お知らせ
東京教区ニュース第18号
1976年08月01日
目次
今こそ立て人権・正義に ―教区初の広報の集い―
東京教区は5月30日カトリック・センターで第2回「広報の日の集い」を開いた。昨年は聖パウロ女子修道会の音頭取で会場も同修道院であったため、正式な教区主催のものとしてははじめて。小教区報担当者や、マス・メディアの仕事にたずさわっている人たちなど約150人が参加(1)教区・小教区における広報活動(2)マスコミの受け手である私たちの責任(3)マスコミの送り手の自由と責任(4)マスコミと人間の基本的権利と義務の4つの分科会にわかれて討議した。なかでも第3分科会は、マスコミのキリスト教に対する誤った認識を改めさせるよう対外的監視機関を設置すべきだなど多くの論議をよんだ。その他日本26聖殉教者の映画、広報担当司祭の共同司式ミサなどいささか盛り沢山であったが、とくに女子パウロ会の献身的な協力により、広報関係者は実り多い1日を過ごした。
積極面にこそ目
集会は10時30分、山口輝男神父(中央出版)の司会ではじまった。祈りのあと白柳大司教が挨拶「マスメディアというととかく悪影響をあたえる消極面を考えがちだが福音の宣布と人権の擁護に大いに活用できる積極面に目を向けることが必要」と述べた。
つづいて青木静男神父(教区広報部)がこの集会の趣旨を説明、川中康弘氏(上智大新聞)がそれぞれの分科会のテーマについて解説した。討議は永島洋三(広報活動50名)栗田昌枝(受け手34名)北村正之(送り手40名)金井久(権利と義務30名)の4氏を司会・発題者とし、昼食を囲みなどして約3時間、熱心に行われた。
午後2時30分からは会場はたちまち映画館、横垣内実氏を弁士に「日本26聖殉教者」を上映し、視聴覚に訴えるメディアの力の大きさをもあらためてみなおした。
アジアの友たれ
つづく全体会議では各分科会からの報告のあと、しめくくりとして浜尾司教が挨拶「今日の集まりが広報活動躍進のステップとなることを期待する。世論などがマス・メディアによってつくられることを考えれば、それが福音化の方向に進んでいるかどうかを常に監視せねばならない。」と述べた。
さらに同司教は、バンコクで開かれたアジアの学生指導者研修会に出席したときの体験に触れて、「日本人は絶対に損をしない人達だと見られている。これはアジアの隣接国から本当の兄弟だと思われていないことだ。功利的なことだけを考えるのではなく、真の兄弟となるためには損をすることは当然であるという考えを浸透させてゆかないなら日本はいつまでたってもアジアの兄弟にはなり得ないだろう。」と語った。そして「この浸透のためにこそマス・メディアは一役買うべきであり、広く社会に訴えうる力を信頼している。」と結んだ。
最後に地下聖堂で同司教を中心に広報担当司祭の共同司式ミサが行われ、水浦征男神父(全国広報委)が説教、6時散会した。
交流深めた分科会
教会報グループを
小教区報担当者(関町、豊島、荻窪、田園調布、吉祥寺、関口)から編集方針、回数、部数、費用などについての報告があったあととくに内容について討論。信者以外の対象を意識して布教の手段にという声もあったが、まず解りやすく、典礼など身近な問題をとりあげ共同体の強化をはかることを申し合わせた。
配布方法についてもただ聖堂に置くだけでなく、一人一人に手渡す、地区会等の組織を通して全家庭になど積極的な手段も報告された。カトリック新聞との関係では、双方の性格が異なるため補い合うのが理想だが、新聞の読者が少ないため、教区や全国レベルの話題を抜すいして紹介することの必要性が指摘された。
教区ニュースについては、その機関紙としての性格を再確認。おわりに「小教区報担当者の集い」(仮称)の設置を決め広報部にその準備を依頼した。
テレクラブに期待
受け手に関する分科会では、テレビを中心にまずデ・ベラ師(上智大TVセンター)が一般見解を鈴木みどり氏(ルーテル・マス・メディア研究所)が母親の立場からの意見をのべた。
話し合いは後者をめぐってなされ(1)テレビの見方に対する責任は父親にもある(2)有害の番組をやめるようにとの投書は場合によって逆効果。批判力や判断力を養うことこそ肝腎で、テレ・クラブなどの研究会が必要(3)番組の改善は、専門家、視聴者、製作者の協力がなければ無理。そのためには近隣の人と話し合い、市民運動を起こすよう努力するか、既にあるこの種の運動に積極的に参加すべきだとしてこの問題を考えるグループづくりが急務とされた。
関係者らはこの秋にも研究会を発足させたい考えだが、テレビのシステムを知ることがまず必要として専門家を招いての講演などを計画している。
偏見誤報に抗議を
送り手に関する分科会では論点がはっきりせず、積極的な割には的はずれだった。教会の出版物検閲にもふれかかったが、1分科会のみで論ずべきものにあらずとの声。
体験発表を皮切りに話し合った結果、(1)バチカンに対する偏見、キリスト教がいかにも時代錯誤的であるかのような吹聴など教会が歪められ、興味本位で報道されていることに対し、教区広報委などが正式な監視機関を設置することの必要性(2)カトリック出版物の内容の固さにはそれなりの目的と長所もあるが、カトリック作家らのさりげない文章が布教には効き目がある。
時間がすぎても有志により、教会内部の情報で教会の欠陥、問題点を報道することの可否について激論。司牧上の配慮からスッパヌキに近い記事は、やはり慎むべきものとされた。
大企業との戦いも
まず山田経三蔵神父(上智大社会学)が身近な例の一つとして、川崎製鉄がミンダナオ島に設置する焼結工場について問題提起した。
企業の進出により地元民の人権が抑圧されている現状に対し、日本のマス・メディアが十分にこれを伝えていないことが指摘された。
現実の教会にはこの種の問題をとりあつかう力量不足もあるが、権力の犠牲者の声を代弁することこそカトリック広報の任務。
受け手となる場合も新聞の片隅にある小さな記事をも見のがさぬこと、新聞に出ないもっと重要な事柄もあるはず、その視点でニュースに接することが必要という。対岸の家事見ではなく、自分の立場を超えてものを見るキリスト者の基本姿勢が反省された。
意見あれこれ
広報の日の集いについて参会者から得た感想。
(1)分科会にはより多くの時間を
(2)司祭の出席の悪いのが淋しい
(3)広報関係兄弟と交流の機会に
(4)分科会のテーマを細分化せよ
(5)年に2回くらいこの種の会を
(6)スケジュールがハードである
(7)広報の重要・必要性を再確認
(8)自分だけで得られぬ知識獲得
などであった。
「秋田」に調査委設置
公示
新潟教区の、いわゆる「秋田における聖母出現の件」に関し、東京大司教に「特別調査委員会」の設置を依頼しておりました。今回同委員会の勧告にもとづき、次のように公示いたします。
秋田市添川湯沢台の聖体奉仕会における聖母像に関し、教会の正式の調査が開始された今日、同様の事柄に対する教会の慣習を重んじ、調査が完了するまで
1.同会への公式巡礼
2.同聖母像に対する特別崇敬
を行わないよう要望いたします。
1976年6月22日
新潟教区司教 伊藤庄治郎
駐・この件について「特別調査委員会」から「これらの事柄に対する教会の慣習」とは「公式巡礼及び崇敬行為を禁止していること」だとの説明があった。(編集部)
信仰のふところ マンション吉祥寺
行楽シーズンともなれば井の頭公園や自然文化圏に遊ぶ人々が行きかう通りの両側に高層マンションが林立している。そのひとつ3階から下がチョコレート色に変わっている建物に、日曜日には多くの人びとが出入りするのが目立つ。そこが吉祥寺教会の信徒会館である。
司祭の部屋、大ホール、図書館日曜学校の教室、集会室などがある。モダンな会館とは対称的に、聖堂は素朴な木像切妻の姿を広場の奥にみせている。1954年4月に献堂式が行われたが73年12月、隣接地からの火災で屋根などを焼いた。しかし信徒の醵金や真言会本部の援助、教区内の教会からの見舞いによって修復された。外観はもとのままだが、内部は新しい典礼にそって中央の祭壇を信徒がかこむ形式に改装されている。
1936年、吉祥寺東待ち、通称11小路に神言会修道院聖アルベルトホームが出来、布教をはじめてから40年、現在の地に教会が出来て28年、変わらず同修道会によって司牧されている。アルベルトホームに集まった数家族から現在では信者3千800人を数える教区でも有数なマンモス教会となった。
大教会ゆえに、信者のつながりには特に気を配り、信友会(高校生)青年会、ヨゼフ会(父親)、マリア会(母親)、日曜学校、レジオ、ヴィンセンシオなど各会の代表者は毎月連合委員会を開いて活動状況を報告しあっている。
年一度行なわれていたバザーは、数年前から「みんなのひろば」という祭に発展した。毎年11月に行われるこの行事には教会の全グループが力を合わせ、心のつながりの象徴ともなっている。
ひろば
<祈りましょう>
或る週刊誌に首都圏の主婦1千人を対象に調査したところ、「料理の献立を考えるのは苦手」というのが49.7%。したがって「出前を頼む」56.6%か、「既製のお惣菜を買う」67.3%と複数回答。料理苦手の主婦が、新婚早々のうちは5人に4人入るのはまだしも、10年以上の古女房の半数がそうだとは、主婦の資格なしと申し上げたい、と掲載されていたのを読み、私ども信者の者にも本来の祈りを忘れて形式にのみ走り、信者の資格にかける人達が多くなりつつあるのではないだろうかと連想した?
祈りこそ父なる神との対話であり、祈りを忘れた信者は果たして信者といえるであろうか?祈りのないところに自信をそう失した信者がうごめいている。
祈りがないからこそ自信がもてないのであり、祈りによってこそ信者の自覚がもて新しい活力が生まれてくるのである。
祈らないでは聖霊の賜は得られないであろう。
ヨガの教えでは、人間は夜寝て朝までの間に活力を自然からとり入れて、朝日がさめた時は一番活力の充実感を持ち、一日が始まるといわれている。
ではこの活力を沢山取り入れるにはどうしたらよいかといえば、心が積極的でなければ駄目で、活気や自身のない人間になってしまうと説かれている。
これを信仰生活の中に考える時、活力こそ聖霊の賜でなくてなんであろう。日々の生活を祈りで満たし自信をもって積極的に生活してこそ聖霊の導きが得られるのではないだろうか。
私ども信者は素直な心で祈らなければならないと思う。そして日々の生活に自信をもって処していきたいものである。
(荻窪教会 鈴木 実)
あした葉
「復古調」という言葉がある。古きよきものを懐かしむ自然の気持ちはわからぬでもない。新しいものは結局一時の流行にすぎず、真に価値あるものは昔のものという場合も確かにあるが、全てのものがそうだとばかりはいえない。新しいものをとり入れるときには多少の不安と、不馴れのための抵抗はつきものである。勇気をもって採用する柔軟性こそ進歩には不可欠のものと考える。//最近トリエント公会議の決定に基づくピオ5世のミサ典礼書によるラテン語のミサを依頼する動きが一部の信徒の中にあらわれたときく。典礼司牧の上で好ましくない影響を与えているので、不要な混乱を避けるため、日本カトリック司教協議会の典礼委員会は、次のように同協議会の立場を明確にした。//新しい式次第(奉献文を含む)の国語訳が認可された時点から日本語であってもラテン語であっても、ミサをささげる時はパウロ6世のミサ典礼書を用いなければならない。したがって、改定前に使われていたピオ5世のミサ典礼書を用いることはできないというもの。//司祭が老齢あるいは病弱のために特別のゆるしによって旧典書を用いることもあるが、これとて「会衆のいないミサ」にかぎられる。本年度の教区活動方針の一つに「生きた典礼を目ざす集いを今年も行う」とあるが、この集いはミサを掟、義務、式次第という観点からではなく、典礼そのものの心を深めようとすることを目的としているという。//刷新のわらいがどこにあるかをよくわきまえないと、新しいものに馴れても飽きたりしてまた古いものに戻ろうとする。それが信託だなどというと困る。もちろんある程度の統一は必要だが、典礼は場所、集まっている人、集会の目的などそれぞれの場を考えて行なわなければならないもの。そのためにもローマの典礼清祥の指針には自由にしてよい部分がたくさんある。幅の広い考えをもってほしい。その昔、画一典礼の鬼のようであった人が、より信心深く、しかも自由にやっている。典礼の心をこころとしたベテランだ。 (S・A)
「英霊にこたえる会」に変幻 新国民組織を斬る
ヤスクニ問題は今日、その反対運動を展開してきた者にも、また成立推進させようとする側にも一つの転機を迎えたといえる。法案提出を、一応阻止された推進側は、いわゆる「慰霊表敬構想」の既成事実化につづき、こんどは「英霊顕彰新国民組織」の結成にのり出した。この組織の目的は「戦没者に対する慰霊と顕彰を中心とする幅広い国民運動を展開し、新しい国民的連帯の確立を期するとともに、終局的には国民総意のもとに靖国神社国家護持の実現を期する」ことにあるとされ、6月22日、九段会館で「英霊にこたえる会」という名で発足した。この組織は、靖国神社の国家護持を目標としているだけでなく、さらに天皇による国家・国民の精神的・宗教的統合を企図したものであることがうかがわれる。このような企ては民主主義を否定するものであると同時に教会にとっても見のがすことのできない重大事であるとし、布司教内の靖国神社問題実行委でも、教区民がこの問題の重要性の認識をいっそう深めるよう望んでいる。
姿かえたヤスクニ
心情に媚びる権力
この組織は運動の目標として(1)英霊顕彰に関する啓蒙活動(2)靖国神社などにおける慰霊顕彰行事(この「等」は全国の靖国神社、さらに市町村にある神社の慰霊祭をさすとみられる)(3)天皇・総理・国賓等の公式参拝の実現(4)慰霊の日制定運動(5)靖国神社国家こじ運動等をあげている。
基本スローガンは「英霊にこたえる一億のこころを結集しよう」で、行動スローガンは「みたまに誓って国の伝統と平和を守ろう」「英霊を公におまつりしよう」「まだ山野にねむる遺骨を故国に迎えよう」の3つ。当面の活動方針は(1)「英国にこたえる会」結成趣旨の周知徹底をはかり、会員獲得運動を展開する。(2)同会の各都道府県組織の結成を推進する(3)同会の主催により、来る8月15日(終戦記念日)、靖国神社で結成奉告、戦没者慰霊祭を執行するなどとなっている。
法案の成立をねらう国会レベルでの推進策や「慰霊表敬構想」の既成事実化が、頂点から底辺への流れであるとすれば「新国民組織運動」はいわば底辺層の掘りおこしからの再出発であるとされる。
法曹界に波及
しかし「英霊顕彰」に関する全国民の啓蒙運動といってもそれは知性にむけて語りかけるというより「みたまに国として礼をつくすのは当然」という国民感情に訴えながらその輪をひろげてゆこうとする色合いが濃い。それは「英霊にこたえる会」の結成総会の模様にすでによくあらわれている。
会長に選出の石田和外氏(元最高裁長官)は古き時代の復帰を志向する趣旨であいさつ「英霊の尊いこと、またこれをお祭し、その功績を公に表すべきことを何よりもまず、すべての人に知らせねばならず、いかなる立場にあろうと日本人である以上はそういうことがわからんはずはないと思う。」と述べた。数年前まで最高裁長官の地位にあった同氏が、この会の発展のため全力を投入しようとすることは法曹界に与える影響も大きく、今後の議論をよぶことになろう。
50人をこす発起人の中にはいわゆる名士、芸能人のほか、茶の湯、相撲などの関係者も名を連ね、この会のイメージを一般人にも親しみやすいものにするねらいが見える。
芸能人も一役
結成大会のプログラムも音と映像を使って感情に訴える方法で「出征兵士を送る歌」などのメロディーをバックに、プロの司会者を語り手にスポット。金子タイシガ靖国の息子に、鶴田浩二氏が亡き戦友に涙して語れば満場感涙にむせんで拍手といった調子。途中牧師からの長文の祝電を披露、キリスト教界も賛意をあらわしているよう印象づけようとする肚も。
いままで、この種の会には必ずといってよいほど自民党のあたりからの祝辞があった。今回それが見られないのは運動が下から盛り上がったの感を与える意図ではないかという声もある。
なお、「英霊にこたえる会」の結成趣意書の要約は次のとおり。
(1)戦後の繁栄は英霊のいしずえのうえに築かれていること。
(2)英霊に敬意と感謝の誠を尽くし遺志にこたえることはすべての世代の責任であること。
(3)いずれの国でも慰霊顕彰が国の最高儀礼をもって行われているが、わが国は不毛な対立と抗争があり、ここに民族最大の不幸が存すること。
(4)靖国の英霊に国が儀礼を尽くすことは当然であり、国民多数の心情に合致し、国民一人一人の自覚と行動こそが民族の魂を蘇らせ、国の方向を確立する唯一の道であることなど心情に訴える方向でまとめられているのが特徴といえよう。
英霊顕彰がめざすもの
日本キリスト教協議会靖国問題特別委員会は7月11日(日)カトリックセンターで「何をめざす英霊顕彰運動?」と題して講演と討論の集いを行った。ヤスクニが新局面をむかえたことでキリスト教界も新たな対応策が必要となったとして開かれたもの。大雨にもかかわらず約130人の信徒が参加した。
会は午後2時から同委員長・木村知己氏の開会のことばと主旨説明ではじまった。ついで白柳大司教に挨拶「人間が神の似姿であることを認めるのは全キリスト者の共通点、人間らしい所以は自由であるにもかかわらず、この自由を基とした人間尊重が今や国家によって妨げられようとしている。われわれは自由の侵害に対しては敏感でなければならず、このような企てには手をたずさえて戦わねばならない」と述べた。
再軍備への道
講演では東大教授小林直樹氏が憲法学の立場からヤスクニをとらえ(1)国民全体が戦争責任をあいまいにしていることを反省しなければならない(2)靖国神社にまつりさえすればすむという発想は犠牲者に対して安あがりの方法であるばかりでなく、再び天皇信仰の強制となり、土足で良心に立入るもの(3)再軍備への道につながり、民主主義の否定であることを強調した。つづいて討論に入ったが何よりも問題の重要さを、あらゆる機会を通して知らせることの必要性を確認しあった。会場からは啓蒙もさることながら、事は急を要するのでむしろ反対の実践方法をとの声もあったが、既成事実化が目にあまるようになれば自然に効果ある戦術も生まれるとされた。
仙台とも連帯
布司教内靖国問題実行委員会では、今度の集会に仙塩地区カトリック靖国問題委員会事務局長・氏家昭、同会計・渡辺清の2氏を招いた。同会は1973年発足、現在では靖国神社国家管理反対宮城県連絡会議に加盟、各種市民団体、宗教団体などと連繋、統一的な反対行動をとっている。
1969年、全国司教臨時総会は、法案に反対することをきめたとはいうものの、仙台では1974年、先の教区長小林有方司教が教区民あてに反対の声明を出すなど、教区公認で反対運動を展開している東京につぐもの。今後この2教区を軸に、他の教区との連帯が大いに期待されている。
夢みる成約・原理運動
世界基督教統一神霊協会は、韓国の文鮮明氏のうけたといわれる啓示に基づいてまとめられた統一原理を中心とし、それを信奉する者の団体の組織である。
その教義は「原理議論」という書物の中にまとめられ、そこには「新しい真理」といわれる統一原理に基づいて新・旧約聖書についての解釈および基本教義がのべられている。それによればこの新しい真理が実現するのは、旧・新約時代に続く「成約時代」であり、そのときには「イエスが再臨されて新約のみことばが成就し、新しいみことばによって、イエスと聖霊による新約のみことばが光を失うようになる。」という。
また教説の中には「復帰摂理」というものがあり、これは堕落した人間をふたたび創造目的に復帰させようとする摂理についてのべたものである。その復帰の極点は統一であり、神であり、この神は陰陽の統一的核心であり、中和的主体であるとされ、ここに教義の特色をおいている。
伝道活動は極めて盛んで、40万―200万の会員、準会員を有する組織として、40ヶ国、120都市に教会をもつ。その本拠は韓国であるが、現在文鮮明はアメリカに住み、ニューヨークに中心をおいて神学校などを開設しようとしている。
日本の本部は東京都渋谷区松涛町にあり、代表者は久保木修己氏、会員は昭和49年現在、正会員1万1千人、準会員13万6千人であるという。伝道活動は、主として専従者の街頭または家庭訪問によって行なわれている。間接的には同運動の影響下にある団体を通じてなされ、大学・高校における研究会、リトル・エンジェルスの講演「週間宗教」「世界日報」の刊行、世界平和教授アカデミー(会長・松下正寿氏)の結成などが主なものである。
これらの活動に対する非難は相当に強く、特に目的のために手段を選ばないともいわれていることに対するものが多い。キリスト教会からの批判も強く、特に神学上の問題、既存の宗教に対しての態度、そして道義的な面についてのものが目立つ。
日本キリスト教協議会では常議員会で「統一教会への見解」を発表した。そして統一教会で成約聖書ともよばれている原理講論を否定した。その見解の要点は次の通りである。
(1)旧新約聖書がキリスト教の中心であるのに対し、聖書よりもはるかに原理講論を大切にしていることはおかしい。
(2)成約時代と称せられる時代に新しい真理が実現するという主張に反対する。なぜならイエス・キリストの真理こそ古くて新しい真理である。
(3)旧新約聖書の他に原理講論のあることはみとめられない。なぜなら、救いに関する一切のことは旧新約聖書に証しされている。
(4)その他、神論、堕落論、救済論、復活論、キリスト論、再臨論、サタン論についても根本的相違がある。
(5)エキュメニカルの立場から当協議会は統一教会と話し合う用意はある。
これは、統一教会が伝統的な教会と異なる聖書解釈および「原理講論」に基づくものであることを明確にし、その立場のちがいを声明したものと思われる。またその活動の問題がマス・コミでとりあげられるなど多くの非難が生じ、それが既存のキリスト教会を混乱させたことに対しての批判でもある。
以上が、統一教会とその現況、批判などの概括であるが、エキュメニズム、反共運動を口にして、しばしばカトリック教会や信徒にも呼びかけてくるので、十分留意して対処するよう教区でも望んでいる。
典礼法規・教会法メモ 5
1975年11月現在、東京教区において、主任司祭(および特別の許可を与えられた司祭)の結婚に関する権限は、本紙16号(1)(2)に続いて次の通り。
(3)パウロの特権の使用を許可することができる。その3条件は、「1.婚姻が結ばれた時点において、相方とも未洗者であること。 2.結婚後一方だけが受洗すること(受洗が結婚の前か後かは問わない)。 3.未洗者側がこの結婚の継続を拒否すること(再婚の相手がカトリック信者でない場合は教区長に申し出なければならない)。」
(4)パウロの特権のための「問い合わせ」を免除することができる。
未洗の相手の住所が不明であったり、すでに再婚していたりして「問い合わせ」が困難ないし無意味である場合、教区長の免除が必要。「問い合わせ」を受洗前にしたり、またその免除が受洗前に必要な場合、教区長に申し出る。
(5)一般的委任により、結婚の司式ができる。
場所・時期・自由の確認等、諸規定に従うのは当然であるし、式の行なわれる場所の主任司祭の権に従うこと、その教会の結婚台帳に記入するなどの義務もある。許可のためとして、挙式地の教会の主任司祭に挙式の予告をする必要がある。
まことの慰霊を 8・8千鳥ヶ淵
布教司牧協議会主催の「平和祈願祭」は、今年も8月8日(日)午後4時から千鳥ヶ淵戦没者墓苑で行われる。主司式司祭は浜尾司教。詳細は準備委員会から各母体に知らされているが、多数の参加が望まれる。式次第は当日。
典礼にこころを
教区典礼委員会は今年も「生きた典礼をめざす集い」を開く。趣旨は典礼の最も中心にふれること。特に主日のミサの参加がおきてまたは義務という意識が中心となっていて、典礼としてのもりあがりのないことを指摘、それは典礼の精神を浸透させてゆく上での大きな障害であるという。
このため典礼における儀式中心の態度をこえて典礼のこころを考え深める機会とし、典礼を生活の中心にするように促したいとしている。
<日程>
9月26日 主日とミサ/麹町主任 山本神父
10月31日 奉献文 /世田谷主任 佐久間神父
11月28日 みことば /喜多見主任 関戸神父
<場所>
イグナチオ会館
<時間>
いずれも午後2時から
新刊・絵解き聖書
新しい試みの本が出版された。「目で見る聖書入門」がそれで、推せん文を書いたネメシェギ師は、「言葉が氾濫しているといわれる時代、また日本でマンガが人気絶頂の今、聖書入門をマンガふうに書いてみるというアイディアは真にうがったものであろう。」と述べている。3人の著者は「ユーモラスのわかる7歳から89歳までのコドモのために」画いたと、あとがきに記している。一見一読の価値があろう。 (中央出版刊)
ブロック便り
「錬成会」づくし
<多摩>恒例の夜間錬成登山につづいて、高校生1日錬成会、教会学校教師1日研修会、音楽会、青少年育成献金などを行ったが、さらに夏期・中高生錬成会(8月9日から13日)球技大会(8月29日)リーダー錬成会(10月9日から11日)を計画している。
手作り宣教文書
<城南>宣教文書「聖書のことば」の配布は当ブロックの宣教活動の当初からの目標であったが、このほど手作りの文書を完成、宣教委員会から発行のはこびとなった。今後シリーズとしてこれまでの既刊文書とあわせて配布できるよう、おりおり刊行する予定。
また当ブロックの福祉委員会は活動の一端として、車椅子と一教会内に身障者用トイレをつくることを計画している。このようなことばかりではく、福祉の活動を盛んにするため、福祉についてのアンケートも考えている。
中・高生の春の合宿は成功したが、小教区より遊離する心配もできたので夏には錬成会を行わない方針。
恒例の「江戸殉」は今年も9月12日(日)午後1時から高輪教会で催される。
当ブロックでは婦人の活躍も期待しているところから、小教区婦人会の横のつながりがまず必要と、8月4日(水)午後1時から洗足教会で第2回の合同会を開くことにしている。
合同ミサに1千人
<城西>第2回ブロック合同ミサは聖霊降臨の主日、聖心女子大聖堂で行われた。11小教区の司祭の共同司式ミサで約1千人が参加した。献金は教区財政の一部に。
7月の例会ではブロック会議のあり方そのものが問題となった。地区としての活動は何とか行なわれていても、ブロックのもう一つの機能である布司教との連繋がうまくいっていないという声が出た。代議員会で決まった活動方針の具体化を進めるよう、布司教がブロックに呼びかけても、委員のすべてが当該問題にたずさわっているわけではなく、小教区にもち帰っても何をしてよいかわからない。来年度の人選には考慮をと。
教会学校の交流
<武蔵野>教会学校の教師連絡会を結成する気運が高まっている。みずから音頭をとろうとする用意がすべての母体にあるわけではないが、連絡会の必要性を認めていることはまちがいない。
まず準備委員会をつくることが必要とあって、各母体でのこの部門での責任者によびかけ、9月26日、吉祥寺教会で最初の集まりをひらく。
「しおん会」は当ブロック内の施設でもあることから、その援助を周辺にも訴えるなど、絶えざる力を注ぎつづけることを確認。福祉をはじめ、社会・政治問題にもすすんでかかわってゆこうとする姿勢もわりと前向き。
12月には小金井教会の落成祝に講演会なども計画している。