東京教区ニュース第381号

2021年04月05日

この10年を振り返って

今年の3月11日で東日本発生から10年を迎えた。司教協議会復興支援室担当司教、カリタスジャパン責任司教として復興支援に関わり続けてきた菊地功大司教に、この10年を振り返っていただいた。

東北を中心として東日本の各地を襲った大震災発生から、10年という時間が経過しました。この大震災とその後の困難な状況の中で亡くなられた多くの方々の永遠の安息を、あらためてお祈りいたします。また、安否不明の方も未だに二千人を超え、さらには四万人の方が避難生活を続けておられます。一日も早い希望の回復のために、お祈りいたします。

教皇フランシスコは、2019 年11月に東京で、「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」と、被災者の集いに集まった人たちを通じて、わたしたちすべてに語りかけました。

教会はこの10年間、全国各地の教会が力を結集して、東北各地に拠点を設け、ボランティアを派遣してきました。その活動はまさしく、「展望と希望を回復」するための「兄弟姉妹との出会い」の活動であったと思います。

もちろん教会という存在は、どこからかやってきて去って行く存在ではなく、大震災の前から東北の地にあり、これからもそこにあり続ける存在です。わたしたちの活動は教会の活動です。したがってこれからも、地元にある教会の活動として続けられ、教会はいつでも、「展望と希望を回復」するための「兄弟姉妹との出会い」の拠点であり続けると確信しています。

思い起こせば、震災直後の3月16日、当時のさいたま司教であった谷師、いまは新潟司教となった成井師などと、新潟から山形を経由して、雪の中を山越えをして仙台へ出かけ、当時の仙台司教であった平賀師、事務局長であった小松師と、その後の対応について話し合ったのが始まりでした。そのときは、平賀司教や小松師には、国内外からボランティアが押しかけるので受け入れ体制を整える必要があるという話を、なかなか信じていただけなかったのを憶えています。

その後、日本のカトリック教会は、仙台教区本部を拠点に活動を開始しました。全国の16教区に広がる教会のネットワークとそれを通じた世界に広がるグローバルな教会ネットワーク、そして被災地域にすでに存在していた教会のローカルなネットワーク、そのすべてを動員して10年にわたる復興支援活動に取り組んできました。

わたしはその中にあって、司教団の復興支援とカリタスジャパンの両方の責任者として、微力ながら務めさせていただきました。とはいえ、大規模な災害復興支援の経験があった訳ではありませんので、至らない点も多々あったことだと思います。それぞれの地で生きておられる方々の思いや、支援に取り組んでこられた方々の思いを、しっかりと受け止められなかったこともあったと思います。

10年にわたる活動を支えてくださった、多くのボランティアの皆さん、スタッフとして支えてくださった皆さん、全国各地から駆けつけた皆さん、いまでも定期的に通われる多くの方々、そのすべての方々の献身的働きに、心から感謝します。また、平賀司教をはじめとした仙台教区の皆さんの活躍は、「素晴らしい」の一言です。 東北各地ではインフラの整備は進んでいます。いつまでも「被災地」と呼ばれ続けることは、良いことではないと感じています。同時に、何もなかったかのように、忘れ去られていってよいわけもありません。

教会全体としての全国からの支援活動は10年をもって終わります。東京教区のCTVCも、10年をもって解散となります。しかしそれで復興支援活動が終わるわけではありません。兄弟姉妹としてともに歩み続けることを誓った思いは、具体的な活動のあるなしにかかわらず、続いていくものです。この10年間のかかわりで生まれた結びつきをさらに強め、さらに育む新たな歩みの始まりであると思います。

幸いCTVCの活動から、カリタス南相馬が誕生しました。幸田司教を始めとして、多くのスタッフは、この数年間、その地に居を構え住人となり、時の流れを共にしてきました。これからもその歩みは続くことでしょう。カリタス南相馬の誕生に関わった教会共同体として、東京教区はこれからも、東北の方々と歩みを共にしていきたいと思います。


2011年3月19日、新潟司教館にて。東京から仙台へ向かうJLMMのスタッフと。

世界召命祈願のミサ中止について

2021年4月25日(日)復活節第4主日 14:30に予定されていた「世界召命祈願のミサ」は、諸般の事情により中止となりました。ミサは中止となりましたが、神学生、修道者の召命のための祈りは引き続き、よろしくお願いいたします。 カトリック東京大司教区 一粒会

東京大司教区司祭人事(第2次)について

東京教区では、2021年度の司祭の人事異動を以下のように決定しましたので、お知らせします。

2021年3月20日
東京大司教
菊地 功

(4月1日付)

任地 名前 現任地
赤羽教会主任司祭 平孝之師(コンベンツアル聖フランシスコ会) 本部修道院
赤羽教会協力司祭 松田清四朗師(コンベンツアル聖フランシスコ会) 亀有教会主任
亀有教会主任司祭 ペトロ・イシュトク師(コンベンツアル聖フランシスコ会) 赤羽教会協力
下井草教会助任司祭 ソボン・タデオ師(サレジオ修道会) 下井草教会協力
吉祥寺教会 荒田啓示師(神言修道会) 聖ルドヴィコ修院
麹町教会助任司祭 柴田潔師(イエズス会) 広島・徳山教会主任
教区外へ    
大阪教区へ 永尾稔師(コンベンツアル聖フランシスコ会) 赤羽教会主任
新潟教区へ トゥ・ダン・フック師(神言修道会) 吉祥寺教会助任
広島教区へ 李相源師(イエズス会) 麹町教会助任

以 上

思いつづける 3.11 追悼・復興祈念ミサ

東日本大震災発生からちょうど10年を迎える3月11日、カトリック東京ボランティアセンター(CTVC)企画による「『思い続ける3・11』オンライン 東日本大震災~犠牲者・被災者・避難者のために祈るつどい~追悼・復興祈念ミサ」が、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて行われた。今年の3月31日で活動を終了するCTVCにとって、これが最後の企画行事となる。

震災発生時刻の午後2時46分の黙祷に続いて、菊地大司教司式による追悼・復興祈念ミサが行われた。共同祈願では、岩手、宮城、福島、そして東京からの祈りをCTVCのスタッフが代読した。

終わりの挨拶として、CTVC事務局長の漆原比呂志さんは「CTVCの活動は終わりますが、これからもずっと被災者の方々を思い続け、カリタス南相馬をはじめ、地域のグループを通して関わり続けることができますように」と述べた。

なお、CTVCは活動を終了するが、一般社団法人カリタス南相馬は引き続き活動を継続する。

漆原事務局長による挨拶

共同祈願を捧げるCTVCスタッフ

 

CTIC カトリック東京国際センター通信 第246号

撮影者 フリーライター 室橋裕和氏

“ミャンマー”私たちの姉妹

難民申請者の認定について非常に厳しい判断を行っている日本で、最も多く「難民」として認められているのがミャンマー人だということをどれだけの日本人が知っているでしょう。日本、特に東京には、民主化を求めたために祖国を追われ、難民となったミャンマー国籍の方が多く暮らしています。

2月1日の早朝に起きたクーデターに抗議するデモが、世界で最も早く行われた場所は「東京」でした。当日の午後、約千人のミャンマー人が国連大学前に集まり、強行されたクーデターへの抗議と国際社会や日本政府への協力要請を訴えました。ある女性は骨折した足を引きずりながら、ある男性は勤めていたラーメン店の昼休みを利用して、留学生は授業を抜け出してデモに駆けつけました。

撮影者 フリーライター 室橋裕和氏

「私たちは日本社会の中で不安定で低賃金重労働に耐えながら、祖国のより良い未来を思い描いてきました。そのためにたくさんのことを犠牲にしてきました。今回のクーデターは、その『より良い未来への夢』を叩き壊しました。」2004年に来日し、病院の清掃とレストランの洗い場の仕事を掛け持ちしながら難民認定申請を行い、後に在留資格を付与されたAさんは、涙ぐみながら話してくれました。彼女は、ヤンゴン大学大学院修士課程を修了しています。一緒にレストランの洗い場で働いていたTさんは医学部出身だそうです。少ない収入の中から、福祉制度や文化活動が十分でない祖国のために「ドー・キンチー(アウンサンスーチー氏の母親の名)基金」に寄付を続けていましたが、その基金も国軍に抑えられたとのことでした。

昨年から行っているCTICの「緊急食糧支援」に助けを求めたミャンマー人の多くもそのような人たちです。彼らは、居酒屋をはじめ、寿司、焼き鳥、ラーメン、つけ麺、天ぷら、割烹、もつ鍋、焼肉、イタリアン、フレンチ、洋食と、あらゆる種類の飲食店で働いています。何の準備もないままに祖国を逃れて来た彼らにとって、常に求人のある飲食店の裏方は、日本語ができなくても従事できる都合のいい職場でした。しかし、コロナ禍で打撃を受けたのは、何年たっても、難民に認定された後も、その仕事を「アルバイト」の条件のまま継続させられていた人たちでした。

SNSでミャンマーの青年が日本語で訴えかけています。「私たちは毎日怯える、脅かされる生活には決して戻りたくないです。貧しい教育制度、悪い健康環境に戻りたくないです。海外で安い給料で出稼ぎの仕事はもうしたくないです。ミャンマー人として堂々と誇りを持って生きていきたいです。」

連日、平和的デモと「不服従運動」、そしてそれに対する治安部隊の攻撃の激化が報道されています。ヤンゴンの大司教、チャールズ・ボ枢機卿は信徒に向けて「国民全員に平和と繁栄が戻るよう、和解のための祈りと断食を」と呼びかけました。祖国を追われ、祖国を思いながら厳しい生活に耐えているミャンマーの人が多く住む東京、ミャンマーのカトリック教会と姉妹関係にある東京教区、私たちはその一員として、チャールズ・ボ枢機卿の呼びかけにどのように応えるべきなのでしょう。    

大迫こずえ

 

CTVC カトリック東京ボランティアセンター No.91(最終回)

これからも、思いつづける3.11 ~CTVCの活動終了にあたって~

この3月で東日本大震災から丸10年が経過したことになります。10年前、この未曾有の大災害にあたり、日本カトリック司教団は日本の全教区の力で、10年にわたって被災地支援活動を行うことを決めました。カリタスジャパンには全国・全世界から多額の募金が集まりましたが、それを計画的に使いながら、これらの活動が続けられてきました。

カトリック東京ボランティアセンターは、その中で特に福島県と宮城県南部での活動を担当してきました。首都圏でボランティアを募り、ワゴン車に乗って短期のボランティア活動に出かける「ボラパック」を企画し、何度も実施しました。また福島県南相馬市には全国からのボランティアを受け入れて地域に派遣する「カリタス原町ベース」を設置しました。津波や原発事故の被災地と首都圏をつなぐための発信にも力を入れてきました。

CTVCの活動はこの3月11日にオンラインで行われた「思いつづける3・11~犠牲者・被災者・避難者のために祈るつどい~」をもって終了し、3月末で解散することになりました。これまでボランティアとして参加してくださった皆様、支援物資やお金をお寄せくださった皆様、祈り続けてくださった皆様に心から感謝を申し上げます。

原町ベースは今後も「一般社団法人カリタス南相馬」として、原発事故の影響を今も受け続けている福島県浜通りでの活動を続けます。独立した法人格を有してはいますが、神の愛を生きる教会の本質的な使命を担う「野戦病院としての教会」であります。今後とも東京教区の皆様の支えなしに活動を続けることはできません。コロナが収束したら実際に福島にいらしてください。また賛助会員としてカリタス南相馬を支えてくださることも切にお願い申し上げます。

CTVC責任者 カリタス南相馬代表理事
幸田和生


追悼・復興祈念ミサの後に挨拶するCTVC責任者の幸田和生司教

 

カリタスの家だより 連載 第131回

わが人生に悔いなし

「東京カリタスの家」は、精神障害のある方々の創作やグループ活動の場「みんなの部屋」、何らかの発達障害を持つ子どもたちの放課後等デイサービス「翼」、障害をもつ未就学児とその家族のための「エラン」、相談内容を特定せずにキリスト教精神で一人ひとりに寄り添う「家族福祉相談室」、そしてボランティアの学習や仲間づくりの場「ボランティア開発養成室」の五部門で成り立っています。今回は「家族福祉相談室」を少しばかりですが紹介できたらと思います。

家族福祉相談室ではあらゆる相談を受けます。家事・育児支援、病院付き添い・訪問、公的福祉機関への同行、傾聴など多岐に渡りますが、私たちボランティアは利用者さんとの関わりの中で時折何かを気づかされます。私がいつもよく感じるのは自分の中にある「ステレオタイプ」です。ステレオタイプとはものの見かたや考え方に先入観や思い込みのあることですが、利用者さんと接するときに無意識に陥っていることがよくあります。この方は病気だから、生活困窮だから、人間関係が上手くいっていないから、だからきっと困っている、気持ちが落ち込んでいる、ではこうしたらいいのではないかと解決する方向ばかりに目を向けがちです。しかしながら困難はその方の人生の一部分であってその方の全てではありません。全ての人にはこれまで生きてきた道のりでの感じ方やとらえ方がそれぞれあります。私たちボランティアは前に出過ぎずに、今は立ちつくしている利用者さんの傍らで添え木のように寄り添うことを何よりも大切にしています。

春が近くなると2年前の3月に天国へ召されたTさんのことが思い出されます。3年前の桜の季節に30代前半のTさんが相談申込をされたのは「脳外科の手術をした後で入院中だけど高齢者の多い療養型病院なので話し相手が欲しい」でした。ボランティアは毎週病院訪問をして沢山の話を聴きました。幼稚園はカトリックで先生はシスターだったこと、北海道での大学時代に小さな教会で洗礼を受けたこと、卒業後はいろいろな職業についたけれどどれもしっくりこなくてあらゆる仕事にトライしたこと、やはり自分は美しいものが好きなので30歳でインターネットの店を開き、地方の産地で買い付けた焼き物や食器を販売したことなど……。

私は、Tさんの明るく大きな声を聴きながら「彼はきっと大丈夫。元気になったらまた若者の世界に戻っていくのだろう」と想像していました。でもその想像はすぐに裏切られて、Tさんの容体はだんだんと悪化し次第に体の自由さえも奪いとられていきました。そして広がっていく不自由の部分全てを埋めるように、静かに神様を信頼しゆだねて35年の人生を閉じました。葬儀では誰もが「若すぎた」、「心残りだっただろう」と口にしました。しかし、後日お母さんに「Tさんは余命を知っていたのですか?」とお聞きすると「はい、知っていました。時々私にあたることもあったのですよ。でもいつも最後には『わが人生に悔いなし』と言っていました」と話して下さいました。

Tさんは病気になる少し前、アパートに帰る雨の夜道で拾った子猫をちょっと猫が苦手なお母さんに託しました。きっと今は天国で「ほら、お母さん、僕がいなくても寂しくないでしょ」とほほ笑んでいるような気がします。

家族福祉相談室 ボランティアスタッフ KT

 

特集 証言 ―東日本大震災から10年を迎えて―

東日本大震災・福島第一原発事故から10年。カトリック教会による復興支援活動の歩みは、宗教の垣根を越えて全国から集まった、数え切れないほどのボランティアと活動ベースを支え続けたスタッフ、そしてその地域に暮らす方々による連帯の歩みである。 また、活動の最初期に修道会の垣根を越えてベースを支えてくださったシスターズリレーの働きも忘れることはできない。 この特集では様々な立場で復興支援に関わった5名の方に、それぞれの活動を振り返りながら、現在の想いを語っていただいた。


2012年6月、仙台港近辺の住宅地跡。家屋は全て津波で破壊されたが、残された土台で家の間取りが分かる。そこで暮らしている人がいたことを物語っている。


東日本大震災10年目に想う
杉田紀久子さん◉幼きイエス会

*シスターズリレーのこと
2011年3月11日午後、修道院の8階で集まりをしていた。突然大きな音と揺れが始まり立っていられなくなった。しばらくして、動けるようになって階下の様子を見に走った。後に、東北地方はじめ東日本に壊滅的な被害をもたらした「東日本大震災」と名付けられた大地震であった。

その当時、私は日本女子修道会総長管区長会の会長の任にあったので事務局のSr.桜本(イエスのカリタス修道女会)と連絡を取りながら、被災された方々に何をどうしたらよいかと相談した。しかし、状況がなかなか掴めなかった。仙台で急ぎ立ち上げられたカリタスジャパンのサポートセンターから、「物は送らないでほしい」との連絡は入っていた。「救援物資」の名のもとに、送り手の勝手な想像と都合で、相手には迷惑になるものも多々含まれていることを、私たちもすでに経験していたので、そのことはわかっていたが、それでは何を、どのように……?

このような動きの中、釜石に急行されたSr.原(援助修道会)が夜行バスでの帰り道四谷に立ち寄ってくださり、生々しい状況を報告。「これから1週間、うちの会のシスターが釜石に2~3人留まれるが、そのあと交代しないと無理。どこかやってもらえる修道会はないだろうか」と相談された。前年度の総長管区長会の総会の主たるテーマ「修道会の枠を超えて連帯を」が心に浮かんだ。「今こそその時。1つの会から1人派遣し3つの会が一緒になれば、3人揃う。リレーして、タスキを渡していけば、何かできる。声をかけてみよう!」とSr.桜本と話し、急ぎ「シスターズリレー」と名付けて事務局から、お願い情報を発信。以来、多くの修道会が、祈りとともに人を派遣し、本当に必要な物を分かち合ってくださった。

修道会の枠も、修道院のいつもの生活の枠も超えて、派遣された場所で、「人々と共にいる」「その日を生きる」ささやかな助けを多くのボランティアと共に行った。シスターたちにとって、そのような体験は、「与える」ことよりも、「いただく」ことが多かったことに気づかされた。「肉となってわたしたちの間に宿られた」(ヨハネ福音1:14)方が人々の中におられることを思い起こしている。

*出会い、かかわり、つながっていく。
私自身も、2012年4月から、サバティカルの1年を「カリタス石巻ベース」で、スタッフの一人として滞在することになった。自分にとっては、多くのことが初めての体験であった。それだけに大変さよりも、興味深いこと、いただいたものが多い日々であった。

カリタスのベースではどこでも1日1回は全員で食事をすること、全員で分かち合いをすることが、約束ごとになっていた。ボランティアもスタッフも共にその日の体験を「分かち合い」、互いに「聴く」、そのことが、年齢、性別、国籍、宗教などに関係なく「共同体」の成長と力になっていく。人として新たな出会いとかかわりが始まり、「つながっていく」芽となり、力となっていくと感じた。

「つながっていく」ことは、時空をこえて思い合う、支え合う、祈りあうことができ、「地球家族」への道につながる。「教会」のありかたにも光となる。

石巻ベースで恵まれたことは、改修された家がベースになったときから、町内会の会長さん(女性)(編集部註:6面の小林きよ子さん)が積極的にかかわってくださり、地元の主婦を巻き込み、生活の知恵も分かち合ってもらい、近隣の人々とかかわる道を広げていただいたことである。

震災によって、表に出てこられた外国からの女性たち(日本人男性と結婚)が、無料の日本語教室からの帰りにベースに毎回立ち寄り、お弁当を広げ、共通語は日本語(7〜8か国からの人達)で、子供のこと、家庭の苦しみや悩み、相談事を思い切り話すのを傍で聞き、その生きる姿に頭が下がる思いだった。夕方人が少なくなってから、お婆さんや、お爺さんが、一人でベースに来て、そっと腰を下ろし出されたお茶を飲み、ぽつりぽつりと思いを話される。その姿から「聴くこと」「ともにいること」を少しずつ、教えられた。たくさんの出会いが「つながり」への入り口になっている。

東日本大震災のもう一つのことは福島の原子炉爆発による放射能被災地、被災者のことを思い続けている。放射能の被害、廃炉までの長い道のり、それらをめぐって、傷ついた人々のことなど。

福島で被災した人々の話を聞き、心の傷の深さを感じる。どのようにかかわり、つながっていけるか定かではないが、多くの支援者に私も助けられて、分かち合いを聞かせていただき、つながっていきたいと願っている。

東日本大震災10年目を迎える今、教皇フランシスコが来日された時、東日本大震災被災者との集いの際話された言葉が、響いている。

「食料、衣服、安全な場所といった必需品がなければ、尊厳ある生活を送ることはできません、生活再建を果たすには最低限必要なものがあり、そのために地域コミュニティの支援と援助を受ける必要があるのです。一人で復興できる人はどこにもいません。誰も一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です。……毎日少しずつでも前に進んでください、連帯と相互の献身に基づく未来を築くための一歩です。次の世代のためです。」

このメッセージは、震災からの復興の途上にある私たち、また、新型コロナウイルス感染症に悩み苦しんでいる今、励ましと希望の道しるべになると感じている。

2013年5月、宮城県JR野蒜駅近辺。2年経過しても、津波によって歪められたガードレールはまだ手つかず。震災前、野蒜海水浴場は「駅から歩いて行ける海水浴場」として、夏には大勢の人で賑わっていた。

「助ける」ためではなく「出会う」ため
瀧浦萌さん◉麻布教会信徒:ピアノ講師、声楽家

支援活動との最初の関わりは?

瀧浦 自分はボランティアに行けるような力はないし、それなのに被災地に行ってあちらを困らせてはいけないと考えていました。(音楽家の)自分にできることは音楽しかないと思い、震災後すぐに「コンサートホールを遣わせてください!」と聖心女子大学に掛け合いました。6月にホールの使用許可が下り、7月に自分(ソプラノ)、バリトン、ピアノ伴奏というメンバーでチャリティ・コンサートを開催し、カリタスに寄付をお送りすることができました。

自分も被災地ボランティア活動に参加することになったきっかけは?
瀧浦
 すでに何回かボランティア活動に参加していた教会の友人から「ボランティア活動では、無力な人はいない。誰でも微力にはなれる」と言われました。「誰でもできる」と言われたことが悔しくて、「自分も行っていいのかな。じゃあ行ってみるか」と思い、カリタス米川ベース(現・カリタス南三陸)の活動に申し込みました。2012年7月のことです。

実際に活動に参加した感想は?
瀧浦 1日目から楽しくなりました。私は人とつながることが大好きなので、現地の人とのつながりも、ボランティア同士とのつながりも楽しかったのです。1回目を申し込む時、心がくじけて1回限りにならないように2回目も申し込んでおいたのですが、コロナ禍の直前まで、30回以上参加したと思います。主に1回当たり3日前後の滞在でしたが、高速バスで日帰り参加したこともあります。

カリタスのボランティア以外で被災地との関わりはありますか?
瀧浦 ある時、ボランティアセンターの紹介でイチゴ農家の支援に行ったのですが、その時お手伝いした人で声を掛け合って人を募り、ボランティアセンターとは関係なく、イチゴ栽培の忙しい時期にお手伝いに行くようになりました。泊まりがけでお手伝いしたこともあります。 私は、今年の4月に結婚式を控えているのですが、そのイチゴ農家の姪御さんが映像関係の仕事をなさっていて、姪御さんにプロフィールムービーを作ってもらいました。これも不思議なご縁です。

今、被災地との関わりに思うことは?
瀧浦 自分は「助けに行った」とか「手伝いに行った」とは思っていません。そこで暮らしている方々と、そして一緒に活動する仲間と出会うことが楽しいから何十回も足を運んでいる、それが続いているだけなんですよ。


瀧浦さん。南三陸のイチゴ農家にて

少しでも思いを馳せること
髙橋和也さん◉元カリタス釜石スタッフ・清瀬教会出身

釜石ベースを訪れたきっかけは?
髙橋 
2013年9月、清瀬教会主任司祭だった伊藤淳神父様が「ボランティアに行くぞ」と10名ほどの教会の青年たちに声をかけたのがきっかけです。東日本大震災の被災地のために「何かお手伝いできたらなあ」とぼんやり考えていたので、是非参加してみようと思いました。

どんな活動をしましたか?
髙橋 夏の終わりだったので仮設の草刈りやお茶っこ(※)です。地域の方とお話をして、まだ仮設に住んでいる人がいることを初めて知りました。

その後も繰り返し釜石を訪れたのはなぜですか?

髙橋 仮設での生活を目の当たりにして「これからも何か手伝えたらなあ」と感じていました。そして、復興支援ではボランティアの活動が大切であることに気付き、それが尊い活動だとも感じていました。

その後、長期ボランティアを経てスタッフになったのですね?
髙橋
 はい。腰を据えて「期限を決めないで関わりたい」という気持ちが芽生え、釜石にはトータルで4年半住むことになりました。しかし、深く考えた結果というより、自然なつながりでそのようになったという感じです。

長い活動の中で特に印象に残っていることはありますか?
髙橋 仮設に住む人々の心情が一番印象に残っています。元々、海の人は地元のコミュニティで固まって生活していたのに、震災でバラバラになり、仮設で新たなコミュニティを作らなければならなくなりました。5年くらいギクシャクしていた人もいました。コミュニティ形成は大変ですが、人のつながりは生活する上で欠かせません。そのお手伝いができたことは大きいです。

今、活動を振り返ってみて感じることは?
髙橋 自分が釜石で何かの役に立てたのかは今でも分かりません。しかし、自分自身は、それまでの生活では全く触れ合うことのなかった年代や生活背景人々との出会いを通じて、考え方や価値観の多様性を学ぶ機会を頂きました。

10年経った今、我々がすべきことは?
髙橋 震災のこと、被災地のことをずっと考え続けることは無理です。それでも少しでも思いを馳せること、覚えておくことは大切だと思います。

※東北地方の方言で「お茶のみ話」の意味。釜石に限らずカリタスベースでは、カフェやサロン形式の傾聴活動を「お茶っこ」「お茶っこサロン」と呼んでいる。


髙橋さんと妻の恵美さん(旧姓:今村)。恵美さんも元カリタス釜石事務局長。「活動の後にベースを離れて内陸に食事に行く時、いつも一緒だった」のがなれそめとのこと。


無人の司祭館からの出発
神山泉心 さん◉元カリタス米川ベース・石巻ベーススタッフ 曹洞宗僧侶

ボランティアに参加したきっかけは?
神山 東日本大震災が発生した時、丁度1ヶ月ほどのヨーロッパ旅行から帰国した直後で、自由に動ける状態だったので、すぐにボランティアに参加しようと思いました。当時(3月中旬)はまだカリタスしかボランティアを募集していなかったし、旅行でテゼやアシジなどの巡礼地を訪れていたので、教会がやっている活動に興味もありました。

当初はどのような活動をしましたか?
神山 最初に派遣されたのは宮城県塩竈市でした。ベース内の仕事をする人が不足していたので、到着するボランティア人数の管理など、内勤をしていました。しばらくしてから自分も外での活動に参加するようになりました。

その後は?
神山
 塩竃を離れた後は宮城県気仙沼市で他団体の活動に参加していましたが、カリタスが南三陸にベースを作るという話を聞き、またカリタスに戻ってきました。最初は長期ボランティアという形で米川ベース(現・カリタス南三陸)の立ち上げに関わり、しばらく後にスタッフになりました。その後、石巻ベースに移りました。

米川ベース立ち上げ時の様子を教えてください。
神山 (宮城県の)カトリック米川教会に、誰も住んでいない司祭館があったので、最初はそこをベースにして活動が始まりました。スタッフと長期ボラを合わせて3~4人での出発です。やがて、地元の人に声をかけられて公民館を紹介していただき、そこにベースを移転しました。子どもたちの習字教室が開かれる曜日もあったので、日程を摺り合わせながら部屋を使っていました。


初代米川ベースとして使われた、米川教会の司祭館

スタッフとしてどのような活動に関わりましたか。
神山 避難所でも仮設でもベースのオープンスペースでも、私の活動のメインは「お茶っこ」でした。家族や友人や慣れ親しんだ風景を失う悲しみ、海と共に生きていく喜び、地域社会の中での助け合いなど、たくさんのことを教えていただきました。出会った被災者の方の多くは家族や親しい人を亡くしています。被災していない自分ができるのは、「ただ話を聴くこと」でした。私は亡くなった方々にはお会いしたことがないのに、会ったことがあるような、知り合いだったような不思議な感覚でした。自分の中でそんな方が増えていき、その方々がいないと思うと悲しいのですが、生きていたということを知れるのは嬉しくもありました。

今当時を振り返って思うことは?
神山 
自分の中では過去のことだとは感じられません。私にとって大切な場所になった土地と人々に出会えたことに感謝しています。私は2015年に僧侶になり、毎朝お経をあげていますが、その時に、いつも亡くなった方々のことを想います。

真冬の米川ベース早朝。自動車の窓に付いた霜の結晶。この直後、ボランティアを乗せて活動に向かう。

楽しく助け合うことが大切
小林きよ子さん◉元カリタス石巻ベース調理スタッフ 宮城県石巻市在住

2011年3月11日当日は何をしていましたか?
小林 その日は友達と(シャンソン歌手の)クミコさんのコンサートを聴きに行く予定があり、そこで食べるためのお菓子を買いに行っていました(このお菓子が後に貴重な食料になりました)。帰り道の車の中で地震を体験しました。一度家に帰った後、コンビニに水や食料を買いに行きました。車から降りた瞬間津波がやって来たのですが、我が家は高台にあったので10 cmほどの浸水で済みました。

その後しばらくはどのような生活でしたか?
小林 避難所で息子が夫の兄弟と偶然出会ったことがきっかけになって、夫の親戚が何人も我が家に避難してきました。私の家は3世帯の7人家族なのですが、1ヶ月間ほど、多い時で16~7人が一つ屋根の下に暮らしていました。初めて会う人もいましたが、「こんな時はお互い様」なので苦にはなりませんでした。 水は近所に井戸があったので、毎日そこに汲みに行きました。ロウソクは仏壇のものを使い、皆で明るくしてご飯を食べました。 支援物資が届いた時は、拡声器で「物資が来ました」と近所に触れ回ったり、一人暮らしのお年寄りに物資を届けたりしました。 (地酒で有名な)「日髙見」の酒蔵が酒造り用の米を使って炊き出しをしてくれて、私の家に避難していた甥の妻がそれを持ってきてくれたのを覚えています。貴重な「白いきれいなご飯」でした。

カリタスで調理スタッフを始めたきっかけは?
小林 カリタス石巻がオープンして「お茶飲みに来てください」という看板が掛けられていたのでまずは話を聞きに行きました。そこで杉田さんと出会い「ボランティアのためのまかないをしてくれる人はいませんか」と尋ねられたので、友達を5人位集めてお手伝いすることにしました。ご飯を作るだけではなく、男性のスタッフを連れて、一人暮らしの男性の様子を見に行くこともありました。ボランティアさんと一緒に川開きやお祭りを楽しんだこともいい思い出です。

現在の石巻は?
小林
 復興工事は全然終わっていません。「まだまだ」という感じです。ボランティアさんたちと楽しんだ行事もコロナで中止になっているのが寂しいです。震災の時も今も、皆で「楽しく」助け合うことが一番大切だと思っています。 今取り組んでいることは? 小林 この辺りは一方通行が多く、バス停の遠くに住んでいるお年寄りも多いので、カーシェアリングを始めました。会員は約90名、会員の中から5名ほどがボランティアで運転手をしています。私も運転しています。買い物も玄関先までお届けしますし、乗り合いタクシーよりも安くて便利ですよ!


カリタス石巻ベースの掲示板。「どなたでもご自由にお入りください。一休み、おしゃべりなどに」と書かれている。ここで多くの出会いが生まれた。

 


2011年3月18日、塩竃港近辺

 

2011年7月、宮城県南三陸町沿岸部。米川ベース立ち上げからしばらくの間、ガレキの山を撤去し続けた。

知っていますか?私たちの「信仰」を?

改めて、教区主催の入門講座を開催する意味と実践について
東京大司教区 生涯養成委員会担当司祭 猪熊太郎

日曜日の夕方になると、誰もいなくなった聖堂と信徒館の部屋を回るのが常でした。点けっぱなしの電気を消し、流しっぱなしのトイレの蛇口を閉め、教会の正門や聖堂、各所の施錠をする。その後、ようやく、遅い夕食をとったものです。

長い間、小教区の主任司祭は「何でも屋」であることが求められてきたと思います。

秘跡の執行者として、その役割を果たすことはもちろん、司牧者としては、所属信徒の皆さんの信仰生活を支えるために、活動場所となる教会施設を整え、財政を管理し、また、教会行政の担い手としては、結婚や、転出・転入する方々の書類を作るなど、すべきことは山のようにあるのですが、それらの多くを主任司祭たちが担ってきたのです。

同様に、信仰を求め、勇気を出して教会の門を叩き、尋ねて来られた方々のために、入門講座を担当してきたのも、主に司祭たちでした。特に、そんなに規模の大きくない、しかも、あまり、交通の便の良くない教会では、主任司祭たちが、長年、入門講座を担当して来たのです。

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ところが、時代は大きく変わってしまいました。

一つの教会に一人の主任司祭が常駐している時代は、終わってしまったからです。

教会によっては、ミサのある時にしか、門を開けていない教会もあると聞いていますが、信徒の皆さんの努力によって、日中だけは、教会の門と聖堂を開けている場合もあるとのこと。しかし、そんな場合でも、司祭館には誰もいないのです。信仰を求めて来た訳ではない。しかし、ちょっと、聞きたいことがある。そんな場合にも、誰一人、人がいない…。そんな教会が増えてきています。

一人の司祭が複数の教会を担当する時代。地方の教区だけではなく、首都圏の教区においても、既にそうなっています。私たちは、そのような時代に信仰を生きています。 さて、それでも、信仰を求めておられる方々は、ミサのある日に、あるいは、司祭が滞在している日に合わせ、教会を尋ねて来られます。そのような方々のために、今、何が必要となるのでしょうか?

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東京大司教区の生涯養成委員会が、教区主催の入門講座を開催するために、まず、考えたことは、以下の二つでした。

ひとつ目。主任司祭が不在でも、教会を尋ねてくる人々を受け止め、対応する信徒たちのグループが必要だということ(「案内係」「ウェルカム・テーブル」など、教会によって、その呼び方はいろいろあります)。そのグループ作りを皆さんに促していく必要がありました。

このグループがあれば、興味本位で教会を見学に来ただけなのか、信仰を求めているが、どうしたら良いのか分からない人なのか、それぞれの人に対応することができます。そのうえで、信仰を求めている人には、受洗に至る手順を説明したりすることになります。

ふたつ目。主任司祭が複数の教会を担当し、日曜日だけではなく、週日も不在であるような場合、定期的に、その教会で、入門講座を開催することは、ほぼ不可能になります。その時、教区内にある幾つかの教会を尋ねれば、何時でも、確実に入門講座を受けられるよう、拠点の教会を準備することでした。

もちろん、司祭不在でも入門講座を受けられるよう、拠点の教会を準備するためには、それらの教会で、常に講座を担当するカテキスタたちを、まず、養成する必要があります。そこで、「教区カテキスタ養成講座」を開始しました。これには、嬉しいことに、コロナ禍の真っ只中ですが、今年の9月には、第3・4期となる「教区カテキスタ養成講座」が開催されるなど、毎年、新たなカテキスタたちの養成が続けられています。彼らが、将来、チームを作って、それぞれの拠点となる教会に派遣されていきます。

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あくまでも、今のままの状態が続くと仮定しての話ですが、10年後の教区司祭の数は、特に、教会を担当できる司祭の数は、大幅に減っていると予想されています。ある試算では、現役の東京大司教区の教区司祭の数は、今の半分から3分の1くらいになっていると言われているくらいです。

このようなことを申し上げるとすぐ、「いくら司祭数が足りないといっても、うちの教会は大きいし、必ず、司祭が派遣されてくるから大丈夫」「修道会や宣教会が担当している教会には、神父様たちが何時でも、数人、必ずいらっしゃるから大丈夫」と思うのは大間違いです。今、大きな修道会や宣教会ですら、新たな司祭の手配がつかず、全国規模で、あちらこちらの教会からの撤退が始まっているのですから。

信仰は継承してくものです。しかも、共同体として継承していくもの。

リモートでは、決して、伝えることのできない、生きた人と人とが出会い、その中で育まれていくもの。そのような信仰の継承の責任は、他でもない、今を生きている私たちにあります。他の誰かがやってくれるわけではありません。主任司祭たちだけではなく、只今、現在、教会の仲間たち全員に委ねられているのです。

時代は変わります。仕組みも変わります。だからこそ、次なる10年を具体的に考えています。

信仰を求め、勇気を出して教会の門を叩き、尋ねて来られる方々は、どのような時代になっても、必ず、おられます。その方々を迎え入れ、将来、「共に」信仰の道を歩むことができるよう、同伴者となっていく。そのための共同体の大きな役割。その役割を果たしていくために、今改めて、教区主催の入門講座を開催することには意味があり、また、それを具体化していくために、実践にうつすことが、私たちには求められているのです。

どうか、皆さんのお祈りと御協力をお願いします。

ヨセフ年特別企画 東京教区のヨセフ像

先月から募集を開始した「東京教区のヨセフ像」、最初にご紹介するのは本所教会のヨセフ像。 「1951年聖堂が建てられた時に、一緒に安置されたものと思われます。一部修正してありますが、当時のままだと思います」(本所教会信徒)とのこと。

ヨセフ像の写真募集します!

「ヨセフ年」を記念して、東京教区の教会や修道院にあるヨセフ像の写真を募集いたします(個人所有は含みません)。その像が制作・設置された由来や像にまつわるエピソードの文章を添えて、教区本部事務局広報部宛に郵送かEメールで写真をお寄せください。お送りいただいた写真と文章は教区ニュースと教区ウェブサイトでご紹介いたします。沢山のご応募お待ちしています!

送付先 郵送:〒112-0014     
       東京都文京区関口3-16-15
       カトリック東京教区事務局広報部  
       E-Mail 
※メール添付の場合、ファイル形式は問いませんが、 できる限りサイズの大きな写真を添付してください。

編集後記

この10年、私たちは多くの別れを経験した。同時に、多くの出会いが生まれた歩みでもあった。当たり前を超えたところで生まれた出会いが、やがて新たな当たり前となっていく。私たちが誰かと出会う時、その人の心に住まうイエスとも出会っている。人との出会いの数だけ、イエスとの出会いがある。復活されたイエスとの出会いによって、私たちもまた、復活へと導かれる。皆様がよい復活祭を迎えられますように。(Y)