お知らせ

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東京教区ニュース第61号

1987年01月01日

目次

  • 火山被害者のための募金
  • 信徒霊性
    絆にいのちの重み しがらみ負って福音生きよ
  • 歴史へ叫ぶルイ訴訟
  • 視聴覚メディアと宣教 宣教のページ
  • 聖霊を信頼し果しない旅路に出よう 宣教のページ
  • あとがき

火山被害者のための募金

この度、教区では大島火山被害者のため募金することにした。目的は、島民の子供たちへ絵本を手わたすため、一人暮しのお年寄りへの見舞金などの資金とするためである。できる範囲で協力を!

送り先 富士銀行大島支店、カトリック大島教会 代表・白柳誠一 口座・852-978975

信徒霊性
絆にいのちの重み しがらみ負って福音生きよ

諮問議題〔当番ブロック〕

1、家庭について。【城西・城北】(86年6月22日)

2、信徒の霊性について。【武蔵野・千葉】(9月11日)

3、信徒の宣教について。【中央・城南】(11月16日)

4、現代日本の教会と社会における信徒と司祭の役割について。【城東・多摩】(87年2月12日)

教区宣教司牧評議会は、今年の仕事として白柳大司教が「信徒について」を軸にきめた4つの諮問議題(別掲)の答申案作りをつづけているが、他に福音宣教推進全国会議(ナイス)、ブロック別公聴会、教区総会などの準備もあり、昨年と比べて何んとなく落着かない。とくに諮問議題「2、信徒の霊性について。」では、中身の深さからかとまどいも見え、ブロックでの討議をやり直すなど難行していたがこのほどようやくまとまった。「3、信徒の宣教について。」も既に終っているが、答申案の正式報告は来春2月12日の会議にもち越す。なお、期日が未定だった「4、現代日本の教会と社会における信徒と司祭の役割について。」の審議も当日行われることになった。

2、信徒の霊性について。

霊性とは何を言うのだろう-ということが、このテーマに対しての当初の問題であったが、次のように考えることとした。「霊性とは、福音に導かれ神の望まれる方向にむかって歩まんとする道である」と。そうならば、「信徒の」といった場合はどうなるのだろう。そこには信徒固有の独自性があるはずである。司祭には司祭としての、修道者には修道者としての固有の霊性があってしかるべきで、従来からも認められ尊重されてきたものである。信徒の独自性とは場の違いであろう。信徒には家庭、職場、地域社会があり、そのなかでの人間関係のしがらみを背負って生きているのであり、信徒固有の福音の生き方があるということである。

結婚の時、順境のときも逆境のときも愛と忠実を誓った2人は、断ちきれない、断ちきってはいけない絆を背負ったということである。これは司祭、修道者にはないことであり信徒固有のものである。それは夫婦喧嘩をしながらも強められてゆくであろう絆である。眠る幼な児の顔を、期待と不安と希望との錯綜する胸の痛むような気持ちで見つめる親、それも親子という信徒固有の絆である。子どもを養い育み、受験に悩み、また反抗する我が子に涙しつつも良かれとねがうしがらみもある。そこに信者の生きかたが問われており、家庭における信徒の召命は、神から預った命と命の絆を生涯かけて背負ってゆくということである。

職場、それも信徒の生きる場である。上役、部下、そして同僚という組織であると同時に多様な要素を包含した人間関係の中に、そして仕事そのものに、どのように福音の光を当てながら対応したらよいのだろう。週日、ともすればキリストの姿を心にとめることすら忘れがちであることを告白しなければならない信徒もいるであろう。

信徒イエスマン?

週日とは、主日のミサに与った翌日からのことである。激しい仕事の渦中にあって、福音の光を求めつづけようとすることは至難の業とは思うが、そこにも信徒の、信徒としての持場がある。

ゴミ収集の日、顔を合わせた隣り近所の方々、子どもを通しての付き合い、地域の諸活動等に、信徒としての場は大きく広がってゆく。道端での会話、PTAなどでの話し合いといった場において、福音を背景にした発言が出来るのは信徒の特権だと思う。地域社会の委員などをやって、初めて聖書の言葉が心に滲みる-などは、信徒固有の場に立っての意識変革だ。

かつては、教会に度々きて、ミサは勿論、多くの秘跡にあずかる人、時には司祭に対していたずらにイエスマン?である人がよき信者とされてはいなかっただろうか。聖職者は聖職者として、諸々のしがらみを断ち切り純粋に神に向かっておられる方々であり、教会の大きなエネルギー源であり、教会の純粋さを表すものだと思う。そして聖職者の教会における位置づけは確固たるものでなければならない。しかしそれは信徒固有の使命を助けこそすれ、それをそこなうことではない。信徒の独自性は大いに発揮されねばならないし、発揮されることが求められている。

信徒は現実の社会のなかに生きている。そこに信徒の霊性があると言った。子供の受験はどうしよう、勤務している企業のあり方、職場で本当に人間として、仲間として大切にし合うとはどうすることなのか、妻と姑との関係に思い悩むこともあろう。こうした現実のなかから何かを模索しているのが信徒である。従って1つの価値観が要求され、そこに福音の光が当たるようにしなければならない。

霊性とは神に向かって歩む道であり、信徒には信徒としての独自の場があり、そこで信徒の霊性が生きてこなければならないと述べてきた。その霊性が良き花を咲かせるには霊的力を得ることができる教会に、信徒としてふさわしい居場所がなければならないし、信徒が信徒としての道を歩まんとする内発的動機をもつことが出来るようにしなければならない。

今まで信徒の霊性をめぐって記してきたのであるが、今後の課題として教会という共同体と信徒固有の場に於て、どのように信徒としての使命が達成されるか、どのようにあるべき霊性がより強く発現されるかが問題であろう。そのためには信徒の意識変改とともに行動する信徒の養成がなされなければならないと思う、信徒には原則と現実との狭間にあって具体的行動をして対処してゆくことが要求される。従って信徒には確固とした価値観と聡明さ、さらにあるべき行動のとれる力が必要となってくる。この力はもちろん人のみによって作られるものではなく、祈りと聖霊のたすけがなければならないのは当然であるが、人間の側のそれに向っての努力もなされねばならないことは論をまたない。そのための具体的方策は何なのだろうか。教導職である聖職者の指導を受けつつも、信徒は自らの問題として取り組まねばならない。 (武蔵野ブロック)

信徒の地場が強み

霊性とはスピリトゥアリティ(Spirituality)の訳「精神性」の意味である。求道の方向性、神からの働き、福音に照らされて生きる姿、生きざま、道というべきか。しかし特に「信徒」というには、それが取り上げられた背景にあるものを考えなければならない。

今までの日本の教会の歴史においては、司祭、修道者の生き方、祈り方、すなわち、財産を捨て、世を捨ててキリストの後についていくことが完全な生き方、キリスト者としての理想の姿であって、信徒は、その後を辿ってついて行くといった形が取られて来たために、信徒が生きている独自性と言うものが評価されなかった。

司祭、修道者は、この世を捨て、世に背を向けて生きている生き方であるが、信徒は、この世の中、社会に派遣されている人々であり、家庭、地域、会社など、社会のしがらみの中で生活しながら、キリストに近づいて行こうとする、独自の求道の方向性、生きざまがある。すなわち、司祭、修道者とは違った信徒固有の福音に照らされて生きてゆく姿、生き方、福音的な道があるはずである。

人間と人間とのきずなを切り捨てて生きているのが司祭、修道者である。夫婦、親子、兄弟姉妹、姑など捨てるに捨てられない血の繋がり、信徒同士の繋がり、すなわち、家庭、地域、会社など世の中で多くの人々とのかかわりなどを、本当に大切にして生きてゆかなければならない信徒にとって、そのような人間と人間との絆、しがらみの中で福音的なものをどう活かしていくかということが、いま信徒に期待されている。これが信徒の霊性の基本ではないか。

信徒いう名の召命

多くの人々とのかかわりの生活の中でキリストの言葉を生き抜こうと決心し、一生懸命に生きている人達は、実に素晴らしいものをもっている。そのような輝きをもっと大切にして行くことが重要である。

キリスト者でない人々の中にも、福音的なものがたくさん働いている。この世の中に働いているこのような福音的なものを探し出し、協力していくことによって、目に見えるものにしていくことが、信徒の役目ではないか。これも信徒独自の霊性ではないか。

たくさんの子供を抱え、夫婦2人で家内工業的な仕事をやっている家庭がある。お金のないみじめさをいやというほど味わっているので、子供には味わわせたくないと一生懸命働いているのだが、不況のため、教会へ行く時間もなくなってしまい、ダメ信者のレッテルが貼られている。しかし、この夫婦は自分たちが本当に苦労して働きつづけているのに、隣近所の人々の不幸を見ていられず、飛んでいって助けている。こんな霊性、福音の生き方もあるのだ。

先に、人間と人間とのきずなの中で福音的なものをどう生かしていくかが信徒の基本だと述べた。きずなと普通に言うけれども、特に夫婦の場合、その底の方で、本当にそれを生かしている命がある。だから霊性とは本物の命の生きざまなのかとも考えさせられた。

今後の課題としては、信徒自身の従来の考えからの脱皮、福音宣教への認識と意識改革、信徒の霊性の理解があげられる。

さまざまなしがらみの中で生きている信徒、司祭や修道者の生き方とは異なった生きざま、それを生かす福音的な力、それがどういう形で信徒に特有の表現をとって現れてくるのかということを、信徒自身が考え、理解し、認識することが信徒の霊性についての第一の課題ではないだろうか。

信徒が、社会の中で固有の召命、使命を生きるためには、祈る、聖書に親しむ-など、絶えず神との対話を深めることが大切であり、基本である。

すなわち、個々の信徒自身の信仰の強化、自己の信仰の確立が、福音的なものを生活の場で証しできるための根本である。

また、教会の共同体は、教会内の行事を処理してゆく協力体制に偏り過ぎていて、信徒個人の根っこの所の、それぞれの家庭、地域、職場における苦労、悩み、苦しみまたは喜びなどについては、全くと言ってよいほど触れられず、そのようなことを話し合える、分かち合える雰囲気、レベルの共同体に育っていないのが現状である。

教会の共同体の中で、お互いの根っこの所の問題を、分かち合い、支え合い、慰め合い、充電されて、再び、それぞれの社会の中に派遣されていくというようなことが本当の福音宣教的共同体ではないか。これが共同体のあるべき姿ではないか。これによって信徒の霊性も、より育まれるのではないだろうか。 (千葉ブロック)

教区総会大すじ

日時・87年3月21日(土) 春分の日 10時~16時半
場所・聖心女子学院(白金)
テーマ・福音宣教を推進するための現状分析
内容・大司教メッセージ、講演(斎藤茂男氏、A・ニコラス師)、諸分科会、予算・決算報告、ナイス代表の紹介と決意表明等。

歴史へ叫ぶルイ訴訟

10月19日、カトリックセンターで、「ルイ神父を励まし祈る会」が開かれ、カトリック教徒および市民約160人が参加した。同神父の人柄を示すかのように色いろな小教区の信徒、シスターなどもまじえ、またJOCやACOなど労働者たちも集まった。

会は小林祥二事務局長のこれまでの運動の経過報告で始められ、「ルイ神父を支える会」の代表である森一弘司教の講演、更田義彦弁護士よりの弁護団報告とこれからの裁判の取り組み方、最後にルイ神父自身よりあいさつがあった。

第2部として、「江東区民の会」の代表、日本キリスト教団深川教会の戒能信生牧師による聖書朗読と祈りが行われ、フランシスコの平和の祈りを参加者一同で唱えて終った。

陣頭に森司教

ルイ神父が起こした行政訴訟の意義は、ひとりの宣教師個人の問題ではなく、私たちの良心の覚醒を促すことにあるのではないだろうか。およそ人間の歴史は、そのほとんどが富と権力を持つものの手によって作り上げられてきたと言うことができる。過去の歴史を見れば、力を持ち強大な武力を持つ国が弱い国に戦争や侵略を行ってきたのである。近年百年の歴史を見ても、西欧でも日本でも国家権力が罪悪を犯してきたのである。

国益の名のためにいかにくさんの人々が踊らされ、その尊い命を犠牲にしなければならなかっただろうか。そのような、国家が行ってきた罪の歴史に対する人間の良心による挑戦がルイ訴訟ではないだろうか。そして、いま問われている指紋押捺の問題は、日本の歴史の流れの中でとらえられなければならない。つまり、この問題は日本が1910年に朝鮮を併合し、多くの民衆を朝鮮半島から日本に強制連行して過酷な重労働のもとに使役し、更に戦後も国家管理のもとにおいてきた歴史の流れの中に位置づけられなければならないことを私たちは忘れてはならない。

戦争をくぐりぬけてきた韓国や朝鮮の人たちは、自分たちが何かを発言したり、政治的な一つの態度をとることがどんなに危険なことかを身にしみて体験して生きてきたし、今も生きていくために我慢を強いられ、沈黙の中に生き続けている。この歴史の重さが40年、50年と続いていること、また私たちはその苦しい歴史の中に生きざるを得なかった韓国や朝鮮の人々の苦しみ、やりきれなさ、つらさを知らなければならない。

また、結婚や就職にも大きな困難が伴い、将来性のある若者たちの希望や喜びまでも押しつぶしてしまう歴史を作った責任を、日本人と日本国家は感じなければならない。しかし、政治家たちを始めとし私たち日本人全体は、国が作った歴史がいかに重い罪を犯しているかというようなことをほとんど感じていないような気がする。ルイ訴訟は、良心を無視して歴史を今もそのまま平気で生き続けようとする日本という国に対する宣教師の良心の叫びでなくてなんであろう。

また、ルイ神父の姿勢はナザレのイエスのとった態度にもつながるものである。当時のユダヤ人には、神は聖なる方だから罪あるものは外にはじき出せという考えがあった。それに対してイエスは罪人である取税人のマタイと共に食事し、自分の仲間にとり入れていった。イエスは、弱い差別されている人たちと一体になって生きる姿勢を貫いたために、社会から抹殺された。キリスト者としてのルイ神父の心に生きているのも、その姿勢ではないか。つまり、国と歴史を作るよりも、一人ひとりのかけがえのない命とその営みに共感し、弱い立場の人々と一緒に生き、差別を与えている社会を良心に基づいた社会に変えていこうとする叫びと祈りが、ルイ神父の中にキリストから教えられたものとして息づいているのではないだろうか。

私たち「ルイ神父を支える会」を通して一人ひとりの命の尊さを、国家よりも何よりも大切にしようとする良心の行動を育てていく流れを、日本の社会のなかに少しでも育てられれば実りが得られるのではないだろうか。私たちの小さな叫びがどの程度の意味を持つかわからないが、行動せざるを得ない。なぜなら、泣く人がいて、苦しむ人がいて、生活が破壊される人がいる限り、その命を守るために私たちは叫んで行かなければならない。私たちがこの集いを通してキリストが叫んだメッセージを育てていくことが出来ればと願っている。(講演要旨)
▽支える会事務局-永代働く人の家(江東区永代1-7-14)

視聴覚メディアと宣教 宣教のページ

11月30日聖パウロ女子修道会において約90名近くの方が参加して集いを持った。

青木静男神父(東京教区広報担当)のあいさつ、市川裕神父(東京教区福音宣教推進部担当)のことばで開会され、長谷川昌子氏(聖パウロ女子修道会)のおはなし、白井詔子氏(OCIC/JAPAN会長)の番組を見ながらのおはなしとワークショップが、酒井新二氏(鷺沼教会)の司会で進められた。内容は全てをお伝えできないので、一部を要約させていただいた。

視聴覚時代に生きて 長谷川昌子

コミュニケーションの歴史は、文字が無い時代と文字の有る時代に分ける事ができます。文字の無い時代は、手ぶり身ぶりの原始視聴覚の時代。文字の有る時代は、感覚に訴える能力が衰え、物事を客観的に論理的に考える能力が開発され、研ぎ澄まされて来た時代です。

holy(聖なる)はwhole(全体)から出て来た言葉ではないかと聞いた事があります。視角・聴覚・思考力と総合されて全体になります、人類全体が聖なるものに成長しているのでしょうか。

教会も司牧する教会より宣教する教会へと転換を計っていますが、現代人はどんな人達なのかを知らなければ宣教はできません。

1962年後半、テレビが1千万台を越え、普及率が50%近くになった頃を、転換期として人間が変って来たと言われています。視聴覚感覚・色彩感覚が研ぎ澄まされて来た反面、社会全体の原始化・幼児化現象が見られます。テレビが伝えているものの内、メッセージとして入ってくるものは7%。体つき等45%、音声・顔等ジェスチャーとして入ってくるもの48%計93%です。コミュニケーションをする時、数量や論理としての言語より、非言語としての映像言語の広がりの方が大きい事がわかります。これを一番上手に使っているのがテレビCMです。

バチカンの教育省も神学生達にメディア教育をしなければならないと言っています。

視聴覚人間の現代人に福音を伝えなければならない今、誰にでもわかるように、言葉に頼るだけではなく、もっと視聴覚に訴えなければいけません。今日は待降節の第一主日です。マテオの福音書25章31節から36節、再臨の主について書かれた所が有ります。アメリカの聖書学者は、福音を読む時でき事を読み、でき事の中に福音を比較しながら読まなければならないと言っています。

私達はキリストの手・口・足となるべきものを持っています、もっと聖書と新聞とテレビを見て福音宣教をしましょう。

テレビを宣教に使って 白井詔子

ユージン・スミス氏と言うフォトジャーナリストがいました。水俣の公害の写真を取材中に工場の人から頭に暴行を受け、それが原因で失明しついに亡くなった人です。スミス氏の水俣病の公害の写真集「トモコ&マザー」は中の一枚の写真、水俣病に冒され、手足の成長が止ってしまった29歳の女の人、トモコさんとお母さんの入浴シーンのモノクロームから題名を付けています。

ビデオ「トモコの小さなこえ」はスミス氏を主題にした、NHK教育テレビ・ETV8で放映されたものです。登場人物、アイリーン・スミス氏(スミス氏の未亡人)、石牟礼道子氏(水俣病の作品がある作家)、トモコさんのお母さん、杉本栄子氏(水俣の漁師)、シノブさん(水俣病に冒され、和紙作りをしている29歳の女の人)。アイリーン氏と石牟礼氏は、大阪の大阪人権歴史資料館からアナウンサーと3人で話し合い、他の人は現地からスミス氏を語ると言う形で構成されています。

英語でスミスさんが話しかけても、言葉としては通じなくてもわかったみたいです(トモコさんのお母さん)。水俣の話しを聞いただけではわからない、写真で見れば痛い、苦しい、疼きが出てくる。スミスさんは泣きながらでも取るぞと思ったものは取った(杉本)。苦しみもがきながら写真を取っていた(アイリーン)。水俣は蘇りを最初に考えなければならない土地です。怪我をした時、権利意識の強い外人なのにスミス氏は告訴をしなかった。その時アイリーンさんは報道写真家は中立だからと言った。裁判にかける時間とエネルギーを写真集を完成させる事に向けた(石牟礼)。スミス氏は楽しい、話しやすい人(シノブ)。

スミス氏は19歳から亡くなるまで写真一筋の道を歩みヒューマニズムを追求した人です。残した言葉の中に「責任は2つ持たなければいけない、1つは写す人達に、もう1つは読者に」 完

「トモコ&マザー」の写真は母の愛・現代のピエタ・現代の聖画に見えてきませんか。現代の人に福音を伝えるキーワードは社会問題だとプロテスタントの牧師さんが言っています。社会問題も難民問題諮問押捺問題といろいろありますが、人それぞれのユニークな取り組み方ができるのではないでしょうか。私達が知り、知らせる。その為には視聴覚言語を体系たてて学ばなければなりません。今までは映像の読み方の勉強をした事がありませんでした。物を見る時には4つの目で見る事ができます。1つは肉眼の目で現実を見る。2つは知識の目で見る、知識があれば深く見えます。3つは心の目で見る、言葉を越えた見方、恋人・親子レベルのコミュニケーションです。4つは信仰の目で見る、マザーテレサの目がそうです。小さく弱く貧しい兄弟の中にキリストを見る。スミス氏は泣き、痛みを感じながら写真を取った人です。人との触れあいを通して信仰の目に達していたのではないでしょうか。アピト神父が「人間社会を御父の目で見たい。神様が下さった物を人間が壊している、もう一回創造され直す事を願いたい。又やらなければいけない」と言っていました。スミス氏は「写真は小さな声だが、一枚の写真が思考を引き出す。小さな声の力を信じ、代弁者になりたい」と言っていました。写真集はアメリカで出版され、小さな声に終る事なく、外国からの声で水俣はストップしました。スミス氏は英語を知らない人達にも、言葉以外のコミュニケーションができたのです。19歳の時から無我夢中で自分の召命に生きた人でした。福音宣教の時、相手にわかる日本語で話しかけても、なかなか通じないものです。自然で自由で人が寄り付きやすい姿こそ福音宣教者の召命の姿でありたいものです。holyだが近よりがたい人であってはいけないのではないでしょうか。メディアと言うとすぐハードマシーンを思いますが、私達が人間メディアとなり自分なりのわかりやすい言葉で、自分なりのタレントを用いて、福音を伝えていく事が大切だと思います。

聖霊を信頼し果しない旅路に出よう 宣教のページ

10月12日(日)本郷教会において飯山敏道氏の講演が行われました。

飯山敏道氏は現在東京大学理学部教授で地質学を専攻されておられるかたわら、フランスに永く滞在されたときの信徒使徒職の経験を生かされて、教会での活動に専念されておられます。

当日はミサの後、聖堂に関戸神父を始め約80名の信徒が集まり、氏の体験を通した信徒の福音宣教のお話に聞き入っていました。

2時間に亘る氏のお話はそれぞれ信徒のみなさんにお聞かせしたいものばかりでしたが、紙面の都合上その一部を掲載させて頂くことに致しました。

現在の日本社会を見ていると、国民が声なき声として心の中では希っているが、現実には実現できない国際間や国内の問題が沢山あるように思う。今、教会は信徒使徒職をモットーに歩んでいる。そこで、私たちの身の回りを振返って私たちカトリック信徒であればこそ容易にできることを考えてみたい。

乏しい国際感覚

今日の日本は国際化が進んでいる。しかし、この国際化が単に国を行ったり来たりすることに集約され、しかも欧米の場合と比べると、常に国ということや自分のアイデンティティをあまりにも気にしすぎるように思われる。

例えば日本人の場合、高度成長のおかげで日本の物価が高いことを忘れて、ごく普通である海外の物価が円高で安いと感じているし、留学生のために日本人学生には高嶺の花のビジネスホテルのような留学生だけの寮を作ったりする。国際会議に出席している人たちを見ても欧米と比較して日本や自分の優位点を感じとろうとし、欧米の欠点を探そうとすることが目につく。

これに対し、母国からの留学生の世話をしているフランス人の友人は、「現在の日本は上から下までお金を稼ぐ方法が強引であってもあまり悪いこととは思わない状況になっている。しかし、日本の古い文化を見ているとこれが長く続くとは思わない。もう少ししたら日本は世界における日本の文化ということに目を向けるだろうから、今、日本との交流を蔑ろにすることはできない。あらゆる面で努力しながら日本を見てもらいたい。」と、日本人より好意的に見ている。

これは、国というより人間らしさと人間を常に考えている根本的な哲学の違いであると思う。つまり、考える基準がキリスト教であるから、全体の幸福ということを考える時にはこうした発想が自然と出てくるのである。

このことはイデオロギーの問題でもいえることで、今、東と西は政治的に軍事的に対立してはいるが、イエズスの根本に戻ろうとした時に少し変形して現れた共産主義ともモラルが同じであるから、利益代表的な日本の主義主張の対立に比べ欧州ではそれほど強い対立は生まれない。

非人間的な内政

国内の問題にももっと驚くことがある。国鉄が赤字であることは事実だが、雪が深く冬になると道路も使用できない地方にある鉄道は生活必需品を輸送する重要な手段であり、これこそ国鉄でなければ成り立たない国の事業である。民営化問題は、これを民営化することによって赤字になると、「民営なのだから国は関与しない」と責任を回避することにつながる。

また、生きている活動期に国民のために働いた人たちが年老いて働けなくなったり病気になったことに対し、財政の具合が悪くなったからといって一番先に老人たちが人間らしい生活を送るための財源に目をつけて医療補助、税金控除を削減する非人間的な政策が行われようとしている。

教育問題もある。今日、自分だけの力で自分があるような状態になることは殆ど不可能であって、常に誰かのおかげで成り立っていることを徹底させる必要があるが、現実は全て自分の力でできたと思うような教育がなされている。つまり、競争にゆがめられた社会の中で日本の教育は常に競争に結び付いているのである。

日本ではよく「我慢しなさい」と母親が怒るが、フランスでは「おまえの言うことは理屈に合わない」というし、学校の内申書にも成熟度というものがある。人間として専門教育も必要であるが、その年齢に応じた物の判断ができ、自分の行動に責任が持てる子供に育てようとするところに欧米と日本の違いがあるように思う。

もう1つは、今日の消費社会の形態である。企業は利益を追求するばかりに資金がかかり、割高になる資源回収を行わず、常に新しい資源を使おうとする。しかし、この資源は45億年もの長い間神が地球の営みを通して地表から2キロメートル以下の所に蓄積した物であって、もし、これを人間の力で造り出そうとしたら地球上の化石エネルギーを全て使い果してもできるものではない。

この資源を地球の歴史から見れば極めて僅な人間だけで短期間に使い果そうとしている。日本の場合外国のように資源保護の叫びが強く出てこないのが残念だが、理性が働く人間として人間らしく資源を使っていくことを強調すべきである。

キリスト者としての使命

では、私たち少数派のキリスト教徒は日本で何をしたら良いのか。それはキリストの時代キリスト教徒が少数派であったように、現代日本社会の中に私たちを少数派として置いてくださった神に感謝すべきことなのである。ここ数年、少数派のカトリック作家の作品が高く評価され日本社会にアピールしていることでも解るように、一般の方が変わって欲しいと望んでいることに目を向けてキリスト教的に働き実現することだと思う。

もちろん、教会を軸に互いに助け合うことは大切なことであるが、信徒使徒職に必要な条件の1つは、まず、小さなことに目を向けて長く続けることである。長く続けることによって変わっていく切掛けがつかめるのではないか。

2つめは長く続けるために必要なことで、メンバー一人一人が常に聖書や霊的書物を紐解き、コンスタントに日々神と対話する習慣を持つことである。福音の中に出てくるキリストの気持ちを理解し、常に新しいキリストの側面を探求し続けることなしに、活動だけで動いている教会の中の運動は、仲間割れすることが多く長続きしない。

3つめはキリストの名の下に集まる私たちが、霊的向上を求めて互いに助け合うことである。例え霊的導きがあって一人一人が外に出て働いたとしても、弱い私たちは時として負けてしまうことがあるかも知れない。しかし、そこに教会があり兄弟同志で互いに経験を分かちあい、助け合うことができれば挫折することもないであろう。

私は「キリスト教は人間を人間らしく生かすことを教えてくれる」ということを、教会がどうしてもっと強く言えないのか不思議に思っている。

日本の社会にはキリスト教が人間らしさを訴えて生き続けてきたことが受け入れられないかも知れない。しかし、私たち信徒は聖霊の導きに信頼して互いに助け合い、励まし合って個人も教会も全てが無限への旅路に向かって支度をし、長い道程を歩んで行かなければならない。

あとがき

この号の発行は12月28日で、御降誕祭も無事終わり、皆さん暮れの忙しさに追われておられるでしょう。今回は視聴覚メディアによる福音宣教、宣教の方向に関する記事を取り上げて見ました。

経済的にも精神的にも不安定な時代に入り、宗教を求める人が増えています。表立った福音宣教が苦手な我々カトリック者も新しい方向を模索しなくてはなるまい。私たち信徒は宣教の必要性は分かっていながらその難かしさの前に手を拱いていなかったでしょうか。人様のやり方を覚えたり、方法論を習ったところで、真の福音宣教が出来るわけではないけれども、言葉を知らなければ話しも出来ないわけですから、一人一人の信徒が学び考えることは、これからますます必要になって来るでしょう。これから迎える新しい年が実り多い年であるよう祈ります。