東京教区ニュース第3号

1973年03月01日

めざそう教区の経済的自立
外国依存から脱皮  連帯感高揚への試金石

何をやるにしても先立つものは金。もちろん金さえあればすべてが解決するとはいかない。それにしてもしてもぜんぜんなくては事がはかどらないのも金である。GNP世界第2位の日本。“経済大国”日本。わが国へ国際経済協力の任務が強く叫ばれている。しかし、ひとたびカトリックの世界をみると、いまだに“発展途上国“の域を出ていない。大幅に外国から経済援助を受けているからだ。もちろん日本におけるカトリックの位置づけの問題もあるにせよ、いままでのままでよいはずはない。まして昨年の東京教区大会ではカトリックの将来をめざして、もりだくさんの計画が決まった。社会福祉活動の組織化、政治経済社会問題研究機関やカトリック情報センターなどの設置・・・・・。

しかし、これも財政的裏づけがないのなら、絵にかいたモチにおわる恐れがある。東京教区が経済的に自立し、連帯を深め、躍進するために、私たち1人1人が教会、教区の財政問題を真剣に考えなければならない時に来ている。教会、教区の台所の問題は、いままであまり公にされなかったため一般信者の関心はかならずしも高くない。しかしことしは、教区レベルで財政審議会が誕生する動きがある。白柳大司教も各種の会合を通じて財政問題への関心の高揚を強く呼びかけている。いまこそ信者も聖職者も1人1人が自分自身の問題として取り組む必要にせまられているといえよう。

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空にすっきりとそそり立つ塔。どっしりと大地に足をふまえた鉄筋コンクリートの聖堂。中にはいるとピカピカ光った大理石の祭壇。「とてもエキゾチックですてきじゃない」と若い女性たちがため息をつく。たしかにこんな教会は都内のあちこちにある。麹町にある聖イグナチオ教会周辺はいままで何回も映画のロケーションに使われた。外濠の土手の松に身をもたげている女優。向こうの方に教会の塔がちらりと見える。こんな映画のシーンや雑誌の写真をご覧になった人がかなりいるのではないだろうか。新聞記事などにでている教会のカットが、「なんとなくイグナチオ教会に似ているなあ」と感じた方もいるであろう。

このように映画やテレビ、新聞などに登場する教会に対して一般の人々は「ハイカラでバタくさくて、きっとお金持ちのところのよう」と思う場合が多いかもしれない。他の教会と比べて信者の数が多く、所得も比較的安定した人が多いといえよう。有名人の結婚式や葬式が時々あり、新聞にも出る。カトリックに関係なくとも「あの教会で式をあげたいわ」とあこがれる娘さんがけっこう多い。いずれにせよこの教会は東京教区の一教会である。

目を郊外へ転じてみよう。都内とはだいぶようすがちがう。まずお隣さんがとても遠い。都内では教会の数も多く、交通の便もよいのでお隣の教会へすぐ行ける。しかし都内を離れるほど隣接教会は遠くなる。1つの教会の受け持ち地域は広くなるいっぽう。ベット・タウンでないかぎり信者も少なく、あちこちに散在している。教会まで時間がかかるので、足が遠のきがちな信者も出てくる。一般に年令が若く、収入が少ないので維持費も少ない。10年以上前と同額の人もいる。

聖堂があるのはまだいいほう。多摩ニュータウンのように急につくられた新しいまちでは聖堂がない。毎日曜日、各信徒が順ぐりに家を開放してミサがあげられる。たとえささやかな活動であってもこれらが東京教区の宣教の1単位の場であることには変わりがない。

つまり堂々とした聖堂や多数の信者を持つ小教区も、少人数の小教区も、細々ながら巡回ミサをたてているところも同じ東京教区という共同体の中にある。比較的施設の整った小教区もあれば、そうでないところもあるわけ。同じ東京教区の中でも“持てるもの”と“持たざるもの”の問題、つまり南北問題が存在している。しかしそこにいる人々は東京教区という1つの共同社会での兄弟であるはず。兄弟ならば互いに助け合うのが当然といえよう。

ただ、建物だけをみて“持てる小教区”とか“持たざる小教区”とか簡単に区分けするわけにはいかない。たしかに建物は立派でも、実際の宣教のためにどれほどの活動資金があるのかということになると、ほとんどの小教区も細々したものかもしれない。それならなおさら、すべての兄弟にとって共通した問題として知恵をしぼり、手をたずさえていく必要がでてこよう。

小教区数は65

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小教区や教区全体の財政問題にはいる前に、まず教区の組織についてふれておく必要があろう。まず東京教区(東京都と千葉県)の信者はどれだけいるかというと、約5万人である。小教区の数は65で、うち東京に51千葉に14。このほかに分教会が2つ、巡回教会が2つある。しかしこれらの数が教区内の聖堂の数に一致するというわけではない。小教区や分教会、巡回教会のほかにも、六本木のチャペル・センターとか上野毛のカルメル会など修道会の聖堂でミサがあげられているからである。

小教区は、地域的な配慮のほか信者の数、指導に当たれる司祭の数、財政的な裏づけなどを勘案してはじめて誕生する。教区本部が小教区を設置、認可するとともに主任司祭を任命する。

収入の大半は外国から

これで「こよみ」に他の小教区と肩を並べて掲載されるようになるが、同時に教会維持費と献金の10%を教区本部へ集める義務を負うようになる。1人前に独立するからには、それなりの義務をはたさなければならない。しかし10%の金は一方的に“お上”へ吸い上げられてしまうのではない。経済的に弱体な小教区などに回されるから、教区全体からみれば、還元されるといえよう。

ただ小教区といっても、教区がすべての小教区をじかに担当しているわけではない。日本の場合、教区司祭が少ないために、外国の修道会や宣教会に担当をまかせているところもかなりある。東京の場合、教区が直接担当している小教区は35あり、関口、大島、麻布、立川、神田、高円寺、大森、市川、西千葉などがそれにあたる。一方、修道会に担当をまかせている小教区は16あり、例えば麹町(イエズス会)、田園調布(フランシスコ会)、三河島(サレジオ会)などである。宣教会に担当をまかされている小教区は14あり、上野(パリー外国宣教会)や千葉県下の多くの教会(聖コロンバン会)など。

修道会担当の小教区では建て物は修道会本部の財産だが、宣教会の小教区では、不動産は教区の名義で登記してくれている。司祭を所属別に区分けすれば「教区司祭」「修道会司祭」「宣教会司祭」があるわけ。こういうことは一見簡単なことだが、意外によく知られていない面もある。教区立の小教区へ名古屋から移って来たある信者が「神父さん、ここは何修道会の教会ですか」と質問した。その神父さんが、「ここは教区が直接担当している小教区ですよ」と答えると、その信者はけげんな顔をして「本当にカトリック教会ですか」とかさねてたずねたという。たしかに修道会担当の小教区ばかりで育って来た信者にとっては、すべての教会が「・・・・・会」という修道会で担当されていると錯覚している場合がないといいきれない。

まずしい教会の台所

「月給15,000円、ボーナス10,000円」。昭和30年ころの大学卒の初任給と思われる人がいるかもしれない。ところがこれは現に昭和48年ただ今の金額である。「高卒や中卒でももっともらっているし・・・。それじゃ大学生の家庭教師への謝礼かな」。いやいやそうではない。教区本部が毎月、教区立の小教区司祭へ渡している金額というのが“正解”。本部は毎月65人の司祭に月給を払っているが、その金額たるや中卒初任給以下である。「大きな教会ならそれでもいいんですけど、私のところのように小さな教会では教会維持費だけではガス、電気代すらも出ません。この15,000円から出しているんです。」とある主任司祭は内情を訴える。「たったの15,000円も丸々おこづかいになるのではなく、生計費に繰り入れなければならないのだ。修道会担当の小教区はどうだろうか。教区立の弱小小教区よりは台所の事情はよいかもしれないが決して楽々ムードではない。全体的な統計はないが、例えば都内のある小教区の教会報によると、最近5ヶ月の会計報告の中で、約67万円が赤字で修道会本部からの持ち出しになっている。それに意識面でも問題がある。例えば、修道会担当小教区のある信者がこういっている「内の教会が半分以上修道会本部から経済的援助をしてもらっているのに対して恥ずかしいことだと感じている人はあっても、教区事務局がケルンから多額の金をもらっていることに、あまり恥を感じていないんです。」と。担当が修道会であろうが教区直轄であろうが、自分の小教区の自立はもちろん、困っている小教区へも手をさしのべていく連帯意識の高揚が急務である。しかし、運営が教区であろうが、修道会であろうが、教会維持費のみで100%独立できているところはほとんどないといえよう。多少ゆとりのあるところでも将来教会の補修をしたり、信徒会館を建てるため積み立てているところもあり、他の困っている小教区を助けているところはごくごくわずかである。

経常費で手いっぱい

小教区の財政がゆたかでないのなら自然、教区自体の財政も自立できない。

東京教区の年間収入はどのくらいだろうか。昭和42年度が約7,000万円、43年度が7,800万円、44年度は5,800万円、45年度が6,300万円、46年度は3億8,000万円ととびはねたが、松戸、大森教会の土地建て物の売却代がはいっているので例外的。だから例年6,7千万円というところ。ところがこの収入の内わけをみると別表のように外国からの援助が半分を超える。つまりローマの布教聖省から配分される信仰弘付会献金が約30%、ドイツのケルン教区からの補助金が約21%、主に国内からの諸献金が20%、銀行利子が5%、ローソクやぶどう酒の売り上げなど雑収入が8%、小教区からの教区負担金は全体の17%しか占めていない。

それではどういう方面に支出があるかというと、人件費が一番多く27%、次いで布教・集会費19%、儀式費15%、教区事務所費12%,小教区への補助11%、神学生の養成費7%、建設・修理費6%などである。

善意への甘え絶て – 自前の金で宣教開始へ

もう少し中味をみてみよう。まず人件費は教区司祭の生活費とか教区や小教区の従業員への給料である。その待遇は、いままで民間と比べてあまりにも劣悪だった。愛と正義を説く教会がもっとも身近にいる人々の待遇を世間並みにしなければならないのは当然であろう。布教・集会費の中には司祭の月例集会、信徒使徒職協議会、布教司牧協議会をはじめ数多くの集会費のほかに、枝川、喜多見教会の借地料(年間約140万円)もふくまれている。儀式費とはホスチアやブドウ酒やローソクの購入費。教区事務所費とは印刷費や交通、郵便代などである。このようにみてみると分かるように、純粋の宣教プロジェクトそのものの金がほとんどないのである。事務的な経常経費で手いっぱいで、宣教活動そのものの資金がほとんどないというのが現状である。

それでは外国からもっと援助をもらうことはできるのか。それはちょっと望めない。布教聖者からの配分金は全世界の信者の献金でいまは伸び悩み。それにアジアや南米など開発途上国への援助が大いに必要になっており、“経済大国”というイメージの強い日本へこれ以上の金を望むことは無理。

ケルン教区からの献金は昭和29年から始まった。まだドイツ自身が十分復興していないにもかかわらず、同じ敗戦国の日本に対するよしみから「手をたずさえてがんばりましょう」という善意によって行なわれたものだった。ありあまっているのでよこしてくれたのではなく、苦しいながらもねん出した尊い金だった。その善意の金額、今日までに実に11億7,200万円。この金でできた教会はカテドラルを始め小岩、関町、小平、原町田、清瀬、北町、青梅、蒲田、荻窪、豊田などである。

自力で教会づくりを

しかしいつまでも他国の善意におんぶしていてよいのであろうか。この点、最近教区の会計担当の浜尾司教が布教司牧協で発表した「教区財政の自立をめざして」という資料の中で「もはやわれわれは、これらの善意の人々に甘えているのは許されない時にきている。かれらが身を切られる思いをしている以上に、われわれ自身がおのが身を切らなければならない時である」と記している。

現在の経常費はもとより、こんごの積極的な宣教活動費も自分たち自身で出すようにするには、信者も聖職者も相当な意識改革と努力をしなければならない。「お金のことはどうも言いにくくて」という主任司祭がいるかもしれないが、だまっていても自然に解決するというものでもない。こんご教会の収入の増加をはかる方法としては?教会維持費を増額し、それに伴って教区分担金もふやしていく?教会財産の適格な運用?教会不動産の利用と処分?収益事業の促進、などが考えられる。しかし「お寺と同じように教会がやたらに駐車場経営などをやるのはいやだ」という信者もいよう。

何をやるか。どうするか。これは結局信者1人1人が真剣に考え、教区の総意をまとめていく以外にないであろう。