大司教
聖木曜日・主の晩餐@東京カテドラル2021
2021年04月02日
聖なる三日間が始まりました。昨年は、ミサは非公開でしたが、今年は数点の感染対策の制約の下、行うことになりました。聖座(バチカン)の典礼秘跡省からも、感染症下での聖週間の典礼について、特別な定めを設けるガイドラインが出ていますが、東京教区の典礼委員会でも、同様にガイドラインを作成して、主任司祭の皆さんに配布してあります。この聖なる三日間も、通常とは異なる点が諸々あると思いますが、どうか事情をご理解くださり御寛恕ください。特に今夜のミサでは、例年行われる洗足式や、ミサ後の聖体礼拝などが行われないことになっています。
なおすでに教区ホームページなどでもお知らせしていますが、ケルン教区の呼びかけで、ケルン教区、レーゲンスブルグ教区、ニューヨーク教区、そして東京教区は、連帯して、聖木曜日にミャンマーの平和と安定のため、自由が守られいのちの尊厳が守られるように、共に祈ることにしています。聖香油ミサでも触れましたが、どうかミャンマーのためにお祈りください。これはチャールズ・ボ枢機卿を始め、ミャンマーの司教団からの要請に応えるものです。今日に間に合わない場合は、明日以降でも構いません。ミャンマーのためにお祈りください。
以下、本日のミサの説教原稿です。
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聖木曜日・主の晩餐
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2021年4月1日
教会共同体は、聖体の秘跡によって霊的に養われ、キリストの体にあって一致するように招かれています。わたしたちは聖体の秘跡によって、神のあふれんばかりの愛を、心と体で、具体的に感じさせられます。聖体において現存されている主イエスは、「わたしの記念としてこれを行え」という言葉を聖体の秘跡制定に伴わせることによって、残していく弟子たちに対する切々たる思いを実感として残し、聖体祭儀が繰り返される度ごとに同じように実感させようとなさいます。
出エジプト記は、「過ぎこし」を定められた神のことばを記していますが、その終わりにはこう記されています。
「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」
パウロはコリントの教会への手紙において、最後の晩餐における聖体の秘跡制定にあたり、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスが残された言葉を記し、さらににこう続けます。
「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」
そしてヨハネ福音は、最後の晩餐の出来事として、直接に聖体の秘跡制定を伝えるのではなく、その席上、イエスご自身が弟子の足を洗ったという出来事を記します。この出来事は、弟子たちにとって常識を超えた衝撃的な体験であったことでしょう。その終わりにこうあります。
「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」
これら聖書に記されている残された言葉に込められた、神の思いはなんでしょうか。それは神がわたしたちに対して行ったわざを、わたしたちがいつまでも記憶にとどめ、それを決して忘れてはならない。その行いに込められた神の思いを、心に刻み込むように。刻み込むことによって、それを忘れないだけではなく、自らも同じように実践し続けよ。そのように願う神の切々たる思いが、感じられる言葉であります。
神のその思いを表現するために、旧約でも新約でも、「記念」という言葉が使われます。この「記念」は、単に「記念日」のように、暦に残しておく過去のある出来事ではなく、具体的な生き方への指示、命令を現す言葉です。忘れずに生きよという指示です。そしてその忘れてはならない記憶は、知識としての記憶ではなく、心が揺り動かされたその衝撃を、心に刻み込んでおく記憶です。わたしたちには、子々孫々まで、その記憶を具体的に生き、伝える務めがあります。
教皇ヨハネ・パウロ二世は、回勅「教会にいのちを与える聖体」に、こう記しています。
「聖体は、信者の共同体に救いをもたらすキリストの現存であり、共同体の霊的な糧です。それゆえそれは教会が歴史の中を旅する上で携えることの出来る、もっとも貴重な宝だということが出来ます。(教会にいのちを与える聖体9)」
その上で教皇は、ヨハネ福音が弟子の足を洗うという愛の奉仕の業を記していることに触れて、「『主が来られるときまで』主の死を告げしらせながら、聖体にあずかる者は誰でも、自分の生活を変え、自分の生活をある意味で完全に『聖体に生かされた』ものにしていくよう導かれます。(20)」と指摘します。すなわち、「わたしの記念としてこれを行え」というイエスの言葉は、単に聖体の秘跡を繰り返すことだけを求めているのではなく、その結果として、日々の生活が「聖体に生かされた」ものとなること、すなわち徹底した愛の奉仕に具体的に生きることが求められているのだと指摘されます。
聖体を受けるわたしたちには、イエスご自身が生きたように、愛といつくしみをもって、隣人を愛しながら、互いに支え合って生きていくことが求められています。それは聖体をいただく者の、聖なる義務であります。
主イエスの言葉を心に刻み、代々受け継ぎながら、社会の現実の直中にあって、主が語り行われたこと、その祈り、そして愛に満ちた生き方を、あかししていく務めは、わたしたち教会共同体に与えられた使命であります。
教会はこの一年間、新型コロナ感染症の危機のなかにあって、さまざまな困難に直面してきました。そもそも集まることが難しい今、さらには集まったとしても距離を保ち接触を避け、共に歌うこともない状況で、信仰共同体を存続させる危機に直面しています。
自らの存在が危機に直面するとき、どうしてもわたしたちの心は内向きになって、守りに入ってしまいます。自分たちのことばかりを心配するとき、主イエスがその言葉と行いであかしした神のいつくしみを具体的に生きる行動は、背後に追いやられてしまう危険があります。
同時にわたしたちは、今回の危機的状況が、健康だけではなく、例えば経済や雇用などの問題も惹起し、それがいのちの危機をまねいている状況も、直接にまた間接に知らされています。助けを必要とするいのちは、この危機的状況の中で、残念ながら増加しています。
幸いなことに教会には、このような状況にあっても愛の奉仕に務めようとする活動が多く見られます。東京大司教区の災害対応チームでは、そういった活動を紹介しようと、三度にわたってオンラインセミナーを開催してきました。特に先週の日曜日には、小教区を中心に、食を確保するための活動を行っているグループの話を聞くことが出来ました。
賜物であるいのちを守るためには、当然のことですが、「衣・食・住」が充分に保障されていることが不可欠です。かつては、いわゆる途上国の、とりわけ貧困地域で生きる人たちが直面する問題だと思い込み、日本のような先進国では食料は充分に行き渡り、「衣・食・住」の課題で、いのちが危機に陥ることは、それほど多くはないと思われるきらいがありました。しかし、この数年の経済格差の広がりや、この一年の感染症の状況下における経済危機、雇用危機が、「衣・食・住」を、いのちを危機に陥れる連鎖の重要な要因としつつある現実に、今わたしたちの社会は直面しています。その中で、「食」を保障する活動には、愛の奉仕として大きな意味があります。
聖体の秘跡によって生かされている教会は、主イエスの言葉と行いを心に刻み、たまものであるいのちを守るために、互いに支え合い助け合うことの大切さを、社会のただ中に出向いていって、あかししなければなりません。
教皇ヨハネ・パウロ二世は「聖体には、主の受難と死という出来事が永久に刻み込まれています。聖体は、単にこれらの出来事を思い出させるに留まらず、それらを秘跡によって再現します。聖体は、十字架上のいけにえを世々に永続させるのです。(11)」と述べています。
御聖体に生かされているわたしたちは、神ご自身による目に見える行いによる究極的な愛のあかしである十字架上のいけにえを、代々に渡って告げしらせる務めがあります。この困難な時期だからこそ、常識の枷を打ち破って愛の業を弟子たちの心に焼き付けたイエスに倣い、愛のあかしに生きていきましょう。