お知らせ

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東京教区ニュース第76号

1990年09月01日

東京教区青年の新たな動きネットワーク始動

NICEの精神を受け、教区青年の問でも、共に歩もうとする動きが生じている。特に今年は2年前から行なわれている1泊交流会を母胎として、ネットワーク事務局が発足した。様々な現場で活動している青年が、互いに出会い関わることで、新たな教会像をめざし試行錯誤している。

泊流会は出会いの一歩

’87年11月に開催されたNICEでは「共に喜びをもって生きよう」という精神が確認されたが、青少年の立場から取り組んだものが「教区青年1泊交流会」(略称泊流会=ぱくりゅうかい)である。

教区では、NICEに先がけて87年5月に青少年担当司祭団を発足し、青年層への新たな取り組み方の模索をはじめた。

青年の教会離れが進む中でまず司祭団が重視したことは、ともかく青年たちに教会体験を通して自分連の信仰を見直してほしいということだった。そこで、青年の絶対数の不足している小教区レベルでは難しくなってきている、青年が教会体験できる場作りを、司祭団が奉仕していくことになり、おもだった小教区の青年たちに呼びかけてスタッフとなってもらい、88年2月第1回泊流会が行われた。

手さぐり状態の中で開かれた1回目は、120名の青年が集まり、まずは成功。以後回数を重ねながら着実な成果を生み、現在6回目を準備中。毎回100名前後の参加がある。今後も、半年に1度(春と秋)の割合で続けていく予定だ。

出会いの喜びを

泊流会の基本的精神は、次のようなものだ。

(1)教区青年が広く出会い、自由に語り合うことのできる場。
(2)気軽に参加できる明るさと、信仰の深みを味わえるようバランスのとれた企画。
(3)より多くの人が参加できるよう、スタッフは毎回募集。
(4)教区主催の行事として、担当司祭団との協力を大切にする。
(5)特色づけず、そこから異体的な活動が生まれるよう透明な母体であること。

有志による泊流会スタッフはこの方針のもとに動いているが、回が進むに従い、青年たちの中に”出会い“の大切さを訴える声が生じてきた。「同年代の仲間とさらに教会体験を共有することで互いの信仰を深めたい」と。

「泊流会っていいね…」

泊流会は、毎月ユニークなキャッチフレーズとプログラムが好評だ。「これが教会だ」とか、「これだって教会だ」などという自由なテーマのもと、参加者が互いに心をひらいて出会えるような工夫を重ねてきた。

プログラムは、グループでの自由な話し合い、うたげでの交流、全体での意見交換と3部構成。結論を出すことを求めず、どれだけ心を開けたかが重要だ。「友達ができて楽しかった」「同じ悩みを抱えている人と心から話せた」 「昔からの仲間だったよう…」とは、参加者の声。

点から線へ

3回日ごろから、泊流会での出会いを持続させたいという声が、参加者から湧いてきた。文集「みのるか」で青年の声を集めたり、クリスマスパーティーを行なったのは、自発的な第1歩と言えよう。

NICEが蒔いた種は、青年の間で着実に芽を出している。

東京教区青年ネットワーク事務局発足

この2,3年の流れを映す年表からもわかるように、教区の青年は、今少しずつではあるが動き始めている。前項で述べた泊流会で出会った青年達の中から、泊流会等、青年の集える場づくりに奉仕し、それぞれの活性化に参与する有志のグループが誕生。約1年半前の文集作成を契機に、グループづくりを呼びかけ、半年余り準備を重ねた。

この4月、担当司祭団も交えての総会を開き、この有志によるグループは「東京教区青年ネットワーク」として正式に発足。

この名称からもわかるようにこの事務局は、”ネットワーク“をその活動の主体としている。事務局の説明によると、ネットワークとは、情報交換や人のつながりを作っていくことにとどまらず、以下のような特徴とはたらきを持っている。

1、独立した個を尊重する
ネットワークでつながれる<個人、集団>は、それぞれ主体性を持ち自立している。

2、混沌の中から一致する
個の独自性は、ネットワークされたときにぶつかり合い湛沌とした状態となる。その中から一致した価値観(キリストの価値観)を見い出していく。

3、共同休への歩み
個の違いを違いとして受け入れ、なおぶつかりあい、それでも結ばれているような共同体へ一歩づつ歩もうとしている。

さらに、ネットワーク事務局の役割は、小教区青年会をはじめ、教区内の青年諸活動のバックアップにある。すなわち、青年達の出会い・信仰形成・アイデンティティの発揮・確立の為のあらゆる機会への喜びをもった奉仕を目指している。

■具体的には、
・一泊交流会、定例会、集いの 実行。
・個人、小教区、諸活動グループからの立案・企画の実行、協賛。
・教区内の青年諸活動の状況把握および分析。
・各青少年委員会、教区および他教区との連絡の窓口となる。
・情報の収集、蓄積、整理、交換しながらニュースレターを発行する。
ことなどがあげられる。

東京教区内においては、小教区単位での青年活動への協力と同時に、事務局の重要な役割として、小教区を超えた他活動グループとも、連絡をとりあい、それぞれの活動主旨、目的を理解し合うことを大切にしている。間接的にあるいは直接的に協力しあうこと、また、問題意識やキリストの共同体としての希望の共有がその目的。事務局発行のニュースレターで教区青年・司祭にそれらを情報という形でフィードバックしている。

現在日本の教会の中では、青年が各地で様々な動きを見せ始めている。京都・横浜・広島などでも、青年活動を教区が積極的に支援するとともに青年達も自主的に活動している。この事務局もその全国の青年連とも情報交換をしたり各種主催行事に参加したりとはげましあっている。

事務局は、今後も事務局の役割を常に見なおしながら、青年の集いの場づくりに奉仕し、成熟していくことが望まれる。

これまでの動き

1984年 全国司教総会「日本の教会の基本方針と優先課題」
1987年5月 東京教区青少年担当司祭団発足(第1期)
1987年11月 京都にて福音宣教推進全国会議第1回開催
1988年1月 京都教区青年情報センター開設
1988年2月 第1回青年一泊交流会
1988年11月 第2回青年一泊交流会
1989年4月 第3回青年一泊交流会/文集作成呼びかけ
1989年5月 JOC40周年祭(有志参加)/横浜教区青少年青年情報センター開設
1989年7月 文集発行(横浜、広島、鹿児島、新潟、京都、札幌の青年に送付)
1989年8月 教区レベルの青年有志による活動のための準備会スタート
1989年12月 クリスマスパーティー/カトリック青年のための全国情報誌「GENESIS」発行
1990年2月 東京教区青年ネットワーク事務局組織化
1990年4月 第4回青年一泊交流会30日、第1回総会事務正式発足
1990年5月 主催旅行「大島教会訪問ツアー」
1990年6月 広島教区青年センター開設
1990年7月 大阪教区・京都教区の青年を訪問
1990年11月 第5回青年一泊交流会(予定)

青少年青年担当司祭団

東京教区の青少年委員会(青年担当司祭団)のメンバーは、現在7名。かつては教区の青年を包括的にケアする司祭は1名だったが、青年活動の多様性に即応するため、87年度より現体制となった。メンバーを、本人のひとことと共に紹介したい。(アイウエオ順)

■秋保真理夫(松戸教会助任)
「青年は新しい皮袋。新しい酒を入れなければ干からびていくのみ。新しい酒は新しい皮袋の中で熟成する。それには知恵と時間とひらめきが必要。失敗もプラスに変えていくのが青年らしさ。共に歩める意みに感謝しています」

■オリビエ・シェガレ(志村教会主任)
「日本に来て20年、若者と共に怒り、共に迷い、共に狂い、若者をよくいじめたが同じだけいじめられた、これからも、信頼し合いつついじめあう関係を持ち続けたい。世界の、特にアジアの国の現実に心を開き、楽しい体験を企画していきたい」

■岸忠雄(船橋教会主任)
「青年は苗だから、『ゴー、サイン』だ。大いに期待しています。バックアップします。広く青年たちのことを考え、共に歩んでいきたいと思っています。私も心は青年です。徹夜も、話し合いも、いつでもO・K」

■小林祥二(JOC事務局)
「青少年を考えるとき、『青少年』と抽象的にひとまとめに考えるのでなく、ひとりひとりを考えたい。青年にも、学生と労働者との違いがあるが、私は司祭として、働く青年と共に歩むことを特に大切にしたい」

■高木賢一(関町教会助任)
「このたび青少年委の一員として働くことになりましたが、明確な「イメージ」があるというわけではありません。これを機会に、各小教区でなされている様々な試み、活動などを勉強できたらと思っています」

■晴佐久昌英(柏教会助任)
「委員会の代表ということに一応なっているが、雑用兼連絡係として奉仕します」
他に、森一弘司教が、委員会のメンバーである。

委員会は隔月ペースで開かれている。7人制の味を生かして様々な活動をバックアップしていくと同時に、教区全体での青年活動を総合的に調整したり、教会全体の流れの中へ位置づけるような広い視野で援助する役割を果たしている。明日の教会像の先どりとしての青少年委員会のはたらきに注目したい。

ナイス事務局始動!期待される今後の活躍

4月1日発足した「ナイス事務局」は、土・日も休まず活動を始めた。職員が交代で土・日も出勤しがんばっている。まだ教区内にもあまり知られていないこともあり、静かな雰囲気の中で地味に働き始めた。塚本伊和男事務局長にお話をうかがった。

Q、東京ナイス事務局が出来たそうですが、どんなことをする事務局なんですか。

A、そうですね。この4月に出来たばかりですから、ご存じない方が多いと思います。この際発足までの経過を含めてご説明いたしましょう。第1回『福音宣教推進全国会議』が1987年11月に京都で開かれたことは、ご承知だと思います。そのとき、これからの教会のありかたについてたくさんの意見が出されました。東京教区としては、その中から特に、5つの課題を選び具体化を図ることとなりました。
そのため、各課題ごとにプロジェクト・チームが大司教によって選任されました。そして約2年に及ぶ検討、立案の末、今年(1990)3月末、大司教に、提言・答申が提出されました。教区総会にも報告され、教区ニュースにも掲載されましたので、ご存じのことでしょう。
大司教は、この提言・答申の実施と教区の諸活動を支援するために、この4月から『東京ナイス事務局』を教区事務所内に設置することをきめられました。

Q、具体的に、東京ナイス事務局はどのような仕事をするのですか。

A、将来は、あらゆる問い合わせに応えられるような事務局を目指しています。TCCC(東京コミュニケーション・センター)も、東京ナイス事務局の中に置かれ、コンピューターを使って情報処理を行うこととしています。準備のため、約2年を要すると考えられます。
当面出来るサービスとしては、身近な問い合わせ(例えば他の教会のミサ時間や外国語によるミサはいつ、どこで捧げられているか等)や5課題(生涯養成・社会福祉・心に訴える典礼・女性の役割・情報センターの設置)の実施促進などです。

Q、東京ナイス事務局への問い合わせは、どのようにしたらよいのですか。

A、国の祭日を除き、日曜日を含めて毎日、午前9時から午後5時まで職員が執務しております。電話又はファックスで、お問い合わせください。東京ナイス事務局の電話番号03-943-2277FAX03-944-6677です。この他、書信(手紙)での問い合わせにも応じています。

Q、どんなスタッフで事務局は運営されているのですか。

A、4名の司祭スタッフ【塚本(伊)、泉(富)、稲川、古賀】と3名の信徒スタッフ【翁長、横川、武田】で通常は運営されております。大司教から選任されたスタッフで構成する「東京ナイス事務局企画推進スタッフ会議」がそれをバックアップしています。

Q、東京ナイス事務局のマークの意味を教えてください。

A、まわりの円は、日の丸を表し、『N』はナイスのNとニーズのNを示します。2つの桜は、東京大司教の紋章から頂きました。
社会のニーズに応えるために、日本の東京大司教区がナイスの提案の具体化を目指して、設置した事務局であることを表そうとしたものです。

第2回福音宣教推進全国会議開催に向けて

日本カトリック司教協議会、常任司教委員会は、8月15日、1992年秋から1993年春の間に、第2回福音宣教推進全国大会を開催することを決定し、信徒、司祭、修道者に対し声明文を発表した。

兄弟姉妹である信徒、司祭、修道者の皆さん、

私たち司教は、昨年12月に、第2回福音宣教推進全国会議(以下、全国会議と略します)を1992年秋から93年春の間に開催と決めました。また、第1回全国会議推進委員会のご意見を伺った上で、今年6月に、そのテーマをどうするかについて話し合いました。ここに、その内容と、その前提となる私たちの考えをお知らせし、ご意見をお聞かせいただきたいと思います。

1、第1回福音宣教推進全国会議を継承し発展させるために

まず私たちは、第2回全国会議を、第1回全国会議の精神を継承し発展させるもの、日本の教会の福音宣教推進に対する責任を皆さんとともに担う場にしたいと願っています。

第1回全国会議を準備する際、私たちは、「生活から信仰を、社会の現実から福音宣教のあり方を見直し」ながら、信仰と生活の遊離を解消していこうと皆さんに勧めました。そのために「聴き、吸い上げ、活かす」 ことを私たちの基本姿勢としました。そして第1回全国会議を受けて、日本の教会として、これから、もっと「ともに」「喜びをもって」「生きる」方向で道を探しましょうと呼びかけました。私たちは、第2回全国会議の準備および開催においても、この基本姿勢と方向を継承し、発展させていきたいと望んでいます。

2、テーマは

私たちは、第1回全国会議の答申を分析し、その後の各地の動きを評価しながら、第2回全国会議について話し合いました。テーマとして、「修道会・宣教会、諸事業体との協力態勢」、「青少年の信仰育成」、「家庭の福音化」などがあげられましたが、第1回全国会議を継承し、教会が社会と共に歩み、社会の現実に福音の光をあてていくためには、教会が家庭とともに生きることこそがいま求められていると考え、第2回全国会議のテーマを「家庭」としたいと考えました。「家庭」というテーマを通して、第1回全国会議の実りが活かされ、そこで希望されたことがさらに一歩前進することを願っています。

3、お願い

私たちは、第1回全国会議の実りを活かし、その精神を前進させるために、この「家庭」というテーマのもとで、何をどのように扱ったらよいか、できるだけ多くの皆さんの声を聴くことから始めたいと考えております。日本の教会全体が福音を宣べ伝えるという本質的な使命をよりよく果たせるために、私たちは、皆さんの声に耳を傾けることにより、教会と人々に奉仕する私たちの具体的な道を確認したいと望んでおりますので、皆さんのご理解とご協力を心からお願いいたします。皆さんお一人おひとりの上に神の豊かな恵みをお祈りいたします。

1990年8月15日

皆さんの兄弟として日本カトリック司教協議会・常任司教委員

5課題レポート情報

TCCC(東京カトリックコミュニケーションセンター)関係の動き、最近の状況をかいつまんでご報告します。

TCCCという組織が、今年の4月1日付で正式に発足しました。日常の運営は、ナイス事務局の業務の1つとして行われ、システム機器などはナイス事務局の中に設置されることになりました。

これに伴って、TCCC誕生のお膳立てをしてきた「TCCC設立準備委員会」と6つの「ワーキンググループ」は、その使命を終えましたので、3月末で解散となりました。スタートしてから1年半の間に、準備委員会は17回、ワーキングは20回開催されるなど、とても精力的な活動でした。その間に「教区総会」「ブロック会議」をはじめ色々な場で教区民の皆様からたくさんのご意見を伺うことができました。お陰様で将来に備えた、東京教区にもっともふさわしいコミュニケーションのセンターの基盤作りができたと考えています。ご協力くださった多くの方々に、心から感謝申しあげます。

さて、TCCCでは、NTTデータ通信の開発した新しいFAX利用のシステムサービスを行いますが、本格的な稼動は来年に入ってからです。それまでに、TCCCが本来の機能を発揮できるよう、サービスの新しい仕組みを作らなければなりません。これにも相当な時間と労力を要します。そこで、「TCCC推進スタッフ会議」が新設され、いま懸命にその仕事と取り組んでいるところです。

TCCCは教区の情報発信基地であり、教区全体のコミュニケーションの場です。教区民全員の共有財産です。皆様のお役に立つTCCCを目指して、いま着実に歩を進めています。

(TCCC推進スタッフ会議)

ズームアップ 安次嶺晴美師

■安次嶺晴美師

東京から新潟教区に最初に派遣された若手司祭。

東京教区の邦人司祭は90数名、新潟はわずか10数名。3年前の東京教区の司祭研修会で「教区の壁を乗り越えて司祭同士互いに助け合わなければ…」と提案を受けて、ようやっとこの春新潟、東京、姉妹教区という形で実現された。

関口教会出身。叙階は4年前。八王子教会の助任として3年の経歴。今は、新潟教区の司教座聖堂の助任。「教区として大変助かりました。……しかし、良く呑みますね」とは新潟教区長佐藤司教の弁。新潟への赴任前に腰を痛めたとか。どうぞご自愛を。

平和祈願祭-第17回-

中東緊張を反映か?

過去最高の参加者

ことし初めての上陸台風11号が前日北上、再び暑さ加わる8月11日(土)午後6時半から千鳥ケ淵戦没者墓苑において、教区正式行事となって17回目の平和祈願祭が催された。

司式司祭の数は白柳大司教・森補佐司教を中心に27名。参加者の数も多くご聖体の不足を初めて心配し、光の行列は経路を予期せず延長しなければならなかったはど。ミサ献金も41万円を越え、いずれも過去最高の記録となった。これに先だつ平和祈願行進には城東ブロックと神田教会が初参加、会場後方には小さい子どもをあやす家族連れが目だち、会場設営には若い男女の汗が光っていた。

緊張と緩和が目まぐるしく入れ替わる世界情勢の反映か、また、近く100周年を迎えようとする教区の雰囲気の現れかは解らないが、ともあれ教区史に1つのエポックを記す、聖霊に満たされた行事となった。そこでこの味わいを、徳田教会の小林又三郎氏につぶさに語ってもらった。

平和祈願祭に参加して

心地よく冷房がきいた地下鉄の車内から『九段下』の駅名を確かめて降り立ち、長い階段をあえぎながら昇って地上に出ると、そこは炎暑に燃え立つ街。墓苑へと歩き始めると、立秋とは名ばかりの猛暑が容赦なく襲いかかり、全身からふつふつと汗がふき出してきます。

そのような暑さから開放してくれたのは、千鳥ケ淵の散歩道に広がる、かすかな葉ずれの音に涼気をつつんだ緑の樹々。その趣きはまさにいっぷくの清涼剤、都会の中の別天地です。

さて、ようやく会場にたどり着くと、夕闇にはほど遠い真昼問というのに、スピーカーの準備、案内板の書き替え、さらには650におよぶ椅子の会場への運び込みが着々と進んでいました。いつもながらの汗まみれ、埃まみれの奉仕の姿には、頭の下がる思いがします。

やがて、三々五々に徒歩巡礼の参加者が到着、会場を埋め尽くす頃に、夕闇が静かにそのとばりをおろし始めました。

定刻の18時30分、司会者の案内で『神の名はあまねく』が唱和され、いよいよミサの開始です。森司教をはじめとする20余名の共同司式司祭団を背に、大司教様が「平和への挑戦には信仰を燃やし、勇気をふるい立たせて、立ち向かわなければならない」と挨拶されました。

また、深水正勝師は説教の中で、「花岡事件の45年後の遺族号泣に、未だ戦後終わらずと痛感した……」と自己の思いを語った上で、「私たちは聖書にのべられた償いの心を大切に祈り続けなければならない」とさとされました。

奉納、そして代表者が祈りの花束を奉献する頓には、『平和』の文字が鮮やかに浮かぶ可憐なぼんぼりに、次々に明かりが灯されていきました。

ミサは荘厳のうちに進み、平和への新たな誓いを胸にそれぞれの席で派遣への祝福を待ち望んでいる頃になると、会場いっぱいにきらめくぼんぼりの光に闇が恥じらいを見せて染まり、彼方で打ち上げられる無数の花火の音が墓苑の森にこだましていました。

やがて、献花が祭壇を彩る中、大司教様を先頭に、マリア様を讃えつつ、揺れる灯火にほおを先く染めての光の行列に、死者よ安らかにの思いに平和祈願の心を託し、『かみともにいまして』と高らかに歌いつつ、終幕を迎えました。

このようにして、感動と荘厳のうちにミサは終わりましたが、閉祭後の清掃と整備に、参加者が奉仕者と一体となって協力したことは、感謝を込めて特記しなければなりません。また、墓苑の暗いかたすみにある倉庫への、数多くのいすの搬入は長時間におよび、そこに流された労苦の汗は、珠玉の輝きとなってくれるだろうと思います。

700名をはるかに超えていたでしょうか、記録的な参加者の数に、平和への願いの強さを改めて知った夏の一夜でした。

(徳田 小林)

[筆者注]花岡事件……1945年6月、秋田県花岡鉱山での水路変更工事で起きた、待遇改善を旗印とした、強制連行中国人労働者による蜂起事件。鎮圧後、100名近い人々が処刑された。

祈願祭のあゆみ

公式には17回目と言うこの催しも、記録にとぼしいが実はその4年前に始まり、いく度かの試練を経験している。1974年は第1回と言うので盛り上がりを見たものの、翌年から再び低迷。

1980年、開催時刻の見直しや光の行列の登場などによって改善された。

さらに1982年の平和旬間設定が効を奏し、まだ多少の起伏は残るものの共同司式司祭の数最高20名、献金30万円台で推移してきた。催しの意義の浸透とともに息の長い行事として発展させなければならない。

年度冒頭の月日は開催日。末尾の( )内の数字は公式通算回数。
●1970(昭45)年8月信徒使徒職協議会主催で、千鳥ケ淵戦没者墓苑に於て初めて「平和祈願のミサ」が催される。
●1974(昭49)年8月11日この年から主催が布教司牧協議会に。名前も「平和祈願祭」に。この年、圭司式浜尾司教と司祭13名、参加者約300名と盛り上がる。(1)
●1979(昭54)年8月12日この5年、共同司式司祭数名、参加者200名前後と低迷、検討が必要になる。献金68,000円。
●1980(昭55)年8月9日この年から8月上旬の土曜日午後6時半開会に移行、「光の行列」が加わる。参加者300名以上、献金119,000円。(7)
●1982(昭57)年8月7日この春、日本司教団は毎年8月6日から15日までを「平和旬間」と定める。以後、祈願祭開催日が6日から最初の土曜日になる。「反核、軍縮を願う映画と講話の夕べ」(8/13)も開催。なお、6月6日には都立水元公園において「平和を願う集い」(城東ブロック主催)がもたれた。(9)
●1983(昭58)年8月6日「平和教書にこたえる映画と講演」(8/7)も開催。(10)
●1984(昭59)年8月11日映画「この子を残して」、講演木下恵介監督を開催。秋、文集「平和旬間に想う」発行。(11)本所教会有志による郡慰霊塔での平和祈願(9/1)始まる。
●1985(昭60)年8月10日教区規約改訂により布教司牧協議会改め宣教司牧評議会に、主催は平和旬間実行委員会の独立専任となる。前年の文集「平
和旬間に想う」をもとに「戦争体験を正しく伝え、これからの平和を考えるための話し合い」(8/11)開催、広島平和祈願巡礼(8/4〜6)も実施。(12)
●1986(昭61)年8月9日吉祥寺教会の平和行進始まる。シンポジュウム 「戦争体験を正しく伝え、これからの平和を考える」(8/10)開催。(13)
●1987(昭62)年8月8日平和行進、武蔵野ブロックに広がる。(14)麹町教会真和会と共催で「平和について」アグネス・チャン氏の講演会(6/11)満員。
●1988(昭63)年8月6日城南・城北ブロック平和行進。司式森司教と司祭20名、参加約800名、献金388,000円真和会と共催で「世界の中の日本」と題し磯村尚徳氏の講演会(6/15)開催。(15)
●1989(平1)年8月12日昭和天皇逝去に当たってカトリック新聞紙上の信者の声などをまとめたパンフレット「平和を祈る」も発行。(16)

平和行進レポート

武蔵野

武蔵野ブロックは、今回より吉祥寺教会の正式行事となった平和祈願行進に協力参加し、吉祥寺、荻窪、高円寺教会においてそれぞれ「み言葉の祭儀」を行い、新宿中央公館を経て、麹町教会で城南・城北ブロックと合流、共同祈願ののち千鳥ケ淵まで合計20キロを祈りつつ行進した。なお武蔵野コースの参加者は約80名だった。
(吉祥寺 中村)

城南

一昨年から始められた城南ブロックコースは、今年も厳しい炎天下の昼下がり、田園調布・上野毛・洗足の各教会を出発。碑文谷教会で合流し、目黒教会まで行進。目黒〜四ッ谷間はJR線。イグナチオ教会で他のブロックと合体して千鳥ケ淵へと向かった。約45名の参加。緊迫した中東情勢の平和的解決を祈る今年ほど、一同の心に平和アピールの一語一語が深くしみ渡った年はなかった。
(上野毛 渡部)

城北

2年連続した城北ブロックの関口ルルド前からの徒歩巡礼は、残念ながら諸事情のため中止となった。それでもブロック会議からの呼び掛けに応じ、四谷から出発の最短グループに合流した城北団は41名。無事、千烏ケ淵到着と成り得たけれど、「独白の行進を…」という励ましに、来季は必らず自前の計画を立てて、より多くの城北ブロック団を組織したいものと決意を新たにした。
(徳田 小林)

城東

城東ブロックは、平和行進初参加。上野コース23名、浅草コース39名がその名もふさわしい神田昌平橋上で合流、神田教会において休憩・「教会の祈り」のあと神田教会組13名が加わり、全コースを無事踏破しました。 船橋の目の不自由な方の参加、神田の皆さんに深く感謝します。
(上野 入倉)

みんなでやれば・・・・・・

昭和58年以来、祈願祭にはローソクのぽんほりが使われている。上野教会信徒で元平和旬間委員だった矢作健之助氏(昨年12月30日帰天)の推進、本所・上野教会有志の力で毎年7〜800個が作られてきた。

今年も7月4日、材料作りの田中コルク工業㈱(田中穂積社長)を訪ねてみた。ぼんぼりの型抜き、『平和』の文字(昭和62年から-前浅草教会藤井師筆)のシルク印刷など、社長のご理解で同社々員 新垣清氏、稲川巌・福司氏父子らが忙しい仕事の合間の奉仕、上野とのパイプ役は矢作税理事務所の稲川信行氏である。ちなみに社長はじめ面々は本所教会生え抜きの信徒。

また7月29日(日)には仕上げ場の上野教会集会所を訪ねた。故人矢作氏に代わってふみ江夫人らが中心となり、ミサ後の聖掌掃除の疲れも見せない全員奉仕で和気あいあいの内、純白の小鳩のようなぼんぼりが次々に産声を上げる。”感謝“

「皆なでやれば、大概のことはやれる」と言う信念から材料の紙についてのグッド・アイデア。集められた文房具店のサービス引換券を活用してきたという(稲川福司氏談)。有名文房貝店の長期限のものが特に喜ばれるので、引出しの中に眠っているのがあれば平和旬間委員会(文京区関口3-16-15大司教館金井神父)まで送って欲しい。

指紋押捺問題類神父国と和解-国の良心に訴えて-

ルイ・コンスタン神父(潮見教会主任)は、再入国を不許可にした法務大臣を訴えて裁判を起こしていたが、それがこのたび和解という形で終結した。

和解までの経過

神父が、在日韓国人の苦しみに共感して指紋押捺を拒否したのが、5年前のこと。その後、祖国フランスで母上が帰天され、その葬儀のために再入国の申請をしたところ、法務省は、ルイ神父がすでに日本国に永住権を取得していたにもかかわらず、神父の指紋押捺拒否を唯一の理由にその申請を不許可。この不許可の取り消しを求めてルイ神父が裁判所に訴えたのが4年前。

20回にわたる口頭弁論を重ねたこの裁判は、7月20日、和解という形で決着がついたのである。法務省側は二度にわたる再入国申請に対して出した不許可処分を取り消す、ルイ神父側は損害賠償を国に請求しない、という条件での和解であった。

和解内容の説明

ルイ神父の弁護にあたってきた更田義彦・河野敬両弁護士は、この和解について次のように説明をしている。

「法務大臣の右の措置は、原告にとって母の死から4年を経過した今日余りにも遅きに失するものではあるが、法務大臣において不許可処分を取り消し、原告の新たな申請を要することなく、追悼式の司式のため再入国許可を与えるのみならず、慰謝料の支払いにかえて葬儀・埋葬式の出席を目的とする再入国許可申請に対する不許可をも取り消したのであるから、これによってこれらの各処分が人道上著しく配慮を欠く違法なものであることを認めたものと十分評価できる。」(『和解にあたって』より)

この和解によって、指紋押捺拒否者に対する報復手段として、再入国申請をこれまで一貫して不許可にしてきた法務省の方針の一角が崩れたことになる。「小さな穴が開けられた」ということである。

ルイ神父を支えて

この4年にわたる裁判において「ルイ神父をささえる会」の働きを無視することはできない。この会は日頃からルイ神父を敬愛し、その心情に共感するキリスト者や市民たちを中心に1986年秋に結成された。支える会の賛助会員、賛助団体は合わせて700に及び、裁判費用の支援、法務大臣あての署名運動を行うと同時に20回にわたる口頭弁論の傍聴席を常に満席にした。

シスターや普通の人々が常に傍聴席を満席にしていたことは、裁判官たちに静かな、しかし力強い訴えとなったと関係者たちは評価している。

国の良心と対話

また、更田・河野両弁護士が敗訴を覚悟で、諦めずとにかく国の良心と対話をしてみようという方針をたてそれ貫いたから、この裁判をこのような和解という形で終わらせる事ができたのではないかと、この裁判に関わった者たちは分析している。

大司教館へペトロ献金をたずさえて

赤羽星美学園福祉部

去る7月17日、大司教館に赤羽星美学園中学校の福祉部の代表2人の生徒が、顧問の先生やシスターと一緒に学園内で募金したべトロ献金を届けにきた。不在の白柳大司教にかわって森補佐司教がそれを受け取った。

どのような方法で募金を行ったか、顧問の岡田忍先生が本紙編集部に説明の手紙を送ってきて下さった。

それによると、募金活動の中心になったのは星美学園の交友会の一部である福祉部。各クラスの福祉委員が集まり、募金の期間や方法等を考え、各クラス全体に献金を呼び掛ける。ポスター等を作成して校内に貼り、聖ベトロ・パウロの祝日の雰囲気をもりあげていく。

また、放送朝礼時にはシスターが聖ベトロ・パウロの祝日や教皇についての話しをし、生徒の理解を深めていく。

各クラスの献金の仕方はさまざま、担任の先生とおにぎり献金を行ったクラスもあれば、福祉委員が献金箱をもって教室中を歩いたりしたクラスもあるという。

このようにして集められた献金が、毎週行われている1円献金と合わせて大司教館に届けられたということである。

5課題レポート生涯養成

生涯養成に関する企画

第1回一泊交流会

「みんなで話そうよ!-東京教区全教会の交流をめざして」
10月6日午後4時〜7日1時半
お話・森一弘司教
場所・ラ・サール研修所
対象・壮年男女
参加費6000円
主催・東京教区ナイスプロジェクト生涯養成委員会
問い合わせと申し込み・ナイス事務局℡03・943・2277〒112文京区関口3-16-15へ
1、氏名2、住所3、所属教会(修道会)4、性別5、職業6、年令を明記のうえハガキまたはファクスで9月25日まで。

生涯養成コース(全6回・毎回土曜)

「今の時代に生きる教会-教会の共通理解を求めて」
東京カトリック・センター
10月13日午後2時〜4時
基調講演・「実生活に結びついた信仰」(森一弘司教)/11月17日「神が人を招く時」/12月8日「私の生活と信仰」/1月19日「私と教会」/2月16日「共同体の一員として」/3月16日まとめ「これからの教会」
参加費3,000円
問い合わせと申し込み、ナイス事務局へ
1、氏名2、住所3、所属教会を明記のうえハガキまたはファクスで9月末日まで
主催・東京教区ナイスプロジェクト生涯養成委員会

干葉・北総地区一泊交流会

「キリストに従う者が家族や身近な人々との関わりを通じて、どのように信仰を伝え、育てていけばよいか」
9月23日午後4時〜24日午後2時
場所・飯岡荘(℡0479-57-2661)
主催と問い合わせ先・佐原教会(℡0478-52-4079)
参加費おとな6,500円(小学生以下5,500円)

講演会

「あけぼの講演会・太郎物語その後」続いて「新作発表及びバーゲンセール」
9月24日午後1時30分〜6時30分
講師、三浦太郎氏、参加費600円
場所と問い合わせ・女子パウロ会(℡03-479-3941)どなたでも

講演会

「共に生きたフランシスコ」
11月11日
講師・川下勝師
会費・300円
場所・アシジの聖フランシスコ宣教修道女会(℡03-605-4070)
どなたでも

神学セミナー

「自然は神の秘跡か?-環境問題をめぐる神学の諸問題」
10月23日〜25日(毎日9時30分〜16時30分)
1、環境と任命(綿貫礼子氏)2、新約聖書にみる環境問題へのアプローチ(泉安宏師)3、環境問題に福音の光を(Sr.今道瑶子)4、環境問題を教義神学からとらえて(A・ニコラス師)5、キリスト者と環境問題との取り組み方(犬飼政一師)
場所・上智大学7-14
参加費10,000円13日間(1日参加5,000円)
対象・司祭、神学生、一般
問い合わせと申し込みカトリック中央協
議会(℡03-262-3691)へハガキまたは℡で
主催・司祭生涯養成委員会(上智大学神学部共催)

投稿募集!

新生『東京教区ニュース』では、次の欄への皆さまからの投稿をお待ちしています。

■ズームアップ--写真とその説明。あなたの教会生活の1シーンをほのぼのと。
■ちょっとおたずねします--私たちが信仰生活を送る上で疑問に思うことがありましたらどんなことでもお気軽に。
■信徒の声--『教区ニュース』にどんどん皆さまの声をお寄せください。

以上の3つの欄への投稿の送り先はいずれも
〒112文京区関口3-16-15東京大司教館内『東京教区ニュース』編集部宛。
毎月の原稿締切りは、15日。

編集の都合上、文章を省略させていただいたり、表記の統一をさせていただく場合がありますのでご了承下さい。皆さまの投稿をお待ちしております。

お知らせします

教会学校リーダー 一泊二日の交流会

お互いに抱えている問題とか、感じている疑問とかを、一緒に語り明かしてみませんか。そして、協力できることを探ってみましょう。ネットワークづくりができるといいですね。内容、交通その他、詳しい事は、教えの手帳10月号でお知らせします。
11月2〜3日(参加費5,500円)
場所、ラサール研修所〒191日野市日野本町3-3-2℡0425-83-4223〜5
主催東京教区教会学校委員会
問い合わせは秋津教会・田中神父(℡0424-91-2781)

訃報

■荒井勝三郎司
教横浜教区の前教区長、ルカ荒井勝三郎司教は、7月25日午前10時50分、うっ血性心不全、狭心症のため、鎌倉市腰越の聖テレジア病院で帰天した。83歳。荒井司教は1904年10月17日、栃木県宇都宮市生まれ。東京・暁星中学校、パリ・サンスルビス神学大学哲学・神学部を卒業後、三〇年パリで司祭に叙階。帰国して東京大司教区の千葉、本郷、麹町各教会、大司教館付を歴任し、51年、横浜教区長に就任、翌五2年司教に叙階された。1980年に定年退職してからは、神奈川県藤沢市にある聖心の布教姉妹会藤沢修道院で祈りのうちに日々を送っていた。

■愛宮真備=えのみや・まきび、ドイツ名フーゴー・ラサール=神父(イエズス会)
7月7日午前、帰天した。91歳。1898年ドイツのヴュストファーレン州に生まれる。27年司祭叙階。1948年目本に帰化。広島エリザベト音楽大学の設立に参画し、1960年には戦後の広島市復興のシンボルとなった「世界平和記念聖堂」(現在の広島カテドラル)を広島市中区幟町に建立した。

■エウジェニオ・ピンチ神父(フランシスコ会)
7月15日午後、帰天した。66歳。1924年、イタリア・パレストリーナ市に生まれる。47年司祭叙階。同年中国に派遣される。51年来日し、54年より東京・三軒茶屋教会に赴任し、翌年主任となる。

■メリー・ジーン・ヌッツン修道女(聖心会)
7月17日午前、帰天した。94歳。1894年9月14日、米国カンザス州に生まれる。1915年、同会入会。同48年来日。日本に来て42年、この間一度も帰国することなく修道生活をまっとうした。

■セラフィノ・フィナテリ神父(フランシスコ会)
7月21日午後、帰天した。77歳。1922年イタリアのフロジオーネ県パトリカ村に生まれる。1936年司祭叙階。1971年以来、東京の同会三軒茶屋修道院副院長の任にあった。聖書学者でもあった同神父は、フランシスコ全訳聖書の14の書の翻訳に関与したほか、『聖書の人間論』など多くの著書もある。

■エレナ・ハース修道女(マリアの宣教者フランシスコ、修道会、聖母病院病院長)
8月1日午後、帰天した。95歳。1895年、英国ブライトンに生まれる。1931年、聖母病院創立の使命を帯びて来日。翌32年、同病院院長に就任、今日に至っていた。

■佐藤光幸=みつゆき=神父(東京教区)
8月6日午後、帰天した。81歳。1908年、東京・本所に生まれる。1933年6月29日、司祭叙階。八王子教会助任を皮切りに関口教会助任、喜多見教会主任、八王子教会主任、本郷教会主任の各教会で宣教司牧に従事。1944年6月に神田教会主任に任命されてから89年5月に現役を退くまで45年の長きにわたって同教会で神の愛を説き続けた。

司祭と信徒の対話-テーマ 協力-

■前教区長・土井辰雄大司教の時代より続いてきた、恒例の、教区内各小教区信徒代表による司教霊名祝賀の集いも、近年、とみに、内容豊かなもとになり、小教区教会委員レベルの信徒の実質的な交流の場として、成長しつつある。

今年も、さる6月24日(日曜日)、教区内各小教区教会委員会代表がカテドラルに参集し、ペトロ白柳大司教・パウロ森司教の霊名祝賀を和やかな雰囲気のうちに祝った。

毎回の企画運営は各小教区まわり持ちの当番教会が当たることとなっており、今回は、荻窪教会の信徒の方々が一丸となって、パワーあふれる運営ぶりを発揮された。

企画面で担当者が最も力をそそいだのは、祝賀パーティーに先立って開かれた、参会者全員出席による懇談会であった。

これには、両司教も臨席され、会場となった関口教会信徒会館ホールは受付けをすませた参会者により満席となった。

■懇談会の主旨は、本年度の教区重点課題である「協力」をテーマに、小教区現場担当司祭と信徒との対話を試みるという点に設定され、荻窪教会の鈴木隆氏の司会で進められた。

まず、両司教より、このような試みに対する評価と期待の意が表明され、ついで、事前に交渉を受けた4名の司祭が、それぞれの経験を踏まえて、10分程度の提題を行なった。

柏教会のハクシャ神父は、大らかな人柄そのままに、ゆっくりとした口調で、信仰の核心から説き起こすように、小教区活動における協力のあり方を話された。小教区の活動と協力の源は、祈り、信仰、典礼であること、小教区の中に自由な雰囲気暖かい雰囲気があって、下からの創意と熱気のある活動が育つこと。熱意のぶつかり合いから混乱が生じ、傷つけ合うこともあるが、傷つけられることを通してこそ成長があること。混乱を調整するために、主任司祭と一体となって、全体を考えることのできるリーダーが必要であること等を説かれた。さらに秘跡を受ける準備期の人々の熱意を生かす工夫が必要であることも付言された。

ついで、船橋教会の岸神父は、熱のこもった、ユーモアあふれる語りぶりで、聴衆の笑いをさそいつつ、次のように話された。

■さまざまな場で、協力について語られたり、会議がもたれたりしているが、自分としては、委ねられた小教区が、内向きではない、活力ある共同体に育ってゆくよう全力を傾けることが最も必要だと感じている。自分が属している場で協力が出来なければ、他との協力ものぞめない。足下がしっかりしていなければ協力は出来ない。その意味で小教区での共同体づくりがまず先決であると思う。

協力ということも、その気さえあれば、ちょっとした会話の中にも、その糸口は見つけられるので、あまり、制度的に考えなくてもという気もする。要は、明るく、楽しく喜んで協力できる雰囲気づくりである。惜しまない心、自由な心を育てることが肝要であると思う。困難はつきものだが、それが又楽しみでもある。

次いで、関口教会の吉池神父は、韓人教会のカテドラル移転問題を取り上げ、関口教会側の当事者として目撃した、韓人教会の方々の一致協力の姿を、羨望の思いをこめて語った。

最後にマイクを渡された館山教会の西川神父は、中国旅行をふり返り、視野を大きく広げて、今後、日本の教会として、東京教区として、困難な状況の中にある中国の教会との協力を考えていく必要のあることを呼びかけ、参加者の注目を集めた。

中国の教会との関係は、日本カトリック司教協議会会長を務める白柳大司教にとっても特別な関心事であり、昨年にひきつづき、今秋も、中国教会の指導者たちとの交流を求めて、訪問旅行を計画中である。西川神父は、教区全体として、このようなスケールの問題についても、大司教の職責と関心に協力的に応える必要のあることを力説した。

一通り提題者の話が終った後、4名の司祭と参加者との対話が行なわれる予定であったが、時間の制約と、参加者側の戸惑いが見られる状況もあって、今回は、十分な対話、懇談にまでは発展せず、散発的な発言にとどまった。

今後も今回の主旨のような、信徒・司教・司祭間の対話の場が継続的に持たれることが期待される。

懇談会終了後、会場をセンターホールに移して、霊名祝賀パーティーが、和やかなうちにも、盛大におこなわれ、午後1時20分より始まった今回の催しは午後5時すぎ無事終了した。当番教会の負担は小さくないが、教区の中における自分たちの小教区の力を知るよい機会であると思われる。今回の荻窪教会の一致協力ぶりは見事であった。

ちょっとおたずねします

Q、私は現在、教会で入門講座を受け、洗礼を希望している主婦です。私の夫は、信仰は個人の自由であるからと、私の受洗に反対しません。しかし、夫は長男で家には仏壇があります。私は主婦として、法事に直接携わらねばなりませんし、将来は私もお寺の墓地に埋葬されることになると思います。それでも、洗礼の恵みをいただけるのでしょうか
(55歳・主婦)。

A、結論から先に申しあげます。「あなたは、洗礼をお受けになることができます」。

私たちカトリック信者は「亡くなった人」について、どう考え、また何をすることができるのでしょうか。

「教会は、キリスト教初期の時代から深い敬愛の念をもって死者の記念を行なってきました。」このことは、日本人の祖先崇拝の心情に共通するところが多いと思います。だからといって、「死者を神としてあがめるものではありません。……キリスト教における死者の記念と尊敬は、死者のために神に祈ることが中心になっています」。

私たちは、亡くなった人の霊が神の憐れみによって、生前人間の弱さから犯した罪とその罰から清められ、少しでも早く、神のみもとに行けるように、また生前の善行には豊かな報いを受けられるように祈りと犠牲を捧げます。特に、亡くなった人のためにミサを教会に依頼することは、カトリック教会の大事な慣行です。

日本の仏教では、祖先崇拝を大切な行事とし、種々法事が営まれます。

第2バチカン公会議後、「開かれた教会」として、教会はそれぞれの国の習慣を取り入れ、それを福音化するように努力して来ました。

あなたの場合は、あなたを除いて家族のみんなは仏教徒でいらっしゃると思います。従って、受洗後も家の法事を今まで通り取り仕切ることは主婦の重要な努めであると思います。「キリスト教徒はご先祖を粗末にする」というような、あらぬ誤解をうけてはならないと思います。

それからあなたは、ご自分の死後、お寺の墓地に埋葬されることについて心配しておられますが、あなたは洗礼によって、天地万物の創造主、父と子と聖霊の名に入れられ、神の生命にあずかる者となるのですから、あなたの信仰が確立しているかぎり、死後、そのお体がどこの墓地に埋葬されるかは、余り問題ではありません。死後、カトリック教会であなたのために葬儀ミサを捧げてもらうよう家族の方々に遺言しておかれれば、もうこの上なしです。またお寺側の条件として、戒名を付けられるにしても、それはお寺のしきたりであり、残されたあなたの家族(仏教徒)のあなたへの敬愛のしるしとして考えたらよいのではないでしょうか。

日本カトリック司教協議会・諸宗教委員会編著『祖先と死者についてのカトリック信者の手引』(1985年カトリック中央協議会発行150円)という小冊誌がありますので、参考にされるとよいでしょう。なお、本文の引用はこの本からのものです。

(泉富士男神父)

9月2日第16回千葉ブロック大会開かれる

一般社会に開放して

9月2日(日)第16回干葉ブロック大会が開催された。今回は、これまでと趣向を変えて、一般の人々に開放された形で行なわれた。
これまでは、千葉ブロックの信徒・司祭の交流の場として、ミサと運動会という形をとってきたが、信徒の親睦だけでは、もはや意味がないのではないか、という反省から、新たな試みが工夫され、東金文化会館を借りて、午前の部を信徒・司祭・修道者たちの親睦の場として、ミサを行ない、午後の部には一般の人々も参加でき、共感できるよう「マザーテレサとその世界」の上映と干葉茂樹監督の講演を行った。(次号には詳しいレポートと報告を掲載する予定である)。

教会・修道院巡り(1)『築地教会』

関白秀吉によって発布されたキリスト教禁令は、徳川家康によりさらに強化され、3代将軍家光によって、鎖国令へと発展した。日本の教会にとり、長く厳しい時代が訪れた。300年の間、多くのキリシタンが信仰の故に尊い血を流し、故国を追われた。

しかし遂に自由の日が来た。1854年、開国を迫るアメリカのペリーとの間に通商条約が結ばれると、オランダ・ロシア・イギリス・フランスもこれに続いた。外国人が日本に居留することにより、同時にキリスト教が再び日本の地に宣教の根を下すことになった。

1862年、開国以来最初の教会が横浜に建てられた。東京は種々の理由で開くが遅れ、1869年になってようやく外国人の居留を受け入れた。現在の明石町あたりがそのためにあてられた。

横浜から派遣されたマラン神父とミドン神父(共にパリ外国宣教会)は1871年秋ごろ東京に入り、宣教を始めた。開国されたとはいえ、まだキリシタン禁制の高札が揚げられていたことを思えば、2人の宣教師の情熱が伝わってくる。このカトリックの宣教は、ロシア正教や聖公会の伝道よりいち早く始められているのである。

神父たちは稲荷橋に商家を借り受け、仮の教会とした。当時教会をおとずれる人は特に、地方出身の諸藩の留学生など、若者が多かったようである。

1872年には千代田区三番町にラテン学校(神学校)を開校し、70人余りの学生を収容するまでになった。宣教の発展のために、借家の仮教会を出て、築地の居留地内に教会を建てることをマラン神父は決意した。

1874年11月22日、聖霊降臨後最後の日曜日に、聖ヨゼフを保護者として新聖堂は聖堂内部祝別された。築地の宣教が始まって3年後のことであった。

翌年には横浜にすでに女子のための童貞学校を開設していたサン・モール会の修道女数人を迎えた。小学校、孤児院、教会付圧の施設の運営を通して宣教はますます力強い歩みを始めた。

1877年、築地教会に司教座がおかれ、オズーフ司教が着座し宣教の拠点が固められた。

1920年、東京大司教館が築地から関口教会構内に移転することによって、次の新しい時代を迎えることになる。

一粒の麦白柳大司教、教区100年を語る

9月22日、東京大司教区では白柳誠一大司教によって、教区設立100周年の宣言が行われる。これに先立ち、大司教館に大司教様を訪ね、歴史の研究をなさり、教区の歴史にくわしい大司教様に、100年祭のことなどについてお尋ねした。

私たちの信仰の先輩・江戸の殉教者に思いをはせ、その信仰に倣うようにとあつく勧められる大司教様の100年祭にかける意気込みがつたわってくる。

私たちは長崎のキリシタンのことについてはよく耳にしているが、江戸の殉教者については残念ながらあまり知らない。この機会に私たちの信仰の先輩である江戸のキリシタンたちやこの大司教区を築いてくださった多くの人々を知り、現在の歩みに、またこれからの新たな100年の歩みに生かそう。

■東京教区設立100年祭を始める宣言をなさるのは、いつですか?

―すでに、各教会にお手紙の形でお知らせしたように、正式プログラムを作って、それを発表し、実行していくのは9月に入ってからです。ちょうど1年前から始めたいと思っています。

■100年というのは、正式にはいつからですか?

―ローマで決定されたのは、100年前の6月15日なのですが、100年前も記念祭は9月27日にしています。それで私たちも6月は暑いので、9月のほうがよいのではということになりました。

■100年前の記念祭はどこで行われたのでしょうか?

―おそらく、築地教会だと思います。私たちは9月22日の日曜日から、次の日曜日の29日までを予定しています。

日本の教会の発展

この図のように日本の教会は発展してきました。初めは日本は1つの教会だったのです。鎖国している時だったので、ローマが任命した司教様も日本に入れず、香港とか奉天にいらっしゃったことがあるんですよ。

次に横浜に教会が入ってきて1876年に日本の教会が南北に分かれました。南の方は1888年に、さらに2つに分かれましたが、今からちょうど100年前の1891年に日本の教会制度がはじめてできたのです。

それまでは代牧区とか知牧区とか呼んでいました。これはローマの直轄ということで、その代理者が日本に来るという形なのですが、100年前から司教が直接に教区を治めるという形になったのです。
東京が大司教区、他はこの図で分かるように司教区でした。現在は、大司教区が東京、大阪、長崎の3つになりました。

■100年前の司教様は外国の方ですか?

―そうですね。司教が日本人になったのは、戦争が始まるちょっと前からのことです。

■この図ですと、東京から他の教区が分かれてできたようですが。

―そうです。東京からたくさんの教区ができました。ですから昔の東京教区は、新潟から横浜、浦和、東京、名古屋までを含む地域だったのです。ずいぶん、広い範囲だったんですよ。

江戸の殉教者を知ろう

■大司教様は教区の歴史をずっとお調べになっていらっしゃるとか……

―この100年を記念する機会に私が強調したいのは、江戸の殉教者のことです。江戸に初めてキリスト教が伝わったのはいつだったのか、どういうことがあったのか、など私たちはもっと知る必要があると思います。私たちの先輩たち、特に江戸のキリシタン通がたくさん殉教しているんですね。にもかかわらず、多くの人はそれを知らないでいるんです。私も実は、よく知りません。そのために今度、『江戸の殉教者』(高木一雄著、聖母の騎士社刊)という本を出版してもらいました。

カテドラルにもある石碑

■このカテドラルもそのような史跡の1つだとうかがっていますが……

―いや、そうではなく、このすぐ向こう側の小日向に新井白石とシドッチで有名なキリシタン屋敷がありましたが、その跡にあった記念碑をこちらに移したのです。あそこには家が建って、キリシタン屋敷跡を示す石碑が道端に追いやられて、あわれな状態になっていたものですから、移しました。それと「夜泣き石」と呼ばれている石です。夜な夜な泣くという石ですが、それをルルドの側に持ってきてあるんです。

7刑場で殉教

■ずいぶん前ですが、魚藍坂にあった聖マリア・インターナショナル・スクールで、江戸の殉教者祭があり、それに参加した記憶があるのですが。

―そうでしたね。魚藍坂の近くに札の辻というところがあって、そこは刑場で、キリシタンたちが処刑されたんです。

刑場はたくさんあったのですよ。私が調べた範囲では、1612年(慶長17年)から1649年までの37年間に、東京の7つの刑場で、少なくとも江戸で435人が殉教しています。このキリシタンの人々は1、浅草の鳥越神社の近くの刑場-あそこにも刑場があったんですね-2、今の日本橋小伝馬町、3、品川の宿の入り口の札の辻、それから4、四谷の札の辻と、5、芝の芝口-増上寺の近くですが、芝の海岸らしいんです。それから6、鈴ケ森、それから7、奥州街道の入口、現在の南千住の7か所の刑場で殉教しました。

435人の殉教者

一般に世間でキリシタンというと、主に九州、特に長崎地方のことを思い出すわけですが、実は慶長17年頃には江戸にも宣教師が宣教しはじめ、キリスト教が伝わっていたんですよ。ある時代には相当数の信者がいたんです。

しかし、慶長17年あたりから、迫害が始まっています。先程申しましたように、37年間に43五人-少なくとも435人の殉教者が数えられています。また、江戸の人が長崎の大村で殉教したという記録もあるんです。

私たちはこうした機会に、私たちの信仰の先輩たちについて知る必要があると思います。100年祭は、そういった過去を思い出すよいときだと思います。

他国に例を見ない迫害

御存じのように、日本のキリシタンの歴史は、迫害の長さにおいても、その質においても、他の国のいかなる迫害よりも大変なものでした。

例えば、ローマ時代の大迫害といわれるものよりも、はるかに長期にわたり、たくさんの人が殺されています。大変残酷な殺され方もしました。でも、それにもかかわらず、口伝えで信仰が伝えられたということは、特筆大書すべきことだと思います。

江戸の殉教者に思いを馳せるということば、意味あることだと思います。

江戸殉教祭の歩み

今から20年前、最高裁判所長官だった田中耕太郎先生が会長をなさっていたアクション同志会が-今のアクション同志会の前身ですが-イエズス会のロス司教に協力して、江戸の殉教者を讃え、毎年秋に、札の辻の刑場といわれていた場所に集まって、ミサをささげたりして殉教者祭をしていました。
私たちは「江戸殉」と言っていましたが、その後そこが区画整理にあい、今はその記念碑が高輪教会にあります。高輪教会はそれを受け継いで、今までずっと殉教祭をしてきました。わずかにそれぐらいの行事が行なわれていたにすぎませんでした。しかも、それが教区の人々に行きわたっていなかったのです。

ですから、この機会に、江戸の殉教者のことを掘り起こし、皆さんに広めていきたいと思っています。

次回から、大司教様の100年史が始まります。ご期待ください。

西本事務所全焼!

フィリピンの首都マニラで在比日本人の宣教司牧に献身している西本至神父(レデンプトール会)の事務所が、7月28日全焼した。

同事務所は、マニラ市の中心部、国連通りに面した3階建のピオ12世カトリック・センタービルの3階2室を用いていたが、同日早朝の火事により類焼したもの。火事の原因は、先のバギオ大地震の折、マニラ市内のビルもかなり亀裂が入りその後の大雨洪水によって漏電したものと考えられている。

この火災のため、15年間蓄積した全ての資料が灰塵に帰した。西本神父は今回の災難について「神は私に『神を人々へ、人々を神へ』近づける神の司祭としての努めに、より一層専念するよう、この火事を通して戒めと励ましをくださったように思えます。この神からの勧告を心にとめ、心を新たに邁進する覚悟です」と述べている。

なお、西本神父への義援金は郵便振替(東京2-22949西本神父東京オフィス)か、銀行振込(第一勧業銀行三鷹支店1233804、西本至)まで

編集部から

5月、新しい広報委員が白柳大司教から任命され、ここにはじめての東京教区ニュースを出せて、スタッフ一同ほっとしています。第1号から第75号まで、教区ニュースの発行に携わってこられた旧委員の方々の労を多とし、心から感謝する次第です。特に青木静男師の御苦労は大変なものだったと思いす。

新スタッフは、それほど経験のある者たちではありません。13人とあたま数が多いのが強みで、それだけに手も足も、アイデアも増すからです。数回のスタッフ会合を重ね、どのようにすれば、みんなに親しまれるものになるかを話し合ってきました。

本紙のこれから1年間の編集方針はナイス(第1回福音宣教推進全国会議)の精神を受けて、社会とともに歩む教会のなまの姿、生活を通して育てられる信仰特に生涯養成の実践、今後のプラン、福音宣教する小教区や諸活動団体の具体的活動を紹介することにしました。

特に東京教区では小教区のわくを越えた横のつながり、協力の必要が唱えられていますので、そのような活動をできるだけ取材してゆきたいと思います。

本紙は、教区のみんなで、つくりあげ、発展させるものだと思います。信徒も司教も、求道者もシスターも、そして司祭も積極的に参加していただきたくスタッフ一同希望しています。