大司教

週刊大司教第九十回:年間第二十一主日

2022年08月22日

8月も後半に入り、多少の涼しさを感じるようになってきました。

東京都内の感染状況は厳しいままで、この数日は、司祭の中にも検査陽性となり、軽症ですが発症された方も少なくありません。現在、教区として主日にミサに与る義務は免除していませんが、これは条件がついているので、健康について心配がある場合は免除と考えてください。

アジア各地の司教協議会の連盟組織であるFABC(アジア司教協議会連盟)は、1970年に教皇パウロ六世がマニラを訪問された際に集まった司教たちの話し合いで、誕生した組織です。司教協議会が各教区の上部組織ではないように、この連盟も各司教協議会の上部組織ではありませんが、第二バチカン公会議の教会憲章で示された司教の団体性や協働性と翻訳される「コレジアリタス」を具体化し、アジアの教会の意味を更に具体化するための組織として誕生しました。2020年がその50周年でした。2020年には50周年を記念する総会が予定されていましたが、コロナ禍のため開催が延期となり、結局今年の10月に、FABC50と銘打って、記念の総会がバンコクで開催されることになりました。FABC50のホームページがありますので、参照ください。(上がFABC50のロゴです)テーマが、「アジアの民として、ともに歩み続けよう」となっています。

今回の総会のための祈りやテーマソングが準備されていますが、10月に間に合うように、祈りに関しては翻訳を進めています。

この総会を始めるにあたり、現在のシノドスの歩みに触発され、実行委員会は、10月の総会本番に先立って、総会開始のための典礼を、来る8月22日月曜日に行うことになりました。バンコクで行われ、教皇様からのメッセージを含め、様々な方のメッセージと、テーマソングの披露など、ネットで中継される予定です。22日月曜日の日本時間13時開始です。この行事中継のYoutubeリンクはこちらです。またはFacebookのリンクはこちらです。ご覧いただければ幸いです。

なお私はこのFABCの事務局長を務めていますので10月の会議には参加しますが、現在の感染症の状況などに鑑み、8月22日の開始のための典礼は、現地ではなくオンラインで参加します。

以下、20日午後6時配信の週刊大司教第90回、年間第21主日のメッセージ原稿です。
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年間第21主日
週刊大司教第90回
2022年8月21日前晩

パウロ6世が第二バチカン公会議閉幕から10年となる1975年、大聖年に発表された使徒的勧告「福音宣教」は、現代社会にあって福音に生き、福音をあかししようとするわたしたちにとって、今でも重要な道しるべとなっています。

教会が福音を告げしらせる必要性を、教皇パウロ6世は、「教会も目の前に、福音を必要とし、それを受ける権利を持っている無数の人々を見ています。なぜなら、『神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられる』からです」(57)と記しています。

その上で教皇は、「たとえわたしたちが福音をのべ伝えなくても、人間は神のあわれみによって、何らかの方法で救われる可能性があります(80)」とまで記しています。

「キリストの苦しみと死は、いかにキリストの人性が、すべての人の救いを望まれる神の愛の自由で完全な道具であるかを示して」いると、カテキズムの要約に記されています(119)。

神はすべての人が救われるのを望まれているのは確実であり、ご自分が賜物として与えられたすべてのいのちを愛おしく思われる神は、その救いがすべての人におよぶことを望まれています。

だからといって、わたしたちがなにもしないで、それどころか自分勝手に生きていたのであれば、果たしてそこに救いはあるのだろうかと、今日のルカ福音は問いかけています。

イエスは、「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに、直接には答えていません。なぜならば、救われるはずの者は、すべての人だからです。しかしその「すべて」を、「少ない」者とするのは、神の側ではなくて人間の側の勝手であることを、「狭い戸口から入るように努めなさい」というイエスの言葉が示唆しています。それに続く話で常に目覚めて準備をしている必要性が語られていますが、ここで重要なのは、救われるはずのわたしたちが、いかにしてそれを「少ない者」としないように、常に努力をしているのかどうかであります。

先ほどの「福音宣教」におけるパウロ6世の言葉には、続きがあります。

「しかし、もしわたしたちが、怠りや恐れ、また恥あるいは間違った説などによって、福音を述べることを怠るならば、果たしてわたしたちは救われるでしょうか(80)」

この世における狭い戸口は、わたしたちが福音の証し人となることを躊躇させるような、様々な誘惑のなせるところであります。福音を告げ知らせることへの怠り、それによってどういう反応があるのか見通せない不安による恐れ、社会全般を支配する価値観の中で、それとは異なる価値観を生きる事への恥ずかしさ、真理とかけ離れた説による誘惑。こちらにこそ真理がある、こちらこそ正しい道だという主張には、時としてわたしたちを惑わせ、イエスの福音から引き離す誘惑の力が潜んでいます。

パウロ6世の「福音宣教」の続きには、教皇の願いがこう記されています。

「願わくば、現代の人々が、悲しみに沈んだ元気のない福音宣教者、忍耐を欠き不安に駆られている福音宣教者からではなく、すでにキリストの喜びを受け取り、その熱意によって生活があかあかと輝いている福音宣教者、神の国がのべ伝えられ、教会が世界のただ中に建設されるために喜んでいのちをささげる福音宣教者から福音を受け取りますように」

イエスに従うと決めたわたしたち一人ひとりが、その福音宣教者です。