お知らせ

お知らせ

東京教区ニュース第54号

1985年08月01日

宣教と「靖国懇」

首相や閣僚の靖国神社公式参拝が合憲であるとの根拠づけを検討している「靖国懇」が、公式参拝を容認する素案を出した。司教団は靖国神社の国営化に反対を表明している。公式参拝はその中身を先取りするものである。日本の宣教を真面目に考えるなら、「靖国神社問題」は避けては通れないのだが、何んとこれは一向にテーマとならない。

この国の福音化へ 宣教に皆んなの知恵を この気運教区の隅ずみまで

教区福音宣教推進部は、6月中の毎土曜日5回にわたり、関口教会信徒会館ホールで、「明日への宣教を考える集い」を開いた。この集いは、司教団の「優先課題」福音宣教に応えて教区で設けた同推進部が、教区宣教司牧評議会の協力のもとに初めて公のものとして企画、実行した催しである。毎回決められたテーマで2人の講師が話し、それについて質疑応答、最終回はパネル・ディスカッションという形式だったが、その都度約200人が参加、新しい宣教のあり方について熱心に討議した。教区ではその中身がひろく教区民に紹介され、宣教の気運がいっそう盛りあがることを期待している。

Ⅰ、福音宣教の可能性 メリノール宣教会・オダナヒュー神父

(1)私が最近出版した「カトリック生活の実態調査報告書」(1982〜83日本)にもとづいて、日本の教会の現状を紹介する。この報告書は、1980年代における日本のカトリック信者の目立った特徴を記述し、実証づけ、司祭として信徒を導いていくうえの再考に役立つ資料と、分析的な検討の手がかりを提供しようとしたものである。2千余名の信者から回収されたアンケートの結果から、福音宣教の可能性の示唆を求めたい。
(2)信者の81%が、キリスト教の信仰は自分の持っているものの中で一番重要なものとした。
(3)告解の秘跡は平均して年1回で、40代以下ではこの傾向がいっそう顕著である。
(4)一般に旧約聖書の物語が信者に大いにアピールしている。
(5)外国を経験した信者が、帰ってから自信をもってひとに信仰を語るという傾向がある。
(6)正義と平和運動に参加している者は6.8%。国際的視野で物を見ることの出来る者ほど、日本に対する影響ということで靖国、フィリピン、韓国、指紋押捺、反核、軍縮などの問題に対する関心がきわだって高い。
(7)信者は自民党を支持する傾向があり、平均30.5%。しかし共産主義にはよい点があるという項目にも30%の賛成が。
(8)性の問題に関するデータは、司祭の、特に堕胎についての指導の欠如を示し、20代〜40代のほとんどが避妊を認めている。
(9)信仰の象徴に日本固有の形をとり入れ、潜在的な文化的雰囲気などを作り出す必要がある。
(10)キリスト教はエリート主義的特性を帯びていることから、入信を不必要に困難にしている。
(11)日本の教会の将来には、摂理に信頼して楽観している。回心は神の恵みであり、私達が努力しなければならないのはそれが効を奏するための準備である。

共同通信・酒井新二

(1)韓国カトリック人権運動史の冒頭に、聖書の言葉を要約して「神の国の価値は愛である。愛の戒律は必然的に正義、自由、平等という社会的倫理を要求するが、これがキリスト者の政治的倫理の神学的根拠となる」とある。私の言いたいことが要約されているとおもう。愛の実行は単に個人的なものだけではなく、社会的な広がりを持ったものでもなければならない。
(2)社会的、政治的な、体制又は構造の問題に、どう対応したらよいかという課題がもう1つあるわけだが、特に日本のカトリック教会はこれに対するアプローチが遅れているというか、非常に臆病である。政治という言葉を聞いただけで尻込みする信者が多く、政治は宗教のラチ外の問題であるという感覚が日本のカトリック信徒の中には根強い。もし教会又は宗教の立場から、日本の政治に対して注文があるなら堂々と発言すべきであり、これが福音宣教の上に大きなプラスとなってゆくだろう。
(3)韓国カトリックの異常な増加の背景には、政治的な抑圧、経済的な不安など、韓国社会の時代的要因がある。南北分断状況や急激な産業化社会がもたらす非人間化が、宗教者の増加の起因となっているのだ。日本には南北対立に類する状況こそないが、もう1つの、産業化社会が斎す非人間化はむしろ韓国より一足先である。それは世俗化であり、非キリスト教化である。民間信仰的な信心をもった日本人は多いはずなのに、管理社会の中では宗教的な発言は殆んどできず、新しい形のかくれキリシタンが増え、日本の文明はとうとうとして宗教から離れて行っている。非人間化からの救済を求めて教会に蝟集する韓国民衆とは対照的である。
(4)しかし韓国のこのような量的膨張の傾向には、福音宣教の立場から見て、肯定的意味がある反面、教会が拡張主義、金権主義にとりつかれ、企業化、大型化するという否定的な面も見のがせない。その最たるものが例の「世界基督教統一神霊協会」である。量が増えれば増えたで新しい問題が出てくるものだ。
(5)韓国では社会的救済の積極的方法として、開発神学、解放神学、民衆神学など、時代の要求に合った神学の確立が急がれている。この解放の神学はいわゆる構造的或いは体制的な問題に対するカトリックの対応ということをラジカルの型で提示するものである。ここで生まれるものは恐らく中南米と同じような内容になるだろう。社会的、政治的な現状が似ているからだ。
(6)福音宣教の積極的展開の基礎に新しい神学開発が必要だということは示唆以上のものだ。状況が異る日本の社会にこの種のものを類比的に適用する無理をあえてするより、日本には世俗化という大問題があるのだから、現実が要求している日本的な「解放神学」を日本の教会自身が作ってゆかねばならない。
(7)解放神学そのものが一部で誤解されたりするのは、それに関する教会の公式文書の発表などをも含めて、情報が正確且つ敏速に伝達されないカトリック広報活動にも責任の一端がある。
信徒をはじめ、教区長、司祭のこれについての認識遅れも原因である。「カトリック新聞」などをも合わせて中央の広報機関が早く強化され、福音宣教の力として育つことを期待する。

Ⅱ、身近な人々へ(家庭、地域、職場に) マリア会・梶川宏神父

(1)福音宣教が「身近な人々へ」といわれるからには、私たちは「身近な人々」を発見しなければならないが、それはそういう人がいるから探すというような事ではなくて、自分自身が「身近な人」にならねばならぬということである。
(2)この原型がまさにキリストである。彼は父なる神から遣わされて私たちの所に来られ、私たちにとって「身近な人」になった。同じように、福音宣教のためキリストから周りの人々に遣わされた私たちも、彼らにとって「身近な人」にならなければならない。
(3)遣わされたものが、「身近な人」になるためには、先ず自己中心的な自分の世界からぬけ出なければならない。ここでも、神であることを固守せずに私たちの所に来られたキリストにその原点を見ることができる。
(4)これを裏からいうと、相手の他者性を見つけるということである。私たちは教会という自分たちの1つの世界を絶対化してはならない。これは相手の自由をいつも大切にするということにつながる。
(5)他者性を理解するということにとどまらず、あるがままの他者を自分の中にうけ入れなければならない。なまじっかの理想をもって、相手を批判したり裁いたりしてはならない。
(6)自分の世界からぬけ出るということは自分の閉鎖性を解放することであるが、同じように私たちは悪い意味での仲間意識である画一性や全体性から解放されなければならない。キリストは羊の一頭一頭に名前をつけて呼ぶと言った。一人一人をかけがえのないものとしてこそはじめて真の意味での共同体が生まれ、多様性の一致が実現する。
(7)キリストが無償で私たちに近づいて共に生きたことで、「このような生き様の無意味性」から解放されなければならない。
(8)結局、福音宣教とは、私たちが共に生きるということがどんなに大切で、どんなに深いことであるかを身をもって表わしてゆくことだと思う。

日本のこころ大切に

援助修道会・影山あき子

(1)「身近な人」というのは、予定していない所にふっとくるもので、何をして上げようかなどの準備や計画はできない。
(2)イエズスやマリアだったらどうしただろうと考え、それにならえばよいわけだが、そのためには先ず自分がイエズスやマリアのことをほんとうに喜んでいなければならない。
(3)真に隣人になるためには、自己中心的な生き方から解放されなければならないが、「私の都合」の中には、仕事から来る義務や責任もある。行動の選択には祈りによる賢明な判断が必要である。
(4)福音宣教とは喜びの訪れをもたらすことであるが、自分がカッとなるならこの使命を果せるはずがない。そのためにはまず相手の考えをよく聞くことである。そうすれば不平の原因をわかることもできるし、満足している者に、より高度の歓びを与えることもできる。
(5)限りのある私たちだから、身近な人々にそういう歓びをあげたいと思っても、一生懸命共に生きることしかできないが、何か心が温くなるような感じを人に与えるとか、落ち込んでいる時にふっと気持をもち上げてやるとかいうことは、とても大きな宣教になるのではないか。
(6)自分の宣教の能力を他人と比較するなどということは愚かなことである。これは子供に正しい価値観をつたえる時にも大切な視点である。偏差値云々などは比較もいいところだ。真に価値あるものを一生懸命にやることの尊さを伝えるのが福音だ。
(7)人を助けるに当っては過保護に陥らぬよう、その人を知り、自分の足で立って行かれるよう導くことが肝腎である。
(8)叱ってもプライドを尊重すること。放蕩息子の喩えにならって、このあたりを気をつけたらよい。キリストの喩えには素晴らしいものが溢れている。福音をあげるとはそういうことだ。

Ⅲ、若い人々へ(青少年への呼び掛けとミッション校の役割) イエズス会・山本襄治神父

(1)福音宣教は、カトリック教会の中にある1つの部分的な仕事ではない。教会のすることなすことすべては宣教である。したがって教育事業もまた福音宣教の一環としてとらえられるべきである。
(2)教会より、学校で働いている方が若い人たちに接する度合が多い。青年に何かを語りかける機会は求めさえすればいくらでもある。したがって直接宣教とか間接宣教とかいうような区別は好ましくない。
(3)社会に大きな影響を与えようとする人々が、まず自分の手におさえるのはマスコミと教育機関である。このような事実をふまえて福音宣教における教育の役割を考えたらよい。
(4)カトリック学校と一口に言ってもさまざまである。受験校とか上流社会の名門校という時に必ず出てくるのがカトリック学校だと思っているかも知れないが、とくに地方に行くと、うずもれてしまった才能をもう一度堀り起してのばしてゆくというようなことを一生懸命やっている学校もある。
(5)進学一本槍の学校と同じだなどと批判されているところもあるが、やはり諸般との連帯性で物を見ないと事柄をとらえそこなってしまうことは否めない。
(6)この学歴社会と道徳という問題は、若い人々のことを考える時、真面目に取り上げねばならない大きな課題である。学歴偏重という、日本社会の大きなうねりにも似た底流と戦い、一人でも多くの人がこの底流からぬけ出て、キリストの福音を自分の生き方の原則にしようと決意させることこそ、カトリック学校に課せられた使命である。
(7)とはいえ若い人々には生涯の生活がかかっている。教育というものは基本的には一人の人間の生涯を全うさせようとする狙いに立っているものであることを銘記しなければならない。
(8)カトリック学校関係者は、学生をはじめそれに倍する父母に対し、何かを言える立場にあるし、影響をあたえるべき立場にある。「もし福音を語らなかったとすればわざわいである」という言葉は、まさに学校関係者にこそ等しくいわれるべきものである。もとより少しでも有利な進学や就職を狙い子どもを送っている親に、機械的な説教のくりかえしは無駄である。しかし、何かの挫折に合うと聞く耳をもつ。別の道を見つけて切り開いてゆくことが人生であることを教えるよい機会である。真の進学、就職指導とはそういうもので、やたらによい所にはいれる手練主管を教えることだなどと思ったら大間違いである。
(9)日本の教育は真の支柱をもっていないが、その点カトリック学校の圧倒的な強みは福音という支えをもっていることだ。その支えを日本の社会の支柱にしてゆくことが、教育事業を通して日本の社会を福音化してゆくことだと考える。

聖心会・岡崎淑子

(1)「ミッション校の役割」については既に話があったので、どんなことをしているのかの現状をのべ、行くべき方向を一緒に考えられたらと思っている。
(2)共に祈る場を作っているが、世界の問題など主題の視野を広げてやることが大切である。
(3)宗教の授業では、生活での道徳をキリストの教えに根ざしたものと考えるよう導き、社会問題などもキリスト教的な価値観に照らして考えさせている。
(4)信者には特別の時間を設け、キリスト者としての責任にめざめさせたり、基本的な教理を学ばせたりするよう狙っている。
(5)全く自発的に希望する者のために宗教サークルを設け、一対一の機会を大切にしている。
(6)研修旅行や練成会などでは、強制的?のためか事前に無関心や反ぱつを示した生徒が、終ったあとで違ったうけとめ方をしていることを度々経験する。
(7)キリストの愛がきれいごとだけで終わらぬよう、自らの手を汚す奉仕の組織がある。新聞などに出ているいろいろなニーズに応えて出かけてゆくボランティアのグループで、他の生徒たちにも協力を呼びかけている。
(8)年に少なくとも1回、どこかの施設を訪問して手つだいをするが、実際にはこちら側が勉強させて貰うことが多い。
(9)ほんとうの意味での国際理解を心がけ、欧米偏重にならぬよう留意している。発展途上国の問題にも関心をもちはじめ、何かしたいという気持も起りつつあるようだ。
(10)父母のために各々の宗教サークルがあるが、母組が優勢。聖書を読んだり、神父の講話を聞いたり、話し合いをしたりしている。父母の関心度と子どものそれとは必ずしも一致しない。
(11)教職員が信者である比率が高く、態勢としてはめぐまれている。信者の先生方が自分の教科を教える時には、当然信者としての立場でそれを教え、カトリックの人間観や価値観を常に意識しているようである。
(12)生徒は宗教的な雰囲気の中で育つため習慣的となり、聖書の言葉でもそれを感動してうけとるということができにくくなっている。しかし反面、習慣で自然に身についたものの強みも否めないと思う。
(13)カトリック学校は、その宗教的雰囲気もさることながら、真に謙虚な修道者の姿を通して、生徒をキリストに出合わす場である。申し訳ない気持も起る。

Ⅳ、何を伝えるのか 東京教区・佐久間彪神父

(1)何を伝えるのか?の答えは、キリストが何を伝えたいと思っていたかを福音書の中から探せばよい。それは「私はあたらしい掟を、あたえる。あなたたちは、たがいに愛しあえ。私があなたたちを愛したように」(ヨハネ13・34)という言葉で特に示されていると思う。
(2)この「新しい」という意味は単に「古い」という言葉の対句ではなく、人の耳目にのぼったことがないということであり、キリストの教えが全く普遍的なものであることを示している。
(3)しかもここでいう掟は、「愛せよ」といういわゆる命令ではなく、新しい神の民の生活の根本原理として、「既に愛し合っているそのことをこそ大切にし給え」ほどの意味である。
(4)次に「私が愛したように」とある。キリストは決して無理をして人を愛したわけではなかった。普通は「可愛いそうに思って」とか、「憐れんで」とか言われるが、本来は「はらわたから思わずこみあげてくる」の意である。これは、通りがかりの身でありながら、傷ついた旅人を見てあわれに思い、思わずそばにかけよって助けてしまうよいサマリア人の喩によくあらわれている。あのサマリア人は他ならぬキリストである。
(5)つまり悩みとか同情とかいうものは、何か意志でするものではなく、おのずからあふれてくるものである。
(6)愛を意志の行為ととらえ、掟をもって命令することがキリスト教の根本的なテーマのようによくいわれるが、愛とは果して命令されうるものであろうか?そうなると、できなければ開きなおるか欺瞞的な態度をとるしかあるまい。キリストの説いた愛は、私の感じでは大分違うように思えてならない。
(7)サマリア人の喩で、キリストは律法学士に「あなたもそういうふうにせよ」と言っている。同質にせよということは、サマリア人にも本当の愛をなし得たということであり、新しい掟はもはやユダヤ的領域をも、異邦人的領域をも超えた普遍的なものであることを示し、同時に宣教の合宣性をも表わしている。
(8)そもそも「はらわた」からこみ上げるということはいかにも肉体をもった人間らしい。全地球人が、あたかも嬰児が母親を言語以前の言語で呼ぶように、普遍的な造物主に新しい名で呼びかけうることにもつながる。
(9)神の受肉によって聖霊は私たちの「はらわた」の中に組み込まれた。愛徳が注賦徳と呼ばれる所以である。真の愛は「はらわた」から迸る。宣教とは、高ぶって人々に何かを告げることではなく、愛している時に神が働き、神の国が来つつあることを愛の業の中に謙虚に指摘することである。

東京教区・井上洋治神父

(1)日本ではキリスト教は近代化を促進するための1つの方便として理解された。それは地の塩としての信仰ではなく、知識人の教養の域を出なかった。
(2)したがって欧州憧憬がすたれた今日では、福音そのもので勝負をしない限り、発展はおろか現状を保つことさえできない。
(3)日本人に日本語で福音を伝えるとなれば、文化論?を云々するわけではないが、「言語」を中心に日本人の物の見方、感じ方を考察する努力をしなければならない。
(4)日本人の特徴については多くが語られ、宣教の方法論に寄与しているが、今はそれを話すつもりはなく、そのような場でもない。ただ1つ、日本人の発想の中に、「個」ではなく、それをつつむ全体の「場」のようなものを大切にする傾向があることを指摘したい。
(5)愛については、それを犠牲と結びつけた意志の行為だとは考えない。愛はもっとおのずからなるものではなかろうか。心の鏡の澄んだ者にだけ、隣人の悲しみは映るものであり、その悲しみを映す心こそ愛ではなかろうか。利己主義で心の鏡が汚れているなら、その汚れを除く祈りや努力はもちろん大切であるが、愛そのものはやはりおのずからなるものだと思う。
(6)心の鏡が澄んでいるほど聖霊の風、天然の風はその人の心を吹きぬけ隣人の悲しみを映すものである。道徳的にどんなに高い人間であっても、一人の人間の悲しみを映す心をもたないものは私の友ではないとキリストはいった。これは日本人の心情に非常にぴったりくるイエズスの姿であり、人はこぞってイエズスのファンになるであろう。
(7)旧約聖書の父性の原理は分断の論理であり、日本人を恐れさせる。日本は母性の社会であるから、「掟を守らぬ人は未代まで呪う」などはなじまない。その点仏教のほうが何かすーっと迎えられるような気がする。無論イエズスの説く神には母性的な面が強く出ているが。
(8)明治以来、日本人がもって来たクリスチャンのイメージは、イエズスのそれではなく、イエズスを十字架に追い込んだファリザイ人のイメージである。イエズスの真の姿がはっきり示されていたら、もっと多くの日本人がそれに惹かれていたにちがいない。
(9)いずれにせよ、日本語で、日本人の心情でイエズスを見つめて生きるということが基本である。その生き方が必ず私たちの中にイエズスの愛が何かを形づくってくれる筈である。それを日本語であらわす。何を伝えるかといったらこれしかない。

最終回は討論

松原教会・南部樹未子

悩んでいる人が信仰に目を向けないのは宗教や教団に対する不信感である。教会には下積みの人を迎える準備がないので、紹介には二の足をふむ。庶民の根っ子のところで宗教活動をしている他宗派の人を見るにつけ、今の教会のあり方に疑問をもつ。
宗教は個人の人格とそれが背負っている文化を通してなされるべきもの。必要とするものはいま何なのかを見つめ、具体的な問題に1つ1つプログラムを作って対応してゆかなければならない。各小教区で1つずつでも特長を作り、教会外の人たちに安心して貰えることが先ず大切ではないのか。福音を伝えるより先に、これが教会だという役立つものを具体的に作って欲しい。

大阪教区・神林宏和神父

まず真の幸福、不幸とはどういう事なのかを見ぬく神の命の目をもつ必要がある。奉仕する相手をまちがえないで、自分だけでなく全体の力で幸福にしてゆくこと。その事実があれば誰がやったかは問題ではない。人々の中に存在して地の塩、パン種となり、不幸を幸に変ることなしには宣教はやめたほうがよい。

イエズス会・カンガス神父

宣教とは簡単なことで、結局みなそれぞれが置かれた場で一生懸命やる-につきる。私達はすべて必要とされているが、キリストなしには何もできない。
宣教とは、自分にとって大切なキリストを、言葉よりも行ないによって人々に橋渡しすることである。人の中で地の塩の働きをするためには、先ず福音的な味を持たなければならない。

こんな意見も

○教会のあり方には疑問の点もあるが、即断での批判は禁物。
○宣教には文化的摩擦を少なくする方法をとること。
○終極的には個人がそれぞれの立場で宣教という事になるが、組織としての宣教も一考の要。
○幼児期受洗者の覚醒を促せ。
○常に明日への展望の研究を。

熱意に期待

昨年6月、日本の司教団が福音宣教の主題として「日本の教会の基本方針と優先課題」を設定したことは皆さま御存知だと思う。東京教区では、司教団のこの方針を推進すべく、早速事務局に「福音宣教推進部」というものを新設した。今まで第一戦で働いていた司祭2名がこの任に当って貰うこととし、力をこめてこれを推進したいと思っている。
そしてこの「推進部」が初めて公の仕事として「集い」の企画をしたわけである。この企画に関しては、宣教司牧評議会の委員も協力している。6月中5回にわたってこのような会が開かれるわけだが、皆さま方が敏感な反応を示して下さったことを心から感謝したいと思う。
この会を始める前に、何故司教団がこのような「基本方針と優先課題」を設定したかということを一言申し上げたい。公会議によって教会の姿が以前よりもはっきり私たちに示された。そして福音宣教は教会の中にあって本質的な使命であり、ただ聖職者だけでなく、神の民全員が共同責任をもって当らなければいけないということがはっきりしたわけである。
したがって日本の教会は1970年代から80年代にわたって何回となく、この呼びかけを行なってきた。しかしそれはあまり効果がなかった。それは私達司教団のとりくむ姿勢がなまやさしかったのかも知れない。ところが今回、信者や聖職者の皆さまの中に、この福音宣教への熱意というようなものが湧き上っていることを、私たち司教団は認めた。これを神の恵みの時としてとらえ、私たちはこの運動を、また心をひきしめて新たに始めて行こうとしたわけである。
どうかこのようなことを理解頂き、私たちが本当の教会の姿を実現するようにしてゆきたいと思うので、皆さま方の協力を切にお願いしたい。
この気運が教区の隅ずみまでゆきわたることを心から望んでいる。
(東京大司教・白柳誠一)

懸賞文募集

テーマ 「福音宣教に関する体験・意見・提案」
対象 小学生(400字詰原稿用紙2枚まで)中・高生(同4枚まで)青年・一般(同10枚まで)
締切り 11月30日
発表と表彰 86年3月(正確な日付は後で知らせます)
賞 東南アジア研修旅行(宣教について学ぶ)記念品など
送り先 〒112 文京区関口3-16-15 東京大司教館 福音宣教推進部

教学部催し2つ

1、第15回教会学校夏期リーダー研修会
期日 8月29日〜9月1日
場所 みやしろ荘(箱根)
2、第10回使徒職研修コース
期日 9月〜11月(第1期)
場所 松原、亀有教会など

参加者によるアンケート(福音宣教推進部)

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
20代 0 4 0 0 4 4
30代 2 10 2 9 23 25
40代 8 4 1 11 24 26
50代 5 3 6 10 24 26
60代 9 2 0 4 15 16
無記入 1 0 0 2 3 3
25 23 9 36 93 100

 

受洗時期

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
7 1 6 6 20 22
0 0 0 2 2 2
0 0 0 5 5 5
2 2 1 5 10 11
19以上 16 20 2 18 56 60
25 23 9 36 93 100

 

信者であることを社会の中で意識しますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
常に 17 16 7 34 74 80
時々 6 5 2 2 15 16
無記入 2 2 0 0 4 4
25 23 9 36 93 100

 

信仰をもって良かったと思ったことがありますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性

%
ある 23 23 9 36 91 98
無記入 2 0 0 0 2 2
25 23 9 36 93 100

 

信者であることを負担に感じたことがありますか


アンケート項目

信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
ある 12 9 3 11 35 38
ない 11 13 5 24 53 57
無記入 2 1 1 1 5 5
25 23 9 36 93 100

 

社会の中で信仰の証しをしたことがありますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
ある 15 12 6 28 61 66
ない 6 7 1 1 15 16
無記入 4 4 2 7 17 16
25 23 9 36 93 100

 

一般の人からキリスト教について尋ねられたことがありますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
度々ある 1 1 2 4 8 9
時々ある 17 14 4 18 53 57
殆んどない 7 7 1 0 15 16
無記入 0 1 2 14 17 18
25 23 9 36 93 100

 

尋ねられたときどうしましたか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
自分で説明した 18 12 6 34 70 75
司祭・Sr・信者に紹介した 2 3 0 2 7 8
何をしていいか判らなかった 0 2 0 0 2 2
その他 1 2 0 0 3 3
無記入 4 4 3 0 11 12
25 23 9 36 93 100

 

信者でない方を教会に誘ったことがありますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
ある 20 19 6 35 80 86
ない 5 3 3 1 12 13
無記入 0 1 0 0 1 1
25 23 9 36 93 100

 

教会は信者でない人になじみやすい雰囲気でしたか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
はい 1 2 0 1 4 4
まあまあ 12 14 6 25 57 61
いいえ 2 3 2 1 8 9
25 23 9 36 93 100

 

あなたの教会の活動はどこに重点が置かれていますか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
信仰教育 6 10 4 16 36 18
青少年活動 6 12 3 17 38 19
社会活動 2 3 1 4 10 5
祈り・典礼 15 14 5 18 52 25
親睦行事 15 18 3 16 52 25
宣教活動 5 4 1 3 13 6
その他 0 1 0 3 4 2
49 62 17 77 205 100

 

あなたが教会に行って心がけていることは何ですか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
熱心に典礼に参加する 16 14 4 25 59 36
積極的に教会行事に参加する 14 8 1 11 34 20
信仰を深める勉強会に参加する 9 15 3 2 29 17
できるだけ知らぬ人に声かける 10 7 1 17 35 21
その他 0 6 1 2 9 5
49 50 10 57 166 100

 

福音宣教がうまくいかない原因

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
聖職者の宣教意欲の欠如 6 4 2 18 30 9
聖職者の魅力の欠如 8 6 2 20 36 11
聖職者の数不足と高齢化 7 5 2 9 23 7
聖職者・信徒の祈りの不足 11 11 2 19 43 13
信徒の自覚の不足 22 15 3 23 63 20
教えの難しさ 4 9 5 10 28 9
教えや典礼・儀式の西欧臭さ 8 5 2 9 24 8
日本社会の物質優先主義 13 13 5 26 57 18
その他 2 8 1 4 15 5
81 76 24 138 319 100

  

日本の教会は福音宣教に関してこれまでどおりで良いと思うか

アンケート項目 信徒男性 信徒女性 聖職者男性 聖職者女性 %
はい 0 0 0 0 0 0
いいえ 23 17 9 25 74 80
わからない 2 4 0 5 11 12
無記入 0 2 0 6 8 9
25 23 9 36 93 100