大司教

週刊大司教第四十四回:年間第二十五主日

2021年09月20日

この時期、9月の第3月曜日が敬老の日と定められているため、一番近い主日に、教会でも高齢の方への祝福などの行事を行ってきたところが多いかと思います。大変残念ですが、今年は公開ミサを自粛しているため、こういった行事も中止となっています。カテドラルから配信させていただく9月19日の主日のミサでは、いつも通り教区の皆さんのためにミサを捧げますが、特に敬老の日に因んで、人生の大先輩である兄弟姉妹の皆さんの上に神様の祝福と守りがあるようにお祈りいたします。

国民の祝日に関する法律には、この日は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日であると記されています。今日のメッセージでも触れていますが、教皇様は7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。教皇様の意図は、もちろん日本の敬老の日と同様の思いも込められていますが、それと同時に、一人ひとりのいのちに与えられている使命には定年はないことも強調されています。すなわち、年齢や健康や体力の面から、社会の中心から徐々に退いたとしても、福音を告げしらせることや福音に生きることには定年はない。その年代に応じた役割があることを指摘されています。

この祈願日の典礼の手引きには、「若者も高齢者も、祖父母も孫たちも、同じ家庭に属していてもいなくても、わたしたち全員は「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」ということを理解するため」に、この日は定められていると記されています。それぞれに与えられている使命を自覚し、今いのちを生きている状況に応じて、キリストの一つの体の部分としての役割を果たしていきたいと思います。

政権を担っておられる自民党の総裁選が始まっており、その後には新しい首相の誕生とさらには衆議院議員の選挙も控えています。これまで積み重なってきた国内のさまざまな事情と、さらには国際的な関係など、リーダーが対処しなければならない課題は大きく、国家の舵取りは難しいことだと思います。共通善や人間の尊厳の実現に向かって少しでも近づく国家であるように、聖霊の照らしと導きを、そして政治のリーダーたちへの叡智と励ましを、この時期、特に祈りたいと思います。

以下、9月18日午後6時配信の、「週刊大司教」第四十四回、年間第25主日のメッセージ原稿です。
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年間第25主日
週刊大司教第44回
2021年9月19日前晩

「彼の言葉が真実かどうか見てやろう」という「神に逆らう者」の言葉が、知恵の書には記されています。神に従い真実を追究する者の生き方は、この世が良しとする価値観に基づいた生き方と真っ向から対立することが、そこには記されています。

使徒ヤコブは、ねたみや利己心が、混乱やあらゆる悪い行いの源であると指摘します。正しい動機、すなわち神が与える知恵に基づく価値観によらない限り、平和は実現せず、いのちを奪うような混乱が支配すると、使徒は指摘します。

マルコ福音は、誰が一番偉いのかと議論する弟子たちに対するイエスの言葉を記しています。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者となりなさい」というイエスの言葉は、弟子たちに対する回答と言うよりも、この世への警句であります。神が良しとされる価値観は、弟子たちが捕らわれているような、この世の価値観とは全く異なっているのだと言うことを悟らせようとする言葉です。受難と死へと至るイエスの生涯そのものが、人間の常識をはるかに超えた人生です。

その人生にこそ、自らが創造された人類への愛といつくしみが具現化していると頭で理解はしても、心情的にそれを素直にその通りだと認めることは難しい。もっとほかの方法があるだろうと思ってしまいます。しかし神の常識は、人間がもっとも忌み嫌う、苦しみと死の結果にこそ、神の愛といつくしみがあるとするのです。この世が常識的だとする価値観で信仰を理解しようとするとき、わたしたちは神の愛といつくしみを、そしてその心を、理解できない者で留まってしまいます。信仰は、常識をはるかに超えたところにあります。

日本では明日9月20日が、敬老の日とされています。それに伴って、今日の主日を、特に高齢の方々のために祝福を祈る日としている教会も多いのではないでしょうか。

教皇様は今年から、7月の最後の主日を、「祖父母と高齢者のための世界祈願日」と定めておられます。この機会に、そう定められた教皇様の意向を振り返ってみたいと思います。

教皇様はこの祈願日に向けたメッセージにこう記しておられます。

「わたしたちの孤独は、主にとってどうでもよいことではありません。イエスの祖父である聖ヨアキムも、子どもがいなかったために共同体から孤立していたと伝えられています。彼の人生は、妻アンナ同様、無益なものとみなされていました。けれども主は天使を遣わして彼を慰めました」

その上で教皇様は、「このパンデミックの数か月のように、何もかも真っ暗に思えるときでも、主は天使を遣わし、わたしたちの孤独を慰め続け、『わたしはいつもあなたとともにいる』と繰り返しておられます」と述べておられます。

そして、主が共にいてくださるわたしたち一人ひとりには、年齢に関係なく、使命があるのだとして、こう記します。

「いくつであろうと、仕事を続けていようがいまいが、一人暮らしだろうが家族と一緒だろうが、若くして孫をもとうが老齢になってであろうが、自立できていようが支援が必要だろうが、関係ありません。福音を伝える務め、孫たちに伝統を伝える務めに定年などないのです」

社会の常識は、年齢とともに人は役割を失い、社会の中心から離れていくことを当然としています。しかし、福音に生き、福音をあかしする生活には、定年はありません。どこにいても、どんな状況でも、この世に立ち向かう主の福音をあかしする業を続けてまいりましょう。