お知らせ

お知らせ

東京教区ニュース第395号

2022年08月03日

2022年平和旬間

今年もミャンマーの人々を忘れずに、祈りましょう
大司教 菊地功

平和という言葉が暴力によって踏みにじられる中で、今年も8月6日から15日まで、日本の教会は平和旬間を迎えます。

2年以上にわたって、感染症によるいのちの危機に直面する世界で、優先するべきなのはいのちを守るために連帯することです。しかし、世界の現実は、全く異なる様相を見せています。

ロシアのウクライナへの武力侵攻は、平和を求めてこれまで積み重ねてきた国際社会の努力を踏みにじる大国の暴力的行動として世界に大きな衝撃を与え続けています。姉妹教会であるミャンマーの状況は、2021年年2月に発生したクーデター以降、全く解決する兆候を見せていません。わたしたちの国でも、先日の参議院選挙期間中に、安倍晋三元総理が銃撃されいのちを暴力によって奪われるという衝撃的な事件が発生しました。わたしたちの「共通の家」は、まるで暴力によって支配されているかのようです。

1981年に日本を訪問された教皇聖ヨハネ・パウロ2世は、広島での「平和アピール」で、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」と、平和を呼びかけられました。その言葉に触発されて、日本の教会は、戦争を振り返り、平和を思うとき、平和は単なる願望ではなく具体的な行動が必要であることを心に刻むために、この10日間の平和旬間を定めました。

「戦争は人間のしわざ」であるからこそ、その対極にある平和を生み出すのは、やはり「人間のしわざ」であるはずです。「戦争は人間の生命の破壊」であるからこそ、わたしたちは神からの賜物であるいのちを守り抜くために、平和を生み出さなくてはなりません。「戦争は死」であるからこそ、わたしたちいのちを生きている者は、戦争を止めさせなくてはなりません。

77年前、世界を巻き込んだあの暴力的な戦争が終わったとき、わたしたちは戦争に至った道を振り返り、反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓ったはずでした。しかし、世界はその後も、暴力をもって互いの相違を解決するような行動を続けてきました。その度ごとに、教会をはじめ平和を希求する多くの人が声を上げ、平和の大切さを繰り返し主張してきました。

しかしこの二年半、感染症によるいのちの危機の中で、世界は守りの姿勢を強めて内向きになり、あたかも、異質な存在を排除することや連帯ではなく対立することを良しとするかのような道を歩んでいます。いまこそ、過去を振り返り、現在の歩みを見極めながら、未来に向かって平和の大切さを主張し歩みを進めるときです。

そこで2022年の平和旬間は、ウクライナをはじめ世界全体の平和を祈ると同時に、あらためて東京教区の姉妹教会であるミャンマーの教会に思いを馳せ、ミャンマーの人々のために、またその平和のために祈るときを継続したいと思います。

暴力の連鎖があるかのような世界の状況のなかで、次々と出現する悲劇的事態に、世界の関心は移り変わっていきます。その中にあって、地域の平和を乱す状況は一朝一夕では解決しないがために、「古い」事態は忘れ去られてしまいます。だからこそわたしたちは、姉妹教会であるミャンマーのことを忘れず、今年もあらためて、ミャンマーの平和のために祈り続けたいと思います。

ご存じのように、2021年2月1日に発生したクーデター以降、ミャンマーの国情は安定せず、人々とともに平和を求めて立ち上がったカトリック教会に対して、暴力的な攻撃も行われています。ミャンマー司教協議会会長であるチャールズ・ボ枢機卿の平和への呼びかけに応え、聖霊の導きのもとに、政府や軍の関係者が平和のために賢明な判断が出来るように、弱い立場に置かれた人々、特にミャンマーでの数多の少数民族の方々のいのちが守られるように、信仰の自由が守られるように、この平和旬間にともに祈りましょう。

今年もまた具体的な行動として、8月7日の主日は「ミャンマーの人々のため」の意向でミサを捧げ、特別献金をお願いいたします。皆様の献金は、東京教区のミャンマー委員会(責任者、レオ・シューマカ師)を通じて、ミャンマーの教会に届けられます。 なお、今年も感染症の状況が改善しない中、例年カテドラルで土曜日に行われていた「平和を願うミサ」や平和巡礼ウォークについても行わず、8月7日の主日10時に、関口教会のミサをその意向を持っての大司教司式ミサといたします。それぞれの小教区でも、この日の主日ミサで、ミャンマーの人々のためにお祈りください。

神の望まれる平和が、この世界に実現しますように。御旨が行われますように。

2022年カトリック東京大司教区 平和旬間 平和を求める祈り

いつくしみ深い父よ
すべての悪からわたしたちを救い
現代に平和をお与えください

現実を変えるにはあまりに無力だと感じる時
小さな一歩が
小さな祈りが
あなたの正義を実現するための力となることを
教えてください

暗闇の中に取り残されているミャンマーの兄弟姉妹が
闇を打ち破る希望の光に照らされ
真の平和と和解を実現することができますように

暴力が支配する世界の各地で
あなたのみこころが行われ
平和が実現しますように

平和の王であるあなたの御子
イエスキリストによって
アーメン

聖母マリア、私たちのために祈ってください。
アーメン

(東京大司教認可)

 

ミャンマーのための祈りの集い

ロウソクを捧げるミャンマー人信徒

平和旬間に先立って、7月9日の午後6時から、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて「ミャンマーための祈りの集い」が行われた。

レオ・シューマカ神父(築地教会主任司祭・教区ミャンマー委員会担当)とラズン・ノーサン・ヴィンセント神父(府中教会助任司祭・ミャンマー出身)を中心に、ミャンマー出身信徒と日本人有志が集まり、祈りと歌が捧げられた。

集いに参加した菊地大司教はメッセージの中で、ミャンマーのクーデターの他、ロシアによるウクライナの軍事侵攻や安倍晋三元首相が殺害された事件に触れ、この世界が「暴力によって何かを達成しようとする多くの出来事で満たされている」と述べ、そのような社会においても「命は例外なく徹底的に守られなければならない。人間の命に宿っている神の尊厳は徹底的に守られなければならない」と訴えた。

また、かつてアフリカの難民キャンプのリーダーから「日本に帰ったら自分たちのことを伝えてほしい。私たちは世界から忘れ去られてしまったんだ」と伝えられた体験を語り、暴力によって苦しんでいる人々を決して忘れないことの大切さを語った。

「ミャンマーための祈りの集い」の様子はカトリック関口教会YouTubeチャンネルで視聴可能。平和旬間にミャンマーの人々のために祈るための一助としていただければ幸いである。

「ミャンマーための祈りの集い」の視聴はこちら

ロウソクを持って入堂

会衆を祝福する菊地大司教とヴィンセント神父

CTIC カトリック東京国際センター通信 第260号

助祭たちのCTIC訪問

毎年、東京カトリック神学院の最終学年である助祭コースに在籍の助祭、助祭叙階予定者が司牧の現場見学の一環としてCTICを訪問します。わたしも16年前に見学したことを覚えています。その時のCTIC事務所は総武線の亀戸駅近くの、フィリピンパブなどが入る雑居ビルの中にありました。これは生活上の困難にある外国籍の人が相談に来やすい場所に出向くという意味がありました。私たちが助祭研修に訪ねた時には、「お店」で働く女性が日本人との間に子どもを妊娠した途端に相手と連絡が取れなくなったという相談への対応をスタッフが協議していたのを覚えています。その後、経費の問題などもあり、現在は目黒教会の中に相談部門も移りました。その間にCTICに来所される方の国籍も、相談内容も多様化しています。住んでいる場所も様々なので、品川の出入国在留管理局からも近い目黒も、ある意味で好立地と言えるかもしれません。相談内容の変化としては、例えば子どもの出産や養育に関することは、かつては当事者の一方は日本人でしたが、近年はほぼ外国籍の方同士という状態になっています。

さて今年も各地の教区、修道会に所属の7人の方がCTICを訪問されました。長年相談活動に携わってきたスタッフがCTICの活動の変遷や最近の外国人支援の課題について日ごろの活動の経験をもとに説明し、また、カトリック教会として社会問題に関わる意味についての思いを語ってくれました。カトリックの信仰に基づく活動である限りは、すべての人に与えられている神の子としての尊厳を大切にするということであり、それは相談に来る外国籍の人たちの尊厳にとどまらないのであり、特定の誰かだけを尊重したり、誰かを敵として批判すればよいというものではない、この点を私たちはいつも心に留めて活動を識別していかなければならないと思っています。

CTICの前で 助祭、助祭叙階予定者たち

助祭コースの皆様は熱心に聞いてくださり、質問も出されました。例えば、衣類の寄付をする時の注意点は? という質問にはいつも食料や物資の支援で直接、来所される方と関わっているスタッフが答えて、支援を受ける方も日本社会に暮らしており、とにかく着られればよいというものではなく、新品や新品同様でとお願いしたいことや、男性用のズボンはサイズの点で活用が難しいことが多いことをお話ししました。ちなみに、こういった事情でCTICでは衣類のご寄付につきましては、個別にお問合せいただいております。

また今回の助祭訪問では、CTICの活動だけではなく、目黒教会主任司祭のカマチョ神父様が、京都教区の教会で司牧されていた時に、新しくやってきたベトナム人の若い信者たちと、古くからの日本人信者たちの一致を少しずつ育まれた経験を分かち合ってくださいました。そして最後には目黒教会の祭壇の司祭が立つ側に一人ひとりを呼んで、そこからの景色を見せ、もうすぐ司祭としての奉仕することになる方々を励ましておられました。

助祭コースの皆様。教会は皆様を待っています。

高木健次
CTIC所長

スタッフの説明を聞く助祭、助祭叙階予定者たち

福島の地からカリタス南相馬 第14回

聖心会 穎川政子
ゆずのきもち

小高駅前通りにある小高工房。2011年3月11日の震災、15日の福島第一原子力発電の事故から11年。2016年7月に避難指示区域の解除。しばらくは小高駅前通りは人の歩く姿もなく、車も通らず、時々、訪れる元小高住民は寂しい思いをしていました。Hさんはそんな時にぷらっと来ておしゃべりができる場所「ぷらっとほーむ」というスペースを提供。それが小高工房の前身。少しずつ人が小高に訪ねてくるようになり、新しい町づくりのために次々とアイデイアを出し、今は唐辛子の店になっています。最近、売り出した「ゆずのきもち」柚子胡椒の話を聞きました。

震災前、小高の方たちの家にはゆずの木、梅、柿の木があるのが当たり前だったそうです。福島第一原発事故の後、ゆずは放射線量が高く、育つのに20年近くかかるゆずはもう食べられない。切るしかない状況になり、多くの方が痛い思いをして切りました。切らずにおいたゆずの木はその後も実をつけ続けましたが、もう「だめな木」、「食べられない木」、「誰も見向きもしない木」として皆、諦めていました。

震災後、10年が過ぎて、線量を量ってみると、ゆずは食べても大丈夫な状態になりました。でも、地元の人でさえ、とって食べようとしない。「もう、だめな木」という考えが根付いてしまいました。ゆずの木の気持ちを考えると、「つらい、かなしい」。もう大丈夫だといっているのに誰も振り向いてくれない。手を伸ばしてとってもくれない。それは今の小高について、福島についての一般の人々の気持ちと重なる。いつまでも被災者と言われたくない。もう、普通の生活ができるようになっているのに。でも、小高と言えば、福島と言えば、福島産のものといえば、放射線、原発、だから手を出さない。遠ざける。小高の人々の思いはゆずの気持ちと同じ。

Hさんは、この柚子胡椒を一人でも多くの人に手にして欲しいと願っています。福島の復興はまだまだですが、新しいいのちを小高の町に吹き込もうと日々、精一杯生きている方達を応援したいと思います。

カリタスの家だより 連載 第145回

ボランティア養成講座・前期のご報告

東京カリタスの家ボランティア養成講座は、コロナの感染防止対策のため、2年間の休止を余儀なくされました。

一方で、カリタスの家にボランティア登録をしたにも関わらず、コロナのせいで活動が始められないボランティアさんが何人もおられました。年末にこれらのボランティアさんのため、カリタスの家の活動について具体的に解説する学習会を開いた折、ボランティア養成講座再開を望む声が多く聞かれました。それならば、新人ボランティアさんたち自身に講座を営んでもらうのも一つのやり方ではないかと考えました。

講座を企画運営する人と、講座によって学ぶ人が同じ目線、同じ熱意。これまでのボランティア養成講座にはなかった冒険です。説明の上、各部署の了解を得ましたが、正直こわごわのスタートではありました。カリタスの家の誰もが、コロナ禍を乗り切り、苦しむ人のために働く新しいボランティアを育て、未来にバトンを渡す大切さを痛感していたからこそできたスタートでした。

新年が明けてボランティア養成講座実行委員会が結成され、男女8人の委員が集まりました。委員会の席上「何を学びたいか」を委員一人ひとりに訊いた中で出てきた結論は意表を突くものでした。「傾聴」です。

カリタスの家で長く活動していると、活動の中心に「傾聴」があるのは当たり前。散々勉強し、活動の中で練り上げ、今更とりあげる必要も感じないほどの大事なお約束です。けれども、まだ活動を始めていない新ボランティアさんが、カリタスの活動の根幹を知りたいと思うのは当然で、ありがたいことでもあります。

そこで、思い切って講座を前期・後期に分け、前期講座の3回のテーマをすべて「傾聴」としました。また、これまで数ヶ月に渡って開いてきた講座を3週連続の集中型としました。コロナの動向もさることながら、短期集中でまとまりのある講座にしたいと、これも委員会の意向でした。 講師との交渉、会場確保、広報活動と忙しくするうちに季節は初夏に移り、前期講座は以下の通り、5、6月の土曜日に行われました。

1回目「傾聴とカウンセリングマインド」
非専門家へのカウンセリングの心構えを説く経験豊かな中根伸二先生にお話を聞きました。「治そうとするな、解ろうとせよ」はカリタスの精神につながります。

2回目「東京カリタスの家の傾聴」
カリタスの家家族福祉相談室のベテランスタッフとボランティアによるケース紹介です。守秘義務に抵触しないよう慎重にアレンジされたケースの数々。寄り添う熱意と行動に圧倒される思いでした。

3回目「傾聴の未来」
今評判のオープンダイアローグの第一人者、森川すいめい先生に、新しい傾聴のあり方を話していただきました。技法にとどまらず、人への信頼に裏打ちされたコミュニケーション論でもありました。

新人ボランティアさんによる前期講座は大盛況でした。各回の平均参加者数は40名以上となり、参加希望は講座当日まであって、残念ながらお断りしなくてならないほど。良い評価も続々と頂いています。新しいボランティア登録者もあります。「新しい人は新しい風を連れてくる」少し前の教区ニュースに書いた言葉です。50年のカリタスの歴史に新鮮な1頁が加わりそうです。

秋の後期講座の準備が進んでいます。前期に実行委員長を務めた筆者はアドバイザーに退き、新人ボランティアのみの実行委員会となります。フレッシュな感性を大切に、テーマ決定、講師への依頼、広報の範囲など、前期講座から学んだことを存分に生かして、より良い講座を作り上げて欲しいと願っています。ご期待ください。

2022年度 前期Ⅴ養成講座実行委員長
酒井育子

エウカリスチア祭儀とシノドス

教区シノドス担当者 瀬田教会主任司祭◉小西広志神父

赤い小さな冊子があります。そこにはミサの式次第が書かれています。先日、久しぶりに手に取ってみて、この小冊子も今年の11月末までしか使えないのだと思ったら、感慨深いものがありました。表紙には金文字で「ともにささげるミサ」とあります。多くの方々がミサに与る時にお世話になったことでしょう。金文字を指でなぞりながら、思いめぐらしていたら、初めて日本語のミサがささげられるようになった頃のことを思い出しました。その時に配られた式次第の表紙には「ともにささげるキリストの記念」と記されていたように覚えています。半世紀も前のことです。

◆ ■ ◆

「ともにささげる」とは美しい表現です。そして、エウカリスチア祭儀の核心に触れる言葉です。これには二つの意味があるでしょう。一つは主イエス・キリストと共にささげるミサ。もう一つは多くの人々と共にささげるミサです。

初聖体の準備をしている子どもたちに「ミサは誰がするの?」と問いかけると、「神父さま」と答えます。「その答えは半分だけ正しいね」と言うと、問いかけの答えが正しいか正しくないかしか知らない子どもたちには予想もつかない言い方が返ってきて、驚きはじめます。「確かに神父さまがいないとミサは成り立たないです。でも、本当は、神父さまは復活して今、ここにいてくださるイエスさまと一緒にミサをささげています。ですから、ミサをするのはイエスさまです。そして、この聖堂に集まったたくさんの人々とイエスさまは一緒にミサをささげるのです」と説明します。ますます子どもたちは驚きます。

キリスト教のすばらしいところは、救い主キリストが罪のゆるしのために犠牲(いけにえ)となってくださったこと、そして大祭司であるキリストご自身がその犠牲(いけにえ)をささげられることにあります。それはエウカリスチア祭儀の中で繰り返しなされます。ミサはキリストと共にみんなでささげるのです。

だからこそ、第二の意味が生まれてきます。主イエス・キリストが共にささげてくださるからこそ、そこに集う人々が一つに結ばれていきます。大人も子どもも、男性も女性も、元気な人も病気の人も、喜ぶ人も悲しむ人も「ともに」ささげるのです。それは時間と空間を超えるかもしれません。わたしの叔母はわたし宛の手紙の最後にいつも「ご聖体にあっていつも一緒です」と記してくれました。世界中のあちらこちらでエウカリスチア祭儀がささげられている、そこに「ともに」あるのです。

かつて、よく使われたラテン語がありました。In Persona Christi(イン・ペルソナ・クリスティ)。直訳すると「キリストという方のうちに」となります。これを「キリストの代わりに」、あるいは「キリストの代理に」と訳しました。そして、司祭の務め、すなわちミサなどの典礼の務めに当てはめました。なぜなら司祭は「もう一人のキリスト」(Alter Christus アルテル・クリストゥス)と呼ばれていたからです。司祭は「キリストの代わりに」、つまり「キリストの代理者」としてエウカリスチア祭儀をささげるのです。

このラテン語の慣用句は第二バチカン公会議以降、あまり使われなくなりました。そして、今世紀に入る頃から別の意味で理解するようになったのです。つまり「キリストの代理」から「キリストとともに」という言葉が本来持っている意味でとらえるようになりました。2013年に発行された『第二バチカン公会議公文書 改訂公式訳』でも「キリストとともに」を表す「キリストと一体となって」にしました。これは翻訳の技法に関することではありません。根本的なエウカリスチア祭儀についての理解と結びつくことです。

◆ ■ ◆

もう一度、赤い小冊子の表紙を手に取って黙想してみました。この小冊子を作られた方々は「ともにささげるミサ」という表題にどのような願いをこめられたのでしょうか。キリストとともに、そして、人々とともにささげられていくエウカリスチア祭儀を強く意識していたのでしょう。今年の末に変更になるミサの式次第でも「ともにささげるミサ」がさらに強調されなければならないでしょう。それがエウカリスチア祭儀の本質だからです。教会は変化します。その意味で非連続です。しかし、教会のもっとも大切な点は変化しません。連続するのです。

シノドス的教会とは「共に歩む」教会であるというのは、ありがたいことにこの一年間で広まりました。「共に歩む」教会を作りあげるのはエウカリスチア祭儀なのです。この点は聖ヨハネ・パウロ二世教皇の言葉を心に刻みたいものです。「教会はエウカリスチアによって生きる」(Ecclesia de Eucharistia vivit エクレジア・デ・エウカリスチア・ヴィヴィット)。

シノドスにちなむ合同礼拝〜ともに歩む教会のため〜

前列左から吉高叶師、大柴譲治師、髙橋宏幸主教、前田万葉枢機卿、菊地功大司教

7月21日18:00より、麹町教会大聖堂にて、カトリック教会、日本聖公会、日本福音ルーテル教会、日本キリスト教協議会(NCC)の各教派合同による「シノドス第16回通常総会にちなむ合同礼拝〜ともに歩む教会のため〜」が行われた。

教皇庁シノドス準備局は、各国の司教団がシノドスのテーマに沿ってカトリック以外のキリスト教教派からも意見を聴くよう勧めており、日本の司教団も2022年度第1回臨時司教総会の会期中(7月19日~22日)に上記の3団体の代表者からヒアリングを行った。今回の合同礼拝はそのヒアリングと合わせ、教会一致を願って開催されたものである。主司式は前田万葉枢機卿(大阪大司教)、共同司式は菊地功大司教(カトリック司教協議会会長)、髙橋宏幸主教(日本聖公会東京教区主教)、大柴譲治師(日本福音ルーテル教会総会議長)、吉高叶師(NCC議長)。

礼拝には、司教総会に参加している全司教をはじめ、各教派から聖職者、教職者、修道者、信徒の代表が参列した。

合同礼拝に参列する司教団

説教を務めた菊地大司教は「…現実には暴力が支配し、いのちの尊厳がないがしろにされ、異質な存在は排除されています。あわれみを欠いた社会に、神の正義はありません。このような状況の中で、教皇フランシスコは、シノドスの道をともに歩むようにと呼びかけ、カトリック教会だけでなく諸教会の兄弟姉妹の皆さんにも、歩みをともにするよう呼びかけています」と呼びかけ、さらに「この地にあってイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために遣わされているわたしたちは、『一つの洗礼によって結ばれた、異なる信仰告白をもつ』兄弟姉妹であります」と、教派の違いを超えて、キリスト者は同じ福音宣教の使命に招かれているのだということを強調した。

菊地大司教による説教

一致を表すロウソクに火を灯す

司祭叙階節目の年を迎えられた神父様方、おめでとうございます

司祭叙階60年 ダイヤモンド祝
川村 昕司神父 (東京教区)
永谷 計神父 (聖パウロ修道会)
小坂 正一郎神父 (サレジオ会)
粟本 昭夫神父 (イエズス会)
フェデリコ・アルカラ神父 (イエズス会)

司祭叙階50年 金祝
吉川 敦神父 (東京教区)
清水 一男神父 (マリア会)
伊藤 隆神父 (フランシスコ会)
竹内 正美神父 (フランシスコ会)
ラッセル・ベッカー神父 (フランシスコ会)
井上 潔神父 (イエズス会)

司祭叙階25年 銀祝
稲川 圭三神父 (東京教区)
ペトロ・イシュトク神父 (コンベンツアル聖フランシスコ修道会)
加藤 信也 (イエズス会)

森山信三 大分司教 独占インタビュー

先輩たちが残したものを土台にして

今年の7月3日に大分司教として叙階された森山信三司教。森山司教は司教に任命されるまでの約2年間、福岡教区からカトリック中央協議会(中央協)に派遣されており、その間、東京教区の小教区や修道会での司牧にも多大な協力を頂いた。森山司教の温かい人柄に直接触れた東京教区の信徒も少なくないと思われる。東京教区ニュースでは、2022年度第1回臨時司教総会のために中央協に滞在中の森山司教を訪ね、東京での思い出や、大分での新生活について等のお話をうかがった。

司教叙階式にて。菊地大司教と森山司教。

──司教叙階から2週間ほど経ちましたが、今のお気持ちを聞かせてください。
森山 4月のはじめに任命を受け、「はい」と答えたものの、大きな責任を前にして「大丈夫かな」という不安とプレッシャーを感じ、個人黙想をしたりしていました。叙階式も終わり、ようやく受け入れつつあります。往生際が悪いタイプなのかもしれませんね。もちろん、司教叙階を受けて大きな恵みを頂いたと思っています。恵みの内に務めを果たしていくつもりです。

──中央協にはどのくらい出向なさっていましたか。
森山 2020年から司教任命を受けるまでです。1年目は出版部、2年目からは事務局長を務め、3年目の途中で大分司教に任命されました。東京に来てすぐコロナ禍が始まり、中央協も在宅勤務を導入し、当初は2割から3割程度の出勤状況でした。そのため、職員の皆さんとご飯を食べに行ったり、研修旅行に行ったりすることはできませんでした。せっかく50数名の方々と一緒に働いていたのに、本当の意味でのお付き合いができなかったのが残念です。もっと関わりを持てればよかったなあと思います。

──中央協での勤務以外に東京の思い出は?
森山 日曜はできるだけ外に出かけるようにしていました。1年目は月に一度は(中央協の隣の)潮見教会でミサの司式をさせていただきました。本郷教会と八王子の女子修道院にも定期的に行っていましたし、それ以外にも、お願いされたところには行くようにしていました。福岡の教会しか知らない私にとって、色々な東京の教会に行くことができたのは有意義な体験でした。ただ、コロナ真っ直中だったので、通常のミサの姿を見ることができなかったのは残念でした。

──ご出身の福岡と東京の教会で違いを感じることはありましたか?
森山 九州の教会には長崎をルーツとした信仰の形があります。幼児洗礼の信者が多いですし、「信仰を守る」という感じの教会です。一方、東京には出向いていく、外に信仰を伝えるという方が結構おられると感じました。今後、日本の教会がどのような方向を向いていくかを考えた時、例えばホームレス支援や滞日外国人支援、子ども食堂など、それぞれの地域で活動している一般の方々と手をつないでいけるかが問われています。それが教会の生きる道だと思います。このままずっと、「これもできない、あれもできない」ではなく、できることはやっていく、コロナ禍だからこそできることを見つけていくことが大切だと思います。

──大分の教会の印象を教えてください。
森山 大分には(フランシスコ・ザビエルたちに布教を許可した)キリシタン大名の大友宗麟以来のキリスト教の歴史があります。天正遣欧少年使節の伊東マンショも宗麟の名代でしたし、ペトロ岐部も大分の人です。様々なところに殉教地もあるので、今からそのような場所を訪れたいと思っています。大分におけるキリスト教の発展は私たちの大切なモデルです。あの時代は戦の時代でもありました。キリシタンたちは戦で傷ついた人、捨てられた子どもたち、そしてハンセン病の人々のような弱い立場の人々に寄り添っていたのです。

──司教として最初の司教総会はいかがですか?
森山 中央協で働いていた2年間、毎月のように司教の会議に出席していたので、どんな雰囲気かは分かっていました。その意味ではあまり戸惑いはありません。先輩の司教様たちが残したものを土台にして、今後の教会、そして社会に対応していきたいです。そんな司教でありたいと思います。

インタビュー当日、日本カトリック会館入り口にて。過密スケジュールにも関わらず、快く取材に応じてくださった。

第46回 日本カトリック映画賞

第46回日本カトリック映画賞(主催:シグニスジャパン)の授賞式が5月21日、カトリック浅草教会で行われた。授賞式に続いて受賞作品「梅切らぬバカ」和島香太郎(わじま・こうたろう)監督とシグニスジャパン顧問司祭晴佐久昌英神父との対談も行われた。日本カトリック映画賞は1976年以来、毎年、選考期間内に公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な作品に贈られる。2020年、2021年に続いて、今年も上映会が開催できず、非公開での授賞式と対談となった。授賞理由は以下の通り。

授賞式

「梅切らぬバカ」授賞にあたって
シグニスジャパン顧問司祭 晴佐久昌英
「ともだちだから」

この地球で人類が繁栄した最大の理由は、「互いに助け合う」という特徴にある。

それは、助け合えなくなれば人類に未来はないということであり、コロナのパンデミックによって明らかになった現代社会の最大の問題点も、そこにある。経済最優先という強者の論理で弱者が切り捨てられる現実の中で、わたしたちはどうすれば本来の助け合う力を取り戻せるのだろうか。

このところ、コロナの時代にあって映画に何ができるのか、ましてや映画賞を選定することにどんな意味があるのかを、ずいぶん考えさせられたし、話し合っても来た。疲弊した世界は今、どんな映画を必要としているのだろうか、と。

そんなわたしたちを励ましてくれたのが、「珠子と忠さん」親子である。母親の珠子は、50歳になる自閉症の息子の忠さんと二人暮らし。このままでは共倒れになると、珠子は忠さんを近所のグループホームに預けようと決心する。しかし、近隣の住民たちはグループホームを排除しようとするし、忠さんもホームになじめない。現代社会の縮図のような閉ざされた状況だが、現れた小さなともだちのおかげで、二人の世界が開き始める。

映画の中で母親の珠子が「だって忠さんのともだちだから」と言った時、ああこれだ、今の世界に必要なのは「ともだち」なんだ、と気づかされた。血縁でもなく、福祉でもなく、人類が助け合う基本構造としての、ともだち。一緒にご飯を食べ、困った時には頼りになる、いてくれるだけでうれしい、ともだち。もしかすると、先に逝く親が子供に与えることのできる最高の贈り物は、ともだちなのかもしれない。

映画を観終えて何よりうれしかったのは、この自分もまた忠さんのともだちになっていたことだった。そうか、世界を救うには、人類がみんなともだちになればいいんだ。みんなともだちになって、街全体がグループホームになればいいんだ。映画を作ってくれたみなさん、魅力あふれる忠さんをともだちにしてくれて、ありがとう。きっと、映画が観客に与えることのできる最高の贈り物も、ともだちなんですね。

映画には、互いに助け合うともだちを生み出す力があるし、そんな力を秘めた映画をこそ応援したい。コロナの時代に映画には何ができるか、どんな映画を選ぶべきかという問いにわたしたちが出した答えは、「梅切らぬバカ」である。

晴佐久神父と和島監督

※授賞式、対談はシグニスジャパンHPからyoutubeで、また文字でお読みいただくことも可能です。

東京教区ウェブサイト全面リニューアル!

この度、東京教区ではウェブサイトのデザインを全面リニューアルした。 これまで以上に「美しさ」と「見やすさ」を重視してデザインを全面的に見直し、PC、スマートフォン、タブレット等、どの端末からでも見やすいレスポンシブWEBデザインを採用している。 今のところ、コンテンツには大きな変更はないが、今後は信仰生活におけるヒントや、キリスト教徒ではない方々向けのQ&Aコーナーを充実させていく予定。URLに変更はないので、ブックマークの変更は不要。新しくなった教区ウェブサイトを是非チェックしていただきたい。

編集後記

出口の見えない不安の中を歩み始めてもう3年目。困難な日々であることは違いない。しかし困難と不幸は同じではない。

こんな日々だからこそ気づいた人もいるのだ。弱くされた人々は自分たちのすぐそばにいたことに。助け合う、支え合うことの本当の素晴らしさに。

こんな日々だからこそ出会えた友がいる。この歩みだからこそ得られた恵みが、幸せがある。愛はどんな時も、私たちと共に。(Y)