菊地大司教

    週刊大司教第八十一回:キリストの聖体の主日

    三位一体の主日が祝われた週の木曜日は、キリストの聖体の祭日です。キリスト教が生活の一部になっている国々では、大規模な聖体行列が行われたりします。こういった大きな祭日を週日に行うことが難しい国々では、直後の主日にシフトして、キリストの聖体の主日として祝われます。日本もその一つです。

    Osonson1508039c2-2

    この上の写真は、昔主任司祭を務めていたガーナのオソンソン教会の聖体行列です。1989年頃でしょうか。一つ目の傘の下にわたしが、その後ろの二つ目の傘の下が聖体顕示台です。

    教会の難民移住者の日は9月に行われますが、来る6月20日は国連の定める世界難民の日です。今年は「安全を求める権利」がテーマとなっています。国連難民高等弁務官事務所のサイトをご覧ください。今年発生したロシアによるウクライナ侵攻で、多くの方が居住地を離れ、安全を求めて避難生活を送らざるを得なくなりました。ヨーロッパで起こった出来事であり、スマホやネットの普及で現地からどんどん情報が発信されることもあり、避難される方々の存在が注目を浴び、実際に多くの援助の手が差し伸べられています。災害の被災者の方も同様ですが、援助が必要なのはその事由が発生したときだけではなくて、その後長期に渡っての関わりと支援が不可欠です。なぜならば、それは一人の人間の人生の歩みだからであり、いのちの旅路を守ることだからです。長期的な視点で、それこそ教会が今強調している「ともに歩む」事が不可欠だと思います。

    同時に、これまでも、また今後も、世界のどこかでは必ず、紛争に巻き込まれていのちの危機に直面する人たちが常に存在され、誰かの助けを必要とする人たちがいるという状況は、変わらないでしょう。そのときの世界の政治状況や報道の度合いによって、注目を浴びる事もあれば、全くその存在を顧みられない人たちもいます。

    それぞれの政府には政府の考えと方針があるので、それを一瞬にして大きく変更することは難しいのが現実です。大きな船の方向を変えるのに時間が必要なのと同じです。ですからそれぞれの国の政府に対しては、人々がいのちの危機に直面し、普段の生活を放棄せざるを得ないような状況を生み出すことのないように、辛抱強く働きかけ続けなくてはなりませんし、またそういう状況に追い込まれた人に、人道的な対応をするように求め続けたいと思います。公的な立場からの強制的解決は、時に暴力的になり、いのちの危機を解消するどころか、それを深めることにしかなりません。

    同時に、小回りのきく小さなボートのようなわたしたちは、そこには無機質な名詞としての「難民」が存在しているのではなく、顔を持った、喜びや悲しみを持った一人の人間がそこにいて、人生をかけて助けを求めているという事実に思いを馳せ、助けましょう。助け合いましょう。愛といつくしみの心は、必ず希望を生み出し、希望はわたしたち全てを生かす力を生み出します。助け合うことのない世界は、希望を打ち砕き絶望をもたらし、わたし自身を含めたすべてのいのちを奪います。

    第二バチカン公会議の現代世界憲章は、こう始まります。

    「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々と全ての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものはなにもない」

    わたしたちは、その「キリストの弟子たち」であります。

    下の写真は、2005年、カリタスジャパンの視察で訪れたウガンダ北部の国内避難民キャンプで水くみの順番を待つ子どもたちです。

    1995bukavu

    以下、18日午後6時配信の週刊大司教第八十一回、キリストの聖体の主日メッセージ原稿です。
    ※印刷用はこちら
    ※ふりがなつきはこちら

    キリストの聖体の主日
    週刊大司教第81回
    2022年6月19日前晩

    聖体は一致の秘跡です。

    第二バチカン公会議の教会憲章には、「聖体のパンの秘跡によって、キリストにおいて一つのからだを構成する信者の一致が表され、実現される(3)」と記されています。

    聖体は、わたしたちを分裂させ分断させるのではなく、キリストにおいて一致するようにと招く秘跡です。なぜならば、それこそがキリストご自身のわたしたちへの心であり、あふれ出る神のいつくしみそのものの具体化だからであります。

    ルカ福音は、五つのパンと二匹の魚が、五千人を超える群衆の空腹を満たした奇跡物語を記します。この奇跡は驚くべき事ですが、この物語にはもう一つ重要な事柄が記されています。それは空腹を抱える多くの人を解散させようとする弟子たちに対して、イエスは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と述べ、散らすことではなく一致へと結びつけるための業を行うように命じていることです。まさしくこの言葉にイエスの思いが記されています。自らにつながって一致していることこそが、救いへの道であることを、イエスはこの言葉を持って明確に示されました。

    神の民としてともに旅をするわたしたちを一致させるのは、「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」と命じられた、主イエスのわたしたち一人ひとりへの思いです。それは聖体に凝縮されたイエスのみこころであり、まさしく聖体のうちに現存する主は、聖体を通じてわたしたちをその絆で結び、わたしたちと歩みをともにされます。

    聖体のいけにえは「キリスト教的生活全体の源泉であり頂点」であって、感謝の祭儀にあずかることで、キリスト者は「神的いけにえを神にささげ、そのいけにえとともに自分自身もささげる」と教会憲章は指摘します(11)。

    教皇ヨハネ・パウロ二世は、「教会にいのちを与える聖体」において、「罪の結果として、不和の根源が人間性のうちに深く根ざしていることは、日々の経験から明らかです。この不和の根源に対抗できるのは、キリストのからだがもたらす一致の力です(24)」と記します。

    分裂と分断が支配する現代社会にあって、わたしたちは聖体の秘跡を通じて、罪のいやしと一致へと招かれています。

    私事ですが、5月の末に体調を崩し、検査の結果、新型コロナ陽性と診断を受けました。のどの痛みと発熱の中、自宅療養で、全く誰とも会わずに十日間を過ごしました。現在は無事に回復しましたが、その間、皆様にいただいたお祈りとお見舞いの言葉に、心から感謝します。隔離生活をすごしながら、あらためてわたしたちは、他の方々によって生かされていることを実感させられました。直接に間接に、わたしたちは他者の力によって生かされています。私たちのいのちは、まさしく「互いに助けるもの」として生きるようにと与えられています。いのちを生かすのは分裂や分断や対立ではなく、一致であります。

    一致のうちにともに歩む旅路を導くシノドスの準備文書には、その特徴がこう記されています。

    「洗礼を受けたすべての人は、・・・それぞれのカリスマ、召命、奉仕職を実行することによって、キリストの祭司職、預言職、王職に参与し、個人としても神の民全体としても、福音化の能動的な主体となるのです」。

    聖体の秘跡のうちに、多様性における一致を生きたいと思います。

    東京大司教タルチシオ菊地功