お知らせ

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東京教区ニュース第35号

1980年11月01日

公式見解
『靖国法案』に反対 司教団はじめて共同声明

日本カトリック司教団は、このたび「靖国神社法案」が信教の自由と政教分離の原理に反し、日本国憲法の基本理念にそむくものとして反対を表明し、10月17日、善処を訴える「要望書」を鈴木善幸内閣総理大臣宛、全司教連名で提出、つづいて記者会見した。これまでに政府に対しての声明は教区あるいは委員会単位で出されてはいたが、「司教団」の名においては初めて。日本カトリック会の「靖国神社」についての公式見解―として歴史的、画期的なものであり、他の宗教団体に与える影響も大きい。

このたび日本カトリック司教団が「靖国神社法案」に反対する公式見解を表明したことは、教会の内外に大きな影響を起こさずには居まい。日本の教会が「教会として」この種の問題につき、公の姿勢をあらわしたのは、1936年、教皇庁の通牒に基づいてその態度を示して以来、実に44年ぶりのことであり、「司教団」の名において反対したのは初めてである。では教会はなぜ?しかもなぜ今?あえて自らの姿勢を明らかにしたのであろうか?その背景を探り、ことの重大さを考えてみよう。

さからえぬ情勢

1980年冒頭の年、政財界から、安保、自衛隊の拡充と武器輸出の緩和、徴兵制の復活が叫ばれる中で、わが国史上初めて、衆参両議院の同時選挙が行なわれることになったが、自民党はその選挙公約に、「靖国神社の公式参拝と国家護持の実現」を掲げた。天皇及び首相の靖国神社公式参拝はかつてその明白な違憲性のゆえに廃案となった「靖国神社法案」の核心をなすものであり、その意図は天皇制軍事国家主義の再現にある。これは償い得ない戦争の惨禍によって獲得された日本国憲法の国民主権、平和仕儀、基本的人権の尊重の根本理念への露骨な挑戦である。

このような状況に対し、宗教界では特に「信教の自由」を侵すものとして、日本基督教団、立正佼成会、創価学会などをはじめ多くの代表的な宗教団体が、靖国神社の「国家護持」と「公式参拝」に反対の態度をあらためて表明した。日本のカトリック教会は今までの諸般の事情から、信徒個人の意見を尊重することを基本的な態度とし、教会としての姿勢を表明することにはひかえめであった。

1968年1月、カトリック中央協議会は信徒法案反対運動に檀家することを認めた。翌69年5月には、教会一致促進委員会・伊藤庄治郎司教の名で、法案の取り扱いについては身長に処置するよう佐藤栄作首相に要望した。その後、司教教議会内カトリック正義と平和協議会(担当・相馬信夫司教)でも国内委員会のなかでこの問題を扱い、反対を表明した。

東京教区では、1971年の教区大会で法案反対を可決、布司協内に靖国問題実行委員会を設けるなどして教区の姿勢を明らかにした。白柳大司教は、1973年8月、自民党単独審議の構えのさいと、74年4月、内閣委での強行採決のとき、田中角栄総裁に、反対の書簡を送った。浜尾文郎司教も協区民の1部の疑問に答え、かさねて見解を明らかにした。また仙台教区でも、強行採決では小林有方司教、田中首相あて抗議文を送付、反対をよびかけた。

しかしいずれにしてもそれは司教団の委員会や協議会、あるいは教区単位の表明であって、決して「司教団そのもの」の名における表明ではなかった。いま、日本の宗教界で最大の関心事の1つが、「靖国神社法案」である。多くの主な宗教団体が、この問題につき、賛成するにせよ反対するにせよ、公的見解を次々と表してゆくなかで、ひとりカトリックだけが、教会としての態度を表明せずいるのは好ましいことではない。世人は当然その姿勢を問うであろうし、見解を求める声の多くなったようにたいし、牧者団として不親切というものであろう。とはいえ、先の常任委員会で口火を切った白柳大司教をはじめ、ことをここまで運んだ関係司教たちの努力は高く評価されねばなるまい。

倫理会議も一役

次に考えられるのは「世界宗教者倫理会議」である。この会議への教会の関わりかたについては、プロテスタントをはじめ、「正義と平和協議会」など教会内部からも疑いと危惧の念が出た。主導権を握るものが右派勢力であり、彼らのいうような天皇の倫理性を世界的に公表し、国民の規範として確立しようとすることこそ会議開催の最大の狙いであるとしれば、たとえた宗教との対話交流のためとはいえ積極的に加担すべきではない。

当初から下準備に参加したり、一時は教皇庁の諸宗教連絡聖省を唯一の協力団体とするなど、深くコミットしたのを見れば、日本の国民一般、良識ある市民は、会議に取り組む教会側の意向とは関係なく、あたかも日本カトリック教会は、挙げて国家神道の再生と軍国主義復活に力を貸していると考えるにちがいない。会議そのもののもつ危険性を世人に誤解を与えるような結果が出てくる事態を見通せなかった甘さは反省されねばならない。靖国神社法案に反対するという、こんどの司教団の声明は、あるいはすでに教会名k外に与えてしまったかも知れない「右寄り」の印象をぬぐいさろうとする意図からも出たものと思われる。

幸か不幸か倫理会議は来春に延期となった。主催者側は日程として「建国記念日」前後を狙い、教皇訪日とも合わせて境界をいっそう抱き込もうとしているようであるが、このたびの表明が1つの歯止めになれば、幸いである。また教会もこの声明を出したことによって、来春の倫理会だけでなく、今後出てくるだろうこの種のさまざまな問題に対し、一貫して毅然とした態度でのぞむことができるであろう。

教皇訪日で決断

第三には、先にもふれたように来春予定されている教皇の訪日である。世界平和と人類愛のアピールが目的のひとつであり、広島では原爆犠牲者慰霊碑を訪れて祈るとともに、核兵器撤廃を訴えると聞く。靖国問題は最近いよいよ緊迫し、教皇の訴えに正面から反する戦争へ日本を駆り立て、日本の教会をも左右しようとしている。あたかもこの時期に教皇を招いた同じ日本の牧者団が、法案についてなお黙してはいられまい。

要望書

信教の自由と政教分離の原則は、日本国憲法の基礎の1つにかかわることであります。

最近、靖国神社の国営化に関する法案が再び国会に提出されるとの情報が伝えられておりますが、この法案の目指すところは、日本国憲法の基本理念にそむくものであり、日本カトリック司教団は、これに反対することを表明します。

政府におかれましては、信教の自由と政教分離の原則の重要性を深く認識され、これがおびやかされることのないよう善処されることを要望いたします。

1980年10月6日
日本カトリック司教団

長崎大司教 里脇 浅次郎
東京大司教 白柳 誠一
大阪大司教 安田 久雄
札幌司教 富沢 孝彦
仙台司教 佐藤 千敬
新潟司教 伊藤 庄治郎
浦和司教 島本 要
横浜司教 浜尾 文郎
名古屋司教 相馬 信夫
京都司教 田中 健一
広島司教 野口 由松
高松司教 深堀 敏
福岡司教 平田 三郎
大分司教 平山 高明
鹿児島司教 糸永 真一
那覇司教 石神 忠真郎
長崎補佐司教 松永 久次郎

内閣総理大臣 鈴木善幸殿

要望書のねらい

【視点】
1、靖国神社は宗教団体であり、参拝は宗教行為との認識に立つ。

2、「国営化に関する」は、法案が衣替えしたときにも通用する。

3、教会も過去の苦い体験をもとに政治と宗教の問題を深く洞察、国情を考え、公会議の精神に基づいて、日本のカトリック教会が靖国神社に対してとるべき態度につき文部省や教皇庁など他者に判断を任せるのでなく、司教団が自ら祈り主体的に決定したものである。

4、要望書だが、「反対を表明」とあり、外に向かっては声明、うちに対しては通達―の性格がある。

5、信教の自由と政教分離の原則がおびやかされるという、いわば狭い理由だけでなく、日本国憲法の基本理念に背くから反対といっていることに注目すべきである。

6、基本と基本理念とはここでは同じで、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重の3つを指す。「1つ」とは、いうまでもなく基本的人権のことであり、「関わる」とは単に関係あるということではなく、精神的自由権の1つとしてむしろその中核をなすものである。

7、基本的理念の中に国民主権と平和主義があり、これに背くゆえに反対するというのであるから、象徴ならざる親権天皇制と、戦争へ導く軍国主義の復活を危惧してのことであるのも明らかである。

8、この文書は内閣総理大臣だけでなく、各党の最高責任者、主な宗教団体、市民団体、報道機関にもわたされている。反対の姿勢をいかに公にしようとしているかの司教団の意図がうかがえる。

9、署名が単に日本カトリック司教協議会、会長・里脇浅次郎ではなく、日本カトリック司教団となっており、しかも各司教が個別的に連署していることも注目に値する。外に訴えるにあたっては力感あふれるものであり、内にあっては、司教協議会より、司教団という言葉が、特に昔からの信者には心理的にかなりの影響力を持つ。

10、憲法の条項や理念に反し、ひいては福音の精神に背くから―これこそカトリック者としての反対理由でなければならぬ。宗教者として、戦没者の慰霊・追悼に全力を傾注すべきことは当然である。

声明に続け!

日本の司教団全員の連署による靖国国営化反対の意思表明、善処要望の首相への申し入れ、これは紹介に歴史的な、まことに意義深い行動である。東京教区は71年の教区大会の決議以来、法案反対の努力を続けてきた。白柳大司教も二度にwたって自民党総裁あてに法案反対の趣旨を申し入れている。私たちはしかし、これは東京の問題であるとともに、日本の社会に住む凡ての人の精神の自由に関わる問題であると考え、かねてより日本の教会としての意思表明を望んでいた。今それが実現したのである。

信仰の立場から政治に発言するのは、人権が深く関わるもんだについてである。私たちは戦前、戦中、国家神道と思想統制によって精神の自由を抑圧された痛切な帯剣を持っている。私たちの教会も、上智大学生靖国神社参拝拒否事件を通じて、大きな試練に遭ってきた。69年の靖国法案登場以来、多くの教団が、その責任者の名において反対を表明してきた。いまカトリックもこれに加わり、信じる人も信じない人もふくめた凡ての人の精神の自由を守るために宗教者として立ち上がったのである。

それぞれの教区に、市民団体などと含む靖国法案反対の連帯行動がある。しかしこれに加わるカトリック信徒は少ない。牧者の政治行動を信徒はどのように自分のものとするか、社会の人々に奉仕するきょうかいとして、司教団声明の後に続く信徒に責任を果たすべく、今後も私たちは努力を続けたい。

東京教区布教司牧協議会内靖国問題実行委員会委員長
津賀 佑元

前史ヤスクニ

1968年、日本基督教団を中心とする動きに応じ、東京教区司祭10名、信徒10名の法案阻止実行委員会が生まれた。千鳥ヶ淵の平和祈願祭もこれらの有志の手による。仙台をはじめ他教区でもうごきがではじめ日本基督教団との連帯もこのときから始まった。1969年、日比谷公会堂での大集会皮切りに、真正会館におけるハンガー・ストライキ、合同でも、小教区における説明会など、認識を広める地味な努力が続けられた。

千鳥ヶ淵祈願祭の時には、丁度ライオンズ・クラブという世界組織の総会が開かれている最中で、キリスト者学生のなかにはヘルメットや旗をもって参加したグループがあったことから警備の機動隊が排除に入り、墓苑管理者も難色を示して、遂に祈願が行われず、そのまま抗議集会にきりかえ、藤次の4番町、東京カトリック神学院哲学部の一室に集結するというようないきさつもあった。

今日、教区レベルでは、「靖国問題実行委員会」か活躍し、今また全国規模では司教団の声明が出されるという―まことに今昔の感にたえない。このときにあたり前史のヤスクニを闘ってきた多くの先達のいることを、我々は決して忘れてはならない。

靖国問題実行委員会委員
国枝 夏夫

斗いの足あと

<1968>
1・25 カトリック中央協議会、信徒の法案反対参加を認める

<1969>
5・22 司教団、教会一致促進委員長・伊藤市況の名で、佐藤首相あてに法案取り扱いの慎重を要望

<1971>
12・5 東京教区大会、法案反対を可決

<1973>
1・16 仙塩地区靖国問題委員会発足
8・6 白柳大司教、田中首相に反対書
9・27 東京大司教区布教司牧協議会内に靖国問題実行委員会正式発足

<1974>
4・2 署名請願書を衆・参議院に提出
4・14 浜尾司教、かさねて教区見解発表
4・20 白柳大司教、田中総長と前尾衆議院議長あてに抗議文を送付
5・18 靖国国営化阻止カトリック集会

<1975>
4・1 NCC靖国神社問題特別委員会に正式加盟
4・7 反対声明文「靖国神社法案に対する私たちの態度」を発表
4・12 「表敬法案」反対で見解発表
7・12 「靖国問題を考える会」開催

<1968>
7・4 「聖霊顕彰新国民組織」で見解
7・11 「何をめざす聖霊顕彰」で集会
10・13白柳大司教、「津」で藤林最高□官に裁判公正の要望書送付
5・1 □□司教、田中首相あて抗議文
12・8 正義と平和協議会(担当・相馬司教)法案反対運動開始

<1977>
2・6 「津」の勝訴を目指し世論喚起
9・22 「津」最高裁判について声明

<1978>
7・2 公式参拝の違憲性を訴える声明
9・16 「中谷裁判」を考える会開催

<1979>
4・1 「中谷裁判は全面勝訴]」で見解

<1980>
6・23 再び公式参拝反対で意思表明
10・17司教団、法案反対を表明、鈴木首相に善処の要望書を提出
(おもに靖国委主体)

あした葉

「司教団]の声明―思えば遠い道のりであった。特に反対運動にたづさわるものは、この日の来るのをどれだけ首を長くして待ち望んだことであろう。たとえ1部の指導者や組織からの公認があったとはいえ、政治問題にはとかくアレルギーを起こすといわれる教会内で、この種の運動を進めていくのは並大抵のことではなく、しばしば白眼視されることもあったに違いない。

▼その主な理由の1つは、司教団からの公式見解が出されていない―ということであった。反対をためらったり、運動に積極的に協力できなかったりしたのも大方はそのためであった。今こそその生涯は除かれた。プロテスタントをはじめ、長年この問題で共闘してきた仲間に与える喜びと勇気付けは計り知れない。

▼しかしこの際、時代の風潮というものもよく考えねばならない。たとえ司教団の声明だからといって、素直に右へ並えする昨今ではないのである。これによって直ちに、今までの無関心だった者がすべて学習をはじめ、反対姿勢に懸念を抱いていたものがすべて行動に移るとは限らない。

▼したがって、理論面でも実践面でも、日本のカトリック教会の総力を結集できるとは思えない。否、むしろ反対に反対―するものの態度を硬化させ、キリストの説く祖国愛とは、その民族の血に則したものでなければならず、日本なればこそ国は靖国という形で譲るべきであり、これこそカトリックの信仰だ―などというものやグループが出てくるかもしれない。

▼それでも、反対に反対―ならましである。そんなことには全く無関心な信者、とくに若者がいっぱいいる。司教団の声明より、百恵の結婚!教会の青年会をサロンよろしく、女の子といちゃついているのをみていると、全くヤスクニもクソもない―という感じだ。カラスの勝手―というとこか?

司教団に続け
法案めぐる現実 無知ゆるされぬヤスクニ

このたび司教団が、「靖国神社法案」に反対する効し見解を出したことによって、日本のカトリック教会が「靖国神社」に対してとるべき態度ははっきりしたが、法案の国会へ向けての情勢は厳しい。問題はⅠ、いつ国家に提出されるか、Ⅱ、どのような内容の法案になるのか―の2点である。自民党は12月からの通常国会を目標としており、内容は現状からすれば「白紙」だが、過去に提出された「靖国神社法案」が骨子になるものとみられる。司教団の見解が明らかになったとはいえ、教会の中には法案そのものや、その危険性について全く知らないものも多い。おそまきながらの学習にも役立てば―と、その経緯と問題点を記してみた。

靖国神社問題とは何か?

ひとくちに言えば、今日の靖国神社問題とは、日本国政府がこの神社とどのような関わりをもつかということである。明治政府によって創建された靖国神社は、太平洋戦争終結まで、陸海軍省共同所管の国営神社として、戦争や事変ごとに増え続ける戦没者の合祀奉斎を行ってきた。ところが敗戦によって進駐してきた連合国軍総司令部は、いわゆる神道指令を発して、国家と神社神道との関係を断ち、厳密な政教分離政策を推進した。

それならば、1952年4月、日本が独立した後は、神道使命はその効力を失い、もとのような靖国神社と国家との関係が復活してもよさそうであるが、占領下に日本国憲法が制定執行され、神道指令の考え方がすでに「新憲法」にもりこまれていて、その第20条、第89条等により、日本は世界でも珍しいほどの厳格な政教分離制を基本とする国家となってたのである。

靖国神社問題は実はここから始まる。憲法の建前からいって、国はどうしても宗教法人・靖国神社に抗菌を支出することができず、これに特殊な地位を与えることが出来ない。一方靖国神社や多くの遺族の素朴な感情から言えば、この神社が普通の神社ではなく、国のためにいのちをささげた戦没者を神として合祀奉斎するよう明治天皇によってつくられた神社であるがゆえに、その合祀のための経費、またその奉斎は国が面倒をみるべきではないかということになる。この二律背反のなかから、さまざまな靖国神社問題が生まれるのである。

国家護持とは

国家の靖国神社との関係を、何らかの形で復活させようとする運動は、おとしめられたこの神社の地位の回復を求めて出席した。すなわち靖国神社の国家護持である。国で護るということは、1つには、国及び国の機関が靖国神社に何らかの形において参与することができるようにすること、2つには、国が靖国神社に関して財政的援助を与えることができるようにすること、の両者の意味を包含している。このことは憲法第20条および89条の規定からみて憲法上の問題を提起するものであり、必然的に靖国神社の宗教性の検討へみちびくものである。

宗教・非宗教論

この問題こそ靖国神社問題の核心であるが、古くして新しい問題である。神社は宗教であるという意見は、現にすべての神社が宗教法人として設立され30年もすぎてきていること、また特に靖国神社では、非業の死をとげたものの霊を神としてまつり、その恨みを鎮めるための降神、昇神の儀とか、招魂、慰霊といった宗教的儀式を行っているということによっている。

これに対しては、神社、特に靖国神社では宗教ではないという意見がある。すなわち神社神道には、教祖がなく経典がなく、教義もなく、布教活動も信徒の救化育成もない。靖国神社は一般の神社とことなり、国家的性格のもので、政府が創建し軍が所轄していたことを考えても宗教ということはできない。

合憲・違憲論

靖国神社問題の中心は、右に述べた神社宗教・非宗教論と、この憲法問題である。憲法第20条、第89条が宗教性をめぐってのものであるとすれば当然である。1954年2月、衆院特別委が、国会図書館長・金森徳次郎氏と京都大学教授・大石義雄氏ととまねいて意見を聴取した時、金森館長は、靖国神社に国費を充てることは憲法の規定が働いてまず困難と述べ、大石教授は、靖国神社は宗教でないから特別法で宗教法人から除外すれば公金支出も違法でないとした。この2つの考え方が、その後の靖国神社法案の立法過程において、ない合わす縄のようにもつれつつ現れてくる。

1967年11月、参議院法制局はこの2つの考え方を念頭におき、現在の靖国神社のままで国から補助金を出すことが出来るかどうかについて考えた。問題となるのは靖国神社の宗教性である。靖国神社は英霊をまつるだけで特に宗教性はないという考え方、また靖国神社にまつられるということは、国民一般の習俗的な感情となっているということから、靖国神社の宗教性を否定するむきもあるが、神道では、「祭祀」は、神聖な意識をもってする紙への奉仕であり、祭るものと、祭られるものとの霊的な接触、交渉であると考えられている。靖国神社は神道を基礎とす施設であるから、そこでの祭祀は明らかに神道上の宗教活動の1つである。したがって安君神社を現状のままにして、これを補助することは、憲法第9条の「宗教上の組織もしくは団体」に補助することになると解すべきもののように考えられる。

法案の素顔は

それでは、憲法に抵触しないようにして靖国神社を国家護持する方法などというものは考えられないのだろうか。これには、靖国神社は宗教団体である。名称、礼拝その他の施設、儀式行事等について、宗教性を排除するに必要な処置を講ずればどうかという意見がある。なるほどこうすれば憲法には触れぬかもしれないが、宗教性を排除したり、否定したりして護持されても意味がない―と、神社側がいうであろう。そもそも虫のよい話なのである。ここを抜けていく道が1つだけある。それは実態は宗教性を保ちながら、宗教団体ではないと決めてしまえばよいわけだ。これが「靖国神社法案」の素顔なのである。

「私案・廃案」からー「公式参拝」まで

「靖国神社法案」の骨子は、現行の宗教法人法にもとずいて現存する宗教法人靖国神社を同法の適用宗教団体から離脱させ「靖国神社奉」という新たに制定された特別法によって特殊法人として編成しなおし、行政府の長たる内閣総理大臣の監督下におくとともに、国および地方公共団体による財政負担と補助を行おうとするものである。

―次に、時代的な経過と、主要な靖国問題を概観しよう。―

1952年11月、日本遺族厚生連盟(のちの日本遺族会)が、全国遺族大会で靖国神社慰霊行事に対する国費支弁を決議した。この遺族会と、神社本庁―靖国神社―全国護国神社会とう神社側が手を携え、自民党議員を中心とした遺家族議員協議会を動かし、靖国神社が現実の政治日程に□□は「建国記念日」が成立した1969年からである。同協議会の中に靖国国家護持小委員会がおかれ、委員長村上勇議員の名を冠した村上私案がまとまるのが1968年6月ごろ。幾度かの練り直しを経て、最終的な根本私案が自民党案となり、議員立法の形で国会に上程されたのは、時あたかも靖国神社創立101年目に足を踏み入れた最初の日、1969年6月30日のことであった。

推進運動に転期

これらの推進の動きに対し、当初から宗教界を中心に反対運動が高まり、労働組合、市民団体も加わり、野党が国会で反対する中で、法案は5回の上程と廃案を繰り返した。しかし少しずつ前進は見ている。1969、70年は内閣委に付託されただけ。71年に趣旨説明、73年には、継続審議、衆院議長により凍結されるが、74年解除になると、4月12日、内閣委で自民党単独採決、更に5月25日、本会議通過まで進んだ。

しかし、しゃにむに推進されたのはこの時期までで、このあと護持運動は大きな転期を迎える。それは法案の衆議院通過という事態を目前とした5月13日、衆議院法制局から出た「靖国神社法案の合憲性」という文書が神社側に衝撃を与えたからである。法案が成立すると神社祭祀の伝統がほとんど改変と迫られることがわかったのだ。6度目の提出は自民党としても断念せざるを得なくなった。

そこであらわれたのが、75年に入ってから衆院内閣委員長・富士夫正行議員の提唱による、いわゆる「表敬法案」である。これは、宗教法人・靖国神社はそのままにして、国からの公金の支出もせず、ただ天皇、閣僚、国の機関(自衛隊を含む)、外国□□の公式参拝を可能にしようとしたものであったと見られるが、ついに国会に上程されることなく終わった。

ここで推進派の運動が、国会レベルから国民層へと大きく方向転換する。まず国民的合意を得ようとの認識にたつものだ。かくて76年、日本遺族会は、法案成立を終局の目標に国民世論の喚起と結集を図り、全国的な英霊顕彰組織の結成推進にのりだした。そひて同年6月22日、石田和外元最高裁長官を会長とする「英霊にこたえる会」の設立を見た。79年6月6日の「元号法」成立は、来れたに負うところが大きい。

味占めた元号法

ついで院内にも「英霊にこたえる議員協議会」が発足、両者呼応して協に課題である「公式参拝実現」に取り組んでいる。方法は味を占めた元号法の時と同じ。各地方議会で、疑似多数決による請願及び意見書採決を強行、「数」の獲得に全力を傾斜している。推進請願が採択されたのは10月4日現在、24県となっている。

ともあれ、靖国神社問題は、その間、津地鎮祭違憲訴訟、殉職自衛官護国神社合祀拒否訴訟などをもまきこみ、まさに国論を2分するほどの激しい対立の中におかれている。憲法は推進派にとって障壁、反対派にとっては防衛、憲法論争が激しくなるわけだ。

靖国神社法案ここが曲もの

「靖国神社法案」に反対する理由は、日本国憲法第20条、第89条の信教の自由と政教分離の原則に反するばかりか、憲法の基本理念である国民主権、平和主義、基本的人権の尊重に背くからだ。では法案のどこが違反するのか?

第1条(目的)靖国神社は、戦没者及び告示に殉じた人びとの英霊に対する国民の尊崇の念を表すため、その道徳をしのび、これを慰め、その事情をたたえる儀式行事等を、持ってその偉業を永遠に伝えることを目的とする。

(1)霊を慰める儀式行事を行うとある。慰霊は宗教行為だ。靖国神社でやっている神社神道の信仰・儀式は買えず、国家が霊に呼びかけ慰める儀式を行う。これでは祭祀政治であり、政教分離の原則の明白に違反する。宗教性顕著。

(2)英霊、尊崇、遺徳、事績、偉業という言葉で「戦没者及び国事に殉じた人びと」とその行為に最大限に積極的評価を与えている。国に殉ずるとは、親権天皇制国家のための忠実の死に方。誠に国を憂いても戦争に反対し、平和を唱えて獄死した者はダメ。戦争への反省が見えず、平和主義に反する。また「たたえる」という価値判断を国が強制することは思想・良心・信教の自由をも侵す。

第2条(解釈規定)この法律において「靖国神社」という名称を用いたのは、靖国神社の創建の由来にかんがみその名称を踏襲したのであって、靖国神社を宗教団体をする趣旨のものと解釈してはならない。

(1)既に見たとおり、靖国神社がその実態において明らかに宗教団体である。「神社は宗教に非らず」とは昔懐かしい詭弁である。(これは第5条も同じ)この言葉によって、戦前、戦中どれだけの人、それだけのほかの宗教団体が、統合され、利用され、強制され、あるいは弾圧され、また騙され、眩惑され、自ら妥協したことであろう。戦前、「神社非宗教論」のもと、「宗教団体ではない」とされた法律上の擬制を復活させる意図だ。

(2)「創建の由来」とは、明治天皇の宣らせ給うた安国の聖旨に基き国事に恂せられた人々を奉斎し、神道の祭祀を行い、その神徳を広める―ということである。これは神国日本・神格天皇制・敬神尚武士によって基本的に支えられたまさに靖国神社の真髄であり前掲の理由のすべてに挑戦する。

第3条(戦没者等の決定)第1条の戦没者及び国事に殉じた人びと(以下「戦没者等」という。は、政令で定める基準に従い、靖国神社の申出に基づいて、内閣総理大臣が決定する。

(1)総理大臣の名によって人間の生き死にが評価され、価値づけられる公権をもって押し付けられる。

(2)将来の「英霊」に備える。自衛隊の精神的支柱となり、その海外派兵や徴兵制への意向。戦没者とは将来とも含み平和主義に背く。

第5条(非宗教性)靖国神社は特定の教義を持ち、信仰の強化育成をする尊崇的活動はしてはならない。

非宗教性が斯瞞であることは第1条と第2条の解説で明らかだが特定の教義、強化育成とだけ除けば非宗教化できると考えている。しかも靖国教の名で実際にはやっている。神道の宗教としての生命は儀式にある。本気で宗教性を抜こうなどとは考えても居ない。儀式は禁止どころか、創建以来の伝統をかえりみつつ、第1条の目的を達成するための業務の範囲を定めた第22条によって固執される。業務には行事の他、
Ⅰ、戦没者等の名簿等を奉安し(等を加えたのは神体である神鏡と神剣をも存続させたい意図で、名簿自体霊壐簿事と称され副神体であり、宗教性が露骨である)
Ⅱ、施設を維持管理する
Ⅲ、これらに付帯する業務
Ⅳ、その他内閣総理大臣認可の、目的達成に必要な業務。

Ⅱは憲法第89条違反であり、Ⅳに至っては際限が無いであろう。要するに従来どおりということで、憲法理念に対立する。

日本国憲法(抄)

第20条【信教の自由】
1、信教の自由は、何人に対してもこれを保証する。いかなる宗教団体も、国からの特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2、何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3、国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教活動もしてはならない。

第89条【公の財産の支出又は利用の制限】(略)

産声から7年 実行委

1978年7月26日、布教司牧協議会内対社会小委員会は、「靖国神社法案反対決議の具体化について布司協の意見を聞く件」を同協議会に提出した。審議の結果、具体的実践のために特別の委員会が必要であることに意見の一致を見た。

つづいて8月10日、津賀佑元氏を中心に後藤正司、久保九市、海老名幹雄、中村浄の諸氏が集まり、事務局から広報担当の青木師も出席していまず「靖国問題特別委員会」(責任者・津賀佑元)を設け、(1)次回の布教司牧協議会で委員会を正式に発足させることをメドに構成員の補充など設立必要条件を備える(2)「キリスト者遺族の会」など他の関係諸団体と連絡をとる―ことを決めた。

9月27日、委員会の設立は布司協で正式に承認され、名称を「カトリック東京大司教区布教司牧協議会内靖国問題実行委員会」(委員長・津賀佑元、事務局長・青木静男)として発足した。自来教区公認の法案反対推進機関として、本誌1面「斗いの足あと」にも記したような様々な運動を展開、NCC靖国神社問題特別委員会、靖国神社問題連絡会議などにも加盟し、カトリック正義と平和協議会とも連係をとり、また津地鎮祭違憲訴訟や殉職自衛官護国神社合祀拒否訴訟にもかかわるなどして現在にいたっている。(メンバー・委員長、事務局長のほか、国枝夏夫、久保九市、後藤正司、海老名幹雄、桜井正昭、金沢恂、田中寅男、木邨健三、池中弘)

教区大会決議文

靖国神社法案は憲法第20条および第8条に違反し、本来、宗教である国家神道を超宗教であると称し、国民を思想統制へと導く危険性がある。したがって、善意の国民の伝統的な感情を傷つけて、死者にむち打つものなどの誤解を生じる恐れがあるにもかかわらず、勇気をもって我々は「靖国神社法案」およびこれに類するあらゆる法案に反対することを決議する。またあわせてわれわれはキリスト者として死者への礼を尽くし遺族の人々を理解し尊重することをわすれない。

1強区民の諸意見の1つとして「靖国」をもとりあげた第一部会は、法案反対を決め、代議員会のけつぎとして表明することを望んだ。

2、提案されたものに青山(兼)師から数行を加える(善意の・・・・・勇気を持って、と、またあわせて・・・・忘れない。の2箇所)修正案が出され、提案者もこれに反対しないという発言があり、この修正案が絶対多数で可決された。

3、討論の中で、[遺族の中には、靖国に祭られることを無上の光栄と感じるものも居る。古いとか間違いだからとか彼らの前で言うべきでない」などと主旨に賛成しながらも文章が不充分だという意見が若干あった。修正案は、原案がより多くの市民にとって理解されやすいように―との配慮ょから出されたもの。慰霊と法案が別問題である。

ギモンに答えて

1、お国のために死んだものを、お国が面倒を見るのがなぜ悪い?

●国に殉じたものに、国民各自が哀悼の意を表し、あるいは自らの信仰によって慰霊、追弔をすることが無意味だといっているのではない。カトリック者にとってはむしろ義務だ。また靖国神社が戦没者を神として祭ること自体への反対でもない。国が特定の宗教施設を管理、利用し、宗教儀式を行うことに反対しているのである。

国が何らかの形で戦没者の面倒をみるものまた当然で、行事としては全国戦没者追悼式、施設としてはたとえば千鳥ヶ淵戦没者墓苑など、宗教色抜きで公平な追悼を行うことこそ望ましい。

2、国家が戦没者を靖国で祭るのは、遺族の慰め、国民感情では。

●遺族の中には合祀を取り下げてほしいと願う者もあり、国民の中には色々な思想や信仰をもった人がいる。特定の神社で、特殊な宗教儀礼によって祭ることに、なっとくできないわけで、国が管理すれば信仰の強要となり、他の遺族に純真な宗教感情を傷つけることになり、かえって国民全体の感情にそわないものとなる。

【註】こんなに立派なおやしろに、神と祭られもったいなさよ、母は泣けますうれしさに―。戦死の意味付けをこのようにしかなし得なかった切なくもやるせない戦争体験者の、戦死した身内や友人に寄せる愛情、哀惜が靖国神社に対する気持ちを特別なものにしていることは理解すべきである。推進派遺族の求めるのは記念追悼ではなく、現在の靖国神社に天皇が参拝、英霊の尊崇と慰霊の儀式行事を国家の手で、彼らの要求するとおりやらなければ、国から面倒をみられた気にはなれないわけだ。こうなると、もう理屈ではない。