大司教
週刊大司教第二百五十三回:復活節第四主日
2026年04月27日
復活節第四主日は、世界召命祈願日です。
召命を祈ることは、もちろん第一に、将来福音宣教と司牧に携わる司祭の志願者が誕生するようにと祈ることであり、同時に教会の霊的成長のためにも、修道生活に身を捧げる男女の志願者が誕生するように祈ることでもあります。
しかし同時に、聖霊による賜物はすべてのキリスト者に与えられているのですから、そこには信徒の召命もあります。キリストに従う者として、この世界でどのような役割を果たすことができるのか、祈り黙想することも不可欠です。
今年の世界召命祈願日の教皇メッセージのテーマは、「神のたまものの内的発見」とされています。全文はこちらのリンク先で読むことができます。
なお東京教区では、この主日午後2時半から、東京カテドラル聖マリア大聖堂にて、一粒会の主催で、召命祈願ミサが捧げられました。今年はわたしが昨年の教皇選挙出席に続いて今年も会議でローマに出張中のため、日本カトリック神学院院長の稲川圭三神父様が司式してくださいました。。
以下、25日午後6時配信、週刊大司教第253回、復活節第四主日のメッセージです。
復活節第四主日
週刊大司教第253回
2026年4月26日前晩
復活された主イエスとは一体どのような方なのか。本日の福音では、イエスはご自分のことを、「わたしは羊の門である」と宣言されています。
イエスによって与えられる羊への護りは、イエスという門を通った羊にのみ与えられると福音は記します。しかしそれだけなのでしょうか。つまりイエスによって呼び集められた羊、すなわちキリスト者であるわたしたちは、教会という囲いの中で、護られているだけの存在なのでしょうか。安心と安全の中で自分たちだけの幸福を願う者なのでしょうか。
福音をよく読んでみると、そこには門を通って囲いの中にいる羊について、「その人は、門を出入りして牧草を見つける」と記されていることに気がつきます。「出入り」であります。つまりイエスによって神の民へと招かれた者は、囲いの中にとどまるのではなく、外へと出かけていき、そこでも牧草を見つけるというのです。わたしたちはイエスを通じてこの共同体へと導かれ、そこで霊的に養われるだけではなく、外の社会でいのちを受けるための業、すなわちイエスが命じられる福音宣教の業に取り組む力も頂くのです。
教会は復活節第四主日を、世界召命祈願日と定めており、司祭や修道者への召命のために特に祈りをお願いする日としています。毎年東京教区では教区の一粒会が主催して、神学生や志願者と一緒に、召命祈願ミサがささげられます。ちなみに東京教区の信徒の皆さん全員が、この召命のために祈り献金する一粒会の会員です。
イエスの招きに答えて、羊の囲いの外に出て、福音をあかしし告げ知らせる人が必要です。イエスの業を受けついで、羊の牧者となる人が必要です。あらためてみなさまには、司祭や修道者への召命のために、またその道を歩んでいる神学生や志願者のために、お祈りくださるよう、お願いいたします。
また、召命を語ることは、ひとり司祭や修道者への召命を語ることにとどまらず、すべてのキリスト者、つまり信徒の召命を語ることでもあります。「信徒に固有の召命は、現世的なことがらに従事し、それらを神に従って秩序づけながら神の国を探し求めることである。自分自身の務めを果たしながら、福音の精神に導かれて、世の聖化のために、あたかもパン種のように内部から働きかけるためである」(31)と、第二バチカン公会議の教会憲章に記されています
教皇レオ十四世は今年の世界召命祈願日のメッセージに、「召命は、人生と同じように発展していく旅路です。わたしたちはこの旅路の中で、与えられたたまものを守るだけでなく、召命が成長して実を結ぶよう、それを日々の神との関係によって育てていかなければなりません」と記しています。
希望を失い利己主義と排他主義の深まる社会にあって、パン種のように、「神の国を探し求める」召命に生きる人の存在が必要です。召命とは一度識別すればそれで終わるのではなく、人生のすべての段階で育まれていくものです。つまり生涯を通じて、わたしたちには小さなパン種として、福音宣教のために働く道が用意されています。