大司教

主の降誕、夜半のミサ@東京カテドラル

2020年12月27日

主の降誕のお喜びを申し上げます。

皆様にはどのような夜をお過ごしになられたでしょうか。通常であれば、12月24日の夜は、大勢の方が教会を訪れてくださいます。関口のカテドラルも、特に夕方5時と7時のミサは、事前に列を作って並ばれる方も多数おられ、聖堂は一杯となってきました。

ところが今年はコロナ禍です.感染症対策のため、かなり前から、一般の方の参加をお断りし、信徒や求道者の事前登録となりました。なお関口教会のYoutubeチャンネルで配信しておりますので、いつでも見ていただけます。(ミサの中継は関口教会のチャンネルですが、教区からのメッセージや週刊大司教は、東京教区のチャンネルで配信します。東京教区のチャンネルも、あわせてご登録ください。)

また現時点での東京教区の感染症対策については、常にまとめて掲載していますので、ホームページのこちらをご覧ください。変更があった場合も即座に反映しています。また、現時点では、行政からの緊急事態宣言などがない限り、これまで通りの厳重な感染対策をとったまま、ミサなどの典礼は行っていきますが、現時点では典礼以外の集まりや会議は、自粛をお願いしています。

以下、12月24日午後10時から行われた夜半のミサの説教原稿です。(なお配信映像の最初の部分に、カテドラル大聖堂内の気流のシミュレーションを見ていただけます。それによれば、参加者の大きな扉を半開することで、10分程度で聖堂内の空気が外気と入れ替わることが分かります。また三カ所の扉を全開すると、5分程度で外気と入れ替わるようです。)
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主の降誕・夜半のミサ
東京カテドラル聖マリア大聖堂
2020年12月24日午後10時

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

お集まりの皆さん、そしてインターネット配信を通じて共に祈りをささげておられる皆さん、主の降誕、おめでとうございます。

このイザヤの言葉を切実に感じた一年でありました。今年の初めから、世界各地で猛威を振るっている新型コロナウイルス感染症は、未知の感染症であるが故にその実体の解明に時間がかかり、多くの方が感染したりいのちを落とされてしまいました。日本も欧米と比較すれば人数は少ないとは言え、どのように対処したら良いのかが徐々に分かり始めてきたものの、長期間にわたっていのちの危機という暗闇の中を彷徨っているような気分であります。

現時点でも病床にある多くの方のためにお祈りいたします。また医療関係者の方々にあっては、その献身的な働きに、心から感謝申し上げます。

医療関係者や研究者の方々の努力の積み重ねによって、徐々にではありますがその事態が解明されはじめ、暗闇にも光が差してきたように思います。

わたしたちは、暗闇の中を明確な方向性を確認できないまま進まなければならないとき、どうしても疑心暗鬼になってしまいます。疑心暗鬼に包み込まれた心は、不安のあまり恐れを生み出します。恐れを振り払うかのようにしてわたしたちは、暗闇にかすかに差し込む光を求めてもがき続けてしまいます。暗闇には、さまざまな光が差し込んできます。不安と恐れに駆られるとき、じっくりとそれらの光を見極めて、正しい道を識別する作業を待っていることが出来ずに、不安な心を満たしてくれる目の前の光に飛びついてしまうことがあります。確かに今でも何が真実なのかを確実に把握している人はいないでしょうから、安心を求めて飛びついた光が、正しくなかったこともあるでしょう。偽の光に踊らされてしまったこともあるでしょう。浮き足立っているのですから、それは不思議ではありません。

自分ひとりが浮き足立っているだけならば構わないのですが、不安や恐れは安心を求めて自分の立ち位置を明確にしようとさせ、ともすれば攻撃的になってしまいます。自分を不安に陥れる存在に対して、攻撃的な姿勢を見せてしまう誘惑があります。

感染した人への過度な批判や、自分と異なる存在への過度な攻撃。その中で人間関係は崩壊し、孤立と孤独が支配するようになります。

教皇フランシスコは、先日発表された回勅「FRATELLI TUTTI(兄弟の皆さん)」においても、兄弟愛と社会的友愛をキーワードに、わたしたち人類は、同じ一つの家に共に暮らす一つの家族であることを強調されています。誰ひとり排除されて良い人はいない、忘れられて良い人はいないと繰り返し強調されてきた教皇は、この回勅にあっても、一つの家族の一員として、互いに助け合い、支え合うことの重要さを強調されています。人類すべてが、神から与えられた共通の家でいのちを生きる家族であると強調されています。

昨年11月に東京で、東北の被災者の方々と出会った教皇の、あの言葉を思い起こします。
「一人で「復興」できる人はどこにもいません。だれも一人では再出発できません。町の復興を助ける人だけでなく、展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会いが不可欠です」

同じように教皇は、この新しい回勅を準備されているときに発生した感染症のパンデミックによる「世界的な危機は、『誰も一人で自分を救えない』こと、そして、『わたしたち皆が兄弟』として『ただ一つの人類として夢見る』べき時がついにやって来たことを示した」と、新しい回勅に記しています(バチカンニュースから)

神が天地を創造された最初の状態にこそ、神が定められた秩序が実現しており、それこそが本当の意味での正義と平和に満ちあふれた状態でありました。しかし人間は与えられた自由意志を乱用し、その世界から逃げだし神から逃れようとすることによって、闇の中をさまようことになりました。しかしそれでも自ら創造された人類を愛し続ける神は、闇の中をさまよい続ける民に、自らが道しるべの光となるために、そして神の道に立ち返るよう呼びかけるために、自ら人となって誕生し、人類の歴史に直接介入する道を選ばれました。裏切りに対する神の答えは怒りと裁きではなく、愛といつくしみでありました。死の暗闇ではなく、いのちの希望の光でありました。

いつくしみと愛そのものである神は、自ら出向いていくことで人となり、遠くから照らす光ではなく、人々の中で輝く希望の灯火となろうとされました。愛といつくしみを必要としているところへ、直接出向いていこうとする行動原理です。この神の行動原理に、わたしたちも倣って生きたいと思います。

「出向いていく教会」は、教皇フランシスコが繰り返し強調される教会の姿です。

教皇は使徒的勧告「愛のよろこび」において、「わたしたちが呼ばれているのは、良心をそだてることであり、それに取って代わろうと思い上がることではありません(37)」と指摘して、教会が裁きの場となることのないようにと呼びかけます。それは「福音の喜び」における次の言葉に繋がっています。

「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従う良い生活を送るよう励まされる感じられる場でなければならない」(114)

この一年、感染症という見えない脅威を前にして、いのちの危機という暗闇に取り込まれてきたわたしたちには、自信を持って歩みを進めるために、光を探し求めてきました。その光は、誰かを裁いたり、排除したり、攻撃するための光ではなく、いつくしみと愛を持って支え合い、慰め合い、喜びを生み出す光です。その光はわたしたちを、「展望と希望を回復させてくれる友人や兄弟姉妹との出会い」へと導いてくれる光です。この輝く光には、いのちの希望があります。なぜならばこの輝く光は、いのちそのものであり、いのちを賜物として創造された神の愛といつくしみそのものであり、わたしたちを包み込む神のことばそのものであります。

「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住むものの上に、光が輝いた」

飼い葉桶に寝かされた幼子の前に佇み、その小さないのちに込められた神の愛といつくしみに感謝いたしましょう。そしてそのいのちが与える希望をわたしたちも心にいただき、その希望を喜びのうちに、多くの人たちに分け与えてまいりましょう。いま、多くの人たちが不安と疑心暗鬼の暗闇の中で、喜びと希望の光を待ち望んでおられます。