大司教
週刊大司教第二百五十二回:復活節第三主日
2026年04月20日

復活節第三主日です。
教皇様はアフリカを司牧訪問中です。教皇様のためにお祈りください。教皇様は、その就任からまもなく一年となりますが、教皇に選出されたその日の第一声、「平和が皆さんにありますように」から始まって、常に、武器を捨てていのちを守ることでの平和の確立を訴えておられます。この数週間は、中東の情勢に呼応して、平和を呼びかける教皇様の呼びかけが、政治の世界では現実を無視した夢物語と響くことから、両者が対立状態にあるように報道されています。
教会は福音に基づいて、例えば広島を訪れて「戦争は人間の仕業です。戦争は死です」と語りかけた聖ヨハネ・パウロ二世や、核兵器の廃絶を広島から訴えた教皇フランシスコのように、人類全体に対して平和を語るのが、その使命の一つです。核兵器による戦争の危険性に対しては、キューバ危機の当時のヨハネ二十三世の政治のリーダーたちへの呼びかけに始まり、同教皇の「地上の平和に象徴されるように、第二次世界大戦後、歴代の教皇様たちは、平和への呼びかけを続けてきました。
緊張の度合いを増し、将来への不透明さが増す中で、命に対する暴力が横行する世界に向かって、わたしたちも教皇様とともに、信仰に基づいた倫理的選択の呼びかけを続けたいと思います。私たちが護りたいのは神からの賜物であるいのちであり、神の似姿として創造された人間の尊厳です。
そして、宗教を紛争の口実に利用することは倫理的にふさわしいことではなく、単に分裂と分断の傷を深めるに過ぎません。ましてや、いのちに対する暴力を正当化するために、信仰を持ち出すことは、信仰者にとってふさわしいあかしではありません。
以下、18日午後6時配信、週刊大司教第252回、復活節第三主日のメッセージです。
復活節第三主日
週刊大司教第252回
2026年4月19日
エマオへ向かっていた二人の弟子が象徴しているのは何でしょうか。福音は、イエスが二人に話しかけたとき、「二人は暗い顔をして立ち止まった」と伝えています。
さらに弟子のひとりクレオパが、イエスの質問にあきれたように答えていく中で、「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」という言い方をしています。つまり、彼らの望みは絶たれてしまった。いまや弟子たちは絶望の淵にいるのです。
ですからこの二人の弟子が象徴しているのは、恐れと不安の中で希望を失い、バラバラになっていく共同体の姿であります。共同体の一人ひとりを結び合わせていた中心が突然亡くなったときに、バラバラに崩壊していく姿であります。
教会は共同体であると、わたし自身も何度も言いますし、特に第二バチカン公会議以降、幾たびと教会の共同体性について多くの方が語ってきました。教会が共同体である一番の理由は、人がたくさん日曜日に集まってくるからではありません。教会は寄り合い場所としての共同体ではありません。教会は復活されたイエスによって結び合わされている弟子たちの集まりです。
混乱に心が翻弄され、不安にとりつかれ、希望を失うときに必要なのは、落ち着いた心での振り返りです。イエスが何を教えてきたのか。何をあかししてきたのか。そしていま眼前で起こっている出来事を通じて、神は何を語りかけているのか。落ち着いて見つめ直し、より良い道を探し求めなくてはなりません。まさしくシノドス的な教会のあり方が求めているのは、そのことであります。
二人の弟子が象徴するのは、自分たちを結び合わせる中心を失って、進む方向を見失いバラバラになった共同体です。その二人にイエスは寄り添い、ともに歩みます。その上で、議論をするのではなく、イエスは弟子たちのやり取りに耳を傾けます。イエスは弟子たちと語り合い、すべての出来事が神の計画の元にあることに気がつかせるために識別へと導きます。食卓でパンを裂くことで目が開かれた後に弟子が語る「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」という言葉こそは、識別の中で聖霊の導きを見いだしたときの心の動きであります。二人は聖霊の導きにしたがって、他の弟子たちの所へ戻り、共同体は再びイエスによって力強く結び合わされ、与えられた福音宣教の使命を果たしていきます。
まさしくシノドス的な歩みそのものであります。
あの夕方、エマオへの道で、二人の弟子とともに歩み、辛抱強く耳を傾けたように、主は今日もわたしたちと歩みをともにされ、辛抱強くわたしたちの叫びに耳を傾け、時のしるしをどのように読み解くのか、わたしたちが聖霊の導きに気づくように導きながら、いつも待っておられます。わたしたちは聖霊に導かれて常に前進を続ける神の民であります。
復活の主とともに、シノドス的な歩みを続ける教会共同体であり続けたいと思います。