大司教

週刊大司教第九十一回:年間第二十二主日

2022年08月29日

8月も間もなく終わりに近づきました。毎日不安定な天気ですが、今年は残暑は長く続くでしょうか。

現在の感染状況はピークを越えたようにも思われますが、毎回「波」が押し寄せる度に新たな指摘が専門家からはあり、なかなか気が抜けない時間が続いています。これだけ多くの人が気をつけていても検査陽性になったり発症したりしていますので、教区内の司祭の感染も広がり、いくつかの小教区では、そのためにミサができなくなっているところもあります。できる限りお手伝いできる司祭を探してはいますが、それもなかなか難しい状況が続いています。いましばらくは、皆様ご理解のうえ、なんとか乗り越える努力を継続するようお願いいたします。

全国に目を向けると、わたし自身も五月末に感染しましたが、札幌、さいたま、名古屋の司教様方が検査陽性になったとの報告を受けています。幸いなことに症状は軽いと聞いています。このような状況の中ではできることは限られていますので、教区としては、基本を忠実に守って、教会活動を慎重に継続する道を選択しています。どうかこれまで続けてきた基本的な感染対策を今一度心に留め、教会の活動を続けてくださるようにお願いいたします。

以下、27日午後6時配信の週刊大司教第91回、年間第22主日メッセージの原稿です。
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年間第22主日
週刊大司教第91回
2022年8月28日前晩

「人間は、『余すことなく自分自身を与えない限り』、自己実現も成長もなく、充足も得られないように造られています」(「兄弟の皆さん」87)

教皇フランシスコは、回勅『兄弟の皆さん」にこう記しています。その上で教皇は、「いのちがあるのは、きずな、交わり、兄弟愛のあるところです。・・・自分は自分にのみ帰属し、孤島のように生きているのだとうぬぼれるなら、そこにいのちはありません。そうした姿勢には、死がはびこっています」と述べています。

ルカ福音は、「婚宴に招待されたら、上席についてはならない」というイエスの教えを記しています。人間関係において謙遜さが重要だとするこの話は、ここで終わっていたらマナーを教える話に留まったのかも知れません。しかしこのあとにルカ福音は、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と記しています。

宴席に招かれる人と招かれない人の対比は、ここで意図的に持ち出されているとしか思えません。それはこの話が、処世術やマナーを語っているのではなく、神の国に招かれるとは一体どういう意味であるのかを説き明かしているからに他なりません。

すなわち、上席に着こうとする人が象徴するのは、神の国に招かれるのは自分が勝ち得た権利の行使なのではなく、徹頭徹尾、神からの恵みでしかあり得ない事実であります。そして、すべてのいのちを神が愛おしく思われているからこそ、その招きからは、誰ひとりとして忘れ去られることはないと、その続きの話が示唆します。

その中にあって、天の国で豊かに報いを受けるためには、この社会の現実の中で、余すことなく自分自身を与え、互いのきずな、交わり、兄弟愛を深めなくてはならないことが示され、それに対してあたかも自分が勝ち得た権利の行使のように高慢に振る舞い、隣人への視点を失ったところにはいのちがないことが示されています。

現代社会の現実は、排除と排斥に軸足を置き、持てる者と持たない者との格差が広がり続け、持たない者はその存在さえ忘れ去られたと、教皇フランシスコはたびたび指摘してきました。

第二バチカン公会議の現代世界憲章は、「地上の富は万人のためにある」という原則を示します(69)。そこにはこう記されています。

「神は、地とそこにあるあらゆる物を、すべての人、すべての民の使用に供したのであり、したがって造られた富は、愛を伴う正義に導かれて、公正にすべての人に行き渡るはずのものである。・・・それゆえ人間は、富の使用に際して、自分が正当に所有している富も単に自分のものとしてだけでなく、共同のもの、すなわち富が自分だけでなく他人にも役立ちうると言う意味において共同のものであると考えなければならない」

教皇フランシスコはこれを受けて、「兄弟の皆さん」にこう記しています。

「人は皆、同じ尊厳をもって、この地球に生まれ・・・肌の色、宗教、能力、出生地、居住地、そのほか多くのことの違いを、重視したり、皆の権利を損なって一部の人の特権を正当化することに利用してはなりません(118)」。

神ご自身がそうされるのですから、わたしたちも主の僕として、誰も忘れることなく、すべての人を等しく神の国に招き入れるよう努めましょう。