菊地大司教

    週刊大司教第五十四回:待降節第一主日

    典礼の暦は新しくなり、待降節が始まります。主日の朗読の周年は「C」となります。

    シノドスの歩みのためのビデオはご覧いただいていますか。今はまず、皆で意識を共有し、「教会」という存在への共通の理解を持つために、学ぶときです。もちろん、複数の方で一緒にご覧いただいて、それについていろいろと話し合われても構いません。「分かち合い」という言葉は、何か自分の内面のすべてをさらけ出さなくてはならないような響きがあったり、何らかの手法があったりというイメージがありますが、必ずしもそうではありません。

    もちろん聖書のみ言葉に基づいた分かち合いには、それなりの方法があります。例えば、東京教区ホームページに幸田司教様が、「聖書の集い」についてまとめてくださった記事が掲載されています。

    しかしここで触れている「分かち合い」は、学んだことに関してのそれぞれの感想を述べることです。誰かがメモを取ってくだされば、後からまとめて、自分たちの信仰生活の振り返りに役立てることができるでしょうし、シノドスの歩みの次の段階に役に立つものとなります。これに関しては、今の段階では、特に何か結果を提出していただくようなことはお願いしていませんのでご安心ください。

    シノドスの学びのためのビデオは、こちらのリンクの教区ホームページか、youtubeのカトリック東京大司教区のチャンネルでご覧ください。

    なお、今後の「週刊大司教」ですが、十二月中の土曜日はすべて配信を続けます。1月1日(土)については、週刊大司教はお休みとします。なおその日は「神の母聖マリア」の祭日ですから、関口教会のyoutubeチャンネルで、午前10時から大司教司式ミサの配信があります。その後、1月8日(土)からは、「週刊大司教」を配信いたします。また、関口教会のyoutubeチャンネルでは、12月24日午後9時と、25日午前10時にも、大司教司式ミサが配信される予定です。

    以下、27日午後6時配信の週刊大司教第54回の、メッセージ原稿です。
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    待降節第一主日
    週刊大司教第54回
    2021年11月28日前晩

    典礼の暦は新しい一年を歩み始め、降誕祭に向けた準備のときである待降節が始まります。待降節の前半は、私たちの救いの完成の時に焦点を当て、後半は救い主の誕生を黙想するように私たちを招きます。

    この二年ほどの間、私たちは感染症によってもたらされた命の危機と社会の混乱のただ中に身を置いてきました。想定外で発生したこの事態を通じて、私たちは神の計画が人知をはるかに超えていることをあらためて思い知らされています。人間が計画したことは、ことごとく立ち往生し、なすすべもなく私たちは立ちすくんでしまいました。

    このような状況の中にいるからこそ、ルカ福音の言葉は、圧倒的な現実性を持って私たちに迫ってきます。「放蕩や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と弟子たちに語られる主イエスは、「いつも目を覚まして祈りなさい」と促します。

    パウロはテサロニケの教会への手紙で、「神に喜ばれるためにどのように歩むべきかを」学んだ人々に、「その歩みを今後もさらに続けてください。わたしたちが主イエスによってどのように命令したか、あなた方はよく知っているはずです」と記しています。

    「目を覚まして祈りなさい」という言葉は、単に覚醒していることを促しているのではなく、祈りのうちに「ときのしるし」を読み取り、主が命じられた生き方を続けていくこを求めます。私たちは、ただ座して何かを待っているのではなく、常に前進を続けながら行動的に主の時を待たなくてはなりません。今どのように行動するべきなのか。主はそれを、さまざまな「ときのしるし」を通じて示されています。今、感染症の状況のなかにあって、私たちはどう生きるべきなのかを考えさせられていますが、まさしくこの状況における「ときのしるし」に心の目を開き、「神に喜ばれる」生き方を見出し、前進し続けましょう。

    教会は今、ともに歩む道、シノドスの道を一緒になって歩んでいます。今回のシノドスは、何かを議論して結論を出すこと以上に、教会が共同体であって、ともに支え合いながら道を一緒に歩んでいるのだという事実を、ともに心で感じ、皆の心に刻み込むことが一番の目的です。東京教区では、そのための一助として、現在、毎週のビデオを作成し配信しています。今更何を学ぶのかとお感じになるかも知れませんが、皆の思いを同じくするためにご覧いただければと思います。

    私たちは、感染症の困難の中で、命を守るためには互いに助け合い支え合うことが不可欠であることをあらためて学びました。教会は連帯を呼びかけています。そもそも教会は救いの完成に向けてともに歩む神の民です。一緒になって「ときのしるし」を識別し、進むべき道を見いだし、支え合いながら、神の国の完成に向かって歩んでまいります。

    ただ、私たちの歩みは、漠然とした散歩ではありません。私たちは神に喜ばれる生き方をして前進することで、神の福音を社会に向けてあかしする存在となりたいと思います。私たち自身の教会のあり方を振り返ってみましょう。教会共同体は、福音をあかしする共同体となっていますか。教会共同体は、どのような形で、具体的に福音をあかししようとしていますか。あかしするために挑戦したいけれども、それが出来ない原因は何でしょうか。そもそも、「わたしたちの教会」という時の、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。忘れ去られている人、気がつかれていない人はいないでしょうか。この待降節を、教会の振り返りの時、シノドスの歩みをともに歩むときとしましょう。

    東京大司教タルチシオ菊地功