東京教区ニュース第378号

2020年12月02日

コロナ禍の今、教会(わたしたち)のミッション


パネラーの皆さん

11月14日(土)13時30分より、東京大司教区災害対応チーム主催によるオンラインパネルディスカッション「コロナ禍の今、教会(わたしたち)のミッション」が開催された。

新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう今般、私たちは「すべてのいのちを守るため」、教会に集まることも、社会の求めに応えていくことも制限せざるを得ない状況にある。

そのような中、コロナ禍においても活動を継続している小教区やグループの取り組みを紹介し、一人ひとりが「教会(わたしたち)にできること」を考えるきっかけになればという想いでこのパネルデイスカッションは企画された。

この日紹介されたのは、西千葉教会・千葉寺教会によるリモート聖書講座、サレジオ会のドンボスコ・オラトリオによるベトナム人技能実習生向けの日本語講座、梅田教会教会学校、調布教会教会学校という四つの取り組み。各グループからの活動報告の後、パネルディスカッションでパネラー同士の熱い想いが交わされた。

パネルディスカッションの総評として菊地大司教は「コロナのために何もできなくなっているからそれを補充するというためだけではなく、新たな挑戦として積極的に自分たちの福音宣教の使命を果たしていくのだという心意気で取り組んでいきたい。この動画を見て『自分たちも何かしてみよう』と思ったら、失敗を恐れずチャレンジしていただきたい」と述べた。

災害対応チームでは今後もこのような企画を継続する予定。是非教区の中で挑戦していることを分かち合いたい小教区や団体は、災害対応チームメールアドレスまでご連絡いただきたい。

※パネルディスカッションの動画はこちらから視聴可能です。


「『皆が兄弟である』ことがわたしたちのミッションであることを歌で表現します」と「アーメン・ハレルヤ」を熱唱する田村神父とラップ神父(ドンボスコ・オラトリオ)


大司教執務室からライブ配信


菊地大司教による総評


災害対応チーム担当司祭豊島神父による祈り


「ドンボスコ・オラトリオ」の活動紹介


ルーマニア正教会府主教訪問

11月9日、東京の教会の献堂式のために来日中の西および南ヨーロッパのルーマニア正教会府主教であるヨセフ主教と2013年から日本での布教に務めているコリウ・ダニエル司祭が菊地大司教を訪問してくださった。

ルーマニア正教会は2008年に2名の司祭が来日して日本での布教を開始した。当初は主にカトリック教会の場所を借りての活動で、現在の教会堂は2017年にはカトリック立川教会国立集会所をカトリック教会から購入した建物であり、日本における両教会の縁は深いものがある。


左から、ヨセフ府主教、菊地大司教、日本で布教活動しているコリウ・ダニエル司祭。


ヨセフ府主教から贈呈されたイコン。


CTIC カトリック東京国際センター通信 第243号

地には善意の人に平和あれ

東京の下町の小さな工場が立ち並ぶ地域に、かつては事務所として使われていた小さなビルの一室や、古い家をシェアハウスとして、共同生活を送るウガンダ出身の人たちがいます。彼らは皆、祖国で安全に暮らすことができず、日本に逃れて来た「難民申請者」です。ある人は難民認定申請の結果を何年も待っており、ある人は「難民とは認められない」という日本政府の出した結果に、異議申し立ての手続きや裁判を行っています。在留許可のある人もいれば、就労することも健康保険に加入することもできない「仮放免」の人もいます。彼らに共通しているのは「祖国ウガンダに帰れない」ということです。

彼らは、4年近く前から、地域の人々が大切にしている神社とその周辺地域の清掃活動を行っています。毎月第2日曜日の朝、神社に集まり、神社本殿と広い庭、そして周辺の道路を掃除します。高齢化が進む地域の広くて老木が生い茂る神社は、なかなか掃除が行き届かなくなっていたのです。毎月参加可能なメンバーが集まり、黙々と掃除を行い、片づけて、それぞれの家に帰って行きます。梅雨の雨に濡れ、泥だらけになりながら、夏の暑い日にはやぶ蚊に刺されながら、北風の吹く冬には寒さに震えながらも、毎月、毎月、掃除を続けています。一度も休んだことのないメンバーもいます。夏の草が生い茂る時期や秋の落ち葉の頃には、集めたゴミが45リットルの袋に50を越えることもあります。就労許可のある人たちにとって、重労働から解放される週の中のたった一日の大切な時間を、彼らはこのように使っているのです。休日出勤や、教会の用事で皆が集まる時間に参加できない人が、前日や早朝にやって来て自分の責任を果たして行くことも珍しくはありません。

 掃除を続ける理由を尋ねられた時、彼らは答えます。「それぞれの国、それぞれの地域には、そこのために汗を流した先人がいる。私たちもここに住む限りは地域のために何かをしたい」、「住む場所がなかった私を受け入れてくれた人たちに感謝を表したい」、「日本のため、日本人のために何かしたい」。

彼らは心から日本に、そして自分たちが住む地域に受け入れられることを望んでいます。それは、「ビザを得て住民となる」ということだけではなく、その地域を作り上げる人間としての役割を果たしながら、地域の一員となるという望みです。 自分たちの活動をアピールすることもなく、むしろ、美談として取り上げられることを避けながら、誰が見ていても見ていなくても、時には誤解を受けることがあっても、彼らは黙って掃除を続けています。

汗を流しながら一心不乱に掃除する彼らの姿を見ながら、彼らの願いが叶い、ささやかなこの活動がいつまでも続けられることを願わずにはいられません。「地には善意の人に平和あれ」羊飼いの聞いた賛美の歌が彼らとともにありますように。

相談員 大迫こずえ


CTVC カトリック東京ボランティアセンター No.88

「高校3年生が語った区域外避難のいま」 講演会「福島から語る」鴨下全生さん 10月17日オンライン配信

2011年3月の福島第一原発事故により、小学2年生だった鴨下全生(かもしたまつき)さんは、福島県いわき市から東京へ避難しました。いわき市が避難指示区域に指定されていないことから、いわきからの避難者は、しばしば「なんで、いわきから逃げるの?」と疑問を持たれ、酷い時は罵倒されることもあったとのことです。現在高校3年生の鴨下さんが、区域外避難者(いわゆる自主避難者)として、自分に起こっていること、いまの思いを語られました。

避難住宅の提供が打ち切られたことにより、「放射能汚染が無くなったわけでもないのに、それを避けるために避難している家から追い出される」という状況があります。賠償もほとんどなく、学校や職場では差別される区域外避難者の生活は、「本当に理不尽そのもの」です。日本でどんなに声を上げても、政府にはまるで聞こえないかのように扱われるという状況の中で、昨年ヨーロッパに向かい、フランスやドイツ、ベルギーなどでの集会、そしてバチカンではフランシスコ教皇に謁見し直接アピールしました。

ヨーロッパ各地では若い世代も含め、高い関心を持って話を聞いてもらうことができ、そして昨年11月のフランシスコ教皇来日の際には、東京での「被災者との集い」においてスピーチし、教皇との再会を果たしました。

当日のスピーチについては、原稿の中の「政治的な圧力によって検閲され、消されてしまった部分も、敢えて全部しゃべりました」という後日談がありました。カトリック教会が準備した場だからこそ、世界のカメラの前で、はっきりと証言することができたと語られました。 「『声を発しても耳を貸してもらえない人びとの声になりたいと思います』というパパ様の励ましは、僕にとても大きな力を与えてくれています」

震災発災からもうすぐ10年になろうとする今もなお、たくさんの方々が鴨下さんのように避難生活を続け、厳しい状況にあります。いまの福島の方々の現状、東京に避難している方々の状況は、これまで福島から送られた電力を使い続けてきた東京に住まう者、働く者にとって、決して無関係ではないと思います。

事務局 漆原比呂志

※講演会の動画はこちらからご覧いただけます

カリタスの家だより 連載 第128回 

赤ちゃんボランティア

【わたしは4ヶ月の赤ちゃんです。 今日は東京都立付中療育センターに来ています。 その理由はわたしのお姉ちゃんが療育センターでリハビリを受けるためです。その間カリタスの家のボランティアさんと一緒にセンターの待機室でお留守番をすることになっています。

私のお母さんもお姉ちゃんと一緒に母子療育をうけることになっているので私は3時間の間ひとりになってしまい、カリタスの家のボランティアさんがいてくれると安心です。 待っている間、抱っこしてもらえたり、お母さんが用意してくれたミルクを飲んだり、おむつを替えてくれたり、話しかけたり、あやしてくれたりして世話をしてくれるのです。

私は末っ子で上には二人の姉がいます。普段はお母さんは忙しくしています。 だから見守られている時間帯はボランティアさんをひとり占めできるのです。

でも時間の半分は安心して気持ちよくなり寝てしまいますが。

やがて目を覚ますとお母さんとお姉ちゃんが母子リハビリを終えて私のところへ戻ってきます。

ボランティアさんは私の様子をお母さんに報告してからさよならをします。】

東京カリタスの家の赤ちゃんボランティアの歴史は長くかれこれ20年以上になります。1997年、前身である東京都立多摩療育園の当時の施設長が母子療育を開始するのでその間、兄妹の見守りをしてほしいとの依頼が始まりです。

当時は通園困難な方のためドライブボランティアも行っていました。 カリタスの家のコーディネーターが何人ものボランティアを準備して、いつでも母子療育に安心して療育に取り組めるよう準備して依頼に応えての今日があります。 今年新型コロナウィルスでボランティアの派遣が危ぶまれましたが、十分な注意を払い療育センターと療育を必要とする方の要望に応え続けています。

赤ちゃんをお預かりするのでボランティアさんも赤ちゃんに心地よい素材の服装や安全衛生には注意しています。 しかし何と言っても赤ちゃんのお世話をしてその声や表情、肌さわりにいやされているのはボランティアさん自身のようです。


知っていますか?私たちの「信仰」を?

「共に歩む信仰の旅─同伴者イエスと共に─」

第3期生のオリエンテーション

カテキスタ第3期生 受講生の声

お恵みを共に
受講生 小岩教会 市川正史

カテキスタ養成講座に参加させていただくことを、とても幸せに思います。一方で、「私がカテキスタを目指しても良いのだろうか?」という、不安な気持ちもあります。

私が小岩教会でお世話になり3年が経ちました。その前は、教会から20年以上離れておりました。イエス様の御言葉や行いを見失う日々を送ってきました。家族や友人、お世話になった方々との接し方はどうだったでしょうか。沢山のお恵みを頂いているのに、多くの場面で、相手の気持ちを聴くこと、温かく接することができずにいました。

教会を心の拠り所としたい。色々な気持ちを胸に秘め、教会を訪れる方々が安心でき、洗礼を受けたいと思って頂けるような接し方、共に学び、教会について、心通った会話ができるでしょうか。聖書の知識も足りないままで……。不安でおります。

それでも、教会を新しく訪れる方々のために、これまで頂いてきたお恵みを役立てたいという気持ちを抱いています。

この気持ちに立ち返れたのは、小岩教会からカテキスタ養成第二期を受講されていた前田さんと永井さん、そして、主任司祭の関神父様が、和やかな雰囲気で、相談できる時間をとってくださったお陰です。講座のことを飾らず楽しく教えてくださり、肩に力が入らない話し合いに安心でき、自分自身の弱い部分を見つめながら、前向きな気持ちになれました。

初めての見学の時、講師の猪熊神父様が、言葉は少し違っていたかも知れませんが、「『施し』は実際に行ってみると難しいとわかる。己の弱さを知り、無力を知る。無力を知るからこそ、改めて祈ることになる」と話され、一歩を踏み出したいと思いました。同期の受講生8名、新しい出会いに感謝の気持ちです。 私は小学生の時、故郷の教会で家族と共に洗礼を授かりました。

当時のことを忘れかけていましたが、先日、母との電話で、洗礼の勉強の時、子どもの私がよだれを垂らしながら、ウトウトとする姿を、マリオ神父様が微笑みながら見つめておられたと聞きました。

フランシスコ会のタルチシオ・マリオ・カンドゥッチ神父様(今年2月に帰天)。神父様が御ミサの後、赤や黄色の綺麗な紙に包まれた甘いチョコレートを下さるのが嬉しく、同じ年頃の子どもたちと遊び、楽しかった想い出が蘇ります。

多くの信者の方々から見守って頂き、合宿や同年代の仲間との出逢いは思春期に心の支えとなりました。ずっと共に祈ってくれる従姉妹も支えです。上京後、吉祥寺教会で後藤神父様、畑沢様がそっと手を差し伸べてくださり、日曜学校のリーダーの皆様が、私を温かく受け容れてくださいました。

そして3年前、緊張の中で訪れた小岩教会でしたが、ここでも、温もりを感じました。

酒井神父様の穏やかな祈り、綺麗なオルガンの音と歌声。後方の席、隣に座った女性の信徒の方が聖歌集を静かに持ってきてくださり、無理がかからないよう、徐々に話しかけてくださいました。教会に通い始め、長年、御々堂周りを掃除されている方が掃除の仕方を教えてくださり、温かい珈琲も頂きました。少しずつ私の心を開いてくださいました。

カテキスタ養成講座の初日となる9月26日の数日前、聖歌隊として、隣の席におられ、大変お世話になった方が帰天されました。寂しいです。よく声をかけてくださり、上手くいかない私に「朗読は大きな声で。大丈夫、歌もバシッといこう。良かったぞ。」と励ましてくださいました。「普段着でいい……」と。奥様思いの優しい方でした。

温かく接してくださった方々の思いやりや、祈りを大切に共に祈ってくださる方々の気持ちを、新しく教会を訪れる方々に飾らずに伝えられるようになりたい。

主なる神様、イエス様、心ある方々から頂いたお恵みを共に、分かちあっていけるよう、カテキスタ養成講座を、大切に受講させて頂きたいと思っています。

神の導きの中で……
受講生 高円寺教会 小林聖子(さとこ)

私が生まれて初めて聖書を手にしたのは、カトリックの中学校に入学した時でした。

最初に、マタイ福音書のページを開いた時、延々と続くイエス・キリストの系図を読んで、「これがテストに出たらどうしよう?」と真剣に心配したことを今も懐かしく覚えています。

先日、始まったばかりのカテキスタ養成講座の中で、何故、そのように長いイエスの系図が書き記される必要があるのか? が分かりました。系図の意味は、イエスこそが、父祖アブラハムやダビデの子孫であることを示すためのものであったということでした。

本当に長い時間をかけて、神さまが私をお導きくださっているのを実感する日々です。

今でも、「見失った息子たち」のたとえや、マルタとマリアの箇所、イエスのたとえ話の多くは、頭では理解しているつもりですが、心の中では「!?」と思うことが、まだまだ、たくさんあります。

一年前の2019年11月、日本のカトリック信徒たちは、教皇が38年振りに来日されることを楽しみにしていましたが、一年後の今の世界の様子を、誰が想像できたでしょうか?

現在、世界中が、コロナによって大変な状態にありますが、きっとこの状況が、後に大きな意味を持つことを……、それが、神さまのご計画の一部なのだということを……、神さまの人間に対する愛の大きさについて、疑うことなく信じていたいです。

いまだ収束の目途すらつかないコロナ禍の中で、それでも、2020年は私にとっては、神さまから本当に多くのお恵みとお導きを頂いた年となりました。

その中でも特にカテキスタ養成講座の受講がかない、担当司祭の猪熊神父さまや諸先輩方から知識を得、吸収させていただける機会にあずかれる、大きなお恵みに対して心から感謝しています。

まだまだ学ぶべきことが沢山あることを痛感する日々ですが、一年後に一人のキリスト者として、後に続く人々への一助となるために、力をつけるよう精進します。 どうぞよろしくお願いいたします。


入門講座が続々、開講中!

チーム関町 (10/ 3開講)
チーム松原 (10/14開講)
チーム西千葉 (11/21開講予定)
チーム葛西 (12/ 5開講予定)
チーム松戸 (2021年1/ 9開講予定)
チーム関口 (2021年4/10開講予定)
※開講情報については、適宜、Twitterや教区HPに情報をアップしていますので、 まずは、御確認ください。

コロナ禍のために、開講が延期されていた生涯養成委員会の「入門講座」ですが、ついに、開講しました。

将来、洗礼を受け、信仰生活を始めたいと思い、通い始めた教会があったのに……、洗礼を受けた後に所属したいと思っていた教会があったのに……、残念ながら、現在、コロナのために、多くの教会で「入門講座」が開講されないまま、準備がストップしている。

あるいは、学業や仕事のために、司祭との定期的な講座の時間が持てないなど、それぞれの教会で、具体的な洗礼の準備をすることが難しい方々もいることでしょう。

私たち生涯養成委員会の「入門講座」は、右の6箇所に拠点があります。 何処かに、あなたが定期的に参加できる講座があるはずです。

まずは、お気軽にお問合せください。


入門講座に参加するには、どうしたらいいの?

Q 洗礼を受けたくて、教会に通い始めましたが、ある信者さんから、「そのためには、入門講座を受けて、準備をする必要がある」と言われました。でも、私が通っている教会の神父様は、他の教会も担当なさっていて、私は神父様と準備をする時間を合わせることが、どうしても、できません。どうしたら良いでしょうか?
A そのような方のために、東京大司教区が主催する「入門講座」があります。この講座は、洗礼を受けることを望んでいるにも関わらず、学業や仕事の関係、あるいは、司祭との定期的な講座の時間が持てないなど、準備が困難な状況にある方々が、他の指定された教会で定期的に開催されている講座に出席することで、洗礼の準備をするものです。 以下のような準備をすれば、誰でも参加可能です。

⑴将来、洗礼を受け、所属することになる教会は決まっていますか?その教会の礼拝に参加したり、教会の人々に会ったことはありますか?
▼信仰は、仲間と共に育むものですから、自分で本を読んだだけでは、洗礼を受ける準備にはなりません。具体的な人々との出会いの中で信仰は伝えられていきます。まずは、将来、洗礼を受け、仲間となって所属することになる教会を決めましょう、そして、実際に、そこに通ってみましょう!

⑵日々の生活の中で、どうやって準備をすればいいの?
▼通い始めた教会で洗礼を受けるための準備ができるなら問題はありませんが、講座自体がない、あるいは、定期的な講座に通うことができない場合もあるでしょう。コロナによる感染拡大が終息する頃、教区HPに指定教会ごとの「入門講座」の日程表一覧が掲載されます。まずは、それを見て、自分が通いやすい教会の講座を見つけます。
▼次に、後日、教区HPにアップされる「推薦状」をダウンロードし、通い始めた教会の神父様に挨拶して「推薦状」を書いてもらいましょう。そして、日程表にあるオリエンテーションに参加して、講座に通い始めることになります。

⑶どのくらいの期間、準備をすることが必要なの?
▼どの講座も、基本的に1年間の準備をすることになっています。1年間は長いようですが、定期的に教会に通い、礼拝などに参加し、信者さんたちに出会い、今までの自身の生活を振り返っていくと、あっという間に、時間は過ぎていきます。その中で、洗礼を受けて、教会の仲間となっていくことを確認していきます。

⑷勉強をしたら、必ず、洗礼は受けられるの?
▼「入門講座」は、いわゆる資格取得のための勉強の場、セミナーの場ではありません。信仰を持った仲間たちとの出会いの場であり、また、自分の生き方の方向を変えていく準備をする時間となります。ですから、1年の勉強を終えても、決心がつかなければ、時が来るのを待つことになります。皆さんと共に歩み、世話をしてくれるカテキスタたちと、信仰生活の準備をしていきます。
▼準備が整った時点で、カテキスタたちから、貴方を推薦してくれた教会の神父様宛に「入門講座修了証」が届けられますので、神父様と共に、洗礼を受ける日などを決めていくことになります。

「週刊大司教」創刊!

小教区の主日ミサにおける年齢制限が解除されたこと等を鑑み、3月1日から続けられていた菊地大司教司式による主日ミサ映像配信は10月31日をもって一旦終了となった(今後も大きな祝日等のミサは映像配信される予定)。

ミサ映像配信とは違う形での新たな試みとして、11月7日から毎週土曜日の18時に「週刊大司教」と題した10分前後の短いプログラムの配信が始まっている(制作は東京大司教区広報)。

このプログラムは大司教館の小聖堂で撮影され、菊地大司教による主日の福音朗読と、それに基づく短いメッセージ、そして主の祈りと派遣の祝福で構成されている。多くの方々に、菊地大司教、そして動画を視聴する全ての人と心を一つにしてみことばを味わい、祈る一時を過ごしていただきたい。

週刊大司教オープニング


視聴者に語りかける菊地大司教


派遣の祝福


「週刊大司教」撮影風景。大司教館小聖堂から毎週皆様にお届けしています!

※「週刊大司教」は以下のいずれかからご覧になれます。
カトリック東京大司教区YouTubeチャンネル
カトリック東京大司教区公式ウェブサイト


東京カトリック神学院 「リモートザビエル祭」開催

東京カトリック神学院では、毎年11月23日にキャンパスを開放して「ザビエル祭」を行っている。今年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、「リモートザビエル祭」と題したオンライン形式で行われることとなった。 本編動画の公開は12月3日から12月31日までの限定公開で、それまでは予告編動画を視聴することが可能。年に一度、神学院キャンパスに足を運ぶことができる機会が中止となったことは残念だが、例年であれば足を運ぶことができない方々も、神学院の内側を覗き、神学生たちの人柄に触れることができるチャンスであるとも言える。

※動画は「神学院サポーター」HPからご覧になれます。


東京大司教区司祭人事(第9次)

東京教区では2020年度の司祭の人事(第9次)を以下のように決定しましたのでお知らせします。

東京大司教 
タルチシオ 菊地功 

11月10日付    
教 会 氏 名 旧任地
上野毛教会主任代理

ペトルス ウィリー ソバ ドイ神父
(カルメル修道会)

上野毛修道院付
静 養  松田 浩一神父(カルメル修道会) 上野毛教会主任 

「日本のカトリック教会における感染症対応ガイドライン」に関して

11月1日、日本カトリック司教協議会は「日本のカトリック教会における感染症対応ガイドライン」その別添として「感染症流行下における秘跡・典礼挙行のガイドライン」と「感染症に関する広報ガイドライン」を発表した。

この三つの文書は、6月10日付けの菊地大司教公示文書「教会活動の再開に向けて」を元に、より広いフェイズでの対策と、感染症流行時における秘跡や典礼を執行する際の具体的な指針、そして教会の適切な広報活動の在り方を付け加える形で東京大司教区が原案を作成し、日本カトリック医師会および日本カトリック典礼委員会の監修を経て発表されたものである。

これらの文書に関して菊地大司教は「それぞれの教区・小教区で事情が違うので、感染症対策を考える大枠ができたので、今後は素早い対応が可能となる。今後も同じような感染症が頻発する恐れもあるので、迅速かつ的確な対応が可能となり、『すべてのいのちを守るための』の行動をとることができるようになる」と解説している。

※これらの文書はカトリック中央協議会HPから読むことができます。

今年の待降節とクリスマスを迎える私たちに

思い起こしてみてください。毎年、皆さんはどのように待降節を過ごし、クリスマスを迎えていたでしょうか。

教会で行われる待降節黙想会に出席し、司祭の言葉に耳を傾けながら、主の降誕に向けて心を整えていたかもしれません。色とりどりの光に飾られた街に出かけ、胸をときめかせながら、大好きな人や愛する家族へのプレゼントを選んでいたかもしれません。そして、24日の夜には教会でイエス様の誕生を祝い、子どもたちの聖劇やミサの後のパーティを楽しんでいたかもしれません。

しかし2020年、私たちはこれまでに体験したことのない待降節を迎え、クリスマスを迎えようとしています。皆が集まる黙想会が行われる教会はほとんどないでしょう。街を行き交う人の数も少なく、LEDの光さえも寂しげに見えます。そして、主の降誕ミサさえ行うことができない教会があり、ミサがあっても参加することができない方もいるでしょう。私たちは去年までとはよく似た、でも何かが違う別世界に迷い込んでしまったかのようです。

本当にこの世界は変わってしまったのでしょうか。主イエスの降誕を迎える喜びは奪われてしまったのでしょうか。神のひとり子が人となってこの世にお生まれになったという、私たち人間へ神様が下さった最大のプレゼント、最大の愛は、何かによって奪われてしまう程度のものだったのでしょうか。

今年もすでに待降節は始まっています。そして、今年も私たちは主の降誕の祭日を迎えるのです。そして、今年にしかできない待降節の過ごし方が、クリスマスの迎え方が、私たちにはあるのではないでしょうか。

黙想すること、心を整えることは教会に行かなければ、黙想会に参加しなければできないことなのでしょうか。例えば、現代を生きる私たちにはインターネットがあります。パソコンやスマートフォンを使って「カトリック教会」と検索してみましょう。日本中の教会のホームページが出てきます。主日の説教や司祭からのメッセージが掲載されているホームページが沢山あります。「待降節」と検索してみましょう。待降節とは何かを解説してくれているホームページを見つけることができます。インターネットの世界には、文字だけではなく動画もあります。美しい馬小屋や、アドベント・クラウンの画像に出会うこともできます。

これらは大切な黙想の素材です。自分の心に留まったものだけでかまいません。その素材を繰り返し味わってみましょう。文章なら何度も読み返し、画像なら見つめ続ければよいのです。そして、素材を味わったら、自分の心に耳を澄ませましょう。心を落ち着かせることができるなら、場所はどこでもかまいません。どんな想いが、どんな感情が浮かんでくるでしょうか。それははっきりとした言葉になっているかもしれませんし、もっと曖昧なイメージのようなものかもしれません。もし何も浮かんでこないなら「なんで何も思い浮かばないんだ」という不満でも、「どうして何も思い浮かばないんだろう」という疑問でもよいのです。それもまた「自分の心」に違いないのですから。

そして、心に浮かんだ想いや感情を神様の前で開いてみましょう。はっきりと形になっている言葉や願いがあれば、そのまま神様に語りかけてみましょう。「祈りの形」にこだわる必要はありません。もし、心の中にあいまいなイメージしかなくとも、「私は今こんな気持ちです」と神様に打ち明ければいいのです。

自分の心、想いを神様に打ち明けたら、沈黙のうちに心を静める時間をもちましょう。心を静めるのはなかなか難しいこともあります。「何も考えないこと」を意識しすぎると、かえって色々な考えが浮かんでしまいます。リラックスして背筋を伸ばし、自分の呼吸だけに意識を集中するとよいかもしれません。心静かに沈黙の時を過ごしても、神様の声が、イエス様の声が聞こえるという体験ができる人はまれでしょう。それでも、なにか心に広がる感覚、味わいがあると思います。それを大切にしてください。そして、沈黙が終わった後もその感覚を味わい続けてみましょう。その中に神様の愛があるのかもしれないのですから。

今年ももうすぐ終わろうとしています。今年は、一人で、または家族だけで過ごす時が増えた方が多いと思います。孤独の中で、不安の中で日々を過ごしている方も大勢いらっしゃるでしょう。それは神様だけに向き合う時間を、自分の心を素直に神様にお捧げする機会をいただいているとも考えられるのではないでしょうか。 2020年の待降節とクリスマス、皆様が神様と、そして幼子としてお生まれになった主イエスと、豊かな交わりを持つことができますように。 

編集後記

2020年も残すところ1ヶ月を切った。約4ヶ月にわたって公開ミサが中止され、現在も毎週主日ミサに与ることは適わない。これほどまでに聖体を渇望した日々がかつてあっただろうか。渇望するのは、すなわち、渇くほどに望むのは、それを心から願い求めているからだ。 つまり、渇望とは愛なのだと思う。聖体のうちに現存するイエスの愛。それを渇望する私たちの愛。聖体拝領とは、イエスから私たちへの愛と、私たちからイエスへの愛が交差する場なのかもしれない。(Y)