに同伴する機会を頂けていることを神に感謝しつつ、その希望の種がどんどん芽吹き、花を咲かせることができるお手伝いを続けることができれば幸いです。

本所教会献堂75周年記念感謝ミサ

聖堂入り口には「祝75」のオーナメントが飾られていた

6月21日、カトリック本所教会にて、「本所教会献堂75周年記念感謝ミサ」が行われた。本所教会は、1879年設立、147年という東京教区で4番目に長い歴史を持つ小教区で、小聖堂を経て1898年に初代の聖堂が献堂された。ところがわずか7年後の1905年、日露戦争講和条約に反対する暴徒による焼き討ちにより消失した。その後、仮聖堂を経て、1919年に2代目のギリシャ式の聖堂が献堂されたが、それもわずか4年後の1923年に起こった関東大震災によって焼失した。翌年仮聖堂が献堂され、増築しながら用いられて来たが、1945年の太平洋戦争・東京大空襲によって焼失した。仮聖堂も含めて3度の焼失という困難を経て、現在の聖堂は戦後の1951年に献堂された3代目のものである。

左から加藤神父、稲川神父、豊島神父

ミサは本所教会出身の稲川圭三神父(日本カトリック神学院院長)が主司式を、現主任司祭の豊島治神父と元主任司祭の加藤英雄神父が共同司式を務めた。ミサの説教で稲川神父は、本所教会3代の聖堂を知っていたという祖父の思い出を紹介しながら、戦後、本所教会の主任司祭に赴任した深堀信一神父を助けた7家族のうち、祖父を含む4家族が戦災によって親類や家族を失っていること、それでも教会の復興に尽力したことに触れ、「(祖父は)自分の家族を空襲で失っても、魂も体も滅ぼす力をお持ちの方、つまり、『魂も体も永遠にお救いになることが出来るお方への信頼』、というところで生きてくださったのではないかなということを思いました」と述べた。

身振りを交えて会衆に語りかける稲川神父

さらに、本所教会のこれからについて「しかしこの聖堂もいつかは滅び、倒れる時が来ると思います。しかし、魂も体も救ってくださるお方への信頼の中で、わたしたちは歩むようにと、イエスさまは今日、おっしゃっているのだと思います。この先、わたしたちの周りにどのような波が押し寄せるのか分かりません。AIの波がひしひしと押し寄せている気がいたします。それは人間を、『能力』だとか『数』だとか『速さ』だとか『量』だとか、そういうもので覆ってしまうような力かもしれない。でも、そんなものを超えて、主である神が、わたしたちを仲間とし、味方となってくださっていることに信頼を置いて立っているわたしたちが、神の家になっていきますように」 と信徒へ呼びかけた。

ミサ後は、信徒ホールに会場を移し、茶話会で提供されたあんみつを食べながら、教会の思い出話に花を咲かせた。

※説教の全文は稲川神父のブログでお読みいただけます。

感謝の祭儀

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭
小西 広志神父

先日、エレベーターに乗っていたら、後から外国人の若い女性が乗ってきた。降りる階に到着して彼女を先に見送ったら、「サンキュー」とひとこと残してエレベーターから出ていった。強いられてではない自然な物言い。身についた振る舞いであった。さわやかな風が流れたかのような爽快感が残った。そして、「わたし」という存在を認められたという確かさを感じた。これが日本人だったらどうだろうか。ちょっと会釈するか、「どうも」を使うかもしれない。あるいは、無言かもしれない。

日本人は「ありがとう」を言わない文化のように思う。はっきりと相手に対して「ありがとう」とはめったに言わない。コンビニのレジで店員に「ありがとう」と言う人は少ない。もちろん感謝の気持ち、「ありがとう」のこころがないわけではない。しかし、あえて言葉に発して「ありがとう」を言わない雰囲気がある。その代わりに便利なのは「どうも」である。なにかにつけて「どうも」、「どうも」を使う。あえて言葉に発して「ありがとう」と言うのが気恥ずかしいからかもしれない。

子どもたちに関わる親や家族をみていると「ありがとう」を子どもに強制しているときがある。「○○ちゃん、なにかしてもらったらなんて言うの?」、「ありがとうでしょう」といった具合だ。確かに子どもが育っていく過程で、周りの人に感謝の気持ちを伝えることを覚えるのは必要だろう。しかし、それは強いられてするものなのだろうか。義務的な礼儀としての「ありがとう」は身につくだろうけど、こころからの「ありがとう」を自然にさりげなく表現する人間へと成長していくだろうか。

英語で「ありがとう」は「サンキュー」である。つづりにすると「Thank you」となる。聞いたところによれば「Thank」と「思う、考える」を表す「Think」とは、ともに同じ根っこをもつ単語だそうだ。それで「サンキュー」は、「あなたのことを想っています」、「あなたのことを記憶します」の意味あいがあるのだという。なるほどと感心した。

日本語の「ありがとう」は、おそらく「有り難し」に由来するだろう。「めったにない、尊いものをしていただきました」が言葉の真実の意味となる。これを英語と比較してみると興味深い。英語が「あなた」への感謝を表すのに対して、日本語は「していただいた」物事への感謝を表しているのかもしれない。

ただ、日本語では「ありがとう」を表す別の表現もある。「おかげさまで」などはその例だろう。「おかげさま」は「お陰様」と書く。神仏や目に見えない偉大な存在の加護や助けによって生かされていることを示す表現である。「おかげさまで」と発することで自分自身は相手に対して相対的に小さく、はかない者となる。そして、「あなたのおかげで」「あなたの力添えで」「あなたのご支援のたまもので」と相手の存在そのものへの感謝の表現となる。

筆者は最近、意識的に「ありがとう」を言うように心がけているつもりである。しかし、エレベーターで出会ったさわやかな風のような女性のひと言のように、自然と何のてらいもなく「ありがとう」が言えない。後になって「ありがとう」を言えばよかったとしきりに後悔してしまう。

それでも、コンビニやスーパーのレジで「ありがとうございます」を明確に言うようにしている。アジアや南米の国々、アフリカから働きに来た若者たちには意識的に「ありがとう」を言うように心がけている。最初は彼らを認めたい、彼らを力づけたいなどという思い上がった気持ちだったが、今は同じ人間同士だよねと存在を分かち合う気持ちで語りかけている。

「ありがとう」は互いに存在を認め合う言葉だ。そこから始まって「おかげさまで」は自分を小さくして相手を尊重する言葉だ。確かに人に対して感謝するか、物事に対して感謝するかの違いはあるが、感謝の言葉と振る舞いは、自分と他者の間にかけがえのない大切なものがあることを意識するためにあるのだろう。


ミサのことを「エウカリスチア」と呼ぶ。これは「感謝」の意味である。確かに、ミサの式次第には「感謝の祭儀」と記されている。司祭でありながらも、「感謝の祭儀」の真意をつかみかねていた。父なる神は聖霊を通じて、御子キリストの御からだと御血をご自分と人間の間に祭壇の上においてくださった。それは父なる神から人間に対する「あなた方のことを忘れない」、「あなた方のことを想い続けている」という愛のしるしである。一方、人間はパン(ホスチア)とぶどう酒を通じて、父なる神へと「ありがとう」を伝える。そして、人間は愛ゆえにパン(ホスチア)とぶどう酒の形色に変わってくださった御子をいただくことで、「おかげさまで」と小さく、謙遜に生きていく。ミサは三位一体の神と人類の想いの交換だ。だから「ありがたく」、尊い。


ミサに参加し、主イエス・キリストの御からだをいただいた人は、この世に対して「感謝」のうちに、「ありがとう」のこころで生きるようになるのだろう。

司祭叙階節目の年を迎えられた神父様方、おめでとうございます!

東京教区では、原則、毎月末の月曜に小教区で働く司祭のための「司祭月例集会」が行われている。1年の折り返しである6月には、「聖職者の集い」と題して、小教区に限らず教区内で働く司祭に対象を広げ、大司教の司式の下、共同司式でミサを行うとともに、司祭叙階の節目の年を迎えた司祭を祝い、感謝を捧げている。

今年の「聖職者の集い」ミサは6月22日に行われ、菊地功枢機卿とアンドレア・レンボ補佐司教をはじめ、東京教区で働く多くの司祭がともにミサを捧げた。なお、今年は菊地枢機卿の司祭叙階40周年にあたり、ミサの最後には菊地枢機卿にもお祝いの花束が贈られた。

アンドレア司教から花束を渡される菊地枢機卿

今年、司祭叙階節目の年を迎えられた司祭は下記の18人。おめでとうございます!

ダイヤモンド祝  ◆叙階60年

深水 正勝師 (東京教区)
越前 喜六師 (イエズス会)
岡 俊郎師 (イエズス会)
田渕 文男師 (イエズス会)
ヘネロソ・フローレス師 (イエズス会)
ジャイメ・コエリョ師 (イエズス会)

金祝  ◆叙階50年

久富 達雄師 (東京教区)
デヴィッド・ウェッセルズ師 (イエズス会)
ジェリー・クスマノ師 (イエズス会)
松永 國治師 (サレジオ修道会)
ヤロスワフ・ヤノチンスキー師 (ドミニコ会)
青木 勲師 (マリア会)

銀祝 ◆叙階25年

加藤 豊師 (東京教区)
尾髙 修一師 (長崎教区・カトリック中央協議会事務局長)
酒井 陽介師 (イエズス会)
下川 雅嗣師 (イエズス会)
濱邊 正師 (サレジオ修道会)
井上 武師 (レデンプトール会)

共に歩む!東京教区教会学校リーダー会

日時=9/6(日)14:00~16:30
場所=関口会館ケルンホール(東京カテドラル構内)

プログラム

①リーダーのための教会学校(森晃太郎神父/東京教区青少年委員会・イエズス会)
②共に考える!私たちの教会学校
③茶話会(リーダー同士話しましょう)
※参加費無料
※当日の会場出入りは自由です。
※リーダーのみの集会とさせていただきます。

活動の情報交換や相談しあう場がほしい、というリーダーの思いからこの会が生まれました。ぜひお気軽にお越しください。
お申込みはこちらから

問合せ:E-mail 
主催:東京教区教会学校委員会

平和旬間 2026 平和を実現する人々は幸い

2026年8月8日(土)

13:00〜15:00 講演会
講 師◉前嶋 和弘さん(上智大学総合グローバル学部教授)
演 題◉「戦争と平和:急変する日米関係と東アジアの情勢」
場 所◉関口会館 ケルンホール
※要約筆記・手話通訳対応予定です。

15:30〜16:30 平和を願うミサ
主司式◉菊地 功枢機卿
場 所◉東京カテドラル聖マリア大聖堂 
※要約筆記・手話通訳対応予定です。
※ミサは東京教区YouTubeチャンネルにてライブ配信される予定です。

16:30〜 平和巡礼ウォーク
コース◉カテドラル→目白駅(今年は車道を歩きます)
参加者には団扇をお配りします。
主催者が準備した団扇以外の幟やプラカードの持ち込みはご遠慮ください。

講演会講師 前嶋 和弘さん

静岡県浜松市生まれ。上智大学総合グローバル学部教授。アメリカ学会前会長。グローバルガバナンス学会副会長。上智大学アメリカカナダ研究所所長。専門は現代アメリカ政治外交。
上智大学外国語学部英語学科卒、ジョージタウン大学大学院政治学部修士課程修了(MA)、メリーランド大学大学院政治学部博士課程修了(Ph.D.)。
主な著作は『キャンセルカルチャー:アメリカ、貶めあう社会』(小学館、2022)、『アメリカ政治とメディア』(北樹出版、2011年)、『アメリカ政治』(共著、有斐閣、2023年)、『混迷のアメリカを読みとく10の論点』 (共著、慶應義塾大学出版会、2024)、『現代アメリカ政治外交』(編著、法律文化社、2026年)。『危機のアメリカ「選挙デモクラシー」』(共編著、東信堂、2020年)、『現代アメリカ政治とメディア』(共編著、東洋経済新報社、2019年)、Internet Election Campaigns in the United States, Japan, South Korea, and Taiwan (co-edited, Palgrave, 2017)など。

主催◉カトリック東京大司教区
問合せ◉カリタス東京事務局
電話◉03-6420-0606 
   080-8259-0993
   E-mail

小教区企画

2026年8月9日(日)
11:45〜14:30 講演会と交流会
講師◉シスター弘田 しずえ(ベリス・メルセス宣教修道女会)
演題◉「今、シノダリティの教会から信仰を生きる―イエスの非暴力と9条―」
場所◉カトリック町田教会

2026年8月9日(日)
11:15頃〜 映画上映会
作品◉ドキュメンタリー映画『カタロゥガン!ロラたちに正義を!』
場所◉カトリック徳田教会 信徒ホール

平和を求める祈り

平和の源である神よ、
今なお激しい戦闘が続くミャンマー、ウクライナ、ガザなどでは、
平和を望む多くの人が犠牲となっています。

苦しむ人、虐げられている人を支えてくださるあなたに祈ります。
国々の指導者を正しく導き、
憎しみではなく愛を、
争いではなくゆるしを、
分裂ではなく一致を求める心をお与えください。

住む家をなくし、恐怖と不安の中での生活を強いられている人々を力づけ、
心と体に安らぎをお与えください。

すべての人に、争いや暴力を退け、
平和を実現しようとする強い意志をお与えください。

いつくしみ深い神よ、
この世界に聖霊を豊かに注ぎ、
敵対する人々の心から怒りの炎を消し去り、
絶望にあえぐ人々の心に希望の火をともしてください。

あなたが望まれる和解と平和が、一日も早く実現しますように。
わたしたちの主イエス・キリストによって。
アーメン。

日本カトリック司教協議会


福島の地からカリタス南相馬 第54回

元神戸海星女子学院中学校・高等学校教諭
助友 伸子 

第1回「Come and See福島」に参加して

6月24日から26日、「Come and See 福島」に参加しました。このタイトルは、ヨハネ1章39節のイエスの言葉「来なさい。そうすれば分かる」に繋がると教えていただきましたが、まさしくその通りの活動でした。

私は、2013年に「カリタス原町ベース」で数日間ボランティアをしたのですが、何の特技もない私を温かく受け入れ、共に活動してくださったことが嬉しく、ありがたく、その後も何度か訪れさせていただきました。しかし、大震災・原発事故から年数が経ち、必要とされている支援が「地域の皆さまとともに働く」ものに変わってきていると分かり、賛助会員として神戸から応援することにしました。

最後のボランティアから8年。3日間、南相馬市小高区、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町を巡り、大震災と原発事故に関連する場所や施設を案内していただきましたが、町の様子は大きく変わりました。特に印象に残ったのは、あの山のようにあったトン袋(容量1トンの大型の袋)が消え、大震災・原発事故を伝える立派な施設がたくさんでき、新しい町並み(新しい家、お店、道路など)や田植えの済んだ田んぼが広がっていることでした。その一方で、まだ帰還困難区域があること、避難指示解除区域となっても、戻ってくる人が少ないこと、津波のため災害危険区域となり、住宅の再建ができないことには、とても心が痛みました。

1995年の阪神・淡路大震災のとき、私の住んでいた地域では、一戸建てはほぼ全壊、多くの方が亡くなりました。一方、徒歩10分ほどの北側では、壊れていない家もあり、電気も当日に復旧しており、その違いに愕然としました。震災で受けた具体的な被害や精神的な傷は人によって違うのだということを30年以上たった今でも感じています。この大震災・原発事故を阪神・淡路と単純に比較することはできませんが、お一人おひとりの抱える「違い」は、年月とともに広がっているのではと推察します。根本摩利所長と幸田和生司教様からのお話や参加者同士の分かち合い、夕食後の交流会を通して、カリタス南相馬が地域の皆さまと共にあることは、本当にかけがえのないことであると実感しました。

「来なさい。そうすれば分かる」。分かった私はどうすればいいのかということを、これから考えていきたいと思います。

この地を再訪できる機会を作ってくださり、本当にありがとうございました。

カリタスの家だより 連載 第185回

「最も小さい者」の一人として

家族福祉相談室 ボランティア 
水谷 信之

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。/正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである」(ミカ6・8)

私は今年の4月から「東京カリタスの家」の家族福祉相談室で電話や面談による個別相談のボランティアに参加しています。その動機となったのは、以前からミカ書に記されたこの箇所への思いがあり、いつかそのことをボランティア活動で実践したいと願っていたからでした。現在、私は福祉施設のソーシャルワーカー、ケアマネジャーとして勤務しています。クライエント(利用者)との関わりを通して、対人援助の仕事にやりがいを感じていますが、その一方で「クライエントの思いを真摯に受け止めているのか、自分の援助は適切だったのか」と逡巡し、相手の立場に寄り添って「聴く」ことの難しさも痛切に感じています。

そんなとき、いつも原点に立ち返るのが、ソーシャルワーカーの「バイブル」ともいうべき『ケースワークの原則(新訳改訂版)』(尾崎新・福田俊子・原田和幸訳、誠信書房、2006年)という本です。著者のF・P・バイステックは著名な社会福祉学者であり、米国ロヨラ大学卒のイエズス会司祭でもありました(奇しくも、「東京カリタスの家」草創期に関わっていたブルーノ・ビッテル神父もイエズス会司祭でした)。『ケースワークの原則』は援助関係を形成する技法を詳述していますが、バイステック神父はそれらの共通理念として「神にかたどられたすべての人は、神から与えられた尊厳と価値を持っており、それは援助原則の基礎となるもの」と位置づけています。

相談の場で「受容、共感」と共に不可欠な「傾聴」につき、バイステック神父は「クライエントがさまざまな感情を安心して表現できるように助けること、それによって援助者の傾聴という行為は心理的なサポートとなり、援助関係の形成が促進されていく」と指摘しています。「東京カリタスの家」のボランティア活動を通して、私は「聴」という字に含まれる「耳」と「心」で相手の思いを丁寧に受け止めること、すべての人が「神から与えられた尊厳と価値」そのものであること、などを深く内省する機会をいただきました。何よりも、クライエントや先輩ボランティアとの豊かな出会いこそが、私自身の心の支えや成長につながっていると感じています。

バイステック神父は「助けを求める兄弟に、援助者は愛という動機をともなって、自ら神の摂理の道具となるよう」との願いを込めて『ケースワークの原則』を結んでいます。私はカトリックの信仰に支えられているボランティアとして、また「最も小さい者」の一人として、マタイ福音書に記されたイエス様のみ言葉を心に留めながら、これからも隣人に寄り添っていきたいと思います。

「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25・40)

編集後記

全世界に行って
福音を宣べ伝えよと
イエスは言われた

そんなイエスの想いに応え
イエスの愛を伝えるために
教会の外に出かけていく

出かけた先で人と出会う
友として語り合い
笑い合って食卓を囲む

そこにはすでに福音があった
イエスがそこにおられた
愛を伝えられたのはこちらだった

今日もこれからも出かけていこう
イエスを伝えるためではなく
イエスと出会って伝えられるために(Y)