大司教
週刊大司教第二百五十九回:キリストの聖体の主日
2026年06月08日

キリストの聖体の主日です。三位一体の主日の週の木曜日がキリストの聖体の祝日とされ、ラテン語の呼び名で、「コルプス・クリスティ」と言われます。もっとも、キリスト教国を含め現代の多くの国では週日に集まることが難しいので(国家の休日であれば別ですが)、その次の日曜日にこの祝日を移動させることになっており、日本でもキリストの聖体の「主日」となります。
キリストの聖体の主日と言えば、多くの国、特に伝統的キリスト教国においては、神の民の一致を目に見える形で現し、主の現存にともに感謝をささげ、主イエスとの一致の誓いを新たにするために、大規模な聖体行列が行われます。主御自身の現存であるご聖体が町の中を顕示され運ばれていく中で、その町に住む多くのキリスト者が、目に見える形で主を礼拝する姿は、信仰の力強い証しとなります。キリスト者が少数派の日本で、同じような意味での聖体行列が町中を練り歩くのは難しいのですが、機会が整い、ご聖体への冒涜の恐れを避けることができるのであれば、東京でも聖体行列をすることができれば良いと思っています。また日本ではちょうど梅雨の始まりの時期でもあり、天候という別なチャレンジもありますが、機会をみて実現できればと思います。皆が主イエスの現存に敬意を表し、礼拝することが重要な目的であることを忘れてはなりません。
またキリストの聖体の主日にあたり、信仰を守ることやそれに伴う公の行動が制限され、信教の自由が尊重されていない国で、また神からの賜物であるいのちに対する暴力が横行し、人間の尊厳がないがしろにされている国や地域で、ご聖体のうちに現存される主が、常に信じる者と共にいてくださり、わたしたちの信仰における兄弟姉妹を護ってくださることを信じ、祈りたいと思います。
教皇レオ十四世の新しい回勅「マニフィカ・ウマニタス」発表の記者発表(2026年5月25日)における、教皇様のメッセージが邦訳されています。またカトリックジャパンニュースにも詳報されています。回勅本体の邦訳は、夏前にはできあがるものと思いますが、ひとまずこれらをご一読ください。
以下、6日午後6時配信、週刊大司教第259回、キリストの聖体の主日のメッセージです。
キリストの聖体の主日
週刊大司教第259回
2026年6月7日前晩
レオ十三世の回勅「レールム・ノヴァールム」公布から135年目となる5月15日、教皇レオ十四世はご自分の回勅「Magnifica humanitas」を発表されました。教皇は回勅の冒頭で、「神が創造された素晴らしき人類は、今日、決定的な岐路に立たされている。それは新たなバベルの塔を積み上げるか、あるいは、神と人類が共に暮らす国を築くかという選択である」と記し、人工知能(AI)の課題に教会が取り組む必要性を強調されています。
レオ十四世は、ご自分が「レオ」という名前を選んだ理由を、「教皇レオ十三世が、・・・歴史的な回勅『レールム・ノヴァルム』(Rerum novarum)によって最初の大きな産業革命の状況における社会問題に答えたからです。現代の教会は、もう一つの産業革命と、人工知能の発展に答えるために、その社会教説の遺産をすべての人に示します。人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって新たな問題をもたらしているからです」と述べていました。
レオ十四世は、教皇に選出された当初から「平和」の構築とともに、「人工知能は、人間の尊厳と正義と労働の擁護にとって大きな問題をもたらしている」という認識を示し、人工知能(AI)が社会にもたらすであろう諸課題に取り組む必要性を重視していることも明確にされています。
今年の世界広報の日のメッセージにおいても、教皇は神ご自身がわたしたちに語りかけられるそのことばは、「神の子イエスの声とみ顔のうちにわたしたちに知らされた」と述べています。
わたしたちの信仰は、デジタルの世界によって生み出される仮想現実の中にあるのではなく、生きている人間の具体的な交わりの中に存在しています。
その意味で、ご聖体の秘跡は、何か想像の産物ではなく、まさしくそこに、主イエスが具体的な「声とみ顔」を持って実際に存在し、わたしたちを主との交わりに日々招いてくださる、「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であります。(教会憲章11)
キリストの聖体は、教会生活の中心であり、ご聖体のうちに主御自身が現存され、わたしたちとともに常におられます。それは想像の産物ではなく、具体的な声と顔を持つ具体的な存在です。
パウロはコリントの教会への手紙で、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でもひとつの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と述べて、聖体祭儀が共同体の秘跡であることを強調しています。
わたしたちの信仰と共同体は切り離すことができません。パウロはコリントの教会への手紙に、「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と記します。わたしたちがキリストの体と血に「あずかる」ということが、すなわち共同体における「交わり」の意味であります。わたしたちの信仰は、キリストの体である共同体を通じて、キリストの体にあずかり、いのちを分かち合い、愛を共有するという「交わり」のなかで、生きている信仰です。
ご聖体をいただくわたしたちは、そこに実際に存在しておられるイエスと出会い、ともにその秘跡に与った兄弟姉妹として、キリストにおける一致をあかしするものでなくてはなりません。キリストの聖体のお祝いは、わたしたちの信仰が具体的に生きている主との交わりのうちにある生きた信仰であることを再確認するように、わたしたちに求めています。