お知らせ
東京教区ニュース第59号
1986年07月01日
目次
2小教区誕生
足立教会、成田教会は5月26日、6月5日付をもって、三河島、佐原教会分教会から、それぞれ足立小教区教会、成田小教区教会として独立した。
ナマ声の分科会
宣教へヤル気充分 だが問われる手段の雅さ 教区総会
本年3月に開かれた第1回教区総会は、東京管区公聴会の性格をも合わせ持ち、その目的の1つは、司教団が「基本方針と優先課題」について、信徒のナマの声を聞くことにあった。このためにはとくに分科会が設けられ、話し合いの中身をありのまま伝えるという方法がとられた。発言は教区事務局でまとめられ、すでに司教団に提出されているが、当日は全体会議でも分科会の模様は報告されず、他の機会にも発表されなかったため、特定の分科会に出た者がそこで話されたことを知る以外は全くわからず、本紙での紹介が待たれていた。皆んなどんなことを話したのだろうか-。
分科会は、宣教に関する4つのテーマにもとづき、11班にわかれて開かれた。司会や書記は宣司評で選んだ者。テーマごとの話題例を紹介したしおりを手わたし、やり方については、小林章雄宣司評委からまえもって説明があったため割とスムースにいった。
ざっくばらんな声を-、ということで皆よく喋ったが、なかには極めて観念的、抽象的な発言も見られた。
おことわり 編集の都合上、割愛したものもあります。
1、小教区を宣教母体にするには。
(A)分科会
(司会 渡部栄一・麹町)
(書記 木島武次・麹町)
【川口】(洗足)男(男子信徒の略)-幼稚園、共助組合などを通し、地域に貢献している。
【青木】(横浜)男-ガール・スカウトで外部に働きかけている。教会の間口を広げ、未信者がたやすくはいれるように工夫する。広報活動を活発にし、人間講座を開くなどして話し合いを盛んにする。
【妹尾】(関口)女(女子信徒の略)-広く外へ出て、視覚障害者の中で働いている。
【佐藤】(仙台)男-婦人会が障害者の手伝いをしているが、行政の制度を知らない人にはそれを如何に利用するかも助言している。
ふれあい場作り
【興野】(田園調布)男-児童が集まってくるので、図書室や教会学校などを通し母子とのふれあいを図り、学校でできない教育と取り組んでゆきたい。
【デフレン】(志村)司(司祭の略)-冠婚葬祭、結婚講座、クリスマスなどを通して、未信者に関わるよう努力している。
【武藤】(横浜)男-信徒が能力に応じて隣人を世話するために奉仕参加章を作り、見直しと反省を行なっている。
【安次嶺】(那覇)女-地域社会の人と関わりを持ちたいと思い、子供と友達になることから始め、親とも仲良くなった。
【木島】(麹町)男-宣教に対する信徒の意識改革のため、セミナーなどの催しが必要だ。
【平野】(柏)男-ボランティア活動を通し、地域社会にとけ込んだ教会にしたい。
(B)分科会
(岩子 竜男・築地)
(小林又三郎・徳田)
【菊地】(成城)男-宣教の主体たるべき青年層の育成が急務である。
【青木】(清瀬)男-方法はマンツーマンが最良である。高齢社会では老人パワーの活用こそ大切である。
【池尾】(横浜)男-土台の再教育が必要である。小教区内のブロック編成を充実させたら。
【里見】(板橋)男-勉強会は信者・未信者合同で行ない、未受洗の家族を催し物に招待することに力を入れている。
【山口】(小平)男-教会運営委員会は行事主体の組織であるから、目的行動別の団体育成を企てるべきではないか。
【三枝】(高円寺)男-100名程度の地区会を中心に、宣教についての勉強をはじめた。
【氏家】(本所)男-出版物を無料で配ったり、バス停の標識に教会の広告を入れるなどしている。
【芹沢】(横浜)男-ニュータウンへの働きかけ、新しい教会への手助けを心掛けたい。
【蓬田】(町屋)修(修道者の略)-外に向かって呼びかける時は理想論より実践だ。信徒は一人必ず一役の意識を。
【山脇】(柏)男-ミサを宣教の中心に据え、誰でも引っ張ってこられるような教会の雰囲気づくりを。
【芹沢】-すべてにおいて教師づくりが先決である。
【菊地】-活動には反動がつきものだが、司祭が押さえる側に回らないように。
【カバーニャ】(カノッサ修道女会)修-宣教は日常の会話から-。小さなチャンスを逃がさないように。
(C)分科会
(栗田信子・お告げの姉妹会)
(北村圭一・上野毛)
【新井】(横浜)男-司祭の役割として「大人の信徒にする」べきであり、信徒は自覚と責任をもって「大人の信徒になる」べきである。
【石川】(五井)男-小教区内で、仲間づくりから役割を自覚したい。
【ヘレナ】(マリアの御心子女会)修-多様な活動を通じ、招きやすい触れやすい形から教会に入って貰えるようにしたい。
好機は教会催事
【赤谷】(田園調布)男-教会はもっと開かれているべきで、そのために信徒がどう協力できるかよく考えたい。
【大木】(聖心侍女修道会)修-今日の社会の精神的未熟に関する自覚についてなど、宣教の意味を司祭と信徒がよく話し合うことを大切にしたい。
【橋本】(浦和)男-正義と平和協議会で活躍中。部落解放、指紋押捺拒否などの諸問題を通し、人間の生活は政治的であらざるを得ないと思うが、小教区にもち込んでもどうにもならない。自分達の町にどの様に関わったらよいかが新しい問題だ。
【田垣】(徳田)男-教会には多種多様な人間がいるのだからもっと活用し、地域特有の悩みと皆で取り組み助け合ったら。
【桝田】(横浜)女-頭からでなく体験的に刷新できるプログラムづくりをしたい。
【大海】(麹町)男-未信者が気軽に立ち寄ることができる場を提供し、明確な目的をもった活動もしている。
【中村】(多摩)男-地域性を土台に、各層を入れた組織づくりを。
【会田】(目黒)女-少なくとも、平日でも教会は開かれているべきだと思う。
【佐々木】(浦和)男-合意のもとで対応を考えるなど、地域社会の問題にエキュメニカルにかかわっている。
(D)分科会
(鈴木弘道・吉祥寺)
(北 文夫・吉祥寺)
【白石】(小平)男-司祭には時間的余裕を、信徒には目的意識をもたせることが大切だと考える。
【田坂】(洗足)男-義務感からでなく、自主的にやる人間が必要で、それにより小教区も活性化すると思う。
【伊東】(浦和)男-司祭が手の回らぬときは、組織化して助けるべきである。
【岡田】(麻布)男-明るい、わかり易い教会にしたい。例えば未信者に理解し易く説明できる本があればと考える。
【富沢】(柏)女-若い人びとが積極的に行動すること。
【中川】(仙台)女-市役所のボランティア活動で小教区がリーダーシップをとり、一般の中にとけこんでゆくチャンスとなっている。
【岩崎】(横浜)女-信者であることをかくさないで-、という気持があれば宣教できる。
赤ちょうちんも一役
2、職場で宣教するには。
(A)分科会
(初田正平・赤堤)
(坂口有久・赤堤)
【杉田】(葛飾)司-宣教とはキリストの心を周囲の人びとに浸透させることであり、人間的な願いを真剣に聞くことから始まる。
【鈴木】(関口)男-終身雇用制のもとでの仕事の受け止め方や、永年にわたっての実績が、職場での宣教に重要な役割を果すのではないか。
【今泉】(蒲田)女-職場では人との関わり合いを大切にするよう努めたい。仲間から何か違うと気付かれることが宣教ではなかろうか。
【中井】(多摩)男-現在の職場は労働者が孤立している。飲みに行き、人間的なつき合いを深める中で宣教の成果が得られるものと思う。
【中野】(柏)男-職場において、誰でも1人ではないと感じさせるようなグループ作りが大切で、これがキリストをもたらす結果となる。
【吉田】(横浜)男-職場や地域での宣教は、建前でしかものが言えない間は程遠く、永年つき合って喧嘩もし、本音で話せるようになってはじめて可能である。
【豊田】(横浜)男-福音宣教とは、現代の矛盾を直視し、痛めつけられている人の側に立って闘かうことではないか。
【日野】(横浜)男-キリスト教の、現代における実像を理解させるよう努めているが、宣教にはまず自分自身が満たされている必要がある。
【寺本】(本所)男-キリスト者としての毅然たる態度を保持し、世人の各種の問いに答えられるだけの勉強をすること。
【寺井】(浦和)男-職場における宣教とは、仕事を通じて職場の現状を人間中心に変えてゆくことではあるまいか。
【村川】(浦和)男-職場の宣教にあたり(1)同じ職務に従事するカトリック者間で、横のつながりを強化する(2)障害者等に対する支援を強める(3)世間の働き過ぎを是正する-などを提案したい。
グチの聞き手に
【伏見】(蒲田)女-愛がある所にキリストがいる。労働者にその愛を及ぼすことが宣教だ。
【水戸】(町田)男-職場の価値観はキリスト教のそれと異なる。愛とはその人のためにどれだけ無駄な時間を過したかだ。
【吉田】-教会は職場で打ちのめされた信者のご機嫌を取り、おもねるだけでなく、時には厳しく指導して頂きたい。
(B)分科会
(寺田 公之・西千葉)
(新田三千典・西千葉)
【山口】(大森)男-「職場での宗教色は禁句」というのは事実だ。何よりも態度でキリスト者だということを示していく形になる。
【織田】(フランシスコ会)神学生-信徒と司祭の、職場における宣教についての認識のギャップが非常に大きいことを留意すべきである。
【佐久間】(東金)男-基本的に同感である。しかも自然にふるまうことが大切だと思う。
【阿部】(聖パウロ修道会)修-生活態度を通じて仕事の厳しさが生んだお互いの共感が、福音宣教の道につながるのではないか。
【水島】(府中)女-「日常の態度が大切」には同感。聞かれた時オドオドしないよう勉強せねばと思う。
【中山】(横浜)女-信者であることを打ち出すと敬遠されるため、逆に八方美人になったと反省している。
【阿部】(関口)男-酒を飲んだ席でカトリックについて聞かれ、話すこともある。
【大森】(蒲田)男-職場で好感を持たれることは第一だが、たまにはカトリック者としての考え方を貫くことも大切だと思う。
【梅田】(豊島)男-営業の管理職だが、部下に落ちこぼれが出ると一杯飲みながらキリストの話をして励ましている。
【千葉】(ベタニア修道女会)修-職場では隠れをやめて表に出ることにしたが、笑顔で応接してゆくのが自然のふるまい方である。
【宮崎】(カノッサ修道女会)修-幼稚園勤務だが、信者の手助けで聖書研究会とみことばの分かち合いをしている。
【秋月】(スピノラ修道女会)修-幼稚園をやっているので未信者の子供たちによい雰囲気を与え、経営者である司祭と生徒との間の良きクッション役になることが大切だと思う。
【飯盛】(麹町)男-上司から「競争会社の書類を盗め」と命令されたとき、それは出来ないと退職した。隠れキリシタンというのは福音に反するのではないか。
時には毅然たれ
【久保田】(浅草)男-あらゆる考えを一度神にまで上げ、再び現実に降して判断している。
【東海林】(清瀬)男-信仰の観点から譲れないとなれば、潔ぎよく職場を去る覚悟は必要。
【篠田】(大森)男-教義を知識として分かっていても、あとの処理がうまくゆかない。
【鈴木】(田園調布)女-幼児洗礼をうけただけで長く遠ざかっていた人を、教会に戻した。
【曽田】(渋谷)男-宣教は身近からという感じだ。親身になって面倒を見てやり、酒を飲んで順番にやっている。
【高橋】(田園調布)女-価値観の相違で職場の人との意見のくい違いはしょっちゅうだが、それはそれでつき合っている。
3、地域社会への宣教。
(A)分科会
(司会 杉浦 茂・本郷)
(書記 本島明郎・本郷)
【榊原】(瀬田)男-何か地域に役立つことをと、公共機関にバザー売上からの寄付を考えたが、思うようにゆかなかった。
【因】(吉祥寺)女-レジオマリエ活動を通して人間のあるべき姿を追求している。
【樋口】(成城)女-宣教の困難さの1つに言葉のむずかしさがある。「やさしい言葉」によるテキストを、一般信徒の手の届くところに置いてほしい。
【沼野】(葛飾)男-テレフォン相談室のようなものを設け、問題が起った時に専門家が即座に解答できるという態勢が必要ではないか。また、司祭の独身制にも一考を要する。
【大原】(マリアの御心子女会)修-真生会館に集まる地域社会の人びととの関係の大切さを学んでいる。
【佐藤】(三軒茶屋)男-周囲の人びとへ向けての対応話法をまとめた手引きのようなものがほしい。信仰に導かれた体験談をまとめてみてはどうか。
【大塩】(渋谷)男-福音宣教について、各教会での成功例、失敗例を集めて出版したら参考になると思う。
【高野】(関口)女-私たちの教会で発行した「新しく教会に来られた方のために」というパンフレットは、かなりの反響を呼んだようだ。新しい人を迎える態勢作りにせい出している。
【中堀】(聖母奉献修道会)修-ミサの往復時、路傍の人に声をかえることから始めているが、神についての話になると一定限度以上はいれない。市民教室で知り合いを作っても同じことである。教会の案内図などを渡しているが-。
【因】-全教会の地図もある。16の地区に分け、毎月1回家庭集会を行なっている。
住民との交流を
【樋口】-私も15年来、友人を自宅に招いて家庭集会をやってきた。人間的信頼が生まれるのが神に出会う第一歩だ。
【中堀】-豊島区の教育会館での催しの中で参加できるものを探し、メンバーと近づきになった。
【古木】(サレジオ会)男-神学院にサレジオ・ユースセンターがあり、毎日曜日約200人の男の子が集まる。スポーツ、園芸、音楽等のグループに参加、各種の催しが行なわれる。子どもが来る所には母親も集まるので人生の話をすることもある。
【粕谷】(田園調布)-教会自身が地域社会に対して塀を設けているのではないか。ソフトな面で対応できる状況を作ってほしい。
【宮脇】(扶助者聖母会)修-教会の雰囲気が、若い人がもう少し気楽に活動できるものであればいいと感ずることがある。
【本島】(本郷)女-福音宣教については、先方と親しくなった時に、相手を受けいれる状態を保ちたいと思っている。
地域なじみの境内に
(B)分科会
(田中昌子・汚れなきマリア会)
(鈴木英史・サレジオ会)
【吉田】(関町)男-地域社会への宣教がふるわない原因として(1)信徒の横の連絡が少ない(2)布教面で司祭を助けはするが、互いに話し合う雰囲気がない-があげられる。そのため信徒のサークル活動をもり立て、司祭から指導して貰いたい。
【小林】(市川)男-自分の住んでいる地域との関わりにも積極性を持ちたい。町内の行事に参加したり、逆に教会のバザーなどに周囲の人を招くなど。
【船越】(柏)男-知恵おくれの子供たちの援助や、困っている人の手助けなど、周囲の特に苦しみ悩んでいる人と連帯する方向に動いている。
【竹内】(渋谷)女-やっていることなら(1)アルコール依存症の人の会合(2)教会秋まつりへの呼びかけ-など。すぐ地域の中に入りこむのはむずかしい。まず雰囲気づくりから。
【四戸】(聖ウルスラ修道会)修-英語のレッスンを初めとして、子どもの練成会などを行なっている。地域の行事にも参加するよう努力している。
【芹沢】(浦和)女-教会学校の合宿に未信者の子どもも加わり、親のほうにも輪が広がっているので、勉強会などを設けたいと考えている。
【須賀】(赤羽)男-地区会をつくり、結婚式や葬式の世話をすると同時に、未信者にもその典礼儀式などをわかりやすく説明している。なお聖体行列を催しているが、よい宣教になると思う。
【石垣】(扶助者聖母会)修-養護施設の子どもを公立の学校に通わせているが、これをとおして先生や里親、地域の人びとを施設の行事に誘っている。
【白柳】(八王子)男-復活祭に近所の人を招いたり、盆おどりを主催して、子どもにおもちゃなどをプレゼントしたり、川の掃除を地区の人びとと協力して行なっている。また、町会や自治会の役員になってゆくことも考えている。
【小林】-詩吟のクラブを教会の中につくり、それを通して地域の人びとと交流を深め、宣教に結びつけている。
【須賀】-教会には色いろな専門の人がいる。それらの助けを借り、信徒だけでなく、地域の人びとの相談にのったりしたら宣教が行なえる。
【平田】(仙台)男-町内会と関わり、駐車場の提供、ボーイスカウト、スポーツ活動などを通して地域との交流をはかっている。
【堀田】(浦和)男-家庭集会や年末のもちつきなどに地域の人びとを招いている。
地元奉仕の心が
【北沢】(洗足)男-学校の門の周囲を清掃するなどして地域に奉仕しているが、直接宣教に結びつけることが課題である。
【桜本】(宮崎カリタス修道女会)修-お年寄りを病院に見舞い、神についての話などをしている。このような小さなことでも布教になると思う。
【浅岡】(多摩)女-教会に根をおろせない若い人びとや、また活動した仲間をも、つなぎとめておく絆が布教のプラスになると思う。
【吉田】-現世的利益でなく、教会が正しい意味において生きる喜びをのべることは必要である。これについてもっと積極的であることが布教につながる。
【白柳】-葬式、結婚式などは布教のよい機会であるから、未信者にもよく分るような祈りなどを考えてほしい。
【段原】(浦和)男-信徒は外に布教に出る前に、まず自分たちの間で一致を固めておかなければならない。
【小島】(大阪聖ヨゼフ布教修道女会)修-地域の布教にあたっては、その土地柄、背景を知り、あまり派手にしないことが大切である。
【林】(松原)男-「あたたかい教会を我々の手で」をスローガンに、まず教会内の雰囲気づくりを心がけている。
【大森】(礼拝会)修-幼稚園と女子寮の仕事の関係で、その子供や父兄を通し、地域の行事などにも参加している。
活かそう2万の主婦パワー
(C)分科会
(陣野友久・千葉寺)
(池田政朝・千葉寺)
【溝部】(サレジオ会)司-教会学校の子供達を通して地域社会に関わっている。
【関】(小岩)男-地域の人びとと、趣味などの文化関係を通して交わっている。
【荻島】(町田)男-ボーイスカウトを通して地域社会とのつながりをもっている。
【イノセンシア】(クラレチアン宣教修道女会)修-幼稚園や団地を利用して聖書研究を行なっている。
【松本】(横浜)男-信徒レベルで今すぐ出来ることは、心を開いて近所の人びとと友達になり、いつも喜びをもって生活すること。
【新谷】(田園調布)女-毎日の生活の中で出会う人びとと、どのように関わるか、キリスト魂を日常茶飯事にどう生かすかが大切だと思う。
【山田】(アシジの聖フランシスコ会)修-地域社会の人びとに関わろうとして、労務者の集まる赤チョウチンへいったり、またパーマ屋さんなどとも機会があるごとに近づきになるよう努力している。
【濃泉】(浦和)女-老人ホームで要理を教えているが洗礼志願者も出ている。
【小林】(アシジの聖フランシスコ会)修-山谷に1年以上かかわってきた。人間であることに根をおろした活動こそが、本当の地域社会への宣教ではないだろうか。
【林】(瀬田)女-自宅へ近所の主婦をあつめて聖書を読んだり、PTAで知り合った人たちと女性会議を開いている。
得手の気くばり
【大倉】(町田)司-「来日外国人の人権を守る会」を通して地域の人びとと関わりを持ったことから、市から寝たきり老人のために修道女に来てほしいという要望が出たりしている。また精神障害者がやっている町の喫茶店へは、信者が沢山いって支えあっている。
【佐藤】(浦和)男-夫婦が協力し合う家庭としての使徒職が大切で、小さなことを積み重ねてゆくことが必要である。
【木村】(田園調布)女-教会の外で障害者との関わりを深めているが、宣教しようと力むのは逆効果で、自分を示しながらの心の通じ合いが大切である。
【関】(小岩)男-文化活動と「家族と家庭を考える会」などの責任者をやっている。宣教は口に出さなくても自身が証明しなければいけない。
【溝部】-自分の持っているものを通し、いかに地域社会にはいってゆけるかを考えること。
【松本】-相手の持っている信仰に対する尊敬と理解が大切である。
【古川】(城東)修-公立からきた学生に、宗教的価値観を。
4、宣教における家庭婦人の役割。
(A)分科会
(星加光子・瀬田)
(仁杉とよ・松原)
【中村】(小平)女-結婚式、クリスマス等の折に、信者・未信者の交流の場として、婦人会は台所の仕事など、縁の下の力持ちとして活躍している。
【石塚】(千葉寺)女-自分の家庭内の宣教が大事だと思い、近所の人には感じよくと心がけているが、かえってそれがむずかしいように思う。
【御正】(関口)女-日曜喫茶で話し合い、未信者にも呼びかけて聖書を学ぶ集まりを続けている。
【森長】(成城)女-冠婚葬祭の折に、未信者に働きかけている。甘口のやり方だけだったと反省している。
【稲留】(高円寺)男-悩みのある子供を持つ親の集まりがある。教会へ行った人が、行けば得だよと人に伝えられるようにしたい。
【藤森】(北町)女-入院中などで学校へ行かれない子供のために、病院訪問して影絵芝居をしたりしている。
【平】(浦和)女-婦人会として交代で老人訪問をしている。
【神尾】(板橋)女-商売をしているが、店の雑誌の間にさりげなく聖書を置き、読みたい人に読んで貰うようにしている。
【土屋】(横浜)女-冠婚葬祭の折に未信者に働きかけ、子供連れの求道者については子供を預ったりしている。
【久野】(五井)女-宣教にはまず自分の子からと思い、土曜日の夜、子供と近所の人と一緒にロザリオを唱えている。
【根本】(徳田)修-幼児を持つ母親のために子連れ要理を行なっていたが、話し合いの集まりをもつようになった。
【野口】(横浜)女-主婦パワーのすごさを持っている。家庭婦人だからこそ判り合えるものもあり、色いろのタレントを持った人の力を引き出せるようにしている。
【町田】(府中)女-コーヒーショップなどを開き、近所の人とも親睦をはかっている。
【小林】(船橋)女-家庭集会が宣教の場となっている。移動集会で病人訪問をしたり、敬老会もあって地域の人とも自然につき合っている。
【築根】(関町)女-おむつ縫いや盲人用のカセット作りなどをしているが、初金の定例会で宣教のことを話し合っている。
【富野】(本所)女-幼稚園があるので、園児の送迎に集まる母親達に聖書の話がある。
(B)分科会
(一藤 甫・荻窪)
(千葉征慶・徳田)
【永吉】(豊田)女-人とのかかわりから宣教が始まると思っている。目の不自由の人のためにボランティア活動をやっているが、PTAの知人が信仰との関係で興味を示し始めている。
【梅田】(豊田)女-レジオマリエに入っていたが、今までしてきたことをより懸命にやってゆくことでよいのではないか。
【樽井】(松原)女-盲目の人への朗読テープを作る活動に参加しているが、身近な人に生き方で伝えてゆくのが本当だ。
【吉川】(八王子)女-しゅうとめの気持ちを先にくみとって家庭内で波風をたてないようにしてきた。ささやかだが、気くばりと祈りが必要だ。
【植木】(調布)女-カトリックのパンフレットをマンションに配布したりしている。
【川上】(浦和)女-子どもが友だちを教会にさそい、連れていってという子もいるらしい。
理あるだべりも
【高松】(板橋)女-親族を信仰に導こうと思う。教会では家庭会を準備している。
【坂上】(赤羽)女-「だべろう会」というのがある。そとに向かっていくというよりも、日常生活の中に宣教の場があると思う。
【藤巻】(沼津)女-クリーニング屋が来て、キリスト教のことを聞く。勉強しなければ-と思ったりもした。夫が死んだのに、散歩のとき犬ととんだりはねたりしていると近所でウワサになった。神父に相談したら、「それはよい宣教の機会だ」といわれた。近所の旦那さんが、洗礼を考えているらしいが、誘ったらいいか、女が男を誘うことになるのでためらっている。
【田中】(横浜)女-未信者の夫をもつ人で「夫も洗礼を受けた」という者を中心に会を設けていこうと思っている。
【青木】(板橋)女-真中の子は高校生で、理屈っぽい子である。家庭婦人に哲学は必要ないという人もいるが、基礎の要理をもう一度ちゃんと-と思う。
【藤島】(吉祥寺)女-カトリックに対して敬意をもたせないことが大切。信者は何か違っていると人から思われることが宣教の第一ではないか。
【渡辺】(麹町)女-教会に新しい人がきた時の、もてなし方を工夫している。
「信徒」へ更に期待
白柳大司教は、このほど「信徒について」-基本方針と優先課題の流れにそって-をテーマとした議題(別掲)について、ふたたび宣司評に諮問することをきめた。
教区の各ブロックや母体は昨年、同大司教が出した宣教に関する諮問議題の答申づくりに協力したが、その過程で福音宣教における信徒の役割が目立ったため、今年とくに「信徒」だけにしぼり、もう一度とりあげることにした。また、これをテーマとしたもう1つの理由は、今年ひらかれるアジア司教会議や来年のシノドス(世界代表司教会議)の課題も「信徒」であるため。
いくつかの諮問議題にわけ、これについて答申するという形は一度やって馴れているし、内容上も焦点を合わせやすいのでこういうやり方にした。答申の作成それ自体は宣司評の任務であるため、同評議会の審議に負うが、その場かぎりの発言を避け、評議会のメンバーが相互に学び、実りある答申をすることができるため、1つの議題に対して当番ブロックを決め、これに15~20分発表してもらう。それを中心にして質疑応答し、答申内容を深め、まとめてゆく。
これとは別に、東京管区公聴会に触発された信徒は、ブロックを生かした教区だけの更にきめの細い公聴会を望んでいる。やり方は各ブロックの自主性に任せるが、とりあえず日程は、1月15日(城西)2月1日(中央)8日(千葉)11日(城東)15日(武蔵野)22日(城北)3月1日(城南)8日(多摩)。
諮問議題〔当番ブロック〕
1、家庭について。【城西・城北】(6月22日)
2、信徒の霊性について。【武蔵野・千葉】(9月11日)
3、信徒の宣教について。【中央・城南】(11月16日)
4、現代日本の教会と社会における信徒と司祭の役割について。【城東・多摩】(来年)
急がれる 教派を越えた日本の神学 井上洋治神父
今回は前号でお伝えできなかった講演会の中から、井上洋治神父の講演内容をまとめて報告します。テーマは「日本では何故カトリックの信者は少なくシンパは多いのか」。
西欧に比べて何故日本では生活の中にカトリックが浸透しにくいのか。歴史の違いでしょうか、それとも宗教に対するかかわり方が違うのでしょうか。
日本でも西欧を学ぶ人たち音楽を学ぶ人たちは、キリスト教を除いては理解しえない部分が沢山あります。日本人のキリスト教感覚は、こうした『西欧を学ぶ』上で、活字として目から入ったものであり、そのキリスト教が生活の中にどれほど溶込んできたか、そこに焦点を合せることによって多いシンパと信者が何故増えないのかを探ることができるでしょう。
井上神父は、東京大学科学史専攻の村上陽一郎氏の『日本とキリスト教』という論文を各所に引用されながら、キリスト教徒になった人たちは日本の中でどのような傾向を持った人たちであるのか、新しい日本人の心情に合うキリスト教とは何か、という2つの課題を解いていかれました。
尚、社会的緊張から救いを求める心、結びつかなくてはいけないという気持、これがキリスト教ではないか、と講演された木村尚三郎氏の要旨はカトリック新聞4月6日、13日号を参照して下さい。
ヨーロッパ風俗から日本のキリスト教へ
近代日本は、百年以上前、明治維新の時に西欧化を目指したときから始まっている。
ヨーロッパにおける科学革命は、ガリレオ問題で明らかなように、キリスト教はその進歩を妨げるものとして強調され、特に18世紀、啓蒙思想によって「暗黒の中世」という烙印が押され、キリスト教はかたき役であると考えられてきた。
しかし、日本の近代化においては、キリスト教はむしろ日本の近代化を促進するための方便として大変有効であり、少なくとも、明治37~8年の日露戦争までは、あの鹿鳴館的なヨーロッパへのあこがれの象徴として、キリスト教が受け取られてきていた。
ところが、日露戦争後、国家主義が入ってくると、ヨーロッパの近代化は日本にとって有害だとする風潮が広がり、ヨーロッパにあこがれ、受け入れるために結びついていたキリスト教も罪悪視され切り捨てられてしまった。
村上氏の論文を引用すれば、「日本のキリスト教の布教は日本人の感性の一面をつくり、それを利用して進んできた。日本の近代化に伴い、キリスト教を肯定するにせよ、否定するにせよ、日本のキリスト教はまだ、ヨーロッパの風俗の1つにすぎないところに、キリスト教自体の深刻な問題がある。キリスト教の本質を我々自身の手で本当に取り出す作業を行っていないのでは、私たちはいつまでも、この風俗の背景の中で信じるとしても、キリストの生を生きることはできない。」と結論づけられている。私はこの意見に賛成である。
これからの日本のキリスト教は今までのようにヨーロッパの魅力では引きつけられないと思う。イエズスの福音それ自体で引きつけない限り、今までのようなヨーロッパの神学で、その中から信者にするという事では無理があると思う。このように考えると、やはり、福音宣教の原点は、自分を福音化することではないだろうか。
キリスト教シンパ像とは
私は最近、シンパが多いが何故キリスト教徒が少ないかについて考え、キリスト教徒になった人たちはどのような傾向を持った人たちであろうかと考えた。
例えば、バッハ研究所でバッハの生涯を知ろうとした人の話を聞くと、バッハをやっているうちにカンタータをやり、教会音楽へ進み、教会のことをどうしても知りたくなる。こういう方たちは、バッハ音楽は好きだがキリスト教は嫌いということがない。バッハにしても、モーツァルトにしても、西洋音楽になじんで来るとキリスト教に対して非常にシンパ的感情を抱いて来る。
文学の方でも、芸術の方でもそうである。ドストエフスキーあるいはヴェルレーヌ、フラ=アンジェリコ、ラファエロ、ダビンチが好きな人、あるいはレンブラントが好きな人など、キリスト教文化の中の芸術に触れるのだから、この方たちの中にキリスト教が嫌いな人はいないのであって、やはりキリスト教シンパであると思う。極端なことを云えば、このシンパはキリスト教ではなくヨーロッパのシンパではないだろうか。
今の時代は文化が向上し、あらゆる面でヨーロッパを追い抜いた自信が若い人たちにはあるようだが、私たちの時代はヨーロッパに追いつけ追い越せの時代であって、日本のインテリ層は明治以来、文学、音楽、映画など、あらゆる面でヨーロッパを見ざるを得なかった時代であった。したがって、そこにひかれた人たちは広い意味でキリスト教のシンパであろうと思う。
しかし、シンパは多いが、村上氏が「ゆゆしき問題」としているのは、キリストの神髄を自分たちで生きないということである。自己反省にもなるが、あくまでも、教養としての、風俗としてのキリストの中に、信者である我々自体が主体性を失っているのではないか。
私の中では「ヨーロッパ」を向けと云われて来たのがどこかに残っていて、キリスト教に入ったということがあるかも知れない。そういうヨーロッパシンパの中からキリスト教になった人たちが現在の信徒1%以下だということではないかと思う。
日本人感覚で福音をとらえ言語化を
日本のキリスト教は非常に知的な要素が高く、神学的に難しい。頭で解っていても、心の中に、生活の中に生きていない。それは、全部とは云えないが、日本の布教全体が西欧を向いていたし、ヨーロッパ人になってからキリスト教徒になっていくという在り方をとってきたのではないかというのが私の考え方である。例えば、公教要理を一年ぐらい勉強してから信者になったことも、知的のみになる例であるが、その内容が理解できた人はわずかではないかと思う。
しかし、一番基本的なことは、私たちの心情で、日本人の感覚で福音をとらえ、まず自分の心で受け止め、自分の言葉で言語化することであり、そこで始めて福音を伝えることができると思う。
使徒行録の聖パウロを見ると、13章のアンチオキアでの説教はユダヤ人に対して、ユダヤ人の歴史から始め、エジプトからの歴史を語る中で、あなたたちが期待していたメメシアはキリストであると告げている。
14章の異邦人、外国人に対するルステラでの説教では、興味を示さないユダヤ人の歴史やモーゼ、ダビデの話はしていない。そこは外国人の立場を考えて、17章のアテネのアレオバゴスでの説教でもあるように、「あなたたちに知られざる神は何であるかを教えよう」と解説していく。
すくなくとも初代教会において、ユダヤ人に対する説教と異邦人に対する説教はかなり違っていたと云える。
それに対して日本の布教はヨーロッパを向いていたのであるから、どんなにヨーロッパにあこがれていても実際に(信者に)なれる人は決して多くないのであって、なった私たちはめずらしい日本人と云えるであろう。そして、他の人たちがなりきれなかったのは当然と云えよう。
日本人の心情でとらえた神学を
新しい時代に必要なことは、日本人の信仰というものである。これは、結果として典礼から神学、組織等全部が変らなければと思う。
例えば神学について考えれば、神学としうのはその人が信仰を生きるうちに生まれて来るものである。フランシスコ会、ドミニコ会の神学なども、最終的にはその人の本当の生き方がロゴス化(理論化)され、概念化された時に、神学となるのであって、イエズスを受けとっていく姿勢の違い、イエズスの心を自分のものとしてどう生きているかという信仰生活の違いが典礼や神学に表われたにすぎない。
神学の一番元の形はこのようなもので、生活の根っこの所から出て来るべきものである。日本にはそれが、まずない。
私たちは、一番奥の、その素朴なものをなんとなくやっているから、頭でっかちになって、本当の物を失い、心の底からの信仰でなくなっているので、隣人に自然に伝えられない。キリスト教徒であることが嬉しくて仕方がないということを伝えられない。
それはやはり、借物であるからで、典礼1つとってみても、ヨーロッパではこうやっているからでは、何ら訴えるものがない。今はまだヨーロッパでも通るが、30年後にはもう通用しない。司祭、修道者の数もどんどん減るであろう。本当に別個にキリスト教が日本人の信仰に根をおろしているのかどうか、まさに正念場というところであろう。やはり、典礼にせよ、神学にせよ、私たちの生活と言語の中の1つになっている信仰を作っていくべきである。
組織についても同じである。小教区というのは、歴史を辿れば、人が村なら村に定着し、全員が信者であった時代に生まれたヨーロッパの教会の在り方である。日本のように100人の内99人が信者でないという所で、何故小教区制なのか、そこに問題がある。
教会法で決っているから仕方がない。教会というのはそういうものだ、という考えから抜け出し、それを何とかしようとするぐらいの勇気がなければ、(福音宣教は)難しいと思う。
やはり一番必要なことは、自分の生きている場から力いっぱいイエズスを見つめて見ること、そして生きていくことである。苦しいことも抵抗もあるかも知れないが、その中からにじみ出て来るものが本当であり、典礼にしろ神学にしろそこから生まれなければならない。
これは一朝一夕にできる問題ではないが、新しい日本人の心情でとらえた典礼なり神学が、10年後、教派を越えた日本のキリスト教全体の深刻な問題になると考えている。 (高島・坂井)
信仰の燈火は
いま教会は福音宣教という燈火を掲げ、その炎が少しずつ大きくなってきています。今年5月4日広報の日の課題は-世論づくり-でした。
教会で福音宣教という言葉を耳にするたびに、実践は教会の指導者の方々しかできないもの、よちよち歩きの私たちからは遠い所にあるものと、指導者の方々の仕事の大変さに尊敬のまなざしだけを送っていました。こんな私たちに、この課題は福音宣教の世論づくりを真剣に考える機会を与えてくれました。
今のマスメディアは発達しています。キリスト教関係の情報もテレビ・ラジオ・新聞雑誌・絵画等いろいろ出ていますし、その成果もあがっています。しかし、まだ世論づくりには至っていません。
一般的にクリスチャンに対して、未信徒の方々の多くは良いイメージを持っています。
それは、まだマスメディアが発達していなかった頃から、先輩の信徒の方々の言動が誰の目にも正しく立派だった事に影響されているからでしょう。そこには総ての基本に愛があったのです。
時代や環境、価値観が違ってきても、キリスト者が言葉や行動によって自分の考えを世論に表現していく事は変っていません。現代の私たち信徒も、もう少し積極的に勇気と自信を持って信仰の体験や考え方を周囲の人に話し、行動してみる時ではないでしょうか。
話し下手な人は下手なりに、一生懸命話せばその人の真意は聞く人に伝わるものですし、誰も見ていない所、誰も気がつかない所で、黙々と良い行動をする事は、いつも見守っていて下さる神様にも、行っている本人にも、一番うれしい事なのではないでしょうか。
行いは一番基本で重要な事です。頭の中で分っていても羞恥心や自我との戦いの中で一番難しい事ですが、人とのかかわりの中で愛のメッセージに添って生きていくことができるからこそ、努力しているからこそ、クリスチャンなのではないでしょうか。
大変難しい行動ですが、「あなたと共にいる」ことを感じ喜びに満たしてあげることもその1つです。誰かに自分を語りたい人の話を黙って聴くことも、良く表現手段ができない人と光の中で花や自然を感嘆し合うことも……。
神様がそれぞれに与えて下さった賜物で神を賛美し信仰を表現していくことがキリスト者の使命だと思います。
各自の周囲で、できる事でより積極的に信仰を証明し、キリストの心を伝える小さな燈火をともしましょう。火が消えないように信仰の油をいつも注ぎ込むことも大切です。
小さな燈火をいくつも集めれば大きな炎になります。やがてそれが世論を動かす大きな力となって行くことでしょう。マッチはあなたの心の中にあるのです。 (宮澤)
紹介します この本を!
もうすぐ8月夏休み!教区ニュースはお休みですが、代りにこの本を紹介します。
『イエスの広告術』ブルース・バートン著/小林保彦訳
イエスをか弱いなどと誰が言ったのだろう。大工で木を切り出し手斧(ちょうな)も使えた男は立派な体格であったに違いない。
面白くないというのも違っている。あれだけエルサレムの晩餐会でもてはやされた男なら、酒を飲み大いに語ったに違いない。
いつの社会でも、人は生れてから死ぬまで、自分を広告し続けている。イエスはその天才だったのではないか。
ブルース・バートンは聖書に記されたイエスを題材にそれを説き明かしてみせている。
(㈱有斐閣・1,100円)
『解放の神学・日本からの視点』伊藤義清・藤崎康夫・横山孝雄・土屋吉正
日本キリスト教団牧師、ルポライター、マンガ家、カトリック神父神学者の4人が「解放の神学」を導火線にして、日本における解放の現実を語っていく。
戦中・戦後の日本が、単一民族の名のもとに切り捨ててしまった「内朝結婚」の日本人妻たち、朝鮮人被爆者たち、民族として認められないアイヌの人たち等の現状を体験と資料から分析し、日本における解放とは何か、理論的裏付けが可能なのかを探る。
(燦葉出版社・1,500円)
『信徒による福音宣教・人とのかかわりの中で』佐々木博著
麹町教会真和会の「福音宣教セミナー」の講演を佐々木神父自からまとめられた。
この本の特徴は読み方、使い方が書かれていることで、(1)グループで読み、章の最後にある問で分ちあう。(2)知識だけでなく体験的に福音を理解する。(3)定期的に実践する。(4)祈り、(5)宣教者として確信と喜びが深まるよう互いに励まし合う。となっている。
夏休み、旅行を兼ねたグループの研修会や練成会等に是非奨めたい一冊である。
(女子パウロの会・980円)
『核の素顔』市川定夫・相馬信夫・渡辺英俊他
人間の身体の中に蓄積されてしまう放射性物質がある。長い時間、その物質から出る放射線を身体の中から被曝することによって晩発性障害が発生する例が、出始めている。
核の「平和利用」といういかにも安全らしい言葉の裏で、私たちは原発からわずかずつ放出される核の汚染に不感性になっていないか。
1982年5月東京カテドラルで行われた市川氏の講演がきっかけとなった「キリスト者核問題合同セミナー」の報告をまとめたこの本は、核問題を私たちに判りやすく解説してくれる。
(女子パウロ会・1,350円)
福音化を待つ現代社会 大司教教書で学習を
昭和60年度の大司教諮問議案(9項目)に対する最終答申案のまとめが5月25日、福川宣司評議長より大司教に提出された。大司教はこの答申を受けて、6月29日の聖ペトロ、聖パウロ祝日に教区民に教書を送られた。
今回、この答申案と教書を信徒側から福川正三氏、司祭側では沢田和夫神父にお読み頂き、それぞれの立場から使徒、司祭に望む御意見を寄稿頂いた。
また、白柳大司教から、教書の活用についてお話頂いたので掲載する。
教書を活用して下さい 大司教 白柳誠一
9項目の諮問に対し、長時間の討議をされ、貴重な答申を頂きました。ブロック会議及び信徒の方々の多くの御努力に感謝する次第です。今回の教書ではその全てについて触れることができませんでしたが、下記の点に注目して頂き、小教区で、活動グループの中で、十分討議され実現に向けて、一歩一歩歩み出して頂くことをお願い致します。
今回の教書の目的は、日本の教会が現代社会を福音化し、福音による人間解放を行うために行うべき課題を掲げたことです。教書にも触れましたように、現代日本社会は高度技術とそこから生れる物質的幸福志向によって、表面的には繁栄しているように見えますが、その底辺では福音に飢え渇いている現実があります。
日本的社会構造の中では目的のために競争する人間のエゴイズムがむき出しになっています。しかし、その裏側では、天に向かって救いを求める人々の声が満ちていることを見逃してはなりません。
私たちには、その呼びかけに応える使命が神から与えられているのです。
教書の第2部では、信徒、司祭、教会、共同体の方々が、その呼びかけにどのように応えるべきか、方針となる課題を9項目に亘って提示致しました。したがって、できるだけ多くの方々がこの教書に触れて頂けるよう次の配慮をして頂きたいと思います。
○ミサの中で読んで下さい。
○教会委員会で読んで話し合って下さい。
○共同体や活動グループの中で読んで話し合って下さい。
○信徒の家庭で家族の話題にして下さい。
日々の生活のかかわり合いの中で、カトリック教会の役割が益々大きくなっていることを、この教書から読み取って頂くために、何回もお読み下さい。そして、この教書の課題が具体的行動として、波紋の輪のように広がっていくことを望んでいます。
信徒が主役になれ 東京教区 沢田和夫神父
1、伝える任務がある
洗礼を受けたときから一人一人、全員、宣教者の自覚を持つといいのです。入門講座を聞き始めたときから、大切な“神のことば”を預けられるものなので、その時からすでにその人なりの仕方で預ったことばを伝えていく任務を持ち始めます。預言者任務を持つと言います。そこで、宣教について「与えられる者」から「与える者」への意識の変革、人はみな神から与えられた者ですが、慈しみを受けた者として「与える者」になっていく意識変革は大切だと言えます。
信仰の核心をつかみ、自信を持ち、自らの信仰を自分の言葉で口にして見る努力をもっとすることで信徒でなくてはできない福音宣教を見出すべきであるとの強調は大切なことです。信徒でなくてはできない福音宣教を見出すという点では、信徒は主役です。
お店を例にとれば、系列化されたスーパーに対し、小売店主や行商人がその現場では主役であるように、信徒も主役だと呼んでいます。「私たちは魚のよう、宣教の愛の中で泳ぐ」、「ほんの一瞬の一行を読むだけでも、聖書は光とも、喜びともなります」と。
主役である信徒が参加している社会の場で、信徒は多くの悩みを持っています。仕事の中の人間関係、心の持ちよう、時には仕事の内容にまで福音化を考えなければならない立場に立たされるのです。
こんな時、聖書によってキリストに学び、自分なりに道を開き、信徒の言・動による宣教の可能性について意識を高める事が必要です。そして、具体的可能性について体験の情報交換をカトリック新聞や教区ニュースで行うことも良いでしょう。
2、苦しみは愛の刻印
新しい発想を生かそうということから、福音宣教に関わるグループ作りを奨励するのは良いことです。グループの内外に周囲に交流和合を起すものであることが大切で、聖霊の清い息吹と聖書の和合(コムニオ)、諸聖者との和合、聖体によって1つになる和合、ローマと世界教会との和合への発展を望むところです。
しかし、一人一人が開かれた和合であれば良いのですが、ただの組織作り、特権意識を持った人々の閉ざされた排他的な共同体がまたできるようであってはならないものです。
教会の中に親しい交流を起し、周囲に親しい交流を起し、内と外の間に親しい交流を起すようなグループでありたいものです。
「人間性回復のため、信徒中心に、勇気を持って行動しよう!」との声があります。
これは宣教と無縁ではなく、「おんひとり子を与えるほど世を愛された」神の愛のうちに包含されることと言えます。
大企業の繁栄の陰に苦しむ弱い立場の人たちへの圧迫は告発されるべきでしょう。
苦しみは全て避けて通るわけにいきません。キリストが愛して苦難を救いの道となされたように、愛の刻印を帯びた苦しみ、十字架の刻印を帯びた愛の中の苦しみは無駄ではないのです。愛を持って人を生かす道に転換していくことこそ大切です。
3、信徒は社会の祭壇で
既得権を譲り、欲望を自制し、損を避けないということで、世界の中の日本が大事な働きをするために、聖堂とその敷地内だけを「教会」と呼ぶ意識から脱皮して、信徒の生きる場に教会が「出っ張っている」と意識すべきでしょう。
教会が「出っ張れば」祭壇も社会の中に出て行きます。この祭壇でキリストが待っておられ、信徒は自からの生活と命の全てをキリストのいけにえに添えて載せて献げることができるのですから、社会は信徒の祭壇であることはすばらしいことです。
青少年育成については、青少年の求めているニーズを汲み取り、一人一人の中の一番いいものを引き出し自覚させ、困難にチャレンジさせ、愛の本質を知らせ、信仰を自分たちのことばで表現するほどに生きているいのちのことばに触れさせることこそ大切でしょう。
(尚、福音宣教2月号(オリエンス)に沢田神父が寄稿されていますので御参照下さい)
司祭に望むものは 宣司評議長 福川正三
1、司牧から宣教へ
今日迄の日本の教会における司祭の役割は宣教もさることながら司牧の方に重点があったと言えるのではなかろうか。そのお蔭で信徒はその下に安泰な教会生活を送って来られたのであろう。然し、この事が日本の教会に現在どことなく宣教に熱意の不足が感じられる1つの原因ではなかろうか。
去る5年前に教皇ヨハネ・パウロ2世が来日されて、最初の日の晩に出されたメッセージを思い起したい。
「わたしたちが記憶して耳を傾けるなら使徒フィリッポに呼びかけた同じ「イエズスにお目にかかりたいのですが」(ヨハネ12・21)という叫びが聞こえる筈です。そして今日、この叫びは人が溢れるこの大都市、東京から日本全国から響きわたっているのではないでしょうか」(1981年3月23日)
この教皇が言われた人々の叫びを司祭方一人一人が御自分の耳で聞いておられることを期待したい。
これこそ司祭の今日における最重要課題であって、これを司牧よりも優先させるようにそれぞれが変わることを求められていると思う。
それには司祭の耳が先ず日本の社会の中に向けられ、それによって、社会の人々の心に触れる適切な福音の言葉を見出すことであろう。
2、共同体の運営
司祭の関心が司牧から宣教へと転換して来れば、それなりに日々の仕事の取組み方も変って来るであろう。
宣教という多くの時間とエネルギーを必要とする役割を果すのには、今迄のように自分一人が中心となって教会の中を何もかも整えて行くことは不可能になる。
どうしても信徒と役割を分担せざるを得ない。然しこのようなやり方を従来して居なかった方には大きい困難が察せられるが、思い切って踏み切ってほしいものです。
3、縄張意識の克服
今日迄とかく問題になった司祭の縄張り(テリトリー)意識の過剰ということも、司祭の意識が司牧から宣教へとはっきり変われば徐々に解消するのではなかろうか。
従来余りにも司牧第一主義であったことが、いわゆる「我が城」を守るという気持を強くしていたと思う。上から東京全体を一つに見たり、日本全体を見渡すようなゆとりと広さができれば自ら変る筈です。
パウロの「わたしは植え、アポロは水をそそいだ」と言うような坦々としたこだわりのない態度が願わしい。
4、真の宣教のプロ
宣教は人々を神と出会わせる事ではあるが、教会に初めて来る人は否応なしに司祭という人間を見ないわけにはいかない。
教書にも触れられているが、司祭の存在意識が「神と人との間に立つ」事ならば、初めての人はそれ以上に神に近い存在を感じているであろう。
そこで司祭自身のあり方は誠に重大で、教会を訪ねて来る人に、教会としての良きイメージをできるだけ与えるものであって欲しい。
なおそれ以上に相応しい霊性を豊かに備えていてほしい。宣教の決め手はテクニックよりはむしろその語る人の霊性にあるからである。
5、1つになって
今日の社会は多様化し、又急速に変化しつつある。従って、そのすべての面に1人の司祭が通じることは不可能である。人にはそれぞれの得手不得手があるのは当然である。これを補う道は司祭間で交流し、お互いに補い合うことではなかろうか。又教区間の司祭方がとかく孤立して活動している姿を見受けるが、もっと連帯して事に当ってほしい。
司祭は教会共同体の中では中心的存在であり、主役である。信徒は脇役を勤める。この根本は変らないにしても、今日の社会の中における宣教は信徒こそ第一線で主役の役割を担うべきであって、その自覚と意識の変革を司祭は信徒に教え、彼等をそのように訓練すべきであろう。信徒の活動を後から助けるのが司祭の役割ではなかろうか。このように主役と脇役が時と場所によって臨機応変に切り替ることを体得している司祭の下において初めて社会の中で十二分に主体的な宣教活動を果しうる信徒が養成されるのではなかろうか。
教区ニュース宣教のページ 編集スタッフ募集
東京教区ニュースに宣教のページが増刊されてはや1年、素人スタッフが信徒の立場で、信徒の言葉で伝えられる紙面にしようと見様見真似で編集をしてきました。時にはお見苦しい点もあったかと思いますがお許し下さい。
出発の当初には14名の方々に御協力を頂きましたが、移動や他部門での御活躍のため、現在では事実上5~6名で毎号の編集を行っている現状です。
そこで、夏期休刊後の10月末発行分より新しいスタッフの御協力を頂きながら、新企画の紙面をお届け致したく、スタッフを募集することに致しました。御協力頂ける方、また、御紹介頂ける方がございましたら下記まで御連絡下さいますようお願い致します。
尚、男女年齢は問いませんが、偶数月初め2回の日曜日が編集校正日となりますので、この日が奉仕のためにあけられる方を希望します。特に経験は必要ありませんが、小教区報やタウン紙の編集経験をお持ちの信徒男性は大歓迎です。
教区のみなさまの御協力をお願い致します。
問合せ、連絡先
○東京大司教館・福音宣教推進部 市川 裕 神父 (03)943-2301
○宣教のページ編集担当責任 関口教会 国富佳夫 (03)981-4523
あとがき
この教区ニュースをみなさんの手元にお届けできる6月29日は、白柳大司教、森補佐司教の霊名、ペトロ、パウロの祝日である。当日は東京連合委員会が開催されお二人に霊的花束を差上げる。
霊的花束、若い方にはあまり聞きなれない言葉だが、年輩の方やミッションスクールを十数年前に卒業された方には懐しい思い出があるかも知れない。
第2バチカン公会議以降、次第に聞かれなくなったこの言葉だが、一部には「量より質」との議論もあって、最近ではほとんど行われていない。
しかし、最近「祈り」が家庭でも共同体でも忘れがちになっている、との発言が宣司評でも出るように、祈りの機運が薄くなっていることが否めない時代になると、霊的花束も別の意味で効果があるように思える。
社会の基盤である家庭で、家族や離れている祖父母のために決まった祈りを家族全員で束にしていく試みなどいかがでしょう。
大司教教書にもあるように自分の幸せだけを追うエゴイズムを家庭の祈りの中から解放していくことができれば、家族が“1つになる”ことができるし、質の良い花束をたくさん神に捧げられるであろう。
大司教、補佐司教に差上げる花束も、司教とともに“1つになる”気持を込めて祈り、質の良い立派な、大きな花束にしたい。ペトロ・パウロの祝日だけでなく、花束が枯れないように、毎日、祈り続けて欲しい。
今月の編集スタッフ 阿部、宮澤、坂井、Sr貝原、杉浦、高島、市川、国富