大司教

週刊大司教第二百五十八回:三位一体の主日

2026年06月01日

三位一体の主日となりました。

駐日教皇大使を務められるエスカランテ・モリーナ大司教様は、司教に叙階された10年を迎えられました。司教で10年ということは、教皇大使になって10年ということですが、もちろんその前に日本やガーナを含むいくつかの大使館で、参事官としての経験を積んでこられました。

モリーナ大司教様の10周年感謝ミサが、先日5月28日夜、六本木のフランシスカンチャペルセンターで捧げられ、司教団からは前田枢機卿様、ガクタン司教様、勝谷司教様、そしてわたしが参加しました。また東京教区で働く大勢の宣教師や、駐日の各国大使も参加され、ともに喜びを分かち合いました。モリナ大司教様、おめでとうございます。

以下、5月30日午後6時配信、週刊大司教第258回、三位一体の主日のメッセージです。

三位一体の主日
週刊大司教第258回
2026年5月31日前晩

三位一体の主日、第一朗読は出エジプト記からとられています。神がモーセに与えられた掟が記された最初の石の板は、民の裏切りの前で砕かれてしまいました。それに対して神は、神に選ばれた民を代表してゆるしを願うモーセに対して、今一度掟の石の板を与えるにあたり、ご自分が誰であるのかを明示され、こう宣言されています。

「主、主、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ちた者」

ヨハネ福音は、神が、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と記し、「神が御子をこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」と記しています。

確かにキリスト教にはいくつもの掟があり、罪を重ねることで裁きを受けると教えています。そのためにキリスト教とは、罪人を厳しく裁く共同体だと理解している人すらいます。しかし今日のこの出エジプト記やヨハネ福音に記された言葉から明白なのは、わたしたちの神は、徹底的にあわれみに富み、忍耐強いという、そのいつくしみの側面こそが、神の姿であることを教えています。

もちろん福音は、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている」と記して、何でもかんでも無条件に良しとする訳ではないことも明確にし、独り子であるイエスの言葉と行いに従う者にこそ救いが与えられていることもはっきりとさせています。わたしたちへの神の徹底的な愛といつくしみのうちにわたしたちは生かされ、イエスに従うことで救いへの道を歩んでいくことができます。

これほどの愛といつくしみに包まれているにもかかわらず、この社会の中に、さらには教会共同体の中にでさえ、神を信じていると言いながら、互いを裁き、対立し、分裂が生じるのはどうしてなのでしょうか。もちろん、神の正義は貫徹されなければなりません。不正に目を塞ぐことはふさわしい態度ではありません。しかし同時にわたしたちの神は、あわれみといつくしみに満ちあふれた共同体であることを求めます。

ミサを捧げるとき、司祭は十字架の印の後に、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、みなさんとともに」と呼びかけます。

この言葉は、パウロが、コリントの教会に宛てた書簡を締めくくった言葉です。今を生きるわたしたち教会は、パウロのその締めくくりの言葉から、感謝の祭儀を始めます。すなわち、現代を生きる教会は、感謝の祭儀のために共同体として集まるたびごとに、パウロが締めくくった地点から、すなわち、「兄弟たち、喜びなさい。完全なものになりなさい。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい」と呼びかけた地点から、常に新たなスタートを切っています。

教会は、主イエスの恵みにあずかり、神の愛に満たされ、聖霊に導かれて、聖徒の交わりのうちに、日々新たに生かされ続けていきます。三位一体の神秘とは、これでもか、これでもかと、ありとあらゆる手を尽くして愛といつくしみをわたしたちに降り注ぐ、神の愛の力そのものです。

わたしたちを共同体の交わりへと導く聖霊は、教会に常に新しい息吹を吹き込んでいます。わたしたちは、過去に戻りません。わたしたちは神の愛といつくしみによって与えられるいのちを生きる希望を掲げ、互いに支え合いながら、歩み続ける現代の神の民であります。