お知らせ
東京教区ニュース第379号
2021年01月06日
目次
東京教区の皆様、主の降誕と新年のお祝いを申し上げます。
大司教 タルチシオ 菊地 功
新しい年がはじまりましたが、今年はなんとなく、いつもとは様子が異なるクリスマスと年末年始になりました。昨年初めから今に至るまで続いている新型コロナ感染症は、未だにその実体についてさまざまな意見が表明されており、教会としても対応に苦慮しています。アジアの国々は欧米とは状況が異なっているのは事実ですが、その理由は判明しておらず、実際に世界では多くの方が生命の危機に直面しています。ですから、慎重な道を選択せざるを得ません。
昨年一年は、教会においての活動の自粛や、4ヶ月にわたるミサの公開停止など、特に霊的生活において、忍耐を必要とする年でした。皆様それぞれの、信仰における積み重ねがあり、ご理解いただくことが難しい制約も多々あったことを、大変申し訳なく思っています。同時に、この試練の時にあって、互いへの思いやりの心をもってご協力いただいた多くの方々の寛容と忍耐に、心から感謝申し上げます。いま、わたしたちの信仰が試されています。
新しい年の初めという新鮮な気持ちとなる時期であるにもかかわらず、はっきりしたことが分からないために、闇の中を彷徨い続けているような気持ちがいたします。いま、暗闇に輝く光が必要です。誕生した幼子のように、闇に佇む民に救いへの希望の道を示す、光が必要です。
教会は、人となられた「神の言」が暗闇に光として輝くように、その光を暗闇の中であかしする存在でありたいと思います。この光は、生命の希望をもたらす光です。互いに連帯を強め、主イエスのいつくしみの心に倣い、互いを思いやり助け合う具体的な言葉と行いが、生命を守っていきます。誕生した幼子が、一人孤立するのではなく聖家族によって守られ育まれたように、社会にあって孤独のうちに孤立し、危機に直面する生命を、わたしたちは家族として守り育まなくてはなりません。いのちを守る福音を、これまで以上にあかししていきたいと思います。
東京教区の大司教として着座して以来、昨年末12月16日で、3年が経過しました。9月には新潟教区に成井大介司教が誕生し、わたしは使徒座管理者の務めを終えました。
この3年の間、教区の多くの方々からお寄せいただいた意見をもとに検討を重ね、宣教司牧方針を定める作業を続けてきました。この作業は、一昨年の教皇訪日と、昨年のコロナ禍で、予定されていたタイムフレームより大幅に遅れてしまったのですが、このたびなんとか形にすることが出来ました。間もなく、小冊子やホームページ上で公開することになりました。ご協力いただいた多くの皆様と、作業チームの皆様に感謝いたします。
想定されていたものよりも、短く簡単なものと思われるやも知れません。皆様からいただいたご多数のご意見からも、東京教区の幅広い多様性を認識させられました。当初の段階で70通を超えるご意見をいただいています。これらについては、今回だけでなく、今後も長期にわたって、具体的な行動計画を検討するために参考にさせていただきたいと思います。
すべてのご意見を反映して事細かな指針を定めるよりも、教区全体の宣教司牧方針は大枠だけを提示して、それに基づいてそれぞれのユニークさを抱える現場で具体的な適応を話し合っていただくことがふさわしいと考えました。多くの皆様から、それぞれの信仰体験に基づくさまざまな提案があり、時に詳細かつ具体的な提案もありました。それらがすべて含まれていないのは、さまざまな可能性を排除することなく、豊かに発展させることが出来るようにするためです。大枠に基づいて今後、それぞれの小教区などの現場で皆様の話し合いが継続し、具体的な行動に繋がっていくことを期待しております。
宣教司牧方針には、次の三つの大きな柱を定めました。
①宣教する共同体
②交わりの共同体
③すべてのいのちを大切に する共同体
「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(『マタイによる福音書』28章20節)。弟子たちを派遣なさった主イエス・キリストのこのことばに信頼をおきたいと思います。これは、主の約束のことばであり、波高く漕ぎ悩むわたしたちの教会を力づけるいのちのことばでもあります。東京大司教区の宣教司牧方針の三つの柱は、変動するこの世にあって、わたしたちがこころを合わせて向かっていく方向を示しています。そして、互いに関連しあっています。「宣教する共同体」は「義人アベルから最後に選ばれた人に至るまで」ご自分のもとへと集めようとなさる天の御父の救いの想いを反映しています(『教会憲章』2参照)。「交わりの共同体」は神と人、人と人の和解のために十字架へとつけられた御子の生きる姿を写し出します。「すべてのいのちを大切する共同体」は「主であり、いのちの与え主」(『ニケア・コンスタンチノープル信条』参照)である聖霊の働きによって成立します。ですから、この宣教司牧方針は三位一体の神のお姿をこの世にあらわしていくものなのです。
皆さん、歩みを共にしながら、「宣教する共同体」、「交わりの共同体」、「すべてのいのちを大切にする共同体」をつくり育んでまいりましょう。 教皇様は先日発表された三つ目となる回勅「Fratelli tutti」において、「個人の日常的関係、社会、政治、公共制度において、より正しく兄弟的な世界を築きたい人にとって、大きな理想であると共に具体的に実行可能な道とは何か」という問いに回答を見いだそうとしておられます(バチカンニュースより)。その中で、教皇は今回のコロナ禍に触れて、「わたしがこの文書を準備している最中に、思いがけない形で飛び込んできた」と記し、これによってもたらされたいのちの危機は、「誰も一人で自分を救えない」こと、そして、「わたしたち皆が兄弟」として「ただ一つの人類として夢見る」べき時がついにやって来たことを示した、と記されています(7-8)。
今求められているのは、兄弟姉妹としての愛のうちに互いに尊重し合い支え合う家族を生み出そうと努力することです。東京教区の教会共同体が、存在を持ってそのあかしとなることを願っています。
昨年10月のホルヘ神父様の叙階に続いて、今春も司祭叙階が見込まれています。また新たに神学院に入学する方もおられます。主のぶどう畑の働き手である司祭の召命のために、お祈りください。また教区にあって、福音を徹底的に生きる姿の模範を示し、霊的な土台を築いてくださる奉献生活者(男女修道者)の召命のためにも、お祈りをお願いいたします。
感染症の状況次第では、今年も教区関連の行事に大きな変更の可能性があります。黙想会、研修会、会議といった多数が集まる機会を制約せざるを得ないかも知れません。集まることが難しいなかにあっても、一つのキリストの体に結ばれている兄弟姉妹の共同体であることにあらためて思いを馳せ、同じ信仰において祈りをともにする中で、霊的な絆を再確認したいと思います。どのような状況にあっても、主は世の終わりまで、いつもわたしたちと共にいてくださいます。
新しい年のはじめにあたり、東京教区の皆様の上に、いつくしみ深い神の豊かな祝福があるように祈ります。†
教皇訪日一周年記念ミサ
2020年12月9日、髙見三明大司教(長崎大司教・日本カトリック司教協議会会長)司式による「教皇訪日一周年記念ミサ」が麹町教会にて行われた。ミサの説教は菊地功大司教。
説教の中で菊地大司教が「喜びにあふれて教皇様を迎える多くの人の笑顔を目にしたとき、福音の喜びが日本の教会で新しく何かを芽生えさせるに違いないと確信しました。ですから訪日後しばらくは、その興奮をどのように生かしていくのか、さまざまに思いを巡らしておりました。ところが、その後は、皆さんよくご存じの通りであります。年が明けてすぐ、世界は新型コロナウィルス感染症に襲われ、今に至るまで続いているいのちの危機が始まりました。教皇訪日をどのように生かし発展させるのかという視点は、あっという間に飛び散ってしまいました。」と述べたように、私たちはコロナ禍における生活の中で、フランシスコ教皇訪日という恵みを生かし切れていないのではないだろうか。
しかし、「すべてのいのちを守るため」という教皇訪日のテーマ、そして東京ドームミサで教会に「野戦病院であること」を求めた教皇の言葉は、今だからこそより力強く響くのではないだろうか。。教皇来日とそれに続くコロナ禍。この二つの出来事の連続性が持つ意味を、私たちは祈りのうちに問い直すべきではないだろうか。
CTIC カトリック東京国際センター通信 第244号
5大陸のロザリオ
昨年、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大を受けて、予定されていた東京オリンピック・パラリンピックは行われませんでした。大会期間中に東京教区でも、世界中からの訪問者たちを招き平和のための祈りの集い行うことになっていました。この集いはコロナ禍にあって形を変え、7月に麹町聖イグナチオ教会で菊地大司教の司式のもと実現しました。
集いの趣旨は世界中の新型コロナウイルス感染終息を願ってとなりました。一般の参加者が聖堂に集まることはできませんでしたが、ネットで配信されましたのでオンラインで参加された方もいらっしゃると思います。この時に登場したのが5大陸のロザリオです。ロザリオの各連の珠が、黄、青、白、赤、緑になっていて、それぞれがアジア、オセアニア、ヨーロッパ、アメリカ、アフリカの各大陸を表しているそうです。グアダルペ宣教会のマルコ神父様のご発案で、中央部分には東京2020の独自のロゴと、カテドラル構内のルルドのマリア像の写真が付いている特別なものです。教区ではオリンピック・パラリンピックで東京を訪れる人のために5千個を用意していたそうです。
このロザリオを、CTICに来所される方に紹介したところ、フィリピンの人々を中心に結構気に入ってくださいました。口コミなどのおかげで、CTICを通してだけで、現時点で約千個が皆さんの手に渡りました。フィリピンの人たちは、自分のためにも一つ持ち、友達にあげたり、コロナが終息して帰省できるようになった時のお土産用にしたりと、いくつもお求めになりました。
このことを通してフィリピンの人がロザリオとどのように親しんでいるのかに触れることができたように感じます。日本人でも長く信者をやっていれば、色々な機会にもらうこともあり、複数のロザリオを持っているでしょう。私もいくつか持っています。しかし、普段使うものは一つで、他のものは一つの場所にしまってあります。しかしフィリピン人信者は、いつでもどこでもすぐに祈ることが出来るように、各部屋、各バッグの中など色々な所にロザリオを置いておくことが珍しくないそうです。また、ロザリオは祈りを数えるためだけではなく、それを手にするだけで、いつでもどこでも神様を思い起こし、神様への信仰やロザリオでの祈り方を自分に伝えてくれた家族(多くの場合は母親)を思い起こすことができると話してくれた人もいました。
大きなスポーツイベントがなくても、日本の社会、そして教会にはすでに5大陸からの人々が集っています。私たちがロザリオのように互いにつながり、神様の恵みのしるしとなることができますように祈りたいと思います。 なお、5大陸のロザリオはあと3千個しか残っていないそうです。ご興味あるかたはお早めに教区本部にお問合せください。
高木健次 東京教区司祭
CTVC カトリック東京ボランティアセンター No.89
「医療の現場に立ち続けて」 講演会「福島から語る」
小野田克子さん(南相馬市立総合病院看護部長) 11月7日オンライン配信
2011年3月の東日本大震災と福島第1原発事故で被災した福島県南相馬市において、発災時から現在まで医療の現場に立ち続けている看護師の小野田克子さんから、幸田司教との対談形式でお話を聴きました。
地震への恐怖、津波による自然の威力への脅威、そして第一原子力発電所の事故により放射能被害がもたらされる状況の中で、最も大きかった体験は、「自分の命も含め、そこから何より大事な命が失われるかもしれないという感情を体験したこと」だと語られます。
原発事故直後から、高い放射線濃度のため次々と避難してくる患者たちの姿、食糧が3日間分しかない状況、屋内退避区域だったために物資が入らず、救急車も入れないなどの、放射能に起因する様々な問題を毎日突き付けられました。孤立無援状態の恐怖の中で、医療従事者たちが疲弊していくという、大変厳しい状況が続きました。
小野田さんの看護観はずっと、「患者に寄り添う看護」です。寄り添うとは、その人がその人らしくいられるためのお手伝いをしたり支援することで、それを看護という専門職として行いたいという思いです。
現在はコロナウィルス感染拡大の不安もありますが、「震災のときには自分が避難したから、今度は私が率先してやります」と名乗りでてくれるスタッフもいらっしゃるそうです。
小野田さんは「生きる」ことを「生ききる」と表現します。いつなんどき、どうなるかわからない体験をしたので、「自分はこれで生ききっている」と感じたいし、出会う人々にも生ききって欲しいと願っているのです。
視聴者の方々からは「非常事態にあって現場で模範を示してくださる小野田さんは、まさに福島のナイチンゲールだと感じました」、「このコロナ禍において、改めて大震災を振り返ることの意味を感じました」などの感想をいただきました。ご視聴ありがとうございました。
次回のオンライン講演会は2021年1月23日(土)14時から、元いわき市漁業協同組合の吉田和則さんの講演です。ぜひご参加ください。 (詳細はCTVCホームページでお知らせいたします)
事務局 漆原比呂志
※今回の講演会の動画はこちらからご覧いただけます。
カリタスの家だより 連載 第129回
ボランティア人(びと) —コロナ禍のなかで考える—
「もし愛があるならば、その先にあるのは何?」(If love, then what?)。これはオックスフォード英語大辞典誕生の秘話を描いた映画『博士と狂人』(2019年)のなかに出てくるセリフだ。答は、やっぱり「愛」……。 その神髄は、東京カリタスの家においても同じだ。新型コロナ禍の蔓延する不安、陰気、そして暗い森という厳しい現実が、年が明けてもまだまだ消え去らないのが昨今だ。反面、「苦難の出来事の奥には神さまがおられる」とする高邁な形而上学的見方もある。私は、後者を素直に受け入れるほどの聖人にはほど遠い存在だが、しかしそれでも、気持ちのどこかでそれを信じていることも確かだ。
東京カリタスの家では、依然として本来の活動が一部制限されているが、しかしボランティア精神の灯まで消えてしまったわけではない。むしろこの期間は、冷静・沈着に今までの活動を振り返り、新たな飛躍へと変化できうるタイミングかもしれない。どんな苦難も変化のひとつとしてとらえる「大らかさ」、それが今試されている、と私は考えている。
こうした文脈のなかから、カリタスでボランティアに深くかかわってきた人たちにほぼ共通する「人間像」、転じて、そこから奉仕活動にかかわる人たち一般の「理想像」とでもいったものが、思わず浮かびあがってきた。もっとも、それらがカリタスの家に完全にあてはまるかどうかはわからないが、それでも奉仕活動に従事する人たちの共通項として、おそらくは次の傾向があるように思われる。
その第一は、彼女ら・彼らが、金銭や名誉欲・実利主義などから絶対的に解放されている人たち、ということだ。無償性を基調としつつ、いささか過剰賛美かもしれないが、そこにいるのは「周囲に平和の種を蒔くこと」(教皇フランシスコ)に喜びを見出す人たちのようだ。だが昔、それと逆行するように、関西のある女子大学生が、こんな質問をしてきたのを聞いてギョッとした経験がある。「ボランティアやって、ナンボ?」。こうした思考態度とまったく対極にあるのが、ボランティアの活動原理の筈なのだが……。
第二は、他人の痛み・苦しみ・悲しみを、あたかもわが身のことのように受け入れる包容力ある人たち、ということだ。もちろん程度の差はあるのだが、総じて、彼女ら・彼らはボランティア活動を通して、すこしでも意義ある人生を見出すよう手助けをしている、しかもそのための意思と行動力、それがそなわっている人たちのようだ。とりわけ経験豊かな人に、それが顕著だなと感じている。
そして第三は、ちょっと面白い現象なのだが、ボランティアにかかわる人たちの多くには、自由闊達な陽気さ、そして喜びと安心を伝える心情が窺われる、という点だ。ボランティアをする人で、高慢で虚栄心に満ち、また半分死んだように悲しげで不愛想な人に、私はかって一度も会ったことがない。同時に、この人たちが、単なる人間知を超えた、普遍的な「愛」の精神を心のどこかに抱いている、との印象を受けるのも不思議なことだ。
これにユーモア精神が加われば、もう文句無しである。
ボランティア 竹中 豊
知っていますか?私たちの「信仰」を?
「共に歩む信仰の旅─同伴者イエスと共に─」
カテキスタ第3期生 受講生の声
カテキスタ養成講座に参加した理由は…
受講生 麹町教会 重田佳明
この度、東京教区カテキスタ養成講座を、第3期生として受講することになりました、麹町教会所属、フランシスコ・アシジ重田佳明と申します。私が、このカテキスタ養成講座に参加することを決めた理由を、皆さまと、わかち合いたいと思います。
私は、現在、霊性センターせせらぎで、黙想の同伴者の奉仕をさせてもらっています。
特に、東京都清瀬市にある清瀬教会には、1年に4回の1日祈り集いの黙想の同伴者として、お手伝いをさせてもらっています。参加者は、主に、清瀬教会の信徒さんです。信徒さんの黙想、祈りのお話しを聞いて、時には助言、アドバイスをしたりします。自分の話しに責任をもって助言をしている中で、これは、自分勝手な解釈での話しではないのか、教会の教えとは違わないかという気持ちにもなったりします。また、自分の話しを伝えることの難しさを実感することもあります。
そんな時に、清瀬教会で、このカテキスタ養成講座のチラシが偶然、目に止まりました。自分の所属している教会にも貼ってあったのですが、清瀬教会のチラシに何故か目が止まりました。
私が信徒さんの同伴をしていて感じた疑問、戸惑いに、何か光を見出せるのではと感じました。このカテキスタ養成講座を通して、自分の信仰を見つめ直し、勉強し、そして、受講する方との関わりの中で、自分の信仰が深められるかなと思いました。
それから、このカテキスタ養成講座に興味をもち、どのような講座なのかを調べ、時には、受講した知り合いの方に講座の内容を聞きました。カテキスタ養成講座を知れば知るほど、この講座は、単なる受け身な座学ではないこと、積極的に参加し、自分が信仰講座を受け持った時の模擬講座を行うということを知りました。
しかし、キリスト教を知らない人に、信仰を伝えるということは、大変難しいことだと感じ、このカテキスタ養成講座に、大変、不安と怖れを感じていました。またさらに、土曜日の隔週の講座ではあるにしても、突然の人事異動で土曜日が仕事になったら等を考え、1年間の講座に果たして参加できるのかという不安もありました(原稿を書いている11月現在、10月の人事異動で土曜日が半日、仕事になりました)。参加を決めようと思ったところから、いろいろな心配、不安、戸惑いが起きてきました。
そんな時に、コロナ感染の拡大の影響で教会は閉じられ、公開ミサは中止となりました。私は、大司教様のミサをインターネットで見るようになりました。毎回のミサをパソコンから見る中で、私の内なる声の響きを感じました。 「キリストのために働きたい。キリストを伝える人になりたい。」という内なる心の声の響きを感じたのです。
これは、配信された、1回のミサだけで感じたのではなく、毎回のミサで感じ、ミサの回を追うごとに、その内なる心の声は強くなりました。その内なる心の響きによって、カテキスタ養成講座に参加することの不安、心配、迷いが吹き飛ぶような感じがしました。
そして、参加を決心しました。
パソコンからの司教様のミサは素晴らしく、このように私の心を動かすということは、大変、不思議な体験でもあり、とても大きな恵みでした。
参加にあたって、所属教会である麴町教会、主任神父の英神父様には、コロナ渦で、麹町教会のコロナ感染に関しての対応のことで大変忙しい中、推薦状を書いてくださり、この講座に送り出してくださったことに、とても感謝しています。この場を借りてお礼を言いたいです。ありがとうございました。
そして、最後に。
20数年前に一緒に生活をし、祈り、神学を勉強した友人に、御受難修道会の松本神父さんがいます。松本神父さんは2016年に、43歳という若さで病気のため帰天されました。松本神父さんが伝えたかったイエス様を、少しでも僕が、カテキスタとしての奉仕を通して、伝えることが出来るようになれればと思っています。
これから、いろいろな試練や大変さがあると思いますが、イエス様が共におられることを忘れず、このカテキスタ養成講座を受講していきたいと思います。 受講する第3期生たちのためにも祈ってください。
よろしくお願いします。
今度は何を……
受講生 三河島教会 髙橋早苗
イエス・キリストの御降誕、おめでとうございます。
新型ウイルスにより、それぞれの教会で、様々な活動が休止や終了となっておりますが、私の所属する三河島教会でも同様です。
初金10時のミサと聖書会に参加し、主任司祭から多くのことを学ばせていただき、お仲間たちと交流できたことが懐かしい思い出になってしまうのはとても残念なことです。
実は、受難の主日が近づいた最後の聖書会の後に、この「カテキスタ養成講座」のお話をいただき、許可をもらうために家にパンフレットを持ち帰りました。わが家の主人も、月一回の聖書会のみ参加していて、司祭のお声掛けはいただきましたが、心の奥の鍵は固くかかったままで、25年前のわたしの受洗から…今に至るまで、今度は何を始めるのか…? と呆れながらも見守ってくれることに感謝です。
申し込みをした数か月後、参加決定のお知らせと年間のスケジュールをいただき、10月から受講が始まっておりますが、御言葉を伝えることの難しさに直面し、既に、何度も後ろ向きになりかけています。
しかしながら、この困難な時期に担当してくださる神父様と準備してくださる先輩方、別々の教会から集められた新しいお仲間たちに背を押していただいています。
何時も、何処までも私たちをお招きくださるイエス・キリストと共に、神の国を目指し、喜び悩みつつ、一歩一歩を進んでまいります。
どうぞよろしくお願いします。
◉カテキスタ 各チーム連絡先◉
講座に関するお問い合わせなどは、以下の各チーム宛メールやTwitterDMでお願いします。
チーム 葛西 ▶︎ Twitter:catechist_ks メール:
チーム 関口 ▶ Twitter:catechist_sg メール:
チーム 関町 ▶ Twitter:catechist_sm メール:
チーム 西千葉 ▶ Twitter:catechist_nc メール:
チーム 松戸 ▶ Twitter:catechist_md メール:
チーム 松原 ▶Twitter: catechist_mb メール:
入門講座に参加するには、どうしたらいいの?
Q 洗礼を受けたくて、教会に通い始めましたが、ある信者さんから、「そのためには、入門講座を受けて、準備をする必要がある」と言われました。でも、私が通っている教会の神父様は、他の教会も担当なさっていて、私は神父様と準備をする時間を合わせることが、どうしても、できません。どうしたら良いでしょうか?
A そのような方のために、東京大司教区が主催する「入門講座」があります。この講座は、洗礼を受けることを望んでいるにも関わらず、学業や仕事の関係、あるいは、司祭との定期的な講座の時間が持てないなど、準備が困難な状況にある方々が、他の指定された教会で定期的に開催されている講座に出席することで、洗礼の準備をするものです。 以下のような準備をすれば、誰でも参加可能です。
⑴将来、洗礼を受け、所属することになる教会は決まっていますか?その教会の礼拝に参加したり、教会の人々に会ったことはありますか?
▼信仰は、仲間と共に育むものですから、自分で本を読んだだけでは、洗礼を受ける準備にはなりません。具体的な人々との出会いの中で信仰は伝えられていきます。まずは、将来、洗礼を受け、仲間となって所属することになる教会を決めましょう、そして、実際に、そこに通ってみましょう!
⑵日々の生活の中で、どうやって準備をすればいいの?
▼通い始めた教会で洗礼を受けるための準備ができるなら問題はありませんが、講座自体がない、あるいは、定期的な講座に通うことができない場合もあるでしょう。コロナによる感染拡大が終息する頃、教区HPに指定教会ごとの「入門講座」の日程表一覧が掲載されます。まずは、それを見て、自分が通いやすい教会の講座を見つけます。
▼次に、後日、教区HPにアップされる「推薦状」をダウンロードし、通い始めた教会の神父様に挨拶して「推薦状」を書いてもらいましょう。そして、日程表にあるオリエンテーションに参加して、講座に通い始めることになります。
⑶どのくらいの期間、準備をすることが必要なの?
▼どの講座も、基本的に1年間の準備をすることになっています。1年間は長いようですが、定期的に教会に通い、礼拝などに参加し、信者さんたちに出会い、今までの自身の生活を振り返っていくと、あっという間に、時間は過ぎていきます。その中で、洗礼を受けて、教会の仲間となっていくことを確認していきます。
⑷勉強をしたら、必ず、洗礼は受けられるの?
▼「入門講座」は、いわゆる資格取得のための勉強の場、セミナーの場ではありません。信仰を持った仲間たちとの出会いの場であり、また、自分の生き方の方向を変えていく準備をする時間となります。ですから、1年の勉強を終えても、決心がつかなければ、時が来るのを待つことになります。皆さんと共に歩み、世話をしてくれるカテキスタたちと、信仰生活の準備をしていきます。
▼準備が整った時点で、カテキスタたちから、貴方を推薦してくれた教会の神父様宛に「入門講座修了証」が届けられますので、神父様と共に、洗礼を受ける日などを決めていくことになります。
■コロナ・ウイルスの感染拡大の勢いが止まりません。開講に関するすべての情報は、随時、Twitterや教区HP更新情報にアップされますので、是非、御確認ください。また、講座への参加方法など、各種、お問い合わせは、各チーム宛のメールやTwitterのDMまでお願いします。担当者から御返事させていただきます。
教区司祭紹介 第84回 ホルヘ・マヌエル・マシアス・ラミレス 神父
1975年11月19日生まれ 2020年10月3日叙階
関口教会助任司祭
ご出身はどちらですか?
ホルヘ メキシコのグアダラハラです。グアダラハラはメキシコ第二の都市です。日本で言えば京都のような伝統的な街で、馬が歩いていることもあり、大都市なのに田舎の雰囲気があります。(メキシコ伝統音楽の)マリアッチのお祭りもありますし、お酒で有名なテキーラ市もすぐ近くです。メキシコで一番召命が多い街でもあります。
どのような子ども時代でしたか?
ホルヘ 男5人女3人の8人きょうだいの4番目で、姉とばかり遊んでいました。日曜日には、兄弟と一緒に家の近くにある大きな公園にサッカーの試合を見に行きました。一番上の兄から「ビジネスをしよう」と言われ、サッカーを見に来た人たちにアイスクリームを売ってお小遣いを稼いでいました。
私が生まれたのは11月ですが、次の年の1月に洗礼を受け、2月には堅信を受けました(その時代はそれが可能でした)。6歳から教会学校に通い始めて2年間初聖体勉強をし、7歳で初聖体を受けて侍者も始めました。私が通っていた教会ではたった一人の侍者でした。
グアダラハラでは、今でも月に一度聖体賛美式をする習慣があります。午後7時から8時が子どものための時間、8時から9時が大人の女性のための時間、9時から午前5時までが大人の男性のための時間です。大人の男性は1時間ずつ交代で朝まで祈りを捧げます。私は子どもでしたが、侍者をしていたので、大人の男性の時間にも参加させてもらい、教会に泊まり込んで祈りを捧げていました。
司祭になろうと思ったきっかけは?
ホルヘ 私が通っていた教会の主任司祭との出会いです。その当時40歳くらいで、一人で1つの小教区と4~5の巡回教会を掛け持ちし、古い車に乗って教会を回っていました。一番早いミサは朝の6時です。私が通っていた教会はその巡回教会の一つでした。 彼は子どもと若者の教育のために熱心に働く人でした。勉強のために他の司祭やシスターを呼んだり、一週間の黙想会を開いたりしてくれました。
私が住んでいた街は新しい街なので、まだバスが通っていませんでした。その司祭はバス会社と交渉して道路を舗装してもらい、バスも通るようになりました。
聖体賛美式の時も、ゆるしの秘跡のため夜中まで起きていました。8歳の時「自分もこのような司祭になりたい」と思い、15歳で小神学校に入学しました。
なぜ日本で働きたいと思ったのですか?
ホルヘ ある時、霊的同伴をしてくれた司祭から「外国で働くか、宣教師になってみたら?」と言われたのです。私は宣教師は頭がいい人しかなれない、自分の仕事ではないと思っていたのですが、やってみることにしました。
日本に来た頃のことを教えてください。
ホルヘ まずは2年間日本語学校に通いました。最初の一年はホームステイもしていたので日本語漬けの生活でした。日本語学校の他にシスターにも日本語を教えてもらいました。神学校の日本語の試験に合格できたのはそのシスターのおかげです。
日本の神学校生活の思い出は?
ホルヘ すでにメキシコでも勉強をしていたので、日本では好きな授業をとることができました。しかし、メキシコの神学校では授業は昼食の前で終わりなのですが、日本では午後も授業があります。昼食後の授業は眠くて大変でした(笑) 。
日本のどんなところが好きですか?
ホルヘ 日本の文化はとても面白いです。たまに自分で抹茶を点てます。道具も全部持っています。盆栽も好きで、一番古いものは9年育てています。日本で食べ始めた刺身も大好物です。一番好きなネタはイカの活け作り、二番目は大トロマグロです!
趣味やリフレッシュに何をしていますか?
ホルヘ 散歩が好きで、新宿から六本木まで歩いたことがあります。サッカーも大好きで、神学校ではサッカー部長でした。教区の神学生と修道会の神学生を集めて試合をしたのはいい思い出です。関口教会の執務室では熱帯魚とエビも飼っています。
最後に好きな聖句を教えてください。
ホルヘ 「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23・46)です。人間の救いは体から始まりますが、救いの目的は永遠の命だから、人間の魂は天の父にゆだねるものなのです。
訃報 ペトロ岡田武夫名誉大司教
前東京大司教、ペトロ岡田武夫名誉大司教は、12月18日(金)午後1時22分、頸部食道がんに伴う出血性ショックのため東京医科歯科大学付属病院にて帰天されました。享年79歳でした。お祈りください。
略歴
1941年10月24日 | 千葉県市原市鶴舞にて誕生 |
1963年12月24日 | カトリックへ改宗(上智大学学生会館チャペル) |
1973年11月 3日 | 司祭叙階 |
1974年4月~11月 | 船橋教会助任司祭 |
1974年11月~1975年 4月 | 西千葉教会主任代行 |
1975年~1979年 | 留学(ローマ) |
1979年 4月~1986年 | 柏教会主任司祭 |
1986年 1月~1991年 8月 | 日本カトリック宣教研究所所長 |
1991年 4月15日 | 浦和教区司教に任命 |
1991年 9月16日 | 司教叙階 |
2000年 5月13日 | 東京教区大司教に任命 |
2000年 9月 3日 | 東京教区大司教として着座 |
2013年 7月27日 | さいたま教区管理者に任命(兼務) |
2017年10月25日 | 東京大司教引退が受理 |
2018年 6月 2日 | さいたま教区管理者解任 |
2019年 4月~2020年 6月 | 本郷教会小教区管理者 |
2020年12月18日 | 帰天 |
私にとっての2020年
高 贊根 (コ・チャングン)神父
東京韓人教会主任司祭
東京韓人教会の高贊根神父は、2020年2月18日に来日した。2月23日の年間第7主日のミサが、着任して最初のミサであったが、その後、ミサは中止になってしまった。信徒の顔も覚える間もなく、通常の司牧活動は中断というアクシデントに直面した高神父に、2020年を振り返ってもらった。
編集部 来日して間もなく、通常の司牧活動ができない状況で、どのように過ごされていたのですか?
高神父 まずは考える時間をたくさんいただきました(笑)。信徒のために一人でミサをして、依頼された意向のミサを行い、司牧者である意識を保つように努めました。また東京韓人教会のウェブサイトを通して、み言葉のメッセージを発信しました。
編集部 今現在(12月20日)、韓国の教会はミサはどうされているのでしょうか?
高神父 基本的にミサは中止の状態が続いています。
編集部 2020年を振り返って、今思っておられることは?
高神父 何が一番大切なことなのかを考える時でした。その中で、信徒から「今、厳しい状況にある人に救いの手を差し伸べたい」という意見が出されました。それを受けて私は同意を表明し、信徒に呼びかけて、寄付を集めました。信徒以外の方も協力を申し出て、予想を上回る献金や品物が集まりました。考えたことが行動に移る素晴らしい出来事だと思いました。
編集部 新型コロナウイルスが落ち着いたら、まず何をしたいですか?
高神父 東京韓人教会に赴任する前に、何回か来日しているので、どこかに行きたいというよりも、まず信徒の方と食事を共にしたいですね。
オンラインザビエル祭
私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる
2020年10月3日、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、助祭叙階のお恵みをいただきました、ヨハネ・マリア・ミカエル 古市匡史(ふるいちただし)です。日頃からの皆さまのお祈りとあたたかいご支援に、改めて心よりお礼申し上げます。
今年は、教会でも多くの行事がコロナ禍の影響を受けています。神学院のザビエル祭もその一つです。毎年やって来ていたことができないこと、また、たくさんの方々をお迎えして交流することができないことは、大きなショックでしたが、同時に、いただいている恵みのありがたさを見つめ直す大切な機会となりました。
「今年度は中止」という選択もありました。ですが、こういう時期だからこそ、いつもお世話になっている方々への感謝の気持ちを届けようと、オンラインでザビエル祭を敢行する運びとなったのです。
動画制作やネット技術に詳しい人材が少なく、試行錯誤の連続でした。一つ一つのコンテンツは単純で短くても、編集や生成に時間がかかります。作りたいものやアイデアはいろいろあれど、あれもこれもとはなかなか行きません。実行委員会が中心となって難題を取りまとめてくれましたが、運営体制から企画まで、協力する側も反省点がいっぱいです。
そんな中、一人の神学生が発した言葉に、はっとさせられました。「うまく動画を作れたかどうかよりも、気持ちを届けられているかどうかこそが大切なのではないか。」もちろん、質的にも高いものができれば言うことなしです。けれども、神学院が発信するコンテンツは、うまくできているかどうかの価値基準だけに左右されるべきではありません。コンテンツとしては不完全であっても、全神学生が心を一つにして感謝の気持ちを届けているかが最も大切だと思います。
こうして、「主の召しあれば」の合唱、今年の神学院祭のテーマ「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイ28:20)」についての稲川圭三師の講話、阿部仲麻呂師によるザビエルの紹介、助祭団による神学院内ツアー、各サークル活動の紹介、そして、時課の典礼の様子を、みなさまにお届けすることができました。ご覧いただけた方々に、少しでも神学生の感謝の思いが届いていましたら幸いです。今後とも、各神学生の召命のために、お祈りの程、何卒よろしくお願い申し上げます。
ヨハネ・マリア・ミカエル 古市 匡史
編集後記
◉新しい年が始まった。「年」とは神がお作りになったこの世界の時間を人間の都合で切り分けたものでしかない。それでも、時間の所々に区切りをつけて、これまでを振り返ったり、これからへ思いを新たにしたりすることは意義深いことだと思う。
今年、私たちは新しい年を祝えているだろうか。心に区切りをつけて、新しい歩みを始めようとしているだろうか。世の中の状況はそれを妨げるかもしれない。新たに歩もうとする私たちの足を掴もうとしてくるかもしれない。「今年も何も変わらない」という悪のささやきは、私たちから「新しさ」を奪い取ろうとしている。
しかし、「望みえない時になお望む」からこそ、希望は尊いのではないだろうか。そして、神の子であるイエスが人として生まれ、十字架の上で私たちの罪を背負ってくださったというとてつもない喜びをすでに信じている私たちこそが、誰よりも先に、この世の中で希望を語り、希望を生きるべきなのではないだろうか。
2021年、私たちが希望のうちに歩むことができますように。私たち一人ひとりが、この世のささやかな灯火となることができますように。そして、その灯火の共同体が、世の光として輝くことができますように。(Y)