お知らせ

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東京教区ニュース第169号

2000年01月01日

マタタ神父の新春対談

アジア特別シノドス 「使徒的勧告」について白柳枢機卿に聞く
1998年4月19日から5月14日にかけて、アジア特別シノドスがローマで開催された。
これは、キリスト紀元2000年の大聖年を迎える準備として、それぞれの大陸においてシノドスを開催するようにとの、教皇ヨハネ・パウロ2世の呼びかけによるものである。アジア特別シノドスが行われてから1年後の99年11月6日、インドのニューデリーで、ヨハネ・パウロ2世は、アジア特別シノドスの「使徒的勧告」を発表した。この「勧告」について、「マタタ神父のインタビュー」でおなじみのマタタ神父(本紙編集部)が白柳枢機卿に伺った。

シノドスとは

「シノドス」という言葉について簡単にご説明いただけますか。

白柳枢機卿 「シノドス」という言葉は、もともと「いっしょに歩む」という意味のギリシャ語からできたもので、皆が共に歩んでいくために代表者が集まる会議のことです。
第二バチカン公会議で強調された「対話と相互の助け合い」「交わりと一致」の精神を、具体的に教皇パウロ六世がシノドスとして復活させました。それは、まず教皇と司教たちが公会議以外にいっしょに話し合う機会です。
そして、シノドスには、一般のシノドスと特別のシノドスという言い方もあります。
一般のシノドスというのは、全世界の司教の代表者が集まって、普遍教会全体に関わる事柄を教皇と話し合う場なのです。
また、特別シノドスには、二つの種類があります。一つは、各国の司教団の会長と教皇が一緒に行う会議です。そして、もう1つは、定期的なものではなく、臨時に特定地域の司教の代表が集まって、その地域に直接関わる事柄を扱う会議を言います。

アジア特別シノドスと言いますが、どうして「特別」という言葉がついているのでしょうか。

枢機卿 教皇は、紀元2000年の大聖年を迎える準備として、大陸別の司教たちの集まりを希望したわけです。すでに、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸、オセアニア、そしてアジア大陸と別々に集まりを持ちました。その意味で、アジアシノドスは、「特別シノドス」の中に入ります。

教皇の「使徒的勧告」をみると、教皇は、「アジア大陸を救い主イエス・キリストの誕生の土地」だと考えていらっしゃいます。今回、「使徒的勧告」を発表される場所がインドとなったのは、特別な理由があったのでしょうか。

枢機卿 教皇は、救いの業は、アジアの地で始まったとおっしゃいます。
旧約の歴史も、その中に出てくる人物もそうですが、キリストご自身も、アジア人のひとりとしてお生まれになって、救いの御業を完成したのです。その意味でキリスト教は、アジアにとって決してよそものではないはずです。シノドスの時に司教たちの中には、「自分たちの国ではキリスト教は、外国の宗教、他の大陸の宗教だと思われている」という発言が多かったのです。
それに対して、教皇は、「救いの業はアジアの地から始まった」と強調なさいました。もちろん、それは、初めにヨーロッパに伝わって、そして外国に広まっていったのです。そういった意味で、キリスト教は、外国から来たものだと言えるでしょう。
教皇は、さまざまな事情があって、アジア特別シノドスの「使徒的勧告」を、インドで発表するようお選びになったと思います。政治的な意味もあったからでしょうね。

救い主・キリストはアジア人

今回発表された「使徒的勧告」は、大きく七章に分けられていますが、序文から二章あたりまで、教皇は「唯一の救い主」たるイエス・キリストはアジア人であることを強調されています。一般論としては、イエスはヨーロッパ人だと思われる傾向がありますが、この点については枢機卿さまはどのようにお考えでしょうか。

枢機卿 すでに申しあげたように、福音が初めにイスラエルからヨーロッパに伝えられて、そこで土着したものが西洋化された形で、アジア、日本に入ってきました。
そういう意味でヨーロッパ的だ、外国のものだというとらえかたがあります。
しかし、イエスの考えとかなさったことなどは、非常にアジア的で、ご自分の文化、歴史的な背景のなかでなさったことですね。それがヨーロッパに伝わり、ヨーロッパの文化、歴史の中にとけこみ、制度化されたものが、他の国へ伝わっていったので、ヨーロッパ的というとらえ方がされたと思います。
ですから、そういった意味では今、私たちにとって1番大きなチャレンジは、イエスご自身と教えの、日本へのインカルチュレーションだと思います。それに関して、日本で、一般的に使われている言葉は、「受肉」という表現です。
それは、ただちにイエス・キリストの教えを日本語で表現すること、それから日本の文化、歴史に使われた言葉でイエス・キリストを表現することです。
またそれは、ただ単に、西洋とか日本を見分けることではなく、むしろイエス・キリストの教え、行いが、いかに日本の文化に浸透していくかです。日本の文化を変えるような、植民地時代の考え方ではないと思います。

福音宣教の意味

「使徒的勧告」のなかで、頻繁に使われている言葉は、「福音宣教」です。それについて枢機卿さまは、キリスト教の信者にとっての福音宣教の意味は、どのようなものだとお考えでしょうか。

枢機卿 アジアにおける福音宣教は、大きなチャレンジをもっています。アジア大陸には古い文化、古い宗教があります。
その背景の中で、キリストの福音を伝えるには、理論(理屈)をもって伝えるのではなく、証しによって伝えていくことです。教皇は、教えることよりも行動をもって福音を伝えていくことを強調していらっしゃいます。
これは決して、司祭だけ、宣教師だけのことではなく、信者一般も含めて教会全体の務めであることを強調されています。
信徒こそ、この宣教活動に重要な役割を果たしていると思います。なぜならば、司教や、司祭よりも、信徒のほうが、二十四時間キリスト教信者ではない人と関わっているからです。だから、福音を宣べ伝えるチャンスがあるわけですね。福音は、もちろん神からの愛のメッセージです。
今の時代には、口で話して耳に入るという方法は、あまり力がありません。本当に今の時代の人の心を動かすものは、生きている人のあり方です。
例えば、マザーテレサはまさにそうでしたね。彼女は決して難しいことを話しませんでした。彼女がどうしてあれだけ人の心をとらえたかというと、福音に生きていた、愛に生きていたからです。
ちょうど聖ペトロの手紙に書いてあるように、「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(1ペトロ3・15)。
本当に信者にとって、福音宣教というのは、もちろん聞かれた時に、言葉をもって答える準備を必要としますが、実際それは24時間愛に生きることです。

諸宗教との対話

アジアにおける福音宣教の歴史を振り返ってみれば、神の国を宣べ伝えるためには、さまざまな挑戦を乗り越えなければいけません。その中のひとつは、アジアにおけるほかの宗教との対話です。枢機卿さまは、諸宗教の世界的機関である世界宗教者平和会議(WCRP)の議長を務めていらっしゃいます。アジアで諸宗教との対話を進める際には、何が必要とされるのでしょうか。

枢機卿 アジアで福音宣教を進めるためには、どうしても対話が必要です。この対話の姿勢は、お互いに本当の意味で尊敬と愛をもって話すということ、そしてお互いに認めた真理を受けいれることです。
宗教者との対話は、割合に新しいことですから、今でも決して易しいことではありません。
でもこの対話は、神の働き、聖霊の働きだと思います。いろいろな宗教に属する人がひとつの心で話し合い、出来ることを一緒にやっていくのはすばらしいことです。
ところがそれはけっして諸教混合主義でも、相対主義でもありません。皆自分の信仰をしっかりもって、違いは違いとして認め合う。しかし、同じことはたくさんあり、そして私たちはお互いに理解し合い、それを協力にまでもっていこうとしています。特に人類の共通の問題である平和について、いっしょに働きましょうという空気が世界中の宗教にあります。これは、聖霊のひとつの働きだと思います。

二十一世紀の福音宣教

さまざまな宗教が目標とすることは、平和な世界、正義に満ちた世界をつくることです。
二十一世紀の福音宣教は、「生命の文化」「愛の文化」を伝えることだと、教皇は強調されています。
その実現のために、私たちはどのようなことをすればよいのでしょうか。

枢機卿 宗教を信じている人の中には、政治に関わることはよくないという気持ちを持っている人がたくさんいます。平和の運動とか、人権の問題などは、政治的だからいやだと、それだけをとらえてしまう。そういう人にとっては、これらの運動は気にいりません。
第二バチカン公会議の姿勢、すなわち『現代世界憲章』のいちばん初めに出てくる「人類の喜びと希望、悲しみと苦しみ、特に貧しい人々と、全て苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみである」(現代世界憲章1)を見ると、教会にはいっしょに苦しみ、いっしょに喜ぶという姿勢があるわけです。ですから、その道は確かな道です。
それは、道徳的な問題にも、教義にも関わることも、教会は、直接に参加しても決して悪いことではないし、むしろしなければならないことです。
ただ、それは一般信徒まで、なかなかいかないですね。
今の日本の社会は、あまりに忙しすぎて、日曜日に聖堂に行って神の前で休みたい、あるいは静かに神と対話したいと、もうそれだけで自分は精一杯だという人が多いのです。しかし、少なくとも関心を持っていただきたいのです。
マザーテレサが言っているように、「愛の反対は、憎しみではなく無関心である」。平和のために働くことができなくても、平和のために祈ることはできます。何らかの形で、平和に、神の意向でもある人類の和解、ゆるし合いに関与しなければならない、ということです。
アジアの諸宗教との対話を進めるにあたって必要なことは、特にアジアの古い宗教に対する尊敬を持つことと、真剣に話し合うということです。
そして私たちは、相手の中に私たちが持っていない良いものを発見することがあります。彼らも、私たちの中に良いものを発見するというように、お互いに与え合うことができる、これも神のひとつの摂理だと思います。
そういった意味で、対話は自分たちの利益にもなることですね。特に「ゆるし」「人間の尊厳性」あるいは「和解」などの問題は、宗教の本質に関わる問題だと思います。どこの宗教も人間が大切であること、平和が大切であることを説いているわけです。ですから、同じ大きな目標を持つ人たちが協力し合うことが、今の世の中ではたいへん必要だと思います。共に生きるということですね。

女性信徒の役割

「使徒的勧告」の第6章から7章は、教皇が「人間の尊厳を守り、社会に証しする教会」を強調されました。今回特に目立つような表現は、福音宣教における女性信徒の役割です。「使徒的勧告」の2章、イエスの受難と復活のところから女性の役割が多くなってきますが……特に、日本の教会内で女性信徒がどのような役割を果たしていくことができるでしょうか。

枢機卿 例えば教会内でも、小教区におけるカウンセリングなどに、どんどん女性が参画していくこと、男性と一緒にやっていく、教区のレベルでもいろいろなことを決める時に、男性と女性がいっしょになってやっていくことから始めなければならないと思います。
教会の中でも、今までは、こういったことがたいへん不足していました。アジアの古い考え方は、やはり男性優位なんですね。
例えば、日本も中国の思想に影響されていますから、男性の支配する社会という思想が、日本は大きいわけですね。
東京などでは、女性に教会の中のいろいろな分野にどんどん入ってもらっています。
昨年11月に、WCRPの会議がヨルダンでありましたが、それにも信徒の女性4、5人に行ってもらいました。日本でも、女性が社会的なものに発言していくようになってきました。これはありがたいことです。

債務の取り消し

移民など社会的少数者を守るとか、貧しい人々への配慮、また特に、債務の取り消しの問題を教皇は取り上げていらっしゃいます。この点で枢機卿さまは、いろいろなさいましたので、どのような考え方を持っていらっしゃるのか伺いたいと思います。

枢機卿 いちばんの根本は、人間は誰でも神からその似姿に創られたということですね。神の似姿に創られた人間、そしてキリストの兄弟である人間ということですね。そしてもうひとつは、やはり、キリストの愛の教えだと思います。
そのふたつが重なれば、こういった問題に無関心ではいられないし、積極的にかかわっていく必要があると思います。
特に国際債務の問題が難しいのは、キリスト教の倫理観、あるいは創造されたものの理解とつながっていると思います。
神は、すべての人のためにすべてのものを創った、という考え方は、まだ皆に理解されていません。これは大切なことだと思います。
日本人や日本政府はいつもこう言います。「借りたものを返すのは当たり前だ。だから、無償では許さないぞ。返してください。長くかかってもいいです」と。
ところが、今度のケルンのサミットで、他の国々がやったので、日本も仕方なしに「ほとんど帳消しにしましょう。しかし、返す分は返して下さい。その分はあげましょう」というんですが、「その分」というのは、日本の商品なんですね。いかにも日本人らしいやり方です。
私たちは今度、そのやり方には反対する運動を始めていますが………。キリスト教の倫理に、人間が本当に困った時に他人のものを盗っても、罪にならないということがあります。これを盗らなければ死んでしまう、そこにあるのは、他人のものだけれど、盗って食べたとしても罪にならない、そういうような考え方ですね。
純粋な資本主義的な考え方だと、自分の物、あなたの物と、非常に厳密な分け方をしてしまう。しかし、キリスト教的な倫理の中には、私有財産、個人の財産は絶対的なものではありません。貧しい人がいれば、持っているものを分け与える、そういう条件がついて、私たちは個人の財産が認められているのである、というようなキリスト教的考え方があるのですが、キリスト教国ではない資本主義国では、そこまでなかなか理解できないのです。

21世紀の東京教区の方針

最後になりますが、日本における大聖年は、アジア特別シノドスの「使徒的勧告」の実践から始まると思いますが、二十一世紀の東京教区の方針はどのようなものでしょうか。

枢機卿 アジア特別シノドスが開かれたのは、この大聖年の準備のためでした。教皇のお望みは、キリスト降誕二千年にあたって、もう一度心を神に向け直して、新しいエヴァンゲリゼイション(キリスト教化すること)をしましょうという呼びかけだったのです。今回のメッセージは、まさにそれを呼びかけるマグナカルタ(大憲章)です。
このメッセージは、これからのアジアの教会、日本の教会を含めて、その進み方を示すものだと思います。
ですから私たちは、まず大聖年のひとつの大きな恵みである、私たちの回心のチャンスとしてとらえて、福音宣教に新しい情熱を燃やしながら、あの中に含まれていることを、実践に移していかなければならないと思います。
また同時に、見えない世界、つまり諸聖人の交わりという恵みですね。殉教者あるいは諸聖人たちの功をわれわれも受けることができる、免償の問題です。
そういった非常に大きな、目で見える教会と、見えない教会の交わりを深めていき、キリストのもとにすべてがひとつに集められるという、われわれの最終的な目的に向かうよいチャンスだと思います。ですから、教皇が言っておられる「恵みの年」「新しいペンテコステ」になるようにやっていこうと思います。
どうもありがとうございました。

第7回集会司式者・聖体奉仕者養成講座終わる 42名が認定

このたび立川教会で行われた「第7回東京教区集会司式者・聖体奉仕者養成講座」において、左記の方々が奉仕者として認定された。講座のなかで、奉仕者であるとはどういうことか繰り返し話され、黙想を経て今回認定された。実際の奉仕にあたっては、各教会の主任司祭の依頼によって初めて可能となる。

また、12月5日(日)東京教区関口会館ケルンホール、同12日(日)都賀集会所で行われた集会司式者・聖体奉仕者認定更新講座により、計二〇六名が再認定された。

1999年「第7回東京教区 集会司式者・聖体奉仕者」認定者名 (任期は、いずれも2000年1月1日~2001年12月31日)

【聖体奉仕者】17名

赤尾泰子 田園調布 平野南保 田園調布 守永和子 田園調布 矢野さ絵 田園調布 石原恵美枝 麹町 朝川弘士 上野毛 伊藤真理子 吉祥寺 吉田昌古 市川 谷田部朔代ハツヨ 立川 井上美都子 青梅 内田良子 青梅 川田マチエ 青梅 芹川さなみ 碑文谷 千原晴江 碑文谷 鍛冶美和子 関口 荻野靖子 関町 八代とき 初台

【集会司式者・聖体奉仕者】 25名

村山弥生 田園調布 有方由美子 豊島 高杉至ムネ子 豊島 松本ヒロ子 八王子 福原富子 八王子 岡村フヂ子 八王子 藤原優里 八王子 松岡皓予テルヨ 八王子 八木香子 八王子 山本幸子 八王子 横山光平 八王子 長谷川迪雄 上野毛 阿部正敏 小金井 北村芳子 小金井 小山菊枝 成城 堀尾卓司 成城 高橋博 立川 奥村久美子 成田 直木智恵子 高幡 森幸子 高幡 南部浩士 関口 安藤裕利 関口 湯下正子 関口 森セイ子 あきる野 三橋理江子 あきる野

大聖年特別準備委員会企画 明治・大正時代の宣教のあり方を問い直す
– 21世紀の宣教に向けて –

11月13日(土)と27日(土)、真生会館四階学習センターで、「明治・大正時代の宣教のあり方を問い直す」という講演会が行われた。これは教皇ヨハネ・パウロⅡ世が『紀元2000年の到来』の中で、「過去を振り返ることなく新しい千年期の敷居をまたぐことはできない」と言われたことを受けて、大聖年特別準備委員会が企画したもので、3年連続講演会の2年目だった。

昨年の「キリシタン時代」に続き、今回は明治・大正時代の宣教について、四人の講師に様々な視点から話をしていただき、当時の「歩く宣教師」を理想化するだけでなく、カトリックの歩みと政府の政策などがどう関わっていたかについて知ることができました。

第1日目は、太田淑子さん(前上智大学・聖心女子大学講師)の「国づくりの中での宗教・キリスト教」という講演でした。

「近代カトリック史は確立されていない」と前置きされた上で、今までの宣教史資料は宣教者側からだけであったが、琉球からの評定書文書が出たこと、それによればパリミッション最初の宣教者フォルカード師に対する役人たちの監視報告が中央に通じていたこと、明治政府の宗教政策は常にキリスト教を意識しており、西洋的精神思想を入れないために神道を復興させたこと、諸外国圧力の中で、神道と信教の自由の問題については、国家神道を定めた上での信教の自由、さらに神社を宗教と切り離して国家神道にし、宗教を祭祠執行とは別のものにしていったこと等の興味深い内容でした。

シェガレ・オリビエ師(パリ外国宣教会)は、「明治時代の宣教師たちの考え方」と題して、鎖国以後のアジアの宣教史、十九世紀の宣教熱ブーム、パリ外国宣教会等の概観、さらに宣教師たちがフランス辺境の小さな村の信仰の厚い家庭の出身だったこと、当時の「信仰弘布会」の会報に影響され、宣教の冒険と殉教への憧れをもっていたこと、とても「イサマシイ」出立式の歌に送られ、死を覚悟で宣教地へと旅立ったこと等々、話されました。

また1659年に教皇庁から出された「外国宣教に関する指導要領」は非常に示唆に富んでいたのに、その精神が忘れ去られたことはとても残念であると述べられました。

第2日目は、まずガイヤール・ジュリアン師(パリ外国宣教会)の講演「明治・大正の教会をつくってきた宣教師たち」がありました。

長崎と大阪・東京・函館の宣教師とでは宣教目標が異なり、隠れキリシタンを探すために長崎の教会では「見える教会堂」を建て、彼らの世話が大切だったこと、キリシタンの中に教え方、水方、帳方の役割があり、神父が伝道師を同伴することは適当でなかったこと、他方、大阪・東京・函館司牧区では歩き回る宣教師が活躍し、居留地から出て様々な場所に赴き、神父が話し、伝道師が説明し、信者が証しをし質疑応答をしたこと、1883年~1889年は受洗数が増加し黄金時代だったが、「日清戦争勝利でも遼東半島返還」に対し、国家主義や軍部が台頭し宗教不信が起こったこと、資金不足のため1895年で歩き回る宣教の型は終わったこと、当時の教会は天皇制を認め(認めないと追放や迫害の恐れがあった)愛国心を育てようとし、政治的問題に触れず中立であること、被差別部落問題にも触れないことを指示していた等々の話で、とても新鮮な話題でした。

次の太田勝師(福音の小さい兄弟会)の講演は、「明治初期の宣教と山上卓樹」で、被差別部落に生まれた山上卓樹の生涯を通して、明治初期の宣教について考察するものでした。

卓樹のキリスト教との出会い、受洗、伝道について、また元八王子教会の最盛期、当時一度に100人以上の洗礼があったのは被差別部落だけで、「俺たちは人間なんだ」という叫びと、「人間は皆、神の似姿で尊いものだ」という福音の出会いがあったこと、しかしテストヴィド神父が病気療養で離日し、卓樹の部落が大火で焼け人々が離散、しかしその離散した人々が、関東の教会の実質的支え手となっていったこと、また被差別部落の人がいると、教会に他の人が来なくなるという現象によって、政治ばかりでなく「被差別部落」にはふれないという姿勢がとられたこと、当時は「宣教の理念」が曖昧で、「魂を救う」という目標が先で、人間として扱われていない人々に対する姿勢ははっきりしていなかったこと、等々の話を通して、現在の教会の使命を再考するために豊富な示唆を与えられました。 (Sr.石川治子)

訃報

ディエゴ・ルジェリ神父 (フランシスコ会司祭)
12月11日帰天 享年78歳 同師は長い間三軒茶屋教会の助任司祭を務めた。

CTIC 近距離別居

離婚の相談が絶えない。予定を記したホワイトボードにマリア、アンナ、ロベルト、ホルヘ、ローズと様々な名が並ぶが、その後に「離婚の相談」という文字が続く。

離婚後の生活、子どもの養育など、全く目め処どがたっていないのに「もう離婚しかない」というケースも少なくない。こちらも、なんとかそのような事態を回避できないものかと知恵を絞るのだが、多くの場合、相談に来る時には、二人の関係はこじれ切っており、なかなかうまくいかないというのが現状である。

ポルトガル語の通訳のシスター白浜がスタッフに加わって間もない頃、日系ブラジル人のフェルナンドさん(仮名)が来所した。ポルトガル語の相談者第1号である。「離婚」についての相談のためだ。

日本人妻の愛子さん(仮名)は、一刻も早く離婚することを希望しているという。

実際、スタッフが彼女と初めてコンタクトを取った時には、「とにかく私の離婚の決意は変わりません」と声を荒げていた。

「僕はいつも何かする時、『いい?』って、あなたの気持ちを聞いていたでしょ。嫌ならなぜ、そう言ってくれなかったの?」「『いいわよ』と私が答えた時、いやいや答えていたのがわからなかったの?日本人の表現よ」

「君は洋服などを買いすぎるんじゃないか。箪笥の中に着るものはあるじゃないか」「日本では、洋服は『着るものがあればいい』ってものじゃないのよ。時にはおしゃれもしたいわよ」そんなやり取りが続けられた。

「離婚」の理由を尋ねると「理解してくれない」「察してくれない」「不安や問題を共有してくれない」「価値観が違う」などのお決まりの表現で要約されてしまうのだが、具体的な場面でのひとつひとつの出来事に耳を傾ける時、「国際結婚」という、文化の壁を越えた結びつきの難しさを痛感する。「そんなこと、結婚する前にもう少し考えておいてよ」とため息がでる。

何度かの面談を続けながら、お互いに「離婚するしかない」という方向で話が進んでいった。「またか」という思いに包まれはじめた頃、愛子さんから「話を聞いてもらいたい」という電話が入った。彼女の父親ほどの年齢の男性スタッフが彼女と向き合った。それまでとは違って落ち着いた彼女の口から、「離婚」を望むようになった理由と、自分が抱えている不安などが語られた。

また、彼女は、国際結婚が破局したケースで、子どもたちがどのような状況に置かれるかなど、CTICの幾つかの経験に耳を傾けた。

数日後、「話を詰めに」やって来た二人は、「これまでの話と随分違いますが」と前置きして、「近距離別居案」を語り始めた。離婚ではなく、しばらく近所に住みながら別居する。子どもに関しては、お互いの仕事の時間を考慮し、これまで同様、昼は保育園、平日の夜は母親の愛子さんと過ごす。夜間、仕事で子どもと共にいることのできないフェルナンドは保育園の送り迎えをする。愛子さんが仕事に出なければならない土曜、日曜は、フェルナンドが引き取る。

別居を始めるにあたって、二人とも新しいアパートを探し、生活基盤を新たに作らなければならないが、それも、できる限り協力し合って行う。二人が直接向き合って理解し合えない時は、CTICスタッフ、通訳を通じて理解し合えるよう努力する。

どのような話し合いを経てこの「近距離別居案」に至ったかは分からないが、離婚ではなく、家族としての再出発への冷却期間となってくれることを望んでやまない。

1999年、相談日初日は、「離婚」の相談で始まった。そして「離婚ラッシュ」の1年を過ごした。

2000年がフェルナンド君と愛子さん一家の「よい知らせ」でスタートすることを期待している。 (大迫こずえ)

大聖年特別準備委員会企画 新しい世紀に向けて共生への光を求めて
-やさしいまなざしを-

東京教区大聖年準備委員会企画の「新しい世紀に向けて共生への光を求めて」が、11月20日、東京カテドラル構内のケルンホールで開かれた。同委員会企画3回目の今年は、-やさしいまなざしを-というテーマで、作家の辺見庸氏と石牟礼道子氏の対談が行われた。司会進行は森一弘司教。参加者は約150名。そのなかで真剣にメモをとり、質問する立教大学の学生70余名の姿は、新しい世紀に向けて人間の生き方を探るやさしい光にも見えた。 (要旨)

森司教 20世紀は、生命にとって受難の世紀でした。大量殺りく、環境汚染問題、生命が叫びを上げている。生命の尊さにあたたかい、そして鋭いまなざしをもっておられるお2人に対談していただきます。

悪しき制度

辺見氏 1999年は、大きな意味をもっている。日本が大きく曲がっていく節目の年。通常国会で簡単に通ってしまった4つの法案がドーンと立ち向かって来るのではないかとおびえている。

戦争に反対してこなかった宗教者や、言葉を操る人間たちの立ちふるまいを考える時、ささいなことほど注意していないと、曲がり方に協力していくことになる。

石牟礼氏 水俣病の患者さんで、言葉の障害をもっている人が、厚生省の人が来ると『君が代』を歌いはじめた。聞いている人たちはショックでしたよ。

患者さんたちは『御上』を『救い主』として、この世の至福を保障してくれる大きな存在として信じこんでいました。

辺見氏 悪しきものを養いながら来た結果、今のような時代を作ってきた。このことも今後は問いかけていくことが大事。

生きることの初期値

石牟礼氏 若年少の犯罪、無差別殺人、またかと驚くのも疲れますが、無感動になってはいけない。

水俣の漁師は、病気であるにもかかわらず、鳥や泳いでいる魚と、いつも一対になって声をかけ、生命の根源に直に触れ、生活しています。

水俣から40年経過しましたが、何も教訓とはならず、エイズ等繰り返されています。魂の存在を確かめる力も失われつつある。これを文化といえるのでしょうか。

辺見氏 存在の初期値・生きることの初期値がわからなくなっている。マスメディアがこの世界の全域を覆い、人の根源は何なのか、問われていない。

以前エチオピアの砂漠に行った。何もないそこに立つと深い安堵感を感じた。初期値に戻ったような感じで、かけがえのない人の生きる姿があった。

魂の根源はどこにあるのか、簡単には結論は出せないが、絶壁のところに来ている今、勇気をもって後退していくことも必要。

石牟礼氏 崖っぷちに来ているというのは同感です。以前、誰かの本で「豚に悪霊がやどった状態で、人間が坂からころげ落ちていく」というのを読みましたが、今さら後戻りは出来ない。ころげ落ちるしかない。

永遠の課題

森司教 生命をとり戻していくためにどうしたらよいのでしょうか。

石牟礼氏 魂を通わせることです。こういうつかの間の出会いでも心を全開して人様を信じる。そのくらいしかできませんが、そのくらいのことが大切です。

辺見氏 人と人との関係についても初期値を自らに問い続けることが必要だと思う。

森司教 湾岸戦争時、ミサイルを撃つ前に神に礼拝するという欺瞞性、私たちは悪しきものを養っていると思うのですが、どうしたらよいでしょう。

石牟礼氏 今『万葉集』を読んでいます。その中で平気で肉親を殺し、あとで美しい歌を作る。どの国でも殺すことが神の名において成り立つ。人間が文明をもった時から、行われてきました。これは永遠の課題として自分の中にあります。

森司教は「お2人が人間の生き方に対して真剣に問いかけていらっしゃることが私たちの心に深く伝わってきました。人間のことを真剣に考えていく人たちの輪が、新しい世紀に向けての歩みとして少しずつでも広がっていくことが出来れば嬉しいと思います。どうもありがとうございました。」と結んだ。

辺見 庸氏

作家。『自動起床装置』で芥川賞『もの食う人々』で講談社ノンフィクション賞受賞。著書多数。最新刊に『独航記』
石牟礼道子氏
作家。69年水俣病患者の精神世界を描いた『苦海浄土』発表。著書『形見の声』他多数。最新刊に『アニマの鳥』

生涯養成コース研修会 現代人の目でこれまで語り伝えられてきた カトリックの教えを問い直してみよう その3

第1回目

10月16日(土)、山本襄治師(イエズス会)が「聖書の中の罪」のテーマで話した。
講話の要旨は次の通り。従来カトリックでは、カテキズム(教理)が中心に教えられ、聖書が中心ではなかった。
教理の説明や教令、教書などに聖書からの短い引用句が使われるが、それだけで聖書を理解するのは不適切で、聖書を読むときはその一行のみで解釈しない。その前後関係、書かれた背景を読み取ることが大切である。
それを前提として、聖書の中の罪を見ていくと、旧約では創造・十戒・契約を通しての、神とイスラエル民族・神と個人との具体的関わりの中で、実に多くの罪が語られている。
アダムとエワの罪、カインの罪、ノア物語に描かれる人間の堕落と滅び、バベルの塔を造り始めた人間の罪、サウルの罪、ダビデの罪、これらに一貫して見られる罪の認識は、「神のことばに対する不従順」ということである。
罪に対する神の怒り、罰としての追放や災害も語られるが、聖書の主題は罪の故の滅びではなく、根本は救いの物語である。人間を創り、祝福し、その愛の内に留まることを求める神、その愛を裏切り、離反していく罪、これに激しく憤りながらも、罪に傾く弱い人間を見拾てず、これと関わりつづけていく神、関係を刷新していく神を描いている。
新約聖書は、罪を避けられない人間に神の側から和解の手が差しのべられたこと、自ら人となって罪人を招くために来られた神の子イエスとイエスの宣教した神の国が語られる。
新約の視点においては、この神の和解への招きを拒絶する自由意志による究極の罪が、ファリザイ人の罪の指摘、婚宴のたとえ話などで語られている。というものであった。

第2回目

10月30日(土)、フランシスコ会の福田勤師が「十字架による罪のゆるしと救い」のテーマで話した。
講話の要旨は次の通りである。
人間は自由意志を与えられた。自由意志による愛の交わりに招かれている。
人間側からの、自由意志による「愛の交わりの断絶」、これが罪である。
愛の完成に向う自由、それが妨げられるなら、そこから解放されなければならない。どのような人も愛に生きる自由を持っており、平等である。聖書が言っている「自由」は、この愛に向う自由のことである。
しかし、人間はこの自由の故に、罪を犯すことができる。聖書は、人間と神、人間と人間の間の断絶(罪)を描いている。本来あるべき姿でなくなっている人間の現実、これをかつては「原罪」と見ていたが、現代では堕罪と呼ぶ方がふさわしいと思われる。
ここで、十字架が指し示していることと、十字架が呼びかけていることを見てみたい。
旧約的神理解の上に、人間の側からのなだめの行為として「いけにえによる和解」があった。十字架の出来事は、最高のいけにえとして贖罪的救済論が成立したが、十字架の出来事は、単なる「いけにえ」をこえたものである。
イエスは自分自身を捧げた。犠牲だけではない。父のみ旨(愛の呼びかけ)を生きぬいた結果が、十字架の死であった。神の究極の愛の行為である。イエスは十字架という行為によって、人間と神の断絶を再びつなぐ橋渡しとなった。大祭司キリストと言われる。
十字架が指し示しているこのことが、福音である。イエスの十字架の死は父なる神の愛の告知であり、断絶をうめる恩恵の海となった。
この十字架が呼びかけていることは、愛に生きることである。十字架の神秘は、神の愛の神秘である。人間にまでなって、十字架の死まで受け入れて、おろかなまでの神の愛の行為。宣教の原因はこれにある。神の愛を告げ知らせること、ヨハネがくどいほどくり返して語るのも、このことである。そして、十字架による「救い」とは、この神の呼びかけに、こちらから自由意志をもって答え、交わりを復活していくことである。

第3回目

11月13日(土)、横浜教区の小笠原優師が「現代人の罪理解」というテーマで話した。
小笠原師は、テーマをさらに「現代日本人の罪理解」に絞り込み1.現代のわたしたちの社会では、一般に罪の理解はどのようなものか2.罪の問題におけるわたしたちの福音的な証しはどうあるべきか、という二つの問題提起をして講話に入った。
日本におけるこれまでの罪悪感は、古代からの神道、仏教、儒教、身分制社会のモラルなどの影響を受けている。
神道的なものとしては、自然や秩序に反すること、人間にとっての凶事を「まがごと」や「穢れ」として忌み、「祓え」や「みそぎ」によって浄化しようとしていた。
仏教では人間の弱さ、煩悩からくる悪への傾きが、五悪、十悪、五逆等の罪業として示され、これらの戒めや、成仏のための仏による他力救済が語られた。儒教は死者儀礼を定着させるということで仏教に多大な影響を与え、宗教というよりは、家を中心とした社会道徳を成立させた。
これらの流れの中から、日本文化として固有の「恥の文化」が形成された。この日本固有の罪意識、穢れ、恥の思想は、いずれも対自然、対人間社会的なもので、宗教的には多様な混在を見ながら、キリスト教のような根源的な悪と罪意識、救いに関しては希薄であった。
また、これら従来の日本の宗教は、いずれも政治と結び発展した経緯をもち、制度化され、社会道徳として力をもったが故に、宗教のもつ根源的な悪と罪と救済への接点が見失われ、空洞化した。そのため、時代の変わり目の混乱期には、多くの新興宗教の発生を見ている。
しかし、これら新、新々宗教も、近現代の物質中心主義的なニーズから成立したものであり、真の悪と罪からの解放を示していない。
むしろ、時代を反映して、自教団の利のために反社会、非人道的行為を行うものも出現し、根源的な悪がふき出した観もある。このような現状をとらえ、福音的な証しを模索していくとき、かつて日本人が心情的にもっていた穢れや浄化、仏教的悪業と救済観を見直してみる必要があるように思われる。(天辰七郎)

教会を救うのは男か女か ~東京教区 女性と教会委員会主催講演会~

秋の好天気に恵まれた11月6日、関口会館二階で、講演会「教会を救うのは男か女か」が、40名ほどの参加者を交えて開催された。

これは東京教区・女性と教会委員会が「行き詰まった今の日本社会で、モデルがない現代の新しい男性像・女性像」を社会・家庭・教会の側面から探ろうと企画してきた講演会シリーズの最終回である。

ちなみに、第1回は昨年12月5日、フリージャーナリストの斉藤茂男氏(5月28日逝去)とサンケイリビング編集長の山谷えり子氏と共に「社会を救うのは男か女か」を考え、第2回は5月15日、臨床心理士の山田和恵氏と朝日新聞社東京本社社会部記者の平井公氏と共に「家庭を救うのは男か女か 加害者となる家族・癒しとなる家族」を考えた。

今回の出席は、白百合女子大学助教授・長島世津子氏、聖心侍女修道会・シスター石川治子、千葉寺教会のマーフィ神父(コロンバン会)の3人。

最初にマーフィ師が、第2バチカン公会議前後の、教会内での女性の役割、地位の変化について、休暇で戻られたときの母国アイルランドでの出来事を含めて話した。

以前は女性自身の意識も低く、差別すら感じないで、多くのことができない、意見を求められないままにきた。

しかし公会議後30年を経て、これらのことは変化しており、女性の働きが期待されるようになっている、と語り、「女性」「男性」両方の存在が大切だと述べた。

続いて長島氏は、女性学が専門なので、女性の地位について、旧民法の影響や変化、アメリカの動き、家裁で取り扱われていることなど、社会の変動を交えて話した。

その中で、教会が世の中に光を発信できるとすれば、ともに助け合っていくことを示すことではないかと、社会の中で働く聖霊の動きを見いだしていく必要とともに、社会の中に生きる教会のあり方を問われた。

現在は正平協で働くシスター石川は、教会は今、救いの場になっているだろうか、という問いから始まり、女性自身が名をもって呼ばれたユニークな存在であることを自覚し、神の子の自由を生きようとしているだろうかと問われた。

「私」だけに与えられた使命があり、それを果たしていく重要性を述べながら、内乱後のグアテマラで、先頃も、司教が虐殺されたが、先住民族抹殺の痛みの中で、軍部からの暗殺予告を受けながらも活動する女性グループが、生き生きと働いていることを紹介し、日本の教会で、今、女性自身が何ができるのか、何をしたいのか、を自覚することが第一歩で、そこから教会に変化が生まれてくると語った。

このあとティータイムをはさんで参加者の質問や感想、疑問、反論が出されたが、女性の意識変革も大切なのではないか、ということで、3回シリーズを終了した。 (Sr.緒方真理子)

お詫びと訂正

168号「教会・修道会巡り74」 三軒茶屋教会の電話番号は、(正)03-3421-1605 です。お詫びして訂正します。

お知らせバスと電車で巡る 江戸切支丹殉教ゆかりの地

A2版十字折り カラー印刷 1部 300円

このリーフレットは1991年、大司教区創立百周年記念事業の一環として発行された、教区内の殉教遺跡巡りの便利な案内書です。既に公式販売は終わっていますが、少し残りがありますので、カテドラル構内スペースセントポールで販売しています。どうぞご利用ください。なお郵送はご容赦ください。
(発行責任者)

シリーズ 揺れる司祭像13
司祭でなければできない司祭の役割 杉田 稔神父 (佐原教会主任司祭)

第2バチカン公会議も第二会期が終わったばかりの1964年春、司祭生活6年目の私は、司祭の役割についての大きな疑問が湧きました。

土井大司教の命を受けて、「JOC=カトリック青年労働者連盟」全国指導司祭になった時のことです。

それまで青年会、土曜教室やカトリック・ボーイスカウト運動に関わって来た助任司祭の私は、いっぱしのリーダー気取りでした。

ところがJOCの全国書記局に来てみると、素晴らしい信徒リーダーたちによって、青年労働者と彼らの世界を変える運動が着々と動かされているのです。私の出番が無い!

司祭として何をしたらいいのか途方に暮れている私に救いの手を差し伸べてくれたのは、国内、国外の先輩指導司祭たちでした。

結論的にいえば、本来使徒的生活に召されている信徒に対する司祭の第一の役割は、「命令するのではなく、)キリスト)魂を植えつけること」
第2の役割は、信徒の世界と聖職者の世界の橋渡し。

第3の役割は、本来は信徒の仕事と承知の上で、必要に迫られて神父が手を貸す仕事。

これは出来るだけ控えよ。さもないと信徒自身の本来の役目の自覚も、能力の成長も妨げてしまう。これは司祭のなし得る最大の悪だ、というのです。

信徒本来の役目、働きとは、一体全体何でしょう?

それには、神の民である教会の目指す目的は何かを、明確にとらえなければなりません。

それは決して、信者数の増大でも、立派な聖堂の建設でも、天国を善人の霊魂で満員にすることでもなく、神ご自身によってこの地上に始められた神の国の全世界への拡張=神の望まれる世界のこの地上での実現=だと言うのです。 (教会憲章9項参照)

私たちは、手段あるいは結果と、目指す目的と取り違えていたのではないでしょうか?

教勢低迷の原因が、案外こんなところにあるのかもしれません。

この地上の世界を、キリストの心にかなうよう変える(福音化する)直接の担い手は、この世にどっぷりと漬かり、共通の話題をめぐる対話の相手を、身の回りに持っている「信徒」です。

キリストの心でこの世に関わり、学生は学生を、労働者は労働者を、一般の人は周囲の人を(知らず知らずのうちに)動かして、みんなでこの日本を変えて行くのです。

勿論、司祭も神の民の一員として、自分が関われる限り、この世の人々を変える働きはします。しかし、限界があります。司祭はPTAにも、労働組合にも入れません。

しかし司祭は、本来神のわざである「キリスト魂を植えつける」のに不可欠の手段を授かっています。

1つは信徒とのホンネの対話を通して、信徒の周囲の世界とのかかわりの、時には、「動機」を、時には「目の付け所」を正したり、高めたりします。

もう1つは、ミサを頂点とする典礼によって、神の光と力を取り次ぐのです。

ミサは儀式ではなく、本来「共同体の祈り」です。

それなら、目的を共有する人たちみんなが、一致を体感しなければ意味ありません。

その現実の早道は、ミサの祈り全部にふさわしいメロディーをつけて歌うことです。

「祈り」なら何を祈っているのか、歌詞に示される祈りの中身を理解し、心にかけていなければ、ただのお義理の勤行か、おまじないになってしまいます。

信徒の一人ひとりが、周りの人と共に自分たちの世界を変えるよう動き出すよう、正しいアドバイスができるためには、司祭自身の生活が、隅から隅まで、主の望みを満たそうとするものに、ならなければならないし、みんなで正しく祈れるまでには、もっと、もっと成長しなければなりません。

「日暮れて なお道遠し」ですが、主のお導きと力をあらためて願うしかありません。

やがて、私たちのミサが自分たちの生活と行動に促されて「み国の来たらんことを」願う「みんなで捧げるミサ」となって行く時、今の聖堂が生きがいを捜している青年たち、神を求めながら、まだ洗礼を受けていない人々で溢れるのを夢見てはいけないでしょうか。

教会・修道院巡り(74) 神の愛の宣教者会

1997年9月に帰天したマザーテレサによって設立された本会は、貧しい中の最も貧しい人々への奉仕という使徒職に遣わされています。

本会は、1950年10月7日に、教区の許可を受けてカルカッタに創立されましたが、真の意味での出発点は、1946年9月10日に溯ります。この日、後にマザーテレサと呼ばれることになるロレット聖母修道会のシスター、テレサ・ボジィアクスは、カルカッタからダージリンに向かう列車の中で、特別な神の招きの声を聞きました。

この招きは、「誰からもまったく顧みられない貧しい人たちに奉仕するように」というものでした。この招きが実現されるまで、シスターテレサ・ボジィアクスは2年間、待たなければなりませんでした。

1948年8月8日、修道服からサリーに着替え、シスターテレサ・ボジィアクスは、カルカッタのスラムへと遣わされたのです。ほどなくこの1人の修道者の姿(大都会カルカッタの見捨てられた人々、その中でもとりわけ、社会から全く無視されている人々のために奉仕する姿)に何かを感じた者が現れ始め、本会の礎が築かれて行ったのです。

会の精神「我渇く」
イエズス・キリストは絶えず私たちに「あなたを渇き求めています」と呼びかけております。

あなた(人間一人ひとり)が私(イエズス・キリスト)を忘れている時も、私は一日中、あらゆる瞬間にあなたを探し求めています。今までに、あなたがどんなことをしたとしても、私はあなたを、あなたであるがゆえに愛します。あなたの惨めさも罪もすべてもったまま私のところへいらっしゃい。あなたの悩みや欠点、そして愛されたい望みなどをすべてもって。私はあなたの心の戸口に立って叩いています。「戸を開いてください。私はあなたを渇き求めています」

会員たちの使徒職(ほんの一部)
・この世の中で見捨てられた人々へのケア(死を待つホーム)
・ストリートチルドレンやスラムに住む子供たちへの教育と公教要理
・未婚の母親たちと子供たちへの種々の支え、家庭の不和のしわ寄せによって、疎外されている人々や社会の組織から締め出され、苦しみの中にいる人々へのお世話
・様々な訪問と面会(ホームレス・病人・拘置されている人・高齢者・障害を持つ人への)
会を導く三つの精神的柱
■ lovingtrust(神に対する絶対的な信頼) ■ totalsurrender(完全な自己放棄) ■ cheerfulness(すべてを喜んで受け入れること)
この三つの精神的な柱を通して常に神と結ばれ、会の固有な使徒職に遣わされているのが本会です。

天国のわが輩はペトロである(12) O神父の離島ミッション珍道中(2)

O神父は、ケンちゃんと呼ばれている30代半ばの男性と御蔵島を訪問することになった。

「パウロがバルナバと宣教したように、ミッションは2人で行くものだ」とO神父はもっともらしく言っていたが、本当のところは、一人で行くのが不安だったのだ。

ケンちゃんとO神父は、早朝の便で羽田から三宅島に飛び、午前中に三宅島在住の2人のシスターを訪ね、外国人信徒に関する情報を得た後、午後の連絡船で御蔵島に渡るという計画をたてた。

「待ち合わせは飛行機の中で」と約束していたが、2人が出会ったのは飛行機に向かうバスの中だった。

「飛行場のロビーでK教会のB神父と会ってびっくりしちゃった。B神父さんは『長崎の巡礼に行く』と言っていたけど、お年寄りの真ん中に座って、ぼーっと虚空を眺めているんですよ。こんな所で会うのもそうですが、B神父の姿に何か不吉な予感がしませんか」とケンちゃんが言うと、O神父も「そりゃー不吉だな」と不安そうな顔をした。

一体何が不吉だというのだろう。猫の私にはこの男たちの頭の回路がどうなっているのか想像もつかないが、どうも普通だとは思えない。

学生時代に、火事でアパートを焼け出されたケンちゃんは、大学の先輩だったB神父の下宿に転がり込んだことがあると聞いている。

鶴だって亀だって恩を忘れないのに、恩人に対して「不吉だ」なんて言うのは人間だけだ。ケンちゃんもO神父と同様に脳天気な男なのかもしれない。

プロペラ機のYS11は快調に飛んでいたが、太平洋上に出ると激しく揺れ始めた。身体を固くしながら「やっぱりB神父に会ったのは不吉だ」とケンちゃんは繰り返したが、あながちケンちゃんの「不吉だ」との思いを笑えないところがある。

不安は次第に姿をあらわし、彼らを待ちかまえていたからだ。三宅島の空港には、真っ白な修道服を着けた小柄なシスターが出迎えていた。彼女の名前はシスターJと言った。

シスターは早朝に「朝の連絡船は欠航になりました。昼の便も出るかどうか分かりません。波が3~4メーターあるそうです」との連絡をO神父に入れていた。

シスターは、ドイツ人の元大学の先生が建てたチャペルに彼らを案内すると言った。シスターの運転する軽自動車は軽快というより、センターラインを跨ぎながら、恐れを知らずに突っ走る。「シ、シスターいつ免許を取ったんですか」と聞くO神父の声が震えている。ケンちゃんも足を突っ張り、顔も身体も強ばらせている。

チャペルに着くと、シスターは車をバックさせ、縁石にドスンとぶつけて駐車した。首をさ]すりながらケンちゃんは「やっぱり不吉だ」と小声で言った。

しゃれた小さなチャペルは2階が礼拝所、1階が喫茶室になっていて、毎週プロテスタントの信徒が礼拝のために使っているという。「私は来島して20年になりますが、ここに来た司祭は、神父様で4人目です」とシスターは言った。

「ということは、20年の間、ほとんどミサがなかったということですか」とO神父。うなずきながらシスターは「私たちは隠遁生活をしているので、この島の人とお付き合いがないので、何人の信徒がいるか分かりませんが、色々な悩みや問題を抱えていると思います。フィリピンの方たちも何人かいると聞いていますが、お会いしたことがありません。常住でなくても、司祭がいてくれたらといつも思います」と言った。「20年の間に訪問した神父はたった4人か」とO神父は大きな溜息をついた。 (つづく)

金枢機卿を迎えて 第2回Y.G.T開かれる

11月21日(日)、第2回Y.G.T.(YouthGatheringinTokyo)が、東京カテドラル構内で開催された。
今回は、韓国から金寿煥(キム・スファン)枢機卿を招き、同枢機卿による皆が親しみやすいカテケージスや、同枢機卿と、森司教、そして十数名の司祭による、共同司式のミサが行われた。
ミサ後、軽食をとりながらの交流会が開かれ、白柳枢機卿も参加された。
半日という短い時間ではあったが、集まった約200名の参加者にとって、また新たな出会いの場になったようだ。
次回は、2000年5月28日(日)麹町教会で開催予定。 (坂上千恵)

ホスチア(オスチア)焼成の変更についてのお知らせ

この度、白柳枢機卿様のご要請を受け、東京女子カルメル会よりホスチア(オスチア)焼成を当会が引き継ぐことになりました。
聖体・司祭職・典礼に奉仕する使命を受けている私たち、師イエズス修道女会にとり、日本の教会の中で、この使徒職を果たせますことを心から喜んでおります。
今後、より一層の精進を重ねてまいりたいと思いますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
連絡先 〒192-0004 八王子市戸吹町1490 師イエズス修道女会 オスチア係 Tel. 0426―91―3260 Fax. 0426―91―3319

五日市霊園をご利用される皆様へ

五日市霊園の玄関より休憩所にいたる坂道は、現在カトリックあきる野教会建築のために、一方通行の片側通行となっています。
また、当面は工事用の大型車両が、頻繁に通行しておりますので、ご注意下さい。ご不便をおかけしますが、しばらくの間のご協力をお願いいたします。
工事期間 2000年4月初旬迄の予定です。 (休、祝日は工事は休みとなります) カトリックあきる野教会建築委員会

編集部から

巡礼というのは、時代を越えて、人の心をつかむ力を持っている。特に聖年の巡礼ということではなく、一念発起して教会を歩いている人が訪ねてきた。一言書いてほしいといってスケッチブックのようなものを渡された。ありきたりのことを書いて、他のページを見ていいかと聞くと、どうぞということなので、1枚ずつめくってみた。東京教区だけではなく、横浜、浦和も歩いておられた。

時間をつくっては、歩いているのだということである。訪ねた教会の写真、保護の聖人のご絵、教会を紹介する小さなパンフ等が貼ってあった。中には、訪問客のために用意しているようなスタンプとかシールも見受けられた。

2000年は大聖年。巡礼の年である。ローマ巡礼のパンフがどの教会の聖堂の入口にも、うずたかく積まれている。一生に一度の海外旅行という時代は過ぎて、納得のいく旅の時代に入っている。観光ではなく、己の信仰にカツを与える旅がうけているようだ。

東京教区でも、巡礼指定教会がいくつかあげられている。免償をいただくということも大事だが、こういう機会に教会を巡ることを勧めたい。教会は、それ自体が信仰の発信体となっていて、足を踏み入れるだけで、言葉につくせない恵みがいただける。キリストに会う恵みとでも言おうか。 (西川哲彌)

VIVID

テイヤール研究読書会(東京)

◇日時:1/18、2/1、2/15、3/7、3/14(第1、第3火曜日)19:00~20:00◇場所:カトリック松原教会2Fホール(世田谷区松原 2-28-5 京王線・井之頭線「明大前駅」下車徒歩4分)◇内容:テイヤール・ド・シャルダンの『神の場』第2部受動的なものの神化(教 材は当方で用意)◇指導者:美田稔氏(テイヤール翻訳家)◇会費:無料◇対象:どなたでもどうぞ◇問合せ先:Tel0425-35-3046美 田稔/Tel03-3332-8866竹田誠二

若い人々の黙想会

◇テーマ:語ろうよ、小さな生きがい◇日時:2/13(日)10:00~16:30◇場所:汚れなきマリア修道会町田祈りの家◇対象:青年男女 ◇指導:清水一男師(マリア会)◇参加費:\1,300◇申込:2/6(日)までに、電話、Faxで下記へ〒194-0032町田市本町田 3050-1Tel042-391-4952、Fax042-395-2092 汚れなきマリア修道会Sr.小林

Jesus2000聖霊による刷新全国大会 ―大聖年をともに喜ぼう―

◇テーマ:主の栄光への招き◇日時:2/11(金)13:00~2/13(日)15:00〔12日(土)には白柳枢機卿司式のミサがあります〕◇場所: 東京ホテル浦島(晴海)◇講師:トム・デイロレング師(ボストン大司教区教区司祭)◇定員:600名◇会費:日帰り1日\3,000(当日会 場で受付)◇対象:どなたでもどうぞ(部分参加も可)◇問合せ:〒160-0002新宿区坂町5SKハイム103 聖霊による刷新事務所(ヒ スロ)Tel03-3357-8138 Fax03-3357-9504

神の呼びかけに耳を傾けませんか

◇テーマ:修道召命を考える◇日時:2/11(金)16:00~2/13(日)16:00まで◇対象:20代~30代未婚の女性信徒◇指導者:マヌエ ル・デイアス師(イエズス会)◇場所:調布修道院(〒182-0034東京都調布市下石原3-55)京王線調布駅より徒歩15分◇参加費: \4,000(宿泊費、食事代等)◇持参品:聖書、筆記用具、洗面具等◇申込み:2月8日(火)までに下記へ〒182-0034調布市下石原 3-55 コングレガシオン・ド・ノートルダムTel0424-82-2012Fax0424-82-2163 シスター秋山

VMI(カトリック高齢者会)主催の講座

1月の勉強会

◇日時:1/4(火)◇会場:事務所◇指導:塚本伊和男師 ◇日時:1/18(火)◇会場:三軒茶屋教会◇指導:泉富士男師 ◇日 時:1/21(金)◇会場:高輪教会◇指導:泉富士男師◇時間:各会場共通13:30~15:00◇会費及び申込:不要

1月の散策会

◇日時:1/18(火)10:30地下鉄「東高円寺」駅集合◇行先:蚕糸の森、高円寺教会◇解散予定:14:00

旅行会

◇日時:2/11(金)~19(土)◇行き先:海外聖地巡礼:ヨッバ・カイザリア・カナ・ナザレ・テイベリア・エリコ・エルサレム◇同行司祭: 塚本師、泉師◇費用:\350,000(催行20名以上)

パッチワーク・キルト同好会

◇日時:1/13(木)13:30~15:00◇場所:ビ・モンタント事務所

絵画同好会(新設概要)

◇日時:4月から毎月第3水曜午後3時間予定◇場所:洗足教会◇参加資格:VMI会員他どなたでも自由、希望者は当日おいでくだ さい◇内容:水彩、クレヨン、パステル、色鉛筆いずれでも(油は使わない)◇指導:日塔笑子(カトリック美術会会員・日本美術家連盟 会員・元一水会会員)◇会費:\2,000(含画材料費、光熱水費等)出席の都度(月当り)お納めください◇年会費:若干

以上いず れも、◇申込・問合せ先:荒川区西日暮里1-61-23 リレント西日暮里102 VMI東京支部事務所 執務時間火・木・土14:00~ 16:00Tel/Fax03-3806-9877

第22回「聖フランシスコ・ザビエル友ゆうクラブ俳句会」(VMI東京支部)

◇句会日時:1/28(金)11:30~15:30◇場所:カトリック神田教会信徒会館◇投句:ハガキで◇兼題:「年末」「年始」「春」通じて3句 以内◇投句先:住所・氏名・電話番号・所属教会・出欠(投句のみは欠席)を明記の上、〒101-0065千代田区西神田1-1-12カトリッ ク神田教会内「聖フランシスコ・ザビエル友ゆうクラブ俳句会」、または下記係宛◇締切り:1/1必着◇参加資格:年齢不問◇当日会 費:\1,000◇年会費:\1,500◇持参するもの:天景(\500以下の品物)・筆記用具◇運営方法:互選(準備済)・食事(当番準備 済)・互評(気軽に輪番で自由に)・散会(結果は作品集を全会員宛に郵送)◇問合せ先:木田英也(世話人)〒279-0011千葉県浦安 市美浜1-6-611Tel/Fax047-355-7478

土曜日の午後のひと時、いつも共にいてくださる主の内にじっと私をおいてみませんか

◇テーマ:新しい力をいただいて、主とともに歩むための、月に一回の“神様ブレイク”◇日時:第五回2/26(土)14:00~16:00◇祈り たい方、祈りの体験をしたい方はどなたでも◇場所:八王子市戸吹町1490師イエズス修道女会八王子修道院◇連絡先: Tel0426-91-3236(シスター加藤)

キリスト教精神に基づいた 生涯学習シリーズ講座

総合テーマ〈人間について考える〉
〔聖書の光の中で〕

〈新約聖書〉の中の四箇所を読み学ぶ
◇日時:1/24、2/14、2/28、3/13(月)13:30~15:00◇講師:石川康輔師(サレジオ神学院)◇費用:4回\3,300
祈りへの道―ミサとみことば―

◇日時:第2部1/19、2/16、3/15(水)13:30~15:00◇講師:関根英雄師(町田教会司祭)◇費用:3回\2,600

救いの歴史(旧・新約聖書)

◇日時:第5部1/15、1/22、1/29、2/19、2/26、第6部3/4、3/11、3/18、3/25(土)10:30~12:00◇講師:マグダレナT.A. ◇費用:第5部5回\4,200、第6部4回\3,300

『出会いを求めて』―キリスト前後―

◇日時:第14部1/22、1/29、2/12、2/26、3/11、3/18(土)10:30~12:00◇講師:粕谷甲一師(東京教区司祭)◇費用:6回\5, 000

キリスト教入門を教える人のために(第4期)

◇第5部日時:1/29、2/5、2/19、2/26、3/11、3/18(土)10:30~12:00◇講師:森一弘師(東京教区補佐司教)◇費用:6回\5, 000

2000年の教会の歴史(第3期)

◇講師:M.クリスチャン師(淳心会司祭)◇日程:1/18、1/25、2/1、2/8、2/15、2/22、2/29、3/7、3/14、3/21◇受講料: 10回\5,000◇テーマ:「中世後半からフランス革命まで」◇第3部:4月~7月(10回)「カトリック教会の宣教師・フランス革命から現 代まで」◇時間:火曜日14:00~16:00(講義は15:30まで)
〔現代社会との関わりの中で〕

救いの歴史における大聖年

◇講師:石井健吾師◇日時:1/22(土)13:30~15:30◇費用:\1,000

バチカンと私たち

◇日時:1/29、2/5、2/19(土)13:30~15:30◇テーマと講師:バチカンと世界の関係 エムローズ・デ・パオリ(ローマ教皇 大使・大司教)通訳:深水正勝師(枢機卿秘書)、バチカンの歴史 M.クリスチャン師(淳心会司祭)、カトリック教会と政教分離の原 理 深水正勝師(枢機卿秘書・東京教区司祭)◇費用:3回\3,000

〔人と人との絆の中で〕 教育再生のためのもう一つの道

◇日時:2/26(土)13:30~15:30◇講師:申谷雄二(都立南葛飾高校教員)◇テーマ:魂の叫びによりそって◇日時:3/ 4(土)13:30~15:30◇講師:横川和夫(フリージャーナリスト)◇テーマ:競争から共生へ発想の転換を
◇費用:2回\2,000

祈りの創造的試み―その2

◇日時:3/11(土)13:30~15:30◇講師:J.M.ウマンス師(神言会司祭)◇テーマ:詩篇で育てられて瞑想へ◇日時:3/18(土) 13:30~15:30◇講師:星野正道師(カルメル修道会司祭)◇テーマ:現代の若者の歌の中の祈りと霊性について◇費用:2回\2,000
いずれの講座も場所は、「真生会館学習センター」(JR信濃町駅前)◇申込み方法・問合せ先:電話、または、ハガキ・申込み用 紙に住所・氏名・講座番号・講座名を記入して下記まで「真生会館学習センター」〒160-0016新宿区信濃町33Tel03-3351-7123

新年の集いと総会

◇日時:1/24(月)13:30~16:00◇場所:ミサ(白柳枢機卿司式)東京カテドラル聖マリア大聖堂、新年の集いと総会:カトリックセン ターホール◇参加費:\500

特別聖書講座~みことばを生きるために~

◇日時:1/13(木) 2/3(木)13:30~15:30◇講師:稲川保明師(東京教区司祭)◇テーマ:「今月の主日の聖書朗読から」◇場所: 東京教区関口会館2F◇参加費:\500
いずれも◇主催:東京教区カトリック女性同志会◇問合せ:森脇03-3447-2231滝口 03-3844-7066武藤042-378-9377

三位一体の聖体宣教女会『祈りの家』講座

聖書で祈る

◇指導:雨宮慧師(東京教区司祭)◇日時:2/26(土)17:30~2/27(日)16:00◇対象:女性信徒

召命を考える祈りの集い

◇指導:星野正道師◇日時:2/11(金)10:00~17:00◇対象:女子青年

キリスト教講座

◇毎週木曜日10:00~11:00

大聖年聖書に親しむ集い

◇講師:マグダレナT.A.◇対象:信徒◇テーマ:御父、御子、聖霊との交わり―秘跡を通して―◇日時:毎月最終木曜日14:00~ 15:30(7、8、12月を除く)

十字架の使徒職(司祭のために祈る集い)

◇対象:信徒◇指導:本会会員◇期日:第1グループ:毎月第2金曜日14:00~15:30第2グループ:毎月第1木曜日14:00~15:30

上記講座のいずれも、場所・問合せは下記まで〒189-0003東村山市久米川町1-17-5Tel042-393-3181Fax042-393-2407三位 一体の聖体宣教女会

召命黙想会「聖年」そして、聖ベルナデッタ入会130年を記念して…

◇日時:2/26(土)16:00~2/27(日)16:00◇場所:イエズス会黙想の家(練馬区上石神井)◇指導:デイアス師(イエズス会)◇対象: 20代の女性信徒◇費用:\4,000◇申込:2/15(火)までに電話・Fax・葉書で下記へ〒156-0044世田谷区赤堤2-32-19 ヌヴェー ル愛徳修道会Tel/Fax03-3327-0535 Sr.二宮、Sr.花坂

聖地イスラエルってどんな国? 聖地の旅準備会のお知らせ ~大聖年の巡礼にそなえて~

◇日時:2/13、3/12、4/9、5/14、6/11、7/9、10/1、11/12、12/10の各日曜日14:00~16:00(勉強会後、希望者のためのミ サ有り)◇内容:真の意味の「巡礼」とは何かを考え、エルサレム、ガリラヤ、荒野、シナイなど地方ごとに歴史、地理、風土を聖書のこと ば、スライドその他の資料で紹介◇場所:真生会館(JR信濃町駅1分)◇講師:鈴木信一師(聖パウロ修道会)、井上弘子(道の会)◇ 対象:聖地と聖書に興味のある方ならどなたでも◇会費:\1,000◇申込・問合せ:道の会井上弘子〒164-0013中野区弥生町 1-19-1-201Tel/Fax03-3379-5571e.mailhiroko@mars.dti.ne.jp 瀬川真佐子Tel/Fax0492-86-6291

高田三郎作品による リヒトクライス 第7回演奏会

◇日時:2/11(金・祝)◇場所:東京簡易保険会館 五反田ゆうぽうと◇費用:\2,500◇問合せ先:信夫蓉子048-874-5776

召命一日静修 ~呼ぶ・呼ばれる~

◇日時:1/15(土)14:00~1/16(日)16:00◇対象:修道生活を希望する35歳までの未婚女性信徒◇場所:八王子市戸吹町1490 師イエズス修道女会八王子修道院◇連絡先:Tel0426-91-3236(シスター加藤)